幕間遊戯「紅の色、昼と変わったな」
徳利を掲げてしなだれる相棒にかつての犬王は言った。
「ああ……そうなのか?」
口元を辿りながら答える友一。
「薄くなった?濃くなった?」
「濃くなってる」
夜の縁側、酒に濡れて尚褪せないくらいに。
「今日の舞台でも揉みくちゃにされてただろ。そのとき誰かに付けられたんじゃないか?」
犬王は回想する。いつも気づけばそこかしこに鮮やかな跡をつけられている友一だが、唇まで奪われているのは珍しかった──少なくとも犬王の預かり知るところでは。
「そうか」
友一は動じない。
閉ざされた眼をさらに細めて。
「なんであっても構わない。お前を語るに相応しい姿であるのなら」
思わず手首を掴んだ。
「どうした?犬王」
言い返してもよかったが止めた。
「いや……お前はそういう奴だよなあって」
代わりに何をしたか明確には覚えていない。お互い笑っていた記憶はあるからきっと楽しんだのだろうが。
相棒との記憶はいつもあの琵琶の音と、そんな戯れと共にある。
桜は散った。
道に積もる花弁すら泥濘む頃、都では今年幾度目の祝宴が催されていた。
その陰で。
「先刻の舞、見事であったな」
「勿体無きお言葉にございます」
人払いを済ませ、時の将軍足利義満は扇子で犬王の肩を撫ぜた。
「あの演目はそなたが考えたものか?頭から爪先まで流麗なあの仕草。その完璧な顔と身体を併せ持ったそなたにしか舞えぬだろうよ」
「恐悦至極にございます。確かに筋を考えたのは私ですが、あの舞が最高の形となったのは当座一同の尽力です」
受け答えが単調にならないよう神経を張り詰める。こうして引き留められるのは初めてではないが、つまらないことで機嫌を損ねては比叡座に迷惑が掛かる。
「道阿弥……いや、犬王よ」
扇子の端が肩から顎へ伝う。
「今のそなたは何を思い舞う?あの窮屈な仮面は取れたというに、その身も心も薄皮隔てたように霞がかって見えてならぬ」
薄明かりの部屋で囁き声が一段と沈む。
「ああ、責めているわけではないぞ。先程の賞賛も嘘ではない。しかし端正なものばかりでは飽きる。今宵くらいはその仮面を剥がしても良いのではないか?」
犬王は両の目を義満へ向けた。
明け透けな誘い文句とは裏腹にその表情は凪いでいる。
「……私めの芸はすべて貴方様のために魅せ、貴方様のために捧げるものでございます」
舌が澱みなく言葉を紡ぐ。
「その心が貴方様へ伝わらずいるのは偏に私の未熟故でしょう。しかしわざわざその綺麗な手を穢さなくとも、いつかは舞台の上から証明してみせます。……貴方様に慈悲の心があるのなら、役者としての私からその機会を奪うことだけは、どうか」
昼の舞台と酷く似た心地だ、と喋りながら犬王は思った。
全ては泡沫の芝居。
義満とて本気で己を口説きにかかっているわけではない。全てを手に入れ支配する男の気紛れ。
今の犬王が何故仮面を被っているのかも、どうせ覚えていないのだろう──
「度し難いな、犬王よ。あの琵琶法師とよく似ておる」
喉がひゅうと鳴った。
「まあ良い。確かにそなたの申す通りじゃ。役者の真髄は舞台の上でこそ拝めるもの…… ひとまずはその言、信じてやろう」
義満は口の端を吊り上げ、指先で犬王の頬を弾く。
「舞台の上ではけして私を裏切るなよ。それ以外の場所でなら──そなたらの狭い物語の中でなら、私は幾らでも悪役になってやる」
含み笑いを残して襖を閉め、部屋から遠ざかる己の足音を犬王は他人事のように聴いた。
瞳を閉じる。
風に靡く黒髪が蘇った。
時代に迎合することを選ばず、抗いながら散っていった相棒の姿が。
──似ているだと?
己はああまで愚直にはなれなかった。何かを貫くために一つの道しか選べぬ男なら、先程のような茶番さえ自らに許していない。
道を変えたことを悔いてはいない。変えられなかった友を詰りたいわけでもない。
ただ今度逢えたときには、戯れの前に一言でも囁いておこうと思っている。
「馬鹿抜かせ」
「この後に及んで己を飾り扱いするのか」
「その艶やかさも苛烈さも、お前だけのものだろう──」
正反対の生き様を辿った二人は確かによく似ていた。
互いを諦めない、という一点において。