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    9〜11話9話10話11話9話※夢主(子供)の売春および性的シーンがあります。


     ナマエがまだ歩くのもおぼつかなかった頃、両親にくっついて夜歩きをしたのを覚えている。
     何か理由があって家に置いておけなかったのだろう。その日の両親は店員に金を握らせて短時間の子守を頼んだ。
     店員は面倒くさがりながらも承諾し、ナマエをカウンターの裏側に連れ込んだ後、静かにしているよう命じた。言われずともナマエは騒ぐつもりはなかったのだが、あらゆるものに興味をひかれる時期ではあったので、裏口からひょこっと顔を出してみたりして遊んでいた。
     そして何度か繰り返した時、酒場の裏で絡み合う男女とかち合った。
     体を絡み合わせ、時折水音めいたものも聞こえてくる。ずいぶん近くでお話するんだなあ、なんてぼんやり見上げていたら、場違いな子供の存在に気がついた二人はナマエを煩わしそうに追い返したのだった。
     今考えれば、彼らは盛り上がっている最中だったに違いない。場所を変えずおっぱじめるくらいに熱い夜なんて想像もつかないが、そこにガキがやってきたとなればそりゃあ邪魔である。ナマエ達のように幼い子供が知識どころか実践までしているなんてよくあることだが、それでも子供に見られるというのは、やはり気まずいものがあるのかもしれない。


     実際に見られる側に立つと、あの時の男女はよく怒らなかったな、なんて思う。

     少し広めの路地裏で、ナマエは木箱の上にいた。宿代を惜しんだ客に体を揺さぶられながら、ちょうど大通りから逃げ込んできた兄弟と目が合った。彼らに見せたことのない白いワンピースを腰上までまくり上げ、肌を晒して男と抱き合うナマエを、二人は呆然と見上げていた。
     今日の彼らは比較的傷が浅い。血もあまり滲んでいないし、両手にパンやら果物やらを抱えている。遠くで怒り狂った罵声が聞こえるあたり、店に石でも投げつけたのか。数日前なんて虫の息で逃げ帰るのを目撃してしまったから、元気そうでなによりだ。

     しかしなるほど、これは追い払いたくもなる。何をしているんだ、と言わんばかりにちび――ロシナンテが口を開けているのを見ると、表情豊かでないナマエでも眉をひそめそうになった。
     一方ドフラミンゴは、知識が無いなりに異様な雰囲気を感じ取ったのか、慌てて弟の手を引き迂回しようとしていた。焦ったあまり、彼の手の隙間からりんごが一つ落ちるのが見えた。
     ころころ転がったそれは、客の靴にぶつかって止まる。
     客の男は腰をふるのを止め、足元を見、りんごがやってきた方向を確認した。明らかに盗みを働いた子供二人が足早に逃げる背中を捉え、首を傾げている。後ろ姿では例の「元」天竜人の子供達だと分からなかったらしい。
     けれども自分より弱いやつを痛めつけるのが好きな男なので、このままでは追いかけ回しかねない。中に入れられている「それ」も固さを失いつつあり、慌ててナマエは男の胸に抱きついた。

    「おい、邪魔だ!」
    「まだ終わってないでしょ? あんなやつらどうでもいいじゃん」
    「今日はもういい、萎えちまった」
    「そう言わないで、途中で邪魔が入った分サービスするからさ」

     以前見かけた色気たっぷりの先達を思い出しながら、ナマエは指の先まで気合いを入れて誘いをかけた。男の胸に手を這わせ、目を伏せ気味に言葉を紡ぐ。
     うまくいくかは賭けだった。この客は稼いだ金のほとんどを女に費やすほどの色好みだが、暴力だって同じくらい好きなのだ。一歩間違えれば矛先はナマエに向く。自分の目が泳いでいないかだけが心配だった。
     ――しかしそれも杞憂に終わった。
     男の目の色が変わる。少女が「女」として振る舞ったときに向けられる、ぎらついた目。この瞬間、客達の顔つきそのものが変わっている気がして、ナマエはいつも逃げたくなってしまう……逃げられるものなら。この目がを向けられる限り、ナマエは商売ができる。売り物が逃げてはならないのだ。
     とにかく、通常の値段のまま好待遇を仄めかされたことで男は上機嫌になっている。普段淡々と仕事をこなすナマエに誘われたというのも男の優越感をくすぐったらしい。

     そうだ、そのまま私だけを見ていろ。食い荒らすなら私でいいだろう。

     興奮を煽るように、男の脂ぎった肌へゆっくりと触れる。
     ここから先どう動くかを考えながら、ナマエはそっと足元に目をやった。艷やかなりんごが誰にも拾ってもらえぬままにぽつんと転がっている。さりげなく足先でつつくと、真っ赤な果実はあっけなく視界の端から消え去った。


     街で見かける兄弟はいつだってぼろぼろだ。兄が弟の手を引いて、日に日に苛烈になっていく暴力の隙間を縫って生きている。
     何不自由なく暮らしていたであろう子供が自分達と同じくらい落ちぶれた姿は、ナマエの気持ちをほんの少し晴れやかにし、それ以上の苦痛を与えた。母親が死んで泣く。そんな弱さを持つ生き物だと知った今、ナマエは振り上げた拳を彷徨わせている。
     だが周囲は違う。
     彼らは「天竜人」が憎いのだ。表立ってやり返すことを許されなかったこれまでの鬱憤を一家に向けている。現状を耐え忍ぶ中、それを生きがいにしている人もいる。復讐は活力になり得る。対象が、行いがこの様でなければナマエだって推奨したかもしれない。
     深入りするんじゃなかった、と何度思ったことだろう。あの日の出会いさえなかったら、ここまで苦しまずに済んだはずなのに。関わる道を選んでしまったのは自分だ。どれだけ理由をつけようと、ナマエ自身が選択したという結果だけが残る。

     ナマエは善人ではない。両親の気を狂わせた天竜人とあの一家は別人だと知っているだけだ。
     もし両親の仇が目の前に現れたのなら、神であろうと生物であろうと殺しに行っただろう。一家を殺せば元の暮らしに戻れると言われたならば、迷わずに手をかける。苦しみが長引かないように、さっさと殺してみせる。
     自分がそんな人間だと分かっているからこそ、ナマエは正しさを人に説くことができなかった。みんなの前で「こんなことやめよう」だなんて、言えるはずがない。人々の怨嗟の声が理解できる身で、そんな綺麗事など。
     そして甚振られたときの痛みも知っているナマエは、一家の惨状から目を背けることもできないのだ。

     いつか痛みに慣れる日がくる。殴られるのが当たり前で、傷が完治することはなくて、罵声を浴びせられながら生活を続けていく。
     すでに大人になってしまったあの父親はともかく、幼い兄弟であれば適応していける。人々は彼らをきっと、そう、殺しはしないだろう。かけがえのない「元天竜人」をいかに長く苦しめるか。それを優先するはずだから、死にはしない。大丈夫。彼らは少しずつ生きのび方を学んできているし、みんなの怒りをぶつけられたってかわせるようになる。
     ナマエは胸の内で繰り返す。助けなくていい理由を必死に探そうとしている。
     少女の理性が嘲笑する。幻聴が現実の音と混ざり合う。


     ――――眼前に突如大柄な男が現れる。いや、ずっといたのだ。どれだけの間気を抜いていた? 客の様子は?
     ナマエはすぐさま仕事用の顔を作り、男の対応に戻る。男は怪訝な顔をしたまま金をぶらぶらとさせた。

    「――おい、いらねェのか?」
    「あ、いりますいります! ありがとう。ごめんなさい、ぼーっとしちゃって」
    「はァ? 大丈夫かよ。病気になったらウリに来んなよ」
    「もちろん」

     へら、と笑みを浮かべ、投げられた金を落とさないように受け取って頭を下げる。機嫌を損ねないように下手に出ておけば、気の済んだ男は雑踏へと消えた。足止めのための「サービス」にも満足したようだし、因縁もつけられなかった。今日は無傷で過ごせそうだ。少女は静かに息を吐く。


     軽く身支度を整えたし、次の客をとりにいこう。ナマエがそう思って街中を歩いていると、建物の隙間からスッと小さな手が伸びてきて、彼女の腕を掴んだ。振り払う間もなくナマエはよろめき、手の持ち主の元に倒れ込む。

    「わあ! いてて……」
    「おい、ロシーを下敷きにするな」

     のん気な声をあげた子供がナマエの下でうめいており、慌てて立ち上がる。その時触れた体のやわらかさも、少女を叱責した声も、なんだか懐かしいものだった。

    「あんたら、まだいたんだ」
    「もう少し食べ物確保してからにしようって、兄上が」
    「そういう意味じゃなくて……」

     ロシナンテに皮肉が通じずペースが崩れたが、兄――ドフラミンゴの方は口をひん曲げていたので少し安心する。ロシナンテはといえば、前髪のすき間から見える瞳がきらめいていて。明るい表情でナマエに話しかけるその頬はやわく、そして薄汚れていた。

    「えっと、ナマエさん、久しぶり!」
    「……ん」
    「さっき見かけたから、お話したいなと思って。その、転けさせちゃってごめんなさい」
    「それは別にいいけど」

     ナマエのひねくれた精神では、ぶつかってしまったとしてもロシナンテへの謝罪は出力されない。ドフラミンゴの眉がキッと上がるのを横目に、恒例の「許してやる」顔で話を聞く。ロシナンテはなぜか言葉に詰まっていて、促す気持ちも込めてナマエは黙っていた。ドフラミンゴも弟を手助けするつもりはないようだった。
     ドフラミンゴの立ち姿は、初めて会った時と比べてずいぶん貧民街に馴染んでいる。かつて貴族だったと言ってもすぐには信じてもらえないであろうその様は、ナマエのような人間が触れても許されそうな雰囲気があった。

