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    しおり
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    あわいの累夜   初 日   依 頼   遭 遇   過 去   狼と九郎   痕 跡   閑 話   男の話   邂 逅   生 活   虫 螻   対 峙   収 束    閑 話   義手の話   それから こちらの作品はプライベッターにて連載していたものに加筆修正を加えたものです。
     一部に不適切描写がございます。原作のお名前をお借りした現代パロディです。
     軽度の切断面、蟲や嘔吐、暴力描写など、登場人物のイメージを損なう可能性があります。
     加筆修正前のため、表現が一部異なる場合があります。




         あわいの累夜


                      初 日

     男は、何の変哲もない扉を見据えていた。
     蛍光灯の灯りが行き届いた奥まった廊下、玄関ドア前に立ち尽くす姿を見咎めるものはいない。端正な横顔は険しく、眉間の皺が刻まれている。
     くすんだ枯葉色のパーカーから何かを取り出そうとしている。小柄ではあるが平均的な身長の、三十代半ばくらいの年齢だろうか。ポケットの多いカーゴパンツを履いている。頑丈そうなブーツは靴底に年季が感じられるが、大事にされているのか目立った傷や汚れはない。足元には旅行用のバッグが置かれていた。
     男の手には銀色に鈍く光る鍵が握られている。凡庸なデザインで、ケースもキーホルダーもない、剥き出しのままだった。
     指先が鍵穴へと吸い込まれるように、腕が伸びた。
     錠前を前にした人は、鍵を開けるという動作を自ずと学んでいる。鍵穴に差し込み、ゆっくりと回す間、中の構造は決して見えず、どういった動きが内部で行われているのかを知ることはできないが、指先に感じるかちりと噛み合った振動で、開いたという実感を得る。
     構造がどうなっているのか知らないものに、或いは中に何があるのかも明確に把握しないまま手を伸ばすことは、本来危険である。けれど無意識に行われる、日常的な動作に溶け込んでいるものから察することは難しい。施錠した扉を開けるという行為は、あまりに普遍的なものだ。そこに何が待ち受けるかなど、多くの人は考えない。
     ——ガチャン。
     開錠には重々しい音を立てたが、ドア自体はすんなりと開いた。鍵を抜き、ドアノブを回しゆっくりと引く。開かれた先を覗くと、薄暗く何もない三和土があり、廊下の先には静寂ばかりが広がっていた。
     薄明るい影差す室内に、男はひと呼吸おいて足を踏み入れた。
     
         ◇

     駅から徒歩一五分圏内、オートロックマンション。和室洋室あり、広めのバルコニーとシステムキッチン付き、風呂トイレ別、一人暮らしには少し広すぎるかもしれない間取り。
     その条件で、同じ区画にある1DKと賃貸が大差ないということから、誰もが異様さに気が付くであろう。
     説明文にはこう書いてある。
     
     ——過去、発見に至るまで七二時間以上経過した状態の不審死有り。
     
     そういった訳ありの家を事故物件、と世間は呼ぶ。しかし、ニーズがないわけではない。格安であるし、一部の、いわゆる精神的瑕疵の部分を気にしないのならば問題ないだろう。
     これから寝起きし、生活する環境で、過去にそこで実際に起こったことだとして。人は遅かれ早かれ死ぬものだと——その経緯がどういったものであれ、どこで結末を迎えたものであれ、と。

     扉を閉めて、内側から鍵をかける。
     重々しい音を立てて、部屋は密室に戻った。
     この部屋で暮らすことになった男、薄井狼は細く息を吸い込んだ。見知らぬ部屋の匂いがする。壁紙だろうか、糊のような、普段嗅がない類のものだった。
     靴を脱いで、室内に上がる。細い廊下が続き、リビングに続く扉は開け放たれていた。白い天井と、生成色のやわらかい雰囲気の壁紙、つやつやと新しいフローリングがまぶしい。重量感のある旅行バッグを廊下に置き、これから住むことになる室内をぐるりと見て回る。
     台所の窓を換気のために開けば、秋になりきらない生ぬるい風が入ってきた。
     キッチンから進んだ先には広々としたリビング兼洋室があり、正面にバルコニーがあるようだ。開けて外を見ると結構広い。一階のエントランスの真上のスペースだ。転落、覗き防止だろうか、胸くらいまでの高さの板が打ち付けてあった。町が一望できる、とまではいかないが見晴らしはいい。
     室内に戻ると、リビングから右手、取り外し可能の引き戸で仕切られた先に六畳ほどの和室がある。洋室より狭いものの、畳も真新しく、内装だけなら新築のようだった。風の通りをよくするため和室も開け放しておく。い草の香りが薄まっていくのを感じた。
     窓からは心地の良い朝の日差しと、通行人だろうか、子どものはしゃぐ声がしている。通学路が近くにあるのかもしれない。
     浴室とトイレまでの間取りを確認した狼は、リビングへと戻ってきた。入居初日は、身の回りの最低限のものを詰めたバッグだけで過ごすことになっている。何しろ家具がまだ何もない。思ったより日差しが気になる。カーテンを買わねばならないだろう。いくつかの日用品は明日の朝届く予定だった。

     周辺の散策に出かけるかと思いつつ、先にやるべきことをしてしまうことにした。
     狼は玄関の方に戻り、持参した旅行バッグからあるものを取り出す。
     つるりとしたレンズ、無機質なそれらは、小型の監視カメラだった。同じものを五台、次々と出して並べる。
     洋室、和室、玄関、キッチン、バルコニー。それぞれ定点カメラを死角に設置していった。便利な世の中になったもので、スマートフォンからでも確認ができるというが、詳細は狼の知ったことではない。バッグからノートパソコンを取り出し、起動して、設定と画像を確認する。問題なさそうに見えたが、念のためスマートフォンをタップして報告を行った。
     ——設置完了。
     手持無沙汰にする間もなく返事が来た。五分も経っていない。携帯端末に送られてくる指示を確認しつつ、取り付けの微調整を行っていき、しばらくしてすべての作業が完了した。
     そうして、何もなかった殺風景な部屋は、狼と複数の監視カメラだけがある監房へと変貌を遂げた。

     ふう、と知らず息が漏れる。部屋中を動いたせいか蒸し暑く感じた。
     一仕事終えた狼は、バッグから財布と、今朝自分のものとなった家の鍵を、羽織ったパーカーのポケットに放り込んで、身軽な姿で外出した。


       依 頼

     事の起こりは、数日前。
     和装の女が、平田探偵事務所の扉を叩いた。

     九月上旬のことだった。いまだ猛暑の気配が色濃く残り、射す日差しは鋭かった。
     平日の十四時を過ぎた頃。専ら応接対応を行っている九郎は学校に行っていて不在にしていた。戻るまでにあと二時間はかかるだろう。ほかにも事務員はいたが、電話対応などで応対できるものが居なかった。アポなしの依頼か——と仕方なく扉を開ける。
     出迎えたのは現場調査担当である狼の仏頂面で、依頼者である女は表に置いてある看板と、出てきた男を見比べながら「ご依頼を受けていただきたく」と物腰柔らかく告げた。
     女は白い日傘を手に提げて、大きな封筒を持っている。額には少し汗が浮いていた。徒歩で来たのだろうか。この事務所には、近隣を含めて駐車場がない。一階はガレージだが、あまり出番がない社用車が眠っており解放されていない。バスや車で来てもすこしばかり歩く羽目になるのだ。炎天下であれば汗が噴き出るには十分な距離だった。

    「お待たせしました。どうぞ」

     ひとまず来客用のソファに座ってもらい、備え付けの冷蔵庫から冷えた麦茶を出した。それに丁重な礼が返ってくる。畳んだ日傘を傍らに掛け、少し疲れたような表情をした、顔色のあまり良くない女はエマと名乗った。汗が引くのを待ち、女は口を開いた。
     大手不動産会社の社長秘書だという彼女の話は妙なものだった。

    「少しの間、ある家に住んでいただきたいのです」

     そこはいわゆる事故物件で、何度リフォームを繰り返しても短い間で不審死が相次いだ。
     心臓麻痺。病死。——自殺。ここ一年だけで六人の出入りがあった。数年前に改築したばかりのマンションだが、そのフロアだけ人が入らない。もしくは、長続きしない。そして人が出るたびに清掃とリフォームが繰り返される。痕跡をひた隠すように。
     その、無人であるはずの部屋に、夜な夜な男が現れるという。
     生身か霊か、その判断も定かではない。それを確かめて、可能ならば追い出してほしい、というのが依頼の内容だった。
     普段の仕事と言えば、護衛やら浮気調査やら猫探しやら、主に足で稼ぐことが多い狼は、物珍しい内容に興味を惹かれた。

    「少し、というのは、どのくらいですか」

     エマは頷き、ところで副所長さんはいらっしゃらないのですか、と逆に尋ねてきた。社長から直々にお話が言っているものと聞いておりましたが、と。
     狼は一瞬だけ眉を寄せたが、最大限出来る範囲での柔和な顔をしてみせた。ほぼ無表情だったが。

    「申し訳ありませんが、私はお聞きしていません。戻られるのは早くて十六時頃になるかと」
    「……ああ、そうでした……、今日は学校があるとお聞きしていたのに……」

     額を押さえるようにしてうなだれるエマの様子に、よほどの疲労を抱えているようだと狼は察した。
     おそらくだが、上には既にこの話が伝わっている。それを狼に伝えていないということは、依頼を受けたくないか、まだ迷っているというところだろう。
     今は十五時前で、戻るのを待つには少し長い。
     仕方がないので資料をお渡しして出直して参ります、とエマが帰り支度をする。待っていても構わぬが、と狼が珍しくも引き留めると、少し逡巡してそのままソファに座り直した。
     ふう、と短い溜息を吐いて、ゆっくりと狼を見る。目の下には隈が薄く残り、疲れた様子が滲んでいた。妙齢の女性だ、社長秘書ともなれば苦労することも多いのだろう。
     革張りのソファに対面で座った二人は、テーブル越しに無言で見つめあった。
     依頼の話が進まないのでは、話すことはない。狼は世間話を自分から振るような高度な対人スキルは持っていなかった。エマも物静かなのだろう、身じろぎ一つせずに見返している。
     窓を開けてはいるが、時折車が通るくらいで平穏なものだった。壁に掛けた扇風機がそよ風を運んでくる。
     かたかたと後方で事務作業をしている音が聞こえてくるが、狼が何か言いたげに視線をちらりとやると、忙しそうに書類をがさごそ捲る音が加わった。ため息が出そうになるのを堪える。
     気まずい沈黙の中、口を開いたのはエマだった。

    「あなたが……狼、殿ですか」
    「そうだ」
    「なるほど。ふふ、九郎様の仰っていた通りの方のようで安心しました」

     なぜ九郎の話が出てくるのか、内容が掴めず首を傾げる狼に、エマは微笑んだ。

    「素直な方だと。信頼していると仰っていましたので、ずっとどんな方なのか気になっていたのです」

     何やらこそばゆいような感覚になり、狼は眉間に皺を寄せた。作業の音がするばかりの事務所の中で、狼の体温がにわかに上がる。
     どういった話をしているのかは見当もつかないが、九郎は幼い頃から狼を懐に入れたがっている。そしてそれを隠すこともせず、常に堂々と「うちの狼はすごいんです」と褒めて憚らない。一体何を吹聴されているのか、気が気ではなかった。
     話題を変えるため、狼はぎこちなく腕を組んだ。

    「その、事故物件とやら。場所はどこに?」
    「おや。受けていただけるのですか? 詳細は資料にございますが、九郎様からお聞きになられていないということであれば……貴方を巻き込みたくないのでは」
    「受けるかどうかは俺が決めることではないが、興味がある」
    「本当に素直な方ですね」

     エマは気分を害した様子はなく、面白がっている様子だった。
     にこりともしない狼に、声を抑えた返事をする。あまり抑揚のない声だったので、聞き零してしまいそうだった。

    「法則性があるのかはわかりません。もしかしたら勘違いかも。ですが確認したいのです。そこに、本当に……出るのかを」

     慎重な言葉運びに、何やら事情がありそうだと思った。そも、事務所代表の受付ではなく、九郎直々にというのが訳ありでないはずがない。話す内容は妙なものでしかないが、それでも狼はその話を聞きたかった。

    「出るのかを確認するだけなら、カメラを設置してみては」
    「出現には、条件があるようなのです。私も何日か泊まってみましたが、とんと反応がなく」
    「行ったのか」狼は驚いてしまい、つい聞き返した。
    「はい。社長の意向で」

     不審者かもしれない男が夜な夜な出るという部屋に女性一人を向かわせる? そして泊まる? 一体どんな社長なのだ、と狼は言葉を失う。エマは特に気にした風もない。

    「もう頼めるところには頼んだのです。こちらでもだめなら、他の手を打つ考えですが……できるだけ穏便に済ませたいところでして」

     他の手というものがあまりよくない手段ということを察した狼は、小さく唸るしかなかった。
     半端に聞いたせいで興味が湧いたまま、もどかしさのようなものを感じながら黙り込む。決定権はないが、選択できる人間はもうすぐ帰ってくるはずだ。
     その時、ぱたぱたと軽い音がした。階段を駆け上がってくる、いつも聞き慣れた音だ。狼は番犬のようにピンと背筋を正した。

    「ただいま戻りました、狼、わたしに客人が来ていると……エマ殿!」

     事務所の扉を開けた学生服の少年、九郎は、うっすらと汗をかいているように見えた。外の気温はまだ高い。学校指定の夏の制服を着て、通学鞄を横に置いた。エマを見つけた九郎の笑顔がはじける。立ち上がって迎えるエマの表情も柔らかくなった。

    「九郎様、お久しぶりでございます。大きくなられましたねえ。その制服、よくお似合いですよ」
    「ありがとうございます。まだ詰襟に慣れなくて、ずっと夏服のままでいたいくらいなのですが」

     弾む会話を邪魔しないよう、狼はすっと席を立って麦茶を取りに行く。ふと見ればエマのコップも空だった。二つ分用意するため邪魔にならないよう脇を通る。給湯室の扉を閉め、冷蔵庫から新たなガラスコップに氷と麦茶をゆっくりと注ぐ。明るい茶の葉色が目に涼しい。盆に乗せていると、声がかけられた。

    「狼、来てもらえるか」

     エマと九郎は顔見知りのようだし積もる話があるだろうと思ったのだが、存外早く名を呼ばれた。狼はすぐに返事をした。九郎の声が硬かったからだ。

    「はい、何でしょう」
    「……ひとつ、聞いてもらいたい話がある。わたしの遠い親戚から、少し難しい依頼があっていてな」
    「先ほど、あらかたのお話は伺いました」
    「話が早くて助かる。それで……その物件に出るもの、おそらくは良くないものとみる」

     九郎が言葉を濁す。狼は両手に盆を持ったまま耳を傾けていた。

    「一心様から聞いたとき……わたしは、狼には行ってほしくないと感じた。けれど、適任だろうということもわかっている……あまり、安全が保障できないのだ」
    「俺は、興味があります」

     九郎は言いづらそうに伏せていた瞼を見開いた。狼の発した珍しい言葉に驚いたのだ。
     あの狼が、興味がある、と。
     ちょっとした衝撃を受けて九郎は反応が遅れてしまう。狼は九郎のことを庇護し、導くが、己の欲求を口にしたことはあまりない。
     叔父が始めた探偵事務所にも、狼がいるからと何かにつけて入り浸り、いつの間にか事務所を掌握し、最近では冗談か誠かわからないが将来の所長の座を約束されている九郎。いや、成人までは副所長と据え置きにされているのだけれど、短い人生の中で狼がいない空白があまりない、狼のことは九郎に聞いたほうが早いとまで言われる少年が驚くような、好奇心の発露の瞬間だった。

    「狼……。……では、頼んでも、よいだろうか……」
    「はい。お任せください」

     くっと目頭を押さえる九郎を疑問に思いつつ、エマから資料が入った封筒を受け取る。
     中にはそのマンションの情報と、今まで居住し、事故死、精神を病んで退去、病死、自殺未遂……それまでに起きた事の概要をまとめたファイルが入っていた。
     エマはこれまでに住んだ人々の話をかいつまんで説明し終わると、九郎とともに麦茶で喉を潤して、ポツリとつぶやいた。

    「あなたで、七人目ですね」

     その言葉は、何やらひどく不吉なものに聞こえた。

       遭 遇

     例の部屋にカメラを設置して数日が過ぎた。

     初日、夜。異常なし。
     散策がてら見つけた近所のホームセンターでカーテンを購入した。濃いグレーの遮光カーテンだ。一切光が入らなくなったので電球も取り付けた。灯りが付いただけで随分と雰囲気が変わるものだ。
     畳で寝るのは久しぶりだった。バッグを枕代わりにして和室の隅で仮眠をとっていたら、それを見たのであろう九郎から「布団を送っておいたからな!」といったメッセージを頂戴してしまって、早朝に飛び起きた。

     二日目、夜。異常なし。
     午前中に自宅から送った日用品の荷物が届いた。その日の午後に九郎が頼んだと思われる新品の布団セットも届いた。同じ配送業者の怪訝な顔にいつもの仏頂面を返す。
     それぞれ開封して、最低限暮らせる程度の片付けを済ませた。布団は和室に敷いた。机がないのでキッチンのカウンターにノートパソコンを置き、諸々の作業を行うことにした。椅子を持ってくるべきかもしれない。

     三日目、夜。異常なし。
     日中に「脱衣所と風呂場にもカメラを付けるべきか」と事務所に顔を出しがてら意向を尋ねると、九郎が顔を真っ赤にして珍しく怒ったのでそれ以上の追及をやめた。
     そういえば監視カメラの映像は誰が確認しているのだろうかと思ったが、あまり深く考えずにいようと思考を閉じた。帰り際にカーテンを買ったホームセンターでカウンター用のハイスツールを購入して組み立てた。簡単に終わったわりに丈夫だった。くるくると回って少し面白い。
     
     四日目、夜。異常なし。
     エマが事務所に様子を確認しに来た。
     お変わりありませんか、と聞かれて何もない、と答えたものの、それよりはエマの滲み出ている疲労のほうが気にかかる。ああ、私はちょっと働きすぎなところがあるので、ここには癒しを貰いに来てるんです、と本気か冗談かわからないことを言われた。九郎が学校から戻る少し前のタイミングで来ては、おかえりなさいと言うのが好きだという。
     二人は、狼には分からない人間の話をしていた。親族の誰かが入院してかなり長いとかどうとか、世間話にしてはどうにも暗い話題のようだった。気の毒な人間もいたものだと思った。
     
     五日目、夜。
     日中は事務所で過ごし、夜はマンションに戻る。カウンターで他の仕事の作業をしていると、不意にディスプレイ越しに違和感を感じた。
     ——何かが窓辺に立っている。それは生身の人間ではない、そう感じた。狼は気付かぬふりをした。
     こちらを認識した様子は、ない。点灯していないスマートフォンの反射で確認したが、ちらりと視界に入ったのは素足のようで、ひどく汚れていた。この手のものとは決して目を合わせず、認識せず、認識していると悟られてはならない。
     明日、カメラの映像を事務所で確認するために異常ありとだけメッセージを送信して、風呂に入ろうと席を立った頃には、いつのまにか姿は消えていた。その後は何事もなく夜を過ごした。
     
