リヒター物語少女の村のほど近く、大きな屋敷に住む若者は、まるで夏の日差しのような快活な笑みを絶やさぬ青年であった。
生まれながらに尊い身分であるはずの彼は、だが、時折少女の住む村に姿を見せては気さくに村人に話しかけるのだった。
その若者は何か特別な役割を担った英雄の末裔なのだと、少女の両親は彼女に聞かせた。気さくな方でいらっしゃるけれど、本来私達が話をできるような方ではないのだよ。
少女は未だ若者に声をかけられたことは無かったが、他の村人と話す彼の姿を偶然にも見かけた事がある。逞しく凛々しい、蒼い瞳の若者の姿を目に止めた時、少女の胸の奥が大きく弾んだ。
その夜彼女は眠ることができなかった。なんとかして眠ろうと瞳を閉じるたび、蒼い瞳の若者がその澄んだ眼で彼女を見つめ、笑うのだ。まるで晴れ渡った夏の空のように、快活に……
……それから月日は流れ、少女は蒼い瞳の若者の微笑みを胸に秘めたままに幼馴染の村の男と結ばれ、やがて彼女は母親になった。母となった彼女は日々の生活に追われるようになり、ずっと胸に秘めていた蒼い瞳の面影も、晴れ渡った夏空のような微笑みも、いつしか心から消え失せようとしていた。
ある年の冬の事だった。凍てつくような寒さに震えながら子供の手を引き、家路を急ぐ彼女がふと顔を上げると、道の脇にまばらに生えた木々の向こうに物影が見える。目を凝らしてみれば、それはこの村に全く似つかわしくない豪奢な馬車だった。
領主が見回りにでも来たのだろうかと思ったが従者の姿も見えず、御者台の男は何かをはばかるように周囲を見回しており、落ち着きがない。
よく見れば御者の男の他に、馬車の傍らに佇むもう一人の影が見える。彼女は思わず子の手を引いたままに痩せた木影に身を隠し、怪訝そうな顔の子供の耳元で静かにするようにと囁いた。
木影から僅かに顔を出して馬車を見やると、傍に佇む人影がまだ若い男だと言うことがわかる。豪奢な服を身にまとった気品のある男だったが、彼の顔を見た彼女は思わず息を呑んだ。
男は貴人に相応しい身なりこそしていたが、その肌にも、肩にかかる程の髪にも若者らしい艶は無く、遠くを見つめる虚ろな蒼い瞳に光は無かった。だが、彼女にはわかった。わかってしまった。彼は彼女がまだ少女であった時に仄かな想いを抱いていた、まるで夏の日差しのような笑みを見せていたあの若者なのだと。
木影で身を固くし、言葉を失った彼女に気がつくことはなく、蒼い瞳の男は御者に促されて馬車に乗った。ゆっくりと、まるで人目をはばかるかのように馬車が動き出したその時も、その男は窓から暮れなずんでゆく村を眺めていた……
その夜彼女は眠ることができなかった。遠い昔、まだ何も知らぬ少女だった自分を思い出し、逞しく若々しく、夏の日差しのように笑っていた彼を思い出して。
なんとかして眠ろうと瞳を閉じるたび、あの頃のままの蒼い瞳の若者が彼女を見つめて笑うのだ。まるで晴れ渡った夏の空のように、快活に……
その後、彼女が彼の姿を見ることは二度と無かった。
村近くに佇む大きな屋敷の門は固く閉ざされ、彼女の生ある間に開くことは無かった。
fin.