    「…………」
    「なに見てんだ」
    「あんたも頑張ってんだな」

     ふと「人間らしくなったね」と喉まで出かかって、なんとか別の言葉で誤魔化した。ドフラミンゴは「はァ?」と言わんばかりに顔を歪め、実際に言った。

     しばらく見ないうちに、ドフラミンゴは「だえ」と言わなくなっていた。人々の会話から学び、自ら馴染むかのように言動を変えた。変えなくてはならなかった、と言うのが正しいかもしれない。
     この街で生まれ育ったかのように荒々しい言葉を使い、粗野な振る舞いをする姿を見て、すぐに元天竜人だと気づく人はいないだろう。空より高いプライドを持ちながらも変化して見せたのが意外だった。

     互いに街で見かけることはあれど、接触は極端に減った。これが久方ぶりの会話だった。彼の母が亡くなって以降、ナマエは例の小屋に寄りつかないようにしていたのである。
     彼らもある程度は生活に慣れてきたようであったし、ドフラミンゴ達の身のこなしも多少はマシになっている。何より、これ以上彼らに時間を割いていてはみんなに怪しまれる。この機会に縁を切るべきなのだ。奴らが生きようと死のうと関係ない。何度出ていけと言ってもついぞ出ていかなかったのが悪い。

     言い訳を並べるナマエの脳内に、いつかの小舟がよぎる。かつて、一家を逃すために使ってやろうと思っていたあの舟が。
     あれから一年以上の時が過ぎ、馬鹿なナマエにも現実が見えてくる。あんな小舟では北の海を越えられない。越えられるだけの強度があったとして、今度は飢えに苦しむことになる。一家全員――死んだ母親を抜きにしてもだ――を乗せてどこまで行ける? 陸で嬲り殺されるか海に沈んで水死体になるか。どちらもろくでもない結末が待っている。
     そう分かった上で、ナマエは舟をまだ残していた。叶わなくとも、夢物語めいた希望を自ら壊す勇気はなかった。

    ナマエさんっ」
    「なに」

     ロシナンテの呼びかけが、ぐるぐる回るナマエの思考を打ち破る。なにかを決意したように彼が言う。問いかける声はやはり幼い。

    「なんで最近来てくれなくなっちゃったの?」
    「……あのね、そもそもあんたらんとこに行ってたのがおかしかったの。今が正常。それに、もう自分達だけで生きていけるでしょ」
    「そんなことない! ぼく達頑張ってるけど、でも、ぼく、ナマエさんに会いたかった。なのに……」

     これは悪い流れだぞ、と察するのは早かった。ナマエはロシナンテの拙い抗議をはいはいと打ち切り、「じゃあ行けそうな時行くから」と誤魔化して逃げようとした。


     くっ、となにかに阻まれる。気のせいかと思うほどささやかな抵抗感。少女はしまったと言わんばかりに眉を寄せ、ゆっくり振り返る。
     犯人なぞ分かっている。ロシナンテだ。

     幼い少年がワンピースの裾をおそるおそるつまみ、しわにならない程度に引っぱっていた。振りほどこうとすれば簡単にできてしまう、なんてことない弱々しい力。その指先は震えている。ちらりと覗く瞳だけは、しっかりとナマエを見据えていた。
     それがナマエを引き留めたいがための行動だと察してしまったものだから、あまりのいじらしさに少女はしばし無言になり、視線だけで兄の方へ助けを求めた。成り行きを見守る姿勢をとったドフラミンゴは、弟をたしなめるのをとうに諦めていたのだろう。ナマエの視線を退け、顎で返事を促した。そんなドフラミンゴに舌打ちし、うなり声をあげた後、少女は言葉を絞り出す。

    「仕事、あるから」
    「いつ終わる?」
    「……夜まであるし、そっち行く余裕ない」
    「それなら、ぼく達が街に来る。ちょっとでも話してっ、ぼく達を無視しな――」
    「――――だから! いっしょにいるとこ見られたくないんだってば!!」

     ハッとして口を塞ぐ。衝動的に叫んだはずなのに、響き渡らないよう声を抑えていた。こんな状況でも人々の目を気にしている自分が滑稽だった。
     少女の叫びは雑踏に紛れて消えた。拾い上げたのは、納得した顔のドフラミンゴと、前髪でも隠せないほど愕然としたロシナンテだけだ。
     怒鳴られた衝撃でロシナンテの手が離れ、ナマエはすり抜けるように立ち去った。これ以上顔を見てしまえば自分が何を口走るか分からなかった。
     もしも目の前で泣かれたら、抱きしめてしまいそうな気がした。

    ***

     ナマエは客を取り続けた。何も考えたくなくて、人々のためになっているのだと思い込みたくて、その身を売り物にした。引き換えにいくばくかの金を得た。生活を楽にするには到底足らない、今日を生きぬく金に変わった。
     この商売をしているとき、ナマエは自分自身を切り替えられる。少なくとも、客がつく程度には媚を売れる。
     それが少女にとって幸運であるのかは、生き延びた先の彼女しか知らないことだった。

     夜が更け、春を売る者達にとってはここからが本番とも言える時間。少女は場を後にした。
     疲れ果てた人々は酒と薬と女で苦しみを誤魔化している。そうでなければ、明日に備えて眠っている。
     たかが少女一人、誰も気にしていないと知っていた。叔母ですら、少女がいなくなったってどうでもいいと思うだろう。

     少女は街の一区画へ走っていく。この街で一番大きな場所。ナマエの両親の眠る、墓場へと。


     満月が生者と死者を等しく照らす。擦り切れたナマエの服が夜風で揺れる。いい加減次の靴を調達しなくちゃな、と考えながら墓地の土を踏む。

     墓と呼ぶにはあまりにみすぼらしいそこに、両親はいた。正確には、両親を含む街の住民達が。

     身元不明の死体は墓すら作られず一纏めにされる。家族がいる者でも、一人一つの墓を作ってやる余裕はない。ナマエ達もその対象だった。
     合同で建てられた墓に、両親の名前が刻まれている。ただそれだけだが、どこに行けば両親に会えるのかはっきりしているのは、重要なことだ。
     ――合わせる顔がないから、と避けるためにも。

     両親は天竜人に連れて行かれたせいでおかしくなってしまった。帰ってきた彼らは、聖地でなにがあったのかを話すことすらできなかった。
     自我を失うほどに耐え難い苦痛を与えられたのだろう。捨てられた後、運良く生きて戻ってきた。ナマエは今の自分が幸福であるとは露とも思わないが、両親の受けた仕打ちに比べたら天国のようなものなのだと理解していた。愛する両親がそんな目に合わされて腸が煮えくり返っていた。

     それなのに。ナマエは天竜人を守ろうとしている。
     自分の都合で両親を殺した挙げ句、復讐対象の天竜人を庇っている。

     親不孝者どころではない。どの面下げて墓参りに行けばいいのか。自分の行いが街の人々に気づかれることを恐れると同時に、その罪深さで押しつぶされそうになっていた。ずっとずっと、墓場の近くにすら寄れなかった。

    「お父さん、お母さん、ごめんなさい」

     謝ることはたくさんあった。一つ一つ挙げ連ねたのなら夜が明けてしまう。それでもナマエは全部を打ち明けたくて、口を開いた。声がつまる。
     ――――何から謝ればいいの。
     両親の命を奪い、そこまでしたのに不幸面していることも、叔母達に負担をかけていることも、重大な過ちだ。そして今、謝罪すべきは他にもある。天竜人の一家に肩入れして、街の人々を裏切っている事実を――。
     ――――謝らなくちゃ。私の考えは間違いでしたって、金輪際関わらないって宣言しなくちゃ、きっとお父さん達は安心して眠れない。
     墓地に漂う淀んだ空気を吸い込みながら、ナマエの頭の中ではすべきことがはっきりと示されていた。
     けれど。それだけは駄目だと。心の内で、頭の隅で、誰かが言っていた。
     その誰かが他でもない自分なのだと気づいた瞬間、彼女は無理やり言葉を絞り出した。

    「わ、たし、もうあいつらに……天竜人、なんかに。関わらない……。馬鹿なことして、ごめんなさい。これからはちゃんとする。だから……」

     「ちゃんとする」とはなんなのか。ナマエ自身もよく分からない。だが、ドフラミンゴ達を害するのだと口にすることは避けてしまった。
     死者は喋らない。少女の卑怯さを咎めるどころか、恨み言さえ言ってはくれない。ナマエの懺悔は風に乗り流れていく。それすら誰にも届かない。
     結局は自己満足なのだ。ナマエは口を歪めた。ここで何を言おうと現状は変わりやしない、自分の気持ちを軽くするための茶番。
     月光に照らされたことで、墓に記された両親の名前が一際浮かび上がって見え、ナマエは手をかたく握りしめた。単なる文字だというのに、今の少女には責め立てる言葉として映った。
     彼女は、きっとこれも自分の思い込みなのだと察していた。
     バレずに済むのが一番いい。しかしナマエはこの綱渡りめいた状況が終わるのを待っていた。天竜人の一家が何らかの形で救われるか、もしくは。

     ふと頭をよぎった考えに寒気がして、振り払うように墓から目をそらした。どれだけの時間ここにいたのだろう。いくら叔母達がナマエを気にかけていないとはいっても、さすがに限度がある。一人きりの墓場で両親に再度詫びると、少女は帰路についた。

    ***

     本心だ。現状を変えたかったとしても、破滅を望む者などいないはずなのだから。

    ***

     最後に叱られたのはいつだったか。
     いたずらのつもりでしたことが両親の怒りを買って、想定以上に説教が長引いた。そんな遠い記憶が蘇る。自分の知らないうちに悪事が見つかって、心の準備をする間もなく怒られたんだっけ。

     家に帰った夕暮れ時。玄関ドアを開けたナマエは、かつての両親が纏っていた雰囲気を感じ取った。家具の配置も、壁の汚れだってそのままなのに、なにかおかしいと気づいてしまった。人の気配がする。今の時間からして、おそらく叔母だ。いつもなら帰宅したナマエに出迎えの声すらかけない彼女が、ゆっくり近づいてきている。
     玄関で佇んだままのナマエに、叔母が静まり返った目を向ける。以前からこんな目つきだっただろうか。

