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    しおり
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    暗恋稲妻の宿泊先でぐうぐう寝ていた空は、突然夢に出てきた鍾離の姿に驚いていた。すぐさま噂の仙法を使われているのだと理解したが、神の座から降り自称凡人になった者がそう簡単に夢枕に立ってて良いのだろうか。
    「旅人、洞天で数日面倒を見てもらいたい者がいるのだが、頼んでもいいだろうか?」
    まるでたまたま目の前にいたからというような気軽さで頼まれたが、わざわざ稲妻にいる自分に仙法まで使って声をかけてきたのだ。しかも洞天で、と指定までされた。余程手がかかる相手か、それともあまり人前に出せない相手か、と鍾離が依頼してきそうな人物で心当たりを脳内で探してみる。
    「もしかして魈?」
    「察しがいいな、その通りだ。お前の洞天内は穢れがない。このまま璃月で静養させるよりも、業障に侵されている身体に負担がかからないだろう」
    夢の中であるというのにちくりと胸が痛む。もしも自分の洞天という選択肢がなければ、鍾離が自ら傷ついた彼の面倒をみたのだろうか。
    「……うん。分かった、いいよ。今魈はどこにいるの?」
    「お前なら了承してくれるだろうと踏んで、先に向かわせている」
    頼んだぞ、と念を押す声を最後に鍾離の気配が遠ざかっていくのを感じた。悪夢からエスケープする時のように強制的に意識を起こして瞼を持ち上げる。パイモンが小さないびきをかきながら眠っているのが暗闇の中でも分かった。何の書き置きもなく洞天に入っていたら心配させてしまうだろうが、この深夜の暗闇の中では何をするにも音や光で起こしてしまうかもしれない。朝になった頃に一度戻って事情を説明しよう、と決めて空は洞天の中に入る。

    真っ先に目に入ったのはマルにもたれ掛かるようにして、しゃがみ込んでいる魈の姿だった。顔色は真っ青で苦痛を耐えるように歯を食いしばっている彼は、めずらしく肩で呼吸をしていてかなり苦しそうだ。
    「魈! なんで中に入ってないの!」
    そんな彼の元に駆け出すと同時に声をかける。静寂な空気を裂くような声に顔を上げた魈は焦点が合わないのか虚な目で空の顔を見つめている。肩を貸して彼を抱き起こそうとすると、触れられるのを嫌がるそぶりを見せた。少しの刺激でも激痛に感じてしまうのかもしれない。とはいえ自分一人では動けなさそうな魈をこのままにはしておけず、体格こそ近いものの、筋力の差から空には彼を抱き上げて部屋に持ち運ぶこともできないため、自分で歩いてもらうほかない。
    「……お前……がいない、から……」
    「好きに使っていいよって俺いつも言ってるじゃん!」
    か細い掠れた声を絞り出すように答える姿が痛ましい。喘ぎ声を必死に噛み殺しながら一歩一歩踏み出しているのが伝わってくる。空が以前彼にあてがった部屋は出入り口より少し奥まった北側の奥部屋だ。北側では一部屋しかないそこは独りでいることに慣れている彼が他人の気配で気を遣うことが少ないだろうと考えたためだったが、この状態の彼を歩かせるには少し遠いと感じる。空は逡巡の後、逆側の自分の部屋に彼を誘導することにした。そこならベッドが二つ並んでいるため、付きっきりで看病もしやすい。

    ベッドに転がした魈から勝手に装飾品の類を剥ぎ取っていく。本当はもっとゆったりとした衣服に着替えさせたいが、今は仕方がない。出来る限り簡素な格好にさせた彼に柔らかいブランケットを被せて退室し扉を閉めると、部屋で一人きりになれたことで気が緩んだのか、苦痛に呻く声が漏れ聞こえた。
    ちくり、と再び胸が痛む。魈はいつだってそうだ。彼のために用意した部屋も、何度羽休めに好きに使っていいと言っても空が呼ばない限り洞天にすら入ってこない。どことなくいつも彼は空に遠慮がちだった。助けたいのに苦しむ姿を無理して隠そうとされるとどうしたら良いのかわからない。求められればいくらだって手を貸すのに、と空は斜め向かいの厨房で鍾離から以前貰った魈への薬を煎じながら大きなため息をつく。ぐつぐつと煮えていく水を眺めていると、ぐるぐると不満がお腹に溜まって嫌な気分になっていく。答えは簡単だ。空は魈にとって遠慮なく何でも甘えていいと思える存在になりたいからだ。唯一無二の存在になりたい。端的に言うと恋愛感情を抱いていた。しかし現実と理想がかけ離れている。どれだけ空が関わりを持とうと努力しても無口で控えめですぐさま立ち去ってしまう魈の姿に、一向に仲良くなれたと自信が持てなかった。それでも望舒旅館のオーナー曰く、自分は一番懐かれているらしい。
    (でも魈が一番好きなのは鍾離先生だろ……)
    鍾離のことは自分だって好きだ。博識なのにちょっと凡人の常識が抜けていて、一緒にいて面白いと思うと同時に尊敬もしている。大切な知人だ。けれども魈のことが絡むといつも胸の奥がちくちく痛み、不快感で胸がいっぱいになってその度に自己嫌悪してしまう。
    以前普段の鍾離が何をしているのか魈に聞かれたことがある。普段あまり感情を見せることのない彼が上ずった声でまごまごしながら質問してくる姿に、空はその時はっきりと彼に対して抱いていた感情を自覚した。今まで見たことのなかった態度に、聞いたことのなかった声色に、それらを向けられるのであろう鍾離に羨ましさと、自分には向けられない悲しさでぐちゃぐちゃになった記憶はそう古くないものだ。ただの嫉妬だと分かってはいるが、吐き出し口がどこにもなかった。むう、と尖らせていた唇に気付いて、暗い思考を振り払うようにぶんぶんと頭を左右に振る。
    向かいの部屋で魈は今も苦しんでいる。しかしながら苦痛を和らげるために空が出来ることは実のところ何もない。ただ彼に必要な穢れのないこの場所が自分の持ち物だったというだけ。
    「……先生が魈の面倒みた方が良かったよ、絶対」
    ここは好きに使っていいからさ、きっと魈もその方が喜ぶでしょ、と誰に聞かせるわけでもない独り言が溢れる。溜まった感情の行き場のなさに空はもう一度大きなため息をついた。

