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    しおり
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    しおり
    付喪神 The Cherry Blossoms In The Moonlight 旧伯爵家である中山家の御令嬢。
     幼い頃に母親と死別したものの、父親は後妻を娶ることなく彼女を大切に育てた。
     蝶よ花よと愛しみ、英才教育を施した。
     学業成績は優秀、三ヶ国語に堪能で、茶道華道を嗜み、趣味は乗馬、特技は薙刀。
     癖のない緑の黒髪、黒目がちの大きな瞳、長い睫のよく映える白磁の肌。
     目尻の下の頬は自然にほんのりと紅く、小さく上品な口元はさくらんぼを含んだよう。
     そんな彼女の存在は、家柄も相まって有名であり、都内の名門女子大学に在学しているうちから降るような縁談があった。

     今の時代、そう結婚を焦ることもあるまい。相手の稼ぎや財産をあてにせずとも生活に困ることはない。とはいえ、一度くらいは社会に出て経験を積むのも良いだろう。
     彼女の父親である中山議員はそのように考え、彼女が進学ではなく就職を考えていると言ったときも、特に反対はしなかった。
     アナウンサーかジャーナリストか、もしかしたら国家公務員試験を受けて霞が関に勤めたいとでも言うだろうか。娘の実力と中山家の人脈があれば、たいていの希望は叶うだろう。
     娘は亡き妻の忘れ形見でもある。当然のように見合い結婚だったが、彼は心から妻を愛していた。ますます妻に似てくる娘の成長は嬉しくもあり寂しくもあった。だが、娘の巣立ちは寂しくとも、親として出来るだけのことはしてやりたい。
     だからその娘が「お父様、わたくしの進路のことでお話があります」と言ってきたときは、何でも聞いてやるぞとばかりに膝を乗り出した。

     娘は言った。
    「わたくし、審神者になりますわ」
     四月。
     彼女は新人審神者として、こんのすけを伴い、本丸に降り立った。
     彼女の荷物は自分の身の回りのものと、何故か一振りの太刀だった。
     最初に案内してくれた職員は怪訝そうな表情で彼女を見て、差し出されたIDカードを確認すると軽く頷いた。納得したのだろう。

     初期刀には歌仙兼定を選んだ。細川忠興の刀であった彼は風流を愛すると聞いていたので、それならば自分と気が合うかもしれないと彼女は考えたのだ。
    「僕は歌仙兼定。歴代兼定でも随一と呼ばれる二代目、通称之定の作さ」
     桜と共に薄紫色の髪をした美丈夫が現れた。
    「歌仙兼定様。わたくし、今日から審神者を務めます。新人ですので、恥ずかしながら右も左もわかりません。至らぬ点も多いかとは存じますが、よろしくお願いいたします」
    「おや、随分と可愛らしい主なのだね」

     その後、初鍛刀で小夜左文字がやってきた。歌仙兼定とは細川家で共にあった時代があり、顔見知りだった。
     とりあえず、その日は夕飯にしようと三人で簡単な料理をし、せっかくだから庭でも眺めながら食事をしようと広間に膳を運んだ。
     食べ始めてしばらくして、歌仙は部屋の隅に置かれた、唐草透しの刀掛けに掛けられた太刀に気が付いた。
    「主、あの刀は君のものかい?」
    「ええ、一応そういうことになっております」
    「一応?」
    「わたくしの父親からの餞別ですの」
    「父さま…?」
     小夜が不思議そうに尋ねた。
    「わたくしは幼い頃に母を亡くしましたから、父はわたくしが心配でたまらないのです」
    「母さま……」
    「あの太刀は、既に何十年と審神者をしている方から譲っていただいたものだそうです。かなり珍しいものだと聞かされました」
     彼女の言っている「譲る」というのが、金銭の授受による譲渡であったろうことは歌仙と小夜にも何となく察せられた。それを話す当の本人はけろりとした様子だ。
    「……嫌、なの?貴方の父さまの用意した刀が」
     小夜が尋ねると、彼女は大きな目をぱちぱちと瞬かせ、あらあらと笑った。
    「嫌だなんて思いません。ただ、世の中には順序というものがあります」
     それを聞いて歌仙は理解した。おそらく彼女は初期刀と初鍛刀の刀剣男士に敬意を払い、自分の持ってきた太刀の顕現を後回しにしたのだ。
     審神者と初期刀の絆は特別なものだ。初期刀が顕現したときに、すでに他の刀が主の横に立っているというのはいかがなものか。彼女はそう考えたのだろう。
    「なるほど。ところで、ずいぶん立派な刀だね。何という刀だい?」
    「天下五剣の一つ、三日月宗近だと聞いております」
     彼女の父親である中山議員は、時間遡行軍に対抗する策として、審神者なる者が刀剣男士を率いて戦わせるという現在の制度に賛成の立場だった。現実的な問題として、刀剣男士を用いる以外に時間遡行軍に対する有効な攻撃手段が人類側にないのである。研究開発費や組織及びシステムの維持費は莫大で、非効率的な方法だという批判は尤もだ。そもそも霊力やら付喪神やらオカルトそのもので胡散臭いという声もある。
     過去を変えることの何がいけないという意見もある。馬鹿馬鹿しい。そういう意見を言う連中は、過去を変えることで消えてしまうのは自分かもしれないとは考えられないのか。あるいは、こんな世界など消えてしまっても良いと願うほどに不幸をかこっているのか。だとしたら同情はするが、己が不幸だからといって世界中を呪うというのも身勝手だ。

     この四月から彼の娘は審神者になった。審神者になることを決めたとき、彼女は言った。
    「お父様の政治的なお立場は理解しています。だからこそ、わたくしが審神者になるのは良い考えだと思われませんか?口だけでなく行動で立場を示せますもの。次の選挙への良いアピールになりますわ」
     それに、と彼女は続けた。
    「反対派の中には刀剣男士の存在を疑う方もいらっしゃるとか。わたくしが審神者になれば、現世への帰省の際に刀剣男士を供に連れて参りましょう。個人的に我が家を訪ねて来られたお客様が刀剣男士に会ってしまうことは、あり得る話です」

     その時のやり取りを思い出し、中山議員はふううっと溜め息と同時に煙草の煙を吐き出した。
     今まさに、奥の応接間で娘と彼女が連れてきた刀剣男士が、反対派の一人と会っているところだ。このような面談の場を設けるのはもう何度目かになる。
     実のところ、娘が審神者になるまで彼自身も刀剣男士に対面したことはなかった。資料としての写真や動画、あとは施設の中の強化ガラスに囲まれた部屋で彼らを戦わせ、何かのデータを採っていたのを遠目に見たことがあるだけだ。写真などで見る限り、刀剣男士というのはどれもこれも美形で、本当にこいつらが戦うのかと賛成派の彼でも思ってしまうほどだった。
     今日のために娘が連れて来たのは、線の細い優男で、袈裟を羽織り、一体どう染めているのか桃色の髪をこれまた複雑に結い上げていた。物憂げに柳眉をしかめ、袖で口元を隠すようにして娘に何事か語りかけている姿を見たときは、さすがに苦々しい気持ちになった。
     娘とその男が目の前に来たときの気持ちを何と表現すれば良いのかわからないが、一番近いのは「怖気づいた」であろう。確かに美しいが、あんなモノは人ではない。
     そして自分と挨拶を交わし、客人の待つ応接間へ向かうとき、そいつはすれ違いざまに、袖で口元を隠したまま小さな声で「賢い、賢い」と呟いた。ぞくりとして反射的に振り返ると、彼も奇妙な色の瞳でこちらを見ていた。

