丘の上で取替子
典明がいつものように学校から帰宅したとき、彼は見知らぬ男に呼び止められた。男は典明と同じ年頃で、嘘みたいに整った顔をしていて、綺麗だけども見慣れない奇妙な服を着ていた。今プレイしているRPGに出てくるエルフ族みたいだ、と典明は思った。あれに比べると飾り気がないけれど、こっちの方がぼくは好きだな。
「あの、何か?」
「お前と話がしたい。長話になる、家に上げてくれねえか」
「いいよ、どうぞ」
典明は大きな門を開けて男を自宅へと招き入れた。珍しく母親は留守だった。
広い家で見知らぬ男──彼は2メートル近い体格で、腕っ節も強そうだ──と二人になるのに不安はなかった。典明の直感が、この男は大丈夫だと告げていた。
典明は何よりも自分の第六感を頼りにしていた。十七年生きてきて裏切られたことがないからだ。
彼を応接間に通し、典明は皿に盛ったチェリーと水を振舞った。
「これ、美味しいんだ。どうぞ。で、話って何だい?」
「単刀直入に言うぞ。お前はこの家の実の息子じゃあねえ。おれがそうだ。赤ん坊の頃に取り替えられたんだ」
「ふうん」
典明は生返事をしてチェリーを口に入れた。産地直送で取り寄せてもらったものだ。とても美味しい。
「……驚かねえな」
「いやあ、とっても驚いているよ。だって父さんも母さんもぼくとは血が繋がってないってことだろ。十七年で一番のびっくりだよ。でも今はこのチェリーが美味しいので頭がいっぱいなんだ。ぼく、一度に複数のことを考えるのが苦手なんだよね」
向かい合った男は、ため息をついて天井を仰いだ。
「お前はおれの親代わりたちとそっくりだ。間違いない、お前はあいつらと同じ種族だぜ」
「種族って?」
「妖精だ」
「へえ」
典明は男の端正な顔をまじまじ眺めた。海の底のような深い緑の目。
「君、すごく綺麗だねえ。名前は何て言うんだい?」
「ジョジョだ。そう呼ばれていた」
「ぼくは空条典明って言うんだよ。でも君の話だと『空条』は本当はぼくの名前ではないらしい」
「そうなるな」
典明の目には今や、チェリーも水も映ってはおらず、彼は身を乗り出してジョジョを見つめていた。鼻と鼻がくっつきそうだ。
「でもそうすると、君は『空条ジョジョ』というわけ?なんだかおかしいね。この家の子なんだったら日本人だろうし、日本風の名前をつけなよ。ジョ……ジョウ……承太郎とかどう? 空条の『条』と承太郎の『承』でジョジョっていえるよ」
「悪くない」
ジョジョ改め承太郎は深く頷いてチェリーを手に取った。そのまま神妙な顔をしてもぐもぐやっていたが、「確かに美味い。だが長旅をしてきて腹が減っているんだ、悪いが他には何かねえか?」と言った。
典明は残念そうに答えた。
「うーん、そういうのは母さんに聞かなきゃ。ぼくベジタリアンだし、そもそもあんまり食べないんだよね」
こう言うと、典明のクラスメイトたちは食べ盛り伸び盛りなのに嘘だろうという顔をする。実際、典明はものすごいマッチョというわけではなかったがクラスでも背の高い方だったし、だからといってヒョロッとした病弱タイプでもない。
それでも彼は肉や魚を食べるのには吐き気を催したし──肉や魚が『かわいそう』だからではない。他人が食べているのを見るのも全く平気だ。ただどうも、口に入れるとうまく飲み込めないのだ──野菜だってそんなにたくさんは入らない。少しの果物だけで、もっというとミネラルウォーターだけで十分満腹になれるのだ。
彼の母親、だと思っていた女性、はそんな典明をたいそう心配して栄養価の高い野菜を食べさせようとするのだが、典明はどうしても食べられずにいた。食べたふりをして後で吐くこともあった。
典明本人でさえそんな自分を気持ち悪いと思っていたのに、承太郎は納得した様子で「そうか」と言うだけだった。
「ぼくのことおかしいって思わない?」
「おれが住んでたところでは、そっちの方が普通だった。朝露飲んで花びらかじって、たまに果物食べて終わりだな。いつも腹をすかせているおれの方が異端だった」
