【萩松】一等賞を君に捧ぐ 体育祭の花形競技といえば、いつの時代も名前を挙げられるのが『リレー』だ。
高校二年生、夏。
萩原と松田のクラスでも、体育祭のリレーメンバーを誰にするか、喧々諤々の協議が行われていた。
「リレ選こそガチらないとでしょ!」
「短距離のタイム順で組もうぜ」
「百メートル九秒台の人〜!」
「世界陸上かよ!」
クラスがそんな話で盛り上がってる中、松田は教室の窓辺で、大きなあくびをしていた。リレーなんて、自分にとってさほど関係ないし、興味がないからだ。
机に突っ伏して本格的に眠る姿勢を取ると、不意に背中をつつーっとなぞられる。
こんなことしてくる奴は、松田の知る限り一人しかいない。
「ッ何しやがる、萩!」
「陣平ちゃん、おねむ?」
起き上がって振り払うと、やはりというかなんというか、予想通り萩原だった。長めのまつ毛で縁取る垂れ目で、茶目っ気たっぷりに形の綺麗なウインクをする。
「……ああ。クラス対抗リレーなんて俺には関係ない話だからな」
「だめだよ、陣平ちゃん。クラス行事にはちゃんと参加しなきゃ」
「別に興味ねえ。萩こそどうなんだ。お前、足速ぇじゃん。立候補しねえのかよ」
「俺はいいかな~……他にやりたい奴がいるっしょ。そっちに任せて俺はクラスの子たちと応援の方、がんばっちゃおうかなあ。なんてね」
萩原はふざけた口調でへらへらと松田の方へ椅子を寄せる。要は萩原自身も興味がないのだろう。松田はどーでもいいけど、と再び机に突っ伏して眠りの態勢を取った。
うとうとまどろんでいると、再び眠りの邪魔が入る。
「萩原くんって走るの速いの?! ごめんね、松田くんと話してるの聞いちゃった……!」
「あ、俺ぇ? うーん、人並み位だと思うけど」
「足速いなら推薦したいなぁ。タイムいくつか聞いていい?」
「言うほどじゃないけど……」
松田は突っ伏したまま事の顛末を聞いていた。萩原が短距離走の自己ベストタイムを言うと、女子達は途端にきゃあ、と歓声を上げる。
リレーに乗り気じゃないんだったら、適当なタイムを言って流しゃあいいのに、そういうところで嘘をつけないのが萩原だった。
そうして松田がうとうとしている内に、とんとん拍子に萩原がクラス対抗リレーメンバーの、それもアンカーに決まった。
終業後、部活に向かう松田の背中に追いすがるよう腕が回された。正体は振り向かなくても、気配とふわりと香る柔軟剤の匂いで、萩原だとわかる。
「リレーの選手になっちゃった。しかもアンカー」
「よかったじゃねえか」
「陣平ちゃぁん、他人事だからって淡泊すぎない? リレーのメンバーって明日から朝練するんだって」
「お前、最終的にはニコニコしながら任されて~って言ってたじゃねえか」
「そう言った方が良い時ってあるだろ~? 部活の朝練と時間一緒なんだぜ」
選手決めの時、最初こそ渋っていたが結果的には、萩原は人当たりのいい笑顔でクラス中の推薦を快諾しているように見えた。うとうとした心地で腕の隙間から萩原のことをじっと見ていたから知っている。
しかし、快諾したのは表面上だけのようだった。おそらく、萩原のリレーに対するモチベーションはさほど高くないのだろう。本来、自分の身体で走るより乗り物を操縦する方が好きな男だ。
別に萩原を慰めるわけではないが、萩原にとってメリットになるだろう言葉をかけてやる。
「……よかったじゃねえか。俺と学校、一緒に行けるぞ」
「えっ」
「部活の朝練と時間一緒なんだろ? 俺は毎日、部活の朝練あるし。明日から一緒に行こうぜ、萩」
「……ふはっ」
松田の誘いに萩原は突然吹き出した。にんまりと目元に弧を描くその顔には見覚えがある。何かが思い通りにいった時の顔だ。