     今日の客人は政治家ではなく、関西に本社を置くある会社の会長だった。年を取り、社長を引退して会長になったのだが、娘婿の社長には権限を譲らず、現在も実質的に運営に携わっているのだという。このようなところに理解者を作っておくのも、政治には重要なことだ。
     老人の秘書だという男性が、風呂敷に包まれた荷物を三つ、応接間に運び込んでいた。
     その荷物を挟んで、老人と審神者は向かい合ってソファに腰を下ろしている。禿頭で日に焼けた肌の鷲鼻の小柄な老人は、小さな丸いレンズの眼鏡をかけ、ブラウンのスーツを着ていた。彼女が連れて来た刀剣男士も彼女の隣に座った。
    「以前お会いしたんは何年前やったかね。ますます別嬪にならはって」
     老人は関西の言葉で挨拶を切り出した。
    「三年前の園遊会ですわ。山本様」
     せやせや、と山本と呼ばれた老人は笑った。家政婦がコーヒーを三人分持って来た。中山家に長く務めている家政婦で、中山議員からも信頼されている年配の女性だ。
     家政婦が応接間の扉を閉めるのを待って、老人は本題に入った。
    「ほんで、あんたの横の、その色男や。ええと……」
    「宗三左文字様です」
    「ああ、せや。今川のな。義元左文字」
     おそらくわざと言い換えて、山本老人はコーヒーを啜った。
    「まあ、時間遡行軍だの過去改変だのはね、わてかて困る思てんのやで。率直に言うて、わてはそこそこ成功した人生歩ましてもろてると思てるわ、そら人並み以上に苦労も努力もしてきとるんや。それを無かったことにされたら、まあ、かなわんなあってな。でもな、溺れる者は藁をも掴むゆうけど、ほんまに藁を掴んだらアカンがな。もっと確実な方法があるんちゃうかとは思うわなあ」
     山本はうん、と咳払いをした。
    「その、付喪神ね」
    「ええ」
     山本はコーヒーカップをソーサーに戻すと、ソファに深く腰をかけた。
    「わては民俗学者ちゃうし、妖怪だの幽霊だの信じてる方でもないんやけどね。付喪神、要はモノは古くなったら化けるっちゅうやっちゃな。あの楽器やら鏡やらが化けて行列しとる絵があるね」
    「百鬼夜行の絵巻物ですわね」
    「そうそう。提灯お化けなんかは違うんかな、ようわからんけど、提灯なんて百年も保つもんちゃうやろしな。ん、保つんかな?まあ、とにかく付喪神いうんは、古い道具の精霊みたいなもんなんやろね。違う?」
    「それで合っていますよ」
     宗三が静かに言った。
    「ほ、喋れるんかいな。ますます普通の人間と区別がつかんな」
    「山本様、それで本日の御用と言うのは?」
     話が脱線していきそうなので、彼女は軌道修正を試みた。
    「東京さんはせっかちやねぇ。せやからね、わてが不思議に思とるんは何でこんなに人間に近い形をしとんのやろなあと。絵巻物の付喪神とは随分違うやないの。それに、あんたとこも旧い御家やさかい、ようさん古いもんがあるしわかるやろ。古道具が一度でも化けたとこ見たことあるかゆうたら、ないやろ?」
     あくまでも表面上はにこやかに、山本老人は彼女と宗三を見比べるようにして言った。
    「名前ですよ」
     いつもの声の調子で宗三が答えた。
    「貴方にだって、自分の名前があるでしょう」
    「そら、あるわな」
    「名前はしゅです」
    「は?」
     宗三の言葉が意外だったのか、山本はぽかんと口を開けて固まった。
    「名付けられなければ、僕は今でもただの刀の付喪神だったでしょう。でも違った。僕は僕を見出した人間に名を付けられました。名付けるという呪いの強さをご存じですか。名を呼ばれるたび、その名を付けられた歴史ごと、僕達には幾重にも呪がかかる。何十年も何百年も、自分だけに与えられた名を呼ばれるたび、お前は宗三左文字なのだ、お前の中に積もる歴史はこうなのだと呪をかけられて、そうして僕達は成っていく・・・・・
     宗三はするりと袖から手を出して、風呂敷に包まれた荷物を示した。
    「貴方、古道具を持って来たのですね。審神者なら古道具の精も起こしてみせよとでも言うおつもりでしたか」
    「あら、そうなんですの?山本様」
    「いや、まあ、わしは骨董が好きやさかいな。ちょうど今回こっちに来たついでに馴染みの店に寄って…」
    「良いことを教えて差し上げましょう」
     宗三は口元に微笑をたたえて、「これとこれ」と二つの風呂敷包みを指差した。
    「何や?」
    「贋作です。新しい物ですよ」
    「な、何やと!?」
    「わざわざ新しい物を買ったのかと思っていましたが、骨董がお好きなら違うでしょう。嘘だと思うなら目利きに見せてごらんなさい」
    「い、いや、しかしこの二つは長年懇意にしている骨董屋から買ったもので…。そ、それにあんた、なんで風呂敷を開ける前から」
    「それは気の毒に。騙されていたのですね」
     山本老人は忙しなく顔色を変えると、用事を思い出したと言って秘書を呼びつけ、挨拶もそこそこに退席してしまった。
     宗三は既に興味を失ったような顔をして、冷めたコーヒーに手を伸ばした。
    「どうして、あの方の荷物の中身がお判りになったの?」
    「聞いてどうするんです」
    「不思議だわ」
    「……まだ若い道具だなと思っただけです」
    「わたくしは審神者ですけど、貴方方以外は見えませんわ」
    「そのほうが幸せですよ……焦げ臭い飲み物ですね」
     彼は不機嫌そうにコーヒーカップを戻す。彼女はくすくすと笑うと「お茶を淹れ直させましょう」と言った。

     彼らが別の部屋に場所を移し、緑茶と和菓子を楽しんでいると、彼女の父親である中山議員が入って来た。
    「何やら急いで帰られたようだな」
    「急な御用を思い出されたそうです」
     彼女は澄まし顔で答えた。
    「そうか…。疲れただろう。今日はこちらに泊まるといい。もちろん君も」
     中山議員は宗三にも声をかけた。
    「ありがとうございます、お父様。でも、わたくし明日は短刀の方々と乗馬のお稽古の約束をしておりますの」
    「……わかった。では、車で送らせよう」

     門から出ていく自動車を窓から見下ろして、中山議員は本日何度目かの溜め息をついた。
     一度は認めたものの、このまま娘を審神者にしておくのは危険ではないかという思いがあった。
    審神者になってから数回、娘は刀剣男士を伴って帰宅した。供の刀剣男士の顔ぶれは毎回違ったが、彼らが入ってくると室内の気温が下がるような、まるで風邪をひいたときの寒気のような嫌な感じがすることは共通していた。
     煙草に火を付けながら、いくつかの縁談話を思い出す。どの話も中山家に相応しい家柄の御曹司とのもので、少し話を進めてみるかという気持ちになった。

