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    運命よりも正しい証明(①)運命よりも正しい証明始まりは番から薄紫への盲目独占的な赤をきみに不器用な温度それだけ好きって事遠い雪の中で微笑みのありか運命よりも正しい証明
    この世には性別ともう一つバース性というのがある。
    男、女、中性やら無性別と性別は多岐に渡るが、バース性は決まって3つ。

    アルファ・ベータ・オメガ

    アルファは地位や才能を持っている人間が多い。
    特にオレが身を置いているアイドル業界は右を見ても左を見てもアルファばかりで驚いてしまう。
    ベータは世界人口からみても一番多い性別らしい。
    正直バース性は公に言うものでもないし、見た目で分かるものでもないから曖昧だ。本当に多いんだろうかと何度考えたか分からない。
    最後にオメガ。
    これは最も人口が少なくて、そんでとんでもなくめんどくさいバース性だ。地位も昔は一番低かったというのを社会の授業で何度もやったし、名残もある。性犯罪や暴力など巻き込まれる確率も他より高い。

    いい事が一つもないオメガ、これがオレのバース性だ。


    オレに転機とそしてとんでもない面倒事が舞い込んできたのは、まだ桜の咲いていない、暖かい日のレッスン中だった。
    課題曲を自主練していて、伸びやかに歌っていると、突然首筋にピリッと刺激が走り、ぐわりと内側から熱があがっていく。

    「きみ、綺麗な声してるね!とってもぼく好み!でもピッチが甘いね?下がる音から上がるときはもっと眉間当たりに当てる意識をしないと意味が……ふぅん?」 
    後ろから声をかけられ反射的に振り返れば、どくんと心臓が高鳴る。

    木漏れ日を受け止めた優しくやわらかなスプリンググリーンの髪に、神秘を込めたアメジストの瞳。少し高めのテノールが紡がれる唇は薔薇色のように鮮やかだ。
    童話の国から来たような人間からは甘く、フローラルで、それでいて太陽のように強く惹きつける香りがして、見開いた目が閉じれない。

    「きみ、ぼくの運命の番だね!御伽噺、迷信だって信じてなかったけど…本当にいるんだね。」
    「はっ…ぇっ?」
    「初めまして、ぼくの番。ぼくは巴日和!よろしくね!!…きみ名前はなぁに?」
    「巴さん…?えっ?、あっ、漣ジュンっす…?」
    「うんうん、ジュンくんだね!よろしくね!」
    ぶんぶんと勢いよく手を振られ、去っていったのを確認する前にへにゃへにゃと座り込む。
    今だにうるさい心臓と沸騰した体温が熱くて、校舎裏のコンクリートが熱を吸うまで動けなかった。


    次の日再び現れたあの人は、ぼくとユニットを組もうね!と元気に手を差し伸べ、にこりと太陽のように笑った。
    ぱちくりと目を瞬かせるオレに苦笑いを浮かべた担任が、一枚の書類を差し出す。現実だと思うには余りにも薄っぺらい蜘蛛の糸に、丁寧にサインをすれば、満足そうに笑う巴先輩に引っ張られ職員室を足早に出て行く。

    ズンズン進む巴先輩は人気のなくなった渡り廊下でようやく掴んだ手を離しくるりと振り返り、あどけなく笑った。
    「よろしくねジュンくん!
    そうだ、ぼくはキミがぼくの運命の番だから選んだわけじゃないからね!ぼくがキミに可能性を感じたから拾ったんだね!見込み違いなら捨てちゃうね、心得ておくといいね!」
    「はぁ…そっすか。心配しなくてもオレは這ってでもついていきますよぉ。よろしくお願いします。」
    「うんうん!きちんと頭下げれてえらいね!それじゃあ、鞄持ってね?ジュンくん!」

    にこっと貼り付けたように完璧な角度で上がった口角が当たり前のようにずいっとオレにカバンを突き出したと思えば押し付けてきた。
    「はっ?鞄?」
    「キミは今日から荷物持ちだよね!キミのご主人様はぼくなんだから、荷物はキミが持つべきだよね?」
    「巴先輩、オレはあんたの下僕じゃないんですけどぉ。それに今から帰るんですよね?オレ特待生の部屋には行けませんよ。」
    「あれれ?聞いてなかったのかな?ぼくとキミはユニットを組むんだよ?」
    「そうっすね。組みますよ。」
    「だったら一緒に生活するに決まってるよね?キミは今日からぼくと同室だよ!ジュンくん、荷物少ないよねぇ。1往復もかからないとは思わなかったね。キミ、ミニマリストなの?」
    心底理解できませんって顔で聞いてくるのにイラッとしたが、それよりも今なんて言った?オレの荷物が何だって?
    「違いますけど。あの、巴先輩。今オレの荷物移動させたみたいに言いましたけど、どこに?」
    「え?ぼくの部屋に決まってるよね?何度も同じこと言わせないでほしいね!それとも何度でも確認したいのかな?うんうん!ぼくと暮らせるんだもんね、嬉しいよねジュンくん!」
    「GODDAMN!勝手になんて事してくれやがるんですか!」
    「わぁ!お口が悪いね!わざわざ戻って引っ越さなくて良いようにしてあげたぼくの気遣いを褒めるべきだね!」
    「最悪ですねあんた!人にはプライバシーってもんがあるんですよぉ!」
    「ぼくのものにプライバシーなんてないよね?キミはぼくのものでこれから一心同体になるべく奮闘して貰うんだからね?身の程を弁えてねジュンくん?」
    「あんたほんっと、我儘ですね。オレはオレのものですよぉ。…聞いちゃいねぇ。」 

