田舎暮らしひゅうあさ1 ゆらゆら水面が揺れている。
ずっと見ているうちに、自分も同じように揺れていたらしい。気付いたときにはすごいスピードで、水面が眼前に迫ってきていた。
ぶつかる、と目をきつく閉じた瞬間、衝撃とともに身体が止まった。
体勢を立て直され、堤防に腰掛けた元の状態のまま呆然と瞬きをする。横から伸びてきた腕に、両肩を掴まれたのだと分かった。少し前から近くで様子を見ていたのだろう。
「死ぬのはまだ早い!」
声の主の方を見る。助けてくれたのは、凛とした雰囲気のある年配の女性ーーいや……その顔には見憶えがあった。写真でしか見たことは無かったが、間違いない。急いで立ち上がって会釈し、走り出さんばかりの勢いでその場を離れる。このようなことになってしまったらどうしようという思いは、来る前に頭を掠めてはいた。が、まさか初手で出会ってしまうとは。
「ちょっと、そっちは崖だよ!」
背中にぶつけられた聞き捨てならない言葉に思わず立ち止まる。小走りで追いかけてきた澤木千尋は、息を切らせながらも逃すまいという強い意志を感じさせる動作で手首を掴んできた。
「いたた……」
「やっと喋った。……あなた、私が誰だか分かるのね」
「あなたこそ、僕が誰だかご存知ですね……」
観念して、全身の力を抜いた。謝罪をするために地面に膝をつこうとしたら、「そんなことしなくていい」とそれも阻止された。
「うちに来なさい」
有無を言わさず歩きだす背中は、確かにあいつに似ていた。
ーーおかしくないか?
なんであいつはまっすぐ帰ってこない。なんで僕の方から出向かなきゃならない。しかも、なんで僕の……。
座席に深く腰掛け腕を組み、肩幅に開いた脚で床を踏み締め目を閉じて、時折頭をいらいらと左右に振る日向徹は他の乗客から奇異な目で見られ、遠巻きにされていた。
ずっと辛かったし寂しかった。やっと会えると思ったのに、待てども待てどもあいつは来ない。こいつはおかしいと漸く気付き、朝比奈燿子に探りを入れまくってやっと彼がどこに行ったのか判明したときは、安堵と苛立ちでおかしくなりそうだった。
到着を告げるアナウンスが流れ、立ち上がる。バイクとともに下船して、グローブとヘルメットを装着する。車体に跨ってからひとつ息をつき、馬鹿みたいに晴れた空を見上げた。
ーー待ってろ朝比奈!
「ひなっち、これさっき獲れたから。晩メシにしな」
「うわ、ありがとうございます」
道を歩いているだけで、何かと手渡されるのが最近の常だ。氷入りの発泡スチロールに入った瑞々しい魚を家まで運び、奥の和室で休んでいる千尋さんに「これ、竹村さんから。台所置いときます」と断って流しの近くにそっと置く。
「俺、買い出し行ってきます。なにか追加のものがあれば電話かメールください」
「ありがとうね。気を付けて」
老眼鏡を外し、小さく両手を合わせる千尋さんに向かって頷き、玄関に引っ掛けてある軽トラックの鍵を手に外へ出た。
庭に回って、車に鍵を差し込んだ時だった。遠くから、バイクのエンジン音が聞こえてきた。
誰のものだかすぐに分かった。鍵を持った手を引っ込め、音のする方に向き直る。そこまでは存外冷静な気分だったが、車体が見えた瞬間、ひりつくような気持ちが全身を支配した。縫い付けられたようにその場から動けなくなる。
日向徹は真っ直ぐ此方に向かってきた。家の敷地の前でバイクを停止させ、車体から降りる。フルフェイスのヘルメットを被ったその顔は、立ち尽くしている自分を真正面から見つめていた。
顎のベルトを解き、ゆっくりとヘルメットが外され現れた徹の素顔を見て真っ先に感じたことは、「懐かしいな」ーー