     車窓に流れる夜景を眺めながら、宗三は審神者に話しかけた。
    「ああ疲れた。今度は僕以外の刀にしてくださいよ。歌仙でもへし切でも燭台切でも、おしゃべりなのは他にもたくさんいるでしょう」
    「歌仙様の御気性では、あの方の首を落としかねません」
     彼女は微笑んで答えた。
     刀剣男士の性質は必ずしも表面的な性格と一致しないと、彼女は考えている。
     確かに、宗三が挙げたあたりの刀剣は比較的常識を持ち合わせ、主である審神者に対しても態度を誤るようなことはない。本丸運営には欠かせないといっても良い。だが、それはあくまで本丸内に限った話だ。現世に連れてきて様々な人間に会わせるには、どうも彼らはどこか外れている。
     宗三は確かに皮肉屋で文句も多いが、それを赤の他人に対して発することはない。愛想はないが、余計なことも言わない。今日のような来客に会わせるには向いている刀剣男士だといえよう。
    「ところで宗三様、刀以外の付喪神のお話ですけれど」
    「まだ続いてたんですか、それ。意外とこういう話が好きなんですね」
    「わたくし達は、本丸以外の場所で刀剣男士の方々を刀から顕現することができないのです」
    「それが?」
    「例えば、古い茶道具などを本丸に持って行けば、茶道具の精を顕現できるのでしょうか」
    「無理ですね」
     宗三はにべもなく言った。
    「本丸のあの空間はね、異様なほど澄んでるんです。僕達以外の付喪神など見たことがない。おそらく、審神者の能力を十分に発揮できるよう、わざとそうしてあるのでしょうね」
    「無菌室のようなものかしら」
    「僕と話すつもりがあるなら、僕にわからない言葉を使わないでください」
    「あら、ごめんあそばせ」
    「まったく……」
     夜の街を走り抜け、二人を乗せた車は本部の建物に入っていった。
     三日月宗近は自室の前の縁側に腰を下ろし、夜風に当たっていた。
     月が出ていないので、空には星がよく見えた。人の身を得てそんなに長く経ってはいないが、どちらかというと夜の空のほうが好ましいと思える。自分の名前に月が入っているせいだろうか。
     刀であった頃にも、それこそ数えきれないほど夜空を見てきたはずだが、人の目で見る空はあの頃よりもはっきりと高く、己が足を着けている地表からの距離を感じることができた。

     今日は馬当番だった。主である審神者が宗三を連れて現世に出掛けていたので、出陣がなくなり非番の者が多かった。
     馬に顔を舐められたことを思い出して、自然と笑みがこぼれた。馬の鼻先はふわふわと柔らかくて、その感触が好きだ。
     馬の世話をしていると、非番の短刀達がやって来た。
     彼らは明日は審神者と馬の稽古をするのだと言って、馬具の整備をしていた。
    「まったく、お転婆だよなあ」
     一緒に馬当番をしていた和泉守兼定が腰に手を当てて、やれやれといった調子で言った。
    「何がだ?」
    「何って、主だよ。いい年頃なのに馬に乗って駆け回ってちゃ、嫁の貰い手がなくなるんじゃないかと思ってよ」
    「ははは、そうか」
     自分の知識にある限りでは、少なくはあるが女の武将というのもいたような気がするが、和泉守が作られた時代にはそういう者はいなかったのかもしれぬ。わざわざ言うようなことではない。時代が変われば、そういったことも変わるものだ。
    「笑い事じゃねえよ」
     和泉守は憮然として言った。

     顕現されたとき、自分以外の刀剣は歌仙兼定と小夜左文字だけだった。
    「三日月宗近。打ち除けが多い故、三日月と呼ばれる。よろしくたのむ」
     そう名乗ると、目の前の娘が深々と頭を下げた。
    「三日月宗近様。わたくしがこの本丸の審神者です。どうぞ、よろしくお願いいたします」
     三日月はにこりと笑った。自分を鍛刀した者が、今自分を起こした目の前の娘とは違う人物だということはすぐにわかった。
     だが、それがどうしたということもない。
     昔から、通り過ぎるように持ち主は変わった。昨日まで持ち主に傅いていた者が、今日にはその主を殺して自分を手に入れているなどということは珍しくもなかった。持ち主の中には女性もいたと思う。多くの人間が彼女に頭を垂れていた。
     長い長い時の中を、人から人へ。人も場所も時代も変わったが、誰の手に渡ろうと、どこへ行こうと、変わらないものがあった。


     数週間後、審神者はまた刀剣男士を供にして現世に出掛けていた。
     その日もいつもと同じく、三日月が自室の前に座り夜の庭を眺めていると、にわかに玄関の方角が賑やかになり、もうすぐ主が帰って来ることが知れた。刀剣達が主を出迎えるために表玄関に集まっているのだ。三日月も立ち上がり、玄関へと向かった。

     三日月が玄関に着いたときには、審神者とその供の刀剣男士はすでに到着していた。しかし、何やらいつもとは雰囲気が違う。主である彼女はいつもと変わらぬが、供であった加州清光は明らかに苛ついていた。
     審神者に労りの言葉をかける刀剣達が、ちらちらと加州を気にしているところを見るに、三日月の思い過ごしではなさそうである。
    「帰ったか。主」
    「三日月様」
     彼女が返事を終える前に、加州が大きな音を立てて下駄箱を閉めた。そこにいた全員が彼を見る。彼女は加州を見て、全身で彼に振り返った。
    「加州様」
    「……主」
    「加州様、三日月様は悪くありません」
     何か言いかけた加州を制して彼女がそう言った。加州はぐっと唇を噛んで三日月を睨みつけたが、ぷいっと顔を背けて足音も荒く廊下を歩いて行ってしまった。
    「ええ、何、どうしちゃったの清光。何があったのかわかんないけど、ごめんね、三日月さん。あと主も」
     相棒の大和守安定は困惑して二人に頭を下げると、加州を追いかけて行った。
     大和守の姿が廊下の向こうに消えると、審神者は三日月に頭を下げた。
    「帰るなり申し訳ありません、三日月様」
    「いや構わん。だが、何か俺に関係のあることなのか?」

     加州と大和守の部屋には、和泉守兼定と堀川国広もいた。この二人も先ほどの玄関でのやり取りを見ていたのだ。
     加州は部屋で膝を抱えて座り込んでいる。
    「清光、さっきのあれ何?皆びっくりしてたよ、あんな……」
    「まあ待てよ、安定。とりあえず座れ」
     和泉守がそう言って、自分も畳に正座をした。大和守は何か言いたげな表情をしたが、黙ってそれに従った。
    「清光、何かあったのか?黙ってちゃあ、わかんねえだろ」
     加州は抱えた膝に自分の顎を乗せて、少し頬を膨らませた。
    「……主、怒ってた?」
    「主さんは怒ったりしてないですよ。三日月さんも。だから事情を話してくれたら、あとで謝りに行くときは僕もついて行ってあげますよ、ね?」
     堀川国広がにこにこして言った。
    「ねえ清光、何か嫌なことでもあったの?」
    「嫌なことって言うか……まあ、そうなんだけど」
     そうして加州はぽつりぽつりと語り始めた。

     事が起きたのは審神者の実家ではなく、もう本丸に帰ろうとしていた矢先、本部の施設の中だったのだそうだ。
     ゲートに向かう途中、審神者以外にも付き添いの刀剣男士や事務職員が行き交う場所でのことだった。そこには事務手続きのためのカウンター以外にも、刀剣男士の待合のためのスペースなどが設置されている。
     原則、施設の定められた区域からの刀剣男士の持ち出しについては厳しい制約がある。条件も多いし手続きも煩雑なのが普通だ。この加州清光の主が実家に刀剣男士を連れ帰ることは例外中の例外であり、それはやはり権力の賜物であった。
     廊下の先に、加州は明らかにこちらを指して何かを言い合っている二人組を見つけた。服装は洋服姿だったが職員にも見えず、もしかしたら現世に帰省中の審神者かもしれないと思った。
     二人組は審神者と加州の進行方向におり、そのまま行くと横を通り過ぎる形になる。
    (何か、ヤな感じ)
     そう思ったけれど口に出すわけにもいかない。
     その二人組との距離はどんどん縮まってゆき、審神者が会釈をして横を通り過ぎようとしたときだった。
    「いいわよね、後ろ盾の立派なお嬢様は」
    「就任前から三日月宗近を持っていたって話。お金で買ったんですってね」
     加州は思わず足を止めた。失敗だった。審神者も足を止めてしまったからだ。彼女を傷付けてしまうと思った。
    「あ……」
    「どうなさったの、加州様」
     彼女は普段と変わらぬ様子で声をかけてきた。
    「何でも、ないよ」
    「そうですか。ああ、目の前でごめんなさい。失礼しました」
     審神者は二人組に向き直って言った。再び歩き始めた彼女と加州の後ろから小さな声が聞こえた。
    「何、あの態度。馬鹿にしてる」
    「三日月を持ってるおかげで成績も良いのよね」
    「ほんと、むかつく」