    「叔母さん、ただいま」
    ナマエ

     名前を呼ばれた瞬間、少女はこの後の展開を悟る。脳内でありとあらゆる説教のパターンを思い浮かべ、どう答えるべきかを考えつく前に叔母は宣告した。

    「ちょっと来なさい」


     叔母がナマエの部屋ではない方の一室に入っていく。ナマエもその後を追う。古びたテーブルと椅子が並ぶそこに足を踏み入れる。
     ナマエが叔母達と食卓を囲んだことはない。引き取られてすぐ部屋を与えられ、そこで済ませるよう言いつけられたからだ。この部屋にはナマエを抜いた家族の数だけ椅子がある。

    「座りなさい」

     自分のための場所がない空間はひどく居心地が悪い。けれども叔母の物言いに逆らう余地は無く、誰かの椅子に浅く腰かける。叔母はテーブルを挟んだ真向かいに座った。冷たい視線が突き刺さる。

    「最近、街にいないことが増えただろう。どこ行ってるんだい?」
    「……あ……ごめんなさい。海を見に行ってたの。その、この島以外の場所ってどんな感じなのか、気になって」
    「そうかい」
    「……置いてもらってる身なのに、サボってすみません。今後はもっときちんと稼いでくるから……」

     叔母の返事の簡素さに嫌な汗をかきながら、用意していた言い訳を並べていく。遊ぶ余裕なんてないのにふらふら出歩いていたというのは叱られるに十分だ。これまでのナマエなら泣き出してしまうところだが、それ以上の悪事をした自覚のある彼女は目を潤ませるのみで抑えた。「あれ」がバレるのに比べたら、こっちを咎められる方が――――。

    「じゃあ、これに心当たりはないんだね?」

     ぱさり、とテーブル上に投げ出されたのは。
     例の兄弟に譲ったはずのブランケットだった。

     心臓に氷を入れられたみたいに息が止まる。まさか、あの一家になにかあった? 小屋を襲撃されたのか?
     ちがう。この反応は正しくない。嘘をつけば、まだ、まだ誤魔化せる。

    「それ……! どこで見つけたの!? ずっと探してた、」
    「天竜人のガキが持ってたよ。大事そうに抱きかかえてね」
    「……天竜人がこんな古いものをありがたがるんだ」

     やはり兄弟と接触したのか。叔母はあまり積極的に甚振りにいく方ではなかったから油断していた。同じ街にいる以上、彼女の目にとまることだってある。なぜブランケットを持ち歩いていたかは謎だが、そこで見つかったらしい。奪い取られた時、彼らは何を思い、なんと言ったのだろう。人の心配をしている場合じゃないのに、少女の思考はそちらに割かれてしまう。
     あの夜中の宣言通り、ナマエはこれまで以上にドフラミンゴ達を避けた。目くばせすらしなかったのだ。繋がりがあったと知られては、いや、以前の交流を見られていたら、あるいは。

    「姉さんが縫ったもんだろう」
    「……うん。見つけてもらえて助かった」
    「大切にしてるんだね」
    「もちろん」

     この家に持ち込んだ、数少ないナマエの私物だった。母がくれたそれを、ほつれる度に直してもらった。孤独に耐えられない夜には抱きしめて眠った一枚のブランケット。
     兄弟に譲ったのだって軽い気持ちでしたことではない。あの冬の寒さは一際厳しかったから。着の身着のままの彼らはいつも凍えていた。ナマエ達だってそうだ。だからこそ、そのつらさが分かった。
     稼ぎは生活費とドフラミンゴに渡す薬代――あの時はまだ必要だった――に使っていて、防寒具を買ってやる余裕はなかった。彼らにすぐ渡せるものなど。
     そうしている間にも彼らの体力は刻一刻と削られていく。ナマエにできることは限られている。何かを得るには何かを失わなくてはならない。少女は選択した。
     ……結局、手元に戻ってきてしまったけれど。

    「あのガキ、盗んだんだって言ってたよ」
    「そう、盗まれ――」
    「最初は、もらったなんてぬかしてたけど」

     鋭い目がナマエの一挙一動を見逃さないとばかりにねめつける。ただ盗まれたというだけならここまで刺々しい雰囲気にはならない。背中を汗が伝っていく。骨の髄から冷え切っているような感覚に襲われる。

    「天竜人が来てから、あんたはずいぶん熱心に稼ごうとしてた。たまに夜中抜け出してた。そうだろ」
    「…………」
    「最初は、男ができたんじゃないかって、見逃してやるつもりでいたんだ。姪が天竜人と仲良くしてる可能性を考えるよりは、ずっとマシだったからね」

     断定的に告げられていく内容に反論も誤魔化しもできそうになかった。息一つままならなくなっていた。
     叔母はとっくに気づいた上で、証拠を掴むために揺さぶりをかけにきたのだ。少女の振る舞いの不自然さが日々の違和感を生み、ドフラミンゴ達の様子を見て確信に変わったのだろう。
     秘密はいつか暴かれる。そうは言っても、この程度の追求、賢い人間ならたやすく取り繕えるはずだ。揺さぶりといっても証拠写真がある訳でもない。白を切ればどうとでもなった。
     しかしナマエは賢くなかった。そして、疲れ果てていた。

     ナマエは叔母の言葉を否定せずうつむいた。テーブルに刻まれた傷がやけに目についた。
     叔母もまた、しばらく何も言わなかった。大きく息を吸い込み、怒りを押し出すが如く、ため息をつく。
     ナマエがおそるおそる顔を上げた途端、勢いよく首元を引かれた。

    「私達がこれまでどんな目にあわされてきたか、分かっててやったんだね?」

     ひんやりとした声に、しかめられた顔に、抑えきれなかった憎しみが乗っていた。最後のチャンスをくれてやる、と。全身全霊で詫びれば取り計らってやると、血の繋がり故の情がまだあった。
     ごめんなさい。ナマエがこぼした一言は震えていたが、後悔の念はない。
     その瞬間、少女の体が吹き飛んだ。一拍置いて、殴られたのだと気づく。殺されていないことを不思議に思う。

     先の見えない細い綱がぷつりと切れ、渡っていた少女は抵抗する間もなく落ちていく。訪れる死を予期していながら、ナマエの心は奇妙なまでの安堵があった。


     ああ、やっと裁かれるのだ。
    10話
    「見ろ、あそこだ」
    「ずいぶん派手にやってんなァ」

     ヴェルゴが噂を聞きつけて仲間達と共に屋敷へ向かった時点で、もう例の一家は磔にされていた。ごうごうと燃える屋敷には迫力がある。来たかいがあったというものだ。

     民衆がギャアギャアわめいて彼らを痛めつけるのを、ヴェルゴ達は静観していた。
     迫害には参加しなかったが、厄介者にわざわざ手を差し伸べる気もないのである。今回だって、あまりに街の住民が騒いでいたものだから話の種になるだろうと見物に来ただけだ。
     彼らが場所取りにうろちょろしている間も火の手は止まず、人々が思い思いに攻撃しては一家の傷が増えていった。

     やつれはてた男が「やめてくれ」と叫ぶ。
     前髪で顔の隠れた小さな少年がいたいいたいと泣いている。
     短髪の少年に矢が突き刺さり、声変わり前の悲鳴が上がる。

     ヴェルゴはそれを見て、天竜人も人間と同じ反応をするのだな、と思った。面白みはない。悲鳴なんて街にいればいくらだって聞けるのだ。
     もっとも、こんな感想が出るのは天竜人からの被害を直接受けていないからだろう。
     この国の貧困は天竜人の影響が大きいが、そこまで範囲が広いとなるとヴェルゴには実感がない。身近な人間の死にも慣れてしまった。死なないから生きているだけのヴェルゴにとって、近所の喧嘩っ早い暴力親父も天竜人も大して変わらない存在だった。


    「何泣いてるんだい、この恩知らずっ……!!」

     どこからか鈍い打撃音とうめき声が流れてきた。街中でよく聞く音だし、見なくとも何が起こっているか把握できる。だが、一家の反応に飽きつつあったヴェルゴは何の気なしに目をやった。

     屋敷を見上げて罵声を浴びせる民衆の中、一人だけ、地べたにうずくまっているやつがいる。
     髪の毛を鷲掴みにされ、顔を上向きに晒されている子供。先程の声はこいつが漏らしたものらしい。
     ひどく殴られたのか、元の状態が分からぬほど顔が腫れ上がっている。パッと見て誰だか判断するのは難しかったが、ヴェルゴの頭脳はそう時間をかけずに該当する少女を思い出した。街で花売りをする少女――ナマエだ。売り上げは良くも悪くもない。評判だって微妙なもので、死んだところで悲しむやつは少ない。そんなよくいる類の少女だった。

     立ち上がろうとする度、彼女の足元がふらついていた。すり切れた服には血が滲み、黒々とした長髪が怒号で揺れる。
     少女のことを引きずり回しては小突くあの女は、確か彼女の叔母だったはず。唾を散らしながらまくし立てる剣幕は傍から見ていても恐ろしいものだが、周囲の人間も同じような表情をしているせいで馴染んでしまっていた。
     叔母だけではここまでの傷を負わせられないだろうから、天竜人の一家が吊られるまでは彼女が殴られていたのかもしれない。今の状況ではたかが子供一人をなぶるより、矛先を向けるべき相手がいるから放置されているだけで。

    「ほんとは悪いと思ってないんだろう!? 見な! あんたが庇った天竜人の末路だ!! あんた一人がだんまり決め込んだところで、意味なんかないんだよっ!!」

     言われなくても、そいつは確かに死んだ目で少年達を見ていた。濡れた顔面が炎を反射し、てらてら光る。そして今もぼろぼろと泣き続けている。
     周囲が一家に罵声を浴びせる度しゃくりあげているあたり、自分の怪我よりも磔になった元天竜人の方に心を痛めているらしい。
     以前彼女の様子に首をかしげたことはあるが、まさか本当にあいつらの味方をしていたとは、とヴェルゴは内心驚いた。彼女の両親の事情もそのせいで起きた出来事も、ヴェルゴ達は把握済みなのだ。恨みこそあれど庇う理由などないはずだが。

     怒りに満ちた熱気の中、この少女だけが一家のために涙を流していた。彼女が何を思ってこんなことをしでかしたのか、ヴェルゴの知るところではない。叔母の言う通り、無力な子供が庇ったところで何の足しにもならないと本人だって理解していただろうに。

