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    しおり
    POST Ⅰ
     
     それにはいろいろな手段があると思う。
     例えば会話。思っていることを言語化し、言葉を声に出して相手に伝える。
     例えば文字。文章を手ずから綴って相手に読ませる。
     もっと抽象的な手段でいいのであれば、他にも色々あるだろう。例えば絵。写真。音楽。ダンスとか、料理。キャッチボール。その他諸々……考えてみれば表現の手段なんて、何だっていいのかもしれない。それが伝わるかそうでないか、実際に正しく伝わったかそうでないかを真に知る方法は、たぶんこの世には存在しないのだろう。
     いくらでもあるように思える手段のうち、俺には生まれつきたった一つ、選ぶことのできないものがあった。
     
     ☆
     
     その日の登校時間、玄関のガラス戸を潜るとよく知った背中が下駄箱の前で立ち尽くしているところに遭遇した。ちょっとした悪戯心で気づかれないよう距離を詰め、両手でバシンと肩を叩くと、想像通りの大仰なリアクションが返ってくる。
    「……っっぉわっ!?」
    「なぁーにやってんの」
     全身を5センチくらい跳ね上がらせて驚いた後輩の肩を右腕でぐいと捉え、無遠慮に手元を覗き込んだ。
    「……なに? ラブレター?」
     見ると、真っ白い無地の封筒にいかにもなハート型のシールで封がしてある。間違いなくその手のモノだろう。
    「そう、なんスかね?」
    「なんスかね? って、どう見てもそうだろ」
    「ううん……」
     難しい顔をして唇を尖らせた沢村は、シールを丁寧にぺりぺりと剥がし、折りたたまれた1枚の便箋を取り出して眺め始めた――かと思うと、唐突にそれを俺に差し出す。
    「御幸先輩、読んでもらえませんか」
    「……は? なんで?」
    「活字はスマホで読み上げてくれるんですけど、手書きの字はちょっと……カメラが認識してくれなくて」
     そう言って沢村は、未だ己の手の中にあるその便箋をくるくる回転させる。紙の上に丸みを帯びた可愛らしい文字で書かれた文章の、まるでどちらが上でどちらが下か、どこをどう見ればいいのか見当もつかないといった風に。
    「俺、字が読めないんです」
     