    部屋に戻ると魈は少しも休めていないようで、毛布の中で苦痛を訴える身体をもぞもぞ動かして楽な位置を探しているようだった。
    「枕の高さとか変えてみようか?」
    声をかけるとびくりと体を震わせた魈はぎこちなく首を回して空を見る。
    「いや……いい」
    小さく首を振って断られ、そのまま空の持つ盆の上の湯気立つ杯に視線が動いたのがよくわかった。
    「鍾離先生がくれた薬だよ。飲めそう?」
    何度か魈自身にも渡しているものだからか、すぐに察しがついたのだろう。翳った表情に飲みたくないのだな、と空も気付いた。何を原材料にしているのか分からないそれは煎じてる最中から独特な臭いを発している。魈の気持ちも分からないわけではないが、それで痛苦が収まるのならば少しでも飲んでほしい。
    「ひと口だけでもいいからさ」
    「……分かった」
    盆をベッドサイドテーブルに一旦置いて身体を起こすのを手伝うと、座るにも凭れるものが欲しかったのだろう、そのままくたりと空の胸元になだれこんできた身体をとっさに抱き止めた。触れ合った肌は普段よりもずっと熱く彼が発熱していたことを知る。さっきまでは何も感じなかったので、横になって緊張を解いたら悪化し始めたのかもしれない。氷嚢を準備して、もし寒がるようなら暖炉に火を入れよう、と次の段取りを考えながら熱い湯呑みに腕をのばす。
    「まだ熱いから気をつけて」
    「ん……」
    空の助けを借りながら杯の中の湯を流し込んでいく魈の姿を見ていると、風邪をひいた幼い蛍の看病をした記憶を思い出す。当時自分もそれなりに幼かったはずだが、苦しむ妹をなんとかしてやりたくて泣いて嫌がられるほど構った覚えがある。
    飲み終わったと言わんばかりに、ぐいっと杯を押し付けられて腕の中に収まった魈の顔を覗き込むと、茹でた蛸のように真っ赤になっていた。
    「魈顔真っ赤だよ! 熱あがっちゃったかな」
    今氷嚢作ってくるね、と声をかけながらぐったりとした身体をそっと横たわらせる。なぜか慌てた様子の魈に声をかけられたが、後で聞くと残して空は厨房へと戻った。

    ❇︎

    これは夢だ、とすぐに気付いた。骨と皮ばかりの子供が同じく窶れて動けない母を守ろうと短い腕を広げて眼前に立っており、己の手にはいつもの槍纓が握られている。夢だと気付いているからこそ、この後の自分が何をするのかはっきりと分かっていた。当時と同じく強い力に導かれ意志とは関係なく動き出した腕を、魈には止められない。しかし子供は恐ることなくその場から一歩たりとも動かずに母を守り続け、死してなおぎらぎらと力強く魈を睨みつける。その瞳に残り続けるのは憎悪であった。このままでは憎悪に呑まれてしまう。もうやめてくれと叫び出しそうになったその時、突然冷たい物を押し当てられたことに驚いて悪夢から脱出することができた。
    「わっ! ごめん、起こしちゃった?」
    空の手には丸い何かを包んだ布が握られていた。冷気が伝わってくるそれには霧氷花でも入ってるのだろうと予想をつける。もう一枚布を巻いたほうが良いかな、と独り言を漏らしながら彼はそばの棚の中を物色し始めた。
    「空……それで構わない」
    だから寄越せと横になったまま腕を伸ばす。魈の声に空は逡巡の後、手の上にひんやりとしたそれを置いた。布ごしに伝わってくる冷たさが現実に戻ってきたと実感させてくれる。ぎゅっと抱き寄せて、深く呼吸をしていると乱れていた鼓動も次第に落ち着いていった。どのくらいの時間悪夢を見ていたのか分からないが、鍾離からの薬が身体に回り始めたのか、骨肉を蝕む激痛が多少和らいでいるような気がする。ふと隣からの視線が気になって、一瞥すると空が穏やかな笑みを湛えながらこちらを見つめていた。その優しい眼差しにぶわっと胸の中に熱いものが押し寄せて慌てて視線を外すと、ゆっくりと伸びてきた手が魈の顔にかかっている横髪をこめかみの方へ撫で付けてきて再び心臓がどくりと脈打つ。
    「寝てる間は顔色悪かったけど、起きたらちょっと良くなったみたい」
    起きたついでに食事は取れそうかと尋ねられ小さく首を縦に振ると、嬉しそうに口角を上げた彼は魈の頭をくしゃくしゃと撫でてから部屋を出て行った。とくとく高鳴っている心臓の音がうるさく、触れられた頬からこめかみのあたりがじわじわと熱くなっていく。抱きしめていた包みを押し当てて火照った顔を冷やし、ほう、と息を吐く。いつからか、空と共に時間を過ごしていると平常を保てなくなった。彼の些細な言動や行動で、この身体はすぐに心臓を跳ねさせるし熱を帯びてしまう。ながく生きてきたが己のこのような反応は初めてで、最初の頃は業障の影響が深刻になったのかと心配して、恥を忍んで夜中に鍾離の元へ駆け込んだこともあった。頭髪の手入れをして眠りに就く前だったのであろう彼は、興奮冷めやらぬ様子の魈の話をうんうんと聞いて一言、それはただ好意を抱いているだけではないかと告げたのだ。好意。2000年以上殺戮の世界に生きてきた自分が、人の子に。仙人や仙獣の中には時折人間と結ばれる者がいることを魈も知っていた。恋に落ちて、子を成し、寿命の異なる者と添い遂げる。自分もその恋なるものに落ちてしまったのだろうか。岩王帝君として同じような相談を何度も受けてきた鍾離は慣れた様子で困惑してその場で固まっている魈に、自分の心に従いなさいと助言をくれたのだった。