     段々と炎の勢いが増し、一家の衰弱具合も目に見えてひどくなってきた。
     しかし人々は激高し続ける。弱った姿を見て、もっと、もっと苦しめと呪詛が飛び交う。積年の恨みを今ここで晴らさんとばかりに痛みにあえぐ一家を責め立てる。

     小さい方の少年が何か口にした。内容までは分からないそれを皮切りに、短髪の少年が大声で叫ぶ。これまでの泣き言とは全く違う声色で。


    「おまえらを一人残らず殺しにいくからなァ!!!!」


     ――――その瞬間、全身が震えた。
     未体験の昂りが体を駆け巡る。頭がやけに冴えたような感覚。膝をついてしまいそうな、圧倒的な存在感。
     相手は矢傷を受けた同年代の少年だというのに、自分との違いをまざまざと見せつけられたような。
     縛りつけられて、傷だらけになって、泣きじゃくっている彼が。ここにいる誰よりも上に立つべき者なのだと本能で分かった。

     
     ヴェルゴは口を閉じることも忘れ、少年の宣告に聞き入った。
     そして気がつくと、ヴェルゴだけがその場に立っていた。
     民衆は武器を持ったまま卒倒。仲間達も倒れこんでいる。今の衝撃を分かち合う相手がいないことに若干の落胆を覚えつつ周囲を確認すれば、地面に赤黒い跡が残っていた。
     少女が進んだ道を示す血の跡は、屋敷の入り口に向かって点々と続く。ヴェルゴが呆然としていた間に屋敷へ乗り込んだらしい。よくあの怪我で動けたものだ。執念すら感じる少女の行動に少しだけひやりとした。
     なぜか炎の勢いがマシになったとはいえ、依然として一家は宙吊りにされている。仲間達が起きるには時間がかかりそうだと判断し、ヴェルゴは一人、崩壊しかけの屋敷に乗り込んでいく。
     あの少年を探すために。


     荒らしつくされた部屋を横目に屋敷を探索する。火の手はまだ所々に残っている。さっさと見つけなくては自分までここで焼け死んでしまう。

     ようやく見つけた階段の成れ果てを登っていくと、ヴェルゴの耳がかすかな物音を拾い上げた。何か重たいものを引きずっているのか、音の発生源はゆっくりと動いている。そんなスピードでは炎に飲まれるのも時間の問題だ。足早に廊下を駆け抜ける。
     あっという間に辿り着いた場所には、血まみれの一家を引きずって歩く、これまた重傷のナマエがいた。

     父親を背負い、兄弟を両手に抱えている。どう見ても重量オーバーなそれを保ったまま、目の前に立つヴェルゴすら視界に入れず彼女は歩みを進めていく。
     ナマエの首にしがみつく父親の口から息が漏れる度に、生命が流れ出ていくかのように見えた。小さい方の子供は死んでいないのが不思議なくらいの深手を負っており、頬に残る涙の跡が乾ききっていた。
     目当ての少年はといえば、少女の右腕に掴まったままぼんやりとうつむいている。が、ヴェルゴの存在に気がつくとハッとして顔つきを変えた。

    「誰だてめェ……」
    「おれはヴェルゴ。お前に会いにきた」

     彼の頬にもまた涙の跡が残っていたが、敵意に満ちた表情によってずいぶんと印象が違って見える。この少年ならば、必ずあの叫びを実行するだろう。その時自分を横に置いてほしい、と乞うにはいかんせん信頼が足りない。
     まずは挨拶から。人間関係の基本だ。
     彼のサングラスには残り火が反射していて、その奥の瞳まで窺うことはできなかった。きっと向こうも同じように思っている。

    「……あー、キミ、聞こえてるか? 後はおれに任せてくれ」

     ヴェルゴ達が話しているのも気に留めず、少女は一定のペースで歩いていく。二人の声が聞こえていないどころか意識があるかも怪しい。
     一家を強く抱きしめ、無心になって出口を求めて彷徨うその姿は、血と炎の赤に染まっているその様は。まるで――――。

     ガラガラ、という音が遠くから聞こえるやいなや、ヴェルゴはナマエの返事も待たずに少年を奪い取った。抵抗する力が残っていないのか、たやすく手が離れた。突然重さを失った手のひらが追うような素ぶりをみせ、よろよろとおりていく。指先から滴った血が床に落ちる。
     よく見ると、彼女の指は何枚か爪を失っていた。一家を救出する際に剥がれたのか、それ以前に剥がされたのか。本人は気にも留めていなさそうだ。全身が痛むであろう彼女にとって、もはや爪の数枚なんてどうってことないのだろう。
     肌を這う熱気を感じながら、ヴェルゴの目はサングラス越しに、その血の赤さを知る。ただの子供だ。人間だ。恐れる必要はない。

     予想通り、屋敷が崩壊し始めている。一刻も早くここから離れなくてはならない。
     少年を背負い、来た道はまだ残っているから、とナマエを先導する。彼女の虚ろな視線がヴェルゴに向き、さっきよりはマシな動きでついてくる。言葉が通じる程度には正気らしい。ヴェルゴは背中で暴れようとする少年を窘めつつ、そんな彼女の様子にほっとしていた。


     二人がどうにか屋敷から逃れてきても、気絶した人々はまだ起き上がっていなかった。これ以上待つ気のないヴェルゴが仲間を数人蹴り起こす。
     幸い、彼らは軽く小突いただけで意識を取り戻した。

    「あれ……? なんでおれ寝てたんだ?」
    「話はあとだ。手伝ってくれ」

     仲間が簡単に起きたということは、民衆が起き上がるのも時間の問題だ。早いところ移動しなくては。詳細を説明せずにさっさと命令を下そうとした、その時。

     仲間の一人がナマエの存在に気がついた。ヴェルゴの後方で、男を背負い、少年を抱えた細身の少女。
     認識した瞬間、彼は絶叫した。

    「ば、化け物っ……!!」

     火の弾ける音が聞こえるほどに、場が静まり返った。
     言われた本人は何も言い返さない。もしくは、そんな余裕がないのか。
     ヴェルゴもまた、フォローする気はなかった。自分だって一度は頭をよぎったのだから。

     バサバサと髪をふり乱し、腫れ上がった顔も手足も血みどろで、ゆらゆらと立ちつくしている。
     こんな生気の感じられない出で立ちともなれば、なるほど、化け物と呼びたくもなるだろう。

     しかし、例の少年はそうは思わなかったらしい。
     「お前……!!」と、どこに隠していたのかと思うくらいに強い力でヴェルゴの腕を振り払おうとした。降りてそのまま飛びかかるつもりなのだ、と察したヴェルゴは、それを許さなかった。仲間を庇うのではない。今の彼が吠えたとて、誰相手でも負けることが明白だったからだ。
     力で抑えつけて邪魔したヴェルゴを、前のめりになった少年がギリ、と歯ぎしりして睨む。小声で告げる。

    「今のお前じゃ負けるぞ。いいのか」
    「…………」

     舌打ちと共に、彼の体から力が抜けた。もとより立っているのもままならない重傷である。すぐに引いてくれて助かった、と思いつつ、忠告に耳を傾ける冷静さをヴェルゴは高く評価した。
     仲間達に向けて、親子を運ぶ役目を引き継げと指示すれば、彼らはおそるおそるナマエに近づいていった。別に襲いかかってきやしないが、近寄りがたい雰囲気であるというのは理解できる。受け渡しが終わるまでの間、ヴェルゴは一息つくことにした。

     父親らしき男と小さい子供はいつの間にか気を失っていた。むしろ、温室育ちらしい彼らがあそこまで意識を保っていただけよくやった方だ。
     少年はというと、ぽっと出のヴェルゴに背負われているのが不満なのか、依然として口を曲げている。もう暴れそうにはないが、何度もナマエの姿を確認していた。

    「彼女はもう限界だ。これ以上任せるのは厳しいぞ」
    「……分かってる」

     大人しく返事をするも、その声色には不満が滲む。ナマエが天竜人に肩入れした事実は何度考えても謎だが、この少年が彼女にとる態度も不思議の一つだ。自身の不安から知人に助けを求めたかったのか、重傷のナマエを見て心配する気持ちがわいたのか。いずれそのあたりを尋ねる機会があるだろう。


     たった二人を引き渡すにしてはやけに時間がかかっているな、とヴェルゴが思ったと同時に、指示を下した内の一人が弱った顔でやってきた。

    「ヴェルゴさん、あいつ、手ェ離さないんすけど……」

     困り果ててそう言った彼の後ろには、殴る蹴るの暴行でどうにか奪い取ろうと苦戦する仲間達が見えた。
     複数名からそんなことをされているのに、細い少女は奇妙なまでに動かない。死後硬直しているのだと言われても納得してしまうくらいには微動だにしない。
     ——ああ、彼女は動けないのだ。
     ヴェルゴはそう気づいた。逃げようにも重い荷物を抱えては走れない。かといって、置いて逃げる気もなく、他人に預けられるほど信じていない。
     ヴェルゴは少女に近寄っていく。近づくほど彼女の容態が明確になり、背中の少年が息を呑む気配がする。

    「おれが見えるか」

     歩けないはずの足を動かして、上げるだけで痛みが走るであろう腕にめいっぱい力を込めて、ひゅうひゅうと苦しげに息をして。
     それでも少女は立っていた。
     彼女の全身は震えていたけれど、腫れぼったいまぶたの隙間から、ぬらりとした瞳が見えた。涙の水分が残る、光のない瞳がヴェルゴを見定めようとしている。ヴェルゴはその値踏みを真っ向から受けて立った。

    「おれが、おれ達が、彼らを安全な場所まで運んでやる。手当てもそこでする。絶対危害を加えないと約束しよう」

     少女が求めているであろう内容を誓ってみせた。口先だけではなく、ヴェルゴは本気でそうするつもりだ。
     時間にすればほんの数秒にも満たない視線の交わりの後、少女が口を開く。
     囁きよりも儚い声。