     失読症という、珍しい学習障害のことを知るに至ったのは、この日の出来事が切っ掛けだった。
     言語能力に問題がないにも関わらず、文章を構成する文字を順番に読むことができないらしい。例えば、あいうえお、と並んだ文字がいえうおあ、と見える。一部の文字が手前に浮いて見える。文字が反転して見える。文字列が渦巻いて見えるなど……個人差はあるようだが、失読症に共通するのは、文章を文章として理解するために大変な困難を強いられるという点だ。
     それでいて、言語を耳で聞き、声に出すことに何の障りもない。紙や画面、或いは駅の看板などに、何らかの手段で『書かれている文字』だけが、認知世界の外にある。
     玄関で短い会話を交わしてすぐに予鈴が鳴り響き、詳しいことは後で、と昼食の時間にグラウンド横のベンチで待ち合わせをした。俺と同じく購買のものであろうパンを2,3個抱えて現れた沢村は、ことも無げにそういったことを話してくれた。
    「授業はどうしてんの?」
    「えーと、板書は無理なんで教科書メインで……こうやって」
     そう言って、手元のスマートフォンの専用アプリを立ち上げる。カメラが同時に起動し、惣菜パンの包み紙へと徐に焦点を合わせれば、機械音声が『さくさくかれーぱん』と無機質にパッケージに書かれた商品名を読み上げた。なるほど。
    「すごいでしょう」と何故か得意気にニッコリ笑い、ついでとばかりにパンの包装をばりばり裂いて中のパンにかぶりつく。もしゃもしゃと口を動かしながら続けた。
    「俺だけテストは別室で、スマホ使っていいことになってるんです。回答はマークシートか口頭で……それでも数学とかはやっぱり厳しいですけど」
    「ってことは、だいたい皆知ってるわけ?」
    「まあ……そうっすね。先生たちは皆知ってますし、同じクラスの連中にはよく助けてもらってますよ」
    「なんで俺に言わねえんだよ」
     反射的に――自分で思っていたより強い口調で言葉が出てきてしまい、内心驚く。急に剣呑な雰囲気を漂わせた俺の言に、沢村は僅かに片眉を上げた。
    「なんでって……特に言うタイミングがなかっただけですよ」
     他意は全く無いという態度に、何も言い返すことができず閉口する。沢村は誰とでも快活に話すことのできる人間だ。コミュニケーションに不足があるとしたら、それは明確に俺の側の問題であるという自覚はある。主将に就いて数ヶ月が経過したが、俺の言葉足らずが故に部内で軋轢が生まれることも多々あった。
     上に立つ人間としては足りないながらも、それでも捕手として、投手のことは理解しているつもりでいたのだ。その認識が間違っていたという純然たる事実を突きつけられたようで、己に対する苛立ちから、さらに眉間の皺を深くする俺の態度をどう勘違いしたのか――慌てたように沢村は続ける。
    「そ、そういうわけでですね。今朝のお手紙の解読に一役買っていただけたらなあ~と!」
     ハート型のシールのついた白い封筒を両手で恭しくこちらに差し出す様子は、傍から見れば愛の告白のようであろうがその内容に俺は一切関係がない。渋面を崩さず、それを受け取って折りたたまれた便箋を開いた。
    「えー……沢村栄純様。先日の練習試合、お疲れ様でした。フェンスの外から応援していましたが、勇気がなくて声をかけられず、お手紙を書くことにしました。突然のことで驚かせてしまっていたらごめんなさい。まっすぐに打席を向いて、投球している姿がとても格好よかったです。毎朝早くから、日が落ちるまでひたむきに明るく笑いながら練習しているところがとても好きです」
     何ともむず痒い気持ちでここまで読んで、ちらと沢村を盗み見るとデカい瞳を見開いて所在無さげに口を尖らせ、僅かに頬を紅潮させていた。ポーカーフェイスとは程遠いそのわかりやすさに顔を上げて視線を合わせれば、挙動不審な様子でそっぽを向いてしまう。短く咳払いをして、続きを読み上げた。
    「本当は会って直接お話ししたいですが、まだお会いする勇気がありません。よければ、私と文通して頂けませんか」
     奥ゆかしいというか、古風な趣向をお持ちの女生徒のようだ。学年と名前とメールアドレスと、どうぞ宜しくという一文で手紙は締めくくられていたが、沢村にとってこの提案はあまり喜ばしいものではないだろう。
    「ど、ど、ど、ど、どうしやしょう」
     文末を聞くや、大袈裟に動揺する沢村に、素っ気なく「知らねえよ」と返す。
    「メールアドレス打ち込んでやるから、あとは勝手にしたらいいだろ」
    「そんなご無体な! 確かに音声入力で簡単なメールはできますけど、漢字が間違ってても俺訂正できないんですよ! バカだと思われちまうじゃないですか!」
    「実際にバカなんだから間違ってないだろ」
    「底意地悪いことばっかり言いやがってえ……! 苦境に立たされた相棒を手助けしてやろうとか思わないんですかね?!」
     苦境か。まあ確かに。文字が読めない世界というものを容易く想像することができないほどには、沢村は今まで不便を強いられてきたのだろう。そのような困難と相対するにあたり、今までこいつが頼ってきたのは、親、教師、監督、コーチ、事情を知る友人知人……もしかしたら同室の先輩たち。その中に俺が含まれていないということが、どうしようもなく不服だった。些細なことでも、真っ先に俺を頼ってほしいと思うのは傲慢だったのだろうか。沢村が青道に来て1年が過ぎ、部内で苦楽を共にするその中で、俺なりにこいつの信頼を十二分に得られているつもりでいた。挽回の機会が訪れるとしたら、今なのではないか。
    「……俺にどうしろって?」
     存外、素直に協力を了承するような台詞を吐いたのがいかにも意外だという表情で沢村はいちど口を噤むと、便箋を掴んだままの俺の左手を両手でがっしと掴んで詰め寄った。
    「代筆してくだせえ!」
     かくして、俺を挟んでの時代遅れな文通交際が幕を開けたのだった。
     