    「魈〜、甘いお粥としょっぱいお粥どっちがいい?」
    回想に耽っていると、扉がわずかに開いて外から空の声が聞こえてくる。彼のことだから魈の舌の好みに合わせて薄く優しい味付けに仕上げるであろうことは想像に容易い。どちらでも良いと答えたら困らせてしまうだろうか。言葉を選んでいると、不審に思われたのか空が扉の隙間からちらりと顔を覗かせるので、早く答えなければ焦った魈はしどろもどろになりながら答える。
    「う……お、お前の好みで……いい」
    声は尻すぼみになったが、ちゃんと伝わったらしい。なら甘いのにするね、と微笑んだ空はまた廊下の先へ消えていく。彼の温かい思いやりに触れると、魈自身も胸の内が暖まるのを感じる。しかしそれを手放しで享受できない懸念事項があった。空に看病してもらうというこの状況を作り出した心身を侵す業障のことだ。周囲へ影響を及ぼすほど魈の身体には魔神戦争で倒れた者たちの怨嗟が溜まっている。今は何もないといって今後も影響を受けない保証にはならない。それを思うと魈は名残り惜しく感じつつも空の元を離れる他なかった。そのため平時は彼の眼前からすぐに去るようにしていたが、今のこの状況は逃げ場がない。この洞天で療養したいと鍾離に言ったのは魈自身だ。とはいえこの地に満ちる彼の気に包まれていたかっただけで、まさか本人から甲斐甲斐しく世話を焼かれるとは思ってもいなかった。治ったと言って早くこの場を離れるべきだ。同時に多くの人から好かれる彼と何からも邪魔されることなく共に過ごせるという貴重な機会を手放すのはあまりにも惜しく、離れがたい。葛藤を抱え頭を悩ませた魈は無意識にたぐり寄せた毛布からほんのりと空の匂いがすることに気付き、驚いた拍子にうっかり放り投げてしまうのだった。

    ❇︎

    粟とさつまいも、そして棗を少しの黒糖で煮込みつつ、もう片方のかまどで薬も煎じている空は眠っている魈がずっと魘されていることが気にかかっていた。彼はおそらく気付いていないだろうが、薬を飲ませてから一晩は経っている。あの後、氷嚢を準備して戻ると魈は既に意識を失っていた。心身を休める良い機会だと思い、空は一度パイモンの所へ戻り事情を説明した後に自分も少し仮眠をとった。起きてから様子を見に行くと、相変わらず寝ているものの、青ざめた顔色の魈は呻き声を漏らしていた。悪夢を見ているのだろうかと思い、しばらくその背をさすったりしてみたものの効果はなく、自分の無力さに打ちひしがれながら冷たさを失っていた氷嚢を取り替えたその時、ようやく彼は目を覚ましたのだった。意識があっても激痛に襲われ、眠りについても悪夢に苛まれては休まらないだろう。なにかリラックスできるものはないかと思考を巡らせるが、娯楽に興じない魈はどういうものを好むのか見当もつかない。彼のことを知っているようで何も知らないのだ、と改めて実感する。
    「……お香とかどうかな」
    考え事をしていると独り言が漏れる。そういえば以前鍾離から小さな香炉と香りのする粉末を貰った。贈られたというよりも選んでもらったものを空自ら購入したというのが正しい。璃月の様々な文化に触れてもらいたいという気持ちからか、鍾離は空を伴って戯曲に工芸品、料理から香道まであらゆる伝統を体験させることが多々ある。その国独特の文化や作法に触れることは空にとっても得難い経験だった。手に入れたものの放置してしまったので、焚いたことはないがやり方の流れは覚えている。魈が嫌がらなければ良い機会かもしれない、と考えたところで空は鍋を火から上げた。

    煎じ薬と粥を盆に載せて、声かけと共に扉を開くとそこには離れた床に落ちたブランケットを拾おうと腕を伸ばす魈がいた。普段の降魔に赴く姿からは想像も出来なかった姿だ。一体なにをしたらブランケットがこんな所に落ちるのか、と想像して笑みをこぼしながら、片手で拾い上げて魈の膝上に被せる。
    「ご飯の前に先に薬飲んじゃおうか」
    昨日と同じように盆ごとベッドサイドテーブルに置いていると、魈は自分から身体を起こしていた。随分回復したようだと思ったのも束の間、背筋を伸ばしてはいるが無理をしているのかよく見るとぷるぷる震えているので、隣に腰掛けて抱き寄せる。
    「俺に凭れかかって大丈夫だよ」
    親切心からだったが、相当驚かせてしまったようで腕の中でびくりと身体を震わせヒュッと息の漏れる音が聞こえた。
    「だ、大丈夫だ……き……気持ちだけ受け取っておく」
    案の定、魈にやんわりと拒否されて空は明るい態度と共にそっと離れたが、内心は自責の念で胸がいっぱいだった。薬を飲み干した杯と粥の入った器を交換したり、スプーンを手渡したりと食事の補助をしている間、先程の考えなしの行動を後悔していた。誰でも親しくない者に突然抱き寄せられたら普通は嫌悪するだろう。それが俗世を遠ざけ孤独に身を置く魈ならば尚更。もし目の前に本人がいなければ、後悔のあまり涙を滲ませている所だ。

    「……ら、……空!」
    強めの声色で名を呼ばれて、顔を上げると魈が困惑した表情でこちらを見つめていた。
    「な、なに?」
    「お前こそどうした、顔色が良くない」
    疲れているのか、と続けられ慌てて首を横に振るが信じていない瞳をしている。望ましくない展開になりそうだ、と予感めいたものを感じ取った。
    「……迷惑ならば我は明朝にでもここを立つ。明日になれば幾分か身体も動かせる」
    「迷惑だと思ってもいないし、ちゃんと休んでいいよ」
    現時点でぎこちない動きしかできない彼がたった一晩で回復できるとは思えない。暗い表情をしていた自分に気遣った申し出だとすぐに気付いたが、しかし魈も簡単に引き下がるつもりがないらしい。帰る休めの応酬を何度も繰り返して、とてもじゃないがリラックスしてもらおうと香の話を持ちかける雰囲気では無くなってしまった。言い合いをしたい訳ではない。ただ魈には気を遣わずにしっかりと休んでほしいだけだった。けれどもその気持ちを理解してもらえない、あるいは理解はしていても受け入れてもらえないことにちくちくと胸が痛みを訴える。妥協点も見つからないまま言い合いに疲れた空が折れて、明日まだ万全とは言えないまま魈は洞天を去ることとなった。気まずさの残る微妙な空気に耐えられなくなり、器たちを下げる名目で空は魈を残して部屋を出る。独りになると悲しさが込み上げてきてとうとう視界が滲んだ。