    言いたいことだけ言って満足したのか、身軽になった体を春風のように優雅に動かし前へ進む。
    一切迷いなく歩く姿は優美で堂々としている。
    ただ歩いてるだけなのに、見惚れる程の存在感、目を惹きつけるオーラのようなものが、特待生には備わっているんだろうか?
    ぼんやり眺めていたら曲がり角へと姿が消え、慌てて追いかける。

    2人分の荷物は不思議な重さで掌に馴染んだ。


    「はいジュンくん!キミのベッドは上だね!ぼくは下で寝るからね!その辺に置いてある段ボールがキミの荷物だね。荷解きは後にしようね?ぼくお腹すいちゃった。ジュンくんジュンくん、お料理できる?」
    「はぁ?」
    スキップしそうな勢いで帰ってきた巴先輩の部屋は確かにオレの荷物の2倍はあった。
    どれもぱっと見で高そうな物ばかりで萎縮してしまう。何でこんなもの持ってんだ。 

    一通り部屋を確認していると、備え付けられているであろう二段ベッドにご丁寧に敷かれたオレの布団をとんとん叩きながら微笑む巴先輩が訳の分からないことを言った。
    「晩ご飯だよね?まさかいつも食べていないとかじゃないよね?そんなに不健康な子には見えないね?」
    「食べますよ、何考えてんすか。
    料理なんてろくなもんできないですよ。ここって特待生の寮でしょう?晩飯でたりしないんすか?」
    「出たとしても今ぼくはキミの手料理が食べてみたいんだよね!ほらほらジュンくんっぼくお肉料理が食べたいね!」
    「ユニット組むとか部屋に連行とかやっておいて次は料理せがむとか何様なんですかぁあんた?」
    「ぼくは巴日和だね!なぁに?ぼくは巴財団の次男坊だけど、その事を言ってるの?ぼくについて知りたいんだね!うんうん、いい日和!」
    「はぁー??誰もそんな事言ってませんけど?…作んなきゃダメなんすか?」
    「当たり前だよね!まだ分かってないようだね、ジュンくん?ぼくが上でキミが下だね!ぼくの言うことちゃーんと聞いてね?そしたら成果が返ってくるね!」
    「やかましー。はいはい分かりました作りますよぉ。ろくなもん出来ませんけど。」

    クソでかい声とドヤ顔が心底ムカつく。
    オレが折れない限り多分永遠に続くと早々に諦め降参を示すように両手を上げキッチンへ向かう。
    でかい冷蔵庫は到底1人分とは思えず、金持ちはこんなところも違うのか?もったいなくないかと庶民のオレが訴えるのに心の中で同意しながら、適当に野菜と肉を引っ掴んで切っていく。

    ほんとなんなんだあの人。
    いきなり現れて運命の番だと言ったと思えばユニットを組んで、ルームシェアだぁ?
    やっている事は今のところ下僕に等しいが悲しきかな、非特待生の習性が身についているオレはグルグルと考えながら野菜炒めを作りきってしまった。
    米のブランドも知ってるやつだと遠くなりながらほかほかの料理をリビングの机に乗せていけば、ちゃっかりと座っている巴先輩が不思議そうに首を傾げてオレの目を覗き込んできた。
    「ジュンくんジュンくん?このお料理なぁに?初めて見たね?」
    「野菜炒めですよぉ。切って焼くだけの庶民なら誰でも知ってる料理です。ぜってぇ舌に合わないんで残していいですよ。」
    「そんな事しないよね!食べようねジュンくん!いただきます!」
    意外ときちんと挨拶をして食べ始めた巴先輩は、もぐもぐ口を動かしこくんっと飲み込んでから口を開いた。
    「この味よりぼくはもうちょっとゴマが効いている方が好きだね!明日の朝はフレンチトーストが食べたいね!甘くしてね?しょっぱいのはいやだね!」
    「へーへー…っへ?朝?」
    「朝ご飯だね!味の染みているのがいい日和!朝から幸せになれると嬉しくなるもんね?ジュンくん?」
    あんぐりと口を開けているオレを放って綺麗に箸を使うこの人は憎らしい程可愛らしく首を傾げ、当たり前だよね?と言ってくる。
    こんなクソ我儘貴族のお姫様みたいなやつとオレはユニットを組んだのかと頭が痛くなってきた。
    「あんた多分何言ってもオレの話きかないでしょ…分かりました、やってやりますよ、おひいさん。」
    「おひいさん?なぁにそれ?」
    「あんたのあだ名です。我儘なお貴族様ですもんねぇ?これからそう呼びます。」
    「……ふふっいいよ!ジュンくんにしていいセンスだね!」
    せめてもの嫌味を込めてつけたあだ名は何故か気に入られてしまった。