「あんだよ」
「いーや別に? っとぉ、はは、はずれ」
口の端をニヤリとあげる萩原を、松田は軽く小突く。もっとも拳の軌道はお見通しだったようで、ひらりと避けられてしまった。まあもともと当てるつもりもないのだが。
萩原は、おおよそ茶化すかくだらないことを考えているのだろう。幼馴染の経験則で分かる。
「萩オメー、ニヤつきやがって。また陣平ちゃんたらかぁわいいとか変なこと考えてんじゃねーだろーな?」
萩原の口調を真似して言ってやれば、当の本人はキョトンと目を丸くして、それからぱちぱちと数度瞬きをした。
「それもあるけど……朝練、嬉しいなあって」
「嬉しいィ?」
萩原の口から飛び出た予想のはるか上を超える言葉に、松田は開いた口が塞がらない。ついさっきまで全然乗り気じゃなかっただろうが。
そんな松田の心を読んだかのように萩原は肩を思いっきり組んできた。
「松田の思ってる通り本当はリレーの、それもアンカーなんて全然乗り気じゃないんだけど……でも、いつも部活の朝練で先に学校行っちゃう松田と一緒に行けるってんなら別。そんなのサイコーじゃん?」
「そ、……そーかよ」
「陣平ちゃんも一緒に学校行こうって、俺とおんなじこと考えてくれてたみたいだし? やっぱ俺ら親友だな」
「……決まってんだろ」
親友、親友。改めて口に出されると少し照れくさくて、おもわず萩原から目を逸らすと、不意に肩をとんとんと叩かれる。反射的に叩かれた方を振り返ると「ちゅ」と耳元におどけた様な声と、自分の頬が圧される感覚。
萩原が片手で手できつねの形を作り、松田の頬にキスの真似事をしていた。おい、とツッコむ前にひらりと踵を返される。
「じゃ、陣平ちゃん! 部活頑張ってね! また明日!」
言うが早いか、萩原の姿はあっという間に小さくなる。
また明日。今よりずっと小さい頃から飽きるほど何度も交わしてきたなんてことない一言だが、なぜだか今日はやけに特別な言葉に聞こえて、ワクワクした心地になった。
思い返せば部活を始めて萩原と一緒に学校に行くなんて久しぶりだ。萩原の言葉を頭の中で反芻し、噛み締めた。
その日の夕飯後に、萩原からメッセージが送られてくる。通知とほぼ同時にメッセージアプリを開く。
『明日、松田の家まで迎えに行くわ』
短い一文の後に付けられた記号の連打に、勝手に口角が上がってしまう。どれだけ気合入ってるんだよ、とにやける口元を抑えつつ『おう』とだけ返した。
翌朝。そろそろあいつがくるだろう、という予感がして、松田がそわそわしながら玄関で靴を履いていると、約束通り萩原が自転車に乗って訪ねてきた。
「おはよう陣平ちゃん。もう学校行けそう?」
「……はよ。行けっけど……お前、妙に気合入ってねえ?」
「なんか早く目が覚めたんだよな。松田に早く会いたくて?」
「あーそーですかぁ」
「照れんなよ。ほらヘルメット」
「照れてねえよ……サンキュー」
松田はヘルメットを身に着けると、自転車の後輪に足をかけて荷台へ器用に乗り込んだ。
重心がずれたのか一度大きく傾くも、萩原が自前の長い脚をつっぱり棒にして転倒は免れる。
「おっと。ちゃんと腰掴んどいてよ」
萩原は松田の手を引き自分の腰に手を回させ、ぎゅっと固定した。子供の時よりもだいぶ広くなった背中に想いっきり抱き着くような姿勢になる。
「じゃ、しゅっぱーつ!」
二人分の体重を乗せた自転車はやや速度を落としながら学校方面へと舵を切る。なんとなく交番前やらいつも警察の人が立っている交差点やらを避けながら少しだけ遠回りをした。
初夏の湿気を含んだそよ風を萩原の背中越しに感じていると、柔らかな風に乗って「なあ」という声が松田の鼓膜を揺らした。
