黎明
後悔も自責も数え切れない程してきた。
その度に、自分の無力さを思い知った。
それでも、この命が今も繋がっているのなら、俺は生き続けていかなければならない。
全ての事柄に意味があるのなら。
俺は何だってやってみせよう。何にでも成ってみせよう。
それが、己に課せられた使命なれば。
それが、動けなくなったあの人の手足となれるのであれば。
この身に刻まれた痛みなど、血反吐ごと飲み込んで耐えきってみせよう。
* * * *
全てが仕組まれた罠である事を聞かされたのは、病院のベッドの上だった。
部下達を通じて、降谷さんが地下シェルターに事実上の隔離状態である事も知らされた。
一瞬にして一人の人間を消し炭にしたあの爆弾が、今度はあの人の生命を脅かしている。
――油断は、していたのだろう。
今にして思えば、不用意に距離を詰めすぎていたのかもしれない。
絶対的な隙を作る要因を作ってしまった。
俺の事など捨て置いてくれれば、少なくとも彼がシェルターに隔離される事態は避けられた。
……だが、結果として俺は生きている。もちろん、降谷さんも。
「……」
自分を責めるのは簡単だ。降谷さんに詰め寄る事も含めて、そうしなければ己の感情に押し潰されてしまいそうだった。
だが、相手は百戦錬磨の殺し屋だ。
例の爆弾魔の脱走そのものが降谷さん(厳密に言えば降谷さんと諸伏の二人だ)を誘い出す為である以上、奴は降谷さんの暗殺を諦めるハズがない。それに、事は我々の想定を超えて大きくなり始めている。
時間的猶予がない。故に攻め手を緩めるワケにはいかない。
降谷さんは一切の迷いなく、かの名探偵の少年に助力を請うた。規格外とは言え僅か七歳の子供を巻き込まなければならない程に。
動く度に腹の傷が重く圧し掛かったが、俺は大量の痛み止めでそれを強引に塞ぎ止める。
倒れるワケにはいかない。俺はまだ何も成し遂げてはいない。
橋渡しだけでは駄目なんだ。
この事態を招いた要因となってしまったからには、自らの手でカタをつけなければならない。
後悔も、自責も、痛みも、苦しみも、何もかもを飲み込んで。
俺は俺の役目を果たし、あの人を解放しなければならない。
* * * *
当然ながら、俺に爆発物処理の経験はない。
しかし、取り外すだけならばその限りではない。少年が命がけで手に入れた液体爆薬の解析ならびに中和剤の生成――それら全ての情報を頭の中に叩き込む。
降谷さんとて、いつまでもあの中にいるつもりもないだろう。であれば、彼を狭苦しいシェルターに繋ぎ止めている枷を取り外すのは己の役目だ。
「……」
静まり返った部署内で一人、解析データの子細を頭の中にインプットしていく。
部下二人は降谷さんの護衛を頼んできた。爆弾に繋がれている事を除けば実に五体満足であるが、いつ何時情報の更新があるかわからない。いざと言う時に即座に動ける人間は多いに越した事はない。
「……」
あの日、病院のベッドの上で目覚めてから……ふと考える時が増えた。
何故、自分だったのか。
何故、彼等が死ななければならなかったのか。
何故、生きているのが自分なのか。
彼等なら、一日と経たずに降谷さんを解放できていただろう。
少年を危険な目にあわせる必要もなかったかもしれない。捜査一課との連携もよりスムーズに進められていただろう。
……犠牲者が出る事も、なかったのかもしれない。
何故なら、彼等は三年前に同じ系統の爆弾を見ているのだから。
パソコンを操作する手が止まってしまう。
その時、傍らに置いてあるスマートフォンが一件のメッセージを受信した。
『こんばんは、風見刑事』
送り主は実に意外な人物であった。何か訊きたい事でもできたのだろうか。
『僕が手に入れたポットの中身、解析は進んでる?』
『その点は抜かりない。間もなく中和剤の生成も目処が立つ』
『よかった。それを聞いて安心したよ』
しかし、子供がこんな夜遅くまで起きているのは感心しないな。
それ以前に、連絡先を教えた目的は情報交換の為であって普通に会話をする為ではないと思うのだが……
『君は今、家に一人なのか?』
『え? 急にどうしたの?』
『警視庁の前で毛利探偵が交通事故に巻き込まれたと聞いている。