    自分で作ったものをさっさと胃に放り込めば、これで入れてね!っと渡された紅茶缶で紅茶を作らされる。
    お湯を入れて出せばぷんぷん怒って風味だのカップの温度だなんだと文句を言う声に雑に相槌を打つ。どうせ明日もやるのだ、今聞かなくてもいいだろう。
    今まで座った事のないくらいふかふかのソファに座りながら居心地悪くしているとふと思い出したように切り替えたおひいさんが真面目な声で話し出した。

    「そうだ、ジュンくん。」
    「はいはい、なんですか?」
    「ぼく、今はキミの番になる気はないからね?安心するといいね!」
    「はっ…?ならないんすか…?」
    さらっと大事な事を言ったおひいさんは散々まずいといった紅茶を飲んで意思をもって微笑む。

    「運命だからってなる必要性はないよね?
    ジュンくん、例えばどうしてもキライな人間が運命の番だったらなりたくないよね?この人が好きだって思ってる人がいるのにその人以外となるのも心が追いつかないよね?ぼくはねジュンくん。キミの声が一等気に入っているけど、キミ自身については何も知らないね?そんな状態のキミのうなじを噛める程ぼくは安くないね!」
    ふふんっと胸を張って宣言したこの人の思考が高潔で、肩の力が抜けた気がした。
    「願ったり叶ったりですよねぇ?オレもあんたとはいやです。一緒ですねぇ?おひいさん?」
    「もっと楽しい一緒がいいね!まあ、言うこと全部言ったね。明日からはみっちりレッスンをするからね、今日は体を休めるといいね!」
    かちゃんと小さく響くティーカップがオレたちの宣誓の証明のように契約のように耳に残った。


    あれからあれよあれよとおひいさんに振り回され、大きく成長したと思う。
    今だって街を歩けばEveのニューシングルのサビが流れEdenの広告がツアーを告知しているのを見かけるようになった。

    おひいさんとの関係も変わらず、相棒として、荷物持ちとして大量の袋を持たされている。
    男が一人で入るにはファンシーで躊躇いがちな店にも鼻歌すら歌いながら物色しているおひいさんに、あっちで待ちますと休憩所らしきソファに座りため息をついた。

    休日ではないためいつもより少ないのであろうショッピングモールは普通の学生なら放課後の時間なのであろう、制服を着た学生が多く行き交う。
    楽しそうに話す学生がお揃いのキーホルダーを揺らしながら歩く姿は見ていて微笑ましい。
    プレゼントなのか同じタイミングで出した袋を交換し合い笑い合っている姿に疲労が抜けて思わず温かい目で見てしまった。

    そういやオレもおひいさんからなんか渡されたなと、押し付けられた袋の中で1つだけ濃い紺色の紙袋を手に取り中身を見る。
    どうやらシルバーアクセサリーのようで鈍く光る銀色は磨き上げられピカピカだ。
    細身のチェーンの細工もとても細かい。おひいさん凝ってるの好きだよな。
    チャリっと小気味良い音を鳴らしたペンダントはオレ好みで、わざわざ選んでくれたのかと思うと顔が熱くなった気がする。むずむずと背中が痒くなるのを不思議に思いながらゆっくりと中に戻せば、ご機嫌なおひいさんが戻ってきた。

    「ジュンくんジュンくん!とってもいい買い物をしたね!後で見せてあげるね!ぼくとお店にはいって居ればすぐに見れたのに、残念なジュンくん!」
    「はいはい、よかったですねぇおひいさん?…あれ、袋は?」
    「配送のお願いをしたね!届くのが楽しみだね!
    ……ふふっ帰ろっか、ジュンくん!今日はムニエルが食べたいね!」
    満足気に笑うおひいさんはすっと手を伸ばしオレを立たせる。
    とたんに崩れそうになる荷物を慌てて捕まえていると、クスクスとおかしそうな、楽しそうな声でおひいさんが笑った。

    ショッピングモールを出れば太陽がほとんど沈み、焼けるようなオレンジ色の境目でじんわりと紺色が染みるように拡がっていた。
    まだ太陽の時間だと遠慮しているのか、控えめに星が瞬きをするように光る。
    ぼんやり上を眺めていると、木枯らしが吹いて枯葉が足元をくすぐって飛んでいった。 

    「わっ!風が冷たいね!ジュンくんジュンくん、あっためてあげるね!」
    「うわ!抱きついてくんな!ここ外ですよぉ、おひいさん!」
    「関係ないよね!それにぼく達が仲良しだと皆嬉しいね、悪いことはなぁんにもないね!いい日和!」
    ぎゅうぎゅう!と楽しそうにオレの腕に両手を回したおひいさんがこてんっと首をオレに預けてきた。
    「ねぇねぇジュンくん?」
    「なんすか?歩きづらいんで離してもらってもいいっすかぁ?」
    「歩けるよね!ぼくが出来るんだからできないはずないね!それとも腕は嫌ってこと?欲しがりさんだね、ジュンくん!帰ったら抱きしめてあげるね!」
    「いらねぇよ!あーもーこのクソ貴族!」
    振り払ってやろうかと腕を動かせば紺色が目について、何となくやめてしまった。