     六日目、朝。
     事務所の扉を開けると、学校が休みの九郎が待ち構えていた。緊張した面持ちだった。

    「ここだ、問題の時間だが、映像に奇妙なノイズが入っている。……映ってはいないが、ここに出たのだな」
    「リビング……洋室の、窓辺の側だったかと。姿は確認していませんが、男の素足のように見えました」

     すでに映像はピックアップされており、そこにいた事務員全員で画面をのぞき込んでいた。うわあやだ、とか、カメラの故障か? これほんとに幽霊? だとか、好きなことを言っているのが聞こえる。
     エマ殿は私用があり今日は来られないらしい、と九郎が言う。カメラに姿が映ったわけでもない、独断だがこのまま調査を続けることになった。

     ——その夜。
     狼は違和感を感じて慎重に視線を巡らせた。
     できるだけ自然に見えるように。不意に思い立って、という仕草になるように。
     ディスプレイの端、何も映していない反射部分に、何かが見える。男の足だ。現れた。やはり夜に出るようだ。
     時刻は昨日より遅く、時計の短針が天辺から二回ほど回っていた。九郎は確実に眠っている時間だ。どうか通知で起こさぬようにと祈りながら、異常あり、とスマートフォンをタップして送信すると、突然違和感が消えた。
     すっと背中に冷気を感じる。……近い。ぼんやりとだが、昨日よりも距離が縮まっているように感じた。しかし、幸いにしてこちらに気づいた様子はない。息を殺すようにして、平静を保つ。
     うなだれるようにして端末を傾け、画面を消す。ガラスコーティングが反射し、鏡の役割を果たすそこには、汚れた足のようなものがかろうじて見える。骨の浮いた足の甲。痩せてはいるが病的というほどではなく、筋張っているといったほうが正しいかもしれない。裾の長い……おそらく袴か、ぼろぼろの着物のようなものを着ている。色は汚れていてはっきりとはわからない。
     変わらずパソコン画面を睨んでいる体を装い、体勢を変える。視界の端で確認した。男は、おそらく背が高い。不意にこちらを見たような気がしたので、腰を捻るように椅子をくる、くる、と左右に回して誤魔化した。次に見たとき、姿はなかった。
     
     七日目、朝。
     やはり待ち構えていた九郎が、早朝だというのに事務所の前で立っていたものだから、狼は内心かなり慌てた。
     狼に気づくと、よかった、と見るからに安堵している。心配をかけたのだ、とようやく理解して胃の裏あたりが急に重たくなった。
     共に事務所に入り、他の事務員がピックアップしたその時間を確認する。やはり奇妙にノイズが入り、モニター画面を見つめる狼の後ろ姿が映っては、断片的に映像が途切れ、また元に戻る。しばらくしてパソコンを閉じてリビングから移動する狼の様子が映し出されている。そこから後は変化はない。
     九郎はううん、と唸った。

    「……確実に、いるな……」
    「袴、のようなものを履いていました。ひどく汚れていて、色までは判別できませんでしたが……」
    「袴か……。エマ殿は、今日も難しいそうだ。なあ狼、よければわたしもその部屋に行ってみたいのだが──」
    「なりません」

     いつになく素早い返事に九郎は戸惑った。

    「えっ……、で、でも狼」
    「いけません。あれは、九郎様こそ、近づいてはならぬと、俺は思います」

     狼の頑なな返答は、それ以上の言葉を続けさせなかった。
     そうか、と九郎は呟くと、納得したようにうなずいて見せて、唇の両端をにっと上げた。ではエマ殿の判断待ちで、今日はうちに泊まっていけ! としっかりと手を握られる。狼はしまったと思った。こうなったら九郎は絶対に狼を離さない。昔からそうだ。決して、九郎から狼を離すことはない。狼がその掌を、無理に解くことも。

    「今日は休みだからな、家でおはぎを作ろうと思うのだ! お彼岸も近いことだし、狼、手伝ってくれると助かるのだが……」
    「……はい、仰せのままに」

     狼は観念したように息を吐き、承諾した。
     よし! と笑っては無邪気そうに振る舞う、心優しい少年と手をつないだまま材料を買いに近所のスーパーへ出かけた。仕入れたなじみの食材は、小豆ともち米と砂糖という重量物ばかりのため、荷物持ちを買って出たが、九郎は頑として手を離さなかったので、結局仲良く半分ずつ袋の端を持って歩くことになった。

     日曜の午前中、車の通りは少ない。
     平田の実家まではバスに乗っていくことにした。木陰のバス停で並んでベンチに座って待つ。次の運行までは少し時間がある。
     今日は送迎がないらしいことから、きっとまた黙って家を出てきたのだろうと狼は察していた。
     ビニール袋からさっき購入した飴玉の袋を引っ張り出すと、それを開いていくつかの飴を取り出した。男の手のひらを赤、黄色、紫、桃色などの小さな飴の袋たちが彩っている。様々な味がある中で、九郎が選んだのは赤色、林檎味のようだった。

    「昔、こうやって買い食いしたのを憶えているか?」
    「はい。昔から九郎様は、なぜか私の後ろばかりをついて回るため、お母上やお父上が怒っていらっしゃって……」

     口の中に飴を放り込みながら九郎が年相応の顔で笑う。

    「あれはな、いやそもそもわたしが悪いんだが、怒っているのではなく、嫉妬していたのだと思うぞ。そうではなくて、今日みたいに一緒に歩いたことがあっただろう」

     こう、一緒に飴を食べてだな。という九郎の話に、狼はやんわりと頷く。
     よく覚えている。あれはそう、もう十年近く前のことだ。

    「祭りの夜のことですね、……懐かしい」


       過 去   狼と九郎

     狼が平田の家に厄介になっていたときの話だ。

     その日は、毎年夏のはじめに執り行われる祭りの夜だった。
     地域の振興会を兼ねたそれは、川沿いの道に出店が並び、灯籠を飾って夜道をあかるく照らし、人々が集まって輪になり踊り明かす特別な夜だ。最後には少しだが花火も上がって、ささやかでも人々の楽しみのひとつだった。
     九郎はその年、数えで五つだったか。まだふっくらとまあるい頬をしていて、おおかみ、おおかみとやはり狼の後ろをついて回り、姿が見えなくなれば探し回っていた。そのとき既に成人して九郎の叔父の手伝いをしていた狼は、近くをちょろついては手を繋ぎたがる九郎を困ったように宥めていたり、子どもに振り回されたりしていた。それが平田でよく見かける微笑ましい光景のひとつだった。

    「おおかみー」

     当時倉庫として使われていた離れの蔵には人気がなく、積み重なった雑用品や用途のよくわからないものが木箱ごとに無造作に並べられている。
     暇ならいくつかの物品を取ってきてくれんかと、遣いを頼まれた狼はあっちこっちの箱を引っ掻きまわしては難儀しているところだった。喧騒の夜、祭囃子が蔵の外、やけに遠く聞こえていた。
     そこへ、来るはずのない九郎の声がして、ひょこりと小さな頭が現れ、狼はいたく動揺した。

    「九郎様、ここは暗くて危ないですから。お母上のところに戻りましょう、ね」
    「おおかみ。ここにいては、だめだぞ。あぶないから」
    「わかりました。狼の言うことも聞いていただけますか」

     九郎は少し悩んで、こっくりと頷いた。

    「……うん、ゆびきり、してくれたら」
    「ゆびきり」

     狼は困った。九郎はちいさな小指をすでに出している。
     指切りのやり方とその血腥い由来は知っている。約束事に使う誓いの童歌が全国共通なのも物騒ではないかと狼は思っていた。まして相手はまだまだ子どもだ。拳骨万回だとか針を千本飲ませるなんて、そんなことはとても言えない。
     どうしようか考えていると、焦れた九郎が狼の指に小指をからめてきた。暖かかった。一瞬、言葉をなくすほどに。
    「あ」狼は振り解けずにその小さな手に指をさらわれた。いとけない温度が、無骨な手を包む。埃や泥で汚れていないだろうか、と後になって後悔したが、遅かった。

    「ゆーびきーり、げーんまーん。うーそつーいたら」

     戸惑っている間に、唄が始まってしまった。狼は右手を子どもの手に揺らされながら、何と声をかけるべきかまだ迷っている。

    「九郎さま」
    「はーり、せーん、ぼーん……、……」

     しかし幼い歌声は途中で尻すぼみになってしまった。
     狼が黙って待っていると、九郎が眉を下げてうつむいてしまう。どうやら困っているようだ。聡明なこの子どもがたまに浮かべる、やりたいことはわかっているのだが、どうしたらよいのか知らない時の表情だった。
     狼は辛抱強く待った。仕事の手は完全に止まっている。あとで嫌味を言われるだろうが、考えないことにした。

    「おおかみに、あっちいってほしくない。けど、はりは、きっといたいから、どっちもやだ……」
    「——」

     優しい子どもだった。ふとした言葉の暖かさに、胸の奥を焼かれるほど。
     狼は何も考えが浮かばないまま、小指をそうっと解いた。目を丸くした九郎が泣き出す前に、その体を抱き上げる。んえ、と声が上がり、まろい頬が狼の耳にくっついた。心地の良い重たさが肩と腕にかかる。なんて暖かくて柔らかいのだろうと驚いた。幸福の象徴のような、途方もなく尊いものに思えた。

    「俺は、どこにも行きませんし、九郎さまはお母上のところに戻りましょう。俺とあなたの約束、です」
    「やくそく」あどけない声が耳の傍で聞こえた。
    「はい。約束です」
    「うん。じゃあ、やくそくだ。むこうにいってはだめだからな」

     しっかりと釘を刺す言葉は、幼い子どもとは思えないほど凛々しいものだった。

    「わかりました」

     狼が大真面目にうなずいて、蔵を離れる。そうしてやっと、九郎は安心したように首に抱き着いてきた。ちいさな両腕が、たまらなく暖かかった。随分と自分の身体が冷えていたことに、狼はその時やっと気づいた。

     ──九郎様には、見えないものが見えるのだ。

     平田の家の者は口を揃えてそう言う。
     見えるものは善いものであったり、よくないものだったりする。子どもはいつのまにか祀られるようにして、ひときわ特別な感情を与えられながら育っていた。十代の頃から平田に雇われている身である狼にはそれをどうすることもできない。
     ただ許されるのは、後ろをついてくる小さな手を振りほどかず、受け入れて、ちいさな子どもの話を聞いてやることだけだ。不思議なことに、それは結果として狼を救っていた。
     だから、今のちいさな「あぶない」という警鐘も、きっとそうだったのだろうと思い、狼は何も聞かなかった。
     九郎は狼に抱かれてその場を離れながら、彼が立っていたやけに濃い暗がりを、大きな瞳で睨み付けるようにじっと見つめていた。

     ◇

     蔵を出て、屋台で忙しそうにする店主に頼まれたものを渡す。遅いと文句を言われるかと身構えていたが、珠の汗を浮かべていた男は狼が抱えた子どもを見るや、おや九郎坊っちゃん、お出かけですか、と笑顔になった。うん、と手を振って歩くとあちこちで声を掛けられた。そんな人気者の九郎が、ふいに狼を呼んだ。

    「おおかみ、りんごあめがある」
    「晩ご飯が、まだなのでは」
    「たべた!」

     本当だろうか……、と思ったがいつもの時間なら夕食を終えている時間だ。
     小さいのを少しだけならいいですよ、と狼が甘やかして、赤色の姫林檎を買ってもらった九郎はさっそく口の周りを真っ赤にして上機嫌だった。
     屋敷に戻るまでに食べてもらうため、肩から下ろして子どもの歩幅に合わせて歩いた。
     狼の腰に巻いたパーカーの裾を引き綱のようにして、祭りの夜を小さな足と揃えて歩く。人出が多く、飴を舐めるのに熱中している子がまっすぐ歩けるわけもなかったので、狼は歩かせるのを早々にあきらめた。
     九郎の手を引いて、出店と出店のあわい、半端な空間の石垣に腰を下ろす。川のせせらぎと楽しげな笑い声が聞こえてくる。夏の緑のみずみずしい匂いと、林檎飴の甘酸っぱい香りがする。
     膝の上に子どもを乗せて、一生懸命飴をかじる姿を眺める。頬や頬にかかる髪がべたべたになっているのを見て、家に戻るまでにどうにかしなければと思った。それにしても美味そうに食べる。てらりと艶めく飴のコーティングは、子どもにもやはり魅惑的に映るのだろうか。
     結局九郎一人では食べきれず、残った林檎飴は証拠隠滅するべく狼の腹に収まった。
     途中で水を貰い、べたついた顔を拭いたものの、二人で唇を赤く染めていたので、一目でつまみ食いがばれて叱られてしまったこともよく覚えている。

     思い出に浸って笑っていると、平田行きのバスが到着した。乗客は少ない。九郎を先に乗り込ませて窓際に座らせ、立っているのも不自然なので狼は通路側に腰かけた。
     窓の外を見つめる横顔はあの頃と比べればずいぶん大きく、才長けた姿に成長したが、それでも九郎は未成年で、保護されるべき存在だ。狼は決して危険にさらすまいと誓っている。
     例えば、あの家。今狼が理由があって住んでいる、男の亡霊が出るといういわくつきの部屋。
     いまだ全容が知れぬものの、二度遭遇して、一つ感じたことがある。
     あれはきっと、狼には興味がない。だから素知らぬふりをすればいい。おそらく今のところは。
     しかし九郎はそうとはいかないだろう。あの手の者には眩しすぎる。何があるかわからない。
     いや、何かがあってでは遅いのだ。
     エマからの返事は今のところない。
     それが妙に気がかりだった。


       痕 跡

     山奥というわけではないが、街の喧騒は遠い。
     事務所の最寄りの乗り場から、バスに揺られて三十分はかかる距離に、九郎の実家はある。
     周囲には竹林と川があり、年中涼しい。地元の避暑地として夏はそれなりの賑わいを見せる。さらにバスに揺られれば温泉街があるが、反対に川の上流のほうへ上ったあたりに、平田屋敷は隠れるように建っていた。

    「おや九郎坊ちゃん。おはようございます」
    「おはようございます」

     石畳の坂道で出会う人間は皆顔見知りである。つまるところ田舎だ。
     狼はかつて世話になった懐かしい人々と控えめに挨拶を交わしながら、屋敷へ向かった。昔ながらの日本家屋だ。今日は日曜ということもあって庭師やハウスキーパーの姿はない。九郎の両親は不在にしているという。
     随分と静かだったが、目的のおはぎ作りを始めるとどこからともなく人が来ては口や手を出して賑やかに去っていった。田舎なので鍵を開けていると知らぬ間に近所の人間が出入りするのである。

    「いやあ、たくさん作ったな!」

     額に浮いた汗を手の甲で拭う仕草をしながら、髪が入らないよう三角巾とエプロンを装着した九郎が朗らかに笑った。狼も同じ格好をしていたが、こちらは味見と称してさっそく口の中におはぎをねじ込まれたのでこくこくと頷くだけだった。
     時間をかけて作ったおはぎは大変美味で、土産としていくつか包んでもらったりもした。
     
    二人は昼食をとってから作業に手を付けた。菓子を作るのが好きだという九郎には譲れぬこだわりがあるのだろうか。小豆を洗って煮るところから始まり、もち米と米を合わせて炊いて、形を整えて……。言われるがまま作業を手伝っていたら、いつのまにか夕食も相伴に預かることになり、泊まっていけという朝の言葉通りに風呂も着替えも借りて一泊することになった。

     七日目、夜。
     マンションの部屋には戻らなかった。九郎が狼をあの場所に帰したくなくて、わざと時間をかけて調理したのだろうということはわかっている。
     しかし、狼は用意された清潔な布団の上で眠れぬ夜を過ごした。最近は夜通し起きて、明け方に眠る日が続いていた。安心した寝床のはずなのに、妙に落ち着かない。何度も寝返りを打っては控えめな溜息を吐いた。
     胃の中で何かがつっかえたような気分のまま、無為に過ごす。
     障子と廊下を挟んだ向こうの部屋には、九郎の寝室がある。本当は川の字ならぬ刂で寝たいと言われたが、狼が丁重に遠慮申し上げたので自室と客室で部屋を分かったのだ。実に不満そうだったが、九郎様は思春期、多感なお年頃、と狼は自分に言い聞かせて一人寝を勝ち取ったのだ。そのはずなのに一切眠くない。どころか目が冴えてすらいる。
     ——少し、冷えるな。
     布団の中に鼻先まで潜りこんだ。
     眠気の来ない夜には散策をしたり、水を一杯飲んだり、音楽をかけたり人の温度を求めたり自分をなぐさめてみたりだとか、一通り思いつくままに考えたが何もかも億劫だった。そもそもここでは何もできないのだが。
     もう一度寝返りを打つ。客室には音を出すものが一切なく、己の発する音以外では川のせせらぎと秋の虫の鳴き声がかすかに聞こえてくるくらいだ。この屋敷には水の流れる音が四六時中響いていた。昔はこれで朝まで眠れたのに、今日に限って安眠は遠のくばかり。
     狼は目を閉じたまま眠気を待つ。眠れない夜は一秒の重みが酷く長い。己の在処が曖昧に、それなのに感情ばかりが大きくなるようで苦手だった。
     意識的に呼吸を深めて、手足の力を少しずつ抜く。眠れなくても横になって目を瞑ってさえいれば、そのうち意識が途絶えるだろうと思ったが、結局まんじりともせず、烏の鳴き声を聴いた。
     それを、暗がりから見ている者がいたとは気づくことはなく。

     ◇

     八日目、早朝。
     窓の向こうで雀の鳴き声がしている。
     朝晩が冷えるようになってきた時期だ。布団にくるまるようにしていたせいか、肩や腰が張っている。もぞりと布団の中で伸びをして、うーんと唸りながら九郎は身を起こした。
     時間は五時半。目覚まし時計も鳴る前だ。九郎は早起きの子であった。狼や屋敷で働く人々の朝が早いせいだ。炊事場で作業をしている音が聞こえる。
     今日は月曜日、学校がある。顔を洗って朝食を頂く前に狼の様子を見てみるかと、朝の習慣である布団を畳みながら今日の予定を考える。事務所からの連絡は入ってきていないし、自室のパソコンにも何の通知も来ていないので何事もなかったようだ。エマからの連絡も、まだない。九郎は少し不安になった。エマはその職業柄、事前事後連絡を欠かさない。先日見たときも顔色が悪かったし、具合がよくないのだろうか。
     考えごとをしながら九郎が廊下に出ると、狼の部屋から小さな物音がした。
     どうやら起きているようだ。

    「狼、おはよう」
    「おはようございます。九郎様」

     入って大丈夫か? と障子越しに声をかける。
     はい、と肯定が返ってきたが、一拍ほど間があった。しまった、まだ着替えているのかと思い当たって、先に顔を洗ってくるから朝食を一緒に食べよう、と伝えてその場を離れた。狼の承諾が聞こえてきた。