娘である彼女は付き添いで病院に留まっているのではと思ってね』
『うん、そうなんだけど。僕は知り合いの家に泊めてもらってるから大丈夫だよ』
……そうか、彼は一人で眠っているワケではなかったか。
如何に優秀で大人びていようとも子供なのは変わらない。どうも自分はあの子を降谷さんと同じ目で見る事ができないみたいだ。
(公安としては、あまり褒められたものではないのかもしれないが)
『風見刑事』
終わりが見え始めた何気ない会話のやり取りは、しかしまだ少し続いている。
『あまり無理しないでね』
『風見刑事が倒れたら』
『安室さんがきっと大変だよ』
……まぁ、今の連絡役は俺だからな。
でもな、江戸川君。ゼロである降谷さんと違って、連絡役は代えが利く。
俺がいなくなったら確かに大変かもしれないが、それも一時の間だ。
『江戸川君』
『君の協力に、心から感謝する』
『君がいなければ、中和剤の生成にまで辿り着けなかった』
『子供の君に頼ってばかりで申し訳ないが、どうか降谷さんの為にもう少しだけ協力してほしい』
俺は俺の役目を果たす。
それは、君達と共に戦う事じゃない。
現場に出ている者達が、万全の状態で事件に臨める様に。
あの人が、君の下に馳せ参じられる様に――俺は、その為に尽力する。
どれほどの「何故」を繰り返したとしても、今を生きているのは間違いなく己だ。
であれば、どこまでも足掻いて足掻いて足掻きぬいて、生きて証明するしかないんだ。
『風見刑事』
『心配してくれてありがとう』
『だけど、もう一度言うよ』
『風見刑事が倒れたら、安室さんが大変なんだからね』
まるで必死に言い聞かせているみたいに見えた。
大丈夫、君が思っている以上にあの人はタフなんだ。爆弾如きで止められていい人じゃない。
『もう夜も大分更けている』
『明日に備えて君はもう眠りなさい』
『うん、わかった』
『おやすみなさい、風見刑事』
そのメッセージを最後に、俺のスマートフォンは静かになった。
(……立場をはき違えるな。皆それぞれ役割が違うんだ)
頬を伝うのは一筋の汗。痛みを訴える腹部は、負った怪我が完治していない証拠だ。
(まだだ。まだその時じゃない)
最後まで足掻くと決めただろう、風見裕也。
誰が何と言おうと、今を生きているのは自分なんだ。
彼等はもうどこにもいない。だけど、彼等が遺したものは確実に犯人を追い詰めている。
残された者が、今を生きる者達が、それを繋いでいかなければならない。
その為の力となれるなら、こんな壊れかけの身体でも出来る事は必ずある。
そして、これだけは絶対に誰にも、譲るワケにはいかないんだ。
* * * *
渋谷のスクランブル交差点が緑色に染まっていく。
前代未聞のテロとも言える広範囲爆発は、結果として未然に防ぐ事ができた。全てはあの場にいた人間達の尽力によるもので、消防隊の手によって散布されている中和剤は正しくこの為にあると言っても過言ではない。
「……降谷さん」
渋谷のどこかにいるであろう上司の安否に関して、実はそれほど心配していない。命を投げ出す人ではないし、死神に嫌われているのはお互い様だ。
やらなければならない事は山の様にある。それでも、今だけは勝利の余韻とやらに浸っても良いのではないかと思っている。思っているのだが……
崩れ落ちる様に力が抜けた身体が限界を超えていた。
脇腹からはとうとう血が滲み始めていた。消防隊への指示を出し終えて、おそらく緊張の糸が切れた反動だろうと勝手に解釈する。
人目につかない脇道の端で蹲りながら、一着の上着を抱きしめる。己の血で汚さない様にしながら。
「……」
あの時、役目を終えた俺の肩にそっとかけられたグレーの上着。その瞬間まで降谷さんが袖を通していた物だ。
「……」
どうしても手放せなくて、こんな所にまで持ってきてしまった。
でも、仕方ないじゃないか。この上着には確かに残されていたんだ。降谷さんの温もりが、ハッキリと。
彼が今も生きているのだと、俺に証明してくれたんだ。
「……」
手が震えなかったと言えば嘘になる。一歩間違えただけで双方タダでは済まない状況だった。
