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    5〜6話5話6話前編6話後編5話 あの日幼いドフラミンゴが自ら元天竜人だったと明かしたとき、少女――ナマエもその場に居合わせていた。ちょうど客を取り終えたところで、数日ぶりのまとまった金を手に帰路を急ぐナマエは、聞き覚えのない子供の声に足を止めた。
     知らない子供が増えているなどそう珍しくもない。孤児がどこかから流れ着いていたり、食うに困った大人が子供を捨てたり、花売りが密かに産んだ子供が置き去りにされるなど、非加盟国のここではいくらでも理由が見つかった。それなのにナマエが立ち止まったのは、子供の発言内容があまりに衝撃的なものだったからだ。

    「おれは天竜人だぞ!」

     天竜人。この国において、海賊よりも憎まれている絶対的な存在が「それ」である。その者達が望むのなら全てを捧げなくてはならないし、何をされても抵抗してはならない。政府加盟国ですらそうなのだ、人権が無いとされる非加盟国の人々の扱いなどたかが知れていた。
     この国に生まれた子供なら、反抗的な態度をとった者が見せしめに合うのを一度は見ているはずだ。単なる銃殺ならまだマシで、人としての形を保てない状態にされうめき声をあげるだけの存在になり果てる、というのは幼いナマエを縛りつけるのに十分だった。
     ナマエが見た「うめき声をあげるだけの存在」とは、かつて彼女の両親だった人達だ。といっても、両親は誰かに反抗した訳ではない。ただ単に目をつけられたのだ。天竜人が「夫婦の奴隷が欲しい」と望んだ時、ちょうど近くに両親がいた。それだけで両親の人生は終わった。ナマエの存在は周囲の人々が隠し通し、両親は静かにうなだれて従った。震えて歩くこともままならない、そんな背中が正気を保った両親の最後の姿だった。

     幼いナマエは親戚の提案を断ってまで一人家に残り、ずっとずっと両親の帰りを待っていた。数少ない聖地からの帰還者がいると知っていたから諦めきれなかったのだ。そして、望み通り両親は帰ってきた。かろうじて人と呼べる状態で。
     ナマエの頭を優しく撫でてくれた母親は手足を奪われ地べたで蠢くだけ。ナマエを抱きしめてくれた父親は人間だったとは思えない姿にまで「遊ばれた」末に戻ってきた。運んできた人は言う。「帰ってきてよかったね」と。きっと帰らぬ人になった奴隷を山ほど見てきた上での発言だったのだろう。両親はもうナマエのことを覚えていなかった。自我すらなくなり、排泄物を垂れ流して、時たまかすかな声をあげていた。いつか正気を取り戻してくれるかもしれない。その日を信じて世話をし続けたい。ナマエはそう思っていた。けれどもナマエにも親戚にも、働けない大人二人を世話をしながら生きていけるほど生活に余裕はなかった。両親の正気を失った瞳が少女を貫いた。

     ナマエはその日、初めて人を殺した。両親は天竜人に連れて行かれた時と同じように一切抵抗しなかった。少女が突き立てたナイフはあっさりと両親の喉を裂いた。幾度か痙攣した後、二人は動かなくなった。かつて貧しいながらに確かに幸福のあった家で、ナマエは血の海にひとり座り込んでいた。
     殺人を犯したナマエを、近隣の住民は責めなかった。皆泣いていた。枯れたはずの涙を溢れさせて、共に両親の墓を作ってくれた。皆天竜人に何かしらの被害を受けていて、今回はナマエ達の番だった、それだけ。
     すでに似たようなことをしていた住民が、共感のこもった目で少女を見た。少女を気にかけてくれる近所の人は「楽にしてあげたんだよ。ナマエは何も悪くないよ」と、彼女に労る声をかけてくれた。でもナマエはそうは思えない。殺人は殺人なのだ。私はどうあがいても親殺しを犯した人間なのだ。愛情を注いでくれた両親に恩返しどころかこんな末路を与えるなんて、きっと死後には地獄に落ちる。地獄には誰がいるんだろうか。両親は天国にいるはずだから、死後も謝罪一つできないだろうな。ナマエはそう考えていた。
     ずっと手のひらが赤いのだ。閉じても開いても、こびりついた赤が取れない。海辺で繰り返し手のひらを擦り合わせ、水が一切汚れていないのを確認したところでナマエは諦めた。両親の肉の弾力が、刃を突き立てた時の感触が、忘れられそうになかった。
     天竜人は、そんな人間達を知っているんだろうか。知らないのだろう。知ったところで何が悪いのかと開き直るのだろう。ナマエは天竜人という存在に期待していない。自分達の苦痛が彼らの行動を止めるに至らないと知っていたから。むしろ苦しむ姿を見て笑う奴らだと理解していたから。

     そんなことを考えていたナマエは、ようやく自称天竜人のことを思い出した。いつの間にかその子供は消えていて、ざわめく街だけが後に残っていた。家までの道を辿りながら周囲の話に耳をすませば、今一番の話題としてその子供のことが飛び交っている。曰く、天竜人は天竜人でも、下界に降りてきた「元」天竜人だとか。もう天竜人ではないから、何をしても海軍が動くことはない、だとか。
     そう言い交わす人々の顔は醜悪に歪んでいる。ナマエを慰めてくれたときの優しい表情はそこにない。皆恨みを抱き続けてきたのだ。反抗が許されないから耐えてみせただけで、決して許した訳ではなかった。耐えられない人が死んで、耐えられてしまった者が生き残った。残された人々は亡くなった人の分まで怒りを背負い、いつの日にか救われることを夢に見ていた。
     皆、今がその時だと思ったようだった。現状の根本的解決にはならなくとも、せめて、今抱いている怨念を晴らせる機会が巡ってきたのだと、薄暗い喜びが街中に広がっていた。

     
     両親を亡くし、この国ではそう珍しくない孤児となったナマエを母方の叔母が引き取ってくれた。帰ってきたのも叔母の家で、彼女自身の家族もいるのに引き取ってくれたという恩に報いたくて今日の稼ぎを手渡した。

    「叔母さん、今日はお客さんとれたから、これ」
    「おや、いつもありがとうね……」

     叔母は毎回申し訳なさそうに金を受け取る。本心は知らない。ナマエにはどうでもよかった。表面上だけでも感謝してくれているのだから、自分の身がどうなろうと構わなかった。多少なりとも彼女の足しになっているといい。そう思ってナマエは微笑んだ。

