Lilas 六月になるとリラが咲く。少し遅いと思う。
そも主は雨の季節という感覚が薄いようで、本来であれば湖が緩く温まるのに倣ってしっとりと露をまとう程度に大気が重たくなるところ、ここでは皐月の過ごしやすさをそのまま延ばした様子で、未だに風は軽やかに衣の裾を翻す。
それでも気温は僅かずつ上がり、湖面と岸辺を撫でて並木道まで吹いてくる風は、青く湿った晩春の色をしていた。
白と紫と淡いピンク。ハートの形の葉の合間から、筆でスプリンクルを掬い取ってきたかのような花房が顔を覗かせている。花弁はダイヤの形の四枚で、整った十字の配置でまとまって成る為まあ紫陽花の代わりにできないこともない、かもしれない。
適当な木の下に立ち、細かく連なるピンク色を見上げる。
特別何かがある訳ではなかった。日々の狭間、本丸の敷地内でただ気を紛らわせたい時によく此処に来ていた。
本丸の喧騒からは遠く、安らかな薫りが水に溶けるようで心地良い。
そう言うと、いつしか彼の刀も共に歩むようになった。
ちょうど去年の今頃あたり、まだ共に第4部隊にいた頃に、彼から五枚の花弁を持つリラの話をきいた。四つ葉のクローバーのように稀にみられるそれを誰にも気付かれずに呑み込むことが出来れば、それはひとつのまじないになるのだという。
外見に違わずロマンチックなことを言う男だと思った。
特に興味は無いかな、と答えた。
彼は気を悪くする様子も無く、その後も他愛のない逍遥は重ねられた。
不要と感じたのだ。
だって、花の薫りのように脳を浮つかせながら青くて苦い心地など、もう何度だって呑み込んでいる。それはまだ熟していない、機が来れば刈り取ってやるつもりで寝かせているものだ。
花弁の願、蜘蛛の糸などは必要ない。
何かの助け、ましてや不確かなものに頼るなど、そんなのまやかしではないか。
今はまだ、貴方が愉しそうに此方に歩んでくるから、それに付き合ってあげているだけ。
でも、そろそろ来るかと視線を滑らせた先。
母屋の玄関を地に透かせて、目の前に垂れたレースの花房の真中。
思わず喉がうねった。
指を伸ばして黒を差し込み、その容を焼き付ける。
摘まもうか、手折ろうか。
痕跡も何も残らないだろう。呑まずとも、栞などの為に持ち帰るならばそれはまじないを意図してのものではない。ただ珍しいから。稀少であること自体が価値になりうると、そう言ったのは貴方だと。
「──おぉい」
霞に曇った耳の奥、呑気な声が聞こえてくる。
指先は震え、歪に重なった花弁のひとひらをあっけなく宙に溶かした。
なるべく自然な動作に見えるように花房から手を離す。
花の散る木と幼子じみた興奮を背中に隠すように、彼のところへと歩み寄る。
彼の刀は普段と等しく、湖面の煌めきに紛れる銀髪を、花の色をしたリボンで纏めていた。
今年も既に幾度かこの逍遥を重ねている。
六月にならねばリラは咲かない。
遅いんだよと、焦れた身を満たすように花の薫りを吸い込む。