    現実はいつだってうまくいかないものだ。この世でたった1人の家族との再会が叶わないのも、テイワットで唯一の好きだと思えた人と仲良く過ごせないのも、全部。はぁ、と重たいため息をこぼした空は二階に作った図書室に引きこもっていた。とはいえ本を読みたくて足を運んだ訳ではなく、魈と顔を合わせられなくて絶対に来ないであろう場所へ逃げ込んだだけだった。魈ともっと仲良くなりたい。自分の抱く好きは、きっと友達としての好きとは形が違うけれども、ただの友人でいいから親しくなりたい。そう願ってやまないのに、どうして上手く交流ができないのか。口論になってしまったことにも後悔して、再びため息を吐いた。
    「折角二人っきりだったのにな……」
    机に突っ伏したまま空は外を眺めるとまだ日は高く、陽光が窓から差し込んでいる。眩しさすら感じて目を細めた。普段最低限の会話や用事を済ませるとその場を去ってしまう魈がこの場にいてくれる貴重な機会。会話などなく、ただ世話を焼くだけでも良い。彼がそばに居る、それだけで嬉しい時間を失ってしまった。何食わぬ顔をして部屋に戻っても良いが、もとよりこの事態は魈が空を気遣った結果だ。同じ部屋に自分がいたら、休むものも休めなくなってしまうかもしれないと思うとやはり戻れない。日が沈むまでの数時間をここで独り潰していよう、と空は手近にある本に腕を伸ばした。


    ❇︎

    魈は珍しく焦っていた。いつも笑顔を絶やさない空が虚な瞳で暗い表情をしていたのをひと目見た時、恐れていた事態かもしれないと襲ってきた不安で心がざわついた。このように長い時間彼と共に過ごしたことはこれまでなく、とうとう業障の悪影響が彼にも出始めたのだと直感した。彼の安全を考えると今すぐにでもこの場を去りたかったが、思うように身体が動かない。未だ引き攣るように身体中が痛むが、明日にはなんとしてでも彼から離れなければならないという一心で意地を張ってしまった。空の思いは痛いほどに伝わってきたが、休むとしてもここではいけない。望舒旅館でも絶雲の間でもどこでも構わない、これまでのようにどこか静かな木陰で休むだけだ。
    望舒旅館で倒れるまで無理をした覚えはなかった、とここに来る前のことを思い出す。旅館を運営する人間たちが自分のことを遠巻きに気に掛けていることは知っていた。彼らは倒れた魈の姿を見るなり慌てる事なく直ぐにどこかへ連絡するのを意識が遠くなりつつも見たのを覚えている。次に目を覚ますと見知らぬ天井と心配そうに眉尻を下げた甘雨、そして部屋の奥には連理鎮心散を調合する鍾離の姿があった。心身をちゃんと休ませた方がいいと甘雨に叱られ、暫くの間しっかり服用するようにと鍾離からは薬を渡された。平時、魈自身に渡されるものはすぐに飲むことができる粉末状だったがその時渡されたものは、何かあった時のために、と旅人が持たされたものと同じ湯薬だった。小半時ほど煮出した汁を飲むそれは、水が沸く時間も煮出す時間も待つことを面倒だと感じる魈とはそりが合わない。しかし効果は散薬よりも高く、液体であるから吸収率が良いことは知っており、それほどまでに今の状態は良くないのだと言外に伝えられた。鍾離と甘雨が交代で魈が落ち着ける場所で様子をみようと会話しているのが聞こえて、脳裏に浮かんだのは穢れのない清浄な空気と空の温かい気に満ちた彼の洞天だった。鍾離と甘雨の手を煩わせたくはない。そのうえ、妹を探す旅路の途中の空は、整えてはあるものの洞天に篭ることはあまりないことを本人の口から聞いていた。あそこならば独りでひっそりと休むことができるかもしれない。それに彼の気に触れていれば心も休まるだろう、そう思ったのだ。それが仇となってしまった。最早この身は凡人にとって毒を撒き散らす物でしかないのだと思うと気分が沈む。身体を起こしてただ背筋を伸ばしているだけでも疲労を感じるが、それまで目を向ける余裕もなかった部屋の内装を気晴らしに見回してみる。魈が今使っているベッドは壁側に隙間なくふたつ並んでおり、右隣、つまり奥側に位置するそれは使われた形跡がない。妹のために用意したものなのだろうと察しがついた。ひとつしかない衣装棚は共に使うのだろうか。家族団欒のための部屋を自分が穢しているようにも思えて、ますます魈は肩身の狭い思いをした。

    大気を震わせるような激しい怒声を頭上から浴びせられて、まだ若かった魈はぶるぶると身を竦めた。ここには一個の命としての尊厳もなにもなく、魈はただ道具でしかなかった。これも夢だ、と魈は夢の中の自分を客観的にみていた。無知だった仙獣はかつて弱点を突かれ邪悪な魔神に使役させられていた。魔神に楯突く者は子供でも女でも誰でも殺した。望もうとも望まざろうとも強い力によってどちらにしろ槍纓は振るわれたからだ。当初は恐ろしくて泣いた夜もあった。いつか寝首を掻いてやろうと怒りに震えた夜もあった。しかし段々と心が擦り減って、次第に何も考えられなくなっていった。朝目が覚めて今日が怒られない日であれば良いと願い、傷付き痩せ細った自身の身体を抱きながら明日が誰のことも殺さない日であれば良いと願って瞼を閉じる。そんな生活を繰り返しているうちに、感情の発露ほど危険性の高いものはないと気が付いた。感情を露わにすれば相手がどのような反応を起こすか分からない。同じように使役させられた仲間たちがそれによって何度も消えていくのを目の当たりにして学習したことは、暴力には終わりがある。相手が飽きるか、自分が力尽きるかのどちらか、ということだ。怒りでも恐怖でも感情を発露すれば相手は興にのってしまう。だからただ静かに時間が過ぎるのを待てば、自然と相手も飽きていく。そんな賢い魈であっても、いっとう恐ろしいことがある。身体を否応無しに暴かれる罰だけは泣き叫ぶほど嫌いであった。折れそうなほど細い魈の腕を魔神の大きな手が力強く握り締め、夢の中の魈はただそれだけで歯の根が合わないほど身体を震わせている。無理矢理部屋の奥に連れ去られ、抵抗すると腹を殴られた。呼吸と共に動きが止まった瞬間、それまで客観的にみていた視点が主観にすり替わる。半ば叩きつけられるように床に押し倒され、布切れとそう大差ない衣服を捲られると、この後に襲いかかる苦痛への恐怖に魈は悲鳴を上げた。