    「そういえば、街で変な噂聞いたんだけど」
    「天竜人のことかい」

     ナマエが軽い気持ちで投げた話題に、叔母は前のめりに食いついた。少しぎょっとしながらも頷いて、叔母に話を促した。

    「叔母さん、何か知ってるの?」
    「私もさっき聞いたばっかりなんだけどね、北の方の海沿いに開けた土地があるだろう? そこに最近屋敷が建てられたらしくてね。天竜人が来るとするなら、きっとあそこだって話してたのさ」
    「へえ……変なことされないといいけど……」
    「出来やしないよ! もう天竜人じゃない奴らなんだから、言うことを聞く必要はないんだよ」

     「もう」天竜人でないけれど「まだ」天竜人である存在。そんな矛盾を嬉しそうにまくし立てた叔母は、街で見かけた人々と同じく淀んだ笑みを浮かべていた。ナマエはそれを見て「よかった」とだけ返す。天竜人の被害に合った子供としての態度はこれでいいのだろうか。もっと憎らしげに吐き捨てるべきだったか。
     周囲との温度差に嫌な予感がしていた。ナマエとて天竜人は死ぬほど憎い。殺せるなら殺してやりたい。でもそれは、「両親を虐げた」天竜人へ向ける恨みだ。手当たり次第に怒りをぶつけたい訳ではなかった。天竜人全体を嫌ってはいるものの、両親の仇以外とは関わりたくないという気持ちの方が強い。だが、周囲の人々はどうやら違うようだった。叔母が声を潜めてナマエへと話しかけた。

    「今度、あの屋敷ごと焼いてやろうって話が出てるんだ」
    「え!? それって大丈夫なの?」
    「言ったろ、もうあいつらは私達と同じ立場なんだ。人間が人間を焼いたところで、今さら海軍なんかやってこないよ」

     これまで私達がされてきたことに比べたらささやかなもんだろ。そう続ける叔母をナマエは否定できない。生きたまま焼かれるだけで済むのならそれを選ぶ奴隷は山ほどいるだろう。奴隷とはそういうものだった。奴隷の烙印は地獄の入口でしかないのだと、背中に天竜人の紋章を背負った「生存者」が語っていたのを聞いたことがある。その人は数日後に自殺した。
     この国で街の次に有名なのは死体処理場、といえば聞こえはいいが、墓すら作れない者達の掃き溜めだ。貧しさ故に死んだ者と同じくらい、天竜人の仕打ちに耐えきれず命を絶った人が多い。皆苦しめられ続けてきた。涙を飲んで生きてきた。
     なぜ元天竜人の一家はこの国を選んで下りてきたのだろう。よりにもよってここに来なくてもよかったはずなのに。どうなるかくらい、ナマエのような子供でも分かることなのに。
     ナマエは元天竜人達よりも、優しい皆が怖い顔で笑っていることの方が恐ろしかった。そして、鏡の中の自分も同じ顔をしていることが、心底嫌だった。

    ***

     叔母の言っていた通り、人々は本当に屋敷へ火を放った。ナマエがついた時にはもう火の海と化していて、中に人がいたのなら確実に死んでいるだろう、と熱気を浴びながら思う。ナマエにはとうてい手の届かないきらびやかな屋敷全てが、暴力的な光に包まれている。時折何かが崩れる音がした。殺気立つ人々とは別の空気を漂わせている者もいた。ここまで火が大きくなる前に屋敷に侵入した何人かが、金銀財宝を上手いことかっぱらったらしい。
     周囲の話によれば、屋敷から逃げ出す影を見た者がいるとのことだった。あちこちを捜索してもなかなか見つからないのだと、苛立たしげな声が飛び交っている。ナマエの名前を呼んでくれる時の温かさは跡形もなくて、人が変わったかのようで。なにより、彼らと同じ気持ちになれない自分が間違っているんじゃないかと、今にも糾弾されるのではという恐れに息が浅くなる。
     天竜人の一家はもうここにいないというのに、依然としてピリピリとした殺気が立ち込めている。逃げてはいけない、私も何かしなくては。そう思うものの、何一つ案は浮かばず、誰にも話しかけられなかったのをいいことにナマエはその場から抜け出した。


     子供だって嫌なことがあれば一人になりたくて、行ってはいけないと言いつけられている場所にまで足を運ぶこともある。今日のナマエはそんな子供だった。
     街から離れたゴミ山は、海の側とは思えないくらいにどんよりとした空気で満ちている。ここまで来れば人どころか生き物すらほとんどいないだろう。かつては頻繁にゴミ捨てに利用されていた――どちらかというと海から流れ着いたゴミの方が多かったが――ここも、今では人の立ち入らない空間となってしまった。いつか再開発されて活気溢れた場所に、などと考えて、ナマエは一人で笑った。そんな物好き、いるはずがない。捨てられたのはこの場所だけではなく、この国全てがそうなのだから。助けなんて求められず、希望は持つだけ無駄だ。

     正直なところ、ナマエにはこんな風に遊んでいる暇はなかった。屋敷の行く末を見届けたらすぐにでも街に戻って金策に励むつもりであったし、そうでなくてはナマエ達の生活がさらに厳しいものになってしまう。頭ではそう分かっていてもまだ皆に会う心の準備ができていなくて、彼女は足場の悪い海岸をとぼとぼ歩いていた。

     腐臭と潮の匂いが混ざりあった風は、ナマエの顔を等しく撫でた。そして遠くにいる「誰か」の声すらも運んできた。どこかで聞いた、いや、まさか。
     動揺から近くのゴミに体をぶつけてしまい、バランスを崩した山が雪崩を起こす。巻き込まれないよう場所を移動した少女の視界に、動く物体がうつる。自分と同じくらいの子供達。柔らかそうな金髪。あの時の、自称天竜人。

     心臓がバクバクと嫌な音を立てている。全身の血が顔に集まっている気がする。世界と自分との間に薄い膜がはられているような感覚に陥って、それを破るためにナマエは一歩踏み出した。子供達の顔色が変わる。何をするかも決めずに進み出したというのに、ナマエの足は止まってくれない。
     たいして遠くもなかった距離があっという間に縮まって、彼女の眼下にあの少年が這いずっていた。街での偉そうな振る舞いはどこへやら、怯えすらにじませて、転んだちびを庇っている。庇われているそいつもこちらを見上げてぷるぷる震えるばかりで、少年の振る舞いと合わせて、なんだかナマエが悪者のような気分になった。
     なんでそんな目で見るの。
     悪いのは、私じゃない。散々虐げてきたのに、それすら分からずのこのこやってきたお前らが悪い。そう、私達は悪くないんだから――――!