「花びら!思いつかなかったなあ、食べたことないや。美味しそうな色だと思ったことはあるけど、無意識に食べ物じゃあないって思ってたな。周りが誰も食べてなかったから」
目の中に色とりどりの花びらを舞わせて夢想する典明を見ながら、承太郎はふっと苦々しいような切ないような、複雑な表情を作った。
典明はすっかり驚いて「ぼく、何か変なこと言った?」と聞いた。
「いや、少し思うところがあっただけだ」
「何?」
「あまりいいことじゃあない。忘れてくれ」
「気になる。何?ぼく、昔から気になることがあると夜も眠れないタイプなんだ。刑事コロンボって知ってる?」
「いや、知らん」
「コロンボっていう刑事が活躍するテレビドラマなんだけど、それで少しでも気になることがあると、もう、ひどくてね」
「だろうな」
「でもあれすごく面白いから、見たことないなら見るといいよ、じゃなくて!君が気にしていることを教えてくれよ。ぼくが寝不足になってもいいのかい?」
典明が承太郎に詰め寄って、またしても顔がぐっと近付いたとき、承太郎はつい首をちょっと伸ばして典明にキスしてしまった。
典明は驚いて身を引き、目をぱちくりさせていたが、唇を指でプニプニしながらも、やっぱり「君は、どうして……あんな……しかめ面?をしたんだい?」と尋ねた。
承太郎はひとつため息をついてから聞いた。
「『チェンジリング』って知ってるか?日本語だと『取り替え子』とも言う」
「知らない」
「妖精が気に入った人間の赤子を、自分たちの子供と取り替えることだ。おれとお前はそれだ。妖精は基本的に子育てをしねえし、親子の情とかもねえからな。お前はおれの代わりに〈こっち〉で育てられ、おれはお前の代わりに〈あっち〉で暮らしてたというわけだ」
「へー。君、器量よしだものねえ。そうしたくなる気持ちも分かるよ」
「おれはお前の方が綺麗だと思うがな。で、この話の問題点は、取り替えられて〈こっち〉に置いていかれた妖精の子供は、ふつう数日もしないうちに死ぬってことなんだ。食べ物か空気が合わねえんだろうな。十七年も生きてるってのは聞いたことがねえ」
「じゃあぼく、妖精じゃないんじゃあないの」
「いや」
承太郎は手を伸ばして典明の髪に触れた。ふわりと揺れる赤毛色。
「お前からは花の香りがする。お前はとても美味そうだ。お前は妖精だろう」
「君……君は妖精を食べるの?」
「いや、そんなことはしねえ。だが、なんというか……上手い言葉が見つからねえんだが、お前を見てると変な気分になる」
「ドキドキする?」
「ああ、よく分かったな」
「実はぼくもなんだ」
そう言って、典明が今度はゆっくり顔を寄せた。
承太郎は典明の頭を撫でていた手を滑らせて後頭部を抱え込み、さっきより長いキスをした。承太郎の舌が口の中に入り込んできたので、その熱くて湿っていてよく動く物体に典明は驚いたけれど、すぐに気持ちよくなって自分からも舌を絡めるようになった。
やっと解放された頃には、無理な体勢だったのもあって、典明は耳まで真っ赤に染めたままテーブルの上に突っ伏してしまった。
「承太郎、君、それで……何で〈こっち〉に帰ってきたんだい?」
「……〈あっち〉で一生を過ごすのは不可能だと思った。方法は随分前から探していたんだが、やっと最近帰ってこれたんだ」
典明は冷たいテーブルに頬をこすり付けながら承太郎を見上げた。潤んだ目に星が映っている。
「どうして〈あっち〉では駄目だったんだ?」
「あいつらは気まぐれすぎる。根本的なところが合わねえんだ」
「じゃあ、ぼくのことも嫌い?」
「嫌いな奴にあんなことはしねえ」
平気そうに見えて、承太郎の頬もまた赤く染まっていた。彼の燃える瞳には赤茶色の花が映っている。
「ぼくが〈あっち〉に行くことはできるのかなァ?」
「さあ、分からん。行きてえのか?」
「うーん、あんまりそのつもりはないな」
泳がせた典明の目に留まったものは、テーブルに置かれた承太郎の手だった。典明はその手に自分の手を重ねた。承太郎の手は一瞬こわばったものの、典明の好きにさせてくれた。