「俺さ、もうすこしで二輪免許取って一年になるじゃん」
「おー……そうだっけか」
「そうだよ。一年経てば初心者マークが外れて、後ろに人乗せられるようになるんだって」
「へー」
萩原は中学三年生の頃から自動車学校に通い、自身が十六歳になるのに合わせて普通二輪免許を取得していた。
実家が整備工場を営んでいたということもあり、免許取得早々に萩原に合わせてカスタマイズされたバイクが与えられ、そのエンジン調整にはもちろん幼馴染で親友でもある松田も一枚噛んでいた。萩原が暇を見つけては街中でそのバイクを乗り回していたのは記憶に新しい。
「だからさ、松田。今度バイクでどっか行かねー?」
こんな風に、二人乗りで。萩原の声は楽しそうに弾んでいた。下り坂に差し掛かった自転車は、ブレーキを絶妙にかけながらゆるゆると進んでいく。
「……お前となら楽しいかもな」
「ま、高速には乗れねえけどな。一般道使って海までならいけるっしょ」
「高速乗れねえんだ?」
「乗れないことはないぜ。厳密には二十歳以上じゃないとダメっぽい。道交法違反でパクられたら楽しくないじゃん」
からからと笑う萩原に、松田は道交法ならチャリの二ケツで、現在進行形で破ってるけどな、と思ったが口には出さなかった。萩原となら共犯になるのだって悪くない。それくらい萩原の傍にいることが心地よかった。
「……は、……っそろそろ到着だぜ」
「おー、サンキュー…………おい萩原」
「……なあに? 陣平ちゃん」
「悪い、途中で交代すればよかった。ずっと漕ぎっぱなしで疲れただろ」
話している内に学校に到着する。
正門近くで自転車を停止させた萩原はあがった息を整えるようにゆっくり肩を上下させていた。
育ち盛りの男子二人分乗せた自転車を漕ぎ続けて疲れがないわけは無い。態度では何もない風を装っているが、おおきく肩で息をしている萩原の背中をゆっくり擦る。
「はは、大丈夫だって……いい準備運動になった。陣平ちゃんと話せて楽しかったし……久しぶりに自転車ガチ漕ぎしたからこうなっちゃっただけで、はは」
「……」
「んな悲しい顔しないでよ。せっかくの男前が台無しだぜ」
「……明日からは途中で交代だからな」
「はいはい、りょーかい。じゃ、お互い朝練頑張ろうぜ」
最初こそ体力が追い付かないこともあったが、体育祭当日まで二人で萩原の自転車に乗って登校した。
自転車に乗りながら話す内容は、ボクシング部のインハイの話だとか、リレーのバトンパスの話だとか、日々の取り留めのない話ばかりだったが、ひとつひとつが本当に楽しいもので、あっという間に体育祭当日を迎えた。
その日は太陽の光が目に刺さりそうなほど眩しい、雲一つない晴天だった。
クラスで作ったお揃いのTシャツを着て、クラスに割り当てられた色の鉢巻を頭に巻く。
鉢巻の結び方にはそれぞれに個性がでていて、女子人気の高い萩原なんかは、女子達にこぞってかわいらしいリボン結びにされていた。テンションの上がった女子の一人に「松田君もやってあげるね」と巻き込まれ、松田の頭にも萩原とお揃いのかわいいリボンが結ばれていたのだが、他のクラスの奴にどこぞのプリンセスみたいだと揶揄われて速攻取った。
天候にも恵まれ、大きなトラブルもなく体育祭のプログラムは順調に進み、残すところは萩原の出場する学年クラス対抗リレーのみとなった。
「はぎわらくーん! 頑張ってね!」
「応援してるから―!」
「絶対一位とってよ!」
「モチのローン!」
グラウンドの真ん中で、各クラスのリレー選手が入場する。