     
     波乱含みかと思われた電子メールでの文通は、俺の予想に反してスムーズに進んでいた。
     メールの機能自体を使いこなせないという沢村に代わり、俺の携帯のメールアドレスを交換した女生徒は3年生で、隣のクラスに在籍する人物のようだった。といっても、クラスメートの顔と名前すら把握できているか怪しい俺は、ぼんやりとそんな名前も見かけたかもな、くらいの認識でしかなかったが、たぶん今日も今日とて一塁側フェンスの外に屯している幾人かの野球好きな(のかどうか知らないが)女生徒のうちのひとりなのだろう。
     文通を始めてまもなく、沢村はしきりに誰がその相手なのかとフェンスの向こうを気にしている様子だったが、早々に特定を諦めたのは色気付くなと同室のヤンキーに蹴りを入れられたせいだろうか。
     2日に一回ほどの頻度で俺の携帯に届く文章を、朝確認して「沢村、昼」とだけ声をかける。それを合図に、最初に待ち合わせたベンチで昼食を共にした。
     俺が文章を読み上げる間、沢村は決まって目を閉じる。口語で話す時にはあまり感じられない、文章をイメージするときの混乱を、目を閉じることで少し抑えられるのだと言っていた。
     春の日差し、木漏れ日の光が閉じられた沢村の目蓋に影を落とす。一見すると眠っているようでもあったが、今日の授業はこうであった、教師のこのような話が興味深かったがどう思うかといった内容の手紙を沢村はしかと聞いていて、心底楽しそうに返信を綴る。
     実際に端末を操作して打ち込むのは俺なのだが、ともすれば人の交換日記を検閲するような立ち位置にある俺に、沢村は気後れすることなく返信文を披露してみせた。
     そう、何の気後れもない。内容が他愛も無さすぎるのだ。沢村の考える文章は何の衒いもなく――そういうところがこいつの長所であるのだが、語弊を恐れずに言えば小学生が夏休みの絵日記を使って教師とコミュニケーションを取っているのかと思うような……まあ端的にいうと子供っぽいものだった。
     高校生の恋愛のいろはなど俺とて知る由もないが、この調子で文通を続けていたらこいつらが付き合いだすのは果たして何年後になろうか。もしかしてその時まで、ままごとじみた文通に付き合わねばならないのかと思うと、一度引き受けたこととはいえ2週間目にはげんなりしていた。
     同時にあまりにも、いわゆる『面白みのない話』を沢村が楽しそうに話すので、なるほど俺に欠けている部分はこういう所なのかと思い知る事もあった。あたりまえの日常を楽しむことができる才能は、誰もが持っていて当たり前のものではない。今日は朝練前の朝焼けが綺麗だった、寮の草刈りをしたらバッタがいた、掃除中に雑巾を投げて罰を食らった、昨日の夕飯がハンバーグだった、等等のことは、おそらく俺が沢村の立場だったら伝えようとも思わないことだ。思いつきもしないし、そんな事覚えてもいない。10試合前の練習試合の配球について答えるほうが容易く思えた。
     女生徒側が好きな文学作品を問う話の中で、「となりのドドロです。ところで今日は鱗雲なので明日は雨が降る、練習ができない」と回答するような素っ頓狂さに最初は物申したい気持ちで一杯だったが、物言わぬトランスクライバーに徹するうちに、こいつはただ単純に自分の感じた喜びや楽しいことを、共有したい一心なのではないかと気がついた。
     会話のキャッチボールとしてはあまりにお粗末と言えなくもないが、暴投気味でどこに飛んで行くかわからないこの物言いをどこか心地よく感じてしまうのは、沢村の無垢さに毒されすぎているだろうか。
     とはいえ、言葉を貰っているのは俺ではない。次第に、その役回りが羨ましいとさえ思っていたのに。
     ゴールデンウィークを過ぎ5月も終盤に差し掛かった頃、それまで3日を開けず続いていた女生徒からの返信が途絶えた。
     朝食の時間にそわそわとこちらを気にする様子の沢村から、無理矢理に視線を逸らす心苦しい日々が1週間ほど続き、俺の方が限界だった。件の生徒と同じクラスの野球部員を呼び出すふりで、さりげなく名前と容姿を確認する。あまり人の外見にどうこういうたちではないが、清楚系の美少女といったところだろうか。
     放課後、少し早めに廊下に出て素行調査の探偵よろしくロッカーの陰に隠れて待ち伏せし、昼間確認した後ろ姿を追った。図書室に入って30分、本棚の裏の死角を利用し、興味のない物理学の本を当て所なく捲る。さすがにバカバカしくなってきた頃合だった。
     もうそろそろ俺も下校しなければ練習に障りが出るというタイミングで、図書室の奥から図書委員らしき男子が出てきて女生徒に声をかける。嫌な予感がした。
     静粛を求められる図書室で、内緒話をする距離の2人は、各々本を片手に部屋を去っていく。もう片方の手は、お互いの手を握っていた。
     