    「…………はあ」

     ああ、やってしまった。九郎は足早に廊下を歩きながら後悔した。
     狼は生まれつき、左腕が肘の先から無い。そのため義手をつけている。だから、朝の準備には人より時間がかかるのだ。普段は長袖で隠しているから、隻腕だということを知っている人間は少ない。九郎もその姿を見たことは数える程度しかなかった。触れられたくないものだってあるのに、不躾だったと反省する。
     洗面所に行って歯を磨き、髪ゴムで髪を縛り、顔を洗う。狼は気を遣ったかもしれないな、と久しぶりの宿泊についはしゃいでしまったことを苦く思った。
     そうこうしているうちに、朝食ができつつある気配がしてきた。どんな心境でも腹は減るもので、漂ってきた味噌の良い香りに、腹がぐうと鳴いて主張した。
     気分を変えるようにやや乱雑に顔を拭いていると、ふと視線を感じた。
     鏡を見上げる。利発そうな顔立ちの少年がこちらを見返しているはずだった。
     そこに、映ってはならないものがいた。
     その周りだけがくすんだように暗い。
     …………人の形だけは留めている。

    「出ていけ。ここはお前の居てよい場所ではない」

     冷たい声はさっきまでの少年の様相とは変わっていた。
     鏡の中、九郎の背後。温度のない眼をしたものがいる。それは生気がなく、胴体には大きな縦長の穴があき、その傷口は爛れ、無数の虫が皮膚の上を這いまわっていた。

    「去るがいい」

     何かを言おうとしたのか、その口が開いたが、少年の声でその姿は掻き消えてしまった。
     九郎は洗顔で濡れた髪もそのままに、来た道を引き返した。
     トタタタタ、とよく磨かれた古い廊下を裸足で走り抜け、狼のいる客間の障子をその勢いのまま開いた。狼、と声をかけようとしたが喉から音が出なかった。九郎は見た。朝の空気にあまりに似つかわしくないものを。
     狼が振り返る。
     窓辺から射し込む、朝の光に照らされて、逆光になったシルエット。丁度髪を結ぶところだったのか、その両腕が上がっていた。

    「九郎様」

     狼は丁度寝巻の浴衣を脱いで、上半身を露わにしていた。義手を付け終わったのか、鍛えられた無駄のない肉体を義手から延びるハーネスが覆っている。
     その下の、皮膚に。九郎は続く言葉を忘れてしまう。

    「お、おかみ」

     その肌は、無数の、手形のようなもので青黒くくすんでいた。
     どうして。九郎は上げそうになった疑問をどうにか飲み込んだ。口を覆い、目を閉じる。何が原因かは決まっている。
     甘かった。後悔した。
     部屋からついてきたのか、それとも遭遇の夜に受けた霊障かはわからないが、すでに向こうは狼を認識している。狼はわかっていないだけだ。しかし、きょとんとこちらを見返してくる男の様子から、困ったことに狼にはその痕も見えていない。どう説明したものか、九郎は言葉を探す。

    「狼、最近、寝苦しかったとか、そういうことは……」
    「昨夜は寝付けませんでしたが……、あの家では明け方には眠っています。九郎様の言いつけ通り、昼間は事務所の上の階で」

     事務所の上は元の狼の居住フロアだ。最近は専ら仮眠室として使われている。

    「昨日は、何か見たか?」
    「いえ、体を休めようと目を瞑っていたので……」
    「そうか……」それ以上の追及を九郎はやめた。

     認識を、改めるべきかもしれない。
     思っている以上に厄介なものが棲みついているのではなかろうか。
     とにかくなんの手立てもなく、狼をあの部屋には戻すことはできない。
     九郎は狼の身体がすっかり冷えていることに気が付き、あわてて着替えを手伝った。狼は全力で遠慮したが、朝食に間に合わなくなるぞと言うと大人しくなった。
     服を先に纏わせて、狼が靴下を履いている間に髪を結ぼう! と九郎は背中に回った。青黒い痕跡に苦い思いになりながら、先ほど使った髪ゴムを使用する。これにも全力で遠慮されたが、二人の腹の虫が鳴いたので結局狼はお任せすることにした。

    「こうして髪を結うのは初めてだな」九郎はそこはかとなく嬉しそうだ。
    「は、そう、ですね……」狼の返事は緊張している。

     髪を結わせてしまっている……、と人生で経験したことがあるのかないのか、爪先を弄りながら非常に居心地の悪そうな狼を見るのは新鮮で、九郎としては少し楽しかった。
     九郎は、物心ついてすぐ狼に懐いた。
     狼の背中を追いかける癖そのままに、眠っている間以外は彼の側に居たがった。なぜ平田の聡明な子どもが、仏頂面の青年であった狼に懐いたのかは誰もわからない。九郎が自我に目覚めたころ狼は既に成人していた。遊び相手としては年齢も離れすぎている。
     あまりにも息子が懐くので、寂しがった両親はどうしてそんなに狼さんのことが好きなのかな? とちいさな九郎に聞いたことがある。
     幼い九郎はこう答えた。
     ——だって。

     だって、みんながほしがる。ずるい。
     おおかみは、くろうのものなのに。

     平田九郎。彼は、幼いころから、この世とそうでない世の住人が見える目を持っていた。
     狼の傍には絶えず暗がりがあり、そこからふとした隙に深い闇が手を伸ばそうとする。その様子をずっと見てきた。目が離せなかったのだ。昔から表情の少ない狼は、誤解されやすい外見をしていたが、その魂は奇妙に無垢だった。
     ひたむきに生きている。いっそ愚直だ。柔順な彼は優しさにも悪意に対しても誠実であり、鏡のように与えられたものをそれに見合う形で返そうとした。
     それは危うい在り方だ。
     およそ人がしていい生き方ではない。
     九郎は狼が暗がりに囚われそうになるたびに手を握り、彼が冷えるたびに温めた。そうすることしかできなかった。狼が、九郎の手を振り払う術を覚えないように。

     頭を撫でるように、高い位置で髪ゴムを結ぶ。撫で付け方の力が緩かったか、いつもより後れ毛とほつれた髪が出てしまったが、狼はそれで構わなかった。

    「頼むから……無茶をしてくれるなよ、狼……」

     どうか今宵も無事であるよう、九郎は祈りを込めて狼の髪を結った。

       閑 話   男の話

     浪々と歩いて、たどり着いた。
     気が付いたら、ここにいた。

     瞼を開けると、荒野が広がっていた。
     乾いた土と、岩があった。影にかろうじて生えた草は細く短く、すでに萎れており、この地の渇きの深さを表していた。
     男には、今立っている場所がどこかわからなかった。
     なぜここにいるのかもわからない。何も覚えていない。一面、土と岩だ。空は夜明けなのか夕闇なのか、朧げに周囲がわかる程度で、それがさらに境界線を曖昧にさせていた。
     荒野を進もうとして、気が付いた。素足だった。どこかで履物を失くしたらしい。
     見下ろした筋張った足は成人男性のもので、それが自分のものだということを知った。足は二本ある。腕も二本ある。傷ついたのか、手足や服はひどく汚れ、血に塗れていた。しかしそれも乾いているようだった。回そうとした首が妙に重く、ぐらぐらする。重心が左に傾いて、何をするにも難儀した。まっすぐ歩くのは難しそうだった。
     意識が奇妙にはっきりしない。微睡みの中にいるような、地面のないところを歩くような感覚だった。歩いていると思うのに、踏み出した一歩がそのまま奈落へ落ちていくような、ぞっとするような浮遊感がある。踏み出した足取りも奇妙にふわふわとしたものだった。
     何かを考えようとして、なぜそれを思ったのかをすぐに忘れる。それでいて、いつか遠くに押しやったはずの感情が頭を擡げては苦しんだ。
     そうだ。——苦しかった。
     わからないが、苦しい。
     覚えていなくて、苦しい。
     目をぎゅっと瞑ると、歩いていたはずなのにどこに行くのかわからなくなった。
     そもそも、自分がどうしてここにいるのかわからない。堂々巡りだ。始まりもしない思考に途方に暮れるが、暮れたことも忘れる。また歩き出して、忘れて、苦しかったということだけを覚えている。
     思考は常に曖昧で、時折たまらず目を閉じて、次に開いた時には景色が違っていた。
     ここにははじめ、何もなかった。
     土と岩。荒野だった。
     気がついたら人がいて、壁ができて、建物ができた。
     自分の姿を誰も認識しなかった。石壁と木の扉、瓦屋根、障子ではない窓。他人の暮らしを、その中にいながら遠巻きに見ていた。いつも意識があるわけでなく、次に目を開けると違う人間が住んでいたことも少なくなかった。
     あるとき、思い出したように声を出そうとして、出ないことがわかった。
     ——誰か。
     すぐ近くに人がいて、素通りしていく。
     それを掴もうとして、回らぬ首が邪魔をした。伸ばそうと思った腕は違う方向に傾く。なにもかもが思い通りにならなかったが、苛立ち、口惜しく思っても、すぐに意識は曖昧になった。ただ、歯がゆさを感じては、その都度忘れた。忘失の繰り返しによって鬱屈し、少しずつ澱んでいく。澱む前は何色をしていたのかも思い出せはしない。
     家は、ずいぶん長く建っていたが、あるとき目を開くと、木端微塵に壊されていた。
     一面が焼けていた。瓦礫で遮るものの少ない視界に、自分と同じように、留まっている者がいるのを知った。寄る辺のない者は皆同じ顔に見えた。きっと自分も同じ顔をしているのだろうと思った。
     隣人がこちらを見た。

     ——待っているのだ。そう言った。
     そうだ。自分も、何かを、待っていた。
     
     けれど、何を待っていたかはまでは、繋がらない。

     次に目を閉じたとき、また壁ができて、新しい家がたくさん建った。
     ふらふらと、歩ける限り歩いた。
     浮遊する意識は覚束ない。

     あるとき、見知らぬ他人と目が合った。
     あるとき、他人が怯えて逃げた。
     あるとき、それを追いかけた。
     あるとき、気が触れた。
     気付いてほしかった。教えてほしかった。
     何を待っているのか。
     何を忘れてしまったのか。
     浪々と歩いて、辿り着いた。
     入れ代わり立ち代わり、人が出ていく家を見つけた。 
     そこには既に十分な淀みがあり、出ることもできず目的もない、途方に暮れた住人がいた。
     住人はしばらく誰かを待っていたが、あるときを境に諦めた。住人は目を閉じて、しばらくすると消えた。残ったものは淀んでしまった居住地だけだった。
     家は幾度となく工事を繰り返し、死を覆い隠し、男はそこに留まることにした。
     淀みに生まれる暗闇は、少なくとも男の糧になった。

     あるとき、見知らぬ他人が部屋で死んだ。
     自ら首を掻き切った。しばらくもがき苦しみ、やがて動かなくなった。再び誰もいなくなり、静けさと淀んだ空間でぼんやりと意識を揺蕩わせていたが、しばらくして男の朽ちて久しい琴線に触れた。
     ——首。
     そうだ、首。
     二本の腕がある。二本の足がある。胴体がある。
     けれど、どこか。
     違和感に気付いていた。左に傾いて、思うようには動かない。それは、なぜだ?
     腕を自らの首に伸ばす。
     何かが思い出せそうだった。
     指先が、首に触れようとしたその時だった。

     ——ガチャン。キイ。無人の家に、音が響く。
     光の中から黒い影が延びる。暗闇が人の形をとったような、不思議なものを見た。

     とびきり若くも、年寄りでもない壮年の男が入ってきた。三十代くらいだろうか。働き盛りのみずみずしさと、疲れてくたびれたような、相反する雰囲気の男。味のある生気に混じり、花のような香りがした。
     見知らぬ他人だ、けれどどこか、気にかかる。
     重量感のある旅行バッグを携えて、部屋の中に入ってくる。
     男には、壮年のことが不可思議なほど良く見えた。男の体自体が薄い靄のようなもので発光しているとすら感じた。特に左腕がずいぶんはっきりと認識できる。
     かすかに水と、どこかで嗅いだような花の香。多分春の花だった。眩しさを覚えて、少し離れた。
     何故かはわからない。
     けれど、男は、まだ目を閉じないままでいよう、と思った。

       邂 逅

     八日目、夜。
     九郎の登校を見送った狼は、平田の家から一度本来の自宅に戻った。といっても、事務所のすぐ上の階だ。着替えと仕事道具を取り、一眠りして、夕方になる前に事務所で待つことにした。手土産に持たされたおはぎを出して「九郎様のおはぎ!」と喜ぶ事務員たちと分けて食べたが、妙に胸のあたりがつっかえて、あまり喉を通らなかった。
     鋭い日差しが徐々に和らぎ、時計の針は十六時を回った。
     白い日傘を差したエマを連れ立って、九郎は事務所へ到着した。
     聞けば、やはり体調を崩して寝込んでいたそうだ。季節の変わり目を感じますねと言う女の顔色は、携えた傘に負けず白いものだった。

    「如何でしたか。九郎様から、お聞きはしておりますが……」

     ソファに座ってもらい、落ち着いたころに録画した映像をそれぞれ見せる。
     エマは、難しいものを見たように小さく唸るだけだった。

    「正直な話、私にははっきり判断できかねます……、けれど、いるのですね。やはり」
    「俺はもう少し調査を続けたいと考えるが、意向を確認したい」

     エマはゆっくりと頷く。狼殿が良いのなら、と。
     いくつかの提示された条件を飲み、九郎も慎重に首を縦に振った。危険があれば、すぐに退く。その判断は現場の狼の自己判断とするが、サポートは惜しまない。今後の方針が決まったことで、狼は部屋に戻る準備をした。九郎はマンションに向かう狼に、効くかは分からないがお守りを持って行ってほしいと言われた。エマが所持しているようだ。あらかじめ決められていたようなやり取りだった。

    「社長からお借りしてきました。どうぞ」

     すっ、と何気なくエマのバッグから出てきたのは、布に包まれた全長三十センチほどの短刀が収まった木箱だった。狼は目を丸くした。社長、本当に一体何者なのだ。当然ながら銃刀法違反に当たる。
     此処は現代日本だぞ。狼の無言の拒否に、エマは今日初めて微笑を浮かべた。

    「模造刀ですよ」

     本当か? と疑いながら、狼は九郎に願われるまま、渋々刀を受け取った。守り刀というらしい。マンションにつく前に厄介な事態にならないよう、厳重に梱包して紙袋の底に隠した。

    「ところで狼殿、今日の御髪は九郎様が?」
    「そうだが、なぜだ」
    「よくお似合いでいらっしゃるので」

     話が見えずに訝しむ狼に、九郎はあわててエマを呼んだ。おや、と口元に手を当てるエマの様子に、狼は解れがちの前髪を後ろに撫でつけ、ふと頭に何か硬い部品がついていることに気が付いた。指で触ると、丸っこく、尖っている部分がある。

    「九郎様、これは……」
    「に、似合うかと。思ってだな」

     九郎は、視線を泳がせながら、小さく。おおかみの髪ゴムだ。と白状した。
     後ろのほうで、ふは、と誰かが笑った。スタッフたちがいつ言おうか迷ってた、とくすくすと仄めかし合い、事務所で小さく笑いが起きた。狼は今の今まで、名前を付けて歩いていたような気恥ずかしさに襲われたが、胸に暖かなものを確かに感じて「そうですか」とだけ頷いた。
     狼の大事なものがまたひとつ増えたのは秘密だ。

     ◇

     夕暮れは日増しに早くなり、雨が降りきらない、湿気を纏った闇が迫っていた。
     執拗な酷暑を乗り越えた身には少し堪えて、やや薄ら寒さを感じるほどだ。
     一日ぶりにマンションに戻った狼は、鍵を開け、内側から閉じ、靴を脱いだ。慣れた動作で電気のスイッチをオンにすると、明かりが点かなかった。何度かカチカチと繰り返すが、反応はない。
     遅れて電球が不気味に明滅し、パッ、と消える。
     何とも形容しがたい、厭な感覚に肌がぞわりとする。
     …………いる。
     玄関から外に戻ろうとしたが、自分でかけたはずの内鍵がびくともせず、回らない。
     空気がやけに重く、ひんやりとした威圧感をリビングから感じる。
     まずい。
     危険を察した狼は、気が付かなかった振りをして浴室へ続く扉を開ける。洗面所と浴室の電気はついたので、知らず安堵の息が漏れた。鏡を見ず、俯きがちに、直視しないよう手を洗った。何事もない。考えすぎかもしれない。しかし、またどうして。理由がわからないが、そもそも亡霊のすることなど理不尽なものだ。刺激しないように過ごすことを考える。
     洗面台を背もたれに座り込み、携帯端末をポケットから出す。
     狼は、自分の手がひどく冷たく悴んでいることに気が付いた。

     ◆

     男は、昨晩から同じ場所に立っていた。
     生者と亡者は、流れる時間が異なる。人の時間が線であるなら、彼らは点から点へ浮遊していた。足跡は地続きではない。思い出したように現れるのも、亡霊のほうからしても唐突なのかもしれない。
     時々足が地について、お互いに目が合えば面食らう。街角で人とぶつかる、事故のようなものだ。
     同じ夜が続いていると思い込んでいたが、見たところ別の日であるらしい。ぼんやりとしていた意識が、壮年の帰宅で少しずつ明瞭になっていく。今が何月で、何日なのか、それは男にとって詮無い、いわば些事だ。
     重要なのは、新しい他人である、現在の居住者が、一晩あまり不在だったらしいこと。
     そして、花と水の匂いを纏っている。
     波のない水面に、石が唐突に投げ込まれるような感情の揺れが生まれる。どうしても受動的である彼らは、生者の動きに良くも悪くも敏感だった。
     たった一晩、居なかった。ただそれだけで、わずかに取り戻せた自我が薄まったような気になる。何かを忘れても、わからない。振出しに戻るようだった。
     ただ、ふつふつと、泥濘から浮かび上がるように。
     ——静謐をたたえていた水面は、ゆっくりと盛り上がった。

     ◇

     いつまでも洗面所に籠城するわけにもいかない。狼は、覚悟を決めて立ち上がった。
     エマから預かった木箱の入った紙袋を携えて、部屋に戻る。変わらず、空気はひんやりとしている。窓は開けていないのに、冷たい空気が吹いてくる。気圧がここだけ違うようだった。耳鳴りがする。
     照明のスイッチを押したところ、呆気なく点いた。
     リビングを見る。なにもいない。けれど冷気に鳥肌が立つ。着ていたパーカーを自然に掻き合わせ、肌を極力さらさないよう整えると、狼は常のようにノートパソコンを開こうと定位置へ近づいた。