    「……ッ!」
    瞼を持ち上げるとそこは暗闇だった。とはいえ、部屋の灯りこそ消えているものの、窓からは月明かりが差し込んでいて完全な闇ではない。びっしょりと汗をかいており、呼吸は全力疾走したかのように荒かった。どうやら悪夢から逃れることができたらしい。魈は深呼吸して昂った心身を鎮めるよう努める。あまり物音を立てると隣で眠る空を起こしてしまうかもしれない、と右側へ寝返りを打つと隣の寝台で眠る彼の背中が見えた。呼吸は耳をそば立てないと聞こえないほど小さい。まるでいないかのようだ、と考えついた途端に心細さを感じた。無意識に彼に手を伸ばし指先が肩口に触れそうになったところで躊躇う。彼に触れたい。温かさを感じたい。すぐに離れるなら許されるだろうか、と意を決してその規則正しく起伏する背に触れてみる。手のひらからじんわりと伝わってくる体温にほっと息をついた。もう少しだけ、と魈は身体をずり動かして温かい背に頬を寄せる。日中、驚く原因となった彼の匂いも今は安心する材料となって、肺を満たすと激しく乱れていた脈も次第と落ち着いていき、魈はうっとりと瞼を閉じた。

    ❇︎

    空はその晩眠れずにいた。夕方、頃合いを見計らって顔を出し、落ち着いた彼の様子に少し安心して夕食を共にした。この部屋にはベッドが二つ、自分と蛍の分として並べてある。魈が今使用している方が本来自分のベッドなのだが、そのことを彼には告げずに蛍用を使用しようと決めて、食後早々に二人揃って横になった。しかし眠りに就いた魈が相変わらず悪夢に魘されているのが気になって、とてもではないが眠れなかった。寝ている間に何か起きたらと思うと気が気でなく、横になってじっと夜が明けるのを待っていた。ただ、あまりじろじろと苦しむ姿を見つめているのも悪いと思って背を向けていると、突然身じろぐ音と共に下ろしていた髪の毛をかき分けて背中に触れられる感触がして心臓が飛び跳ねた。それだけでも口から心臓が飛び出すのではないかと驚いたというのに、あまつさえ更に密着してくるので、空は声が漏れそうになるのを必死に噛み殺した。いつのまに起きたのだろう、なぜ自分の背中に縋り付いてきたのだろう。ぐるぐると疑問が浮かぶが、沸騰している脳は何も考えられない。はぁ、と衣服越しに感じた湿っぽい吐息にくすぐったさも相まって小さく震え上がった。

    一体どのぐらいの時間が経ったのか。数分かもしれないし、数十分かもしれない。当初はぐりぐりと押し付けられる感触があったが、次第に落ち着いたのかぴったりと密着したまま、穏やかな深い呼吸の音だけが聞こえるようになる。蛍と離れ離れになってからというもの、誰かと添い寝をしたのは初めてだ。久しぶりに他人の体温を感じながら横になっていることに気付き、懐かしさと寂しさそして安心感で鼻の奥がツン、と痛んだ。眠ったのだろうかと思って振り返ろうとした途端に彼は慌てて離れようとするので、思わず待ってと声をかける。自分でも気付かないうちに声は湿っぽく震えていた
    「もう少しだけ、そうしていてよ」
    振り向いてしまったらきっと彼は、空が頬を濡らしていることに気付くだろう。涙声の時点で察したかもしれない。魈は何も言わずに再び空の背中に寄り添う。おそるおそる腰元に回された腕はとてもあたたかかった。

    いつのまにか眠っていたようだ。窓から見える大空が白み始めている。寝返りを打つと、目の前には安らかな表情ですやすやと眠る魈がいた。夜中は自分のブランケットから抜け出て空に寄り添ってくれたらしい。剥き出しの肩が寒そうに見えたので、彼を抱き寄せて自分が使っていた毛布に共に包まる。寝ている身体をしっかりと動かしてしまったが、熟睡しているのか起きる気配がない。それまで空が見てきたのは青白い顔色で、冷や汗をかきながら魘される姿ばかりだったため、ようやく悪夢を見ずに眠れているようで安心した。だが、彼が目を覚ませば二人でこうして並んで眠る時間も終わってしまうことを惜しく思う。本当にあっという間だった。もっと有意義過ごせたかもしれないと後悔している点は多々あるが、それでも二人きりで過ごせた貴重な時間だった。それに昨晩は我儘もきいてくれた。こうして触れ合うことも出来た。やっぱり魈のことが好きだと再認識するが、彼が空のことをどう思っているのか分からない。本人に尋ねる勇気もない。目覚めた彼が昨日のようにひどく驚いてしまったら気の毒だと考え直して、身体を離しブランケットを彼だけが使えるように掛け直していると、眉間に皺を寄せながら身じろいだ魈が目を覚ます。
    「おはよう、魈」
    「……おはよう」
    挨拶を返しながらぱちぱちと瞬きをし、自分の状態を認識したらしい。ぐっすりと眠れたことに驚いている様子だった。
    悪夢を見ずに済んでよかったと微笑みかけると、視線を彷徨わせた魈は逡巡の後に口を開く。
    「お前のそばは心地が良いからな」
    口の端にわずかに笑みすら浮かべた彼の穏やかな表情を見て、すぐさま嬉しいと思ったがしかし同時にぎゅうっと引き絞られるように胸が痛んだ。
    「……じゃあ、どうしていつも俺のこと受け入れない態度をとるの」
    ギョッと驚いたのは魈だけでなく声に出した空も一緒であった。こんな恨めがましい言葉を吐くつもりはなかった。魈と一緒にいると心嬉しい。けれども、いつもちくちくと胸が痛んでいた。魈には魈の考えがあることを分かっている。分かっているが、受け取ってもらえない好意を打ち捨てるたびに空は傷付いていた。誘いも提案も何度断られたことだろう。好みではなかった、都合がつかなかった、気が乗らなかった。空は断られる度に理由を想像した。想像して、勝手に傷付いた。迷惑だったのかもしれないと後悔と不安を抱えながら、へらへらと笑顔を見せていただけだった。それでも空が勝手に傷付いていただけのことだ。魈を責める理由にはならないと頭で分かっていても、感情が高ぶって泣いてしまいそうだ。
    「……顔、洗ってくるね。魈も帰る準備しなきゃ」
    身体を起こしてそそくさと部屋を出た空に、魈がどんな表情をしていたのかを見る余裕などなかった。戸を閉め、大股で廊下を歩き、屋敷を出る頃には最早小走りとなっていた。
    今の発言は自分が完全に悪い。嫌われても仕方ない。もう駄目だ。マイナスの考えしか思い浮かばなくなってしまった空は、屋敷の前に流れる川の水でばしゃばしゃと顔を洗い流し気分転換を図るが、冷静になるとますます後悔の念が大きくなるだけだった。
    「や、やっちゃった……」