    「このひとたちを、たすけて」
     
     ヴェルゴがしっかり頷いてみせると、決して離さないようにと込められていた力が緩んでいく。
     無事受け渡され、ヴェルゴらが逃げる準備をしたのを確認した途端、少女がその場で崩れ落ちた。

    「こいつも運ぶぞ」

     有無を言わせず命じると、仲間達は即座に行動に移す。少し触れるだけで彼女の血がべとりとついた。
     ヴェルゴは少年を抱え直しながら、いきなり四人も連れて帰る口実に何を言うべきかを考えていた。

    ***

    「ありがとう」

     目覚めてすぐ、ナマエはそう口にした。まだ声なんてほとんど出ていなかったが、口の動きから察したヴェルゴは頷きで答えた。
     生きてベッドに横たわることができただけで、彼女はヴェルゴが約束を果たしたと分かったのだろう。実際に一家をアジトまで運び、手当てまでしたのだからお礼の言葉くらい受け取ってもバチは当たらないはずだ。

     あの日から幾日か経った今、傷の具合を見ながら夕飯について考えていたヴェルゴは、実のところ突如目を開いた――といっても腫れた瞼によって若干の変化しかなかった――ナマエに少し驚いた。しかし顔に出さないまま包帯を取り替える。彼女はそれをじっと見つめていた。
     連れてきた四人の中で彼女が真っ先に目覚めた。あれだけの傷を負っておいて、と意外に思いつつ、ヴェルゴは軽く現状を説明していく。
     一家は重傷ではあるが命は取り留めていること、そこに見える通り――部屋にはナマエだけでなく父親と子供を寝かせていた――彼らはまだ起きそうにないのだということ。

    「ドフラミンゴは?」
    「サングラスのやつのことか? あいつなら別室にいる。この部屋に入りきらなかったんでな」
    「……わざと?」
    「まさか」

     嘘だと気づいても、彼女はそれ以上踏み込まなかった。
     あいつが起きたら教えて、とだけ。

    「おれが誰だか知ってるか?」
    「……集金の子」
    「覚えているなら話が早い。ヴェルゴだ。そういえば名乗っていなかったな」
    「名乗ってた、よ」
    「そうか、名乗ってたか」

     自分としてはどちらでもいいからこその返答だったが、ナマエはそう思わなかったのか、ろくに動かない瞼をぴくぴくさせた。
     しかしわざわざ言うほどでもないと判断したらしく、口をなにやら動かした後、再度礼を言った。

    「ヴェルゴ、ありがとう」

     少女は噛みしめるように繰り返した。
     窓から差し込む夕焼けが彼女の肌を赤く染める。炎に照らされた姿を思い出す。

    「私一人じゃだめだった。助けてくれて、ありがとう」
    「そう何度も言わなくてもいい。商売やってるやつを守るのも仕事のうちだ」

     今度は明らかに懐疑的な目を向けてきた。はっきりと言わないのは彼女の癖なのか。もしくは、恩ある相手への批判を避けたいとでも言うのか。
     おそらくは前者だったのだろう。ナマエは言葉を選びながらも、ヴェルゴが明かすつもりのなかった本心を突き止めた。

    「……あいつのこと、どうするの」
    「どうしたんだ急に」
    「なんのメリットもなく助けるタイプじゃないでしょ。あいつを……ドフラミンゴをどうするつもり?」

     包帯まみれでベッドに横たわるナマエは、ヴェルゴの手にかかれば簡単に殺せる。抵抗しようにもこの傷では難しいはずだ。
     それなのに、この瞬間の返答次第で、彼女がなにかしでかすのではないかと。
     なぜか不安がよぎってしまったものだから、そしてわざわざ隠す必要もないとも思ったから、ヴェルゴは話すことにした。

    「お前も見たよな。あいつの叫びを」
    「……うん」
    「ならわかるだろ。おれはあいつに可能性を感じたんだ。他のやつらとはなにかが違う。きっと、でかいことをやってのける」

     ヴェルゴの言う「なにか」は血筋の話だけではない。ナマエもそれは理解している、と肯定してみせた。「あれ」を受けて意識を保った者同士、共有する感覚があった。ドフラミンゴの持つ素質をその身で体感した者にしか分からない。分かった側である彼女は、机上の空論めいたヴェルゴの語りを馬鹿にしなかった。

     そして、誰かに可能性を見出して期待するということは、何もかもを諦めて日々を過ごすのが日常のこの地において、貴重な機会なのだと。
     その考えすら無言のうちにくみ取ったナマエが、ぽつりと答える。ヴェルゴから目をそらし、天井を眺めて。

    「ひどいことするとかじゃないなら、別に口挟む気ないよ。もうこれ以上、あいつに……」

     言葉の最後は聞き取れず、本人も話す気が無さそうだったのでヴェルゴは深追いしなかった。
     代わりに、聞きたかった疑問をぶつけた。

    「お前こそ、なんでこいつらを助けたんだ」
    「かわいそうだと思って」

     この問いにはあっさりと返された。思わず質問を重ねる。

    「……それ、ドフラミンゴにも言ったのか」
    「言ったよ。そしたら殴られた。殴り返したけど」

     なんてことないように話す彼女は、本当にただ過去の出来事を述べているだけらしかった。勝ち誇る訳でも、屈辱や心外だと顔をしかめる訳でもなく、淡々とした声色で。
     自分の置かれた状況を棚に上げて憐れむ姿は傲慢そのものだ、とヴェルゴは感じていた。

     窓の外から鳥の鳴き声がした。
     もう日は落ちてきていて、次の仕事に移らなくてはならないと気づく。ナマエにもそう言って話を切り上げ、なにかあったらベッドサイドのベルを鳴らせと伝えれば、彼女は素直に頷いた。
     親子の様子を再度確認しつつ扉へ向かう。相変わらず彼らはうなされながら眠り続けている。当分はベッドの上だろう。

    「ねえ」

     寝起きの頃と比べ、元通りとは言わずともずいぶん声が出るようになっている。そんな短い呼び止めの言葉にヴェルゴは振り向いた。
     彼女は先程と何ら変わらない姿勢で、視線だけをこちらにくれている。

    「ほっぺたに、肉の切れ端ついてるよ」

     それだけ言ってナマエは目を閉じた。
     話せるくらいになったものの、彼女だってまだ回復する必要がある。ヴェルゴは礼を述べ、口端についていた昼飯の残りを食べながら退室していった。

    ▽▽▽

     以降、多少の前後はあれども一家が意識を取り戻し始めた。
     もさもさ頭の子供が起きた瞬間わあわあ泣き出したのには少々困ったが、その泣き声につられて父親が目覚めたのはよかったのかもしれない。自分達と同じくらいぼろぼろなナマエを見て、親子は泣きながら彼女を抱きしめた。少女は行き場のない手をさまよわせた末、そろそろと腕を回す。眉を下げ、しかし安心したような顔が少し笑えた。
     ナマエと同様、現状を伝えれば感謝の言葉が返ってきた。ある程度回復するまでは世話をすると言うと、年老いた男は深く深く頭を下げた。かつて世界貴族だったとは思えない姿だった。


     そして、一番の目的であるドフラミンゴだが。

    「嘘だ」
    「嘘じゃない。あの時ナマエはお前達を見て泣いてたぞ」
    「あいつが泣くなんて、あり得ねェだろ……」

     矢傷の残る体を折り曲げて頭を抱えているドフラミンゴへ、りんごを剥いて差し出した。彼は端的に礼を言って一切れ口にする。

     ここまで親しくなるのにそう時間はかからなかった。
     アジトに到着した際、彼が意識を失っていたのをいいことに、ドフラミンゴだけ別室にした。目覚めた彼は当然文句を言ったが、部屋の大きさの関係上誰か一人を別にしなくてはならず、運ぶ流れでこうなったのだと説得した。
     なぜ助けたのかと問うた彼に、ヴェルゴはこう答えた。

    「お前が上に立つべき存在だからだ」

     ドフラミンゴは一瞬ぽかんとした表情を見せた。言葉の意味を飲み込むと、そうか、と呟いた。
     かつて奪われたものを取り返した者の眼差しだった。

     家族と再会し、互いの無事を確認した後も部屋を移せとは言わなかった。あの部屋にはナマエがいるから大丈夫だろ、との発言の真意は不明だが、ヴェルゴにとっても好都合だったので言う通りにした。
     ドフラミンゴは初めこそ敵意をむき出しにしていたものの、同性の同い年というのもあって次第に打ち解けていった。話せば話すほどに息が合い、起き上がれるようになる頃には愛称で呼ぶことを許されていた。
     ……意識してご機嫌取りをしなかったと言えば噓になる。だが、それが苦痛にならないほどヴェルゴ自身も楽しんでいた。ドフラミンゴが喜ぶのなら多少取り繕っても構わないと思えたし、本心を偽ってまで合わせる必要はほとんどなかった。
     出会ったばかりだけれども、一生の相棒を見つけたのだ、と確信していた。

     かくして、ドフラミンゴは今日も一人部屋にいた。曲がった口でりんごをしゃくしゃくとかみ砕いている。

    「彼女なりに思うところがあったんだろう」
    「…………」
    「しかし、あのナマエがな……。乗り気じゃないのは分かっていたが、ドフィ達の味方をしていたとは思わなかった」

     自分用にともう一つりんごを剥きつつ、世間話のように続ける。ドフラミンゴの視線は、螺旋を描く赤々とした皮に向けられる。

    「おれ達だって行動を把握しきれなかったってのに、あいつの家族はよく気がついたな」
    「……おれ達が、あいつのブランケットを持ち出したせいだ。寒さなんて我慢すりゃよかった。なのに……」
    「……それだけか?」
    「それだけで十分だったんだろ。もともと疑われてたのかもしれねェ。とにかく、一目見ただけであいつのだって気がついたやつがいた。おれは盗んだと言ったが、あの女は聞きやしなかった」

     人間の直感とは末恐ろしいもので、確たる証拠がなくてもそれをもとに動く者は少なくない。よりによってナマエの叔母がそこに該当したらしい。ナマエのはっきり言わない癖、そしてあの罪悪感に満ちた表情から察するに、ろくな言い訳もしなかったのだろうと予想がつく。裏切るのなら最後までやり通せばいいのに。
     彼はシーツをぎゅっと握りしめて黙ってしまったので、閉じた口にまた一切れねじ込む。果汁が垂れそうになり、ドフラミンゴが反射的に口に収めたのを見届ける。

