異世界は額縁の中に。異世界から現れた少年、栄との出逢いは奇妙なものだった。
自分が描いた絵画が何故かあるはずも無い異世界にあり、それを偶然に手にした彼が自分の世界に飛ばされて来たのが始まりだ。
画家である蓮水はその奇妙な出逢いをもたらした絵画の前に立ち、彼を思う。
歳から考えれば甥、または弟子、生徒みたいな関係か。
ダークブラウンの癖の無い髪と瞳。澄んだ凛々しさを持つ整った顔立ち。歳の割りには大人びた印象を感じさせる振舞い。そして、料理が上手い。
そんな彼に絵を教え、何でもない時間を共にするのが蓮水の今の楽しみとなっていた。
***
「こんにちは、蓮水先生」
異世界への移動もすっかり慣れたものだ。
今日から連休、何時もより長く異世界に滞在ができると栄の声は明るかった。
手には着替えの入ったバッグと手土産、準備は万端だ。
「あぁ、久し振りだな。栄君」
低く優しい声音。
変わらず迎え入れてくれた蓮水にほっとする。
両親が海外で一人暮らしに近い生活をしている栄にとって今は此処が帰る家のような気がしていた。
「先生、昼食はもう食べた?」
「いや、筆が思ったより進んでな」
子供っぽく笑う。
「だと思った。作ってきたから一緒に食べよう」
「あぁ、栄君の飯は美味いから楽しみだ」
ポンと頭に手を置かれた。温かい、大きな手だ。
くすぐったいような嬉しい気持ちになる。
ホットサンドとサラダ、来る前に買ったフライドチキンを二人で平らげ、食後に蓮水の入れてくれたコーヒーを口にする。
「前に言ってたけど今日から俺、四連休なんだ。食事の用意も家事もちゃんと出来るからさ」
任せて、と栄が言う。
「折角の休みにすまんな、バイト代はちゃんと出す。時間があれば気晴らしにでも出掛けよう。いや、おじさんと一緒ってのは面白くも何とも無いか」
笑って蓮水は苦いブラックコーヒーを飲む。
おじさんと自称するが見た目も年齢もそこまで上だと栄は思っていない。
「先生はまだおじさんじゃないだろ。気晴らしって言うけど、この屋敷で過ごすのも普段できない体験だと思う。俺は好きだよ」
「そうか、栄君は出来た子だな。その言葉に甘えてしまって申し訳ない。俺も休日だと思って、決めた時間以外は筆を握らない事にしよう」
早速今から街に出ようか、と言う蓮水の言葉に栄も二つ返事で頷いた。窓の外は快晴だ。
蓮水の世界に来て驚いたのは衣食住に関わるものの名前が同じだった事、文明の発達にそう大差が無かった事だが、一番はこれだと栄は思った。
人間――この世界では人間族以外に角や翼、羽を持つ種族が存在して、魔法も当然のようにあるという事。
ゲームかマンガの世界みたいだよな、と街に出ると改めて思う。
しかし、もっと大きな都会に行けばマンションやビルもあるのだという。完璧なファンタジー世界じゃ無いところがリアルだ。
「先生が人間族だから、街に出ると此処が異世界だって改めて実感するよ」
「ん、そう言えば折角の異世界なのにそれっぽい文化に触れさせる機会があまり無かったな」
異世界っぽいものか、と言って蓮水は顎に手を添え考える。
「大丈夫、それなりに俺も楽しんでるよ。先生が屋敷に居ない時は街に出るし、顔見知りも少しだけ増えたから」
この間覗いた魔法具店の話、公園で出会った人狼族の少年達とサッカーをした話を聞かせる。
「なんだ、その内栄君に街を案内してもらう事になりそうだな」
「先生ももう少し街に出たらいいのに」
「だな」
言って肩を竦める。
と、街をぶらぶら歩いていた所で栄が知り合った双子の兄弟が声を掛けて来た。
「「こんにちは、栄おにーさん!」」
魔法学校に通っているという双子の人間族、アリスとルイスだ。
濃紺のローブに砂時計と茨をモチーフとした校章。魔法学校の制服を着た彼らの手には菓子店の紙袋がある。
兄のアリスは銀の髪に青の瞳、弟のルイスは金の髪に青の瞳。瓜二つだが見分けはつく。歳は栄より幾つか年下で、兄と慕われるのは嫌な気はしない。
「お前達か。先生、二人は街で知り合った魔法学校に通う双子で――」
「おれは兄のアリス」
