家族レター 2自室のドアを開けて明かりを点けると、火縄はまず本棚に向かう。
これは、彼の日課である。
元々学問は全て好きだ。日々学ぶことは、肉体を鍛えることと同じように、己のメンテナンスだと思っている。装備やマッチボックスのメンテナンスと同じようなものだ。
以前、火縄の読書量に驚く桜備にそう言ったら、「そんな言い方するな」と苦言を呈された。
その時は「分かりました」と返した火縄に桜備は苦笑いしていたが、今ならあの表情や苦言の意味が分かる。
本棚に設けてある未読スペースに置いた本を選ぶ際に、火縄は決まって桜備とのやり取りを何かしら思い返す。
そして胸の奥の甘い疼きを感じて、自分は社会の歯車ではなく、武久 火縄なのだと思い出す。
これは、業務とプライベートを切り分ける儀式のようなものだ。
窓側に面したデスクライトを点け、デスクチェアに腰掛けると、仄かにデスクを照らす月明かりが目に入った。今頃、桜備は森羅とアーサーを連れて壱風堂で替え玉ラーメンを啜り終わる頃だろうか。
自分のシゴキに食らいついてくる若き隊員二人は、隊の要である桜備大隊長によく懐いている。
この第8に、己が帰りたいと思える場所を作ってくれた桜備の第8に、彼らも帰りたいと思ってほしい。火縄は、自分自身がこんな感情を持つ人間だとは知らなかった。
表情が乏しく、無駄を省く合理的現実主義。
言葉足らずの自覚はあるが、直すつもりはない。
特別な存在を作るつもりもない。
己は社会の歯車の一つと見なす方が気楽だった。
自分はそんなつまらない男だと思っていた。
今もおもしろい人間だとは思わないが、それでも、軍にいたあの頃の。
灯城を失う前のあの頃の。
あの自分自身よりは、人にも自分にも向き合うことを覚えたと思う。
あの人の正義が、背中が、精悍な顔が、誠実な声が、火縄を歯車の中から取り出してくれた。
武久 火縄という人間の存在を、在るものにしてくれた。
太陽の強い光とも、月の穏やかな光とも違う、そこにいる者をそこに在る者として包み込んでくれる光。
それが秋樽 桜備という人なのだと、火縄は思う。
先ほど手に取った本を開く。
それは、栄養学に基づくレシピ集だ。
これまで、筋肉増強や疲労回復を目的としたメニューが多かった。ラーメン好きな桜備が塩分摂取過多にならないよう、塩分調整もしてきた。
マキやアイリスに合わせて、年頃の女性が好みそうなメニューも幾つか覚えた。
創設時に比べ、随分と料理のレパートリーが増えた。
だが、まだ成長期の若手が二人いる以上、彼らの成長に合わせたメニューもレパートリーに加えておきたい。過酷な状況下で、食事は心身の健康維持に不可欠だ。食事の時間を日々の楽しみに、ここに帰りたいと思ってほしい。
家族だから。
家族に「美味い」と笑ってほしい。
その思いを日々の言葉にも表情にも出さないまま、火縄は調理当番を多めにこなす。
そう思うようになったのも、全て桜備の存在があってこそだった。
初めて火縄の手料理を振る舞った、二人きりの創設時。桜備は、一口食べる度に「美味い」と大袈裟なほどに言葉にした。その屈託のない笑顔に、やられてしまったのだ。
「鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔してるな」と言われて、返す言葉がなかった。どうしていいのか分からなかったのが正直なところだ。
そんな様すら、桜備は「火縄はおもしろい奴だなぁ」と笑った。
ありのままをそのまま受け入れられることに対し、照れ臭さよりも安堵感が勝った。
火縄が胸の奥の奥底に仕舞い込んで忘却の彼方に追いやろうとしていた家族の姿を、引っ張り出されたような気分だった。
桜備と共に家族を作ろうと思った。自分たちが思い描く家族を、彼と。
桜備と第8特殊消防隊を創設するにあたり、一番最初に起動しなければならないのは、心だと直感した。