     ◆

     湧きあがった感情の名前は知らない。
     壮年が越してきてからは、男の意識はわずかに明るくなっていた。
     くらやみの中で、夜明けの星を見るような。一等明るい箒星を見上げるような、一瞬を継続する光。遠い夜明け。月と炎。血と刀。
     何かを思い出せそうで、肝心な部分を取り出せない。
     わからないまま漂泊していた。
     背中を向けた左腕に焦点が合うが、近寄れない。どこかから帰宅した壮年の身体は、靄が濃い。
     花の強い香りと、どこかで知っている水の匂いがかすかにする。
     何かを持っているが、よく見えない。
     一歩、踏み出してみる。香りがいっそう強くなる。何処かで知っている花。それはまるで壮年を守っているようだった。思えばこの男はいつも長袖を着ている。季節は夏でなかったか。もう過ぎたのだろうか。
     さらに一歩踏み出すが、これ以上は近づけそうになかった。仕方なく立ち尽くす。手の届く距離ではない。
     壮年の視線は端末の斜め下あたりに固定されている。そこに、反射する鏡の役割があることに気づいた。直視をせず、しかし必ず視界に入っている。何かを警戒するような動き。
     男はやっと気が付いた。
     壮年の首筋に、鳥肌が浮いているのを。
     急に視界が晴れた。確信に変わる。
     ──この男。「俺」が視えている。

    「見えるのか」

     それは、放浪する宇宙船から、彼方に声を届けるようなものだろうか。
     声を出せた喜びはなかった。届いたのか届いていないのか、ひとつも分からない。
     何もかもがありえないことだった。
     声も出たのかはわからないが、伝わったと確信した。産毛が逆立っている。鳥肌は消えていない。やっと見つけた。
     ——やっと、見つけた。

    「俺が、見えるのか」

     湧きあがった泥濘から溢れたものは、歓喜だったか。
     内側から何かが爆ぜたようだった。
     どうだってよかった。興味がない。
     壮年はこちらを見ない。頑なに動かない。
     いつまでも知らないふりを続けている。

    「こちらを向け」

     壮年は石のように動かない。男は目を閉じるのをそれきりやめた。
     九月の中旬に差し掛かろうかという時だった。
     冷たく湿る空気で満たされる、閑寂の季節の始まり。
     短くも長い二人の累夜は、こうして重なった。


       生 活

     夜の訪れが駆け足で迫る。
     黄昏時を超えると一気に気温が下がった。寒暖差が日々を追うごとに激しくなり、湿った夜風が吹いている。
     十月になった。そろそろ厚手の上着を出すべきかもしれない、とパーカーを着た男は前ポケットに手を突っ込んで歩いた。葉が落ち始めた街路樹が並ぶ整備された歩道を進み、煌々と光るマンションのエントランスに入る。エレベーターが最上階で止まっており、降りてくるのを待つのも怠く、階段を使って突き当たり奥の部屋の前で鍵を取り出す。
     狼は変わらずあの部屋で暮らしている。

     今日も同じように内鍵をかけ、スニーカーを脱いで、向きを整える。
     丸まった無防備な背中に、何か細いものが飛んできた。
     ぺそっ、と軽い衝撃が腰のあたりに伝わって落ちる。
     振り返って拾い上げると、個包装された割り箸だった。記憶を遡ると、コンビニで弁当を購入した際に貰ったが、使用しなかった為にシンクの隅に置いたまま出掛けたような気がする。
     部屋に上がれば、ぴかぴかのフローリングに点々と何かが落ちていた。電気をつけて確認する。使い捨てのおしぼり。小さなパック辛子。同様の酢醤油。コンビニで弁当と一緒に何を買ったのか丸わかりだ。世間は食欲の秋と言うが、夏の寝苦しさや茹だる熱波が緩やかになっていくにつれて、疲れて低迷しがちだったあらゆる欲求が徐々に正常に戻り始めただけではなかろうか。狼はいたって健康で、夏バテや暑気あたりとは無縁だったけれども。誘惑に負けて寒い日に食べる中華まんは美味い。
     童話に出てくるパンくずの如く、拾い上げてはゴミ袋にまとめる。一連の作業も、もう習慣になりつつあった。
     ——その様子を、声もなく追いかけるものがいた。
     片付いたかと思って狼が視線を上げると、室内に干してあったはずの、靴下の片割れが憐れに横たわっていた。もう片方は何処へ、と行方を探せば電気の消えた和室の手前に落ちている。
     拾いあげようとすると、突然暗闇から腕を掴まれた。

    「…………」

     それは大きな男の手だった。
     土気色で、青ざめた指。力が強く、引きずりこまれそうになる。
     持っていたものを瞬時に放り出した狼は、もう片方の腕を床につくと体を捻り、勢いよく前方に足を繰り出した。鞭のごとく鋭い蹴りが突き出され、腕がぱっと逃げていく。
     すと、と受身を取って体勢を整える。ついでに靴下を回収した。何事もなかったように、再び散らかった物を再度拾い上げ、袋を縛ってゴミ箱に放り込む。足音少なく和室から遠ざかる狼の背中を、やはり何かがひたひたと追いかけていた。

    「…………」

     所謂ポルターガイストならば、馴染み深い品を壊されたり、本棚や戸棚の中身が派手に散乱しているのがセオリーだろうが、如何せんこの部屋には全くといっていいほど物が無かった。備え付けのカウンターキッチン、作業用の回転スツール、仕事用のノートパソコン。それから部屋干しされた着替えと、和室に置いてある布団一式くらいか。寝起きするのに最低限の食器、最低限の生活用品。引越して来て数日ならまだしも、狼は居を構えてそろそろ一ヶ月になるというのに、風景は入居当初とあまり変化がない。
     変わったのは、名もなき同居人のほうだ。
     今も暗闇から、何かを訴えるようにしてこちらに体を向けている。しかし意思の疎通はできない。狼がすべて無視しているせいだ。少しばかり寂しそうではあるかもしれない。
     狼は追いかけてくるものを置いて浴室の扉を開けた。身体が冷えたので風呂に入りたかった。その間も、ひた、ひたと足音がする。ずっとついて回るのだ。健気であるかもしれないが、狼としては遠慮してほしいばかりだった。
     部屋に憑いた男の正体は、依然として不明である。狼は全体像を把握していない。いまだ直視したことがないのだ。亡霊であるくせに物を掴んだり、触れてきたりすることはあるが、常ではない。一夜のうちに、一度あるかない程度だ。最近は頻繁かもしれない。その悉くを振り払っているので分からないが、一度拒否するとそのあとは大抵何もしてこない、大人しい男だった——今のところは。
     ひた。
     足音が止まり、背中に無言の圧を感じる。
     狼は浴室の掃除をしながらそれに耐えた。扉は開けてはいるが、トイレや浴室には入ってこない。一月近く暮らして分かったが、水周りとガス火の近くでは悪さをしないようだった。あちらにも守るべき道理があるのかもしれない。死人に理とは、妙な話だ。
     風呂釜がぴかぴかになるほど磨き、時間をかけて洗い流す。勢いよく湯を貯めはじめる音が響く。蛇口の反射で背後を見ると、姿は消えていた。
     それを確認して狼は室内に干していたタオルと着替えをハンガーから引き抜き、無造作に台に置く。廊下につながる扉を閉めると、かり、かり、と高い位置で戸をひっかく音がした。これにも慣れたので無視する。
     かり、かり。かりかり。なんとも寂しそうな音だ。猫か何かが爪を立てるようにも思えたが、同情は禁物である。

     幽霊との暮らしは快適とは言い難い。
     シャツを脱ぎながら、狼は溜息を吐いた。

     ◇

     風呂に入って温まる時間だけが、この家で過ごしていて安堵を得られる短い安息の時だった。
     狼は自らの冷えた手足を温めるため、手桶に両足を突っ込んで体を洗った。この部屋にいるとよく冷える。昔から奇妙なものが近くにいると体が悴むことが多かったが、九郎と過ごし始めてからはその頻度は減っていた。
     泡立ちばかりいいシャンプーでわしわしと頭を洗う。。髪がもつれなければいい、という欲のない狼が適当に選んだ、ドラッグストアでどこにでも売っているものだ。
     そういえば平田で風呂を借りると、山の反対側に温泉があるせいか、当主の趣味なのか、やたらと設備が充実していて気後れしてしまうことを思い出した。檜のいい香りのする脱衣所、広々とした風呂、高級そうな共用アメニティ、離れには露天風呂まであると聞く。狼は不特定多数の人間に腕を見られたくないので、温泉というものに立ち寄ったことがないが、よいものだと聞いている。主に九郎から。しかしこのマンションの風呂だって足が悠々と伸ばせるし、外に行かずともいいのではと色気のないことを考えてしまうのだった。
     ざあ、と頭から湯を被って泡を流す。足を突っ込んでいる湯桶がぬるくなってきた。湯を足してじんわりと末端の血管が開いていくのを待つ。足の指をこまめに動かし、血流を促進しながら体を洗う。
     義手を外している狼は風呂が長い。慣れたものなので一通り滞りなく行えるが、右腕のあたりなどは工夫が必要になる。足の間に挟んだタオルで扱くように腕を洗っていると、不意に足を入れている桶を滑らせてしまった。泡立ちがいいのも考え物である。ガタ、ガタンッ、と激しい物音を立ててしまい、狼は自分が立てた音に驚いた。体勢を整え、飛び散った泡を洗い流していると水音に紛れて音がした。
     …………かり。
     かり、かり。何か言いたげな引っ掻き方だ。音に驚いたのは向こうもなのかもしれない。
     一瞬ぎくりとしたが、そのまま体を洗い流す。ざばざばと豪快に湯を被って、風呂の中に身を沈める。少し熱いが丁度好い温度だ。血管が開いて血圧が下がり、ほうっとする。
     はー、と長い溜息を吐き出して右腕で顔を覆い、ずるずると頭を壁につけて脱力してしまう。
     長い髪が湯の中で泳いでいる。
     耳を澄ますが、外からの音は消えていた。
     狼は瞼を閉じて、肩まで湯の中に浸かる。あたたかくて安心する。頭を縁に預けて、ついそのままうとうととしてしまった。何かいい夢が見られそうな、そんな眠気に誘われた、その時だ。

     ——ドンッ、風呂場の戸を叩かれたような気がして意識が覚醒する。
     
    「う……」

     数分だが、完全に気絶していた。非常に気持ちのいい、ゆるやかに墜落するような感覚だった。
     狼は首を振り、くわ、と欠伸をする。湯舟から上がって髪の水気を絞り、脱衣所からタオルを引き寄せて体を拭いた。湯気で不明瞭に曇った鏡を見れば、全体的に筋肉質だが片方の腕が半端に細く、肘先から先のない、それこそ亡霊のような男が立っている。汗に交じって水滴が体毛を伝って滑り落ちていった。
     乱雑に頭を拭いてタオルを首にかけると、全裸のまま歯を磨いた。水滴が滴りバスマットを湿らせていく。泡のついた口で歯ブラシを咥えたまま下着を履き、スウェットを腰まで持ち上げる。どうにも今夜は眠い。口の中の泡を吐き出して濯ぐと、ちょうど汗も引いてきた。端末を覗きこめば、深夜三時を回ったあたりだった。早めに寝てしまおう。
     ドライヤーの熱風を浴びながら狼はふと思い出す。
     そういえば誰かに起こされたような気がする。

     返事をするように、壁が小さく引っ掛かれた。

       虫 螻

     金曜、夕方十七時。
     黄金色に染まったうろこ雲が、波間のように空を漂っている。
     平田探偵事務所は今日もほどほどに忙しかった。
     学校終わりの九郎と他のスタッフたちが声を掛け合っている。

    「皆、お疲れ様」
    「お疲れ様でーす」
    「狼、調子はどうだ?」
    「特に、変わりはなく。昨日は腕を掴まれましたが、それだけでした」
    「えっ、薄井さんついに腕つかまれてたんですか……突然アクロバティックな動きしてると思ったら。こっわ……平然としとる……こわ……」
    「うむ……、どうも緊張感に欠けてしまうが、気を抜かぬようにな……」

     日々映像を確認するスタッフの震える声に九郎は苦笑を返した。
     狼は毎日の報告、連絡、相談を欠かさずに出社している。時々、やや顔色が悪い日がありはしたが、事務所で一眠りするとおおむね回復した。昼夜逆転の生活はいまだ続行中だ。

     調査を始めてから、ひと月。
     状況に進展がなければ気も抜けるというもの。
     エマから渡された短刀も今のところ出番がなく、狼が防衛のために繰り出す肉体言語対応だけで亡霊は大人しくしている。当初は出ていかせる、という意向だったはずだが、ここ数週間でだんだんエマの顔色が良くなっているのに狼たちは気が付いた。
     明かされないままだが依頼人が抱える問題は解決しつつあるのかもしれない。
     この間など、あの柔和な微笑を浮かべながら、

    「狼殿、本当にあのマンションにお住みになりませんか?」
    「ことわる」
    「残念です……」

     などと本気か冗談かわからないことを言ってくる始末だった。元気であるならばいいが冗談でも心臓に悪い。
     事務所としては頭が痛かった。いくら積まれた金額が金額だとしても。副所長と言いながら実質トップにいる九郎には悩ましい話だ。狼が夜通しマンションの亡霊へ牽制をかけている間、他の依頼が進まないのである。

    「やっぱり実地調査担当が昼間しか動けないのきついですよ、九郎様ぁ~」
    「そうだな……、いくら皆が優秀でも、現場に行ける人間は限られているしな」

     要するに人手不足なのだった。一か月の間、事務所は平常通り営業している。
     調査は基本的にチームで動く。ほかの住民たちから不定期、飛び入りで寄せられる、他愛なくも深刻な依頼を片付ける仕事が捌けていない。うちのミイちゃんがいなくなっちゃったとか、うちのバアさんが徘徊から戻ってこないとか、私の妻が浮気をしているかもしれないんですグスッ、とか。そういった人の疑心暗鬼、捜索依頼は不思議と絶えることがないのだった。
     九郎はふうむと唸って、やわらかな顎を擦った。

    「やはり、変な話だと思う。正体のひとつも突き止められない我々も悪いのだが、実際に憑いていることまでは確認できているわけであるし……、これ以上泊まり込みを続ける意味があるのかどうか。その間の経費諸々も支払ってもらっているしだな。それに、出ていかせるといっても祓い清めるまではできないぞ」

     九郎の言葉に狼も頷く。義手の、手首の上あたりを摩りながら呟いた。昨夜の腕の力強さを思い出したのだ。

    「あの男、日に日に力が増している気がするのですが」
    「狼、間違っても無理をするなよ。いいか、相手にするものではないぞ。あとその報告もう少し早く聞きたかったかな!」

     九郎が人知れず頭を抱えたが、狼には深刻さが通じなかった。
     昨晩掴まれた腕は義手のほうだったので、痣ができたりはしていない。しかし、前は触れるどころか、一定の距離を保ち、ぼんやりと部屋の隅に立っているだけだったのに、最近は寄り添うように立っていたこともある。
     狼も慣れたものなので、決して直視しないようにはしているが、あの手この手で自分の姿を見せようとしてくるのは困りものだった。
     ある時など、夜明けと共に男の姿が見えなくなったのを見計らって狼が布団を捲った瞬間、中から手招く腕が出てきた。さすがに驚いて布団ごと蹴り飛ばしてしまった。
     向こうのやることが認識させようとむきになっているというよりも、おちょくってくる方向になってきた。内心腹立たしい狼を見て喜んでいる可能性がある。
     風呂場やトイレにまではついてこないが、その手前で出待ちをしていることも増えてきた。物を落として暗がりへ誘導されたのは昨晩やられた通りである。
     ——確かにそろそろ危ういかもしれない。
     ふー、と重いため息が事務所中で漏れてしまう。九郎は両手を握りしめながら、お守りの効果が薄れてきたのかもしれないな、とつぶやく。
     お守り。……お守り? あの髪ゴムだろうか。オオカミの顔のついた髪ゴムは、九郎が直々に結んだものだった。さすがに毎日あれで髪を結ぶわけにはいかない。なので携帯のストラップ代わりに着けていたのだが。
     狼が不思議そうにしていると、九郎が照れの混じった苦笑いを浮かべた。

    「ああいや、あれはまあ、祈りはしっかり込めたが、本当にただの髪飾りだ。エマ殿の守り刀のほうだな」
    「刀ですか。持ち歩くには憚られるため、今日は……」
    「そうだな……」

     エマは模造刀と言い張っているが、ずっしり重い。狼は中身を改めてはいないが真剣なのではと思っている。
    「いざという時、抜いてください」との言付けだったのだが、いざという時というのは一体どんな時なのだ。命の危険を感じるときか?
     狼が眉間に皺を寄せていると、九郎が狼よ、と声をかけた。

    「明日にでもうちに持ってきてもらえないか。そろそろ清めたほうがいいだろうと思ってな。夜は泊まって行ってはどうだろう?」

     九郎の言葉に頷こうとして、狼は何故か躊躇を覚えた。過ったのは部屋の男のことだ。
     前に一度、平田に泊まって帰ったとき、様子がおかしかった。
     あれからだ。妙に付き纏われているのは。

    「夜に戻らぬと、不安定になるようでして……」
    「そうか。では、なるべく早く終わらせる」
    「はい」

     九郎の帰宅時間まで溜まった仕事を黙々と片付け、平田へ向かうバスへ乗るのを見送って狼は家路についた。

     ◇

     その夜、狼はやはりちょっかいをかけてくる亡霊をいなしながら夜を過ごした。

    「…………」

     ノートパソコンから、和やかな音楽が流れている。
     狼は広告動画を垂れ流しにしていた。秋の夜長、マンションでできる書面仕事を終えてしまうと一気に手持ち無沙汰になった。流れてきた可愛らしい動物動画を一度好奇心でクリックしたら、おすすめ動画のループから永遠に抜けられなくなってしまった。
     そんな気の緩んだ時だった。
     音もなく、傍に男が立っていた。
     全く気が付かなかった。
     狼の心臓は一度大きく跳ねたが、平静を装って次の動画をクリックした。横では無言の男がおそらく見下ろしている。
     不意に、義手に違和感を感じた。指先で触れられている。昨日掴まれた手首の上辺りだ。
     なぜか男は左腕に執着した。事あるごとに義手に触れようとしてくるのを知っている。明け方に布団に入っても気配をかすかに感じることはあり、こちらを見ているのは抗えない眠気の中でも気づいていた。
     無理に掴むのはやめたのか、今日はそっとした動きだ。
     乱暴な扱いをしないならと狼が無視していれば、土気色の指がいつの間にか腕ではなく手まで伸びていた。血の色を喪った、死人の手。何度見ても慣れないそれが、温度のない手の上に重ねられている。男の指先がゆっくりと、義手の掌の上を這うような動きを見せた。狼は反応を返さないよう努めて画面を見つめる。ふわふわした生き物を永遠に写しているだけの、心安らぐはずの動画はまったく頭に入ってこない。
     無反応に焦れたのか、動きはエスカレートしていく。とうとう指の間を上から絡めるように握りこまれた。
     人の手を模した、血の通っていない義手なのに、生身に触れられたように感じた。電気が走ったような衝撃があり、ぞわっと全身に鳥肌が立った。
     席を立ち、振りきって浴室に逃げ込む。今のところ侵入されたことはない、少ない安全地帯だ。視線が追いかけてくるような気配を感じてピシャリと閉めた。いつもの引っ掻く音はない。追ってくるつもりはないらしい。
     狼は混乱した。心臓がばくばくと跳ね、形容できない締め付けるような痛みを感じた。
     まさか。相手は亡霊だ。そんなまさか。馬鹿な妄想だ。でも。いやしかし。何がどうなって。あの触り方、いや、いやいやいや。
     あんな、まるで、誘うような。
     恋い焦がれるような、触れ方を。
     狼は一睡もできなかった。
     結局その夜は浴室で丸まって一晩を明かした。

