【宗凛】Blind brilliant きらきらしていて、真っ直ぐで。
信じてしまえば一直線。
居てもたっても居られなくて、どこにでも飛んでいく。
羽より軽く、鳥より高く。
俺はずっと、それを見ていた。
ずっと、見ているだけだった。
***
『やっぱ七瀬はすげぇよ! 勝てなかった! ぜんっぜん、勝てなかった!』
目の前の凛が一瞬幼い小学生の姿に見えて、宗介は思わず目を瞬いた。
「――おい、聞いてっか? 宗介」
「ぉ、おう…、悪い」
「ンだよ、話し甲斐のない奴だなぁ~」
「悪かったって。で?」
「だから、そん時ハルに――…」
凛はよく喋る。人は歳が上がるにつれて言葉が重たくなるものだ。しかし、こと七瀬遙と水泳のことになると彼は饒舌になった。
初夏の昼下がり、初めて入ったカフェの微睡。凛の渡豪には何かと手続きが要るらしく、今でも時々弾丸帰国してくる。その機会を狙ってよく二人で会っていた。凛のほうは岩鳶の面々にも顔をだしているらしいが、宗介は彼らにはほとんど会っていなかった。
実は前回の別れから二週間も経っていない。小学生の頃の二週間はとても長かった。大事な大会に向けてのラスト二週間は、毎日が本当に長くて、満ちていて、溢れていた。今思えば大した大会でもないのに、最強のラスボスに見えていたのだ。あんなにも長く熱かった二週間が、今となっては昨日も同然だ。あまりにも感慨が無さすぎて、積もる話なんて何もない。ただ一方的に凛が楽しく喋り、宗介は頬杖を突きながら笑ってみているだけの、そんな昼下がりだった。
「――にしても、凛はほんとハルのこと好きだなぁ」
「はぁ? ンなんじゃねーよ、俺はハルに勝たなきゃなんねぇの! でないと次にハルと並べねぇだろ?」
「あー。この前、お前負けたもんなぁ。何秒差だっけ?」
「秒もついてねーよ、コンマだコンマ!」
「へいへい。で、次はいつなんだ?」
「2週間後だ!」
「ふぅん…すぐだな」
「お前も来いよな、ほら、あそこだ。高校ン時全国大会やったとこ。ここから近いだろ?」
「あぁあそこか。別にいいけど、おまえもハルも練習してんだろ。行ってどうすんだよ」
「連れないこと言うなよ。俺がハルを負かすところ、しっかり見届けろよ! 部長命令だ!」
「今の部長はアイだろ」
「はーっ、ハル、次どんななってっかなぁ~~!」
凛は国籍が変わったわけではないので、日本人のままだ。日本人として標準記録をマークしなければ、次のステージへ進めない。だから、凛はチャンスがあれば七瀬遙と同じ大会を狙って調整をかけていた。
七瀬遙と松岡凛が揃って出場する大会にはレコードが着いてくる。
そんな噂が事実として広まり始めたのも最近のことだ。
外へ飛び出していったはずの凛と遙は、相変わらず大会で顔を合わせれば、挑発しあい、勝負になり、決着をつける。そこに繰り広げられているのは、いつかに見た光景と何も変わらない。世界は意外と狭いものだなと、凛と遙を見る度に宗介は思っていた。
何勝何敗かなんて細かい数字は宗介には浸透していなかったが、遙のことを語る凛はきらきらしていて眩しくて、本当に楽しそうだった。凛にとって遙は特別な存在で、彼を遥か高い場所へ連れて行ってくれる風のような存在なのだ。
水泳が二人を引き合わせた。
そして、水泳が二人を繋いでいる。
凛の一番大切な物が、遙との絆を護っている。
自分たちの納得したものだけを信じて、すっと佇む二人の姿は本当によく似ていた。
一体、神様は彼らをどこへ連れて行こうとしているのだろう。
泳いで、泳いで、泳いだその先は選ばれた者しか見ることができない。
凛のきらきらとした眼差しに映る世界はもう夢物語でもなんでもない。確実に来る未来しか、そこには映っていないのだ。
今の凛に見えているのは、遙と、未来。
凛のは視界は広くて、立派で、そして、遠かった。
「…やっぱ、敵わねーのかな…」
宗介はストローを噛みながら口の中だけで呟いた。
