尾羊奇談第一幕いずれの時代でもない
時、心満ちるほどに己の帰るところの物語。
シャカとムウの出会い。
この日、宿泊するつもりの街の手前、1パラサンゲス(約5キロメートル)を切ろうかというところでシャカは足を止めた。
南を向けば、はるか先まで見渡せる水平線。清々しい場にはそぐわない嘆きのこもった音を、人一倍聴覚の鋭い耳が捉えたからだ。
(これは奇妙な音だ。人と獣の隔てがない)
小さな音の方へ、足音を殺して進み始めた。
轍の跡が残る裸道から、どんどん外れていくのも構わずに。
ゆるやかな傾斜をするすると、背の低い若葉の敷物の上を滑るよう。
か弱い音が届くのは、風が穏やかな日なればこそだ。
我さきにと、幼子たちが側を駆け抜けるがごときに風強い日では、耳敏いこの男でも聞き逃していただろう。
道から2スタディオン(約360メートル)も離れていないところには自然にできたらしい段差があって、側には野生化して久しいと判るオリーブの古い幹が天に向かってとぐろを巻いていた。この根本から発せられる音がシャカを誘い込んだのだ。
音色の主を驚かせてはならないと、裏にまわり込んで覗いた先にあったのは、輝くような薄金の後ろ髪。そして異国のなりはこちらに背を向けていた。
盲目のシャカでも獣ではないのを察せられた
そこで、足を使い砂利の音を立てて知らせてやった。
はっと息を飲んだところで音は止み、異国風はおそるおそる振り返った。
「驚かせてすまない、人とも獣ともつかない気配があったのでね」
「いや……あなたは」
澄んだ低音域、声は男のそれだった。二度目に言葉を詰まらせた理由が自分の落ちた瞼にあるだろうこともシャカは気付く。しかしこの手の反応には慣れているから、指で顎を撫でながら問う。
「ふぅむ、声に訛りがない、この土地の方かな?」
「そうとも言えるしそうでないとも。あなたの方は旅人そのものだ」
「うむ。友人に乞われてアテナイまで向かっているところでね」
「あなたの足ではしばらくかかるでしょうに。しかしこの先を西に行けばアテナイ人の建てている街がありますよ。私はそこで食客を……」男は気まずそうに身じろぎして立ち上がった。「よろしければ戻りがてらご案内しましょう」
ところで盲目の御人、下に腰掛けてはいかがですか?と、男はシャカの手を取って、自分が広げていた敷布の上に案内した。この親切にはシャカも微笑んだ。
「旅疲れた身には実にありがたい」感謝の気持ちを伝えるためにこちらも手を添え、ついでに名乗った。
「シャカ?……ヘラス(ギリシャ世界)では一度も聞いたことがない音だ。見た目では私と変わりないが……しかしそれならば、よほど遠くからいらしたのではありませんか?」
「ああ、ずっと東の方でね」
「その身で大した御人だ。ヘラスが誇る古の大詩人のようですね」
「フフフ……私の名が呼びにくいのであれば大詩人の名で呼んでもらって結構だよ」
「発音に慣れるまでの間、お言葉に甘えさせて頂きますよ、ホメロス」
シャカは満足そうに微笑むと、腰帯の一つに革紐を繋いで下げた皮袋を取り出して水を数口飲んだ。
「親切な人よ、あなたの名も聞いておきたいのだが」
「私はムウです。しかしこの名もこのあたりでは勝手が悪い。ですからムーサイオス(※)と名乗っています」
「ほう……なんだ、君こそ大詩人じゃないかね」偶然の成り行きを笑い合った。
後世、大詩人の例えにもなったオリーブの、木陰にこそふさわしい二人の出会いである。
(※)ホメロス以前の伝説的詩人
さて、二人は日の沈まぬ前に街へ向かって歩き出した。聞けば船に乗ってイオニアから島嶼づたいに渡って来たらしいムウは、だが土地勘を備えた者として、シャカの足元に気を払いながらよく先導してやっていた。二人は先ほどからの長閑さを外套にして纏っているのか、沈黙の入る隙を許さず、よく話している。
「ムウ、最初に木陰で聞こえたあれは歌かね?」シャカの国ではムウの持つ名の響きは珍しいものではないようだ。
「ええ、私の国に伝わるものです」被った帽子はフリギュア風を伝えている。
「聞いたことのない、異国の声とも言えない音色、はて……あのとき楽器を奏でてはいなかったはずだが」
「あなたの疑問に答えるのは簡単です。発声方法を変えていたからですよ」
「興味深いな」
「フフ……私の方こそ興味深いものを、今まさに拝見しているところです。盲目であるはずのあなたは杖もつかず歩かれる、まるで見えているかのように。いったいどんな神の仕業なのでしょう?」
「東国の知恵によるものだ。これでも見た目ほど不自由はしていないのだよ」