    結局あのまま腕を取られたまま帰宅すれば、オレらの王女様が嬉しそうに出迎えてくれた。
    ぱたぱたと尻尾を揺らしながらおひいさんに撫でられ気持ちよさそうに鼻をならしている。
    たくさん撫でられて満足したのか、トコトコとリビングまで向かうオレについてくるメアリに内緒ですよと買ったばかりの犬用キャンディをあげた。

    「ジュンくんジュンくん!ぼくのプレゼント見たよね?付けてあげるね、ぼくの優しさに感謝するといいね!」
    ぺろりと綺麗に舐めきったメアリを撫でていると、ソファに腰掛けおいでおいでと手招きするおひいさんに呼ばれる。
    ぽすんっと隣に座れば、チャリっと綺麗な音を鳴らすペンダントをゆっくりと持ち上げたおひいさんが丁寧な仕草でホックを外す。
    すっと腕を前に、オレの首筋を通って行った銀色はここにいるのが正しいみたいにオレの胸元で揺れた。

    「うんうん、よく似合ってるね!明日からこれ付けてお仕事してね?ジュンくん。」
    「…ありがとうございます。あんたからこういうの貰えるとは思ってなかったんで嬉しいです。」

    思わずペンダントに触れれば装飾された紫と黄色のまじった石がつるりと光った。
    ペンダントに夢中になっていたからか、おひいさんがするりと首筋を撫で手を離すと、肩を掴まれ振り向かされる。
    にこっと楽しそうな笑みを浮かべたおひいさんがゆっくりと口を開いた。

    「よぉく考えてねジュンくん?ぼくはキミのことそれなり気に入っているんだからね?大事に大事にとってるんだから、目を逸らさず考えてね。」

    言い聞かせるように落ち着いた声はゆっくりと耳に馴染んで脳に刻まれる。オレが振りに困っている時みたいだ。
    斜めにそれた事がバレたのか、むっとした顔をしたおひいさんのアメジストが言い聞かせるように大事なものをみるような目で射抜く。
    どくどくと血液を送る心臓の音が聞こえそうなほど緊張しながら頷けば、満足そうに微笑んで、約束を果たしてあげるね!とぎゅうぎゅう抱きしめられる。
    いつものスキンシップなのに、どくどくとうるさい心臓は止まらなくて、熱いのを誤魔化すようにおひいさんの肩口に額を押し付けた。
    耳元でクスクスと笑うおひいさんがくしゃりとオレの頭を撫でながら囁く。

    「ふふっ施しを、ぼくの愛をたくさん注ぐのは楽しいね。……ぼくね勝手にゲームをしてるの。ぼくが耐えられなかったら愛情が溢れちゃった結果になって、耐え切ったらお腹の底から幸せと歓喜をあげるくらいの喜びを得られるゲーム。報酬はどちらも一緒で手に入れる段階だけが違うんだけど…ぼくは勝ちたいんだよね。だからじぃっと待っているね?ふふっちゃぁんと聞いてえらいねジュンくん。いいこいいこ。」 

    するりと頭を撫でた手がうなじを撫で背中をさする。むず痒くなって顔をあげれば、どこか遠くをみつめた愛情を込めた瞳とぶつかる。
    にこりと幸せそうに笑ったおひいさんにまた心臓が動いた気がした。


    あの日からオレはおかしくなった。

    おひいさんがオレの名前を呼ぶのも、にこりと太陽のように笑うのもいつも通りなのに、ときんっと心臓が跳ねたと思えばぎゅうっっと締め付けられる。
    なぎ先輩と仲良くひっついて話しているのをみてぐわりと胸に黒いモヤがかかったように息がし辛くなる。

    おかしいなとうんうん唸りながら過ごしていたが、結局何でそうなったのか分からないまま、ヒートがきてしまった。不安定な時にくるといつもよりぐちゃぐちゃになるから嫌いなのに。めんどくせぇと思いながら薬を飲む。

    おひいさんは今は居ない。ヒートの時はいつもいないから、おひいさんなりの配慮だろう、多分。
    飲んだとしても熱は抑えられないのでびちゃびちゃになるまでシャワーを浴び続ける。
    おかしい。一向に効かない。いつもなら効き始める頃なのに。持て余した熱がぐるぐると脳を溶かして体の感覚が曖昧になる。
    さすがにまずいと重い体を引きずって風呂場から出る。なんとか体を拭いて適当にTシャツをつかむ。習慣になってしまったチョーカーとペンダントをなんとかつけるが、自分の手が首筋に触れるだけでびくりと敏感に快楽が走ってどろどろになる。