    ❇︎

    伸ばした指先は彼に届かなかった。無視されたのだと気付いて、衝撃のあまり頭の奥が痺れて思考が停止する。くらりと視界が揺れ、業障の影響ではない心臓のざわつき方に魈は戸惑った。それを不安感と言うが、彼は他者との繋がりによって得られるものには良い感情もあれば悪い感情もあると知らなかった。どうすれば良いのかとようやく思い至り、ふと鍾離の自分の心に従えという助言を思い出し合点した。空を傷つけさせまいと思っていた行いで、知らず知らずのうちに傷付けていた。もし、業障のことなど何も気にせずに、彼の好意を受け取っていたら彼と笑い合えることができたのだろうか。とんとん、と戸を叩く音に肩が跳ねる。空が戻ってきてしまった。
    「魈、あー……えっと、入っても大丈夫?」
    まだ彼と顔を合わせる心の準備ができておらず返事を躊躇っていると、そっと扉が開く音と共に眉を八の字にして罰が悪そうな表情の空が入ってくる。かける言葉が思い浮かばないまま目があってしまった。しかし彼は魈を一眼見るなり血相を変えて駆け寄って、矢継ぎ早に身体を気遣う言葉をかける。寝台に座り込んだまま動けずにいた魈は自分の状況を把握していなかった。
    「顔真っ青……寒くない?」
    両の手指を取られあたたかい手で摩られ、初めて血の気が引いていることに気付いた。しかし空の真摯な対応に先程は無視されたわけではないのだと込み上げてきた安心感からか、痺れていた頭にも血が巡っていくのを感じた。気持ちを伝えたいという思いだけが先走って、取られた手指で彼の手を握りしめ、はくはくと唇を動かすが、上手く言葉が出てこない。しかしそんな魈の様子に空も察したのだろう、魈の掌の拘束を抜けると、身を屈めて抱き締めた。
    「……さっきは嫌なこと言ってごめん」
    空の震えた声に魈も胸が痛んだ。想いを伝えるにはどのような言葉が適切なのか慎重に選んでいる表情を覗き込んだ空も、言葉を急かすようなことはせず辛抱強く魈が口を開くのを待った。やがて謝る必要などない、自分こそ好意を無下にしてすまなかったと切り出す魈の言葉を空は頷きながら静かに聴いた。
    「お前が向けてくれる親切を迷惑だと思ったことは一度もない。ただ……」
    抱擁を解かれ、いつの間にか寝台に腰掛けていた空と正面から向き合う。夜叉としてだけではい、魈個人としてでも護りたいと願う大切な存在の姿を目にすると、心のままに行動しようと思った先程の決心が揺らいでしまった。安全を取るべきだと、常日頃つきまとう不安から本心とは違う言葉を紡いでしまう。
    「……我はお前と共に居るべきではない。業障に侵されるこの身は凡人には毒と変わらない。長く過ごせばお前にも影響を及ぼすだろう。だから……」
    「魈がそんな悲しそうな顔をしながら俺を遠ざけようする方がよっぽど嫌だな」
    本当はどうしたいのかと尋ねられて、ますます魈は言葉を詰まらせたがどうしたいか、など愚問だ。答えはとうにわかっている。
    「……お前と一層共に過ごせたら……良い、と思う」
    言葉にすると気恥ずかしくなって視線を彼から逸らすが、逃さないと言わんばかりに手を柔らかく握られた。仕方なくちらりと表情を一瞥すると空は頬を蒸気させて笑みを浮かべている。この洞天で世話になってから初めて見る彼の満面の笑顔にじんわりと胸があたたかくなった。彼はいつでも穏やかな表情を浮かべていた。けれども嬉しそうな表情をしたことは一度も無かったのだと振り返ってみて思う。自分の言葉や態度で相手が喜びを示してくれた以上に嬉しいことはない。
    「業障のことなら大丈夫。俺は穢されないし、もし堕ちそうになったとしても魈がどうにかしてくれるんでしょ?」
    「……あぁ」
    小さく頷きながら返事をすると、ずいっと顔を寄せられてより恥ずかしさが増す。じんじんと身体の中を血が沸き巡っていくのを感じた。頬だけじゃない、全身が熱い。握られた手もどんどん熱が上がって、じっとりと汗ばんでいる。
    「なら、これからはもっとたくさん話そう? 俺、もっと魈と一緒にいたい。魈のこともっと知りたい」
    耳まで赤らめて、まるで幼子のような屈託のない笑みを浮かべる空が可愛い。けれどもきっと魈自身も真っ赤な顔をしているのだろう。二人して赤らんだ顔を突き合わせているのだと思うと可笑しくなって、魈も珍しく微笑を返した。