    「早く出ていけ!!」


     そこから先に口走ったことを、ナマエはよく覚えていない。自分の口からは、誰にも言えないでずっと思っていたことと、「皆」と同じになるための敵意がごちゃまぜになって飛び出したのだと、それだけは感覚として残っていた。
     呆気にとられた一家の顔、そして背中に投げかけられた怒声が、ナマエの思惑通りにいったと示している。人生で初めてここまで声を荒げたものだから、逃げ出す間にも彼女の心は混乱を極めていた。

     言ってやった、言ってやった、言ってやった!
     ――なにが?
     あいつらが一番理解しておくべきこと。お前達が受ける仕打ちはお前達自身のせいだってこと。
     ――ほんとうに?
     だってそうじゃなきゃ、皆が悪い人になってしまう。本当はこんなことしたくないはずなのに。憎しみの対象が目の前にきたら誰だって殴るよ、ねえ? あいつらがわざわざやってきたからこんな事態を引き起こしてるんだって、そう思わなくちゃ。私は皆側だから。
     ――ほんとうに、そうおもってる?


     ようやくナマエが立ち止まったのは、小屋からも海岸からも遠く離れた木陰だった。誰にも見られていないのを確認しながら、汗を拭って深呼吸をする。息を整えるために足を止めたのに、脳内の自問自答まで止まってしまった。最悪の問いを投げかけたまま。
     ナマエは天竜人が憎い。「皆」と同じように殺したいほど憎んでいる。だからあの一家にひどいことだって言うし、睨みつけたって心は痛まない。本当だ。本当でなくてはならない。ナマエは皆を裏切らない。
     これで私も皆と同じだ。そのはずなのに、ナマエの心は淀んでいる。何が正しいのか、どうすれば楽になれるのか。
     それを教えてくれる人はどこにもいない。
    6話前編「……今月の分、確かに」
    「よろしくね」

     指定の金額通りだと確認した少年は無言で頷き、紙幣を袋へとしまった。なぜか口元に目玉焼きがついたままなのだが、ナマエはそれを指摘していいのかいつも悩む。今回も見ないふりをすることにした。日の差さない物陰は昼間といえど肌寒い。さっさとこの場を終わらせたかった。
     商売をするなら上の人間に手数料を支払うのが世の常だ。それは店に所属せず客をとっているナマエにも当てはまり、毎月少なくない額を納めている。器用な子はちょろまかしていたり、上手いこと交渉して金額を下げてもらっているそうだが、ナマエにはそういった技術はない。争わずに済むよう、回収役の少年に従うだけだった。
     ボスとやらがいるらしく、その人がここら一帯を仕切っているのだとか。顔を合わせたこともないので実感は薄いが、時折逆らったやつが再起不能になるぎりぎりまで「話し合い」を受け、ゴミ捨て場に落ちているのを見かけた。性別も年齢も関係ない「話し合い」を見て、ナマエを含めた同業者達は笑顔の裏で震え上がったものである。

     悪い話のみという訳でもない。一応用心棒的な役割も果たしており、あまりに厄介な相手に捕まった際には「ファミリー」の一員が対処してくれる。それまでは度々暴力沙汰に巻き込まれていたナマエも、金を納めるようになってからは比較的マシな生活となった。「ファミリー」こそが嫌な客となる場面もしばしばあったが、そこには目をつむっていた。

    「そっち行ったぞ!」
    「捕まえろ!」

     ゲラゲラと下品な笑い声がして、ナマエと少年は大通りに顔を向けた。小さな影が二つ、よろめきながら走っていく。その後ろを歩幅の大きな大人達が追いかけ回す。追いつくのは簡単だが、弱った子供達の様子が面白いのか、わざと少し遅れて追っているようだった。
     追われているのが例の「天竜人」の子供達であったから、二人の表情はそれぞれの変化を見せた。少年は街の状況を把握するための注意深い目つきへと、ナマエは目を細めてため息をつく、といったふうに。そして、互いの顔を見て眉をひそめた。

    「何か思うところでもあるのか」
    「別に、どんくさいやつらだと思っただけ。そっちは仕事熱心だね」
    「あいつらのおかげで街は常に変わり続けているからな。行動を把握しておくに越したことはない」

     情報があれば高値で買うぞ。そう言って少年は次の仕事へ向かった。ナマエの頭の中でその言葉がぐるぐる回り、しばらく壁にもたれていた。情報、情報か。

     ナマエは天竜人一家の住処を突き止めている。偶然見つけたそこから、まだ彼らは動いていない。ずいぶんとまあ危機感のない生き物だと思う。一度見つかれば、情報なんてあっという間に拡散されるものだ。たまたま見つけたのがナマエで、なぜか彼女が口をつぐんでいるからいいものの、他の人であったなら第二の焼き討ちが決定するところである。
     ナマエはまだ誰にも彼らの居場所を話していなかった。それどころか以前より精力的に稼ぎ、食料まで融通していた。交渉決裂によってそれが終わった後も、彼女は言いつける気がなかった。
     たいしたことのないやつらだから。放っておいても勝手に死ぬから。みんなの手を汚させるようなことは避けたいから。いろいろと理由をつけて、ナマエはだんまりを決め込んだ。それが民衆への裏切りになるのだと心の奥底で気づいていたが、それでも人々が一家を探し回るのを見ているだけだった。
     今さら、関わらなきゃよかったな、と思う。「天竜人」は神で、自分達を虐げる存在で、いくらだってやり返しても構わない。だって人間じゃないもの。そう思ったままならば、今の街の状況だってつらくはなかったはずなのに。それなのに、下手に関わってしまったせいで、私は。
     壁に体重を預けたまま、ナマエは静かに目を閉じていた。きっとどこかであの兄弟が捕まって、また傷を増やしているのだろう。その傷口からは、ナマエ達と同じ色の液体が溢れ出る。その様がまぶたに浮かぶ。
     天竜人も赤い血を流すなんてこと、知りたくはなかった。