    はぁはぁと荒い息が響いてうるさくて、寝て紛らわそうとベッドに近づけばおひいさんの匂いの塊みたいな布団に目がついて、倒れ込むようにすがりついた。
    必死に宥めようとしたのに、呼吸をするだけで入ってくるおひいさんの匂いにくらくらと目眩のように視界がぶれる。きゅっとシーツを掴めばオレの温度にすぐに溶けてふかふかと沈む。
    「おひぃっおひいさん…っぉひーさん…おひぃさぁん」
    なんでおひいさん居ないんだ、オレを抱いて欲しい。えぐえぐと嗚咽すら漏らしながらうわ言のようにおひいさんの名前を呼び続け、熱を殺し切ればべとべとになった手とシーツにガツンと頭を殴られるような衝撃。
    オレ、おひいさんの事考えながらイッたのか…?
    抱いてほしいのはオメガの性だろう。でもそれまでに思っていたモヤモヤにも名前が付けれるんじゃないのか、でも、それは。

    「はは…最低だな、オレ。」

    オレは多分おひいさんに恋をした。そして失恋した。
    胸元を静かに揺れるペンダントがオレの噛まれていないまっさらなうなじを冷たく突き刺す。
    何が運命だ、あの人の好きな人はオレじゃない。
    つーっと伝う涙がぐちゃぐちゃのシーツに染みを増やした。

     

    自覚してもおひいさんとの関係が変わるわけがなくて、相変わらずスキンシップは激しいし、我儘に振り回され続けている。

    その度に疼く熱が、跳ねる心臓に嫌気がさす。
    きっと春から居たんだろう、おひいさんの想い人が心底羨ましい。誰かさんが応えればおひいさんと番になれる存在がいる。我ながら女々しいと思うが考えて勝手に落ち込む。

    相棒として隣に立てるだけで御の字だと言い聞かせても、ヒートがくればほしいほしいと叫ぶのをやめられなくなる。本能って浅はかだなと自嘲しながら、怠い体に鞭を打って何時もみたいにべたべたの手を洗い流せばぐるぐると渦を描いて流れていった。

    「全部流せたら楽なんでしょうねぇ。」
    「ねぇ何が楽なの?ジュンくん?」

    びっくりして振り返れば、困ったように眉を寄せたおひいさんが入り口に立っていた。
    オレのヒートを感じとったのか、ばちんっと目があった瞬間どろりと濃くなったアメジストがオレを映す。
    あっまずい。

    「はっぁぅ…おひいさ…おひーさん、おひぃさぁん」

    あついあついあつい。おひいさんがいる、いる、オレの目の前におひいさんがいる。
    歩こうとして、ぐにゃぐにゃになった体はぐでんと溶けたみたいに崩れ冷えたフローリングに体がぶつかる。
    抱いてほしい、オレをあんたのにしてほしい。オメガとしての本能しかなくなった視界に赤くなったおひいさんが振り絞ったように声を出した。

    「…ジュンくん。ぼく、キミのこと大事にしたいね。だからぼくはキミのこと抱けない…こんな流れで抱いちゃいけないね。」
    「おひーさ…なぁでっひっぐっ、ぅぁぁっおひいさっぁう…おひいさんっ」
    「本能の状態で抱いてもキミの心がわからないね。それは傷つけちゃう行為だね、ジュンくん。…だからごめんね。ベッドまで連れてってあげる。何もできなくてごめんね。」
    するりと頬に触れた指が熱くて気持ち良くて、何か伝えたおひいさんの言葉をうまく咀嚼できない。
    よしよしと頭を撫でられるだけでぴくんと跳ねる体をすっと持ち上げたおひいさんはオレをおひいさんのベッドに下ろす。

    涙でぐしゃぐしゃな視界をゆっくりと拭ったおひいさんは、ぐつぐつに煮えた瞳をオレに向けるのに、いつもみたいにキラキラした笑顔で言い切った。
    「今日はリビングにいるね!!絶対に出てきちゃダメだよジュンくん!次はぼく、耐えられないね。お水とかゼリーとかは置いておくね…ぼくに会ったらダメだよジュンくん。」

    ぱたんと閉まった扉に待ってと手を伸ばせば、ぶわりとシーツに染み付いたおひいさんの匂いが広がる。
    必死に掴んで抱き込めば抱きつかれたときみたいな安心と、おひいさんに拒絶された事実を突きつけられる。
    「うぁぁっ…ぐっうっぅぅぁぁぁぁ…おひーっおひぃさぁ、おひっひっぐっ…おひいさぁぁん」 

    オレじゃダメなんだ、おひいさんはオレじゃ嫌なんだ、ごめんなさい、ごめんなさいおひいさん。あんたが好きでごめんなさい。

    ぐちゃぐちゃになった視界も体も心も全部本能と熱に飲まれて、へどりとへばりついた白に疲れ切って眠りに落ちた。


    ばちりと目を覚ませばぐちゃぐちゃのベッドと腫れきってじくじくと痛む目元。
    酷い惨状なのにすっきりとクリアになった頭がゆっくりと昨日のことを思い出す。

    やってしまった。発情したオレを運んでくれたおひいさんの困った顔がこびりついて離れない。
    今だに閉じたままの扉の先にきっとおひいさんは居るんだろう。
    …出ていかないと。今までなんとかなっていたのはきっとオレがおひいさんを求めなかったから。今は違う。
    次は耐えれないとおひいさんは言った。好きな人以外と番にはならないと話したおひいさんを思い出す。
    あの人の信念をオレが踏みにじるようなことはしたくない。
    ずきずきと痛む心臓を無視して、ゆっくりと立ち上がれば、守るように被さっていた上布団がするりと落ちた。