    ❇︎

    凛とした後ろ姿に名を呼びかける。振り向いた彼はすっかり回復したようで顔色が良い。
    洞天で看病した日から数週間後、空は璃月の土を踏んでいた。璃月港に着くなりすぐさま向かったのは望舒旅館の最上階だった。確かに別れ際に会いにいくから待っていてと言葉を残したが、まさか本当に待っていてくれるとは思わなかった。嬉しさに自然と笑みが溢れてしまう。
    「何を喜んでいる?」
    「魈が居てくれたから」
    へへへ、と抑えられなかった声を漏らすと照れてしまったのか魈はほんのり唇をへの字にして押し黙ってしまった。
    「魈はもうご飯食べた?」
    ゆるく首を横に振った彼に、それならばと昼食に誘う。朝から何も食べずに稲妻から船に揺られて来たからいい加減空腹も限界だったのだ。パイモンも数時間前からぎゅるぎゅると盛大に腹の虫を鳴かせていたので、たとえ断られたとしても、自分達だけで食事を取るつもりではいた。しかし何も答えずに踵を返して階段を降りようとする魈の姿に、まさか嫌な想いをさせてしまったのかと空は慌てて追いかける。
    「し、魈! どこ行くの?」
    「……昼食をとるのだろう?」
    お前が言い出したんだろう、とでも言いたげな目つきに驚く。当然のように言笑のいる厨房に降りていく魈と、雛鳥のようにそれについていく空の姿を見たヴェル・ゴレットや淮安だけでなく注文を受けた言笑までもが驚いた表情をした。
    好きに注文しろと言わんばかりに言笑の隣に立って無言で促した魈自身は何も頼まず、パイモンが真っ先に主菜から副菜まであれこれと料理名を挙げる。空はそれに時折自分の分として一皿増やすように付け加えるだけだった。
    「あ、最後に杏仁豆腐をひとつ」
    「分かった。すぐに作るから待っていろ。そこで食うのか?」
    階段下の小さなスペースを顎で示した言笑は、きっと独りに慣れている魈に気遣ったのだろう。空も当然魈と共に過ごすならば人目のないところで、と考えていたが誰よりも先にそれまで無言だった魈が口開く。
    「いや、外の広場にいる」
    「お、……おう。じゃあ……出来次第持っていくから好きな席で座っているといい」
    まさか話しかけられると思っていなかったのだろう。しどろもどろに答える言笑に返事はせずに魈はすたすたと歩き始めてしまうので、空は言笑に会釈で返して彼の後を追った。
    外の広場には昼時というのもあいまってそこそこ席が埋まっていた。賑やかな雰囲気に、魈は本当にここで良いのだろうかと心配になって空の方が落ち着かない。パイモンですら珍しいこともあるんだな、と耳打ちして来たほどだ。椅子に腰掛けた当の本人はぼんやりと景色を眺めている。結局なにも話題を切り出せずに料理が運ばれて来てしまった。
    「いただきまーす!」
    肉を頬張るパイモンは幸せそうだ。モラミートにかぶりつきながらテーブルの上を見回すと、魈のためにと思って注文をした杏仁豆腐がまだ来ていないことに気付いた。自分達だけ食べて彼はただそれを眺めているだけでは食事に誘った意味がない。何か彼が好みそうなものはあるだろうかと運ばれた料理から探す。
    「……美味いか?」
    「えっ? う、うん。美味しいよ。魈も食べる?」
    突然話しかけられ動揺したまま、手の中のそれを半分に割って彼の返事も聞かずに手渡してしまった。とはいえ拒否せずに受け取った魈はすんすんと匂いを確かめた後にひと口齧った。むぐむぐと咀嚼のために動いている頬がまるで齧歯類みたいで目が離せなくなる。
    「おい空〜、肉をそんなにこぼしたら勿体無いぞ!」
    パイモンの咎める声に我にかえると、マントウの隙間から中の肉がこぼれ落ちてテーブルやズボンの上に転がっていた。行儀は良くないがパイモンの言う通り肉が勿体無いので拾い食いをしていると、魈も苦笑混じりの吐息を漏らしているのが聞こえて恥ずかしくなる。見惚れていたなんて言えるはずもない。
    「珍しいな。三人で昼食か」
    聞こえて来た落ち着いた低い声にびくりと身体を震わせて一番早く反応したのは魈だったが、言葉を発するのはパイモンの方が早かった。
    「鍾離ー! こんなところで会うなんて珍しいな!」
    ぶんぶんとフォークを持ったまま手を振るパイモンを危険なので宥めていると、魈は食べていたモラミートをその場に残して鍾離へと駆け寄って行くのを視認してしまった。邪魔されたような気持ちになって会話をする二人を見たくないのに、気になって見てしまう。鍾離との距離はそう遠くないので会話もはっきり聞こえてきた。魈がすっかり回復したことを確認した鍾離は小包を手渡している。見覚えのあるその包みの中身が彼の薬だと気付いた。会いにいくならばと時折頼まれて魈に渡し、空自身も有事の際に使ってくれと持たされたものだ。
    「あの、鍾離様……」
    「どうした?」
    魈は逡巡の後、伸び上がってまで鍾離に耳打ちをしている。そんなに聞かれたくない話題なのか、と悪い想像をしてすっかり悄気ているとやがて戻ってきた魈と入れ違いにパイモンが鍾離の元へと飛んでいってしまった。活力をなくした空を一目見て首を傾げた魈の恐る恐る伸ばした指先が空の金糸に触れる。さらさらと髪の毛をいじられて、視線だけ動かすとすぐに紅で縁取られた金眼とかち合う。
    「今……鍾離先生と何の話をしてたの?」
    「先日の件に謝辞を述べただけだ」
    そんなことで拗ねているのかと尋ねられて、すぐさま拗ねてないと返したが子供みたいな返事だと自覚していた。面白くないものは面白くない。ただ今までと違うのはその事を笑って誤魔化すのではなく、ちゃんと伝えるようにした。
    「あの方とお前とでは比べものにならない」
    「……分かってる」
    後から知った事だったが、鍾離が仙法を使ってまで空に魈の看病を依頼したのは彼の心遣いだった。独りでもちゃんと療養するか心配であったのだろう。魈には内緒で自分は呼ばれていたらしい。結果的にその機会のおかげでわだかまりが解け、良好な関係を築くことが出来たので感謝している。
    「それに……このように触れたいと思うのはお前だけだ」
    頭を撫でられて、その優しい手つきに彼の愛情深さを感じ取って嬉しくなってしまう。あの後、お互いに気を遣いすぎることをやめようと約束した。結果、業障の影響について気にしなくなった魈は素直で、言葉も行動もストレートに好意を伝えてくる。そのくせ空の方からアプローチをかけるとすぐに照れて真っ赤になるのが可愛かった。そう、例えば今頭を撫でている手を取って、ゆっくりと手指を絡める。たったそれだけで視線を彷徨わせて頬が紅潮していく。
    「俺もだよ」
    まだ二人の関係は始まったばかりだ。
    紗紅緋 Link Message Mute
    2022/05/30 12:30:55