「ん? なんか言ったか?」
「いや」
「?」
氷で薄めて値段を吊り上げられた、ただのコーラ。体裁ばかりが美しい輝きをかき回すと、凛の赤い光がふわりと影を作った。
「そろそろ出ようぜ! 喋るのも飽きただろ?」
「飽きたのはお前だろ。俺はほとんど喋ってねーよ」
凛は、にしし、と笑った。やはり小学生だ。
仲の良い親友同士が暇を持て余して街をめぐる。どこにでもある珍しくもなんともない光景だ。けれども、一方は世界を股にかけるスーパーアスリート。そこには明確な違いがある。最近、凛を見ると眩しくて仕方がない。それは、日差しの強くなった季節のせいか。宗介は思わず目を細めた。
***
手持無沙汰な凛と宗介が立ち寄ったのは遙の通う大学だった。
「おーやってるやってる!」
中には入れないが、洒落たデザインのガラス窓の向こうでは水泳選手が連なって泳いでいるのが見えた。湿気で曇ってしまってよく分からなかったが、あの中に遙が居るのだろう。この様子ではこちらの姿も向こうからは見えないに違いない。
「今ハルどのへんかな」
「曇っててよく見えねぇよ」
「違う違う、体重。調整入ったんだとよ。この前、食うのが辛いってボヤいてた」
「あぁ…。あいつ小食そうだしな」
「魚じゃエネルギー切れ起こすって、何度も言ってんのに、全然やめようとしないんだぜ?」
「ふぅん」
よく見えない遙を見つめて、宗介はうつむいた。
「よーし、んじゃ、帰るか!」
「会ってかねぇのか?」
てっきり遙に会いに来たのだとばかり思っていた宗介は、凛の軽やかな帰宅宣言に驚いた。しかし、凛は当然のように笑った。
「おう。ハルとは大会で会おうって言ってあるからな!」
それがプライベートで会わない理由になっていないことくらい、宗介は分かっていた。しかし、さっさとプールを後にする凛についていくことしかできない。颯爽と歩く凛は、堂々としていて、やる気に満ちていた。遙が頑張っているという事実が、彼の魂に火をつけたのだろう。本当なら今すぐにでも泳ぎたいに違いない。
宗介は、少し低い位置にある凛の横顔をそっと見つめた。
「なぁ凛」
「ん?」
「今、楽しいか?」
凛は振り向き様にぎざぎざの歯を見せて元気に笑った。
「おう!」
凛の柔らかい髪が綺麗に風に吹かれた。
古い賃貸マンションの扉が、がこん、と派手な音を立てた。
「ただいまー」
「おまえんちじゃねぇだろ」
今回、凛が参加する大会会場が近場だと知り、宗介は自室を利用すれば良いと申し出た。ホテル代だって馬鹿にならないのだからと。
凛はブーツを脱ぎ捨てて、ずかずかとひとつしかない部屋へ乗り込んでいった。
大股で3歩もしないうちに玄関とキッチンは終わり、黒いシーツのベッドが目立つだけの空間にたどり着く。しんと静まり返った誰も居ない部屋。最低限の勉強机と申し訳程度の本棚。ベッドは起き抜けのままでスウェットは脱ぎ散らかしたまま。鮫柄の寮に居た頃と変わらないなと、笑われてしまいそうだ。
開けっ放しのカーテンの向こうに紫色の帯雲が棚引いている。部屋は薄青に染まっていて、物は見えるけれどそろそろ明かりが必要な頃合いだ。
凛は部屋の前で佇んでいた。
「どうした?」
部屋に入ろうとしない凛に声をかけると、彼は振り向き様に笑った。
「いや、宗介の部屋だな、って思ってさ」
ぎゅっと心臓が掴まれるような心地だった。
何故、そんなことをしてしまったのか、宗介にもよく分からなかった。
宗介はそっと凛の胸元に腕を回し、全身で彼を包み込んだ。そして、その大きな掌で凛の視界を覆ってしまった。
「宗介?」
手が熱い。
「どうした…?」
笑っているような、戸惑っているような柔らかい声色で問いかけられたが、返事ができなかった。凛の顔は冷たく、自分の熱ばかりを感じる。凛は宥めるように腕をさすってきた。
「宗介」
「………」