    「俺さ、斬ってやろうかと思った。でも主に迷惑がかかるって思うと」
    「よく我慢しましたね」
     えらい、えらいと堀川が加州の頭を撫でた。「やめろよ」と加州が呻く。
     和泉守は腕を組んで加州に聞いた。
    「で、肝心の主は何だって?」
    「主は何も言わなかったよ。でも……」
    「え?今の話なら、主の言うとおり三日月さん悪くないよね?清光のヤキモチじゃないの?」
     大和守が呆れたような口調で言った。
    「確かに三日月さんは強いけど、一人で出陣するわけじゃなし、明らかにその二人が言ってることがおかしいよ。それに、三日月さんが天下五剣だからって主が依怙贔屓したりしないのは、清光だってわかってるでしょ」
    「……わかってるけど。でも俺さ、所詮は河原の子なんだよね。安物でさ。そんなん関係なくよく斬れるけど。でもあの人、三日月さんは天下五剣の一つで、歴史も俺なんかよりずっと長くて、代わりの刀なんか無いんだって、そう思っちゃうと……」
    「清光」
     低い声で和泉守が加州を呼んだ。加州はびくりと肩を震わせて黙った。和泉守は己の膝の上で拳をぎゅっと握っている。
    「それ以上言うなら、俺ァ怒るぜ」
    「……ごめん」
    「謝るなら、三日月さんに謝りましょうね」
     堀川が加州の肩をぽんぽんと優しく叩いた。

    「はっはっは、そんなことがあったのか」
     何があったのか三日月に問われた審神者は、とりあえず彼と執務室に行き、そこで事の顛末を話して聞かせたのだった。三日月はひとしきり笑うと彼女の方を見た。
    「加州清光には気の毒なことをしたな。俺に八つ当たりをせねばならぬほど傷付いたのだ。何、あれは性根は真っ直ぐだし仲間にも恵まれている。すぐに立ち直るだろう」
    「よくお判りですのね」
    「爺だからな。見てきたものが多いだけだ」
     三日月は首を傾げて微笑んだ。邪気の無い、どちらかと言えば幼さすら感じる笑顔である。
    「それで、主はどう感じた?」
    「どうとも思いません」
    「そうか、それは良い」
     彼は少し身を乗り出すようにして二人の間にある座卓に右肘をつき、頬杖をついた。彼の特徴ある瞳が審神者の正面に下りてきた。
    「意地というやつか」
    「自尊心です」
    「同じことだ」
     審神者は己の正面にある三日月の瞳を捉えて言った。
    「わたくしのために、父が三日月様を買ったことは事実です。わたくしが三日月様を持つに相応しくない人間ならば、それを恥じることもあるでしょう」
    「自分は俺の主に相応しいと?」
    「違いますか」
     三日月は満足そうに笑った。長く豊かな睫毛に、瞳の中の月が隠れた。
    「俺は刀だからな。上手く使ってくれれば良い」
    「答えになっていないわ」
     彼女は座ったまま腰に両手を当てて、三日月を睨みつけるふりをした。本気で怒っていないことは三日月にもわかる。たまに見せる彼女の茶目っ気が好ましかった。
    「まぁ、人も刀も大きいことは良いことだ。そうだろう?」
    「またそうやって誤魔化そうとなさるのね」
     さて俺はもう寝るか、と言いながら三日月は立ち上って障子を開けた。
    「おやすみなさいませ、三日月様」
    「ああ、主も早く休むといい」
     ぴたりと障子を閉めて夜空を見上げる。今夜は十六夜で、ほんの少し歪な月が皓々と世界を照らしていた。
     彼女は都内のあるホテルにて懇親会という名のパーティに参加していた。
     主催の一人が彼女の父親であったため呼び出されたのである。審神者の仕事とは関係ない場であるため、刀剣男士は連れてきていない。
     特にこちらから何かアクションを起こさずとも、次々といろんな人間が話しかけてくる。その人達を適当にあしらいながら時間を潰していたが、宴もたけなわ、というよりも終盤に近付くにつれ、自然と人の数も減ってゆき、会話をする相手も限られてきた。

     今、彼女は会場の一角に設けられたバーカウンターの近くでソファに腰をおろし、二人の男性と話をしている。
     一人は大手のセメント会社の御曹司で、松本と名乗った。歳は彼女と近そうだった。セメント会社といっても財閥のグループ会社の一つであり、親族には政治家も多い家柄である。つり目がちの目元は涼やかで、黒い髪をオールバックになでつけ、顎の輪郭のシャープな、なかなかの美男子である。背も高く、体格も良い。聞けば子供の頃から様々な武術を嗜んでいるのだそうだ。
     もう一人は、元々公家の血を引く名門の人間で、彼女も名前を知っていた。柴田という名の彼は、ゆっくりとした雰囲気を纏ってはいるが、少し話すと頭の回転が早いことがわかる。歳は彼女よりも上であることは確かだ。三十代半ばに見えた。仕事を聞くと、大学の教員をしているということだった。
     ちなみに二人は在学期間こそ重なってはいないものの、同じ大学の卒業生だという。
     しばらく話をしていると、話題は彼女自身の仕事の話になった。
    「審神者を務めておりますの」
     彼女がそう言うと、松本も柴田も少し驚いた様子だった。だが、すぐに気を取り直したように話し始める。
    「それはなかなか勇ましいね。ああ、そうか、お父様の中山先生はあの制度には賛成の立場を表明されていましたね」
    「お父様は心配されないのかい?その、いろいろと危険なこともあるのでしょう」
     柴田が本当に心配そうに尋ねた。
    「わたくしは新人ですし、あまり危険な任務はないのです。それに、頼もしい方々がいらっしゃるので」
    「……刀剣男士、ね」
     松本が肩をすくめた。
    「正直、もう少しマシな名前があれば良かったのにとは思いますね。刀の付喪神に頼るしかないなんて、僕みたいに鍛えている人間としては少し口惜しいくらいですよ」
    「まあまあ松本君、昔の漫画に出てきてたタイムパトロールみたいなものでしょう。相手も人間じゃないんだ。現状、それしか対抗手段がないなら仕方がない」
    「それしか手段がないって言いますけどね、柴田さん。その相手というのも刀を振るっているわけでしょう。鍛えている人間が勝てないわけがないと思いませんか」
     松本は「ねえ?」と彼女に同意を求めたが、彼女は微笑んだだけだった。
     もし歴史改変が行われ、自分が消えるときがきたとしても、きっと人間はそれを自覚できない。改変された瞬間、全ては書き換えられ、その存在自体が無かったことになるのだから。
    「歴史改変ね、もし本当にできるのならと、僕なんかは考えちゃうよね」
     危険思想だなあ、と柴田は照れたように笑った。
    「柴田さん、変えたい過去があるかのような口振りですね。僕はそんなこと考えたこともない」
    「松本君は若いからね。そうだなあ、例えば自分の大事な人が不慮の事故で亡くなったりしたら、過去を変えたいって思ってしまうかもしれないよね」