「では私の手伝いは不要だったのですね」
「いや、一人旅が長くてね。こうして話をしながら歩けるお陰で心は晴れやかだ」
ムウは軽やかな笑い声をたてた。
「あなたは思ったよりずっと気さくな方ですね、ホメロス」
「ほう?」
「初めて見た時は異国の王子のように見えましたから」
「フフフ……もしそれが本当なら、めしいの身でこのような一人旅は、なおさら許されなかっただろうがね」
「それはそれ。身分を偽って、ということはいつの世にもあり得ますから」
ムウはムウでころころと表情の変わる純朴な青年だった。先述のようにシャカは声の調子や息遣いから多くの情報を読み取っている。
このように話の花が咲き止む心配はなく、二人の健脚は難なく丘を越えた。西に開けた視界には、山の斜面を利用して街が平地を目指して広がっているのが見える。ムウが客として滞在していて、シャカの今日の目的としている、アイデスの覚えめでたい土地、そしてへパイストスの膝元と謳われているアンフィポリスだ。鉱山業で栄えており、少し足を伸ばせば大規模な浴場施設もあるため、街は宿場町の役目も兼ねており、湯治を目的にする客でも賑わっていた。シャカにも判るように説明したムウは「もう一息です」と、励ました。
丘を下っていくにつれ、背の高い木が増えて緑が深くなる。丘の手前では一本だった裸道はいくつかに別れた。橋を二つ三つ渡る頃に本道の幅は荷車がすれ違えるほど広くなり、街の手前には小さな農園もある。自分達以外の人や馬のいななき、車輪の転がる音も増えて大きくなってきた。それに伴い、果物、皮革、日用品から家畜まで、匂いも様々に混じって届く。シャカの口元は僅かに上がって楽しげであり、数日ぶりに商の活気を浴びていた。一方、ムウはシャカを左に右に先導して、地方都市にしては新しく、正門代わりに大理石で立派にこしらえてある街の入り口を象徴する大階段を上がっていった。
さて、街に入った旅人たちが最初に行うのは、都市神である壮麗なアスクレピオス神殿やアゴラに備わった神祠に参拝することである(参拝の様子はここでは省く)。その後はおそらく盲目のシャカを気遣ってのことだろう、客引きやアゴラのような喧騒を離れて、閑静な道に入っていく。周囲に静けさが戻ってきてもムウの口数の少なさは戻らないどころか、先ほどまでの快活さを失いつつあった。
やがて二人は街の南端沿いに沿って作られ、山の合間を見下ろせる景観の良い道に出た。街は、東の遠くから北西まで翼を広げたように連なる峰に抱かれている。街の低い方は深い森が覆うために、傾いた日差しが山に遮られる。これまでに通った平地の村落より夜の訪れが早いと肌で感じた盲目のシャカは、冬になればアンフィポリスの夜は寒かろう、と思いを巡らしていた。
と、ここでようやくムウの声。
「ホメロス、もし差し支えなければ私が世話になっている友人に紹介いたしましょう。裕福で良い人柄ですから、すぐに盛大な宴を支度して歓迎されるはずです。食欲があなたの腹太鼓を鳴らしているのならすぐにでも」
「きみの友人は立派なお人のようだ。だが親切な申し出は、気持ちだけ受け取らせてもらうことにしよう。なぜなら、私は酒を従者のように控えさせ宴を楽しみたい。この嗜好がヘラスにおいて常識外れなのを知っているし、それゆえ周囲を興醒めさせてしまうだろうからね。」これまで何度も使ってきた、慣れた断り文句だ。「……ところでムウよ、きみの今の様子は一体どうしたことだろう?」
「いえ……フフフ」ふう、とムウはため息をつく。シャカの話に気分を害したのではない、むしろ。「あなたは目の見える私たちより聡い方だ。実は、このように誘っておきながら、私も宴や祭りの類がからきし苦手なのです」苦手の深刻さはシャカと比べるまでもないのだ。
「それは客として打ち明け難く、辛い境遇だ」心根の良い青年に翳の入った様子は見る人の同情を誘う。シャカは慰めるように背中を優しく叩いてやった。彼から人に触れることは本来珍しい。ムウはそれにありがとう、と言う代わりに首を垂れた。
「大丈夫です、友人は私のこれについて理解をしてくれますので。ただ、やはり宴の様子を思い出すと気が遠のいてくる……」ムウは呼吸も浅く、片手をこめかみに添えて青ざめている。過去に宴の席で親でも害されたのだろうか。シャカは内心驚きながら「話はいいから少し休まれよ」とムウを気遣った。人通りの殆どない路地裏、二人は側にある背の低い石垣に腰を下ろすことにして、シャカは自分の荷の柔らかい部分を枕代わりに、ムウを横たわらせた。