この役目だけは誰にも譲らないと言っておきながら、常に頭の中でチラついていた最悪の事態を払拭しながら、それでも俺は成し遂げられた。
“よくやってくれた、風見。後は僕に任せておけ”
とても力強く、そして優しい言葉だった。
肩にかけられた温もりが、全力で労ってくれていると思えた。
あぁ、俺は。
俺は、助けられた。
あの人を、江戸川君の下に向かわせる事が出来た。
他の誰でもない、俺の手で。
痛みも、苦しみも、何もかもを飲み込みながら。
俺は最後まで役目を果たしてみせた。
「……諸伏」
降谷さんの上着を抱きしめたまま、俺はとうとう地面に倒れ伏す。
星が散りばめられた夜空を見上げながら、かつての後輩の名を口にする。
「俺は、うまくやれたかな」
お前なら、もっとスマートにやれていただろうけどな。
降谷さんは無事だ。だから安心してほしい。
お前達が過去に遺してくれたものは、決して無駄にはならなかった。
「……ありがとうな」
どうやら感覚が鈍くなってきたらしい。意識も少しずつ薄れてきている。
あれだけの至近距離から直撃を受けた身体が数日たらずで完治するワケがない。軽傷と見せかけていたのは己の責務を全うせんが為。我ながら上手く立ち回れていたと思う。
すまない、少しだけ眠らせてくれ。
ゆっくりと目を閉じる。
意識が遠のくのは一瞬だった。
全身が焼ける様な痛みで目を覚ました時、既に降谷さんの首には爆弾がつけられていた。
状況を把握するよりも前に、霞がかった意識の中で俺は何を見て、何を思ったのだろうか。
ただ一つわかっていたのは。
俺を抱き起す彼の手は、僅かに震えていたと言う事だけだった。
* * * *
目が覚めたら、病院のベッドの上だった。
以前と明らかに違っていたのが、傍らには降谷さんが寄り添ってくれていた。
まるで熱を分け与えるかの様に添えられた手の温もりがとても心地よくて、ちょっとだけ狸寝入りしてもいいかなって思った矢先に鼻先をキュッと抓られた。
「全治一ヶ月だそうだ」
「面目次第もございません……」
ですが、後悔もしていません。口に出しては言わないが。
「事後処理の方は」
「問題無い。君が事前に各方面に根回しをしてくれたおかげで滞りなく進んでいる。
渋谷の道路もひとまずは元通りだ。まぁもうしばらくは交通規制も入るだろうが」
「そうですか」
相槌を打つ俺の目は、自然と降谷さんの首に向けられる。
ほんの数日前につけられた枷はどこにもない。それなりに負傷した形跡が見受けられるが、今の俺に比べたらずっと軽傷だ。
「どうした風見? 僕の首に何かついてる?」
「……あ、い、いえ……」
「何もついちゃいないだろう?」
“君が取り外してくれたんだからな”
「あ……」
「流石は僕の右腕だ」
「で、ですが」
「本当だぞ。君お手製のダミーを見せつけてやったくらいさ」
俺はしばらく動けなかったし、その後は完全に別行動だった。降谷さんがプラーミャとどの様な掛け合いをしていたのかはまるでわからないが……
「風見、痛かったらすぐに言うんだぞ」
「え――」
言うが早いか、俺の身体はすっぽりと降谷さんの腕の中に収まっていた。
上着越しで感じた温もりが、今度はダイレクトに伝わってくる。
「風見、君は本当によくやってくれた。僕が今こうしていられるのは間違いなく君のおかげだ」
「……!」
その言葉が、思いが、今漸く己の中に浸透していく。
生きている。
降谷さんは生きている。
今もこうして、決して無傷ではないけれど。
「あ、ぁぁ……」
彼の生命を脅かすものは、もうどこにもない。
枷は既に外されている。
俺が外した。俺がこの手で。
それが役目だと必死に言い聞かせながらも、本当は。
本当は……ほんとうは。
「うぁ、あぁぁっ……ふぅ、ゃ、さっ……!」
「あぁいいよ。好きなだけ泣けばいい。
僕も君も生きている。今は、それだけでいいじゃないか」
生きている、彼は生きている。
腕の中の温もりが、それが現実であると叫んでいる。
俺は間に合った。間に合えたんだ。
「だから、僕も」
“君の覚悟に応えたくて、こうして待ち続けていたんだ”
「かく、ご……?」
涙で濡れた目で降谷さんの顔を見上げる。
「あぁ、そうだ」