「承太郎は?また〈あっち〉に戻るつもりはないの?」
「ねえな」
承太郎の手がするりと典明の手の下から逃げ出した。それを寂しそうに見送った典明の手は、しかし逃げたと思った承太郎の手に、逆に握りこまれてしまった。
「ここにはお前がいるからな」
その言葉に、典明は体を起こして笑いかけた。承太郎もつられて微笑んだが、ふっと表情を曇らせた。
「だが、ここにはお前がいる。俺の居場所はないだろう」
「そんなこと!」
ない、と典明は言いたかったのだが、確かに彼の代わりに空条の名前を貰ってしまったのは自分だし、彼が得るべきだった愛情をたっぷり享受してここまで生きてきてしまった事実は変えようがない。
典明は、自分が取り替えられてすぐ死なずに済んだ理由に薄々勘付いていた。母方の祖父が、自分の肩を見て首をかしげていたのが思い起こされる。彼らはきっと、赤ん坊が本当の子でないのに気付いていたのだろう。捨て置かれた、醜い、死んでゆくだけの子供。
けれど典明を生かした愛情は、本来ならば承太郎にたっぷり注がれるべきだったものだ。
「……でも……うちは広くて部屋も余ってるし、お金もあるし……ぼくが稼いだお金じゃあないけどさ……君一人くらい増えたって問題ないよ」
「あるだろ。少なくとも、どこの馬の骨かも分からん男をいきなり『空条』にするわけにはいかねえだろう。おれの方が本物だとしても、お前には十七年の実績がある」
それを聞いて典明は、すっかり元気をなくしてうつむいてしまった。
「じゃあ君、せっかく来たのに、もうこの家から去ってしまうのかい。行くところはあるのか?」
「いや、いつもその辺で適当に寝ている。野草を食うのも野外で寝るのも慣れているが、〈こっち〉は寒くていけねえ」
典明は顔を上げて、承太郎をまじまじと見つめた。彼は大柄だが、『よく肥えている』とは言いがたい。目の下にクマもあるし、顔色も悪い。
着ている服は見慣れぬ美しいものだが、野宿に向いているとは思えない。
「そんな格好で、ずっと外で寝てたのか?」
「ああ。何人か親切を装って宿の提供を申し出てきたやつはいたんだが、いざ招かれてみるとおかしなことをされそうになってな、逃げてきてたんだ」
「やっぱり駄目だよ!君をまた一人で放り出すなんてできない。うちには普段使っていない倉があるんだ。ぼくの部屋にある予備の布団を持っていってあげるから、そこにいなよ。少し暗いけど、雨風はしのげるよ」
そう言って典明は、承太郎の手を取って裏庭の倉に案内した。承太郎は素直に従い、典明から布団を受け取って古いタンスの陰に座り込んだ。
「じゃあね、また来るからね。食べ物とか持って来てあげる」
言いながら重い扉を閉め鍵をかけたとき、典明の背中をものすごい速度で駆け上がる何か快感に似たものがあったが、その正体は分からなかった。
それから典明は、棚のおやつや非常食として保管されていたカップ麺、自分で買ってきたパンなんかを持って承太郎に会いに行った。暗くて狭いこの倉のことは典明は好きではなかったが、そこに承太郎がいるのならば話は別だ。
典明は気配を消すのが非常に上手く、普通に立っているだけなのに驚かれたり、いつの間に立ち去ったのかと尋ねられたりするものだから、今回も倉へ足を運んでいるのには誰にも知られていない自信があった。
けれど彼の母親はよく気の付く女性で、今まで子供か修行僧かというくらいものを食べなかった息子が冷蔵庫や戸棚をがさごそやっているのを見過ごすわけがなかった。
「典明ったら、内緒で犬か猫でも飼っているの?教えてくれないなんてママ寂しいわ」
「そういうわけじゃあないんだ」
「じゃあどういうことなの? 典明はふわふわしてるから心配だわ」
「うーん、何と言うか……実は、母さんに紹介したい人がいるんだ。でも心の準備がまだできてないから、もうちょっとだけ待ってくれないかな」
「まあ典明、ママの知らないうちに恋人ができたの?」
恋人、という言葉に典明はぽかんとした。恋人だって?承太郎が?僕の?