    ***

     たまたま住処を知ってしまった日から。一家がどんな行動をとるか分からない、彼らがいつ逃げ出しても人々に伝えられるようにと、ナマエは例の小屋へ毎日足を運んだ。ここで私が見ているからな、下手なことするんじゃないぞ。そう訴えかけるため、意識して目元に力を入れたりもした。思い通りの反応をしたのはサングラスをかけた少年だけで、他の三人はへらへらと少女に笑いかけた。
     ナマエはかつて見かけた人懐こい猫を思い出す。あの猫も、どれだけそっけなくされても喉を鳴らし、人々の足元に絡みついていた。機嫌のいい人間に当たれば餌にありつける。猫なりの生存戦略だったのだろう。そのうち甘える相手を間違えて、容赦のない蹴りを一発入れられた。たいして重みのない体は空高く飛んでいき、どさ、と落ちた。後のことは言うまでもない。目の前の親子は人の形をしていたが、警戒心の無さはあの猫よりもひどいんじゃないかと彼女は思った。

     サングラスの子供はドフィ――ドフラミンゴという名前なのだと、訊ねてもいないのに男が教えにきた。小さい方の子供はロシナンテ、ドフラミンゴの弟だと。ロシーと呼んであげて、と女が言った。二人とも朗らかな雰囲気で、ナマエを親しい友人のように扱うのである。こわばった顔の子供――ロシナンテを前に出して挨拶させようとしてきたのにはさすがのナマエもたじろいだ。その時は見ていられなかったのか、ドフラミンゴが乱入して彼を連れ出した。憎いはずのドフラミンゴに共感するくらいには、ナマエにとって夫婦の態度は意味不明であった。
     話しかけられたとて一切返事をしなかったのにもかかわらず、彼らの笑みは曇らなかった。あの手この手でナマエの口を開かせようとしているらしかった。

    「家族でやってきたんだ」

     そんなこと、とっくに知っている。お前のガキが喚いたおかげで自分達は、みんなは変わり果てたのだから。お前達さえ来なければ直視しなくて済んだ感情を、お前達一家が引きずり出した。
     ――でも。こいつらを憎んだところで私の罪は消えない。ナマエはそれを分かっていた。「天竜人」は両親を酷い目に合わせたが、最終的に殺したのはナマエだ。「天竜人」のせいで決断する羽目になった。しかし自分がやった。両親を連れて行った「天竜人」でもない彼らを殴って、私はどうするんだろう。殴りたいのか? 拳が痛むだけなのに、両親は戻ってこないのに。ナマエの罪がなかったことになる訳でもないのだ、目の前のぽやぽやとした生き物を虐げてどうなるというのか。いっそ一家全員でクソったれなもてなしをしてくれていたのなら、拳を振り上げる理由を考えずに済んだものを。

     横柄な子供を煽ろうにも無視され、親子は隙を見て話しかけてくる。敵に悪意以外を向けられるのがあまりに苦痛だったナマエは、もうみんなに教えにいこうかな、と思った。真っ先にするべき発想がここに至るまで出てこなったのはなぜなのか。珍しく一人でふらふらしているロシナンテを遠目に見つつ、少女は自分に問いかけていた。自らの真意に気づいてしまうのは恐ろしく、答えが出る前に考えを打ち切る。そんなことをしていたら、視線の先のロシナンテはゴミに引っかかった。豆粒みたいな少年は、あっさりと地面に吸い込まれる。金属片だらけの地面へと。
     両手をつくことも忘れ、ロシナンテはキョトンとしたまま倒れていく。ナマエはなぜか走り出していた。相手は天竜人だ、と考える間もなく彼女の体はひとりでに動き、あまりにも軽いその体を抱きとめていた。
     一家の悲鳴が止む。腕の中のロシナンテは口を大きく開けてナマエを見上げている。なんとも言えない雰囲気が漂い、ナマエは慌ててロシナンテを下ろした。どう力を入れても潰してしまいそうなくらいにふにゃふにゃだったので、細心の注意を払いつつ、そっと手を離す。ほのかな体温がまだ残っているような気がした。
     分厚い前髪の隙間からちらりと目を覗かせ、ロシナンテは感謝の言葉を口にした。天竜人にも礼を言う文化があるらしい。まるで人間みたいだ。そう考えてしまってすぐ背筋が凍った。そんな訳ないだろ。天竜人は神なんだから。

     夫婦の熱い視線に気づき、ナマエは嫌な予感がした。男が喋りだした瞬間に身を翻す。馴れ合うつもりはない。彼らは敵なのだ。仲良くなんてしようものなら、この国で生きていけなくなってしまう。
     まだ間に合う、ちゃんと天竜人に仕返しをしなくては。親しげだからなんだ、それごときで絆されるのか? 人間との共通点があったところで彼らが天竜人であることに変わりはない。両親をあんな姿にしたやつらの同族なぞ、さっさと、死んでしまえば。「死」の文字が脳裏によぎった瞬間、ナマエは唐突に疑問を持った。

    「……死ぬのかな」

     天竜人は神なのだという。それが真実かどうかは別として、彼らがそういう扱いを受ける立場なのは事実だ。神とされるだけの何かがあるんじゃないか。殺そうとしても、死なない可能性があるのでは? ナマエ達はあっけなく死ぬけれど、彼らは違う存在だから、おそらく生き残る。死んだって生き返るのかもしれない。人々はそれを見てどう思うだろうか。永遠に苦しめろ、と喜びそうだ。みんなが嬉しいなら、ナマエはそれで構わない、はず。
     じゃあもし、あいつらが死んだら?
     死ぬということは、生き物で、神ではなくて。あの男が自ら名乗っていた通り、人間で。ナマエ達は人間に手をあげていたことになる。大勢で寄ってたかって殺人を犯した事実だけが残る。
     人が人を殴ることなどそう珍しくもない世の中だ、どっちにしたって問題ない。悪魔がそうささやいた。もしかしたら天使だったかもしれない。ナマエの望む言葉をくれるのだから。これまでの恨みを晴らすにはこれしかない。その過程で死んでも死ななくても、ナマエには関係ない。――ほんとうに?――うるさい!!