「弟のルイスです」
快活そうな兄、優しげな印象の弟が蓮水に向かって挨拶をする。
「そうか。俺は蓮水だ。画家をやっている」
「蓮水……。あ、おにーさんが言ってた画家のせんせーだな!」
「ん、知ってるのか?」
「うん。おにーさんがお世話になってる大好きなせんせーなんだよね」
ルイスの言葉に栄が慌てる。
「なんで尊敬が大好きになるんだ」
「おにーさん、せんせーの話してる時すげー喋るじゃん」
否定はできない。言葉を詰まらせ、恐る恐る蓮水の顔を見る。
「はは、そうか。嬉しいよ」
何時もと変わらない笑みで頭にポンと手を置かれた。何だか気恥ずかしい。
「そ、それはいいから。学校は?」
「見て分かるだろ、終わったし買い食い」
「お菓子だよ。はい、おにーさんとせんせーにもお裾分け」
そう言って紙袋からキャンディーを取り出す。輸入菓子みたいなビビットカラーのキャンディーだ。
二色のマーブル模様がちょっと毒々しい。
「懐かしいな。この店のお菓子はよく食べてた」
「先生、知ってる店?」
「ん、あぁ。魔法菓子店でな。食べると人狼族、エルフ族のような見た目になれるクッキーや、食べると身体が大きくなったり、小さくなったりするチョコレートなんかが売っている店だ。このキャンディーは食べると髪や目の色が変わるんだったな」
そう言って貰ったキャンディーを口に入れると、程なく蓮水の黒髪は青銀に、紺の瞳は暗緑色に変わった。それだけで印象ががらりと変わる。
倣って栄もキャンディーを舐める。よくあるイチゴ味だ。
ふわりとした奇妙な感覚。前髪を摘んで目線を上げる。色は暗い赤に変わっていた。
「お、眼は金だな」
蓮水が栄の顔を覗き込む。華やかではないが、精悍でいて整然とした彼の顔が近付く。
「――っ!」
変に意識をしてしまった。よろける栄を慌てて蓮水が抱き止める。
「っと危ない、危ない。すまんな、驚かせてしまったか」
「あ、はは。ちょっと見慣れない先生の顔に驚いて」
まぁ、あの店の商品は味よりサプライズを楽しむものだからな、と言って蓮水は笑う。
「おにーさん顔赤いな」
「赤いよね」
双子が意地悪く突っ込む。
「っ、驚いただけだから」
二人と別れて栄は小さく嘆息した。
二人は自分が蓮水に対して特別な感情を抱いているのだと気付いている。
幸い蓮水は尊敬、憧れとして慕われているのだと思っているようだが。
***
蓮水に対して最初に抱いた感情は年上に対する尊敬、憧れみたいなものだった。
それがどうして変わったのかなんて栄自身もよく分からない。
マンガやドラマにある恋愛感情へ変わる明確な境界が栄には無かった。
ひょっとしたら最初に感じた尊敬、憧れの感情が既に恋愛感情だったのかもしれない。
「自覚してはいたけど、第三者から指摘されるとな……」
彼の顔を見るだけで、声を聞くだけで、ふとした時に意識してしまう。
栄は自由行動をしたいと蓮水に伝え、大通りで別れた。
蓮水も絵の具の買い足しをしたいと思っていたらしく「すまんな、助かるよ」と言って画材屋に向かう。助かるのはこちらの方だ。
一時間もあれば気持ちも切り替わるだろう、適当に街をぶらつく事にした。
真っ直ぐ通りを抜けて港に出る。潮の香りと波の音が心地いい。
ぼんやりと海を眺めるだけだったが、気持ちは凪いだ。
時間はまだある。近くには街に繋がるだろう別の道があった。少し遠回りとなるが、時間を潰すにはいいかもしれない。
角にはアイスクリーム屋があり、土産店が幾つか並んでいる。
他にも店が続くかと思っていたのだが、進めば段々と入り組んだ路地になり、バーや空き家が増えてきた。
どうやら先程来た道が本通りで、此方は裏路地らしい。
少し化粧の濃い綺麗なお姉さんが二人、栄の方を見て「君、迷子~?ジュース奢るよ~」なんて声を掛けてきた。
どう返せばいいか分からず会釈して進むと、後ろから「何あれ、可愛い~!」という声が上がる。気恥ずかしい。
本通りに繋がる道は無いだろうか、足を速める。
進めば進む程迷っているような……。
景観からして怪しい路地に出てしまった。転がったゴミ箱の横をすり抜ける猫の目も何だか殺伐としている。