     
     
    「沢村、昼」
     お決まりの、だが久しぶりの台詞を吐くと、沢村はぱっと顔を綻ばせて馬鹿でかい声で返事をした。
     
     第三者であると主張するには、俺は沢村の側に寄りすぎているのかもしれないが――その俺から見ても、彼女のことは責められまいと思う。小学生と、学習教材の採点者然といった明確な温度差がまざまざと感じられる2ヶ月だった。どちらかといえば、根気よく続いたほうなのではないだろうか。そうでなくするための助言を幾つか持っていたにも関わらず、沢村に提示しなかった俺にも罪がある。
     かといって、沢村の純粋すぎる好意を無碍にするような彼女のやり様に、怒りがないかといえば……大いにあった。昨日、連れ立って図書室を出ようとする女の腕を思わず掴んだ。人相がいいとはいえない俺の剣幕にひくりと恐怖した表情を目にしてはじめて、自分がこの相手に何も言うべき言葉を持っていないことに気がついた。
     緩んだ俺の手を振り払い、早足で去っていく後ろ姿を茫然と見つめることしかできない。やり場を失った怒りは、このような結末を招くに至った自分自身へと向いていた。
     決意と共に携帯を握りしめる。トランスクライバーからゴーストライターへ、寄るべき対岸も見えぬまま、暗い海に向けて舵を切った。
     
     Ⅱ
     
     
    「沢村くん、連絡が遅れてごめんなさい。3日ほど、風邪をこじらせて寝込んでいました。これからどんどん暑くなってくると思いますが、体に気をつけて練習がんばってください」
     若干の緊張を滲ませながら、初めて自分で考えた文面を、声に出して沢村に聞かせる。これまで二ヶ月間、不可抗力的に俺もふたりの文通を目にしてきていた。相手側の語調に合わせるよう、この短い文章だけで何度もおかしなところはないか見直しを重ねている。その甲斐あってか、いつものように目を閉じて俺の声を聞いていた沢村はゆったりと再び目をあけると安心したように微笑んで、俺に書記を促した。
    「体調はもう回復しましたでしょうか! 沢村栄純は一度も風邪をひいたことがないのが自慢です。雨の日が多くて相棒のタイヤが寂しがっていると思うので、明日は晴れるといいなあと思います! 先輩もご安全に!」
     ご安全に、ってなんだ。土木業界で主に使われそうな妙な言い回しに、思わず「ぶはっ」と笑うと、沢村は不服そうに片眉を釣り上げた。
    「何が面白いんすか!」
    「いやあ、面白いだろ」
     悪い、バカにしてるわけじゃねえよ、と乱雑に沢村の頭髪をかき混ぜる。
    「ならいいですが……実はですね。最近とっても効果的な試合前のリラクゼーションを取り入れることにしたんですよ」
     初耳だ。ここのところの好調がそのリラクゼーションとやらによるものならば、降谷や川上にもご教授願いたいものだが、そういうルーティーンの類は本人にだけ効果があるような特殊なものが多いだろう。
    「へえ。どんな?」
    「先輩にはナイショっす」
     にしし、と悪戯っぽく笑う。気にはなるが、無闇に聞き出すようなことでもないかもしれない。よくわからないが、俺に秘密でなにかを行うこと自体がそれであるという線もなくはないからだ。この大事な時期に、微妙な生き物である投手のペースを乱すような手出し口出しは避けたかった。
    「……じゃあ、今日はこのへんで。明日の午後、第1試合で投げるんだから自主練しすぎんなよ」
    「わかっております! 明日もこの沢村にお任せあれ!」
     ニカっと笑って、惣菜パンの最後の一欠を口に放り込む。もう間もなく、夏の大会に向けて背番号が配られる時期に差し掛かっていた。最近はネットニュースに取り上げられるほどの良い投球を見せている沢村だが、俺の方は気が気でない。その評判を何処からか聞きつけて、再び件の生徒からメールが来はじめたりするのではないか、戦々恐々としていたからだ。
     結論からいえば、その心配は杞憂であった。6月の終わり、夏合宿を終える頃になっても、女生徒から連絡がくることは終ぞ無かった。
     