     ともかく、みんなの論点はそこではないのだ。やつらが本当に神かどうかは問題ではなくて、長年の所業が憎悪を生んだ故にこんなことになっている。たとえ同じ人間だとしても和解なんてできない。みんなの思いは痛いほど分かる。でも。ナマエがやり返したいのはあの一家じゃない。殴ったって意味がない。そう思ってしまっているものだから、常に迷いが生じている。自分の本心とはなんなのか、ずっと考え続けていて、ナマエは答えを出せない。一番恐ろしいのはそれが露見することだ。お前の恨みはそんなものだったのかと言われてしまったら、きっとナマエは否定できない。周囲に比べたら自分の感情なんてちっぽけなもので、怒り狂えない今のナマエは親不孝者なのだろう。
     早く憎ませてほしかった。両親をあんな目に合わせた張本人でなくてもいい、せめてあの一家が他のやつらのように傍若無人であったなら、どんなささいなことだって復讐の言い訳にしてみせる。もうナマエの頭はパンク寸前で、そんな支離滅裂な発想にまで至っていた。


     そんな思考でいたものだから、ドフラミンゴがいかにも「天竜人」らしい振る舞いをする度に、ナマエは安堵と嫌悪に苛まれた。憎たらしい言動を見れば、ああ嫌っていいのだと正当化できる。周囲の人々の反応こそが正しいのだと思える。同時に、そんなことを考える自分を消し去りたくなった。他者を憎み続けるには一定の強さが必要であり、ナマエにはそんな強さはなかったのである。もっとも、今となってはドフラミンゴはナマエをシカトすると決めたようなので、のほほんとした親子と同じくらい無害な存在となってしまった。それでは困る。どうにかしてムカつくやつでいてもらわなくては。
     何と声をかければ怒るのかと悩みながら、街に向かうドフラミンゴを追った。あんな腹を空かせた弱々しい足取りでは、袋叩きにあうに違いない。このままでは住民に見つかるぞ、ろくなことにならないぞ、ああほら、顔を見られた……。

     予想通り、住民はドフラミンゴに気づくと間髪入れずに手を出した。ナマエより少しだけ小さい体格の子供が、大人の力でねじ伏せられる。ナマエが買い物をする時におまけをつけてくれるおじさんは、敵意に満ちた目をドフラミンゴに向けた。四方八方からの視線があの子供を突き刺した。誰一人快い感情など持っていない。それを感じ取ったドフラミンゴが息を呑む様を、少女は呆然と見ていた。
     血が流れる直前の、ざわつく感覚。物音を立てたら場の悪意全てがこちらに向きそうで、ナマエは動けない。動かない。人混みの奥から眺めているだけ。
     囁きあう声がナマエの元まで届いていた。やめて、やめてください、まだ子供なんです、あの細い体ではとうてい耐えきれない。ナマエの脳内で数々の懇願が飛び交う。彼女自身、こんな願いに意味などないと理解していた。罪に年齢は関係ない。子供だからといって、拳を下ろしてくれる世界ではない。

     人々を抑え込んでいた何かがはじけ飛ぶ。「待て」をされ続けた人間達は、天竜人を――――。

     衝動的に動いたゴミ山の時とは打って変わって、ナマエの体は泥のように重たくなっていた。呼吸が乱れていく。指先に力が入らなくて、手をぷらぷらとさせる様は傍から見ればただの野次馬だ。おかげでナマエの異変を察知する人はいなかった。自分達の仲間とみなしてくれている。集団の一部となっている。あの子供を見捨てれば、私は仲間に入れるの? 口角が上がる。ばかみたい。
     最低だ。人目がないところでしか助けない、助けるといったって根本的解決はできないし、本気で救うつもりもない。同年代の子供がこうして足蹴りにされたって見ているだけ。これまでもそうだったし、これからもそうしていくのだろう。悲鳴を聞いても聞こえないふり、目が合っても知らんぷり。自己満足、偽善者、卑怯者!
     いいや、相手はとんでもなくひどいやつらの一員で、ずっとナマエ達はその被害にあっていた。だからこれは罰を与えているのだ。止めたいなんて思っているナマエがおかしくて、あざ笑うのが正しい。さっきいびつに上がった口角は元に戻ってしまった。頬が引きつる。笑わなくては。わらえない。なんで。

     蹴りによるにぶい音が繰り返される。その度ドフラミンゴの口からうめき声がもれる。急所に入るといっそう大きな反応を見せるので観衆はどっと沸いた。ねばついた笑い声。金属がこすり合わせられたような不快感。
     助けて。ナマエは叫びたかった。殴られているのは自分じゃないのに、誰かに助けてほしかった。ドフラミンゴは弱音一つ吐かず、ひたすら歯を食いしばっている。敵しかいないと分かっているからか、誰にも手を伸ばさなかった。
     この絶望はいつ終わるの? みんなの気が済むまで? 生きたまま苦しめろ、と声が上がるのを聞いて、背中に汗がつたった。死なせてもらえない。終わらない。どうする、どうすれば。

     真っ青な顔をしたナマエは、もつれる足を必死に動かして輪の中から抜け出した。街中がドフラミンゴに気を取られ、少女一人姿を消したところで誰も意識していなかった。
     とにかく人々の関心を引きつける必要があった。復讐よりも重要なこととはなんだ。自分の命? 危ない状況なら、ドフラミンゴを置いていくかもしれない。ナマエは街の一点で足を止め、ちっぽけな造りの塔を見上げた。塔と呼ぶことすらおこがましい簡易的なものだけれど、そこには非常用の鐘が吊り下げられている。街全体に関わることでなくては鳴らしちゃいけない、大事な鐘。
     深呼吸を数回。誰もナマエを見ていない。街を支配する「ファミリー」でさえも、今は別の場所を見張っているらしい。賭ける価値はある。本来であれば塔に登って鐘をつくのが正式なやり方だが、登り降りを見られてしまったら一巻の終わりだ。ナマエは視線だけであたりを見回した。
     その辺に落ちていた手のひらサイズの石を持つ。手の震えが止まらない。周囲の建物より高くに取りつけられたあの鐘目がけて、ナマエは大きく振りかぶった。
     カーン、と金属音が鳴り響く。一度揺れ始めた鐘は数往復し、その間にも甲高い警告音が続いている。もう一度だけ石を当てると、ナマエは急いで移動を始めた。人目がない道を瞬時に選び、まるで賞金首かの如くこそこそと動く。あちこちからざわめきが聞こえ出し、息が切れそうになる。もはやなにがなんだか分からなくなりながら、転がるように街の外へ出た。