覚悟なんて、とうの昔にできている。
ゼロの右腕として、どこまでもついて行くのだと。俺はもう既に決めているんだ。
貴方となら、どこへだって俺は……
それが、例え地獄であったとしても。
グイ、と肩を抱かれて引き寄せられる。
間近に迫る碧眼に見惚れていた瞬間に、互いの唇が深く重なった。
「君、もしかして気づいていなかったのか?」
あの時の僕等は、正しく一蓮托生だったと言う事を。
それは、言うなれば黎明の幕開け。
決めた覚悟はそのままに、俺達の関係は新たなる時を迎え入れる。
防護服は着用の為に持ってきた物であったが、俺はそれに袖を通さないまま爆弾の取り外しを開始した。
この距離で、この面積。爆発しようものなら俺も降谷さんもタダでは済まない。文字通り、命を賭けた解体劇だ。
お互い、一言も発さないまま。静寂だけが俺達を包み、事の成り行きを見守っている。
無機質な音と互いの吐息だけが、静寂に波紋を広げていく。
言葉はなかった。
互いが互いの命を賭けた。それ以上でもそれ以下でもない。
何者をも遠ざける、地下深く隔離されたシェルターの中は、正しく檻の中と言えただろう。
あまりにも狭く、何もかもを遮って。しかし、あの時の俺達にとっては、唯一無二の世界であった。
小さなガラスの世界にただ二人きり。生きるも死ぬるも、それを知る者はどこにもいない。
これを“一蓮托生”と評するのであれば。
俺はあの人にとって、それだけの存在と成り得たのだろうか。
* * * *
「こんにちは。久しぶりだね、風見さん」
「君は……」
十一月も半ばに入る頃、近くの公園でベンチに座りながら軽い小休止をしていた折に件の少年と再会した。
全治一ヶ月と診断されていた怪我は、周囲の予想を上回る回復を見せた為、実は少し前に退院をしている。渋谷の事件の事後処理は思っている以上に進みが早く、俺が仕事に復帰した時にはほとんどカタがついていた。
「安室さんに「怪我が悪化して再入院した」って聞いた時は心配したんだよ。
身体の方は大丈夫? また安室さんに無理言われてない?」
「あぁ、心配してくれてありがとう。おかけさまで怪我はほぼ完治しているよ。
事件の事後処理も、俺が入院している間に大体カタがついたらしくてね、今は概ね平和だな」
少年――江戸川コナン君は俺の隣に座り、小さな両足をプラプラさせる。
「大変だったよね、お互いに」
「そうだな。君も相変わらずだった。
まさか捜査会議にまで紛れ込むとは思わなかったよ」
「風見さんだけだったよね、渋い顔してたの」
それは、そうだろう。如何にこの少年が規格外であったとしても幼い子供である事に変わりはない。
捜査一課の面々の反応を見るに、それ自体に慣れてしまっているのか……それとも、俺の方が過剰に心配しすぎているのか。
あの時点で、既に彼は降谷さんからの協力要請に応じている。だから止めなかった。そのまま話を進行させた。情報の共有は最優先事項であったからだ。
必要な過程だった。だが、それでも……そうだとしても、きっと俺は。
「江戸川君」
「何?」
「俺はきっと、この先ずっと渋い顔をするのだと思うよ」
君が事件現場に出て来る度に。君の力を借りなければならない程の局面に瀕した時も。
他人を頼ると言う行為は決して悪いものではない。そうする事によって事態を好転させられるのであれば、それは最良の一手となるのだろう。
だが、俺は決して慣れないのだと思う。
危険な現場に子供を巻き込む行為を、ましてや命を賭けさせる様な状況など本来ならあってはならない。
頭ではわかっていても、降谷さんがこの少年に対してどれほどの信頼を寄せようとも、俺は。
俺にとってこの子は、やはり小学一年生の子供なのだから。
「風見さんは」
「ん?」
「すごく優しい人だよね」
……優しい、か。そんな風に言われたのはいつぶりかな。
周囲の俺に対する印象は、正にその真逆だ。そう言う風に振る舞っているのは事実だし、どう思われようとも構わなかった。
だが、そうだな。面と向かって言われるのは……少々照れるものがあるが、悪くはない。
「風見さん、あんまり安室さんを甘やかしたら駄目だよ?」
「へ?」
誰が、誰を甘やかすだって?