    「まあ気にしすぎるな。親の仇だってのにお前達を助けようとしたんだ。ナマエだって覚悟していたはずさ」
    「……?」
    「彼女の両親は天竜人の奴隷として連れていかれてな。頭がおかしくなってようやく返されたらしい。最後はナマエがとどめを刺したとか」
    「やけに細かいところまで知ってんだな」
    「さすがに親殺しとなればな。当時の彼女は君より幼かったはずだ。それもあって一時期街中の噂になったものさ」

     ヴェルゴの話を聞くと、ドフラミンゴは何かを考えこむ素ぶりをみせた。時折、ベッドサイドテーブルに置いた皿からりんごをつまんでいくが、咀嚼している間も眉間は寄せられたままだった。

     警戒もなくヴェルゴの差し出した食べ物を口にするようになった様子から、ある程度の関係を築けたと考えていいだろう。
     引き込むなら今だ。
     ドフラミンゴがふと我に返ってこちらを見た。ヴェルゴは笑って提案する。
     話は変わるが、と前置きして。

    「なあドフィ、うちのボスに会ってみないか?」
    11話 ロシナンテはドジで弱くて小さくて、いつも誰かに守られている。
     昔住んでいたきれいな場所でもよく物を落としたりひっくり返してしまったりして、その度誰かに片付けてもらっていた。転ばないように、と兄が手を繋いでくれるようにもなった。

    「まったく、ロシーはしかたないやつだえ」

     口ではそう言いつつも、おれはロシーの兄上だからな、と胸を張って、疎むことなく遊びへ連れ出してくれる。
     兄はいつだってロシナンテを守ってくれた。何もないところで転んで泣けばすっ飛んできて慰めてくれたし、他の人にひどいことを言われたら代わりにすぐ言い返してくれた。
     引っ越して生活環境ががらりと変わっても、兄の愛情は変わらなかった。彼にとってつらいことだらけでも、ロシナンテの前では強く頼りがいのある存在でいた。
     いじわるをしても、ロシナンテが泣いたらすぐやめて、機嫌を取ろうとしてくれる優しい兄。母も父も、みんな優しくて、大好きな家族だ。


     だから、なぜ兄が父に銃を向けているのか分からなかった。

     最近――怪我が治り、元いた小屋に戻ってから――一人で街に、ヴェルゴに会いにいくことが増えた兄は、同時にロシナンテ達と過ごす時間が減った。
     友達ができたんだろう、と父は言った。ロシナンテから見たヴェルゴは恐ろしい雰囲気を纏う人だったが、兄の友達であれば悪い人ではないのだろうと思っていた。
     さみしい時もあるけれど、ずっと頑張っていた兄が誰かと仲良くするのを邪魔したくなくて。せめて、との思いで帰ってきた兄と話す時間を大切にしていた。
     それなのに。

     幼いロシナンテだって銃口を向ける意味を知っている。引き金を引くと誰か死ぬ。兄が教えてくれた。
     死ぬということを知っている。母は死んでしまった。体がかたく冷たくなり、何も言わなくなってしまった。土の下で眠る、二度と会えない人になった。
     兄は冗談でこんなことをする人ではない。最近父と仲が悪そうだとは思っていたけれど、でも、だって、家族なのだ。ロシナンテが父を大好きなように、兄も父を大好きなはずだ。

     兄は言う。父の首を持って聖地に帰るのだと。
     帰るのならみんな一緒じゃなきゃ嫌だ。殺さないでとロシナンテは泣いた。
     兄は止まってくれない。火炙りにされたあの日のように、全身で怒りを表して、決して許さないとばかりに父を睨みつけている。

     父は兄の行動に目を見開いていたが、驚きはしなかった。ああ、と納得したような声を漏らして、ロシナンテを抱きしめた。
     兄に背を向けて、彼は笑っていた。泣いていた。

     ――――なぜ笑っているの?

     ロシナンテはずっと叫んでいた。やめて、と何度も何度も懇願した。
     二人には届かなかった。兄の怒りは誰にも止められない。父はその怒りを受け止める気でいた。
     兄に縋りつこうにも、父の腕は決して振りほどけず、抱きしめられたまま動けない。父の涙がロシナンテの頬に落ちる。彼の心臓がとくんとくんと動いている。この音が止まってしまうなんて考えたくもない。

     早くナマエに帰ってきてほしかった。
     彼女は今、仕事をするため街にいる。元いた家で暮らしていけなくなったから、とロシナンテ達と共に暮らすようになって、例のヴェルゴに仕事をもらいながら生活しているのだ。
     故に、そう簡単には帰ってこない。分かっている。
     けれど、兄を止められるとしたら彼女しかいない。兄と同じくらい怒って殴り合うことのできる人は、きっとナマエだけだ。


     父がにっこりと笑う。優しい笑み。彼の人柄が現れている、心底申し訳ないという微笑みで。

    「私が父親で、ごめんな」

     そんなこと言ってほしくなかったのに!
     早く、誰か助けにきて!

    ▽▽▽

     父が謝った瞬間、ロシナンテの視界の端に黒い影が映った。弾丸のように飛んできたそれは兄を巻き込んで転がっていった。
     兄の驚いた声、続いて銃声。ロシナンテの喉からヒッと悲鳴が出る。父、父は。

     見上げると、彼はすぐ側を見ていた。地面になにかめり込んでいて、さっき撃ったものがここに着地したのだと知る。
     兄が飛んでいった先を確認すると、いつぞや見たものと似た光景が広がっていた。

     そこにはナマエがいた。全速力で走ってきたのか、荒い呼吸を整えている。
     来てくれたんだ。やっぱり、ナマエなら兄を止められるんだ。ロシナンテの中でぶわりと熱いものが広がった。
     父にしかと抱きつきながら、そして今度は父もロシナンテを抱き寄せ、二人してナマエの様子をうかがった。

     ナマエは兄に跨って、銃を持つ手を押さえつけていた。兄はすぐに跳ねのけようとして失敗した。兄の指がナマエの肌を引っ掻いたが、彼女はそのまま銃を奪い取って遠くに投げ捨てた。
     銃の方向に、兄の指先が向いている。ナマエがなにかに気がついて、その「なにか」――目に見えないくらいに細い糸をつまみ上げた。引っ張ると銃が動く。どうやら自分と銃を糸で繋いでいたらしい。それだけのはずだが、ナマエは眉をひそめている。
     彼女は糸をぷち、とちぎって、兄を見る。正体不明の怪物を目の当たりにしているみたいに、どこか緊張した面持ちで。
     兄が悔しそうに舌打ちした。きっと彼も睨み返しているのだろう。

    「やっぱりね。あいつら、やけに私を引き留めようとするからおかしいと思ったんだ」
    「クソッ、どけよ!! 邪魔するな!!」
    「自分が何しようとしてたか分かってんの?」

     平静を装いながらナマエが問う。いくつかの名前を並べていく。

    「誰の入れ知恵? ヴェルゴ? ディアマンテ? ピーカ? ……それとも、トレーボル?」
    「……お前だよ」

     兄は多少冷静になったのか、低い声で一言返す。あり得ないことを。
     そんなわけない。ロシナンテはそう口を挟もうとした。
     ナマエの表情が抜け落ちるのを見た。次いで、青ざめていくのも。

    「……聞いたんだ。私のやったこと」
    「街のやつなら誰でも知ってんだろ。お前だって親を殺した。おれを止める筋合いはねェ」
    「だからこそ止めてるんだよ」

     親を殺した? 誰が誰を?
     なんでナマエは肯定しているの?
     ロシナンテの体がこわばったのに気がついたのか、父は頭を撫でてくれた。ほんの少しだけ落ち着いて、涙をぐっとこらえて、彼らの問答を聞く。

     二人の力は拮抗している。片方が腕の力で押し切ろうとすると、相手が足を使って崩そうとする。
     殴ろうとすればその隙をつかれるだろう。逃げ出せば背中を狙われるだろう。
     かつての大喧嘩との違いはこの場に漂う空気だけ。
     ここでの勝ち負けが人生を左右するかのような、そんな重い空気が全員にのしかかっていた。

     睨み合いの末、ナマエはすっ、と兄に顔を寄せた。彼女の髪がばさりと広がって、ロシナンテ達には表情が見えなくなってしまう。
     黒いカーテンの向こうで、こっそりと打ち明けるように囁く声がする。ロシナンテ達の耳にもぎりぎり届いてしまった公然の秘密。

    「そうだよ。私、お父さんとお母さんを殺した。自分のために」
    「っ……!!」

     ロシナンテは自分の耳を疑った。
     怖い一面があるにしろ、ナマエは基本的に親切な人だ。たまたま出会っただけのロシナンテ達を助けてくれた。そのせいで自分がひどい目にあっても、ロシナンテを見る目に敵意はなかった。とうとう拒んだ時ですら、彼女はロシナンテを殴らなかった。そんな人が、と。

     けれども、ナマエの静かな声が、かすかに震える体が。
     その発言を真実だと示していた。

    「大人二人を養う余裕なんてなかったから。この人達を殺せばなんとか生活していけるって分かってたから、殺したの。実際そうだった」
    「なら――」
    「でもあんたはちがうでしょ」

     声色が一変した。突き放すように畳みかけていく。

    「天竜人が人間のお願いなんて聞くわけない。その人を殺したところで無駄になるだけだよ」
    「っ……おれはお前達と違う! そんなの、やらなきゃ分かんねェだろ!!」
    「自分でも理解してるんでしょ? あんたらがこんな目にあっても助けがこないって、それが答えじゃん。たかが男の首一つでどうにかなると思ってるの? この土地で何を学んできたの?」

     彼女の詰問に心当たりがあったのか、兄は即答できなかった。何か言おうとして、つまって。迷いがあった。
     ナマエはそれを見逃さなかった。
     大きくのけぞったかと思うと、自身の額を勢いよく兄の頭に打ちつけた。