その中で蔦の這うレンガの外壁、金字で店名が書かれた看板が掲げられたお洒落なバーが目に入った。辺りとは一線を引いた佇まいだ。
飴のように艶やかな木製のドアが静かに開く。出てきた客も路地に似合わず整った身形をしていた。
「――おや、君は蓮水先生の……」
店から出てきた青年に声を掛けられた。涼やかな声音。
バーから出てきたのは白に近い銀の髪、紫色の瞳を持つ柔らかな雰囲気の美青年だった。
外見の特徴から人間族ではないと気付く。彼の口から蓮水の名前が出てきた。知り合いだろうか。
栄の姿を見て驚いていた。治安の良くなさそうな裏路地に普通の少年がいたら驚くのは当然か。
「あぁ、失礼。君とは直接の面識がなかったかな。僕はレナート。先生の知人だ。父が画廊を営んでいてね」
柔らかな物腰、知人という言葉に栄は小さな警戒心を解く。
「俺は栄といいます。レナートさん、俺の事知っているんですか?」
「以前、先生の個展で。すれ違いになってしまったけれどね。絵を教えてる少年だと聞いているよ。よかったら今度君の作品も見せてくれるかな?」
「あ、いや、俺は学校の授業の為に見て貰ってるだけです。そんな凄いものでは……」
「おや、君の学校には絵画の授業があるのだね」
この世界の学校には美術という教科はないのだろうか。
「いえ、その絵だけではなくて、造形とかもあって……美術という授業の一環です。それよりレナートさんはどうして此処に?」
「父の仕事の手伝いでこの店のオーナーに絵画を届けに。君は――こういった場所を訪れる風には見えないけれど……」
「その、少し散策しようと思ったら裏路地に出てしまって、はは……」
「あぁ、成る程。この店はそうではないが、此処の通りは少し治安が悪いから気をつけないといけないよ。僕は大通りに戻るけれど、君も一緒に行くかい?」
渡りに船だ。是非と頷く。
「お願いします。大通りの画材店に蓮水先生がいるので」
「じゃあ僕も先生に会っていこうかな」
***
画材屋の店先に着くと丁度いいタイミングで蓮水も店から出てきた。
「栄君……と、君はレナート君か。こんにちは」
「蓮水先生、お久しぶりです。個展で栄君を見掛けた事があったので声を掛けさせて頂きました。迷って裏路地を歩いていたようですね。声を掛けたのが僕で良かった」
その言葉に蓮水が驚く。
「なっ、裏路地って栄君、大丈夫だったか?」
「あ、うん。大丈夫、レナートさんに会うまで特に何も無かったから」
綺麗なお姉さんにはからかわれたが。
「得意先のバーに絵画を届けに行ったのですが、裏路地に居た彼を見た時は驚きました。先生、彼は見目がいい。気を付けてあげて下さい」
「いや、見目ってレナートさんの方が……」
彼の顔を見る。少女マンガに出てくる美男子ってこうだろうか、と思う。
「僕のは種族特有のものだよ。神魔族の」
神魔族といえば魔族の上位種族だ。美しい顔立ちと高い魔力を有すると本で読んだのを思い出す。
この容姿は彼等にとって普通なのだろうか。
「すまなかったな、レナート君。栄君も無事で良かった」
「いえ、栄君も裏路地には気を付けて。――すみません、僕は次の仕事があるので失礼します。また個展の打ち合わせで」
「あ、レナートさん、ありがとうございました」
柔和な笑みでそれに返し、レナートは二人と別れた。
「栄君、すまなかったな……」
改めて蓮水は申し訳ないと栄に言った。短く息を吐く。
「違う、俺が迷って裏路地に入っただけで先生は悪くないから」
この世界での栄の保護者として責任を感じているらしい、蓮水の表情は複雑だ。
「その、まだ日が高くて良かった。君の世界でどうかは知れんがな、ゴロツキ連中の中には欲の為に見目のいい者に目をつける者がいる。男でも女でもな」
できるだけ言葉を選んで栄に伝える。
「――分かった。歩く時は大通りを歩くから」
栄も心配させまいと頷いた。頭にポンと手を置かれる。
「あぁ、そうしてくれ。さて、夕飯の買い物をして帰るか」
「先生、今日は何がいい?」
「そうだな……」