     ◇

     翌日の早朝、狼は始発のバスで平田に向かった。言われていたエマの守り刀を厳重に隠して。
     結局浴室で朝を迎えたため、顔色がよくない狼を心配して、起きたばかりの九郎が痛ましそうに問いかけた。

    「狼、具合が悪そうだな。また掴まれたのか?」
    「は……。……少し、わからぬことが……」

     訥々と明かされる昨日の夜の出来事に、九郎の反応はだんだん鈍くなっていく。

    「手を……握、られた……?」
    「はい」
    「手を? えっと。手、とは……手か?」
    「……はい……、義手ですが……」
    「うん……な、なんだろう、な? はは……うん……」

     ——手を握られました。こう、上から、指の間を絡めるように。
     再現されたなんとも艶のある指先の様子に、九郎は「もし万が一、貞操の危機を感じることがあればすぐ知らせろ」と言うべきかものすごく迷って、ためらい、悩みぬいた。最終的に、狼の矜持を慮ってそうかとだけ言うに留めた。忠告しておいたほうが良かっただろうかとすぐに後悔した。
     指を相手の手のひらに置くのは愛を乞う誘いだと聞いたことがある。誘いを受けたら、握り返す習わしだとも。乗らなくて本当に良かった。
     物言わぬ男の指先が、愛してくれとでも言っているのか。
     まさかとは思うが恋慕や劣情を抱かれているのか? などと、どうして聞けようか。だってあの狼だぞ。あの、狼、だぞ!
     九郎がこれから行う禊ぎにも熱が入るのも仕方がない。眠っていないと狼が言うので、地元の神主のところへ行く間、ひとまず客室で横になってもらった。終わったら起こすからと伝えて寝かしつけると、遠慮していた狼も疲労がたまっていたのか、目を閉じるや否や気絶するように眠りについた。

     ◇

     ——何かが、体を締めている。
     息苦しい、というよりはもぞもぞとこそばゆく、不快だ。手足に虫が這うような気色の悪さがあり、狼は目を開けた。目を開けたと思った。
     なにも見えない。
     一面、暗闇だった。夢なのか、と察して手足を見る。何もいないと少しだけ安堵する。
     ふと、違和感に気づいた。暗闇から浮かび上がった義手はいつもの慣れ親しんだものではない。骨を模し、物騒な形状をしている。どういう作りなのか、生まれ持った指のように細かく動かせた。狼には、生涯味わえないと思っていた感覚だ。着ているものも随分と奇妙だった。時代錯誤で、しかし不思議と重さを感じない。
     ひどく暗い。宵なのか、光のない室内なのか判別がつかない。
     どうしたものかと途方に暮れていると、いつからいたのか。暗闇に男が立っている。
     何か言っている。
     狼は聞き取れなかった。近づいてみる。朧気に見えるのは、襤褸そのものの服装だ。上は肌蹴て、青白い。……縦長の大きな傷跡がある。ひどく老いて、肌には大小さまざまな虫が這っている。鼻孔や口の端にも虫が出入りしている。濁った目がこちらを捉えている。
     狼は怯んだ。眉を寄せて距離をとる。
     男が言う。掠れて不明瞭な声だ。口からざわりと羽虫が飛んできた。狼は来た道を走った。振り返らずに逃げた。
     背中に濁った声が投げかけられる。

    「竜胤の御子の忍び。お前が不死を断った。死なず我らは生きるはずだった」
    「永劫生きるはずだった。なぜ殺した。口惜しい、恨めしい、未だ御子に守られるお前が」
    「我らは……」

     呪いの言葉はいつまでも耳に残り、わけもわからぬ狼の鼓膜を苛んだ。
     幼い頃、狼はああいった自分に害をもたらす存在を知覚して生きてきた。
     暗がりの中で手招くものを見ることができても、どうすることもできない。
     九郎が側に居ればいるほど、光に照らされて影は大きく伸びていった。
     それでも側に居たかった。
     九郎が狼を縛っているのではない。
     狼が、九郎の傍を離れたくないのだ。あの指切りをした日からずっと。

     飛ぶように駆ける足をなにかが遮る。狼は躓いてしまった。受身を取り、すぐに立ち上がる。視界に入ったソレは、人の背丈ほどもある百足だった。
     その先で男が立っている。走って逃げたはずなのになぜ目の前にいるのか狼には理解が及ばない。
     歪んだ笑みを浮かべた唇が哮るような音を出した。
     蟲の鳴き声だ。それに交じって声がした。

    「お前のくらやみをおくれ」

     男が皺と蟲だらけの指を伸ばす。

     ◇

     呼ばれた気がして、狼は目を覚ました。

    「……っ!」

     気味の悪い夢を見た気がするが、内容は覚えていない。心臓が締め付けられるように痛む。ここのところよくある現象だった。
     ガラガラと玄関の引き戸を動かす音と、九郎の帰宅を迎える声がしている。
     気づけば全身にじっとりと嫌な汗をかいていた。
     顔を拭って九郎の出迎えに玄関まで行くと、午後の明るい日差しを背にした九郎が狼を見て微笑んだ。神社の香だろうか、榊の葉のような残り香がする。

    「待たせたな、狼。刀を返し……」

     続く言葉が止まり、九郎が顔色を変えて駆け寄ってきた。

    「それはどうした……?」
    「? どうかされましたか」

     起き抜けの狼の姿に、得体のしれないものを見つけた。
     狼の首に、見慣れぬ青黒い痕がある。手形のようなそれは、以前にも見かけたものだ。生身の手を取り、袖をまくり上げるとそこにも夥しく痕があった。
     こんな締め跡は朝までなかった。手だけでこれならば、全身はどうなっているのだ。

    「この痕……あの家の、者では、ないのか」

     這った跡のような、黒々としたしるしは何だ。
     もしや途方もない思い違いをしていたのでは、と九郎は項が総毛立った。

    「道中で何か見たか? 痛みはないのか?」
    「私、には何も……見えませんが……」

     普段冷静な九郎の狼狽ぶりに、狼まで不安な声になる。
     自分がしっかりしなくてはいけない、と九郎は狼の手をぎゅっと握った。九郎からすれば大きな手は、ひどく冷たい。狼が冷えたときはいつも決まって暗がりから何かが手を伸ばした時だ。九郎は数週間前に見た蟲を纏った男を思い出す。
     迂闊だった。この屋敷にこそ狼を害すものがいたのか。あの部屋の者よりも、随分悪質だ。九郎はすぐに事務所に戻ろう、と告げて刀を入れた木箱を掴み、荷物を取ると家を出た。

    「九郎様、そう慌てずとも」
    「狼、わたしは間違っていた。此処にいるべきではない。今だけでも」

     先を行く九郎は狼の手を握ったまま、石畳の坂道を足早に歩く。
     長閑なバスに乗り込み、事務所についても九郎はその手を離さなかった。

    「うまく説明できないが、今はあの部屋にいてくれ。今夜は外に出るな。嫌な予感がする」
    「……わかりました」
    「わたしはエマ殿に連絡を取る。後ほど二人でマンションに行くから、それまでは誰も入れてはならぬ」
    「はい」
    「約束だぞ、狼」

     不意に、夜祭のことを狼は思い出した。どうにも立場が逆になってしまったな、と狼が口にする間もなく、小さな頭が狼の額に触れた。触れた額がじんわりと温かい。間近な九郎の瞳が、不安に潤んできらめいている。その美しさは、雲の合間から覗く、まばゆい星のよう。
     一番星のようだ、と狼は静かな胸を熱くする。

    「向こうにいっては、だめだからな」

     それは、まさしく祈りだった。
     小さなころからずっと累ねてきた、二人だけの約束。違えてはならないこと。
     狼は昔と変わらない肯定を返し、九郎はどうにか微笑んだ。

     ◇

     事務所からマンションへ向かって歩いている間、急に風が出てきた。まだ夕方だというのにひどく暗い。湿気が重くまとわりつき、嵐が来るような空模様だ。
     厚い雲が覆い、不穏な空気が流れている。夕暮れで空全体が禍々しい色に染まっていく。逢魔が時とはこういう光景を言うのだろうか。
     道中で喉が渇いて、途中の自販機で水を買った。喉を通ったあと、焼けるように胃が痛んだ。冷たい水で胃が驚いたのか、そういえば今日は何も口にしていない。身体がだるい理由に思い当たった。
     刀が入った袋を持つ手まで奇妙に痛み、手放したい気持ちにかられたが、狼は鉄の意志で刀とともに帰路についた。
     烏も虫の鳴き声もしない街路をなんとか歩き、エントランスを通る。エレベーターに乗って短い昇降の時間を耐え、憔悴した狼が部屋の鍵を開けると、男が窓際に立っているのが視界の端で確認できた。
     開けたカーテンから見える夕闇は濃く、周囲は暗いが、まだ夜にはなっていない。
     今日は随分と早い。相手をしている余力がなく、無視しようとして、足がぴくりとも動かなくなった。

    「…………っ」

     いつもと、様子が違う。
     静かな、それでいて確かな——憤り、だろうか。ピリピリとした、刺すような空気を感じた。
     スイッチに触れてもいない電灯が明度を急速に上げ、かと思えば明滅を激しく繰り返し、フッと消える。かと思ったら、今度はテーブルが小さく揺れている。次第に床まで揺れ始め、ついに部屋全体にまで至った。
     ドン、と大きな衝撃で足元が揺れた。何かが割れた音がした。狼は呆気にとられて反応が遅れた。立っていられずに、玄関ドアに凭れるようにして寄りかかる。
     今までに見たこともない力に、足が竦む。
     ゆらり、と男の足が動いた。発せられる威圧感で腰が抜けそうになる。恐怖で部屋の異常を確認できない。
     狼は震える足に力を入れ、這いあがるようにドアノブと内鍵に触れたが、回らない。前にもあった。仕方なく安全圏の洗面所に飛び込もうとしたが、男の前進のほうが早かった。
     腕が伸びてくる。ぐい、と力強く引き倒されて、玄関マットも敷いていないフローリングに俯せに倒れこんだ。
     背後から感じる威圧感は尋常ではない。
     今までの行動は戯れだったのか。猫を被っていたのではないのか。文句を言う暇もない。
     前に進もうと伸ばした義手を掴まれ、後ろ手に捻り上げられた。無理な姿勢に肩が外れそうだ。ハーネスが悲鳴を上げる。肉に食い込み、みしみしと嫌な音を立てる。狼は苦痛に呻き、もう一つの手に持っている袋、エマの守り刀の存在を思い出した。袋の上から木箱を掴むも、男がそれを蹴り飛ばした。袋の中身が飛び出し、木箱から短刀が派手な音を立てながらフローリングに転がった。やけにそれが眩しく見える。
     遠くなった希望に狼が思わず苦しげな声を漏らすと、男が一瞬力を抜いた。その隙に逃げようと体を捻ろうとして、信じられないものを聞いた。ばき、という無機質な破壊音を最後に、左腕が軽くなる。狼は歯を食いしばって、喉までこみ上げた罵詈雑言を飲み込んだ。
     義手が破壊されたのだ。視界の隅に、さっきまで装着していたはずの手がぶら下がっている。色をなして抗議の声を上げたかった。殴るくらいでは気が済まない。一体幾らすると思っているのか。
     どうにか片腕だけで這い出て、距離を取ろうと後ろに飛ぶ。しかし間髪入れずに腕が迫ってきた。

    「な……っ、あ!」

     視界いっぱいに広がった光景に、掌底だ、と接近に気づいたときには食らっていた。まともに当たり、脳震盪を起こす。ぐわん、と視界が揺れてたたらをふむ。痛みは遅れてやってきたが、何が起きたのか理解できなかった。

    「——っ」

     目の前が眩み、退こうとする前に首根っこを掴まれた。抱き抱えるようにして腕が回り、もう一本の腕が鋭く腹を打つ。抉るような容赦のないその拳に、胃の中のものがせりあがり、逆流してくる。堪えたが、耐えられずすべて出してしまった。と言っても帰り際に飲んだ水と胃液しか出ない。
     くるしい。喉が焼けるようだ。びちゃ、びちゃと液体が断続的に床を汚す。

    「……っぐ、――う、ゥ、え゛っ……!」

     膝から力が抜ける。げほ、げほ、とその場に蹲って咳き込む狼を男が後ろから抱える。生理的な涙が浮かび、鼻水が垂れた。
     穴が開いたのではと不安に駆られるほどの激痛、がんがんと痛む頭と鼻、灼ける喉、対照的に凍えていく手足。満身創痍の狼を意に介さず、濡れた顎を固定するように掴むと、手を口の中にねじ込んだ。

    「う、おぇっ——」

     舌の上で滑るそれは冷たかった。長くて太い指先が喉奥を刺激して、異物感にまた嘔吐する。胃液で顔を汚した狼は、口いっぱいに指を入れられて涎と鼻水で息もままならない。
     体中が冷え切っている。悴む右手で、太い腕を引っ掻いた。あまりに他愛のない抵抗だった。
     このまま殺されるのだろうか、と呆気ない幕引きに意識が朦朧とする。
     喉の中を探すようにさまよっていた指が不意に引き抜かれた。走馬燈を感じる間もなく、狼は解放された。
     支えを失い、汚れたフローリングにくずおれる。
     突然の解放感にぜひゅ、と嫌な呼吸を漏らした狼が、あらゆる痛みに身を苛まれながらどうにか咳を出す。最後に絡まった痰が出たかと思ったら、その中から異物が現れた。
     飛び出たのは小さな——虫だ。人差し指くらいの大きさで、姿は百足に似ていた。無数の足が、まだ喘ぐように動いている。
     狼に何度目かわからぬ衝撃が走った。
     今、体内から、虫が。どこで、いつ、どうやって。血の気を失う狼の目の前で、吐いたものの中を虫が大きくのたうつ。苦しんでいるようだ。赤黒く、わさわさと身悶える様子には言葉を失うしかなかった。
     男は無言でそれを摘み上げると、狼の唾液で濡れた手で、握りつぶした。
     ぐしゃり、その音のない断末魔以降、すべてのものが急に静かになる。
     呆気にとられて、指のその先を、つい、見上げてしまった。

     狼は、とうとう。男を——視た。


       対 峙

     そうして、――漸く。
     直視のときは訪れた。

    「まったく次から次へと……、程度があるだろう」

     くぐもったような低音が言葉を発している。
     それに合わせてひゅう、びゅう、と心細い音がしている。
     裂傷の目立つ長い手足。傷だらけの胴体。
     腹部と心臓のあたりに、穿たれたような、細長い生々しい傷跡がある。
     なにより異様なのはその首だ。どす黒く血が垂れており、右側から深く切れて、頭は項垂れている。漆黒の髪で顔は見えない。繋がっているのが不思議なほどの傷の深さだ。焦げたようなまだら模様の腕が自らの頭を調整するように持ち上げ、狼を見た。
     ぼさぼさの長い黒髪の間から、血が滲んだような色の鋭い眼が覗いている。
     男の目はひどく昏く、奈落のように吸い込まれそうだった。
     息をのむ。呼吸を忘れて、恐ろしくも尊大な偉容に見入った。
     しばらく見つめ合い、男が解を得たように荒れた唇を吊り上げた。

    「ようやく、俺を見たな」
    「ひ」

     狼は我に返り、震えあがった。腕を後ろに伸ばそうとして、義手を壊されていたことを思い出す。バランスを崩して転がり、少しでも距離を取ろうと後退る。男はその反応に合点がいったような表情を浮かべた。
     稼いだ距離を一歩で埋められて、狼は呻く。

    「……ああ、声も聞こえるようになったか。それは重畳」
    「っ……!」

     認識するというのは存在を改め、細部を把握するということである。
     狼が男を認めた瞬間から、その声が届いてしまった。
     喋るたびに風の音がしていると思った。正しくは男の首から発せられていた。
     視覚した瞬間から、男の罅割れた唇には笑みが浮かんでいた。しかし、何かに気付いたように眉間に皺を寄せ、文字通り虫唾が走るという顔をした。
     怯えて後ずさる狼の胸のあたりに、冷たく大きな手が当てられる。先ほど抉られるような衝撃をもたらした拳を思い出して身が竦んだ。どっどっ、と激しく脈打つ心臓の音が相手にも聞こえているだろう。
     感触が酷く生々しい。亡霊などではない。こんなくっきりはっきりとした霊が他にいてたまるか。

    「子がいる」
    「は」
    「まだ中に」

     何を言われたのか理解できずに狼は瞬いた。
     百足はつがいで行動するという話があるが、あれは迷信で、子煩悩な母と生まれたばかりの子がともにいることが多いという。
     ……あれが? まだ体内にいる? 心底震えあがり、腸をかきむしりたくなる。狼が生身の腕で喉を掻くと、男はそこじゃない、とパーカーの下で激しく脈打つ心臓を指した。

    「取り除いてやってもいいぞ」

     ――あまりにも、縋りたくなる言葉だった。
     狼は必死に考える。体中が痛みで竦み、末端が冷え、恐ろしさで正常な判断ができない。耳鳴りがする。
     どこかで携帯が鳴っているように感じる。玄関先で落としたらしい。きっと九郎か、事務所からだ。異常事態を伝えなければ。しかし、縫い止められたように男から目が離せない。赤い眼光は、感情を読み取らせようとはしなかった。
     男が名前を呼ぶ。なぜ名前を、と口にすることもできず呪われたように動けなくなった。

    「どうする、狼よ」
    「とっ……たら、……どう、なる」

     痛みにあえぐ狼の返答に、男はふむ、と視線を胸に下げた。

    「どうもこうも……、ああ、いや。よく眠れるようになるかもしれん。何せお前のいじらしい心臓を我が物顔で這っている」
    「し……」

     狼は絶句してしまう。そういえば最近締め付けられるような痛みがあったりした。病などではなく、心臓に蟲がいると? なんだそれは。悪夢のようだ。というか今起きているすべてが悪夢以外の何物でもない。

    「案ずるな。切り開いたりはしない」
    「……、……見返りは、なんだ」

     男は笑った。喉が嫌な音を立てている。
     不吉で、寂しいような。喘鳴にも似ている、風穴の鳴き声。

    「いらん。場所が場所ゆえに痛むかもしれぬがな」

     そう、男はこともなげに呟いた。
     言外に苦しむのだろうということを察して、狼は覚悟を決める。
     選べ、と言われて——狼は、身を委ねることを選んだ。

