わたしはあなたの××××人生は選択と後悔の連続だ。
わざわざ口にするまでもなく、生きていれば誰もが理解してゆくことだ。次第に一々心を動かすことも諦め結果を受け入れる。そして折り合いをつけながら進んでいく。
彼の人生も例に漏れずそうだった。数え切れない選択と後悔を経て、しかし今はそれらを振り返ることもない。
───たったひとつの出来事を除いて。
「暑くないか?そのコート」
「失敗したよ。前来たときはこの時期もう少し肌寒かった」
空調の効いた店内に入り上着を脱ぐと、すかさず
文革に奪われた。
流れるように壁のハンガーを手に取り皺一つつけず上着をかける。相席のソファ席のほうに誘導され、メニュー表を手渡された。
「ここは珈琲が美味いよ。地元の部員に教えてもらった」
サングラスを外し店内を眺め回す。
一年振りに見る顔は、その年月とは釣り合わないほど大人びて映った。
「……じゃあそれで。君は?」
「同じものを」
呼び鈴を鳴らそうとする文革に、彼は思わず言葉をかけた。
「随分慣れたみたいだな」
きょとんとした表情は一瞬で。
「……コーチ、時差ボケが年単位で続いてるのか?俺はもう今年で辻堂を卒業するんだぜ」
頬杖をついて前髪に触れてくる、その仕草すら見違えて感じてしまう。
「ああ……馬鹿なことを聞いたな。君の卒業祝いも兼ねて来日したというのに」
「全く」
そこで初めて文革は子供のような笑顔を覗かせた。
変わらない面影と知らない表情が混ざり合い、内心にさざ波が立っていく。
「明日からは忙しくなるしな。今日はおすすめの場所を案内してくれ」
「
心甘情愿」
ベルの澄んだ音が響く。
店員を待つ間、彼は脇に置いた鞄を見やる。中に詰め込んだ書類は百枚近い。
全ては必要な手続きの為だった。文革がこの国で卓球を続けていくために。
──初めてその選択を本人の口から聞いたとき、真っ先に思い出したのは二年前の夏だった。
文革と共に日本へ、辻堂学院へ訪れて最初のインターハイ。その予選。
文革は今よりはっきりとやさぐれていたし、彼はその姿に苛立っていた。
追い打ちをかけるように一人の選手が文革に立ち塞がった。
力量差の前にはどんな態度も背景も無意味だ。
それでも彼は叫ばずにいられなかった。当人が解り切っているはずの覚悟を問い、ぶつけた。
指導者としての叱責と言えば聞こえはいいが、このまま燻りながら敗れていく教え子をただ見届けるのが許せなかったのだろう。
喝を入れるどころか結果は拗れ、最悪一歩手前の事態を招いた。
今でも時折背筋が恐ろしくなる。完膚なきまでに叩きのめしてくれる風間竜一の存在がなければ、己は文革に一生消えない傷を負わせていたのではないか?
そしてそれが解って尚、あの場面で己は叫ばずにいられただろうか?
「──ご注文はいかがいたしましょう」
店員の声で我に返る。文革は日本語で淀みなく二人分のオーダーをしていた。
「この時間帯ですとケーキセットがお安くなっておりますが」
「そうなの?じゃあ私はレアチーズケーキ。コーチは」
なんでもいい、と二人きりの空気を引き摺って答えかけるのを抑える。
「……カタラーナで」
「承知致しました」
去っていく店員が微かに文革に見惚れていたのを見逃さなかった。
「ここへは部員とよく来るのか?」
「そういうわけじゃない。あまり大人数で押しかけるような店じゃないしな」
「しかし先程……」
ああ、と文革は目を伏せる。
「俺がおすすめを聞いたんだよ。気合いを入れたいときに相応しい店はどこか、って」
「気合い?」
彼の問いには答えず、文革は窓の外を眺めた。
ステンドグラスの隙間から早くも西日が差し込んでいる。
「……コーチ。俺はこの一年で色々考えたよ。帰化を決めて手続きを進めてる間も、この選択で本当にいいのかって。でも決めた」
「うん」
「辻堂の皆も親身になってくれた。いずれ後悔するかもしれない。でも一つの選択で全てが終わるわけじゃないことは、充分身に染みて解っているから。なんとかなるさ」
「うん」
まだ全ての感情を整理できてはいないだろう。それでも語る文革の横顔は凛としていた。
彼の中にも文革とは違う後悔が渦巻いているが、それを表立って打ち明けることがないように。
「コーチは俺を友人だと言ってくれたけど」
気づけば文革の目が近くにあった。
「これからは本当の意味で対等になれる。何にでもなれる」
瞳の中に己が映る。
またあの夏が蘇った。叱責に短く返事をした文革。風間戦の最中にこちらを見た後、悟ったような笑みを返した文革。
指導者と教え子としての関係はあのとき激しく爆発し、そして緩やかに死んでいった。
人生は選択と後悔の連続だ。
けれど後悔の先で新しい選択が生まれる。選択の先で思いもしなかった幸福に出逢える。
今この瞬間のような。
「……だったら私のことも、そろそろ別の呼び方をしてもらいたいね。いつまでも『コーチ』じゃ愛想がないだろ」
揶揄うつもりで頭を撫でると『友人』は大きく目を見開いた。
次の反応を悪戯に期待する。
数秒後に不敵の笑みを取り戻した文革が耳朶へ彼の本名を吹き込むことも、注文を運びにきた店員が気を利かせて回れ右することも、何も知らずに期待する。
その選択が後悔の種となるかは───誰も預かり知らない未来の話だ。