    「先輩! 今日はとてもいいご報告があります! 沢村栄純、この度青道高校野球部で背番号1を拝領いたしやした!」
     そして7月。俺の想像に違わず、エースナンバーを手にしたことを沢村は元気いっぱいに文通で報告したが、その『手紙』が本当には届かないことを俺だけが知っている。ふと、ここからはオフレコで、と一言前置いて、俺の目を見て沢村が続けた。
    「あんたと作ったナンバーズのおかげです。御幸先輩、ありがとうございます」
     矢庭に、この1年半、泥臭い努力を重ねてきた沢村の姿が脳裏を駆け巡った。形だけの文章を作成する指が止まり、息が詰まる。呆然と虚空を見つめる俺の肩を怪訝な表情の沢村が揺すって、「先輩?」と声を掛けた。
     黄金色の無垢な瞳が俺を捉える。何とか取り繕ってその場をやり過ごしたが、あと少しでも長くあの場に留まっていたら、わけもわからないまま泣き出してしまいそうだった。教室に向かって足早に校舎の階段を駆け上り、死角になる踊り場で立ち止まって緩く自嘲する。己がこんな風に、誰かに――沢村に感情移入できる人間だったのだということを、この時初めて自覚した。
     そして、文通相手のゴーストライターを始めて1ヶ月と少し。投げかけられる沢村の真摯な感情の数々を、宝石と呼ぶにはあまりにも単純で愛おしいと思った、色とりどりの石くれのような言葉たちを、片っ端から砕いて捨てていたのではと思った。欺瞞に満ちた贖罪のつもりで、とんでもなく非道なことをしているのではないか。
     相手が沢村でなければ、きっとこんな風には考えなかった。一ヶ月前のあの日、沢村の元文通相手の非道に俺は憤ったが、もしかすればそれよりも遥かに残酷なことを続けているのではないだろうかと思えてしまう。もし沢村でなければ、素知らぬ顔で虚構の文通相手を貫き通すことも、俺は眉一つ動かさず平然とやってのけただろう。
     逆に、相手が沢村でなければ、ここまでしてやろうとは考えなかったとも思う。先月、返信が途切れたタイミングで、これ幸いとお役御免を喜んだに違いない。そもそも、代筆を引き受けてすらいないかもしれなかった。
     衝動的に、俺の虚飾に満ちた言葉ではなく、偽りのない感情を与えてやりたいと思った。もう全部終わらせて、最初から全てをやり直したい。
     その裏で、染み付いた捕手の頭が今は時期が悪すぎると冷静に判断を下してもいた。数週間の後には、最後の夏が始まろうとしている。己のすべてを犠牲にしても、この夏を果敢ない成績で終わらせるわけにはいかなかった。そのような結果になれば、沢村は間違いなく自分を責めるだろう。無用な心労を増やしたくはない。
     一ヶ月前、『文通』を続けることとした選択が間違っていたか、間違っているか今は考えない事にした。沢村限定で働くらしい良心に耐え難い痛みを伴うとしても、夏の間はこの猿芝居を続けよう。未だ夜明けは見えず水面は闇色に染まるが、座礁し無様に沈むにしても、せめて俺自身の決意の果てでありたかった。
     
     
     ✩
     
     
    『甲子園出場、おめでとう。予選の全校応援に行きました。9回裏最後の内角高めのストレート、沢村くんの気持ちがこちらまで伝わるようでした。選抜大会はテレビの前で応援しています。今から録画のスケジュールを組みました』
     