一体この子の目に俺達はどう映っているのだろうか。
「この前の事件もそうだったんじゃない? 僕もそうだったからさ、結構無理な要求もされてたんじゃないかなって」
「そうだなァ……君が採取した液体爆薬の解析と中和剤の生成を科捜研に依頼して、捜査一課との合同捜査に降谷さんの首につけられた爆弾の解体「アレ取り外したの風見さんだったの!?」
流石の名探偵も想像していなかったのか、普通にかなり驚いている。これは結構貴重なものを見れたのではなかろうか。
「ふ、普通そう言うのは専門のプロに任せるものじゃないの?」
「降谷さんの立場を鑑みれば、まぁ消去法で俺しかいなかったのもある」
「で、でもでも! 警備局に爆発物処理に長けた人だっていたかもしれないのにっ?」
江戸川君の言う事もわかる。降谷さんはゼロの一人で潜入捜査官だ。基本的に同業者に顔が割れる事は避けなければならない。しかしそれは、同じ所属の人間は例外とも言える。
「……」
例え、そうだったとしても。
アレは、アレだけは絶対に譲らなかったと、俺は思う。
「降谷さんの首輪爆弾は、俺を助けた代償みたいなものだったからな」
「え……?」
「逆を言えば、あのまま俺を見捨てていればそうはならなかった。
君を危険に巻き込む事もせず、捜査は進行していただろう」
……そう、これは。幾度となく繰り返した「何故」だ。
始めは確かに自責の念に押し潰されそうだった。それを最後まで表に出さなかったのは……いや、出さずに済んだのは、降谷さんの目は決して死んではいなかったからだ。
彼は首に枷をはめられ、生命の危機に瀕しながらも前だけを見据えて動いていた。
彼は何一つ諦めてはいなかった。だったら、俺だけが足踏みをしている場合じゃない。
「どれほどの“何故”を繰り返しても、今を生きているのは俺達なんだ」
亡くなった者の意志を受け継ぎ、現在へと繋げていくのは今を生きている者にしか成し遂げられない。
俺や君がそうしたように。それはきっと、捜査一課の面々も同じハズだ。
今回の事件は、正しくそれを体現していた。だからこそ、あの百戦錬磨の殺し屋を追い詰める事ができたのだから。
「だから、君には本当に感謝しているんだ。液体爆薬の解析と中和剤の生成……これらのデータがなければとてもじゃないが取り外しはできなかった。
ありがとう、江戸川君。俺にあの人を救う機会を与えてくれて」
君にそんなつもりはなかったのかもしれないが、これだけはどうしても言っておきたかった。
「それなら、僕はきっかけを作っただけに過ぎない。それら全てを最大限に活かしたのは風見さんの力だよ。
て言うかさ、風見さんも大概何でもやっちゃう人なんだね」
「ふふ。手厳しい上司による指導の賜物かな」
爆発物処理は、できれば二度と御免被るが。
「それに、すごく優しいし」
「そうかなァ……自分ではよくわからないが」
「安室さんが大事にするのも頷けると言うか」
大事に、か……そうだったら嬉しいな、なんて――
――瞬間、病院の一室でキスをされた感覚が甦る。
「風見さんどうしたの? 顔が真っ赤だよ?」
「い、いやっ! な、何でもないっ!」
子供がいる前で何てものを思い出しているんだ俺はっ。
「……」
そう言えば、お見舞いはあれ一度きりだったか。
今頃は安室として動いていると思うが、あの時の怪我は流石にもう完治しているかな。
「安室さんに変な誤解されないといいね」
「だ、だから何でそこであの人が出てくるんだっ!」
勘弁してくれと言わんばかりに俺は顔を両手で覆ってうなだれる。
真っ赤に爆発した顔なんて、とてもじゃないが見せられなかった。
「この浮気者め」
「はいっ?」
保護者が迎えに来た江戸川君を見送り、自分もそろそろ警視庁に戻ろうかと思った矢先に現れたのが、喫茶ポアロで勤務中であるハズの上司だった。
その表情は目に見えて不機嫌で、しかも身に覚えのない事まで言われる始末である。
「あの、降谷さん? 仰っている事の意味がよく……」
「うるさい。何だよ、いつの間にコナン君とあんなに仲良くなって」
「え、まさか見てたんですか?」
いつからいたんだ、この人は。気配なんてまるで感じなかったぞ。
「ひぇっ!?」
有無を言わさず真正面から抱きすくめられる。
待って! ここは病院の個室でもなければ安室の家でもない! 公共の場っ、人の目!