     懇親会は夜遅くまであったため、彼女はその夜は実家に泊まった。
     次の日、朝食を摂っていると、同席していた父親が話しかけてきた。
    「昨日は、ずいぶんと楽しそうに話し込んでいたね」
    「あら、そうでしたかしら」
     彼女はクロワッサンを割りながら答えた。実際、父親が誰のことを指して言っているのかわからなかった。
    「もう会も終わりの方だったけどね」
    「ああ、はい」
     松本と柴田のことだと思い至った。
    「あの方々がどうかしまして?」
    「あの方々というか、松本君の方だが、どう思った?」
    「どうって……そうね、ご自分に自信がおありなの。うふふ、ユニークな方なのよ、まるで刀剣男士に武術で勝てるようなことをおっしゃるの」
     刀剣男士は戦闘に特化した刀の付喪神であり、見た目は華奢でもその膂力は人間の敵うところではない。いくら鍛錬を重ねた武術の達人でも、突っ込んでくるトラックを止めることができないのと一緒だ。
    「それは大目に見てあげなさい。彼はまだ若い。若い男というのは、殊更そういうことを誇りたがるものだ。特に気になる女性の前では」
     彼女は父親が切り出そうとしている話を察した。
    「そんな雰囲気は全然なかったのよ、お父様」
    「いや、元々お前に来ていた縁談の一つなんだ。彼もそれは知っているはずだよ」
     つまり、正式な見合いの前に、軽く当人同士を会わせて顔見知りにしておこうという算段だったのだろう。それ自体はよくあることだ。彼女も別に驚いたり腹を立てたりはしなかった。
    「それよりも気になることがあるのですけれど。もう一人の、柴田様のことよ」
    「ああ、彼がどうかしたのかい?」
    「お父様、調べていただきたいことがあります」
    「見合いだって?」
     歌仙兼定は聞き返した。
     午後になり、昨夜は現世に泊まった審神者が帰ってきて、執務室で留守中の報告を終えたところだった。
    「ええ」
    「確かに主の年齢を考えれば、そろそろ輿入れしてもおかしくはないね。それで日取りは決まっているのかい?」
    「一週間後だそうです。まあ、あまり間が開くのもおかしいでしょうから」
    「そうか。皆には知らせなくても良いのかな?」
    「歌仙様の頃とは違って、これで決まるわけではありませんからね」
    「おや、そういうものなのか。僕はてっきり」
    「わたくしが今まで断ってきた縁談の数を知ったら、歌仙様も驚きますわ」
    「君は見かけによらず強情でお転婆だ。驚かないよ」
     かたん、と廊下で音がしたので、歌仙と彼女は顔を見合わせた。
     歌仙がすたすたと襖に歩み寄って、それを開いた。
    「……誰かいたのかと思ったが」
     彼女も歌仙の後ろから廊下を覗いた。床に何か落ちている。
    「これは……」
     歌仙が拾い上げたものを見ると、それは金色の房だった。

     三日月宗近は本丸の庭園、池にかけられた橋の朱色の欄干に両手をかけ、池の水面を眺めていた。
     池には睡蓮の葉が浮かび、その陰にときどき魚影が動いていた。
     午前中にあらかじめ審神者が定めていた出陣をこなし、午後になり彼女が帰ってきたと聞いて報告に向かった。別に自ら報告せずとも、初期刀であり近侍でもある歌仙兼定が報告を行うことはわかっていた。しかし、今日は初めての場所への出陣であり、そこで無傷で誉を取ったことを彼女に伝えたいと思った。
    「三日月様」
     突然、名を呼ばれた。
    「……主か」
    「ええ」
     彼女は後ろ手にしていた手を、顔の前に持って来た。見覚えのある金色の房を持っている。
    「落し物です」
     そう言われて自分の胸元の飾りに目をやると、右側の房が無くなっている。
    「すまんな」
     房を受け取り、取り付けようとしたが上手くいかない。
    「貸してください」
     彼女が白い小さな手を差し出してきた。その掌に房を載せた。
     彼女は飾りを持ち上げると、器用に房を取り付けた。
    「……すまんな。礼を言う」
    「いいえ、このくらいのことは何でもありませんもの」
    「見合いをするそうだな」
    「あら、やっぱり聞いていらしたのね。嫌だわ」
     ころころと彼女は笑った。
    「輿入れするのか」
    「まだ何とも言えませんわね」
    「嫁いでも、審神者は続けるのだろう?」
    「それも何とも言えませんわ」
     審神者は決して楽な仕事ではない。今以上に現世と本丸を往来する生活は大変だろう。

     三日月は目を伏せて水面を眺めた。
     水鏡に人の形をした自分がぼんやりと映っていた。
     これが人の身なのか、と思う。
     声を聴けば嬉しく、表情を見つけては喜ぶ。
     置いて行かれるとわかれば寂しい。
     では、この痛みは何だろう。
     怪我などしていないのに、胸の奥の、甘く苦しい痛みだ。

    「あの、三日月様?」
     はっと我に返ると、彼女が怪訝そうな顔をしてこちらを見ていた。
    「あ、いや、すまんな。ぼうっとしていた」
    「お疲れなのですか?」
    「爺だからな、少し疲れたのかもしれんな」
     ははは、と笑って見せると彼女も少し笑った。
    「それで、さっきのお話ですけれど」
    「ああ、何であったかな」
    「来週のお見合いに、三日月様もいらしてほしいのです」
    「うん?」
     三日月は目を見開いた。
     彼にしては大変珍しく、呆気にとられたのだった。
     お見合い当日、審神者は落ち着いたグレーのワンピースに白いジャケットというシンプルなスタイルだった。珍しくネックレスやピアスも着けていたが、それほど主張するものではない。刀剣男士達は彼女のアクセサリーに付いている透明な石を珍しがり、短刀達は近くで見たがった
     三日月宗近はいつもどおりの青い狩衣姿だったが、むしろ彼の場合は普段着が豪華過ぎるのであって、このままでも問題はない。
    「主よ、本当に俺が行っても構わないのか」
    「先方のご希望ですのよ。ぜひ三日月宗近様とお会いしたいそうです」
     審神者は三日月を現世に連れて行ったことはなかった。
     三日月宗近は天衣無縫というか、あまり物事に頓着しない性格であるため、茶飲み友達ならばいざ知らず、政治的な客あしらいには向いていないと思われたからだ。

     本部のゲートを通り、迎えの車を待たせてある地下駐車場に向かっていたとき、後ろから呼び止められた。
    「あら、柴田様。ご機嫌いかが」
    「やあ、一週間ぶりだね……おおっと」
     柴田は三日月を見ると、おどけた調子で頭を後ろに引いた。
    「いや、ははは、これはこれは。驚いたなあ。噂は本当だったんだね」
     明るい口調で口元も笑っているが、目は三日月の顔から動かない。
     無理もない。彼女は慣れているから何とも思わないが、やはり三日月宗近は絶世の美形である。性別や好き嫌いに関わらず、そこに彼がいれば目を離すことは難しい。
    「噂?」
    「ああ、君が時々刀剣男士をご実家に連れて帰っているってね。刀剣男士の施設外への持ち出しについては、本来すごく条件が厳しいから」
    「……柴田様は、今日はこちらに御用がおありですの?」
    「ああ、そうだよ。僕の専攻は考古学なんで、時々こうやって政府から呼び出しがかかるんです。君は帰省かな?」
    「ええ、そんなところです。それでは柴田様、ごきげんよう」
     柴田に挨拶をして別れると、二人は車に乗り込んだ。
     運転手がエンジンをかけ、車は滑らかに進みだした。
    「先ほどの男は知り合いなのか?」
    「はい、先週の夜会でお会いした方です」
    「俺を見て怖がっていたようだが」
    「驚かれたのじゃないかしら。現世の人間のほとんどは、刀剣男士の方と直接お顔を合わせる機会がありませんから」
    「……そうか」
    「三日月様?」
    「うん、いや何でもない」