     ◇

     夜がいっそう深くなった。風の音が増している。
     嵐のような天候だ、と狼は逃避したい頭をどうにか男に向けた。
     携帯電話が遠くで鳴っている。
     狼はリビングの壁を背に、フローリングに座り込んでいる。男がその前に片膝を立てて屈んだ。随分と大きいな、と今更その全容を知った。
     脱げ、と言われてパーカーのジッパーを開き、シャツを自ら捲り上げる。男は露わになった肉体に隅々まで残された、青黒い痕に眉をひそめたが、先程殴られた腹が徐々に腫れてきているのを見て、何も言わずに心臓を指す。
     持っていろとシャツの裾を口に噛まされて、ここはカメラの死角だったろうかと今更なことを考えた。時間の感覚がない。携帯はまだ鳴っている。
     これが最後に見る光景でないことを祈った。
     狼の不安をよそに、男は指を確かめるように握り、開く動作をした。

    「騒いでも構わんが、決して動くな」

     大きな手が、胸の間に当てられる。
     冷たいのに、妙にその感触が生々しい。この男は生きているのでは、と思うほど。

    「っ……」

     指先がすうっと中にもぐりこみ、埋まっていく。不可思議なことに血は出ていない。妙な感触だった。見ていられずにぎゅっと目を瞑って耐えた。ぎり、とシャツの裾を噛む。パーカーを羽織っているがむき出しの背筋が粟立ち、寒気に震えた。
     心臓を直接撫でられるような、感じたこともない恐怖だ。恐ろしい想像がいくつも過る。
     ——このまま握りつぶされたらどうなる?
     ——蟲などいなくて、ただ化かされたのでは?
     後悔しても、もう遅い。委ねるしかない。
     ちら、と目を開くと、覚悟していたより深いところに入ってしまっていた。縮み上がる狼を、男が叱咤するように囁いた。

    「っひ……、……うう」
    「動くな。手が滑る」

     再び瞼を閉じ、懸命に震えを解こうとする狼の様子に男は少しばかり高揚感に似たものを覚えていた。
     きつく寄せられた深い眉間。額に汗が浮いている。このまま続けて反応を見たい気もしたが、不意に指先が何かを捉える。蟲だ。慎重に引き抜き、現れたそれは小さく、白っぽい色をしている。大きさも先程潰したものの半分もない。ずるりと外へ出てきた瞬間から苦し気にのたうち、やがてピクリとも動かなくなった。
     男が後ろ手に放り捨てると、親の遺骸のそばに墜ちた。
     狼は冷や汗にまみれていたが、そうっと片目を開けた。胸に男の手がないことを知り、終わったのか、と問いかけた。
     男は、ああ、と呟いた。それを最後にシャツを口から吐き出し、身嗜みを整えようとする狼の片腕が器用にジッパーを噛ませて持ち上げる。
     男はそれを眺めながら、狼の首の痕を見咎めた。

    「どこかで拾ってきたというよりは、貴様に乗り換えたのだろうな」
    「……どういうことだ?」
    「本命は別にいるのだろう。お前でもいい、ということか」

     ──お前がどこぞで拾ってくるたびに取ってやっていたが、いずれにしても俺は疲れた。
     男が言い、狼はもしやと問いかけた。

    「これが初めてではない、のか?」
    「貴様、好かれやすいにも程度があるだろう」

     問いの答えにはなっていなかったが、つまりそういうことだった。
     記憶に薄いので、眠っているときに行われていたのだろうか。
     時々無性に顔色が悪いとか、怠さを感じていた日があったが、もしや蟲を取り除かれていたからなのか。であれば。

    「……申し訳なく、思う」
    「やめろ。どれだけ感謝されようが、根本的には害することしかできん」

     お前の生気を奪って俺はここにいるのだ、と明かされた言葉に、通りで夜を跨ぐごとに存在感を増すわけだと狼は腑に落ちた。
     体調を崩し、事務所で眠り、夜にマンションに戻ると男は決まって大人しかったが、使った分だけ吸われていたということだろう。
     男は瞬きをしていない。異形の者なのだと理解する。
     理の外にいる、狼が見て見ぬふりをしてきた世界の住人だ。

    「俺はまだ、何かを待っている。思い出せるまではここを離れない」

     会話がうまくつながらないのは、男が疲弊しているからかもしれない。
     命令口調でありながら懇願するような声音でもあり、ひどく無機質にも感じられた。
     思わず、その目をのぞき込もうかと思ってしまったくらいには。

    「俺は、……あなたの邪魔をするつもりは、ない」

     男は狼を睨んだ。ひく、と肩が震える。見ただけなのかもしれないが、眼力の鋭さは射貫くような剣呑さを帯びている。

    「ここにいろ」答えは聞いていない、といった命令だった。
    「……、……それは、できない」
    「お前が居ないと俺はまた忘れてしまう」
    「……忘れる?」
    「忘れたことも、忘れてしまう。そうだ……やっと、掴めた、気がしたのに」
    「どういう、ことだ」

     男は眉根を寄せて呻くようにぶつぶつと溢した。もはや独白だった。
     会話として成り立っていないが、狼は問いをやめなかった。
     ——それは俺の、すべてだったのに。
     何を、と問いかけようとして。不意に、インターホンが鳴り響いた。突然のことに狼はバネのように顔を上げて玄関を見る。
    「狼!」と玄関ドアから九郎の声がした。
     汚れた顔を拭い、吐瀉物まみれのパーカーを脱いで出迎えようとする狼を男の声が遮った。

    「開けるな」男の声に、抑揚はない。
    「しかし」
    「狼、大丈夫か⁈」玄関からドンドンと叩く音がする。
    「アレは違う。開けるな」

     淡々とした、感情のない声だ。

    「……では、なんだと、いうのか」
    「お前に憑いてた蟲の主だろうな」
    「狼、開けてくれ! 無事なのか⁉︎」心配する、あまりに馴染み深い声がする。
    「……っ」

     狼の眼が揺れる。男は玄関に走り出しそうな狼の姿を見下ろしている。
     選択の先を知っているが、好きにしろとでもいうような顔だった。

    「俺は助けんぞ」
    「助けてもらう、筋合いは、ない」
    「それもそうだな」男は狼越しに玄関を見ている。
    「九郎様! 今開けます」

     男の視線を振り切り、まだ叩かれている玄関に向かう。狼はドアに手を伸ばそうとして、──ふと、足元に何かが落ちているのに気がついた。
     携帯電話。オオカミの髪ゴムをストラップ代わりに結んだものだ。九郎がこっそり結んでくれたもので、なんとも気の抜けたような顔つきをしている。多分ハイイロオオカミで、左部分が白い。落としたままの携帯はちか、ちか、とランプを光らせていた。
     拾い上げれば、怒涛の着信履歴が目に入る。圏外になったり、弱い電波を受信したりしている。電池が今にも切れそうだ。事務所と九郎からいくつもの着信を知らせる履歴は、最新のものが約五分前。今エマと共に向かっている、無事でいてくれ、という内容のメッセージだった。
     狼は、すうっと全身の血が下がるのを感じた。
     そもそも。このマンションのエントランスはオートロックで、鍵または居住者の応答なしに、ここまで上がれるはずがない。
     鍵を持つエマがいれば開けられたかもしれないが、側に気配はない。
     ……では。
     この、九郎の声をした、何者かは誰だ。

    「…………」
    「狼? どうした? 早くここを開けてくれ」ドア越しに九郎が心配そうな声を出す。
    「……エマ殿は、どうされたのですか?」
    「ああ、後から来ると仰っていた」

     狼は、携帯を握りしめて玄関からゆっくりと離れた。

    「……あなたは、違う」
    「狼?」
    「——九郎様では、ない」

     少し、間があった。
     不吉な静寂。狼は固唾をのむ。手の中で携帯が汗で滑る。
     ふふ、と笑う声。実におかしそうな様子のそれは、声音だけは九郎のようで、いびつに崩れていく。ぞっとして狼は後退った。

    「開けておれば……、幸福に死ねたものを」

     羽音のようなものを聞いた。
     ざわざわと羽撃くような。それらは蟲の群れだ。
     狼はこの声を、知っている。どこかで。今みたいに。知っている。
     音が大きくなり、玄関ドアを叩き、押し上げてくる。ガタガタとドアポストが揺れて、その隙間から、ぞる、と蟲が入ってきた。狼は慌てて飛びのく。ドアは隙間から塗りつぶされたように真っ黒にざわめき、フローリングにこぼれおち、小さな虫の大群が部屋に押し寄せた。やがてそれらは人の形を作る。
     何処かで見たような気がする。老いた掌、濁った目、皮膚を這う虫。
     異形は不定形のまま、濁った声で笑った。
     馳走を前にして告げる言葉と同義だった。

    「御子の忍び——貴様の暗闇を頂こう」

     ざわ、と蟲が大きく広がり、狼に牙をむく。
     その時だった。

    「おい」

     不機嫌そのもの、という声がした。
     壁際に片膝を立てたまま座り、首を垂らしている男だ。

    「それは俺が先に目を付けた。横から割り込むな」

     虫を払うように、侵入者に対して告げた。視線は合わないのに、敵意を向けているのがわかる。
     異形は濁った眼を瞬かせた。というよりは、眼球の部分を小さな虫が移動しただけのようにも見えた。

    「……これは」
    「黴臭いと思えば死なずの生臭か。貴様、また奇妙なものに好かれたな」

     ゆらりと立ち上がる。男の首は項垂れている。
     くぐもった声は喘鳴を纏って、ひゅ、ひゅう、と鳴いた。

    「これは、これは。……葦名弦一郎様では、あるまいか。ずいぶんと、お変わり果てていらっしゃる」異形は、懐かしむような声を出す。
     弦一郎と呼ばれた男が長い腕で首を持ち上げた。乱れた髪の間から、緋色に光る眼が牽制するかの如く細くなる。

    「貴様が誰かはよく知らんが。これはやめておけ」
    「あなたのそれは、妄執ではありませんか」
    「ほう」柳眉が意外そうに持ち上がる。お互い様では、とでも言いたげだ。

     異形たちは互いに向き合う。言葉の応酬は、狼にはよく聞き取れない。

    「忍び一人にこうも固執していらっしゃる」
    「貴様もそう見えるが」
    「この男、……我らの希望を断ったのです。我らの永劫生きるはずだった、貴い夢。仙峯寺の終わらぬ探求」

     蟲の群れが威嚇するように拡がる。あわてて距離を取り、バルコニーが続く引き戸に狼は背をつけた。がたがたと冷たい風で揺れている。

    「ゆえに赦せぬ。その暗闇を食べ尽そうとも、余りある。蟲たちも腹をすかせて待っていたのだ。横入りと言うならそちらが後だ。何より」

     ——その暗闇は、極上の薫りを纏っている。
     弦一郎はなるほど、と頷き、それには同意を示した。
     腰の刀をすらりと抜く。

    「だがその男は俺のものだ」
    「は?」

     狼は思わず口を挟んだ。
     内容はわからないがひどく居心地の悪さを覚えた狼は縮こまっていた。男二人でどうやら己の処遇をめぐり口論しているのはわかった。先に堪忍袋の緒が切れたのは、弦一郎と呼ばれた男の方だ。存外、短気ではあるまいか。狼は抜身の太刀を構えた姿に一瞬だが見惚れ、すぐに我を取り戻した。

    「俺が先約している。貴様にやるには惜しい」
    「頭が固くていらっしゃるようで」
    「同感だ」

     身の丈にあった立派な刀が剣呑に光を反射する。まさか、この室内で斬り合うつもりか。振り回せるような天井の高さではない。狼は対峙する二人を残し、バルコニーの扉を開けた。
     振り返らずに外に出る。グレーの遮光カーテン越しに何かが激しくぶつかり合う音が聞こえた。
     風が強い。いつのまにか嵐のような有様だ。思わず前のめりになってしまう。
     ざあざあと強風に木々が揺れている。
     ここは二階だが、一階のエントランスホール分のスペースをバルコニーとして設けられていた。多少走る程度の広さはある。転落防止に板が柵代わりに打ち付けてある程度で、コンクリートが打ちっぱなし、だだっ広いばかりで物は何もない。遮るようなものも、また何も。
     狼が状況を打破すべく周囲を見渡していると、弦一郎がカーテンを大きく翻しながら飛び出してきた。
     握った刀には蟲の遺骸が複数付いている。既に斬り合った後らしい。軽く振るい落とすと、室内からゆっくりと異形のものが追ってくる。ざわざわと蠢きながら地を這っている。足はない。着物の下はすべて虫の群れで構成されている。その進む姿は海底を泳ぐ蛸のようであり、思った以上に——早かった。
     キン! と攻撃を弾く剣戟の音。大きな振りかぶりは大型の百足の蟲が担い、周りの羽虫が視界を遮っては邪魔をする。
     首をぐらぐらと揺らしながらも弦一郎はそれらを的確に払う。急所を狙って鋭く振られる刀、ぼとぼとと落ちていく虫。技量ではあきらかに弦一郎の方が上だ。しかし、多勢に無勢、斬られた傷を修復するかのように集る虫の数は尋常ではない。
     狼が見守る中、異形たちの争いは続く。重心を低くして漏れ落ちた虫から身を躱しているだけで精一杯だ。状況を打破する策が思い浮かばず、もう飛び降りるかと思った矢先だった。
     闇夜を割くような、流れる星のように。
     凛とした、聞き慣れた声がした。

    「狼!」

     時間が止まったようだった。
     何も考えず走った。放たれた弾丸のように。それこそ猟犬だった。前動作もなく、バルコニーから飛び込むようにして、狼は部屋に滑り込んだ。
     狼の逃走に気付いた異形がその背中を追う。貴婦人のスカートのように長く伸びた蟲の群れが駆ける狼の足を掠めたが、躓く前に振り払った。その一瞬の隙をついて弦一郎が舞うような剣舞を見せ、真一文字に切り裂く。異形と化した老いた男の首が転がったが、大百足は弦一郎の死角、左の鋭角からその牙を伸ばしている。
     辿り着いた九郎に狼が駆け寄り、その小さな身体を抱きこむ。ひどく凍えた身体に九郎が驚くが、バルコニーに目を向けた瞬間叫んだ。

    「弦一郎殿!」

     大百足が男の、深い切り傷の目立つ、肩口に食らいついていた。毒素を放出しているのか、ギチギチと肉を食む音がする。ぞろりと伸びた長い胴体に巻きつかれ、身動きがとれないようだ。
     狼が九郎を庇ってその場を離れようとした瞬間、細い影がバルコニーに飛び出した。

    「……! まて!」

     短刀を拾い上げ、逆手に握った女が走り抜ける。
     狼の静止を振り切り、あっという間にカーテンの向こうに消える。
     弦一郎がその姿を見留めた瞬間、女は跳躍した。
     首のない異形の背骨から伸びた百足の頭を、鈍い音を立てながら装甲ごと貫いた。

    「ぎい────」

     悲鳴があがる。大百足は激しく暴れ、弦一郎から離れる。
     脳が潰れてもしばらく動くという虫特有の神経ごと断つような容赦のない打突だったが、大百足はまだ動いた。 
     虫が統率力を無くし、ばらばらと霧散して、飛び立っては方々へ散らばろうとする。
     弦一郎の刀が袈裟斬りにそれを払い蹴り飛ばすと、女を強引に抱えて後ろに飛んだ。瞬間、ぶしゃ、と緑色の禍々しい液体を散らしながら異形がのたうち回る。その場にいた者は声のない、身の毛がよだつような断末魔を聞いた。
     盛り上がろうとした虫が形にならずにばらけていく。その速度はひどく緩慢だ。
     まだ刀を握ったままの女は、ふうふうと肩で息をしている。弦一郎は、女――エマを離して、苦言を呈した。

    「無茶をするな、馬鹿者」
    「無茶をしたのは誰ですか。あなた、自分がどれだけのことをしたのかわかっているのですか、なんですか? この首」
    「ああ、ああ、うるさい。黙っていろ」
    「黙りません! 刺しますよ!」
    「やめろ。引っ張るな、離せ」

     狼が九郎を庇いながらバルコニーに出ると、大柄な男に女が噛み付いていた。煩そうに首を支えながら耳を押さえている。知り合いだったのかと狼が訊く前に、九郎がエマを心配して駆け寄った。

    「エマ殿、お怪我はありませんか!」
    「九郎さま、すみません。囮になるような真似をさせてしまって」
    「いえ、狼がすぐに来てくれたので」

     結果的に走った狼の背を虫が追い、弦一郎が斬る連係プレーを狙ったものと思われたが、予想した以上に蟲の生命力が上回っていたようだ。結局エマの打撃が決め手となったらしく、いまだ蠢く大百足の足の動きが断続的になってきた。
     無茶をする、と弦一郎が外を見ながらつぶやく。エマは鋭い眼で睨んだ。

    「あなたには言いたいことが山のようにあります」

     小言を聞いているのかいないのか、男はごうごう鳴る風を浴びている。視線の先には街並みがあり、明かりは少ない。暴風に縮こまり眠る市民の姿を想像させた。
     今晩中は荒れるそうだ、中に入っていたほうがいい、と九郎が言い、三人は部屋に戻ることにした。
     弦一郎は心ここにあらずという面持ちで、しばらく夜景を眺めていた。


       収 束 

     義手を失った狼が、九郎の盾になりながらバルコニーから部屋の中へと戻る。
     吹きすさぶ風に揺れるざわめきや何かが転がっていく音が聞こえてくるが、少し威力が弱まってきた。全員が室内に戻ったのを確かめて、狼は窓を閉めた。カーテンがただの布きれになってぶら下がっていた。知らない間にそれなりの死闘があったのだろうか。
     エマが納刀して、懐に仕舞う。先ほどまでの気迫は今やなく、物静かな面持ちに戻っていた。刀が納まる一瞬を捉えたが、刃のない鈍らだったので狼は内心驚いた。本当に模造刀だったのか。

    「はあ……、どうなるかと思った」

     九郎が心底安堵したような声を出した。

    「狼に連絡が取れないから、急遽エマ殿に来てもらったのだが、この風で交通機関がだめになってしまってな。叔父上の車を拝借して、どうにか来られたんだ。あの部屋から車の鍵を探すのが大変で……」
    「私の車を取りに戻るより、お借りしたほうが早かったので……」
    「しかしエマ殿の運転はなんというか、こう、すごかったな!」
    「お恥ずかしい、普段はもっと安全運転ですよ」
    「よかった……いや、ほんとうに……道がすいててよかった……」

     興奮冷めやらぬ二人の会話からは、九郎が危険運転に巻きこまれたことだけがわかった。
     奇妙なことに室内の虫と遺骸は消えていた。はじめから無かったように。しかし狼が汚したものがそのまま残っているので、片づけを終えるまではと客人二人を和室に押し込んだ。手伝うと言われたが、それだけは許してほしいと滅多にないことを狼が言うので九郎は渋々従った。
     せっせと床を磨く狼に、大きな素足が立ち塞がる。
     もう見慣れた足だ。
     見上げるといつからいたのか、弦一郎が見下ろしている。狼は声をかけるべきなのか分からず視線を泳がせ、顔を伏せると無言で雑巾を動かした。