レシピを確認しながら、頭の中で食品庫の在庫と照らし合わせる。肩書きは中隊長だが、機関員、科学員、調理係、備品係、清掃係を兼務していると何かと便利なのだ。桜備は火縄にかかる負担を気にしているようだが、火縄はそれを負担とは思っていない。こうした時間に段取りを整えられることが便利だとすら思っている。
ふと窓の外の月明かりに意識を向ける。
そろそろ彼らが帰還するだろう。
火縄はレシピ本を閉じて、調理室に向かう。
湯を沸かし、大きな急須に番茶の葉を入れる。
経費節減のための安い茶葉だが、入れたてはさっぱりしていて飲みやすい。カフェイン含有量も少ないので、睡眠の妨げにもならない。
湯が沸くまでの間に、冷蔵庫の中を再確認する。
緊急出動がなければ、全員の朝食は十分に用意できる。
湯を一度沸騰させ、適度に冷ましたところで、隊員用通用口付近から三人分の足音がした。
急須に湯を注ぎ、己のカップに入れて味見する。
慣れ親しんだ第8の味だ。
三人分のマグカップを取り出し、それぞれに注ぐ。トレイに乗せて食堂に運ぶと、ドアの向こうから森羅とアーサーの賑やかな声が近付いてきた。
「おかえりなさい」
こんな言葉が自然と出るようになったのがいつからだったか、火縄にはもう思い出せない。
「ただいま戻ったぞ」
「ただいま戻りました」
「ただいま」
“ただいま”に囲まれる瞬間を、火縄は密かに気に入っている。なんと温かい言葉だろうか。
人の良さそうな垂れ目を更に和らげた桜備からのただいまがまた格別であることは、胸にしまっている。
「こってり塩分摂った後は、喉が乾くでしょう」
三つ並んだマグカップから湯気が流れる。
「火縄の分は?」
「俺はもう飲みましたから。ごゆっくりどうぞ」
気に入りのひと時に満足して、火縄は自室に戻る。月に照らされる夜道で、彼らはまた一つ家族になったのだろう。なんとなくそんな気がしていた。
レシピ本に一通り目を通し、火縄は数日分の献立と次の買い出し品を組み立てる。
女性陣に「女子力で負けている」と言われているのは知っているが、必要に応じてやっているだけだ。
ただ、最初は、桜備に美味いと言われるのが嬉しくて、どんどんレパートリーを増やしていった。
初めて二人で焔人に対峙した時から、桜備は火縄の胸に刺すような温もりをくれる。
彼に触れたい思いを吐息に乗せた時、控えめなノックの音が聞こえた。
返事をしてドアを開けると、触れたかった彼が立っていた。
「入ってもいいか?」
願ってもない申し出に「どうぞ」とドアを閉めると、火縄の体は桜備の逞しい腕に抱き締められた。
大柄な火縄の体をも包んでしまうその腕に、ずっとこの場所にいたいと心が叫び出す。
その叫びを聞いたかのように、桜備の唇が火縄の唇に触れる。キスの息遣いと、髪と唇が触れるカサコソという音が、互いの鼓膜を震わせる。立ったまま胸を密着させ、背中に回した手が情熱的に動き回る。
深くなるキスに、火縄は夢中で自分の唇を押しつけ、唇を舐め回し、舌を差し入れて桜備の舌を舐め回し、歯茎を舐め回し、唇の内部を舐め回した。
大した恋愛経験もなかった火縄に、キスの仕方を教え込んだのは桜備だ。
何度もベッドで汗をだきしめて、キモチイイコトも、火縄のキモチイイ場所も、桜備のキモチイイ場所も、教え込んだのは桜備だ。
歯車から取り出して、武久 火縄をここに在る人間にして、心から帰りたいと思う家族を与えてくれた。
時が老いてゆくまで、ずっとそばにいたい。
「秋樽さん」
そんな思いを込めて、唇を重ねる合間に吐息で名を呼んだ。
「あぁ、ずっと一緒だ」
伝わった。
武久、と呼ばれて、逞しい背中に回す手に力を込める。シャツがシワを作るカサカサという音が、互いの鼓膜を震わせる。
メガネが桜備の顔に当たらないように角度を変えながら、自分とのキスに夢中になる彼の目蓋を見ていたくて、火縄は目を開ける。
愛しい人の熱に浮かされ始める目蓋で視界をいっぱいにして、その唇にまた夢中になる。