    次のヒートが来る前に、オレはこの部屋を出て行く。 
    滲んだ涙を流す前に拭った目元がちりちりと痛んだ。




    出て行くにしておひいさんに話さないといけないよなぁ。

    ヒートが過ぎて1週間経ったがオレはまだおひいさんの部屋から出られずにいた。
    前の寮に戻ろうと話を寮母さんにしに行けば、今はもう別の生徒が入っていると断られてしまった。
    仕方なく物件を漁っているが中々良いところが見つからない。
    普段なら住めるがヒートが来た時にセキュリティが甘いところはオレだって不味いとわかる。

    「なんでこんな面倒なんですかねぇ。」
    「何がです?さすがの自分も主語がない話は分かりかねますよジュン。」

    思わず出た独り言を拾われびくりと顔を上げる。
    すっかり定位置になった秀越の応接室のソファに背筋をピンッと伸ばしてカタカタと指を走らせる茨はこっちを一瞥もせずパソコンに向き合い仕事をさばく。
    ナギ先輩とおひいさんがまだ仕事でいないからだらだらと考え事をしていたのが仇になった。
    オレの話の続きを促すように少しスピードを緩めた茨に、まあいいかと思わず出た独り言の続きをぶつけた。 

    「あー、オレ今部屋さがしてるんですよね。」
    「何故です?殿下との暮らしにご不満が?喧嘩したから出てってやるとかなら止めて欲しいですね!不仲説とか出たら困るんで。」

    ちらりとオレをみた茨がなにやらかしたんだと訴えてくる。
    素直に話すには赤裸々すぎるし、どうしたもんかと唸りながら口を開いた。
    「うー、オレはオメガじゃないですか。だからおひいさんといるのまずいなぁって思ったんです。」
    「はぁ、今更すぎません?春から一緒に暮らしてるじゃないですか。それにジュンと殿下は運命の番なんでしょう?側に居ない方が体調崩したりすると思いますし、別に今まででいいのでは?」
    「良くないんですって!あーもー!ヒート、ヒートの時が困るんです!今までは平気だったんですけど今は無理なんです!だから出ていきたいんですよぉ!」
    「何急に恥ずかしがってんですか。殿下に相手してもらえばいいじゃないですか。うまく誘えない〜って相談なら自分嫌ですよ。」
    「え、茨ヒートの時誘ってるんすか。初耳。」
    「おおっと!自分、口を滑らせたようです!今自分の事は関係ないので続きどうぞ!」
    思わず茨を凝視すれば、わざとらしく一回り大きな声を出して、完璧な営業スマイルを見せつけてきた。茨は気付いてないんだろうけど、横から丸見えの耳がちょっと赤い。
    かわいいとこあるんだなとからかってやりたいが後々が面倒なのでしぶしぶオレの話に戻す。

    「…誘うとかじゃなくて、迷惑かけるから嫌なんですよぉ。おひいさんが絶対にしたくないこと、オレのせいでするのはぜってぇ嫌です。…それにオレの気持ちがしんどいんです。」
    ずきずき痛むのがぶり返してきて、顔を歪める。
    殺しきってないこれを抱えたままで次がきてしまったらオレはきっとおひいさんに最悪な事をせがんでしまう。
    それだけは避けたい。

    いつの間にか手を止めていた茨が心底面倒だと思っているのを隠さずため息をついた。
    「ジュンのとんでもない性癖に付き合っている殿下は殿下の趣味じゃないからやりたくないって思っていて、それが申し訳ないから1人で処理したいって事ですよね。ヒートの時だけ別の場所に行くにしても危ないからいっそ出てってやるって事ですか。流石ジュン!変な方向に思い切りがいい!!」
    「ちげぇよ!!そもそもおひいさんとそんな事する関係じゃねぇ!!」
    「は?しないんですか?番なのに?」
    「何言ってんすか茨?オレはおひいさんの番じゃないです。」
    「待ってください、ジュン!貴方達番になってなかったんですか!?」
    「う?そうですけど?」

    バンっと机を叩いて前のめりになった茨に、当たり前の事を言われて首を傾げる。
    茨のまんまるに見開いた海色の瞳がゆらゆらと揺れたと思えば長いため息と共に閉じられていった。

    「いえ、本当、予想外すぎたといいますか。
    イチャイチャしやがってこの野郎って思っていたので。本当に番じゃないんですか?」
    疑いの目を向ける茨にこくんと頷けば、眉間のシワを深くした茨に問い詰められる。
    「何故です。なぜ番になっていないんですか。」
    「なんでっておひいさんがオレ以外の人と番になりたいからですけど。」