     一度ナマエが攻めに出ると、それを皮切りに争いが始まった。先ほどのやり取りの名残りか、ナマエが押し気味になっている。兄とてただやられている訳ではないけども、その反撃は逆転させるには至らない。
     時折、あの糸がナマエの手足に絡みつく。彼女は肌に食い込むのも厭わずに引きちぎる。勢いは止まらない。髪や服を掴まれても拳を振りぬくスピードは衰えない。
     父と二人、どのタイミングで止めに入るか顔を見合わせる。殴り合う音が続く。無言になった分激しさが増していく。

     ナマエの首元で糸がきらりと反射して、ロシナンテは「あ」と声を出してしまう。彼女はこちらを一瞥もしなかったが、自分の首がしまったことで原因を把握したらしい。
     外す暇も無く狭められていく糸の輪が、彼女の細い首にめり込んでいく。兄は勝ちを確信してナマエに呼びかける。

    「ほら、さっさとどかねェとこのまま――」

     ナマエは体制を変えて兄を抱きしめた。違う。首に腕をまわし、全力で力を込めている。もう片方の腕や両足、全身を使って兄が逃げ出せないようにした上で、兄の首を絞めているのだ。
     当然彼女自身の首も締まっていく。今さら糸が離れたところで首に跡が残りそうなくらいにきつく締められている。兄が抵抗も兼ねてやっているのだろうが、ナマエが苦しめば苦しむほど彼女の込める力も強まった。
     終わらせるには兄が死ぬか、ナマエが死ぬか。どちらかしかない。
     父が動くより早く、ロシナンテは飛び出した。

    「もうやめてよ!!」

     二人の目が自分に向けられたのが分かった。どちらも顔が真っ赤で、そして――。


     ――――兄の体から力の抜けてずり落ちる。必死に呼びかけながら駆け寄ると、かすかに胸が上下していて、死んでいないことに安心する。
     ナマエがしばらくむせた後、あは、とわらう。さっきまでの真剣な声色とは打って変わって、自嘲めいた笑み。

    「私と同じことして、幸せになれるわけないのに。馬鹿みたい……」

     その時の表情が今にも泣きそうだったから。
     さっきまでの恐ろしい姿との落差でロシナンテは混乱していた。この人は優しくて、でも自分のために親を殺せてしまう人で、兄に首を絞められても締め返すだけの暴力性があって。ロシナンテが怪我をしないように抱きとめてくれたのも事実で。

     ふと、ナマエの視線に気づく。彼女がそっとロシナンテの頬に手をやった。反射的にその手を避けてしまう。彼女はしまったという顔をする。
     ごめんね、と呟く声があまりに弱弱しくて、ほんの少し、恐れる気持ちが薄れていく。

    「大丈夫……?」
    「私は大丈夫だよ。こいつもまあ、まだ息はしてる。……あんたの兄さんにひどいことしてごめん」
    「それは、そうだけど……でも、来てくれてよかった。あのままじゃ、きっと……」

     きっと、弾丸は父を貫いていた。
     兄は父の首と引き換えにかつての栄光を取り戻そうとするだろう。そんなものに何の価値があるのか。ロシナンテはとうとう兄の考えが分からなくなってしまった。

    「ドフィを止めてくれてありがとう。……私は親殺しをさせてしまうところだった」

     よろよろとやってきた父がロシナンテの隣に座りながら礼を述べた。ナマエはうん、とだけ返した。父に向ける目が若干険しい。父も自分が良く思われていないと察したのか、それ以上言葉を続けるのをやめた。
     闇を凝縮したような瞳が、父を、ロシナンテを、そして兄を見た。時計の針が一周りすらしないその間に、彼女は何かを決意したらしかった。

    「……私、こいつ連れて街に行ってくるね。けしかけた奴らと話つけなくちゃいけないし」
    「じゃあぼくも――」
    「あんたらは足手まといになるから来ないで」

     そう言いながらすたすたと歩いていき、銃を拾い上げ、土を払ってポケットにしまう。普段彼女が銃を扱わないからだろうか。その動作はどこかぎこちなく見えた。
     戻ってきたナマエは兄を軽々と担ぎ、それじゃあと立ち去っていく。さっきまで大喧嘩していたとは思えないくらいにしっかりとした足取りで。


     雲行きが怪しくなってきた。ナマエ達が帰ってくるまで降らないでいてくれるか微妙なところだ。さっきまで空を見る余裕なんてなかったから、彼女に声かけするのを忘れてしまっていた。
     父の手を引こうとすると、彼は生返事をした。しばらくの間、ナマエの背中を、そして去っていった方向をじっと見つめていた。

    「どうしたの?」
    「……ロシー。これからすることを、ナマエに言わないでいられるか?」

     隠し事なんて父にしては珍しいな、と。
     そしてナマエに関することで不安げな表情をする父は、もっと珍しいとロシナンテは思った。


    ▽▽▽

     街に行くって言ったのに。

     ナマエはぐったりとした兄を背負って崖を歩いている。街とは全然違う場所。潮風が強まる中、道なんて無いはずのそこを器用に通り抜けていく。まるで何度も来たことがあるかのように、岩と岩の間を降りていってしまう。
     ロシナンテ達は慌ててその後を追った。ごつごつした岩に足を取られそうになっては父に支えてもらうのを繰り返していたせいで、追いついた時にはもうナマエは崖下に立っていた。傍らには未だ意識のない兄が横たわっている。
     彼女は小舟を押し出して海に落とす。岩の一つとロープで繋がれたそれは数人乗るのが限界という雰囲気の頼りない舟で、そこに兄が乗せられたものだから、ロシナンテ達は揃って声をあげた。

    「兄上!」
    「ドフィ!」
    「……遅かったね」

     気まずそうな顔を隠さなかったが、彼女はすぐに切り替えて親子を見返した。

    「何をするつもりだ!?」
    「こいつを連れて海に出る」
    「海だと……?」
    「別にどこでもいい。なんなら海に沈んで道連れにしてやる。この国から出すんだ。いくら言っても出ていかないならこうするしかないだろ」

     これまで何度も、ナマエはロシナンテ達に「出ていけ」と言ってきた。あれを彼女は実現しようとしているのか。行く当てなんてないはずなのに。

    「あの日、磔にされてる時、こいつが何て言ったか聞いた? 一人残らず殺しにいくからな、って……。そんなの許せない。皆を殺させる訳にはいかない」
    「考え直してくれ……! ドフィだって本気で殺す気はないはずだ。時間が経てば、そんなことしちゃいけないと気づく」
    「父親に銃向けられるやつが脅しで終わる訳ないだろ。私にはわかる、だって、」

     私もできるから。
     似てるんだ、そういうとこは、と続けて言った。
     またあの馬鹿にした笑いを浮かべて、父から目をそらす。彼女の足元で岩場を乗り越えた海水が跳ねる。これでも今日の海は静かな方で、船出も成功してしまいかねない。いや、成功したところで兄とナマエで上手くやっていくなんて想像がつかないが。

    「……そんな小さな舟で海を渡るのは難しい。君だって無事では済まないだろう。落ち着きなさい」
    「落ち着いてるよ。あんたこそ分かってんの? こいつ、あんたのこと殺そうとしたんだよ? しかも弟の目の前で!」

     言葉とは正反対に、悲鳴じみた声で父を詰る。一言ごとに悲痛さが増していく。
     怒りを湛えた声色で、けれど同じくらい悲しみに満ちた叫び。荒々しい波の音に負けないくらい張り上げた声で容赦なく問いかけられる。

    「どうして庇うの? てかあの時、なんで背中向けてたわけ? 抵抗ぐらいしろよ。なに諦めてんだよ!!」

     父は何も言い返せない。ぎゅ、と歯を食いしばって、嵐を耐え忍ぶかのごとくうつむいてしまった。ナマエは嵐ではないから、その反応を見てさらに怒り、そして無意味だと悟って問うのをやめた。
     ナマエはぐったりとした兄に目をやった。自分に言い聞かせるように、はっきりと口にする。

    「皆を殺させやしない。私がこいつをなんとかする。いまさら、もう一人増えたところで変わらない……」

     すぐにでも抱きついて引き留めたかったが、下手に動こうものなら彼女は海に飛び込みかねない。兄を連れて海に飛び込まれてしまっては助けることは不可能だ。
     そう考えて説得しようと試みる父とロシナンテがうるさかったからか、そのうちナマエは面倒くさそうな顔で兄の首元を掴んだ。

    「じゃあ開放してやろうか」

     心変わりしたにしては投げやりな言い方だった。否定される前提で話すみたいに。

    「起きたこいつが、銃を誰に向けるのか。賭けてみる?」
    「…………構わない」
    「……話聞いてた? あんた死ぬよ。邪魔な私を先に撃つかもしれないけど、最終的に、こいつは絶対あんたを殺す。その後首を切り落として、聖地に行くんだ。どうせ門前払いされるだろうけど」

     わざと残酷な物言いをしているのだと察していたが、それでも想像したくもない言葉が耳にへばりついて、頭の中でその光景が浮かんでしまって。ロシナンテは声をなんとか堪えていた。ここで泣きわめいてしまえばナマエはとうとう呆れ果てて行ってしまうと思ったから。
     もはや兄もナマエもロシナンテにとっては理解不能で恐ろしい存在だけど、それでも死んでしまうのは嫌だ。誰かが誰かを殺すなんて冗談でも聞きたくない。

    「それがドフィの選択なら、私は受け入れる」

     父は否定しなかった。ロシナンテは勢いよく見上げるも、彼はこちらを見てくれない。
     死ぬことを選ぶ父が、自分達のために死のうとする父が、悲しくてたまらなかった。
     なにより、ロシナンテがやめてと言ったところで父の気持ちは変わらないのだと思うと、自分の無力さで胸が張り裂けそうだった。

    「はあ!? あんた、馬っ鹿じゃないの!?」

     これまでで一番の大声を出してナマエが怒鳴った。一瞬彼女の目線がこちらを向いて、みっともない泣き顔を見られてしまう。彼女はくしゃりと顔を歪めた。

    「〜っ!! こいつも! そのチビも! あんたが死んだ後どうなるんだよ!! 父親なら責任持って育てろよ!! 死んで詫びようとか考えてんじゃねェだろうな!?」
    「しかし、今の状況を変えるにはそうするしか、」
    「だからさァ! 無駄死にになるっつってんの! あんたの首は腐るだけ! 息子達の助けになんかならねェの!! 生きてどうにかする方法を考えろよ!!」