     中山邸に到着した三日月は、審神者に連れられて彼女の父親だという男と対面した。
     人間の歳はよくわからないが、おそらくは五十くらいであろう。長身ではないが、がっしりとした身体つきで、髪も若々しく黒い。どことなく、昔自分を所持していた男を思い出した。
     男は部屋に入ってきた自分を見て、一瞬ひゅっと息を飲んだ。その表情にあるのは恐れだ。
    「お父様、お連れしましたわ」
    「三日月宗近だ。よろしく頼む」
    「ああ、いつも娘が世話になっているようだね」
    「何の。世話になっているのはこちらの方だ。主のおかげで、この身を得て己を振るえるのだからな」
     相手を安心させようと微笑んでみたが、男は表情を引き攣らせるばかりだ。
    「……私を覚えているかね?」
     男は探るような目付きでこちらを見ながら尋ねてきた。
    「いや、覚えがないな」
     そう答えてから、ふと思い出した。そう言えば自分は買われたのであった。買ったのは審神者の父親、つまり目の前のこの男ということになる。覚えていないのは本当のことだが、少々素っ気ない返事をしてしまったかもしれぬ。
     こちらが続けて何かを言う前に、男は用事があると言って退室してしまった。
    「俺はあまり歓迎されていないようだな」
    「申し訳ありません。誤解しないでいただきたいのですが、父は刀剣男士の方々に対しては、いつもあんな感じですのよ」
    「ははは、気にしてはいないから案ずるな」
     時々、ああいう人間がいる。きっと物の怪の類に対する感覚が鋭いのだろう。
     とりあえず部屋に置かれた長椅子に腰を下ろす。
     周りを見回すと、部屋の中にはなかなか古い調度品が飾られている。おそらくは西洋の物と思われるものもあった。
    「……良い屋敷だなあ、主」
    「お褒めいただいて光栄ですわ」
    「うん、実に良い。和やかで賑やかで、昔いた場所を思い出す」
     彼女は首を傾げた。
    「この屋敷には、使用人の他は、わたくしと父しか居りませんわ。わたくしが審神者になって家を空けておりますから、父は寂しいかもしれません」
    「そうか」
     彼女には聞こえないのであろう。目を閉じると、大事にされてきた多くの古い道具たちのさんざめく声がする。付喪神はあまり場所を移動できぬから、おしゃべり好きなものが多いのだ。他所から来た刀の付喪神の登場をおもしろがっているらしい。

     松本が到着したとの知らせを受けて、審神者と三日月は応接間に移動した。
     しばらく待っていると、使用人に案内されて、高級そうなスーツで身を包んだ松本が入室してきた。彼女は立ち上がって、彼を出迎える。
    「よくいらっしゃいました、松本様」
    「やあ、こんにちは。貴方も仕事が忙しいでしょうに、無理を言ってしまって申し訳ない」
    「いいえ、とんでもない。またお会いできて嬉しく思います」
     言い終わると、彼女は三日月を軽く振り返った。三日月はソファに腰かけていたのだが、彼女の視線で立ち上がった方が良いのだと気が付いた。
     三日月が立ち上がると、ちょうど彼女の背後に隠れる形になっていた三日月と松本がお互いに見えるようになった。
     松本は一瞬ぎょっとした表情をして、次に小さく息をついた。
    「こちらが三日月宗近様です」
     三日月は無言で会釈をした。
    「ああ、どうも。お会いできて光栄です。あの有名な天下五剣の付喪神様にお会いしたくて、彼女にお願いしたんです」
     話しながら、松本は三日月に右手を差し出してきた。ややあって、これは握手を求められているのだと気付き、三日月も右手を出した。
    「すごいな、本当に人間と変わらない。……ああ、いや失礼。驚いてしまって」
    「うん?ははは、構わんぞ、触ってよし」
    「は?」
    「あ、ところで松本様」
     松本がぽかんとしたので、彼女は慌てて話を変えた。
    「刀剣男士を外には連れて行けませんので、せっかくのお見合いですけれど、今日は屋敷から出ることができませんの。退屈で申し訳ないのですけど、お庭でも見に行きませんか?」
    「いや、ここで結構ですよ。少しお話をしましょう。三日月様もご一緒に」

     コーヒーと茶菓子が運ばれ、そのまま応接間で談話することとなった。
    「ところで、もし僕と結婚していただけるならですが」
     しばらく世間話をした後、松本はコーヒーを口に運びながら切り出した。
    「お仕事はどうされます?僕としては、子供ができるまででしたら続けていただいても構いません。しかし、配偶者には毎日きちんと家に帰ってきてもらいたいですね」
    「そうですね。わたくしも、こちら側のことを疎かにするつもりはございませんわ」
     松本は三日月に視線を移した。
    「貴方は良くても、そちらはどうなのです」
     三日月も男を見返して、にこりと笑う。
    「俺達は主の刀だからなあ。要らぬと言われればそれまでだ」
    「三日月宗近様、僕の聞いたところによると、貴方は買われたそうですね」
    「松本様?」
     何を言い出すのかと、彼女は松本を見た。
    「幾らで買われたのかは知りませんが、僕が同額お支払いしましょう」
    「はっはっは、おもしろいことを言うなあ。誰に払う?」
    「貴方の主に」
     三日月は帯から扇を抜き取ると、ぱらりと広げて口元を隠した。審神者にも彼の表情が読めなくなった。
    「お嬢様には、お仕事を続けていただいて構いません。他の刀剣男士も、まあ良いでしょう。しかし、天下五剣の中で最も美しいと言われる貴方は駄目だ。今日、お会いして確信しましたよ」
    「審神者でもないのに、俺を買ってどうするのだ?」
     扇の下から聞こえる三日月の声はいつもと同じで鷹揚だ。
    「日本刀のままで結構です。僕が保管します」
    「俺を所有したいということだな」
    「そうです。僕には剣道の心得もありますし、日本刀の扱いも心得ています。決して粗末には扱いませんよ」
     ぱちん、と三日月は扇を閉じた。いつもどおりの穏やかな美しい笑みを浮かべている。
    「語るに落ちる、というやつだな。主よ、この男は縁談などどうでもよいのだぞ」
    「え?」
     彼女よりも早く、松本がソファから立ち上がって反応した。
    「何を言い出すんだ!そんなわけないだろう!」
    「鍛刀は審神者が精霊に命じることでしか行えないからな。俺を手に入れたがる者は多い」
    「三日月様、でも松本様は他の刀剣男士はいいと」
    「もうすでに何振りか手に入れているのだろう?」
     三日月はゆらりと立ち上がり、テーブルを挟んで男と睨みあった。
    「審神者から買ったか、それとも他の伝手を使ったのかは知らないが、早くあるべき場所に還してやることだ」
    「何を……!刀の、物の分際で!!」
    「松本様!何ということを仰るのです!!」
     三日月にとっても初めて聞く彼女の怒鳴り声だった。だが、その声は余計に男を逆上させたようだ。
    「だってそうだろう!!所詮こいつらは人に作られた物なんだ!!どんなに強かろうが、美しかろうが、それはこいつらが凄いんじゃない!!そう作られただけのモノだ!!作った人間の方が偉いに決まってるだろう!!」
     応接間に水音が響いた。
     彼女がテーブルの上にあったコップの水を松本にかけたのだ。
     松本はよほど驚いたのかバランスを崩し、ソファの上に尻もちをついた。
    「……それ以上は許しません!」
     彼女は大きな瞳に涙を溜めていた。
     三日月は彼女の肩に手を置いた。
    「泣くな、主」
     それから、ソファの上の男を見下ろした。
    「お前の言うとおり俺達は人間に作られた、ただのモノだ。或いはそれに宿った器物の精。それは違いない。だが」
     三日月は笑う。光源の少ない室内で、その名の由来となった三日月が瞳の中で白く輝いている。
    「それが、どうした」
    「な、何?」
     意味がわからず聞き返す男に、三日月はにっこりと笑ってみせた。
    「それがどうしたと言ったのだ。お前がさっき指摘したことは事実。だが、その事実は俺の美しさや価値を損なうものではない」
    「くっ……」
    「俺を欲しがったその口で、今度はただのモノと呼ばわるなど、滑稽だな」
    「くそっ!!」
     松本は俊敏な動きでソファ蹴り、テーブルを乗り越えて三日月に掴みかかった。
     テーブルの上のコーヒーカップや皿が落ちて、けたたましい音が響く。
     三日月は自分を掴もうとする男の腕を取り、くるりと自分の体の向きを変えて重心を下げた。
    「はいっ!」
     短い掛け声。一拍の間を置いてガラスが割れる音。続いて屋敷の中に防犯ブザーが鳴り響く。
    「み、三日月様!?」
    「ここは一階だろう、大丈夫だ」
     がたがたと騒がしい音がして、彼女の父親が駆け込んできた。
    「大丈夫か!?」
    「お父様!!」
     父親の後ろから、三日月も知っている男が現れた。
    「この様子だと、間に合ったのかな?いや、間に合ってないのかな」
    「柴田様?どうしてこちらに?」
    「ああ、無事みたいですね、良かった」
     柴田はすたすたと窓に歩み寄ると、ガラスの無くなった部分から顔を出して、庭を覗き込んだ。
    「完全にのびてるなあ。まあいいか。……松本君、君の家から出てきた刀剣について鑑定させてもらったよ。審神者以外の者による刀剣男士の不法所持、といっても刀剣の状態だけどね。あと、施設外への無許可の持ち出し。これ、どっちも重罪ですよ」
     やれやれ、と柴田はこちらに振り返った。彼女を見て、三日月を見る。彼はへらりと笑った。
    「さっきお父様から聞きましたよ。僕のことを調べさせたそうですね。そんなに怪しいかなあ」
    「お父様?」
    「その、すまない。急に彼が政府の職員を引き連れて来たものだから、とっさに……」