    「…………」
    「首の痣も消えたようだな」

     幾分穏やかな声音に戸惑ったが、どうやら蟲の男がつけていった痕が消えたということらしい。触れてみるも狼自身には認識できないものだったので、よくわからない話だった。そんなにひどかったのだろうかと思うと男は眉を吊り上げた。
     雑巾を片付け、立ち上がって姿勢を正し、男を見据える。
     話をする気になった狼の様子に、弦一郎は和室の九郎を盗み見た。

    「俺の見立てでは、おそらく初めは御子……九郎狙いだったのだろうが。災難だったな。余程眩しかったと見える。貴様が丁度良かったんだろう」

     説明の少ないそれを、狼は嘘と断ずることはしなかった。
     異形の蟲の男は、狼のことを心底恨んでいた。
     知らないことを知っていて、記憶にないことを怨嗟して襲ってきた。
     しかし、狼にはどうでもいいことだ。

    「……あなたは九郎様を見ても平気なのか」
    「……いや、眩い」

     ずいぶんと素直なことを言うものだと思って顔を見上げる。

    「あれが眩いのは、今に始まったことではない」

     やはり、よくわからない話だった。
     けれどもどことなく誇らしいような気分になり、

    「九郎様は綺羅星のように眩しいのだ」と、狼は呟いた。

    「狼」
    「弦一郎殿」
     九郎とエマがそれぞれ用向きがある男の名前を読んだ。
     狼はすぐに九郎のもとに行き、弦一郎はそれを見送る。エマがすすす、と音もなく近づいてきた。

    「ふられてしまいましたか」
    「それも今に始まったことではない」
    「めげないんですね」
    「一途だからな、俺は」

     男もまた、微笑んでいるように見えた。
     そろそろ暁の頃合いだろうか。まだ空は暗いが、やがて朝陽が差し込むだろう。
     エマは背筋を正し、弦一郎を見上げた。

    「あなたは帰るべきところにお戻りください。起きられたときにはお傍におりますから」
    「相変わらず薄情だな」

     ふん、と首を押さえながら男が皮肉そうに笑う。

    「私の主は、一心様です。ですが、主は関係なく。あなたの身だって心配しています」
    「いらん。そうとも、実にお前はいい薬師だった。……」
    「弦一郎殿……」
    「……懐かしい、というのも妙か」

     狼。九郎。エマ。男は声には出さず、いつかを思い起こした。
     欠けていたものが揃った。待ち人は、来たのだろうかもわからない。途方もない道を歩いてきたような、草臥れ果てて、摩耗したような気分で、けれど満たされている。
     そして、思い知らされる。
     守りたかったものがもうどこにも無い。
     為すべきことがあった。成さなければならないことが。何を犠牲にしても、守りたい理由が。
     もう、見当たらなかった。

    「狼よ」

     九郎の側にいた狼が、曖昧な面持ちで男を見る。疲れ果てている顔だ。
     知っている。男は累ねた夜で学んだのだ。男が怪異を見るのに長けていながら、恐れを克服できないのを十分に理解していた。この男は俺が恐ろしいのだ。けれど寛容なのか諦観なのか、何故かは分からないが、問われたら返すし危機に対する行いには礼を言ってくる。それは奇妙な感慨を齎した。理解できないが、知りたいと思った。
     近くにエマがいるためか、手招くと柔順にも寄ってきた。狼よりも犬なのかもしれない。もう癖になっているのか、焦点を合わせぬように泳いだ目がぎこちなくこちらを見上げる。腕を伸ばせば届く距離。
     ——ああ、やっと至った。
     眉間に皺の深い、壮年の男。合わせてくる瞳は、どこか無垢のままで不釣り合いだ。
     その、眼。涅色の目。水底で揺蕩う泥のような暖かな闇を孕んだ瞳。
     いつか殺し合い、刃越しに見た眼は、もっと濃い闇の中にあり、深く浸っていた。
     明けぬ宵の底にいながら、黎明を迎えて果てた、かつて立ちはだかった生涯の壁。
     数奇な宿命に弄ばれてなお、自分で結末を選び、つかみ取った男だ。
     ひどく忌々しく、羨ましく、娼嫉しながらも惹かれて止まず、一周回っていとおしくすらある。
     ……この男が、欲しかった。
     この男が傍に居れば、あるいはと、ないものを強請りたくなるほどには。
     けれどそれは過ぎた悔恨だ。最早何物にも為らない。
     ああ、でも。

    「狼」

     妙なものにほいほい好かれて、手形をベタベタつけられて、そもそも無防備に歩いて、本当にどうしようもない。食事もまともに取らず、風呂では寝こける。そのくせやたらと怖がりで、懐かない。そんな男を夜な夜な物言わず助けてやったのだ。同じ土で死んだよしみだってある。

     餞別に一つくらい貰っても──これくらいの褒美は許されてもいいだろう?

     男は身を屈め、疑問符を浮かべる狼の顎を掴むとその口を吸った。正確には首がうまく傾けられず、何度か無精髭の生えた頬を啄んで、ようやく唇と唇が重なった。
     突然のことに硬直している体は印象と変わらず小さい。手放すのがまた惜しくなる。
     触れていたところを堪能し、終わりにぺろりと舐め上げて、その見開かれた眼を間近に覗けば、しっかりと弦一郎が映っていた。これだけで笑い出したいほど満たされるのだから、狂っているとしか言いようがなかった。
     なんだ、簡単なことだった。いっそ清々しいほどの、呆気なさに笑みが溢れる。

    「……な」
    「んな!」

     今生でも縁の結びつきあった仲睦まじい元主従が、そろって似たような声を上げる。エマが窘めるような顔をしたが、黙認したようだ。すい、と身を離せば記憶の中より背の高い九郎が、狼をかばうように体を抱き、わなわなと真っ赤になって震えている。かつてはそんな表情を見たこともなかった。
     異なる道行きなのだと、男は思い知らされる。
     遠い望郷の思いが募る。切なく、くるおしく、妙に心地が良い。こんなことは初めてだった。

    「エマ。後を頼んだ。じきに目が覚めるだろう」
    「お任せください」
    「またな、狼、九郎」
    「……もう来るな……」

     魂が抜けたような、それでも絞り出したような狼の悪態は素晴らしく耳に心地よかった。いよいよ声をあげて笑いたくなる。
     九郎が狼の半端な腕に手を添えて守っているのを見た。
     あの腕は、かつて自分が切り落としたものだ。
     無くなったはずのものが、無関係に思えた遠い先で続いている。引き返す道がなくとも。
     それはなんて、途方もなく憎たらしくて。
     いとしい夢のような話だろうか。

     街に朝陽が差し込む。まだ風は時折強く吹いている。
     ぼろぼろのカーテン越しに見えた雲の流れは早く、三人は光の眩しさに目を眇めた。
     たった一度の、瞬きのようなあわい。

     けれどもう、勝手な男と異形の姿はすでになかった。


       閑 話   義手の話

     嵐が過ぎ去った陽の差し込む、途方もなくいい朝だ。
     秋晴れになりそうな気配を感じる。
     大騒ぎをして結局消えてしまった男を見送ったのか、見失ったのか、三人はぼんやりと立っていた。

    「狼殿、その義手どうされたのです?」
    「…………壊された」
    「まあ」
    「殴ろうと思ったが……、文句の一つも言えずじまいだ…………」
    「……この義手、お預かりしても?」
    「いや、修理に出すゆえ……」
    「私の知り合いに、義肢装具士がいるのですが。よかったら任せてもらえませんか。基盤は無事のようですし、こちらで賠償いたします」
    「ありがたいが、そこまでしてもらうわけにも」
    「いえ……何と言いますか……慰謝料替わりとでも思っていただければ……」

     今後のこともあるので、とエマが遠い眼をしながら呟いたので、狼と九郎は首をかしげた。


       それから

     東の空では黒雲と黄金色に輝く壮麗な朝焼けが広がっていた。厚い雲の合間から天使の梯子が降りている。夜嵐が明けたあとは、きっと快晴になるだろう。
     まだ始発の電車が動くかどうかという時間だった。
     安全運転で事務所まで戻って、二人はエマと別れた。彼女はこれからやることがあるという。九郎と狼は、無言で事務所の上の階に上がると、狼の本来の部屋で倒れるようにして、泥のように眠った。あたたかいぬくもりに抱かれて、寄り添うようにして。気がついたら九郎念願の刂で眠っていた。
     昼過ぎにはっと覚醒した狼の顔は、かなり見ものだったのだが、それは九郎だけの秘密である。
     
     その数日後。
     黒く輝く高級車が事務所の前に停車した。バン、と扉の閉まる聞き慣れぬ音に身を乗り出し、窓に集ったスタッフがざわめく。平日の午前、当然九郎はいなかったのが幸いか。
     すごい、漫画みたいな黒塗りだ、というスタッフの興奮した声に狼も窓を覗きこんだ。運転席から出てきたスーツの男にエスコートされて、後部座席から細身の老人が降りてくる。白いスーツに見事な白髪頭は窓を見上げていた。控えめに言ってもとても一般人ではないオーラを醸し出していて、まるで値踏みするような鋭い隻眼と目が合った事務員は悲鳴を上げる。
     二人はそのままビルの中に入っていく。つまりこの事務所にやってくる。お隣に用事があって間違えた、とかではなさそうだ。挙動不審に陥るスタッフたちが慌て惑うのを狼は右から左に聞いていた。

    「なに⁉︎ こわっ! やくざ⁈」
    「ちょ狼さんどどどどうにかしてください」
    「どうにか、とは」
    「追い払ってください!」
    「いや、危害を加えられたならまだしも」
    「なになになにめっちゃこわ」
    「九郎様のお客様ですかね?」
    「九郎様あんなヤバそうな人ともご縁があるんです⁉︎」

     騒いでいるうちに階段に到着したらしい。一段一段をゆっくりと上ってくる靴音が、やけに大きく響いてくる。事務所にいた者たちは固唾を飲み、凍りつきながら待った。
     やがて老人ではなく、黒いスーツの、いかにも堅気でない大男が扉を開けた。運転手なのか護衛なのかわからない。とてつもなく体格がいい。文字通り入口をくぐって入ってくると、低く大きな声が事務所を震わせた。

    「薄井狼は、おるか」

     名指しである。事務員たちはいっせいに狼を見た。その視線を追って、やや鼻の赤い大男はおぬしか、と狼を見止めて頷いた。
     その後ろから悠々と入ってきたのは随分と高齢の、しかし確かな足腰をした痩身の男だった。
     白いスーツに開襟シャツ。まじでやくざもんじゃないのか? と事務員たちは怯えたが、不思議に下品ではなく、よく似合っている。皺の刻まれた鋭い顔つきの老人は、ニッと唇を釣り上げた。

    「おう、邪魔するぞ!」

     快活な、といえば響きがいいが、声が大きい。腹の底から響き渡るようだ。狼は鼓膜を突き抜けていった爆音の挨拶に眩暈を覚えたが、名指しされた以上は相手をしないわけにはいかない。す、と大男の前に出た。

    「私が薄井です、ご用件をお伺いいたします」

     男たちの好奇の視線が浴びせられる。
     狼はあの日以来、義手を付けていない。修理に出しており、戻ってくるのは数週間後の予定だ。いつものように長袖にパーカーだが、何も納めるものがない左の袖は動くたびに緩慢に揺れている。
     義手がなくとも仕事はできるが、荒事になるならば少し難しいかもしれないと思い、と慎重に様子を窺った。
     大男はじろじろと頭のてっぺんから爪先まで値踏みして、なぜか溜息のようなものを吐いて、たくましい肩を落としながら出ていった。階段を降りていく気配がする。疑問符を浮かべる狼とスタッフたち。
     一同の反応に、老人が呵々と笑った。笑い声まで溌剌としている。

    「あの……?」
    「お主が狼とやらか。うむ、いい面構えをしておる!」
    「は……?」
    「よくやってくれた、とっておけ」

     手土産らしい一升瓶をテーブルに置かれて顔が引きつる。銘酒とあるが、狼は下戸だ。
     なにがよくやってくれたなのかわからない以上は受け取れない。

    「酒は、飲みません」
    「そうか! 素直な男よな! 無礼だが気に入った!」

     狼が断りを入れ、間近で弾けた笑い声は破壊力がすごかった。
     
     ◇
     
     突然の来訪者、老人は一心と名乗った。
     狼はどこかで聞いたことのある名前だ、と引っかかりを覚えた。記憶を手繰り寄せる。
     確か九郎の遠縁かなにかで、頭が上がらないという——そうだ、エマの上司だったか。であれば狼も無碍には扱えない。
     ひとまずソファーへどうぞ、と着席を薦め、どうしたものかと対応に困っている事務員の一人に茶の準備を頼んだ。慌てて給湯室に駆け込んでいく。その間、狼は一心から質問攻めに遭い、対応に困っていた。
     玉露が出てくると、一心は一口啜り、打って変わって静かな声で話し始める。貫禄のある深い声はいつまでも聞いていたくなるようなものだったが、時折声量が爆発するので違う意味で気が抜けない。

    「儂の孫がな」老人の語りは本題に入ったようだ。
    「まご」狼は脈絡のない言葉に首をかしげる。
    「弦一郎という」

     よく聞く名前だ。数日前に別れた、というか消えてしまった、束の間の同居人がそんな名前だった。
     流行っている名前なのか。偶然の一致か。狼は黙って聞いている。
     あのマンションには今現在まで立ち寄っていない。エマからその必要がないと言われたためだ。仕事は終わったのだ。

    「あれは、昔からどうにも感受性の強い子でなあ」
    「……感受性……?」

     まさか老人特有の孫可愛い自慢演説が始まるのではなかろうな、と狼が少し身構える。

    「そうだ。昔からよく、妙なものを見ては泣いておった。まつろわぬものの声や姿をな」

     その鋭感に覚えがある。幼いころ、似たような経験をした。
     どうやら、あの部屋にいたものとも無関係ではない。

    「万人に向けられる優しさというものは、いずれ滅びを招く。弦一郎は、おそらく声を聴いたのだ」
    「……死人は、死人として扱うが当然です」
    「そうとも。耳を傾けてはならん。話をするなどもってのほか。取り込まれたか、惹かれたか、儂には知りようもない。あれはある日突然昏倒し、意識を失ったまま半年ほど眠り続けた」
    「では……」今は、眠っていないということだろうか。
    「ああ、目が醒めた。隻腕の、いや狼か。隻狼、でよいか」
    「よくはないです。俺は薄井です」
    「カカッ! 改めて礼を言う。よく、儂の孫を救ってくれた」

     深々と頭を下げられる。誠実な感謝を示されて、狼は目を丸くした。恐縮しながらも、いえ、と呟いた。

    「……私は、なにもしておりません。エマ殿や、九郎様のおかげですし、あれでよかったのかどうかも……」
    「ふむ、自覚がなかったか。一か月、か? あの部屋に住んでいる間、体調を崩し、急な眠気に襲われたと聞いておるが」
    「それは……いつもです」
    「そうか! おぬしもそういう性質だったか!」

     一心は笑い皺のくっきりと刻まれた目尻を下げ「相性がいいのやもしれんなあ」と呟いた。
     狼は何のことかわからず疑問を深めたが、しかし問いかけることはしなかった。
     
     ◇
     
     その週末。
     狼は九郎とある総合病院に来ていた。
     ある人のお見舞いに行くのだが、急ぐ用事がなければ狼にもついてきてほしい——九郎にそう願われては断る理由もない。
     見舞いは頻繁とまではいかないが定期的に行われていたものであったらしく、花屋に行くといつものでよろしいですかと聞かれていた。小さなフラワーアレンジメントを手早く作ってもらい、両手に持って歩いている。
     見舞いの相手は狼の知らない親族であるそうだ。ご家族の方以外は遠慮くださいと断られて、ロビーで面会が終わるのをぼんやりと待っていると、九郎が今日は眠られていたと残念そうに戻ってきた。隣に座り、空になった花の紙袋を預かる。中身は病室に置いてきたようだ。
     両手を椅子について、前かがみに座った九郎がぽつりと零す。

    「葦名弦一郎、わたしの遠い親族だ。一心様の孫にあたる」

     その名前は、あまりにも記憶に新しい。

    「あの嵐のあと、目が覚めたらしい。ある事故から半年ほどずっと眠っていて、……もうだめかと思っていたのだが、よかった。何らかの折り合いを付けたのかもしれないな」
    「……生霊だったとか、そういうわけではないですよね」
    「さあ、どうだろう? 起きられたら、話をしてみたいな」九郎はなんだか楽しそうだ。

     順番待ちの誰かの名前を看護士が呼ぶ。誰かが応える。日常がそこにある。もうすれ違うこともないだろう人が生きて、いくつもの喜びや悲しみがこの中で生まれてはやがて外へと出ていく。
     長い眠りから目覚めた男も、いつかは同じように。

    「そうですね」

     その男のことを知りたいと少しだけ狼は思った。

     帰り道、病院へ向かうエマと会った。
     初めて出会った時とは違い、ずいぶんと精力的に動いているようだ。目の下の隈も消えて、エマは忙しいが充実していますと近況を語った。
     義手はもうしばらくかかるそうです、すみません——そう謝罪されて、狼は片腕の生活にも慣れているのであまり気にしていないと答えた。今のところ仕事はそこまで立て込んでいない。
     あのマンションの部屋は、手つかずのまま残されているという。賃貸にはもう出していないそうだ。
     もし狼が同じ部屋をまた利用したいなら歓迎すると言われた。なんとも返事のしにくい話だった。良くも悪くも——どちらかというと悪い方に傾き気味の思い出がある。恐怖体験ばかりを思い起こさせたが、過ぎてしまえば一人の身勝手な男に散々振り回されただけだった。
     一か月と少し。
     夏の終わり、季節の変わり目に起きた、奇妙な出逢い。
     秋の空と同様、瞬くような目まぐるしい日々だった。
     いつか気が変わればそのときは頼む、と狼は気持ちを素直に話し、お待ちしております、とエマは微笑んだ。
     その背中を九郎と二人で見送る。結ばれた髪は少し伸びたかもしれない。白い日傘はしていなかった。
     季節はゆっくりと移り変わっていく。
     あの部屋だけが時が止まったように変わらないまま。
     
     ◇
     
     十月下旬。
     あのマンションから狼が事務所兼自宅に戻り、生活サイクルを夏以前のものに直し……つまり不規則な生活になって二週間ほど経った頃のこと。
     洋装の男が、平田探偵事務所の扉を叩いた。

    「副所長と会う約束をしている」

     低音の、一度聞いたら忘れられないような、美声の持ち主だった。
     見れば随分と背の高い偉丈夫だ。落ち着いた色合いのインバネスコートを羽織っている。無造作に結んだ髪が額にかかり、日に焼けていない白い肌には包帯が覗いていた。
     手には長い箱が飛び出た紙袋を大小と提げている。降りてくる声の位置の高さに、近くにいたスタッフが呆気にとられた。慌てて立ち上がり、手元を確認する。