それから、彼の黒い髪と緑の目を思い浮かべた。うん、悪くない。
そこで少女のようにはしゃぐ母親にきっとそのうち会わせるからと約束し、こっそり買ってきた弁当を携えてうきうき倉へと赴いた。
承太郎は典明を一目見るなり「上機嫌だな」と声をかけた。
「分かるかい?ぼく、すごくいいことを思いついたんだ」
そう言って典明は、布団の上に座った承太郎にしなだれかかった。承太郎は典明の腰を抱いて受け止める。
「君、ぼくが来ないときはどうしているの?暇じゃあないか?」
「奥に本棚があった。ここは暗いが、あっちの窓の下に行けば十分読める」
「すごい適応力だねえ。ぼくだったら、こんなところに何日も閉じ込められていたら気が狂ってしまうよ。外に出たいとは思わないの?」
「そりゃあ出たいが……出たところでどこへも行けないしなァ」
「僕、考えたんだけど」
「何だ?」
くすくす笑いをしながら、典明は承太郎に耳打ちをした。
翌日、典明は母親に承太郎を紹介した。父親もそこにいれば会わせるつもりだったが、あいにく演奏旅行で不在だった。
彼は十七年でなんとか身につけた常識を総動員し、承太郎をいったん敷地外に出させてから玄関を通し家に上げた。だが典明の──血縁上は承太郎の──母親は、そういう細かいことを気にする人間ではなかった。
彼女は瞳の中に銀河を持っていた。彼女は承太郎の中の星を見つけた。承太郎も同じだった。彼らに会話は不要だった。
「ぼくら、好き合っているんだ。それで一緒に暮らしたいと思ってる。部屋も余ってるし、いいでしょう?」
「まあ、典明にそんな大事な人がいたなんて、嬉しいわ。でもママが心配するのも分かってね。パパにも聞かなくちゃいけないし。承太郎くんがいい人なのは分かるんだけど……ママも典明も、直感を大事にするタイプだものねえ」
「ぼく、ぼくら、結婚したいと思ってるんだ。もちろん法律上ではできないって知ってるよ。でも、ずっと一緒にいたいんだ。それでね、うちに来てもらうんだから、『空条承太郎』になってもらおうと思って」
「あら、そうなの?」
彼女は典明に向けていた目を承太郎の目へとすえた。海のような深い緑。力強く、底なしに暗く、どっしりとして輝いている。
草原のような、もっと言うと丘の上の草原に吹く風のような息子とは、見事なまでに対照的だ。そしてそれこそが、彼らが惹かれ合った理由なのだろう。
「それは……あたしはすごくいいと思うわ。応援しちゃう」
彼女は今にも歌いだしそうな様子で典明と腕を組んだ。典明も当然のように笑っている。
似たもの同士だな、と承太郎は思った。彼女はいかにも『妖精的』だ。だからこそ十七年、親子としてやってこられたのだろう。
彼女はからっとして「あたしのことはママって呼んでね」と言った。
承太郎にはそのような呼び方をする相手はいなかった──妖精は基本的に子育てをしない──から少しの抵抗感と違和感はあったものの、そのうち典明が言うのを真似して『母さん』と呼ぶようになった。
彼には圧倒的に知識が足らなかったが、頭は良かった。彼は典明が放り投げた教科書や見向きもしない番組に興味を持ち、どんどん『人間』になっていった。人間になった空条承太郎は、同種にはとても魅力的に映った。簡単に言うと、よくモテた。
承太郎が女性に秋波を送られたり声をかけられたりするたび、典明は不機嫌になって荒れに荒れた。けれどコップを投げつけられようが金切り声で大泣きされようが、女性から貰った手紙を食べられようが動じない承太郎に頭を撫でられて「お前が一番可愛い」と言われればすぐに火は消えた。
承太郎にとって花京院は、人間社会への案内人でありながら生まれ育った〈あの世〉の懐かしい匂いを放ち、何も言わずとも自分の思うところを全て読み取ってくれるのに決して同化しない、不可思議で心地よい存在だった。
彼は漠然と、自分たちはずっと一緒にいるものだと思っていた。それははっきりとした確信に近いものだったから、わざわざ典明の同意を得ようとは思わなかった。