    「ありがとうございます! 御幸先輩を信じて投げました! 東京代表の重ーい看板を背負って、漢沢村栄純、必ず優勝旗を持ち帰って参ります!」
     
    『初戦の登板、お疲れ様でした。次のゲームは降谷くんが投げるのでしょうか。しばらく姿を見られそうになく、残念です』
     
    「降谷は最近調子が滝のぼりですよ! 全く心配しておりやせん! 二戦目も応援宜しくおねがいしやす!」
     
    『スポーツ誌を生まれて初めて購入しました。沢村くんの勝利インタビューの記事、スクラップブックに保存します』
     
    「大変お恥ずかしいですが、光栄です! 実は俺も! 永久保存版です!」
     
    『大会の間、ホテル暮らしも不便そうです。何か差し入れができたらよかったのですが』
     
    「お気持ち、十分に受け取っております! 朝ごはんのスクランブルエッグが絶品です!」
     
    『明日は雨になりそうですね。厳しい気温が、少しでも和らぐことを祈っています。熱中症にはくれぐれもお気をつけて』
     
    「今日は先輩にコンビニでアイスを奢っていただきました! 大阪で食べるパリパリくんは最高においしいです!」
     
    『勝っても負けてもあと1戦ですね。いわゆる総力戦になるのでしょうか。あっという間だったような、不思議な気持ちです』
     
     
     ✩
     
     
    「沢村」
     片耳だけに挿していたイヤホンを取り払う。閉じていた瞼を開くと、薄暗い三塁側ベンチの中、逆光を浴びる位置――俺のすぐ眼前に立ち、心底楽しそうに笑う鳶色の瞳と視線がかち合う。
     昨晩届いたメールの返信は、保留にさせてもらっていた。御幸先輩に一度大きく頷いて、差し出された胼胝だらけの右手を握る。
     炎天下の甲子園。正午を過ぎ、試合の開始時刻が迫っていた。そして同時に、御幸先輩の最後の夏が終わろうとしていた。
     
     次から次へとひっきりなしに押し寄せるインタビュアーに、どうにかこうにか対応しきり、夕飯にありついて大浴場で風呂を済ませ、俺とおなじくらいげっそりした様子で客室近辺の廊下を彷徨う御幸先輩を捕まえる頃には、時刻は22時をまわっていた。同じく湯上がりらしい格好の先輩はそれでも俺を視界に捉えると、柔らかく顔を綻ばせる。
    「お疲れのところすいやせん! どうしても今日中に済ませたくて。メールをお願いしたいんですが」
     先輩は一瞬、ほんの少しだけ表情を曇らせたが、間を開けずに「いいよ」と笑ってホテルの各フロアに併設されている自販機横の休憩スペースへと向かう。徐に缶のスポーツドリンクを2本購入すると、1本を俺に寄越して「戦勝祝い」と嘯いて微笑んだ。
     笑い返して、簡易的なソファに並んで座る。大人のふりで乾杯よろしく缶を軽く小突き合わせ、二人同時にプルタブを開けた。よく馴染んだ味を、一息に3分の1ほど飲み干す。
    「いつでもどーぞ」
     ぱかりと先輩がガラケーを開き、俺に話せと促した。事ここに至っては、さすがの俺も緊張する。居住まいを正し、こほんと小さく咳払いをして口を開いた。
    「先輩が好きです。直接お返事を聞きたいので、夏休み明けの初日の放課後、グラウンド横のベンチまで来ていただけないでしょうか」
     携帯画面に視線を落とした御幸先輩の表情は、前髪と眼鏡のつるに遮られはっきりと見てとることはできない。しかし一度大きく息を吸い込み、再び吐き出すと、何も言わずにカチカチと端末を操作し始めた。
    「……送ったよ」
    「ウス」
     ぱたんと携帯が閉じられ、先輩の掌を照らしていた光も消える。
    「そんな顔しないでくださいよ」
    「……どんな顔してんだかわかんねえよ」
     それはたしかに! なんてへらりと笑うと、「先に戻るな」と言いおいて先輩は3年生数人が宿泊している部屋に戻っていってしまった。
     