     彼女が父親を責めている間に、三日月は柴田に近寄って声をかけた。
    「政府の人間だったのか」
    「いいえ、僕はただの学者ですよ。まあ古い物については多少詳しいので、こういう鑑定が必要な時に呼ばれるんです」
    「……俺を怖がっているな。だが主の父親のそれとは違う。何故だ」
     柴田は少し黙って、何かを迷うようなそぶりをした。
    「ううん、彼女が僕を調べているし、きっといずれは知れちゃうでしょうから言いますね。僕の婚約者はね、審神者だったんですよ」
    「婚約者……許嫁か?」
    「君達にわかる言葉で言うなら、そうですね」
    「審神者だったということは、今は違うのか」
    「……そうですね、死んでしまいましたから」
    「戦死か」
    「はい」
     柴田は溜め息をついて、三日月を見た。
    「僕は臆病者なのに未練がましいんです。本当は審神者にも刀剣男士にも関わりたくない。目に入れたくもない。でも」
     彼は手に持っていた何かの書類を、くるくると弄んでいる。
    「でも、彼女が守ろうとしていたものを切り捨てて生きていくこともできない。貴方方にだって、本当は戦ってほしくなんかない。大事にされて幸せであってほしい」

    「……そう、柴田様はそう仰ったのね」
     帰り道、ゲートから表玄関までを歩きながら、三日月は審神者に柴田のことを伝えた。
     とっくに日は暮れており、本丸の皆は心配しているに違いなかった。
     空には三日月。黒い布にこぼした銀の砂のように星が瞬いている。
    「今日はごめんなさい、三日月様」
    「ははは、何故に謝る必要がある」
    「松本様のことで、嫌な思いをなさったでしょう」
    「あれか?言っただろう。どうとも思ってないと」
     ざくざくと砂利を踏んで歩きながら、三日月は彼女を見た。
    「主と一緒だな」
    「一緒?」
    「以前、俺と問答をしただろう。確かあのとき主は言ったな。自尊心だと」
     ざくり、と三日月は足を止めた。
    「俺も一緒だ。そうだな、確かにこれは意地とは違う。これは」

     長い長い時の中を、人から人へ。人も場所も時代も変わったが、誰の手に渡ろうと、どこへ行こうと、変わらないものがあった。

     名物中の名物、天下五剣にして最も美しいと呼び慣わされた――

    「――自負だ、主」
     非番の日、三日月宗近は、彼にしては珍しく出掛けていた。
     季節はもう夏の終わりで、昼間こそ暑いが、朝夕と涼しい風が吹き始めていた。
     夕方、彼は出先から戻ると、まっすぐに審神者の部屋へ向かった。襖越しに声をかけると返事があったので入室する。
     彼女は窓から遠くの山を見ていたようだ。ひぐらしの鳴き声がする。
    「主、帰ったぞ」
    「あら、お見掛けしないと思ったら、お出かけでしたの」
     彼女は可愛らしく首を傾けて笑った。
     その顔に少し翳りがあるような気がして、三日月は内心で首をひねった。夕方の日差しの中でそう見えるのだろうか。
     そう思ったが、とりあえず三日月は彼女の前に正座をした。
    「あのな、主」
    「三日月様」
     三日月は言葉を止めた。彼女が意味もなく相手の言葉を遮るとは思えない。
    「歌仙様には、先ほどお話ししましたので、食事時には皆様にも伝わるでしょう。でも、今いらしてくださって良かったわ」
    「何かあったのか?」
    「わたくし、審神者を辞めることになりましたの」
     三日月の手にあった袋が膝を滑って畳の上に落ちた。こと、と軽い音がする。
    「結婚の話が纏まりました」
    「見合いは失敗しただろう」
    「あの方とは別の方です」
    「……そうか。相手を聞いてもよいだろうか」
    「三日月様もご存じの、柴田様です」
    「あの男か。確か許嫁を亡くしたということだったな」
    「はい。わたくしとは十歳ほど離れていますが、先日の件で父が柴田様を気に入ったようです」
    「うん、誠実そうな男であったな……嫌なのか?」
     斜陽で赤く染まり始めた畳の上、彼女はうつむいている。
    「嫌ではありません。わたくしは自分の意志で結婚すると決めたのですから」
    「うん」
    「……審神者になったのは、家のためです。中山家の者として、父の政治的な立場の助けになれば良いと考えていました。でも皆様と一緒に過ごすうちに、もう一つ、気が付いたことがあります」
     彼女は顔を上げて三日月を見た。
    「三日月様、先日、うちにいらしたときに賑やかだとおっしゃっていましたね」
    「ああ」
     古い家に伝わる、たくさんの道具の付喪神達。
    「実は以前、宗三様が我が家にいらしたときにも『見えないほうが幸せだ』なんてことを仰っていたの」
    「はは、宗三らしいな」
     彼女は体の方向を変えて、三日月に正面から向かい合った。それから、彼女はしっかりと三日月の目を見て言った。
    「わたくしは中山家の次期当主。それがわたくしの誇りです。わたくしには、我が家に伝わる彼らを守り、次の世代に伝えていくという使命があります」
     彼女の決意を聞いて、三日月は微笑む。
    「そうか。ならば、これは餞別になってしまうな」
     さっき一度取り落としてしまった袋を拾い、彼女に差し出した。
    「開けてもよろしいの?」
    「開けるがいい」
     彼女が袋を開けると、中から包装された箱が出てきた。包装紙をめくると小さな薄い桐箱だった。彼女は箱を右手に持ち、左手で蓋を開けた。
     入っていたのは塗の手鏡だった。蒔絵で三日月と桜の意匠が施されている。
    「まあ、きれいね」
    「気に入ったか」
    「嬉しいわ。大切にします」
    「ああ、そうしてくれ。……やれやれ、本当はこのようなつもりではなかったんだがなあ」
     三日月は天井を仰いで自嘲気味に笑った。
    「爺はいかんな。何事においても一歩遅い。主よ、俺は使者でも立てようかと思っておったのだぞ」
     彼は畳に左手をついて前に体を傾け、右手を伸ばして彼女の黒髪の一房に指を絡めた。
    「それは、求婚ということでしょうか」
     彼女の黒い瞳が、二つの三日月を捉えた。
    「そう思ってもらって構わない」
     ふう、と彼女は溜め息をついた。
    「まさか天下五剣から求婚される日がくるとは思いませんでした」
    「遅かったか?だが、俺は待つことは得意だぞ。爺だからな」
    「遅いも早いもございませんわ。わたくしの決意を聞いていらっしゃらなかったの?」
    「ちゃんと聞いていたぞ」
     邪魔はしない、と三日月は指に絡めた黒髪に口づけた。
    「ただ、主が俺をどう思っているのかが知りたい。教えてはくれないか」
    「わたくしがどう思っているかなんて、決まってますわ。三日月様は意地悪な方よ。美しくて、優しくて、でも絶対にわたくしをご自分に相応しいとは認めて下さらないの」
    「ははは、そうか。よくわかった。では主よ、せめて一つ約束を俺にくれ」
     彼女は三日月の望みを理解した。
     彼女は花弁がこぼれるように微笑んで、自分の髪を持つ三日月の右手を、そっと両手で包んで離した。それから胸の前に持って来た彼の右手に、自分の左手を添えて支え、右手の小指を彼の右小指に絡める。
    「いいわ、三日月様。お約束よ。お忘れにならないでね。きっとよ」
    「ありがとう、主。きっとだな」