典明が倒れて寝込む日までは。
承太郎が図書館から帰ってきて自分の部屋の扉を開けたとき、彼は机の影に伏せっている典明を見つけた。典明が承太郎に断りなく自室に入ってくるのはいつものことだったし、承太郎にも部屋に入る前にはノックすべきという認識はなかったから、そこは問題ではない。
問題は、いつもならベッドの上で承太郎を待ちわびている典明が、机に寄りかかってそのまま倒れてしまったような状態でいることだった。心臓が凍り付いて止まるかのような衝撃を感じ、承太郎は典明の元へ駆け寄った。抱き起こされた典明の顔は青く──というかほとんど黄緑色だった──その手からは力が抜けていた。承太郎は慌てて母親を呼び、壊れないようにそうっと典明をベッドに横たえた。
典明の体調不良ははじめ原因不明のものだと思われたが、看病しているうちに病因が分かってきた。母親や承太郎がつきっきりで看病しているとき、典明の頬は赤みが増し、体を起こして笑顔を見せることさえあった。だが母親が承太郎に気を使ったり、承太郎の鞄からラブレターが覗いていたりすると、途端に青ざめて気を失ってしまうのだ。
彼は両親や親戚の情でもって生きていた。承太郎というもう一人の息子ができた今、彼らの愛情は分割され、典明はとうとう先延ばしにしていた死を迎えようとしているのだった。
そのことに気付いた承太郎はある日、ベッドの上の典明にチェリーを食べさせながら提案した。
「お前には一生をかけて、お前だけに情を注ぐ人間が必要だ。でなければお前は、この世界で生きていけない。そこでおれがその人間になろうと思う」
その言葉を聞いて典明の目に光が戻った。腫れて赤い目が光るさまはまるでチェリーのようだ。
「それ、プロポーズみたいだねえ」
「プロポーズ?」
「結婚してくださいって言うことさ」
「結婚とは苗字を同じにするためのものじゃあなかったのか?」
「それは結婚の結果の一つだよ。実際は、ずっと一緒にいようって約束することなんだ」
「おれには知らないことがまだまだたくさんあるな。詳しく教えてくれねえか?」
そこで典明は承太郎の手を握り、久しぶりの笑顔を見せた。
「君には『家』の概念がないから理解しにくいだろうけど……一生傍にいるよって約束して、それでお互いの『家』を一緒にするために苗字を合わせるんだ」
「よく分からねえが……おれはお前の苗字を貰ったし、ずっと一緒にいると決めた。それで結婚したことになるのか?」
「ぼくもあまりよく分からない。でも、それでいいんじゃあないかな」
典明は承太郎を見上げると、おもむろにその唇へキスをして、それから自分で枕元の水を飲んだ。とても数日病に倒れていたとは思えないほど生き生きとしている。
「結婚したら『夫々』ってやつになるんだ。夫々にはやらなきゃいけないことがあるんだよ」
「何だ?」
「いちゃいちゃするってことさ」
そういうわけで二人は、いつまでもいちゃいちゃしつつ幸せに暮らしましたとさ。
いばらの城の一本ツノ
「承太郎、眠れないんだ。何か話をしてくれないか?」
「またか?もうそろそろ話のネタが尽きそうだぜ」
「まさか、嘘は良くないよ。旅をしていた頃の話を聞かせておくれよ」
「……仕方ねえなァ。そうだな、あれはおれがここに来るずっと前、傭兵をやっていた頃の話だ…………」
ある戦闘でドジを踏んで傷付いたおれは、小高い丘を登っていた。給料分は働いたと思ったし、その時の雇い主に命まで捧げるつもりはなかったから、そこでその戦闘相手とはオサラバするつもりだった。その丘の上には、イバラやツタに覆われた小さな古城の廃墟があって、おれはそこに逃げ込むつもりだった。
ところが入口にもトゲの鋭いイバラが生えて、中に入ることが出来ない。剣でたたっ切っても次から次へと伸びてきて、少しも減りゃしない。
これはヤバイ、と思ったな。おれが辿り着いた城は、ただ植物に包み込まれているだけじゃあない、もっと古い、もっと大きい力に守られている、ってね。