     
     9月。
     あっという間の夏休みが終わり、俺にとっては待ち侘びていた登校日の初日を迎えた。始業式を終え、いつもの放課後にはまだ早い時間であるが、逸る気持ちを落ち着かせようと、スマートフォンから伸びる有線イヤフォンで左耳だけを塞いで端末を操作する。
     春、はじめてこのベンチで御幸に手紙の読み上げを依頼した時のことを思い出していた。淡々とした口調であっても、静かなテノールで俺に向けて「好きです」と囁くその声が好きだった。誠に残念ながら、その一言が聞けたのは録り逃がした最初の一回だけだったのだが、以降俺は先輩に朗読を頼む度、こっそりとアプリでその声を録音し続けていた。盗聴? いやいや、最初から俺宛のメッセージですから。
     内容はどんなことでもよかった。馴染みのない純文学のある一文の抜粋でも、顔もよく知らない教師の選択していない授業の難しい話でも……より良かったとすれば、野球のことを話している時だった。――先輩は自分が嘘をつくのが上手いほうだと思っているかもしれないが、あれは6月の中頃からだろうか。
     自分のは勿論だが、他人のパーソナルスペースを侵害しないことにも意外と気を配る人である。たぶんプライバシー? 的なものを気にしてか、俺の口にする返信文に今まで全くの無干渉、ノーリアクションを貫いていたのに、急に何らかの反応を返すようになった。
     ある程度の確信を得たのは、それとだいたい時を同じくして、中間試験で生徒の登校時間が疎らになる頃。今日のように、放課後の時間と俺達野球部の練習時間に大きく間が開くタイミングがあった。そういうとき、よほど熱心な生徒でなければ態々居残って練習試合を観戦しようという者は――ましてや女子は殆どいない。
     倉持先輩の厳しい監視の目を盗んで、その日の練習試合中にフェンスの外周を確認したが、青道の制服は確認できず、記者らしき中年男性やよく見かける近所の住民以外に見ている人は居なかったと思う。俺の登板も、クローザーとして9回裏に一度きり。しかし翌日届いたらしいメールは、1点差でノーアウト満塁の厳しい場面を何とか切り抜けたところを手に汗握りながら見ていましたという内容だった。
     あの緊張感の中、グラウンドの外を気にするほどの余裕はさすがに無い。実際、本当に見に来ていた可能性もないではないが、それよりもっとありえる可能性に俺は賭けることにした。
     たぶん、俺と文通しているのは御幸先輩本人だと思う。理由はわからない。わからないが、俺をからかって貶めたいならもっと手っ取り早い方法が色々あるだろう。それに身体的特徴ともいえる俺の"特性"を利用してまで、誰かを傷つけたがる人ではないと信じていた。どちらかというと、俺を傷つけないために汚泥を被っていると考えるほうがしっくりくる。
     とにかく自分を後回しに、俺を優先する人だった。先輩のそういうところが好きだけど嫌いだと思う。だからほんの少しだけ、気づいているけど気づかないふりで意地悪をさせてもらうことにしたのだ。
     
    「おい」
     ピークを過ぎたとはいえ、まだまだ暑い日が続く東京の9月である。ベンチは木陰に位置しているが、暑いしそろそろ待ちくたびれそうだという頃、イヤホンの音声に被って塞いでいない右耳が聞き慣れた声を捉える。
     イヤホンを外し、ゆっくりと目を開けると、憮然とした表情の御幸先輩が立っていた。右手には、ぐしゃぐしゃに握りしめられた1枚の紙切れ。よかった、下駄箱の位置間違ってなかったか。
    「来ないかと思いました」
    「ちょっと色々……説明してほしいんだけど。まずコレから」
     字が書けないから、赤いマーカーをグーで握りしめてA4の紙いっぱいにでっかいハートを描いてやった。
    「先輩、読んでもらえませんか」
     にしし、と笑って嘯くと、次の瞬間背骨が折れそうなほどの力で抱きしめられる。灼熱のマウンドで同じように抱き合ったことを思い出した。二度目の「好き」を録音することは今度もやっぱり叶わなかったけど、この先何度でも言って貰えばいいだろう。俺の肩に深く顔を埋めたまま、消え入りそうな声で先輩は小さく侘びる。俺もダマしていたので、お互い様だというのに。
    「一生傍にいてくれたら、許してあげます」
    「……そんなんでいいのかよ」
     ちょろい奴、なんて憎まれ口を、唇の中に閉じ込める。愛を伝える手段は、いくらでもあると思う。今はそのうちのひとつに溺れながら、続く未来でも同じ想いを与え合えることを祈った。
    r2nd_jaw Link Message Mute
    2020/08/23 14:22:01

    POST

    #御沢
    モブが出てきますが御沢で終わります

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