     息を整えるため物陰に潜んでいると、少し離れた場所に何かが放り投げられた。人間だ。いや、あれは。
     地に伏せたドフラミンゴはしばらく身じろぎ一つしなかった。嗚咽が聞こえる。泣いている? あいつが? ナマエは耳をすませ様子をうかがった。かすかな泣き声が止み、少年は体をばたつかせ始める。わずかながら前へ進んでいるように見えなくもないが、これでは街から離れることすら困難だろう。芋虫よりも遅い進みにしびれを切らし、ナマエは静かに近づいた。


     こんな嫌味っぽい声が自分の喉から出るのか。ナマエは内心驚きながら少年を見下ろした。少年――ドフラミンゴは決してこちらを見なかった。ナマエの存在をなかったことにして、無言の抵抗を貫くつもりのようだ。初めてこいつの思考に共感できたなァ、なんて思いつつ、ナマエはドフラミンゴを持ち上げ、背中にまわした。体格はほとんど同じだがぎりぎり背負うことができる。手足に力が入らないのか、ドフラミンゴの悪あがきは簡単に押さえつけられた。耳元でぎゃあぎゃあわめく元気があるなら運んでやらなくてもよかったか。
     少年の質問攻めを適当にあしらいながら、あの隠れ家までの道のりを脳裏に描く。整備された道を行くと誰かとすれ違ってしまう可能性があるため、ナマエは仕方なく道を逸れていった。
     なぜ私は人目を忍んでまでこいつを背負っているのだろう。問いが浮かぶ。一瞬で答えが出る。「罪悪感だ」、と。肝心なときに見捨てたのだから、これくらいはいいはずだ。罪悪感に押しつぶされるくらいなら、自己満足のために少しくらいの危険は冒す。自分を正当化するための言い訳がするりと出てきたのが滑稽で、音もなくナマエは笑った。背中のドフラミンゴは気づいていない。わめくのを止め、何か考え込んでいるらしかった。

     足場が悪いどころか足場と呼べる場所を探すのが難しい。彼らの隠れ家があるのはそんな場所だ。夕日に照らされた小屋が見えてきた時点で降りろと命じたが、ドフラミンゴはふてぶてしく居座っている。少年の苛立たしい言動がナマエの心を凪いだものにしたので、それに免じて従ってやろうと再び歩き出す。ドフラミンゴは言う。問いかけの体ではあるものの、断定的な響きがあった。

    「見てたのか」

     どっと心臓がはねた。気づかれた。別にこいつにどう思われたっていいじゃないか。頭の冷静な部分はそう判断しているが、苦しみの根幹を見抜かれた衝撃がナマエを襲う。顔を見られていなくてよかったと切実に思った。誤魔化しの言葉に悩んでいる間にも終わりは近づいていた。早く消えてしまいたい。ドフラミンゴを降ろす。見るに堪えない自分の顔がサングラスにうつる。彼はナマエの答えを待っていた。
     問いに問いを返すのは逃げなのか。少なくとも、ナマエは回答から逃げるために訊ねた。ドフラミンゴは自覚なしにそれに乗った。助けなんていらないと。相手が自分でなければ救いを求められたのかもしれないが、ここにいるのはナマエだけだ。そして、ナマエ以外に同情する者はいない。彼らは誰に救われるのだろう。海軍でも海賊でも極悪人でも構わない、いつか誰かが来て一家をさらっていってくれ。自分はそれを見て、みんなと一緒に歯噛みするから。

     ドフラミンゴを呼ぶ声がする。こいつには、探し回ってくれる家族がいる。頼りにはならないとしても、泣きつける相手がいる。かつてナマエにもそんな人達がいた。この手で殺した。

     いいなあ、うらやましいなあ。

     かたく引き結んだ唇がそうこぼしてしまいそうで、ナマエは帰り道も沈黙を保っていた。
     暗い夜道をとぼとぼ歩く。月が彼女を見ている。冷たい光はひとりぼっちの少女の影を濃くしていった。
    6話後編 一度始めた習慣を止めるのが苦手だ。そう言うと話し相手はたいてい「逆じゃない?」と面白がる。続ける方が大変で、やめるのはいつだってできるでしょう、と。理屈は分かるが、ナマエにとって途中で何かを放り出すというのは「悪いこと」なのである。悪いことはしちゃいけない。両親の教えを素直に受け取った彼女はそれをきちんと――実際にできているかは別として――守ろうとしていた。
     つまるところ、天竜人の一家を見張るという習慣をいまだにやめられないのも、「街の人のため」という理由で始めてしまったものだから、やめ時を見失っているという訳であった。本当に人々の心情を考えているのならとっくに告発している頃だが、彼女はその矛盾を自覚した上で見ないふりをしている。仲のいい家族を見るとナマエの心はきしみ、それでもまた時間を作ってはゴミ山を見張りにきていた。あの日見捨てたのが気まずくて、ドフラミンゴを避け影からのぞくこと数日。

    「あ、あの!」
    「…………」
    「ぼく、ロシナンテです! お姉さんの名前は?」

     少しばかり距離をとって話しかけてきたのは、あの小さい方の子供、ロシナンテだった。あれだけ怒鳴り散らしたナマエに名前を聞くなんて、見かけより度胸があるのか。親の影にいない姿を見るのは抱きとめた時以来だな、と思いつつナマエは視線をそらす。途端に、少年から悲しげな空気が漂ってくる。目元は隠れているが、涙目で見つめられているような。親や兄の後ろにばかりいた少年のことだ、相当勇気を出して聞きにきたのだろう。
     自分より小さな子供が泣いているというのはどうにも気分が悪い。いくら相手が天竜人とはいえ、見た目は幼い少年なのだ。さすがの少女も無言を貫けず、「……ナマエ」とこぼしてしまった。
     ぱあっと明るくなった顔はあの夫婦にそっくりで、やはり親子なのだと納得する。同時に、あのふてぶてしいガキも笑えば似ているのかもしれない、とぼんやり考える。