クラスの女子達は萩原に黄色い声を挙げ、萩原もそれに応えていた。松田は、親友として何か声でもかけてやるか、と思っていたがこれだけ声援を浴びているなら別にいいか、とひとりグラウンドの端にある木陰で避暑を試みた。照り付ける太陽から目を背けていたせいで、グラウンドの中心で声援に応えながらも、自分の姿を探す視線がある事には気付かなかった。
松田は瞳の色素が薄いのか、人より少しばかり太陽が眩しく感じる体質だった。特に今日の太陽は痛いくらいで、タオルで日よけを作ってなんとか凌いでいたのだが、真昼を過ぎてなお天高く輝く太陽に目がつぶれそうなくらいの限界を感じていた。
みんな体育祭の競技に夢中で、グラウンドの端は閑散としていた。葉っぱの生い茂る桜の木の下は、暑いには暑いのだが、太陽の真下に広がる灼熱が嘘のように涼しく思えた。
想定以上に視界は開けていて、木陰で涼んでいてもグラウンドの様子はよく見えた。松田も視力は悪くない方だ。
萩原は真剣な顔で自分の出番を待っていた。
「頑張れよ、萩」
松田はぽつりと呟いて、空を裂くように拳を突き出した。
集中しているからおそらく萩原はこちらには気が付かないだろうと、そう思っていたが。
ぱちり、と萩原がこちらに向けてウインクをしたような気がした。
次いで同じように拳がこちらに向けられて、ウインクをしたような気がした、という『予感』がウインクをしたという『確信』に変わる。
気付いてるのかよ。無意識にごくりと喉が鳴って、体感温度が急上昇した。目の前がくらくらしそうだ。
松田がどぎまぎしているうちに、すぐに萩原に順番が回ってくる。
リレーの順位は現在二位。トップと競っている状況だ。放送部による場内アナウンスによると一位のクラスのアンカーは陸上部らしいが、萩原の脚なら十分渡り合えるだろう。
前の走者が競り合いながらバトンを渡す動作に入る。
その瞬間。
ばたばたと玉突き事故を起こしたようにグラウンドに砂ぼこりが舞った。
どうやら一位のクラスがパスミスで転倒し、萩原たちもそれに巻き込まれたらしかった。
「萩原!」
思わず声をあげる。萩原は、あいつはケガしてないだろうか。
徐々に晴れていく砂ぼこりから三位、四位のクラスが駆け出していく。萩原の姿はすぐに表れず、松田は焦燥感に駆られ、木陰を飛び出した。
グラウンドの中心にはびゅうと竜巻のような風が吹いていた。舞い上がった砂ぼこりが目に入って思わず目を瞑る。
「……っ!」
なんとか開けた松田の目が捉えたのは、砂まみれになりながら駆け抜けていく萩原の姿だった。
強く吹き付ける風さえ味方につけて、綺麗なフォームで次々に他の選手を追い抜いていく。
「萩原! 差せ!」
気づけば名前を呼んでいた。呼べば、一段とその脚が速くなったような気がした。
◇◇◇
萩原が奮闘したものの、クラス対抗リレーは二位という結果に終わった。
怒涛の巻き返しも、転倒時のタイムロスが大きく響いていた。
クラスの皆に労われている萩原を横目に、松田は校舎方面にある自販機へと歩を進めていた。気まぐれに飲み物でも奢ってやろうと思ったからだ。
萩のやつはいつも何を飲んでいただろうか。思案しながら自販機の前に立つ。あいつの机の上には、いつもストロー直刺しのコンビニで買える大容量紙パックの甘い紅茶飲料が鎮座している記憶しかない。
とりあえず適当に買っとくか、とポケットを探ると、
「……足りねぇ」
銅色の小銭がコロンと一つだけしか入っていなかった。
財布を取り出そうにも、教室に置いてきたことを思い出す。
今日は体育祭。不審者対策で体育祭終了まで教室は原則施錠されている。いつもとは勝手が違っていた。
まさかな、とおつり入れに手を突っ込んでも、やっぱり何も入っていなかった。一応自販機の下も覗いてみよう、と背を猫のように丸めて屈んだ。