「この辺に、やり手の飲食店経営者がいると聞いて来た。お前、知らないか」
「俺の……」
声が震える。息を吸い込んで、言い直す。
「俺の雇用主のことじゃないかな。うちの定食屋、結構繁盛してるんだ」
「その人の名前は」
「澤木千尋さんだ」
「僕が探しているのは朝比奈恒介という男だ。そいつのコンサルで最近売上を伸ばしたんだろう」
「コンサルってそんな大袈裟な……」
「朝比奈!」
伏せかけていた顔を上げる。両手を握りしめた徹は、肩を震わせていた。怒っている。
「どうして帰って来ないんだ……」
一歩、二歩とふらふら自分の方へと歩いてきた徹に抱きしめられる。赤子のように熱い身体と小さく喉が鳴る音で、彼が泣いているのだと気付いた。
「社長直々にヘッドハンティングしに来てやったんだ。感謝しろ」
ーーごめんな、徹。
「ありがとう」
「コウちゃん、なんかすごい音がしてたけど車の調子でも……え?」
いまだ自分にくっついている徹が耳許で「コウちゃん?」と呟く。腕で目をゴシゴシ擦って自分から離れ、徹が千尋さんに向き直る。
「突然すいません。東京でNext Innovationという会社を経営しています。日向徹です」
「あら社長さん、お久しぶり。……前にも一度来てくれたわね」
「憶えていてくださったのですね。ありがとうございます」
他人のふりを貫く親子の会話を、固唾を呑んで見ていることしかできない。
「恒介さん、社長さんとゆっくりしてたら? 買い物は私が行ってくるから」
「いえ、俺たちで行きます! 千尋さんは仕込み始めててください」
徹を助手席に押し込んで、軽トラックを発車させた。
じっとりとした視線を感じる。
「乗り心地が悪い。お前は運転が上手いから、道か車が悪い」
言いたいことを避けて、徹はそれたことを言う。あと、今ちょっと褒められた気がする。
「悪かったな」
ーー本当に、悪かった。
「……どこに行く」
「スーパーとホームセンター。十分くらいのとこ。お前は車の中で待っててくれ。連れ出してきてしまってごめんな」
「そうか」
「……」
「……」
猫の餌やらキッチンペーパーやらこまごました買い物に、徹は怠そうにカートをコロコロ押しながら付き合ってくれた。「ありがとな」と言うと、ふんと鼻をならして助手席に乗り込む。それから再び車を走らせて、来た道を戻った。日が暮れかけていて寒かった。窓の外を眺める徹の横顔は、拗ねているように見えた。都市部から遠く離れたこの土地でトラックに揺られる日向徹は、普通の青年のように見えるなと頭の片隅でぼんやり思った。思ってから、普通の青年か、と思い直した。
日向徹を日向徹としてしか見なかったから、自分は誤った選択をしてしまったのだ。同じ間違いを繰り返したくはなかった。
暫くして、店舗兼住居の千尋さんの家がヘッドライトに照らされて見えた。庭に元通り駐車して、勝手口に荷物を置く。それから店舗の方に回り、入口から中を覗いた。徹も後ろからついてきた。
「戻りました」
「おかえりなさい」
調理場にいた千尋さんが此方を振り返る。
「千尋さん、部屋に日向上げていい?」
「もちろん」
こっち、と徹を促し、再び居住スペースの方にある勝手口から中に入る。
二階に上がって、ここに来てから使わせてもらっている元空き部屋の和室に通す。襖を開けた途端、どこからともなく飼っている猫が背後から現れ、部屋に小走りで侵入された。「コタ。オス」と一応紹介する。
「あそう」
千尋さんも後から階段を上ってきた。
「恒介さん、今日はお店出なくていいからね」
「いやでも……」
返事も聞かずに下りていく。徹を部屋に入れて、少し迷ってから自分も入った。座布団が無いため、畳に座ってもらう。襖を閉じると足元に猫が寄ってきた。抱き上げて徹の向かいに一緒に座ったら、なぜか逃げられた。