    ナマエさん! えへへ、ナマエさんかあ……」

     何が楽しいのか、ロシナンテはにこにこしたまま繰り返し名を呼んだ。綿毛に耳をくすぐられているような心地になって、ナマエの眉間にまたしわが刻まれたが、ロシナンテのふわふわした声を聞くと自然と薄まっていく。追い払うため睨もうにも、名前を呼ばれてそれすら封じられてしまった。

    「他にも質問していい、ですか?」
    「知らない」
    「じゃあ、何歳ですか! ぼく六歳!」

    「兄上、けが治ってきたんだ! ずっと痛そうだった……」
    「…………」
    「街はこわいから行っちゃダメなんだって。でも兄上といっしょなら大丈夫だと思うんだ。ナマエさんはどう思う?」
    「……兄上の言うこと聞きなよ」

    「それでね、父上がこーんなに大きな魚を見つけたの! 捕まえられなかったけど」
    「まァあの貧弱さじゃそうなるわ」
    「強くなれば捕まえられるのかな……あれだけ大きければ、母上もおなかいっぱい食べて元気になるよね」

     やはりあの両親の息子である。雑にあしらわれているというのにめげずに質問を繰り返してきた。幼い声が一人話し続ける様はなんともあわれで、加えて話の展開に不穏さを感じて思わず口を挟んでしまったのが運の尽き。粘れば返事をしてくれるのだと学んだロシナンテは、ナマエが視線をそらせばそらした先に移動して喋り続ける作戦に出た。
     うっとおしさもあったが、そういえば誰かとこんなに会話をするのは久々かもしれない、とナマエは悪い気がしなかった。そんな自分に気がついて血の気が引いたのは、食料調達の話題に移ってからだった。

    「いつもあの辺で飯漁ってんの?」
    「うん……でもあんまり食べられるやつなくて」
    「……教えてあげようか。場所とか、探し方とか」

     手を差し伸べてやる。もちろん比喩だ。上から目線で、偉そうに、天竜人がやっているみたいに「情け」をかけてやろうと思った。あの子供――ドフラミンゴならば、どれだけ和やかに会話していても手をはねのけるだろう。ロシナンテだって弟なのだ、似た対応をするに決まっている。反発されたのなら、「ほらみろ、こいつらを助ける意味なんてない」と肯定された気になれる。そのはずなのに。

    「ほんと!?」

     ロシナンテはドフラミンゴではない。脳天気な両親にへばりついている子供が、両親の影響を受けていない訳がなかった。悪意にまみれた提案に、彼は輝かんばかりの笑顔で飛びついた。差し伸べた手が、無邪気な手のひらに力強く握り返されたような感覚。なんで、こんなはずじゃ。

     ――もっとちゃんと憎ませてよ。甚振られて当然だって思うようなひどいやつでいてよ。

     手を振り払ってくれたら小さくたって所詮天竜人なのだと、この虚しい習慣をやめられた。わざわざこんな場所に足を運んでいるなんて、人々にバレるのも時間の問題だ。告発するにせよしないにせよ、早く関わるのをやめなくては。自分が変えられてしまう。みんなと同じでなくなってしまう。やつらはこんな過酷な環境で日だまりみたいな笑みを浮かべられる。高貴な地位を捨ててゴミ山にやってきた。正気じゃない。なにより、ナマエの心にじわじわと染み込んでくるのが不快だ。

     きらきらした目を向けているのだろう、ロシナンテがナマエの話の続きを待っている。天竜人嫌いの人間として正しい振る舞いはなんだ。自分は彼らに出ていってほしい。そう、さっさとこの国から消えてほしい。混乱の中心にいる一家を追い出したい。思考を整え、少女はめいっぱい声を尖らせて言った。

    「ほんと。支度ができたら、早く出ていきなね。それまで手伝ってあげるから」
    「なんで、そんな」
    「この国はあんたらのこと大嫌いなんだよ。もう分かってるでしょ」

     急に冷たくなった声色に、ロシナンテは怯えた様子を見せた。大嫌い、と一際強い言葉が、少年の柔らかな唇で繰り返される。ナマエは絶対ロシナンテの顔を確認しないと決意した。

    ナマエさんは、ぼくのこときらい?」

     涙をこらえて震える声でそう訊ねて来た少年に、ナマエは答えられなかった。乾いた口を数回ぱくぱくと動かし、潤んだ視線を振り払うように顔をそらす。回答を拒んだという事実にショックを受けたロシナンテが「ナマエさん……?」と追い打ちをかける。鼻をすすり出しているのに気づいて、ナマエは思わず舌打ちをした。自身への怒り故のものだったが、少年の肩がびくりと揺れる。それを横目で見てしまって。諦めた少女はすっと手を持ち上げた。

    「ひっ、あ、え……?」

     頭上に向けられた手をとっさに避けようとして仰け反り、ロシナンテは後方に体勢を崩した。しかしすぐさまナマエが腕を引いて立て直す。勢いを弱めきれずに彼女の胸に飛び込んできた。
     ふんわりと受け止められたロシナンテは、きょとんとした顔でされるがままだった。何が起きたかよく分かっていないらしい。涙を引っ込め、おそるおそるナマエを見上げた。この前髪の奥で、彼には私がどう見えているんだろう、と漠然と考える。ただでさえ愛想のない面だ、相当恐ろしい存在としてうつっているに違いない。
     ナマエは何も言わず、ロシナンテの頭を乱暴に撫でた。驚きの声をあげる彼を気にも留めず、くせっ毛を荒らしに荒らしてパッと手を離す。困惑の表情を浮かべるロシナンテが反応できないのをいいことに、ナマエはそのままゴミ山を後にした。
     手にはあの、ふわふわした髪の感触が残っていた。


     本日の分はすでに稼いだ。生活に余裕なんてないのだから他の仕事にも手をつけるべきだが、ナマエは海の側へと向かう。この国を象徴するような、荒々しく慈悲のない海。嵐でなくたって立ち入るのを躊躇してしまう危険な場所。波が常に崖にぶつかり、引いてはまた訪れる。ゴミ山と同じく人の通らない崖下に、ナマエの目当てのものがあった。
     波の当たらないぎりぎりに置かれた道具箱、そして――みすぼらしい小舟が一つ。