    パチパチと信じられないものをみた顔をしている茨にもう隠すことでもないかと素直に話す。
    「拾ってもらった時、別に番になるつもりないって言われたんですよ、運命だからなるのが当然でもないって。まあ、そうっすよねぇ。オレも初日に噛まれたと思うとゾッとしますし。」
    「…殿下らしいですね。」
    「それにおひいさん多分番になりたい人いるんですよ。それなのにオレが居ると邪魔じゃないですか、ヒートが来たら本能に負けちまいます。それはダメです。だから部屋別にしたいんですよ。」
    「そこに戻ってくるわけですね!差し出がましいでしょうけど、ジュン!きちんと殿下と話し合うべきだと思いますね!
    ところで部屋を分けたいというのは殿下に伝えてますか?」
    「いや?まだ話してないっすねぇ。部屋見つかってからにしようと思ってましたから。茨どこかいいとこ知りません?」
    「知ってても教えてあげませんよ。殿下に殺されるじゃないですか。」
    やれやれとため息を吐く茨はどこか疲れた顔をしていた。

    どうしたのかと口を開く前に、綺麗な銀糸の髪が茨を包み込んだ。
    「なんだか大変そうな話をしているね……どうしたの?」
    いつの間にか戻ってきていたナギ先輩はこてんっと茨の頭に頬を乗せ飴色の透き通った瞳を向け静かにたたずむ。
     
    「閣下!お疲れ様であります!戻っておられたのですね、気付かず申し訳ありませんっ!」
    「ナギ先輩お疲れ様っす。おひいさんは一緒じゃないんすか?」
    「うん、まだかかるみたいだから私だけ先に戻ってきたんだ。」
    緩りと目元を柔らかい形に変えたナギ先輩は、ゆっくりとした動作で座りながら、オレを見つめる。

    「ジュン、日和くんはジュンの事大切に思っているよ?」
    「あ、おひいさんが嫌だから部屋別にしたいんじゃないっすよ。ただ迷惑かかるから出ていきたいだけなんです。…本当に。」
    「ふぅん…。でもね、ジュン。日和くんはジュンの事離すつもり無いと思う。杞憂に終わると思うよ。今だって日和くんの匂いがジュンからするから。」
    「柔軟剤っすかねぇ?オレにはやっぱ合ってないですよねこの匂い。」

    腕に鼻をあて嗅いでみるが、オレよりやっぱりおひいさんに似合う匂いだ。オレには甘すぎる。
    「そういう事じゃ無いんだけどね。でもこれ以上は2人の問題だから、ヒントはここまでだね。
    …そうだよね、茨?」
    「アイ、アイ!閣下の優しさは天からの贈り物ですからね。ジュン!流さずよく考えてください!!」
    敬礼〜☆と抱きつかれたまま腕を上げる茨は挑発するような目でなんとかしろと訴えてくる。
    いちゃいちゃするなと返し返せば、優しい目をしたナギ先輩が心配そうに微笑んだ。

    「心配かけちまってすみません。ちゃんと考えますよぉ。」
    顔を見合わせた2人がわしゃわしゃと頭を撫でてくるからやめろと抵抗していると、バンっと元気に扉を開いたおひいさんが帰ってきた。

    「お疲れ様で…うっわ!」
    オレらを見たおひいさんは拗ねたようにむうっと頬を膨らましそのまま勢い良く抱きついて首筋に頭をぐりぐりと押しつけてきた。跳ねる心臓がいたい。

    「お疲れ様です、殿下!」
    「ふふ、おかえり。日和くん。」
    「ただいま!!ぼくの目を盗んでジュンくんで遊ぶなんてずるいよね!」
    「痛いんすけどぉ!ちょっと、おひいさん!」
    「ぼくだけ仲間外れみたいで嫌だよね、悪い日和!」
    ぷんぷんと効果音を鳴らしながら首を振るから髪の毛が当たってくすぐったい。
    「ふっ…くっ…ふぅ………ふへ…っちょっとまじで離れてほしぃっくすぐってぇ!」
    「ぼくからの施しなんだから甘んじて受けるべきだよね!!」
    「じゃれあってないで、ミーティング始めますよ!こちら資料です!続きは帰ってからお願いします!!」

    悶えながら耐えていると、呆れ顔の茨に資料を押し付けられ、怒られる。
    うぃーすと返事しおひいさんから逃げるように受け取り意識を移す。
    事細かに書かれた文字を追いながら、どことなくひだまりの匂いが鼻をくすぐった気がした。



    遅れを取り戻すようにテキパキと進行されたミーティングは、特に不満もなく終わった。せっかくだし晩飯皆で食べます?と聞けば早く帰れと急かす茨に背中を押されおひいさんと共に外に追い出されてしまう。
    扉が閉まる前に振り返れば、心配そうに微笑むナギ先輩とさっさとなんとかしろと睨む茨が見えた気がした。

    考えろと言われたって、オレはおひいさんから離れる以外思いつかないのに、他に何を考えればいいんだ。
    とぼとぼと前を歩くおひいさんの後ろを追いかけながらナギ先輩が話していたことを考える。
    大事とか匂いとかよく分からない。
    いや、大事にはされているか。相棒だし。何だかんだおひいさんに守られている自覚はある。
    …オレもおひいさんの力になりたいんですけどねぇ。役不足なことも分かってるけど。