    「は、はい。……葦名様でよろしいですか。お伺いしております。副所長が戻るまでには、もうしばらく掛かりますが……」
    「迷惑でなければ中で待たせて貰ってもいいか」
    「お茶くらいしか出せませんが、よろしければ」
    「お構いなく。病み上がりなものでな」

     では、そちらでお待ちください。揃えた指が案内したのは、事務所の中央に設置している応接コーナーだ。年季の入ったソファーがテーブルを挟んで対になっている。男は袋を傍らに寄せると深々と腰掛けた。スタッフは今までに多くの人が腰かけて座ってきた、革張りのそれがあんなにも小さく見え、そして沈むのを初めて知った。
     お茶をお持ちしますと別の事務員がさっと席を立つ。
     確か玉露があったはず、と思い返しながら扉を開くと、あっと声が出た。

    「ああ~」
    「む」

     給湯室は事務所と通路へ出入りができるよう扉がもう一つあり、外から直接入れるようにもなっている。
     小さなシンクと戸棚、雑多なものが収納してある狭いスペースには既に人が立っていた。狼だ。彼は聞き込みを終えて戻ってきたばかりだった。腹が減ったので、給湯室で少し遅い三時のおやつを満喫しようと準備をしていた。
     レンジで温めたばかりのほかほかの肉まんを出したはいいが、来客でどうにも出ていきづらかったので、その場で肉まんをもぎゅっと頬張ったところだった。茶を出しに来たスタッフと目が合ってしまい、なんとも不満げな顔をされる。

    「薄井さんずるい」
    「むぐ。ずるくは、ない」

     人数分あるし冷蔵庫に残りは入っている。飲み込んでから、ぼそぼそと声を抑えて続けた。

    「冗談です。お客様用のお茶を淹れていただけますか。玉露で」
    「俺がか」
    「肉まん食べたら手が空くでしょう。よろしくお願いしますね」

     そう託して事務机へ戻ってしまったので、狼はその背中を見送ってぺろりと唇を舐めた。
     仕方なく急須と湯呑みを棚から取り出し、茶請けの準備をする。
     男の待つ応接コーナーは給湯室を出て、パーテーションを挟んですぐなので、手早く用事を済ませる。狼の手際は良い。教わった通りの作法で急須から茶を注いで、小さな盆の上に器と菓子を適当に選んで懐紙の上に置く。扉を出て男の視界に入ると会釈をし、茶と菓子を載せた皿を置いていく。
     その間、しつこいほど視線を感じた。穴が空く。もう空いているかもしれない。そんな熱心な視線だ。どうぞと指を揃えても狼を見ている。さすがに耐えかねて声を出した。

    「粗茶ですが……、あの、何か?」
    「酢醤油と辛子はいらん派なのか」

     事務所にいた何人かがむせた。
     もしや食べ残しがあったのかと、お盆を盾にして狼は口元を隠した。
     パーテーションで区切られてはいるが、会話は丸聞こえだった。事務所はそこまで広くない。ついでにレンジを開けた瞬間から肉まん特有のいい匂いはしていたが誰もそれには触れなかった。
     眼を泳がせ、応えるかどうか悩みつつ狼は男を見上げた。そこで初めて顔を見た。
     つい、疑問符が口からこぼれる。

    「…………、は?」
    「いや、すまない。独り言だ」

     聞き返したと思ったのか、男は一言侘びて茶を啜った。
     うまい、と小声で褒め、小さいであろう茶器を口に運ぶ男は、首に包帯を巻いていた。
     額にも横一文字の古い傷痕が見て取れる。病み上がりと言っていたが、入院生活が長かったのだろうか。伸びっぱなしのような黒髪を後ろに束ねていて、頬は少しこけている。髭はあたったようだが、何よりもこの顔。多少けだるげで、血色はほどほどだけども、とにかくこの顔。
     知っている。狼はこのかんばせをよく知っている。具体的には二週間くらい前に、忘れられそうもない思い出を強烈に残していった男の顔だ。非常によく似ている。というか瓜二つだ。
     狼は確信をもって尋ねた。

    「……どこかで、お会いしましたよね」
    「九郎様! 薄井さんがナンパしてます!」
    「ナ……ナンパではない」

     スタッフが後方で耐えられないように声を上げ、真面目な声が一気にふやける。
     九郎が戻る時間でもないのに思わず玄関に目をやった。当然だが誰もいない。安心する。
     一部始終のやりとりを面白そうに唇の端を上げて眺めている男。低音が揶揄うような色を乗せて囁いてきた。

    「違うのか?」
    「違う」狼は憮然と言い返す。
    「そうか。残念だ」
    「ナンパだ!」スタッフがざわめく。端末を取り出す様子が見えた。
    「ナンパではない。おい、九郎様には報告するな。……残念?」
    「ああ、残念だ。俺は一目惚れを信じているから」

     一気にその場が静まり返った。
     水を打ったように、スン、と皆真顔になってしまう。

    「………………」

     狼は呼吸を忘れたように沈黙し、盆を抱きかかえるようにしてじりじりと後ずさり、最終的には給湯室に引っ込んだ。ぱたりと扉が閉まり、沈黙が満ちる。
     どうしてくれるのだこの空気。事務員たちはこそこそと姿勢を低くした。関わり合いになりたくなかった。
     男は何も言わず狼の姿を見送り、背中が見えなくなってからソファにゆったりと身を沈めた。その口元はわずかに上がっている。
     
     ◇
     
     午後四時になった。
     鳥の鳴き声とともに空が白っぽい夕闇を湛えていく。ぱたぱたと軽い足取りが近づいてくる。神か仏かもしくは九郎だ、とスタッフは事務所の扉を開けて迎え入れた。

    「九郎様おかえりなさい、あのー薄井さんが天岩戸に引きこもってしまったので、ちょっとひと声かけていただけますか……!」

     飛びつかんばかりに歓迎されて九郎はきょとんとしている。
     勢いのある出迎えに目を丸くしつつ、鞄を抱えて事務所の中に入る。苦手だという詰襟を着るようになり、窮屈そうに首元を弄っていた。

    「どうしたんだ、皆? いま戻ったぞー狼」
    「少し早いが邪魔しているぞ」背の高い男が九郎の姿を見て立ち上がる。 

     天岩戸がすこしだけ開かれたが、すぐに閉じた。

    「弦一郎殿!」九郎は表情を明るくして駆け寄った。
    「おかえり」
    「もう退院されたので? お加減はよいのですか」

     身長差を除けば兄弟のような二人が並ぶ。待望の対面とばかりの会話は割って入りづらいものだった。

    「ああ。見舞いをいつもありがとう、世話になったな」
    「そんなことは……お元気になられて本当によかった」
    「迷惑をかけてしまった。すまなかった」
    「弦一郎殿……」

     しんみりとした九郎に、弦一郎は話題を変えるように土産だという小さい方の袋を手渡した。中には上品な焼き菓子の詰め合わせが入っている。皆さんでどうぞと言われて事務員たちは喜んで礼を言う。さっきまでは蛇に怯える鼠みたいに縮こまっていたが、手土産には素直につられた。
     狼はまだ給湯室に籠っているが、おそらく聞き耳を立てているだろう。
     弦一郎はもう一つの長い箱が飛び出た袋を取り出して、中身をテーブルに置いた。箱はシンプルだが、それなりに重量があるようでごとりと音を立てた。

    「もう一つ。これは、エマからだ」
    「……これは! 狼、すこしいいか」

     開かずの岩戸と化していた扉が重苦しく開き、無表情を湛えた狼が出てくる。その返事も重い。

    「はい…………」

     九郎はしおしおと萎んだ様子で出てくる狼を不思議に思ったが、周囲の人間には表情のない男が渋々出てくるように見えていた。ソファーを勧め、対面に座る。狼は遠巻きに立っていたものの、座れ、と男に促された。仕方ないので九郎の横に座る。
     男が、長い箱を狼に向けずいと進める。
     箱にはなんの印刷もされていない、シンプルなものだ。中身が何かは想像がつく。

    「俺は葦名弦一郎という」

     もう知っている、と狼は思った。

     ◇

    「エマから義手を預かっている。俺が壊してしまった」

     ソファーに座り、弦一郎がテーブルの上に置いたものは、やはり約束されていた義手だった。

    「弦一郎殿、あなたが壊したわけでは……」

     九郎は弦一郎と向かい合うように対の椅子に座り、真摯な態度の男に首を振る。狼はその隣で、少し気まずい気分で眺めている。
     同じ高さのソファーであるはずなのに座高が違いすぎる。この年齢になって自分の身長を顧みることがあるとは思いもしなかった。
     弦一郎は二人に向かって頭を下げている。

    「いや、うっすらと記憶がある……迷惑をかけて大変申し訳なく思っている。約束の品だ、着けてみてくれるか」

     開かれた箱の中に入っていたのは、緩衝材に包まれた真新しい義手だった。おお、と九郎が声を上げる。以前つけていたものと同じもの——のように思えたが、さらに精度がいいかもしれない。持ち上げれば軽く、不思議に馴染むような感触だった。言われるまま試着するべく席を立とうとして、狼はふと、義手の薬指に何かが光っているのを見た。
     義手本来のパーツではない。何かが意図的に嵌っている。
     銀色の、つるりとした、輝く輪。
     サア、と血の気が引く。

    「………………」

     見なかったことにしようか悩んでいると、弦一郎はつぶさに狼を見つめており、その思考を読んだようだった。
     何かの間違いだろうと思って、箱に戻す。九郎が、つけてみないのか? と小さく聞いてくるが、そんな気は起きなかった。なんだか頭痛がしてきた。首を振り、緩衝材を元に戻した。蓋もしたかったが、届かない位置にあったのであきらめた。

    「薄井狼」

     いま一番口を開いてほしくない相手が、ひたと視線を合わせてきた。その瞳は黒々と、どこか青いような目をしている。鉄紺のような。緑にも青にも見える澄んだ色だ。

    「…………」

     狼は何も言ってくれるなと願いながら黙っていたが、世は無情。
     男はかさついた薄い口唇を開いた。身構える狼をさらに混乱させる言葉を紡ぐために。

    「最終的にはソレの処遇を含めた交際を申し込む。付き合ってくれ」

     そうして、何人かの呼吸が止まった。
     九郎が狼と弦一郎の顔を見比べて、何かに気づいたように箱の中身をのぞき込む。瞬間、声にならない悲鳴が上がった。
     横で激しく動揺する九郎をなぜか狼が宥め、数拍置いて、やっとのことで答えた。

    「ばかなのか……?」

     客人だろうが何だろうが知ったことではない。素直な気持ちを吐き出した。
     なぜか弦一郎が笑いだしそうな顔になっている。

    「ああ、莫迦になってもいいか、と思えたのだ。お前のおかげだ」
    「ざ、ざれごとを……」
    「先約したと言ったろう」

     身を乗り出してきて、ぎゅっと生身の手をにぎりこまれる。温かい手だ。生身の、いやそれよりも、この触れ方。
     覚えている。忘れられるはずがない。
     指の上から絡めるような。恋慕のような。誘うような。腹の中からわけのわからない、感情とも言い難い衝動が沸き上がって、狼の目はわずかに潤んだ。

    「く、くろうさま……」絞り出たのは助けを求める、泣きそうな声だった。
    「俺は、お前に、惚れた。以上だ」 

     一目惚れを信じる性質とかどうとか。
     惚れたとかどうとか。
     一度に処理できる許容量を越えた事だけがわかる。

    「やっぱナンパだった……」だれかが呟く。

     もう狼は消えてなくなりたい気持ちでいっぱいだ。
     衆人監視のもと一体何を言われているのか。
     じわじわと体温が上がる狼の様子を見ていた弦一郎が、矛先を九郎に変える。素数を数えて平静を保とうとしていた九郎がひぇだかなんとか奇妙な声を上げた。

    「九郎、今すぐとは言わんが、この男を俺にくれ。堪らん」
    「げ……弦一郎殿はまだお加減が……よくなくて……そうですよね……?」

     九郎もやや思考を置いてけぼりにしている様子である。そうであってくれ、と祈るような顔でもあった。
     つまり錯乱しているのでは? と遠まわしに言われた男は首を振り、きっぱりと断った。

    「悪いが起きてからはずっと正気だ」
    「——であれば。狼は、狼の意志でなければ、渡せません」

     こちらも断ち切るようにきっぱりと。九郎はNOと言える男子であった。

    「では薄井狼、どうなんだ」
    「狼! あの方と弦一郎殿は似て非なるものだぞ」
    「そりゃあ俺は生きているからな」アレと一緒にされては困る。

     黒髪の美男子と偉丈夫に挟まれて狼はぐるぐると目を回している。

    「……あ」狼が耐えかねたように口を開く。
    「明かせぬ、は、無しだ」と弦一郎が言う。
    「…………あたまがいたい」

     そうだろうな、と事務員は皆思った。

    「……失礼いたします……」

     よろよろと魂が抜けた様な狼が給湯室へ向かう。そこから外に出るつもりだ。逃すかと男が追うように席を立ち、九郎が引き留めた。

    「——狼は、わたしの大切な家族です」
    「そう聞いている」
    「あなたがエマ殿を大切に想うように接してください」
    「痛い所をつくな。当然大事にするとも。ただ……」
    「ただ?」
    「エマは人妻だぞ。俺はあれに劣情を抱くことはない」
    「そういうことでは! なくて! もう!」

     九郎がいよいよ耳まで赤くなって怒った。
     
     ◇
     
     屋上に上がると夕方の気持ちのいい風が狼を包んだ。夕焼けの雲が美しく彩られて、そう先ではない宵を誘っている。
     遠く山が橙に染まり、紅葉の時期ももうすぐだな、と現実逃避してしまう。
     冷たいフェンスに手を置くと、目が覚めるような冷たさだった。秋の終わりが近づいている。
     
     後ろで屋上に続く鉄扉がキイと開かれた。追ってきたのは弦一郎だ。鍵をかけておけばよかったと狼は後悔したが、距離はすぐに埋まってしまった。隣に並ばれて、苦い思いをする。

    「すまない、唐突だとはわかっていたが……」

     唐突もなにも今日が初対面のはずである。全然他人と思えないけれども。
     狼は無言で遠くの山並みを見つめていたが、しばらく考え抜いて、男に向き合った。
     弦一郎は狼の言葉を待っている。

    「俺はあなたのことなど、何も知らない」
    「そうだな。これから知っていくというのはどうだ」
    「遠慮する……」

     会話が終了した。男はあきらめない。

    「まあ、なんだ。その、勝手に口を吸ったのは俺ではなくあの俺だが」
    「思い出したくないことを思い出させるな」
    「嫌なのか?」
    「…………そうだ」
    「そうか。ふうん……」

     コートに隠された腕が伸びてくる。空の袖を握られて、狼は眉をひそめた。

    「嫌だと言っている。触るな」
    「すまん、触れてみたかった。俺は、あれとは意識を混同しつつあったが、触った感触まではわからない。あれの感情はひどく重苦しくて。とにかくやっと触れるんだ。一か月も耐えた」
    「……耐えた?」
    「あれはお前たちに執着していた。妄執だったろうが、それほど欲しかったんだろう。その感情が、色濃く俺にも残っている。これが独りよがりなものだとはわかってはいるが……欲求には勝てずに、来てしまった」

     指先が袖の上、手首のあたりを撫でる。ただの服だ。中身はない。生身に触れたわけでもないのに、ぞわっとする。ここしばらく感じたことのなかった寒気だ。狼は混乱して、小刻みに首を振った。
     後ずさると、軽く捕まえられている袖が伸びて、一本の紐のようになる。影が二人をつないでいる。

    「だから、さわ、さわるな。さわらないでください」

     狼の動揺を隠しきれない声は、言葉の強さに対して小さい。

    「……んん……」

     弦一郎は唇を噛み、唆るな、だとか、擽られるとかぶつぶつ言っている。

    「だいたい、なんだ、あれ、あの、ゆ……ゆび……」
    「指輪か、手っ取り早く絆を作っておこうと思ってな」

     絆とは聞こえこそいいが、ようは網である。家畜をつなぎとめるもの。
     断とうにも断ち切れない人の結びつきを意味する。
     つまり既成事実という。一心や連れの男の様子が妙だった意味が今になって分かった。まさしく値踏みされていたのだ。

    「ひ」
    「卑怯とは、言うまいな?」
    「卑怯だ!」
    「卑怯かー」

     朗らかにしている場合か。笑顔になるな。狼はもうわけがわからない。
     途方もなく厄介なものに見つかった。いや、つかまった。そしてそれは、目の前で大きな口を開けて、今にも飲み込もうとしているのではないか。
     離す様子もない袖を引っ張るが、抜けない。びくともしないのだった。脅える子犬のような反応になってしまう。

    「重すぎる、なんなんだ葦名弦一郎」
    「はは、やっと名前を呼んだな」

     子どもみたいに笑われても。
     頭が痛い。狼は深い眉間の皺に手を当てる。
     不意に、最後に呼ばれた名前を思い出した。
     
     ——狼よ。
     
     ……何か。ひとつ、見落としたような。
     狼は顔を上げ、笑みを浮かべている弦一郎を見た。
     燃えるような茜雲と夕陽を背負って、男の輪郭が染まっている。
     伸び放題だが櫛を通し、後ろで纏められた髪。あの傷だらけの男とは別人のようだ。
     それでも何かひどく、心をざわつかせる。
     ……あの眼だ。緋色が、一瞬宿ったように見えた。見知った気配に狼の背は震えた。手が冷えている。秋風は冷たく、冬の気配すらする。
     今、きっと、口の中に入る寸前のような。最後に獲物をいとおしそうに見つめて、口唇が閉じられる寸前のような——そんな錯覚を覚えた。
     狼は確信をもって尋ねる。

    「……まだ、いるのか」

     暗澹たる雲が広がり始める逢魔が時。建物は暗く、闇に覆われ、人々が明かりを灯し始める。
     現し世と闇夜が混ざり、境界線は曖昧に、どっちつかずが跋扈する。
     だから、そんな気がしたのかもしれない。

    「お前風に言うならば、明かせぬ、といったところか」

     男は夕陽に背を向けて笑っている。

    「返事は?」
    「…………言えぬ。まだ」
    「まだ、か。なるほど」

     多少の脈はあると見た。弦一郎は掴んだ絆を引き寄せて、影を一つにする。
     狼はその拘束を、解けないままでいた。魅入られたように、変移を見届けてしまった。
     陽の堕ちる寸前の、幻かもしれないけれど。

     その瞳は確かに、いつかの緋色を灯していた。


                あわいの累夜      ——了




    あとがき

    https://privatter.net/p/6657584

    榛摺 Link Message Mute
    2021/07/10 22:18:02

    あわいの累夜

    現代パロディ。探偵事務所で働く狼さんと、副所長の九郎さまのシリーズ。
    直接記載していませんが、とあるエンディングのネタバレを微妙に含みます。



    #弦狼  #現パロ  #主従

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