     ナマエは前々から海に出たいと思っていた。生き死にはどうでもよくて、この国の外に行ってみたいな、と漠然とした夢を抱いていた。だからこそ海岸で大破した小舟を見て確保してしまったし、持ち主が取りに来ないと分かるや否や修理に取りかかった。勝手に海へ出るのは海賊になるやつくらいなもので、周囲へ気軽に「舟があったよ」と言いふらすのは気が引けた。こっそり直しておいて、自分が死んだら両親の骨といっしょに海へ流してもらおう。棺桶代わりならあまり頑丈でなくてもいい。ほんの数人乗せて漕ぎ出せる、その程度で構わない、と。つらい生活を生き抜くための、ささやかな楽しみだった。
     今となって、廃材やら釘やらをかき集め、知識もないのにナマエは小舟の修理に勤しむこととなった。状況が変わったのだ。死体を乗せるだけならば途中で壊れたって問題ないが、生き物を運ぶには頼りなさすぎる。少なくともこの国を離れるまで形を保つ、そんな舟にしなくてはならない。あの一家がこれ以上悲惨な目にあうのなら、彼らが自殺を選ぶ前に、ナマエはこの舟を譲ろうと思った。いくら言ってもあいつらは出ていかない。脱出方法が分からないのかも。船があれば海に出られる、国が違えば一家の受け入れ先だって期待できる。

     絵空事を描く少女は世界を知らない。非加盟国の小さな街と、汚れた海しか見たことがない。この土地は確かに一家を苦しめたが、他の土地なら受け入れるとは限らないのだという発想がなかった。「外」ならきっと彼らを助けてくれる。そう思い込んだのは、絶望しきっているようで希望を捨てきれていない証だった。

     死なせてもらえるとは思えないが、もし死んだのならみんなはその亡骸をどう辱めるかに頭をひねるだろう。ナマエは小舟の穴を塞ぎながら考える。人の形がどれほど残るか。犬に食わせて笑うかもしれない。かつて天竜人にそうされた人がいたから。釘を打つ。天竜人のためにものを直しているなんて、屈辱を感じるべき場面だと理性は言う。実際、「天竜人」であればナマエは怒りに身を震わせていたはずだ。しかしあの一家は、親子は。
     穴を塞ぎ終えて一息つく。ナマエはそっと小舟を撫でた。例の父親の慈愛に満ちた目、母親のすべてを許す微笑み、ロシナンテの弱々しい手のひら。そしてドフラミンゴの、助けを求められなかった姿。少女の脳裏に彼らの一面が映し出されていく。人間そっくりのみじめな有り様だ。とても「天竜人」とは思えなかった。
     修理中の騒音は波が隠してくれる。日が落ちない内にある程度進めなくては。そうしてナマエは金槌を握り直し、淡々と振り下ろした。

    ***

     すれちがった集金役の少年が今度はパンを一切れ口元につけているのを見つつ、ナマエは叔母の家に帰ってきた。ただいま、と声をかけようとして、ある部屋から不穏な空気が漂っていることに首をかしげる。静かにドアに近寄って耳を傾けると、ひそやかな声の応酬が聞こえてきた。

    「子供達が不安がってるんだ、どうにかしてくれ」

     あ、これ私のことだ。ナマエは即座に気がついた。
     叔母の夫、つまりは養父にあたる彼は、「自分達の子供」を心配しているらしい。そこにナマエは入っていない。普段の生活でも彼とはどことなく距離がある。目が笑っていない、それどころか顔が強ばっている瞬間もあって、ナマエはできる限り接触しないようにしていた。
     秘密話に聞き耳を立てるのは行儀が悪い。分かっているものの、話の中心が自分である以上ナマエはドアの前を動けなかった。

    「そうは言っても、姉さんの子供を放り出すなんてできないよ。あの子だって頑張っているんだし……」
    「その姉を殺したんだぞ? 実の子が両親を殺すなんて……! お前は恐ろしくないのか?」

     夫の追求に叔母がひるむ気配がした。彼女が言葉を選んでいる間、ナマエの手足が冷え切っていく。やっぱりな、と腑に落ちた。表立って言われずとも察していた、歓迎されていないという事実。それでも家に置いてくれた。優しい人達だ。
     即答できないのが答えのようなものだが、叔母はナマエと違って答えることから逃げなかった。

    「……あの子の手を汚させちまったのは大人の責任さ。あの子がやってくれなけりゃうちで引き取るなんてできなかった。でも……」

     叔母は一呼吸おいて、禁忌に触れるかの如くささやいた。誰にも言わずに封じ込めておくつもりだったのだろう、大人の本心がこぼれる。

    「あんな子供が、自分で考えて殺したってのは、そりゃ、怖いわよ……」


     ナマエはこっそりと離れ、足音も立てずに自室へ戻っていく。「子供達」と叔母達は同じ部屋だが、ナマエには小さいながらも一人部屋が与えられていた。大きい家ではないのに、彼女のためだけに用意された狭い空間。初めて案内された時、叔母はなんと説明していたっけ。
     家具はほとんどなく、室内を彩るのは簡素なベッドくらいで、小窓から差し込む明かりすらも寒々しい。不満なんてないが、この時期には精神的に堪えるな、と思う。

     無言でベッドに上がる。自分を抱きしめるようにうずくまる。血にまみれているような錯覚に陥り、でもいいか、と諦めて目を伏せた。
     人でなしには居場所がない。当然だ。しかし生きていくには集団の中にいる必要がある。みんなといっしょでなくては、知恵も力もないナマエは生きていけない。どうか仲間に入れてください。見限らないでください。神ではなく民衆に向けて祈る。願いを叶えるために、ナマエは自身の価値を示さなくてはならない。ありもしないものをどうやって? 悪癖の自問自答が暴れだす。
     今だけは誰にも優しくされたくなかった。期待してしまうのがいやだった。あの一家の微笑みが心中をかすめ、忘れようと努力する。かたいベッドで体を痛めても、少女はじっとしたまま動かないでいた。
    こごま Link Message Mute
    2023/01/21 23:46:01

    5〜6話

    ドンキホーテ兄弟幼馴染女夢主
    幼少期編side夢主
    【注意】夢主の言動がカス、逃げ癖あり

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      【注意】夢主の言動がカス、逃げ癖あり
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    • 9〜11話ドンキホーテ兄弟幼馴染女夢主連載まとめ。幼少期編。
      一家が火あぶりにされたりドフラミンゴが父に銃を向ける回。これにて1章完結です。

      【注意】夢主の言動がカス、逃げ癖あり
      こごま
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