    暗恋

    両片想いしていた空魈話です。
    魈の過去を含め全てが捏造。 #gnsnBL #空魈

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    • 海誓山盟マルチしようとしたら過去の仙人と出会う話。謎設定と魈の過去捏造しかありません

      何が出てきても大丈夫な方のみお進みください。
      #gnsnBL #空魈
      紗紅緋
    • 碧悟4後ろ向きな空と前向きな魈の話
      *ありとあらゆる台詞、キャラクターストーリーへのネタバレ配慮をしていません。
      *プレイ時中国語音声なので、声や細かい言い回しなどはそちらをイメージしてます。間章で感情大爆発させるCN魈はいいぞ
      *作業用BGM:周深『大鱼』の影響を若干受けています
      #gnsnBL #空魈
      紗紅緋
    • 結婚する空魈6/30の朝、唐突に結婚する自CPがみたいと思ったので書いたら精神が健康になりました。
      現パロです。
      #gnsnBL #空魈
      紗紅緋
    • 結婚する空魈2数年後にちゃんとプロポーズする自cp。1万文字ある蛇足みたいなものです。

      #gnsnBL #空魈

      追記:
      先日、ようやく溺愛の続きもアップしました。興味のある方はフィルターを一般からR18に切り換えてご閲覧ください。
      紗紅緋
    • 耽溺キスする空魈が書きたかったです。2ページ目は蛇足です #gnsnBL #空魈紗紅緋
    • 碧悟2空がひたすら鬱々している話。少し女々しいかも。

      *ありとあらゆる台詞、キャラクターストーリーへのネタバレ配慮をしていません。
      *プレイ時中国語音声なので、声などはそちらをイメージしてます。kinsenはいいぞ #gnsnBL #空魈
      紗紅緋
    • 碧悟1魈の精神革命の話。ただひたすら魈の精神描写ばかりです。

      *ありとあらゆる台詞、キャラクターストーリーへのネタバレ配慮をしていません。
      *プレイ時中国語音声なので、声などはそちらをイメージしてます。kinsenはいいぞ
      *イメソン:邱振哲『太陽』の影響しかないです #gnsnBL #空魈
      紗紅緋
    • 寂寞ほぼパイモンと魈の旅人看病記。受けでも攻めでも嘔吐してる姿はかわいい #gnsnBL #空魈紗紅緋
    • 碧悟3隣で自分の道を歩む人が出来て、見える世界が変わった魈の話
      *ありとあらゆる台詞、キャラクターストーリーへのネタバレ配慮をしていません。
      *プレイ時中国語音声なので、声や細かい言い回しなどはそちらをイメージしてます。kinsenはいいぞ
      *作業用BGM:任然『飞鸟和蝉』の影響を若干受けています
      6/13追記:2.7で判明した情報と整合性を取るために一部修正しました
      #gnsnBL #空魈
      紗紅緋
    • 年末のご挨拶本年はTwitterでの活動を辞めたり、pixivからこちらへ移動したりと精神的に慌ただしい一年でしたが、皆様のお言葉の温かさに救われました。本当にありがとうございました。今後も空魈を書き続けていきたいと思います。良いお年をお迎えくださいませ!

      また、1/8に神の叡智7に参加しますが、全48種ランダム配布予定の無配ハガキの図柄にご希望のものがございましたら取り置きいたします。(※新刊2冊も勿論取り置きいたします)
      無配は余れば通販にも回しますが、その際は匿名配送となってしまいますので個人の特定ができません。もしも通販予定の方で、この図柄が欲しい!というご希望がありましたらハガキのみ別途送付もいたしますのでご連絡いただければと存じます。来年もどうぞよろしくお願いいたします。
      紗紅緋
    • 日久生情 サンプル契約恋人のはずがマジ惚れしていく話

      1/8開催 神の叡智7にて頒布しました
      (B6/184頁/価格1,000円/R-18)

      ※サンプル部分は冒頭ではありません
      ※バージョン1.3から2.7に至るまでのあらゆるイベントネタが詰まっています
      ※実際はタイトル部分は箔押しとなります
      ※通販はFOLIOを利用しています。どうぞよろしくお願いします
      https://www.b2-online.jp/folio/13072300003/001/
      ※成人指定してあります。表示されない場合はユーザー情報で表示するにチェックする必要があります。


      #gnsnBL #空魈
      紗紅緋
    • 夢で見た人を好きになっちゃうタイプの空くん内容はタイトルのままです。キスから始まっちゃう自cp可愛いなと思って書きたいところだけ書いたので短いです。

      書いてる途中に例のキャラpvが来てしまって、本家(?)の彼はこんなにも苦しんでいるのに、私の書く仙人はなんでいつも旅人メロメロ真君なんだと数日間絶望していましたが、海灯祭イベント見てたらメロメロ真君もあり得なくはないと気を持ち直したので公開です。エピローグが楽しみです。
      追加:エピローグ前にとんでもpv来ちゃって泣いた

      #空魈 #gnsnBL
      紗紅緋
    • 夢の番人 サンプル未来の結末の話

      1/8開催 神の叡智7にて頒布しました
      (B6/44頁/価格600円/全年齢)

      ※キャラクターの死の捏造があります
      ※バッドエンドではありませんが、ハッピーエンドでもありませんので、苦手な方はご注意ください
      ※ フォントの都合上、左綴じ横書きの本となっております。
      ※通販はFOLIOを利用しています。どうぞよろしくお願いします
      https://www.b2-online.jp/folio/13072300003/001/

      #gnsnBL #空魈
      紗紅緋
    • 1/8無配遅くなりましたが、1/8神ノ叡智7ではどうもありがとうございました!通販の方もちょこちょこご注文いただけて大変嬉しく思います。
      無配の方を公開いたします。フォロワーさんからいただいた設定の仙人で書いています。自分だけが気付いちゃったあの子の秘密とか可愛いですよね。
      今年はもう一回イベント参加できたら良いなって思います。今後ともよろしくお願いいたします。
      #空魈 #gnsnBL
      紗紅緋
    • お知らせ1/8開催の神の叡智7に空魈で参加することにしました。取り急ぎご連絡まで。
      スメールめっちゃ楽しい
      紗紅緋
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