緩めることのできない腕。凛は逃げるでもなく、ただじっと待ってくれていた。覆われた目元に熱が移り、凛の体はだんだん熱くなっていくが、心音は静かなまま。
やがて、宗介はそっと拘束を解いた。
「……悪ぃ…変なこと、した…」
ぱちんと照明をつけると、まるで何事も無かったかのように部屋はすっと白んだ。
夕食も終え、シャワーも済ませた凛はテレビもつけずに宗介のベッドに転がっていた。宗介はシャワーを浴びている。本当なら、一時の居候らしくコーヒーでも淹れてやるべき所だったが、なんとなく面倒になり宗介の寝床を占拠することに専念していた。
白む天井をじっと見つめ、そっと掌で目元を覆う。熱く、昏く、血の流れる音がする。当たり前だが、何も見えない。
嗚呼、これでは宗介も見えなくなってしまう。
そんな当たり前のことが、ぱらりと凛の胸に落ちた。
やがて、宗介が戻ってきた。ふわりと石鹸の香りが部屋に広がる。
「凛、寝たのか?」
「ん」
「何やってんだ?」
「目、閉じてる」
「……おう…?」
宗介は転がる凛の横に腰を下ろした。右肩が少し沈んだのを感じて、そこに宗介が居ることを認識する。宗介は何も言わないが、ベッドが小刻みに揺れているので、タオルで髪を拭いているのは分かった。
「凛、寝んのか?」
「寝る」
「明日は?」
「6時。競技場集合」
「早いな」
「ここからは?」
「遠くねぇよ。俺も明日はでかけっから」
他愛ない会話。それでも、目を塞ぐことで宗介の声がよく響く。ぽつりぽつりとかえってくる宗介の独特の話し方を全身で感じることができた。不思議なことに、見えなければ見えないほど、宗介が見える気がするのだ。
塞いだ目のすぐ横がぐっと沈み込むのを感じた。目元に影が落ちた気がして、同時に熱が近付いたのが分かった。
「凛」
声が予想以上に近く、凛はそっと手を外した。
「もちょい、端に寄れ」
宗介が凛を囲うように手をついていた。体を重ねる直前のようなぎらついた気配は無いけれど、宗介の眼差しは強かった。凛はふと思い当たって、宗介の頬に手を伸ばした。
「宗介。俺、ここに居るから」
「……」
「目の前に、ちゃんと居るから」
宗介は添えられた手を見るように視線を逸らした。
「何の…話だ」
「ちゃんと、俺を見てろよ」
「……」
宗介は眉をしかめて凛の手を掴むと頬から外させた。背を向けて座り直し、ぽつりとつぶやいた。
「見てる。むしろ、お前たちのことしか見えてねぇ」
「ホントに? ホントにちゃんと見てるか?」
凛は宗介ににじり寄り、肩越しに宗介を覗き込んだ。なぁなぁ、と体を押し付け、まるで小学生の頃のような行動をわざと取った。心持が少し和らいだのか、宗介は笑ってくれそうな眼差しを向けてくれた。
そのまま額を大きな手で覆われ、シーツに押し倒された。
「うおぅ」
冗談交じりの悲鳴をわざと上げて、共にシーツに沈む。すぐに照明が消された。
「さっさと寝んぞ。寝坊しても起こさねぇからな」
「宗介は起きれねーだろ」
「うるせー」
けたけたと笑う凛に毛布を掛け、宗介はそのまま眠りの体勢に入った。
凛はぼうっと天井を見上げた。カーテンの隙間から街灯の明かりが漏れてくる。遮光カーテンではないので、部屋全体は暗くならず、薄く青く光っていた。さーっと流れてくる音の正体は風か、換気扇か。凛は、この空間に、この時間に、一人だけ置いて行かれてしまったような気がした。昔はいつだって一人だった。父を亡くしてからは、自分で考え、自分で悩み、自分で解決しようとして、やがて転んだ。
上ばかりを見て、遙ばかりを見てきた。だから転んだ。
けれど、立ち上がったときには、もう一人じゃなかった。
凛はとうに気づいていた。宗介が時折見せる眩しい物を観るような眼差しも、少し引いた寂しそうな声色も。だんだんと透明になっていく宗介を観ているのは少し寂しい。だから、わざと水泳のことをたくさん喋った。水泳の世界が、こんなにも魅力的で、素晴らしい所なのだと、宗介にもっともっと伝えたかった。
でも――。