だがこれは、逆にチャンスかもしれない。おれがこの城に入ってしまえば、敵兵は中まで追っては来られない。
そこでおれは剣を置き、イバラを傷付けたことを謝って──……、ここから先はちょっと具体的に言えないが許してくれよ──中に入ってしばしの休憩をさせて欲しい、この城を荒らすようなことがあればこの身をどうしてくれても構わない、と丁寧に『お願い』した。
するとイバラは手で退けてくぐれるカーテン状になり、そしておれは古城へと足を踏み入れた。
「中には何が居たと思う?」
「魔女かい?それとも綺麗なお姫様?」
「いいや、違う」
「じゃあもしかして……ドラゴンかい?」
「それも違うな。おれを出迎えたのは、一頭の白いユニコーンだった」
ユニコーンはたゆたう赤毛の奥の黒い目を光らせて俺を見つめた。
「ようこそ、手負いの旅人よ。歓迎はしないが、傷が癒えるまでは滞在を許可しよう」
「それはありがたい。おれの名は空条承太郎という。本名だ」
ユニコーンに本名を告げたのは、一種の賭けだった。知っての通りユニコーンってのはたいへんな気まぐれで、ユニコーン本人にしか理解できない美学に従って行動する。通名を名乗ればたちまち憤怒で殺されてしまうかもしれないし、本名を知れば戯れに呪いを受けるかもしれない。
だがおれは運が良かったようだ。
「北の塔にさえ昇らなければどこへ行ってもいい」
ユニコーンはそれだけ言い残し、さっさとおれに背を向けて城の奥へ消えてしまった。
「その北の塔に秘密があったわけだね」
「ああ。だがそれ自体は既に分かっていたことだった」
「何故?」
「北の塔を覆っているイバラにだけ、見事な花が咲き誇っていたからだ」
それに、北の塔へ続く回廊にだけ赤くて甘酸っぱい果実が生っていた。こいつは一口で食い終わる小さな実だったんだが、不思議と二粒、三粒も食うと腹が膨れたし、傷の治りも早かった。その城に居る間はそればっかり食ってたな。それで、おれも命は惜しいから北の塔に入るなんてことはしなかったんだが、毎日近付いてはいたんだ。
だからユニコーンが飯を食う、っていってもその果実なんだが、その食事以外はずっと北の塔にこもっているのもすぐに分かった。そこでユニコーンが何をしているのかなんてのは、おれは興味がなかったし、怪我が治ったらさっさと立ち去るつもりだった。
ところが……
「何があったの?」
「おれの血の匂いを追って、オオカミたちがやってきたんだ」
「ああ、これだからオオカミってやつは!」
「まあそう言ってやるな、それがオオカミの仕事なんだから」
これは不味いことになった、おれはそう思った。オオカミに噛み殺されるのも困るが、うまく退けたところでオオカミを呼んだと責められたら命がない。
それで、イバラをものともしないオオカミたちに角を振りかざして戦うユニコーンに、本調子でないながらも全力で加勢した。
ところが、無事にオオカミたちは追い払えたものの、なんとユニコーンの角がぽっきり折れちまったんだ。
ユニコーンの力の根源はその角にある。角を失くしたユニコーンは力なくふらついて、辛そうに息を吐いた。
「ぼくを、北の塔へ……その角を拾って、ぼくを連れて、承太郎、早く……!」
そこでおれはユニコーンに肩を貸し、折れた角を手に北の塔へ赴いた。あちらこちらに咲き乱れるイバラの花が北の塔の入口や階段を塞いでいたが、おれとユニコーンが通りかかれば静かに道を開けた。
そして、ふらつくユニコーンを支えて昇った北の塔のてっぺんでおれが見たものは……
「眠れるお姫様?」
「いいや正反対だ。そこで目を閉じて眠っていたのは、おれの三倍はあろうかという馬鹿でかい毛むくじゃらの怪物だった」
眠っていたといっても、その怪物はなんだか様子が変だった。体はぴくりとも動かず、息をしているように見えない。窓から吹き込む風にイバラの花は揺れているというのに、怪物の毛は一本たりともなびかない。