「どいつもこいつも、なんで僕の母と僕より親しくなっているんだ」
近くの文机に頬杖をついて、徹は言う。
「ごめん」
「別に責めてるわけじゃない」
朝比奈、元気か。
小さな、優しい声で、日向は自分にそう訊いた。
「見たところ、元気そうだな。僕の知らないところで元気そうにしているお前を見るのは……悲しいよ」
徹は朝比奈の顔を見て、その視線を肩、腰へと徐々に下げていき、時間をかけて全身を眺めた。なんの変哲もない長袖のシャツに、灰色のつなぎの袖部分を腰で結んだだけの服装をしている。日焼けもしたかもしれない。髪も以前より大分短くて、日差しで傷んで少し乱れている。
「帰ってこいと言ったはずだ」
「俺はもう、あの会社にはいない方がいいんだよ。その方が上手くいくんだ。なにもかも」
「勝手にもう終わった雰囲気を出すな。Next Innovationは僕とお前の会社なんだから、僕だけいたって成立しない」
「俺がいなくなっても問題なく回ってたじゃないか」
「お前…………! 僕はなぁ! 朝比奈がいつか帰ってくると思えたから一人で必死に回したんだよ!」
人の気持ちのわからん奴だ。徹は自身の髪をぐしゃぐしゃにかき回した後、吐き捨てるようにそう呟いた。まさか日向徹から人心の機微への疎さについて非難される日が来るとは思わなかった。朝比奈はその一言を聞いて確信していた。もう大丈夫だ。
ーーお前は成長したんだよ。もう俺なんかいなくても大丈夫だよ。
「だいたい、俺は戻って来るなんて一言も言ってない。お前が勝手に思い込んで、勝手にやる気になってただけの話だろ」
「僕と会社、どっちが大切なんだ」
激昂するかと思ったのに、日向は急に静かな声で面倒臭い恋人のようなことを言う。思いもよらない反応に戸惑い、なにも言葉を返せない。
「どっちが大事だ。答えろ」
答えようがない。その二つは不可分だ。
「どうしてそんなことを訊く?」
「朝比奈は僕を守るために会社から離れようとしているんだろ。お前は、僕のことが好きなくせに、僕の意思を全く尊重しない。一体どういうことだ」
徹はそこで立ち上がって、近くに座っていたコタをひょいと持ち上げた。コタはいちはやく危機を察知して、その腕を擦り抜けて部屋の隅へと走っていった。どうにもそりが合わないらしい。
「あんまり乱暴にするなよ」
「僕もしばらくここにいる」
「へ?」
「君にはもうすこし、切り替える時間というやつが必要なんだろう。それが終わるまで待つ。この近くに宿でも借りるかな」
徹だって、俺の意思を聞く気が無いんじゃないかと思う。自分も徹も勝手だということなんだろうか。……だいたい仕事はどうするんだ?
「今、仕事はどうするんだって思っただろ。いつでもどこでも繋がれるのがITの良いところじゃないか。そんなことも忘れてしまったのか」
気の毒そうな目で見られてむっとする。
「対面じゃないとできないことだってあるだろ」
「大丈夫。全部引き継いできた」
じゃあな。今日は帰る、また明日来る。そう言ってあっさり出て行こうとする徹が襖に手を掛けたとき、向こう側から千尋さんに「社長さん、今日泊まっていくでしょう。あとで二人ともご飯食べに降りて来なさい」と声を掛けられた。徹と顔を見合わせる。
「そうすれば? 俺が言うことじゃないけど」
徹は両眉を上げて、小さく頷いた。
「そうだ。さっきもらった魚も捌かなきゃな。徹も手伝ってくれよ」
自分も立ち上がる。魚という単語を聞いたコタがにゃあと鳴きながら自分のあとに続く。
三人と一匹の奇妙な交流生活が、始まろうとしていた。