なぁ宗介。そんなに遠くで、俺を観るなよ。
凛はそろりと宗介を見やった。短く刈り上げた後ろ髪に、ふっくらした耳たぶ。まだ宗介の寝息は聞こえてこないけれど、起きているのか、寝ているのか、それさえ分からない。
凛はゆっくりと起き上がった。
凛の思いをぶつけることはできない。伝えたのは一度だけ。伝えるべきかどうか、ずっと悩んで、たった一度だけ。言ってしまった。
――待っている、と。
宗介。
宗介がどんな選択をしたって、宗介が時間をかけて考えたことなのだから、それが正解に決まってる。自分の思いを押し付けることはできない。
でも、宗介がどこに居たって、俺はここに居るから。
『宗介、俺、ちゃんとここに居るだろ?』
言葉にしたのか、心で呟いたのか、凛は額を宗介の耳に擦り付けながら囁いた。
「凛、寝るぞって言っただろ」
もぞりと頭を向けた宗介は困ったように眉をしかめた。
「宗介」
凛は宗介に乗り上げるように、横から手をついた。
「こっち向いて寝ろよ。鼻つまんで遊ぶから」
宗介は苦笑した。
「何寂しくなってンだよ…」
「は、ちげーよ……」
寂しがってるのはお前の方だろ、と口ごもるも、はっきりとは言葉にできず、拗ねたような仕草になってしまった。
もぞりと向きを変えてくれた宗介に包まれるように、凛は宗介の腕の中におさまった。暑い夏の夜だが、まだ残るクーラーの冷気の中で、宗介の熱い腕は心地好い。ずっとこうしていたらそのうちに汗だくになって離れてしまうのだろうけれど。
「宗介」
「ん?」
凛は目の前の宗介の胸板にそっと手を添えた。凛に向き合うその体は勇壮で猛々しい。豪快で柔軟に波立つあのしなやかさを根幹から支える恵まれた身体。もともと筋肉の付きにくい体質だった凛は、実のところ宗介や真琴が羨ましかった。凛の場合、鍛え続けてやっと手に入れた肉体もちょっとしたことで変化してしまう。それなのに、水泳から離れても宗介はいまだにこの立派な身体を保ったままだ。
羨ましさと少しの嫉妬、そして心からの尊敬を込めて、凛は宗介に触れた。
「凛、くすぐったい」
「ん」
指で耳の裏から頬をなぞり、首筋を降りて鎖骨を辿る。肩、二の腕から、胸元へ。筋肉ひとつひとつの感触を確かめるように、凛はゆっくりと、慈しむように触れていった。しかし、ちょうど心臓の上あたり、胸筋のもっとも広い場所を押さえたとき、ふと疑問が過った。
「!」
凛はがばりと宗介に抱きついた。先ほどの慈しむような色気に似た雰囲気などそっちのけで、ぺたぺた、ぺたぺた、と首筋、背中、脇腹をひたすら確かめる。
「宗介、なぁ宗介、おまえ…!」
宗介は何も答えずに、困ったように笑った。
凛はただ驚いた。
宗介の筋肉が、柔らかかったのだ。
まるで、水泳選手のように。
「宗っ…んむ」
まだ何も答えられない。凛に言葉を紡がせなかったことが宗介の返事だった。
息も継がせない、声も聞かない。お互いに飲み込まれてしまいそうな、競うような口づけが続いた。先に音を上げたのはどちらだったか。唇を離してからも肩で大きく息をし合っていた。
「宗介、俺、撤回しないからな。あの日、お前に言ったこと、撤回しない」
一瞬苦しそうに眼差しを下げ、宗介はゆっくりと凛を掻き抱いた。
「……悪ぃ……凛」
まだ、答えられないことに。待たせてしまっていることに。信じてくれていることに。
宗介の思いははっきりとは分からない。けれど、彼はまだ、縋り付いて、足掻いている。だから今は、ただ静かに待つのだ。
凛はそうっと宗介の目を掌で覆った。
「宗介、俺、ここに居るから」
背中に回った腕が少し締まった。
***
いつか、松岡凛は、七瀬遙と共に、ずっとずっと高い所へ飛んでいく。
鳥のように高く。羽のように軽く。遥か遠い、水の彼方へ。
その後をついていくのが誰なのかなんて、そんな先のことは、誰にも分からない。
ただ分かるのはひとつだけ。
掌で覆った目隠しは、とっくの昔に外されている。