「そこにひき臼があるだろう。それでおれの角を粉にして、彼に飲ませてくれ。承太郎、頼むから早く!」
ユニコーンの懇願通り、おれは折れた角を臼でひいて粉にすると、拳ほどもある牙の生えた怪物の口の中へ流し込んだ。すると怪物の冷えて固まった体にうっすら体温が戻ったような感覚があった。
それを確認すると、ようやくユニコーンは安堵の息を吐いて座り込んだ。
「間に合ったみたいだ、良かった。角は折れてすぐ使わないと効力が失われてしまうんだ」
「こいつは……普通の石化じゃあねえのか?」
「違う。この呪いを解くにはユニコーンの角を使うしかない。それも一回では駄目で、ぼくはもう何百年も角を伸ばしては彼に飲ませているんだ」
「そんなにこいつが大事なのか?」
おれには『恐ろしい化け物』に見えるぜ、というのは言わないでおいた。
「当然だとも。彼の目はとても美しい緑色をしているんだ。あれほど輝く緑を、ぼくは他に知らない。この丘で最高のものだ。あれをもう一度見られるなら、ぼくは何だってするよ。とうとう彼の目が再度開くそのとき、数百年分の空腹に、彼はぼくを目覚めて最初の夕餉の皿とするだろう。とても楽しみで仕方ない」
角を失くしたユニコーンは、そう言って笑った。
そういうわけで、これ以上邪魔をするわけにはいかないと思ったおれは、丘の上の古城から立ち去ったというわけだ。
「……どうした?」
「……ぼくが眠りについてしまったら、承太郎、起こしてくれる?」
「勿論だぜ。ユニコーンの角だろうがドラゴンの肝だろうが、何でも用意してやる」
「キスで目が覚める方がいいなあ」
「馬鹿なこと言ってねえでさっさと寝な。明日も早いんだろ」
「……うん。おやすみなさい、承太郎」
「ああ、おやすみ。花京院」
Zへの憧憬
花京院はたいへん醜い白猫だったので、人々はこぞって大金を支払い見物に来た。
同じ屋根の下の、クマだろうがライオンだろうが何か芸をしなければ拍手の一つももらえなかったが、花京院の場合は舞台の上で歩いてみせるだけでおひねりが飛んだ。
人々は花京院を指差して笑ったり怖がったりした。彼はそれだけ醜い猫だった。
何せ彼には、翼が生えていたのだ。
前足の付け根の少し上にある翼は、花京院が歩くのに合わせてぱたぱた羽ばたいた。ポスターに絵姿を描いておけばいくらでも客が入る、花京院はサーカスの花形だった。
けれど花京院がいくら稼ぎ頭だからって、やっぱり彼は醜い猫だったから、舞台が終われば狭い檻に入れられて放っておかれた。
一応、『事故』が起きないようにと他の猛獣たちの檻からは離されていたが、その計らいは花京院を孤独にさせるのと同義だった。
けれど花京院はそれでいいと思っていた。幼い頃から人々の好奇の目に晒され続けていた身には、一匹きりの状況は心が休まるものだ。自分が本当は寂しいと感じていたことを、自覚したのはこの町に来てからだった。
この町で花京院の居場所は、小高い丘の上、サーカスのテントの横手に停められたトラックの荷台の上だった。花京院にはトレーニングの必要な芸なんてなかったから、日に二度サーカス団員が餌やりに来る以外は、ずっと一匹で誰の気にもかけられていなかった。そういうわけで、花京院の元へこっそり黒い野良猫が通いつめていることは、二匹だけの秘密であった。
承太郎は野良だったが、艶やかな毛並みと長い尾、輝く緑の目、それに何より大きく美しい翼を持っていた。
彼は音もなくすべるようにサーカスのテントまで飛んでくると、軽やかにトラックへと飛び移り、綺麗な小石や甘い木の実、いい匂いのする花なんかを花京院に見せてくれた。そして外の世界の色んなことを教えてくれた。
もうずっとサーカスの猫として過ごしてきた花京院には、狭い檻も暗いテントも窮屈だと感じるものではなかった。けれど承太郎が話す外の世界というものは、きらきら光る緑の目に映ったものだからだろうか、この上なく魅力的に輝いて見えた。陽を受けて光る川、間違えて口にしてしまった苦い草、捕まえた小鳥のこと、冬の日に目を焼く白、白、白!