     今まさに兄を殺そうとしている者が言うにはあまりにおかしな発言だった。同時に、彼女はきっと繰り返し考え続けていたのだ、と思う。どうすればロシナンテ達と街の人々、どちらも救えるのか。解決策が出せなくて、その間に兄がしびれを切らして銃を取った。彼女はこうなったらもう無理だと判断した。
     殺すしかない。兄もナマエも、その思考に至れば行動に移せてしまう人だから。
     でも、それならなぜポケットにある銃を使わないのだろう。兄だけ乗せて舟を流すことだってできたはずだ。自分ごと死にに行かなくてもいいはずなのに。ロシナンテには分からない。理解できるとも思わない。

     ナマエはさらに目を吊り上げ口を開け、何も言わずに閉じて、大きなため息を吐いた。兄は依然として気絶したままで。船が波に揺られては岩にぶつかるのを繰り返している。

    「……話にならない。あんたの言うことなんざ聞こうとした私が馬鹿だった」

     兄の首元から手を放し、言うが早いが彼女も小舟に乗り込んだ。ロシナンテ達が驚いている間にロープがたやすく外される。流れの早い北の海は小舟を掴み、さらっていく。

    「こいつのことは諦めな!」

     ナマエは捨て台詞を残して笑う。流れに乗った舟は風にあおられて一気に岩場から離れていく。この調子ならばそう時間もかからず遠くに行けてしまう。

    「うまくやりゃここで生きていけるよ、たぶんね。頑張んなよお父さん」

     海に落ちるギリギリまで身を乗り出して「いかないでくれ!」と叫ぶ父にそう投げかけ、浮かべた笑みを崩しながら兄に目を落とした。

    「兄上!」
    「待ちなさい、ロシナンテ!」

     父と揃って身を乗り出していたロシナンテが、ドジをしないでいられる訳がなかった。父が受け止めようとした手をすり抜けて、底の見えない海に真っ逆さま。

     今どうなっているかも分からないうちに、喉に水が入り込む。むせて息ができなくなる。水を吸った服が重くて、体が思うように動かなくて、手足を必死に動かした。
     耳にまで水が入ってしまったせいか、誰かからの呼びかけがくぐもっていて聞こえない。でも、ロシナンテを抱き上げてくれたのは大人の手だった。父だ。よかった。助かった――助かった?
     昔住んでいた土地で海水浴の授業はなかった。父も学んではいないはずで、それなのにこうして一緒に海にいるということは。

     ロシナンテを抱いたまま、父の体が沈んでいく。溺れている間に流されたのか、気がついたら岩場が遠くにあった。そこまで泳げそうにない。沈む。父が、息子だけでも、と高く持ち上げようとする。

    「なにやってんだ馬鹿!!」

     どぼん、と落ちる音。聞きなじみのある声が近づいてくる。

    「手ェ放すなよ!!」

     父ごとロシナンテは運ばれていく。かたい何かに体をぶつけながらも、空気の吸える場所に引きずり上げられる。その場が盛大に揺れ、また安定した状態に戻る。
     親子はあの小舟の上にいた。


     一家に地獄を見せたあの街が、国が、だんだん遠くなっていく。
     北の海は一度流れに乗った舟を手放さず、いつものように激しく、けれども確実に船を海へと運んでいった。風は強く優しく帆を押した。血と貧困に塗れた国を出るにしては、ずいぶんと静かな船出だった。
     誰かに見つかることもなく、やがて陸地は視界から消え、大海原だけが彼らを取り囲んでいた。

    「どうすんだよ……」

     びしょ濡れで頭を抱えるナマエの背後で、小舟の帆が風を孕む。兄はまだ起きない。

    ▽▽▽

     始まりが比較的穏やかだったのは、後戻りできないくらいに進ませるためだったのかもしれない。

     海のど真ん中。まだ陸地が豆粒ほどにも見えない海の上で、次第に空が曇っていくのを眺めていた。眺める以外にできることがなかったから。
     そもそも海図すら持たずに船出したので、どれだけ行けば次の島に着くかも定かではない。当然航海術を学んだ人もいない。肌に触れる風が明らかに激しくなっていく。

     そんな中、ロシナンテの膝の上で兄は目を覚ました。起きてすぐ弟の顔を、次いでその後ろに広がる悪天候を確認して、彼はしばし硬直していた。小舟がもうだいぶ揺れるようになっていて、進路変更を諦めたナマエがうずくまったままそれを見る。嵐を抜けるのは無理そうなので、せめて耐え抜く体力を残したいとのことだった。
     やがて降り出した冷たい雨粒が全身を打つ。ナマエは空をぽけーっと見上げている。たぶん口の中にいくらか雨が入ってしまっているが、ここまで濡れたら誤差の範囲だろうな、と思う。

    「っおい!! どういうことだ!?」
    「起きるのおっそ」
    「ふざけてんのか!?」
    「立つなよ……あ、いいや立って。暴れていいよ。この舟ひっくり返してよ。遅かれ早かれそうなるんだし」

     兄に掴みかかられてもナマエの張りつめた糸が切れたような態度は変わらない。兄は弟の無事を確認し、父の顔を見て重い舌打ちをした後、ナマエを殴るのを優先した。今回ばかりは彼女も殴り返さなかった。


     数発殴ったところで小舟の揺れが危うくなってきたため、兄は青筋を立てながらも一旦引き、状況説明を求めた。顔に青あざのできたナマエはざっくりと経緯を述べ、「で、このまま死ぬのを待つだけって感じ」と話を締めた。もう一発殴られていた。
     二人がそんなやり取りをしている間にも嵐はひどくなっていく。先ほどの揺れだって殴った反動でなく波によるものだった可能性がある。風が強くて互いの声も聞こえなくなってきたので兄はずっと声を張っているし、ナマエは全部聞き流して遠くの雷を見ている。
     父はロシナンテを抱えながらこの光景を眺めていた。小声で母の名前を呼び、謝り続けているのを、ロシナンテだけが知っていた。

     ついにナマエは小舟の端へ乗り出した。全身で雨粒と強風を受け、大笑いしている。父とロシナンテは今にも壊れそうな小舟にしがみつくので必死だ。兄はナマエを責めるけれど、彼女は全くダメージを受けていない。もしくは、もはやそういう段階を通り越したのか。

    「あははは!! なんも見えない!!」
    「何笑ってんだ!! お前のっ、お前のせいで!!」
    「そうだよ全部私のせいだ!! お前らはこの海で死ぬんだよバーカ!! ぎゃはは!!」
    「おれが憎いならおれだけ連れてきゃよかっただろ!? なんでロシーまでっ」
    「仕方ないじゃん言うこと聞かないんだからさあ!!?」

     その正気とは思えない声色に兄は言葉を途切れさせ、ロシナンテの心臓は止まりかけた。めちゃくちゃなことばかり続いている。連れ出した本人すらこの様子となれば、いよいよ生存は絶望的である。
     口調の激しさと打って変わって、ナマエは薄い微笑みをたたえて振り向いた。もはや意味のない舵取りをやめたものの、船のふち]をかたく握りしめたまま。
     頭上の雲よりどす黒い瞳が弧を描く。一瞬、そこに光を見た気がした。すぐに雷の落ちた音が聞こえて、今のは単なる光の反射だったのだと思い知る。


     もうじき死ぬのだ、と。ロシナンテは幼心にはっきりと感じていた。
     父は息子達と――ナマエを、その両手にしっかりと抱きしめた。二本の腕の中でぎゅうぎゅうになっている子供達に向けて、彼は嵐に負けない大声で叫ぶ。

    「大丈夫だ! きっと生きて切り抜けられる! 私から離れるな!!」

     「怪物」の体は案外ふにゃふにゃしているのだと、その時初めて知った。怪物だと思っていたかった。同じ人間なのだとわかっていた。

    「なんで」

     兄弟はその迷子のような囁きを聞き取った。
     さっきまで笑い狂っていた少女は、狂気のベールを脱ぎ捨てて弱さを晒していた。
     ロシナンテは、なぜ怪物でいてくれなかったのか、と恨むことすらできない事実を嘆いた。
     けれどそんなことしなくたってこのまま海の藻屑となるのだから、今だけはいっしょに抱きしめられていてもいいのかもしれない。恨まなくて済むのなら、大好きな優しいナマエでいてくれるのなら。

     ひときわ激しい波が彼らを襲う。頼りない小舟はとうとうひっくり返されて、みんないっしょに海へと落ちる。水面に全身を打たれた衝撃で、家族の手は一瞬離れてしまった。
     目の前すら見えない豪雨の中、指先だけでも掴もうとそれぞれが手を伸ばす。ロシナンテは運良く父の手を掴んだ。兄もナマエも見当たらない。見つけたところで手は届かない。
     同時に、また大きな波がくる。水面にすら上がれず、二人は暗い海に飲まれていく……。

    ***

     嵐の向こう側。一隻の軍艦が荒れた海をゆく。
    こごま Link Message Mute
    2023/07/03 1:16:00

    9〜11話

    ドンキホーテ兄弟幼馴染女夢主連載まとめ。幼少期編。
    一家が火あぶりにされたりドフラミンゴが父に銃を向ける回。これにて1章完結です。

    【注意】夢主の言動がカス、逃げ癖あり

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    • 1話〜4話サイトに載せてるドンキホーテ兄弟幼馴染女夢主
      幼少期編sideドフラミンゴ
      【注意】夢主の言動がカス
      こごま
    • 5〜6話ドンキホーテ兄弟幼馴染女夢主
      幼少期編side夢主
      【注意】夢主の言動がカス、逃げ癖あり
      こごま
    • 7〜8話ドンキホーテ兄弟幼馴染女夢主
      幼少期編 ドンキホーテ母回

      【注意】夢主の言動がカス、逃げ癖あり
      こごま
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