慌てて周囲に目を配ると、奇跡的に人気は完全に失せていた。この場にいるのは間違いなく俺達二人だけだ。
「風見の浮気者。コナン君のワトソンに転職するつもりだろっ」
「いきなり何を言ってるんですか貴方は!」
「僕達は一蓮托生なんじゃないのかっ」
俺の肩に顔を埋めて、割と容赦なくグリグリと押し付けてくる。
いやこれは不機嫌と言うより拗ねてるだけなのでは?
上司の意外な一面に内心ほっこりしつつも、まずは謎の誤解を解かなければ身動きも取れない。
「落ち着いてください降谷さん。俺は変わらず貴方の部下ですし、飛田男六も安室透のワトソンなんですから」
「……!」
今度は嬉しかったのか、更にぎゅうぎゅうと抱きしめられる。
(あぁ、温かいな)
それがとても嬉しくて、俺も降谷さんの背中に腕を回す。
生きて傍に在る――当たり前にしてきた事が、今はこんなにも大切に思えるなんて。
「ところで降谷さん。喫茶店の方はよろしいのですか?」
「ん? あぁ、今日のシフトはランチタイムまでだったからな。家に戻ろうとした時に君達を見かけて」
なるほど、それで気配を殺して俺達のやり取りを見ていた、と。
「そう言う君はどうなんだ?」
「俺ですか? 病み上がりと言う事で午後休をいただいているのですが、やはり戻って仕事をしようかと――」
ゴチンッ!
問答無用で頭突きを喰らった。普通に痛い。
「い、いたいですふるやさん」
涙目になってしまうのも無理はない。いやだって普通に石頭なんだがこの人。
「君の今やるべき仕事は、一日でも早く身体を万全の状態に戻す事だ。
その為の過程として、今から安室の家に行くぞ」
「え? って、うわぁっ!」
グイ、と強引に腕を引っ張られる。
「美味い物をいっぱい食べて、ぐっすり眠る。家にはあの子もいるから遊び相手になってほしい」
「……そ、それが仕事なんですか?」
「そうだよ、悪いか」
ギュッと手を握られる。掌から伝わる体温は、想像していたよりも高い。
どことなく強張っている様にも見える。もしかして、緊張しているのか?
「……君には、その……いつも苦労をかけてるから」
「今更何を言っているんですか。それが自分の務めですし、誇りでもあるんです。
ですから、その様な気を遣わなくても……」
それに、俺はもう十分すぎる程に労ってもらった。これ以上の高望みなんて……
「そ――それならっ!」
「わひゃあっ!?」
我ながら間の抜けた悲鳴が出てしまった。
これまた強引に腕を引っ張られて、慣性の法則で倒れかかった俺の身体を降谷さんはがっちりと抱き留めて――って、いててててて! 降谷さんっ、これ抱擁と言うよりただの拘束ですっ!
「上司とか部下とか、そう言うのは関係なくてっ」
「え、えぇ?」
「僕が君と一緒にいたいんだ! それが理由じゃ駄目なのか?」
その言葉の意味をはき違える程、俺は初心でもないし鈍感でもない。
収まっていた顔の熱が再発する。多分、今度は耳まで真っ赤になっているハズだ。
それが堪らなく嬉しいのだと、俺の身体が訴えている。
「……降谷さん」
彼に身をゆだねながらそっと耳打ちをする。
「俺は、自惚れてもいいのでしょうか?」
「ッ! 当たり前だっ。僕の右腕は君だけなんだぞっ。
……君じゃなければ、あんな事だってしない」
「あんな、こと?」
わかっていても訊いてしまう俺は、存外からかい上手なのかもしれない。
だって、降谷さんのこんな反応、新鮮すぎて。
「んっ……」
人気が失せた公園の中で、俺は二度目の口づけを受け入れる。
温かい。降谷さんの、生命の温もり。
「風見」
「はい、降谷さん」
「君が生きていて、本当によかった」
「それは俺だって同じです。
貴方が無事で、本当によかった」
俺達の戦いはこれからも続いていく。
最後の最後まで、この人と駆け抜けて行く為にも、今は英気を養わないといけないよな……なんて、結局は俺も降谷さんの傍にいたいだけだ。
「それじゃ、行こうか」
「はい。どこまでもついて行きますよ、降谷さん」
これを“一蓮托生”と評するのであれば。
俺はあの人にとって、それだけの存在と成り得たのだろうか。
その答えは、二人を繋ぐ手の温もりだけが知っている。