だけれど承太郎は、そんな彼の話に目を輝かせる花京院の方がずっと綺麗だと思っていた。花京院はいい匂いがするし、耳に心地よい声で鳴くし、鼻と鼻をくっつけて挨拶するととても幸せな気分になれる。
こいつと一緒に野山を飛び回ったら、どんな気持ちがするだろう?そう考えて承太郎はある日、花京院にずっと考えていたことを提案してみた。
「なあ花京院、こんなところ逃げ出して、おれと一緒に暮らそうぜ」
花京院なら喜んで頷いてくれると思っていたのに、白猫は怯えたような目をして檻の奥で縮こまってしまった。
「無理だよ。ぼくはサーカス以外の生活を知らないんだ。ネズミ一匹捕まえたことがないんだよ。野生でなんて生きていけるはずがない」
「そんなのおれが教えてやる。なんなら食べ物はおれが見付けてきてやってもいい」
「それでも駄目だ。鍵がかかっているんだもの」
確かに彼が閉じ込められた檻には、頑丈な鍵がかけられていた。だがそんな金属の鍵よりずっと強固な鍵が、花京院の心にかかっているのが、承太郎には見えるようだった。
次の日、承太郎はテントにこっそり忍び込み、花京院のショーを見に行った。野良猫の承太郎にはサーカスなんて興味をそそられるものではなかったので、今まで見たことがなかったのだ。そこで承太郎は驚いた。
世にも珍しい翼猫、とよく通る声で紹介されて舞台に登場した花京院は、なんだかごちゃごちゃした滑稽な飾りを付けられていて、けれど首元には硬い皮の首輪が締められていた。その首輪をつかまれて高々と持ち上げられたり、趣味の悪い色合いに塗られた平均台の上を、ピエロにせっつかれて羽をぱたぱたさせながら歩いたりして無遠慮なフラッシュの光を浴びる花京院は、ちっとも楽しそうになんか見えなかった。
承太郎は首の後ろの毛が逆立つのを感じた。あんなに綺麗な花京院が、こんな風に見世物にされているなんて!
そこではたと気が付いた、どうして花京院は飛んで逃げないのだろう?……もしかしたら彼は、空が飛べないのかもしれない。小さい頃からずっとサーカスに居たと言っていたから、飛び方を知らないのかも。だったらおれが教えてやる。空を飛ぶっていうのは、こうやるんだぜ!
勢いを付けて承太郎は舞い上がり、縦横無尽に飛び回った。承太郎を見付けたテントの中は大騒ぎになった。
何だあれは?空を飛んでいるぞ!
承太郎を指差して驚いていたのは、観客たちよりも寧ろサーカス団員たちの方だった。
空飛ぶ猫だ、捕まえろ、花京院なんか目じゃあない。
ところが承太郎が、一通りテントの中を飛び回って注目を集めた後、猛獣の火の輪くぐりに使われたたいまつを蹴倒したものだから、それどころではなくなってしまった。
火の勢いは弱かったものの、テントという閉鎖空間の中で炎が舞台の上の小道具を舐めるのを見た観客たちはパニックに陥り、我先にと出口へと駆け込んだ。団員たちはそんな観客を誘導したり、消火に向かったりと走り回っている。その隙を突いて承太郎は花京院の目の前に降り立った。
「今なら鍵も何もねえ。首輪は後で噛み切ってやる。おれと逃げるぞ、花京院!」
「だ……駄目だよ。できない」
「何でだ?そんなにおれのことが嫌いか?」
「まさか!ぼくは君のことがすごく好きだ。尊敬している。だからだよ、一緒に行けないのは……ぼくはずっと、君に嘘をついていたんだ。ぼくは翼猫なんかじゃあないんだよ。ぼくの肩にあるのは、ただの毛皮の塊だ。『おいしゃ』とかいうのがそう言っていた。母猫のお腹の中で毛皮がうまく作れなくて、余分な塊がついてるだけなんだって。脚の付け根についているから、歩いたら動くけど、それだけだ。君みたいに空を飛ぶなんて芸当、できっこないんだよ!」
その告白に、承太郎はとても驚いた。花京院のことは生まれて初めて見付けた『同種』だと思っていたからだ。だがその次に自分の口から出てきた言葉には、もっとびっくりした。
「そんなことどうだっていい!」
その台詞に花京院も驚いたようで、アーモンド型の目をこぼれそうなほど大きく開いている。
「おれはお前のことが好きなんだ。羽があるとかないとか、そんなのはどうでもいい。おれと一緒に来るのか来ないのか、どっちだ?」
その場にそんな人間が居たかどうかは甚だ疑問ではあるが、もし騒々しいテントの中、静かに耳を済ませた人物が居たならば、そしてその人が猫の言語を少しでもかじっていたなら、泣きそうな声で白猫が「行く、行きたい!」と叫んだのが聞こえたかもしれない。
そうしてそれから、もしもあなたの運が良いならば、丘の上を『飛び回る』、黒猫と白猫を見ることができるかもしれない。