     主が本丸から去っていく日。
     本丸の刀剣が全員、正門に集まった。
     彼らの主は一人一人と挨拶を交わし、正門に設けられたゲートから現世へと帰って行った。
     ゲートが閉じるにつれて、本丸の正門の厚い門扉が閉じていく。
     景諏も本丸の御殿も、今までそこにあったことが夢であるかのように、白い光に溶けて、桜の花弁が舞い始めた。
     桜の花弁はみるみる増え、あっという間に辺りは桜吹雪に包まれた。

     楽しかったよ。
     また会いたい。
     会えてよかった。
     大事にしてくれて、ありがとう。
     愛しいよ。いとしいよ。

     仲間達の姿はもはや見えない。
     三日月宗近は己の手を見ようとしたが、それすらも大量の桜の花弁に隠れてしまう。
     桜吹雪はますます激しく、どこまでが自分の身体なのか、どこからが桜なのか、そんなことすら曖昧になるほど、全てが混然一体となる。
     乱れ舞う桜の花弁が、ぽろぽろと頬に当たった。

     きみ、ないているのか

     桜吹雪のざわめきに混じって仲間の声がした。


     彼女は自室の窓から、庭に植えてある大きな桜を見ていた。
     桜はちょうど満開を迎え、うららかな春の日差しの中、ひらりひらりと花弁が舞っていた。
    「奥様、お手紙が届いています」
     中年の女性が封筒を載せたトレイを持って来た。
    「どなたから?」
    「旦那様からです」
    「まあ、あの子ったら。電話をしてくれれば良いのにね」
     彼女の夫は二十年ほど前に亡くなり、今の当主は彼女の息子だった。
    「ごめんなさい、中身を読んでもらえるかしら。最近は文字を読むのも一苦労なの」
     嫌ねえ、と彼女は笑った。
     家政婦はすぐに封を切って、手紙を広げた。彼女の祖母は昔この家に仕えていて、最も信頼されていた。
    「白寿のお祝いの日取りについて、ですね」
    「あらあら、こんな歳になったら、お祝いなんてしてもらわなくてもいいのよ」
     彼女は絹糸のような白髪を耳にかけながら言った。

     中山家の大奥様。
     彼女は考古学者であった入り婿の夫とともに、多くの文化財保護に貢献した人物として表彰されたこともあった。
     茶道華道の造形も深く、薙刀の心得もあるという。
     三ヶ国語に堪能で、海外の賓客を招く際にも通訳要らずと有名だった。

     八十歳を超えてからは、さすがに表舞台に立つことは減った。
     白寿を迎える歳となり、まだ自分で歩けるものの、膝が痛むことが多くなったため、最近は庭に出るときですら車椅子を使っていた。

     花冷えというのか、ここ数日は気温が低い日が続いていたが、今日は暖かい。彼女は家政婦に頼んで車椅子を押してもらい、庭に出ることにした。出る前に、机の上の塗の手鏡で髪や顔を確かめる。彼女の若い頃からの習慣だった。
    「桜が見たいわ。桜の根元まで押していただけるかしら」
     家政婦はゆっくりと車椅子を押して歩いて行く。
     思ったとおり、風は暖かく、日射しは柔らかく降り注いでいた。
     桜までは少し離れていたが、すでに桜の花の香りがする。

     桜の根元に到着した。家政婦にお礼を言ってから、彼女は桜を見上げた。
     はらはらと、桜色の花弁が落ちてくる。彼女にとって桜は特別な花だった。
     桜の花からこぼれる日光を見ていると、ひざ掛けがつんつんと引っ張られるような感覚があった。
     どこかに引っ掛けているのかと、上げていた視線を下ろすと、目の前に髪を角髪に結った、水干姿の子供が立っていた。
     子供は何も言わずに彼女の手を引いた。
    「あ、待って。わたくしは膝が……」
     引っ張られた勢いで車椅子から立ち上がった。膝の痛みは全くない。
     子供はなおも彼女の手を引いていく。
     何となく子供に従いながら、彼の水干の背中にある紋のような模様に気が付いた。
     三日月に桜。
     突然、目の前が明るくなった。
     白い光の中に大きな桜の木が見える。
     子供は彼女の手を引いて、桜の根元にやって来た。そして彼女の手を離すと、そのまま桜の木の側に立っている人影に近付いていった。

    「案内ご苦労だった」
     昔と変わらない声がした。
    「この者は最近成った・・・ばかりで、まだ口がきけぬのだが、どうしても自分が使者を務めたいと言ってな」
     青い狩衣姿の青年が桜の下に立っていた。
     辺り一面に桜吹雪が舞う。桜吹雪の合間に、自分を呼ぶ家政婦の声が聞こえたような気がしたが、それもあっという間に掻き消された。
    「三日月様、お変わりないのね。当然ですけれど、わたくしはこんなに歳をとってしまいましたわ」
     三日月は昔と同じように、彼女の白い髪を掬った。
    百年ももとせ一年ひととせたらぬ九十九髪つくもがみ、だな」
    「我を恋ふらし面影に見ゆ、伊勢物語ね。わたくしも、あんなふうに哀れな女になってしまったのかしら」
     三日月は嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
    「そうか。主は心変わりはしていないのだな」
    「ええ。わたくしの現世での役割は全て終わりました」
     今、彼の指が掬っているのは艶やかな黒髪だった。

    「なあ主、俺は待つことは得意だと言っただろう?」

     この日、一人の老女が自邸の庭で忽然と消えるという椿事が起こり、世間ではちょっとしたニュースになった。
     季節は春。桜が満開になった日のことだった。
    ykyk Link Message Mute
    2018/09/30 13:45:17

    付喪神 The Cherry Blossoms In The Moonlight

    刀剣乱舞 夢小説です。
    pixivに『令嬢審神者と三日月宗近の話』として掲載していたものです。
    文字は小さめ推奨です。

    前作と世界観を共有していますが、話は完全に独立しています。

    イメージソング『Reset』/平原綾香

    #刀剣乱舞 #二次創作 #夢小説 #刀さに #三日月宗近

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