「驚いたな、まるで病人のようになってしまった」というシャカに、弱々しい笑みを向けたままムウは瞼を閉じた。
「もしあなたに、これほど苦手な存在が一つもなければ、それは大きな幸運ですよ」
休息を促し、会話を止めさせるためにムウの額にはシャカの掌が当てられた。
「どれ、きみにはもう一つ東国の奇跡を見せよう」
大袈裟に言うなり、シャカは旅装の皮袋から取り出した香草を、掌と額との間に挟んで温めた。少し待つと額から鼻腔に、柔らかさと刺激の混じった東方の香りが届く。それに気づいたムウは、自分に取り憑いた悩みまで追い払ってくれそうだと思い、素直に芳香に身を任せた。香りを聞く際、人は大人しくなるものだ。
シャカの術は確かに効果を見せた。少しの時間で回復したムウは、すっかり暗くなって酒を楽しむ人々で賑わうアゴラの端にある、気の利いた食い物屋に案内した。気の利いた、と記したのは、この食い物屋が宿屋も営んでおり、主人とは顔見知りのムウがそれにも融通を効かしたからである。翌日は日の高いうちに街案内をする約束をして、ムウとシャカは鶏肉の旨いこの店で食の欲を満たしたのち、一旦この店で別れた。
もっとも、シャカの興味は街よりもムウにあった。数刻共にした程度で数年来の仲に思えるような魅力と、謎めいた憂いを持った友。しかし数刻の付き合い以上のものはなく、相手の素性はほとんど知らない。故郷を離れた長い旅の間、異なる文化の地で泉のように興味の湧く相手が現れることに、シャカは新たな楽しみを見出していた。
宿の主人もムウほどの丁寧さはないものの、気が利いてあれこれと世話を焼く。客から鉢巻きと綽名されていたこの主人からアンフィポリスと宿についての話を少しばかり聞いた後に、用意された部屋へ通された。荷ほどきを始めた頃には、ムウが保証する宿なら、割符を使って泊まるつもりだった公共宿は保留しようと考えるようになった。鉢巻きにも秘密がありそうなのが一層興味をそそった。
だが夜は深まっている。することもなくなったシャカは身を横にして夜明けの鳥の知らせを待った。
「一階の奥間?なぜ彼に上の部屋を与えないのですか?」
「それがあの方の希望だったからですよ。ムーサイオス、あのお客は私らと何ら変わりゃしないみたいですよ。盲目ってやつは本当なんでしょうかね。おまけに鶏みたいに早起きだ」
「これは早とちりをするところでした。あなた方に面倒をかけることにならなければいいのですが」
「なに、二日酔いの泊まり客よりずっといいですよ。それ以外ならあちらさんは猫みたいに大人しいし勝手にやってくれるんですからね」
パスタス(廊下)の向こうで、自分のことらしい話がなされている。シャカはすでに起きていて身支度を済ませていたし、朝日を浴びに外の通りに出てもいたのだ。声の主は自分を訪ねに来たようだからと、寝椅子から身を起こさずに待った。本来客間ではなかった狭い部屋は、だが精一杯客を迎える設えがされている。広すぎない部屋は、シャカにとっては心地が良いものなのだ。自分についての話はすでに止んでいて、きびきびとしているのが判る足運びの音が部屋口の衝立の裏側で止まった。
「シ、ホメロス、起きていと聞いています。失礼しますよ」
「やあ、ムウ。構わないから入りたまえ」
昨日とは違う、ギリシア風の布を豊かに垂らした長衣でムウは姿を現した。もっともシャカにこの手の情報は、衣擦れや空気の流れ方でしか届けられないのだが。ちょうど伝わる距離で、ムウの声がやや頭上からふった。
「身支度は住んでいるようですね。急ぎの旅でなければ、今日は私に付き合えませんか?」
「呼ばれたと言っても至急ではないのでね、構わないよ」
「それは良かった!今日にでも発ってしまわれるのではないかと心配で、昨夜は寝付けなかったのです。どういうわけかシッ、ホメロスとは初めて会った気がしない親しみを感じているのですよ。あなたが迷惑でなければ、この街に滞在している間は私に面倒を見させてもらえないでしょうか?」
「それは奇遇だね。一期一会と言うが、きみのような親切な友人を持てたらこの旅のいい思い出にもなるだろうと、私の方でも考えていたのだよ」
「よし決まりだ。ホメロスとなら乾杯したって気分もいいものだろうね」
ムウは嬉しそうに、明るいうちに自分が通っている湯治場に案内すると言ってきた。おそらく昨夜の眠れぬ時間は、シャカをこの街に留める言い訳を編み出すのに費やされたのだろう。
ムウはシャカを連れていくことを伝えついでに、「それからこれは今日分です」と鉢巻きになにやら放り投げた。
こうして合流していくらも経たないうちに二人は鉢巻き亭を出た。