「……まーつだ。なにしてんの」
いきなり声をかけられて、びっくりして仰け反る。どしん、と自販機に肩口をぶつけた。
「う、ぉっ……! なんだ萩か……」
そこにはリレーが終わってそのままなのだろう、全身砂まみれの萩原がいた。松田の目線までしゃがんで、同じように自販機の下をのぞき込んでくれる。
「どうした? お金落としちゃった?」
「落としてねーよ。そうだ萩、いま百円持ってねえ? お前に飲み物奢ってやろうと思ってよ」
「持ってるけど……あーなるほどね。話、大体見えたわ」
「教室戻ったら返すから」
松田は萩原から硬貨を受け取ると自販機でカルピスソーダの五百ミリ缶を迷わず購入する。
「陣平ちゃんが選ぶのね……カルピス好きだからいいけど」
「半分ずつ飲むんだから俺も飲みたいやつにする」
ガコン、と音を立てて出てきた大ぶりの缶を、萩原の首元にちょんとつけてやった。
「つめてっ」
「おつかれ。すげー頑張ったじゃん」
「そりゃあ……陣平ちゃんからあんな熱烈な応援貰っちゃあな……ふふ、差せって……ははっ競馬かよ、はははっ」
あの時の松田の声は、萩原までしっかり届いていたようだった。思わず漏れ出た言葉まで全部拾われていて恥ずかしさがこみ上げる。
「……親父のジムの人たちが言ってたんだよ。不可抗力だ」
「まあ、一番にはなれなかったけどなあ」
「結果じゃねーだろ……てか、萩は何でこんなとこにいるんだ?」
「転んで砂まみれになっちゃったからさ、顔だけでも洗おうと思って。そしたら松田が地面に丸くなってるんだもんよ。気になって見に来ちゃった」
「あっそう」
照れ隠しとクールダウンを兼ねて、景気のいい音を立てながら缶を開けてぐびりと一口勢いよく飲む。
「萩」
一口だけもらってあとは全部萩原に渡そうと缶を傾けると、顔を洗ってから飲みたいからちょっと持ってて、と一度断られた。
蛇口の並ぶ水飲み場で萩原が「温ィ~」と言いながら勢いよく頭を洗っているのを、松田はカルピスソーダをちびちび舐めるように飲みながら手持無沙汰に待つ。
横滑りでもしたのか、砂は体の右側を中心についていて、水によって砂が取り払われた右腕には擦過傷ができてほんのり赤くなっていた。
ケガしてんじゃん。眉間にギュッとしわを寄せていると、萩原に呼ばれる。
「陣平ちゃん、首にかけてるタオルちょうだい! 忘れてきちゃった」
「良いけど、俺も汗拭いたやつだぞ」
「今更んなの気にしねえって」
はやく! と前髪をびしょびしょにしながら萩原が振り向く。なぜだか一瞬きらきらと輝いて見えて、どうしてか太陽の光で蒸発して消えそうに思えた。松田は隠すように、急いで首にかけていたタオルを被せた。
「ありが――……んむ」
お礼を言う萩原に、衝動的にちゅっと音を立てて唇同士を合わせる。
無意識だった。しいて言うなら、そうすることで萩原を連れてってしまう『何か』からつなぎとめられると思った。連れてってしまうのが何なのか、どうしてそう思ったのか、松田には説明できないが、とにかく衝動一つが松田を突き動かしていた。
被せたタオルの端を掴んで、松田は萩原に唇を寄せる。
ほとんどゼロ距離まで近づいた萩原の瞳が驚きに見開かれていった。
はじめてのキスはレモン味、なんてそんな迷信は真っ赤な嘘で、本当は砂と鉄とカルピスソーダの味がするということを知った。
下唇をぺろりと舐めてやると、そこから血の味がした。鉄の味の正体はこれだ。転んだ時に切ったのだろう。
夢中な頭で、ちゅむ、と労わるように何度も唇を落とすと、萩原に肩を掴まれて強めに引きはがされる。
「……ちょ、っと……ごめん、松田」
謝られて、ようやく松田は我に返る。自分でも血の気が引いていくのが分かった。背中に嫌な汗が伝う。
俺は今、萩原に、親友に何を。
幼馴染で親友とは言え、超えてはならない一線というものがある。今まさにそれを飛び越えてしまったのではないか。
「……っ悪い」
自分でも驚くくらい声が震えた。親友になんてことをしてしまったんだ。
一刻も早く距離を取りたくて、じりじりと後ずさりをする。
「松田」
萩原が呼ぶ声に肩が反射的に跳ねる。嫌な想像ばかりが頭を駆け巡った。
「謝んなって……逃げるなよ。松田」
俺を見てよ。
魔法にかけられたかのように、萩原の言葉通りに身体が動いてしまう。
謝罪を重ねようとした言葉が詰まり、後ずさりする足が縫い付けられたように止まり、萩原から目が離せなくなってしまう。
「俺からさせて。いい?」
「は、」
答えを口にする前に、萩原に唇を塞がれる。角度を変えて唇を何度も重ね合う。
触れているところを中心にひどく身体があつい。じりじりと照りつける日差しが暑いせいなのか、自分自身の体感温度が上がっているせいなのか分からない。
松田は自分に何が起きているのか理解できなかった。
「はぎ、んっ萩原ッ、なに、おまえ、んむ」
制止すると、萩原は不服そうに形の整った眉をひそめる。
「……松田からしてきたんだろ。嫌だった?」
「嫌っつーか……嫌なのはお前じゃねえの。謝ってきたじゃん」
「全然嫌じゃない。口ん中ケガしてたから痛かっただけ……くそ、せっかく陣平ちゃんから来てくれたのに情けねー……」
萩原は、どうやら自分に対して怒っているようだった。さっきの謝罪は松田への嫌悪感からではないことが分かって、ホッと胸を撫でおろす。
「なあ松田。嫌じゃねえならもう一回させて」
お伺いを立てるように耳の後ろをゆっくりと擽られてぞわぞわした。言葉で肯定する代わりに、萩原の髪をタオル越しにくしゃりと撫でる。
お互いの呼吸がどちらのものか分からないくらい近づいた時、パタパタと軽い足音が数人分聞こえてきた。
「あ! いたいた、萩原くん!」
「さがしたんだよ!」
「萩原くーん! 写真撮ろー」
足音の主はクラスの女子達だった。クラス対抗リレーのMVPである萩原を探しに来たらしい。
「……萩原くんと、あれ、松田君も一緒だ。なにしてたの?」
「あーっと……」
驚いて急いで距離を取ろうとしたが、いまいち離れきれず妙に近い距離間で向かい合っているところを目撃されてしまう。
こういう時に何と言えば丸く収まるのか、その辺は萩原の独擅場だった。
「松田の目ん中見てたんだ……目にゴミがはいっちゃったみたい。だろ? 陣平ちゃん」
「ああ……そうだな」
「さっき風強かったもんね」
「砂ぼこりすごかった~」
「だね。松田くん大丈夫そう? あっちで集合写真撮るから行こー!」
萩原の機転に、女子達は納得してくれたようだった。
松田は萩原と並んで、女子達の数歩後ろをついていく。
「そういえば、陣平ちゃんさっき買ったカルピスは?」
「あ?」
萩原から指摘を受けて、さっきまで持っていたはずの缶から手を放していたことに気付く。辺りを見渡すと、カルピスソーダの缶が水飲み場の近くで中身をぶちまけて無残にも転がっていた。
萩原に奢ったはずなのに一口も飲ませることなくすっからかんになってしまった。
「あー……悪い、萩」
「いーって。陣平ちゃんに、カルピスよりも……リレーで一番を取るよりも、もっといいもんもらったから」
空っぽになったカルピスソーダをくずかごに捨てると、不意に肩を組まれる。頬にちゅっといたずらっぽく頬にキスを落としてくる萩原の笑顔は、太陽よりも眩しかった。