    「うぇっ!…いってぇ…。」
    ぐるぐると考えながら歩いていると、どんっと額に衝撃が走る。
    いきなり立ち止まったおひいさんの背中に思い切りぶつかったのかと痛む額を撫でながら顔を上げれば、じいっと底の見えない深紫がオレを見据えていた。

    「ねぇジュンくん。」
    いつもオレを呼ぶおひいさんの声が、暗い暗い明かりの灯らない夜のように深くて怖い。
    初めてみたおひいさんにどう反応していいか分からず、一歩後退りすれば逃がさないと言わんばかりに腕を掴まれる。
    オレの反応をわかっていたみたいな速度でぎゅうっと掴まれた手首は脈を止めれそうな程強くて振り解けない。 
    ずんずんと知らない人みたいに無言で進むおひいさんが俺たちの部屋の鍵をさっさと開けて扉を閉めると、流れるようにどんっとオレの体を力任せに押し付けた。

    「ねぇ、ジュンくん?さっき何の話をしていたのかな?…教えてよ、ジュンくん」
    逃げれないように足の間におひいさんの足を入れ、さらに力の込められた手首が痛い。 
    さっきってなんだよ、話ってと混乱したオレが答えれずにいると唇を歪めたおひいさんが憎々しげに告げた。
    「おとぼけのつもりなのかな?さっき凪砂くんと毒蛇に話していた事に決まってるよね?
    ぼくが知らないと思っていたのかな?そうだろうね。でもこんな大事な事凪砂くんがぼくに教えてくれないわけがないよね?ねぇ、どういう事なのジュンくん。」
    ギロリと睨みつけられ背筋が凍る。
    耐えられず下を向けば、ジュンくんと咎めるように名前を呼ばれる。
    怖くて仕方ないが、言わない限りおひいさんは納得しない。オレは知っている。
    嫌いな暴力的な事をさせてしまうくらい怒らせたのだ、オレの思いを知りもしないで。…違うか、知っているのか。だからこんなに怒っているのか。
    ははっと乾いた笑いが思わず漏れる。
    怪訝そうに首を傾げたおひいさんに、すうっと何度か深呼吸して覚悟を決めて口を開いた。

    「…オレが、オレがあんたと一緒に住むのに耐えられねぇからです。」
    ぐっと息を飲み込んで怒りを耐えるように顔を歪めたおひいさんに畳み掛けるように言葉を重ねる。
    「オレはオメガなんですよぉ!おひいさん!!あんたも見たでしょう?これから毎回あんなふうになるんですよ、オレは。オレは、あんたが嫌がる事を絶対にします。…番になれって、好きな人が、なりてぇ人がいるあんたに、オレにしてくれって頼んじまうんですよ!!あんた、次は耐えれねぇって言ったじゃないですか、だから!オレが、オレが居なくなれば解決すると思ったんです!!だから出て行くんです!手離してください、おひいさん!!」

    ぎっと負けないくらい強く睨みつければ、丸々と瞳が見開く。
    信じられないとふるふる震えるおひいさんに興奮気味に捲し立てたせいでじわりと熱く滲んだ目元からつーと涙が伝う。
    最悪だ。拭おうと掴まれた手に力を込めれば、ぱっと離され、オレより先に優しく指の腹で拭われ
    頬を包まれる。
    じいっとオレを覗き込んだアメジストは、どろどろと熱いマグマのようにオレを焦がした。
    「どうしてそういう方向にいっちゃうんだろうね?かわいいジュンくん?」

    怒りとはちがった不思議な表情をしたおひいさんがゆっくりと染み込ませるように頬を撫でる。
    「ぼくと番になりたいから部屋を出て行こうなんてそんなの許すわけがないね!
    ぼくはねジュンくん、キミがそう言ってくれるのをずーっとずーっと待っていたんだよ?」 

    するりと首筋を通ってうなじを撫でるおひいさんがじりじりと逃げ場をなくした獲物を狩るライオンのように、獰猛に笑う。
    「ぼくはね、運命とかじゃなくて、ぼくを見てぼくを好きになってぼくだから番になりたいってジュンくんが思うまで待っててあげたんだよ?
    それなのに出て行こうとするなんて、本当に悪い日和!」
    「は…?…なんで?」

    意味が分からない。おひいさん、好きな人が居るんじゃないのか。待っていたってオレを?
    どうして?
    わけがわからなくてぐちゃぐちゃのオレを慈しむように、あの日みた愛おしいものを見るような瞳でおひいさんがにっこり微笑んだ。

    「そんなの決まってるよね!ぼくはねジュンくん、キミのことが大好きで愛しているんだよ!
    運命とか関係なく、ジュンくんがジュンくんだから愛しているんだね!
    よぉく考えてねって言ったのに、まだまだ未熟者だねジュンくん。ぼくのお願いを曲解するなんて、悪い子なんだから!」
    「だって、そんなのわかんないっすよぉ!」
    「ぼく結構わかりやすくアピールしていたんだけどね?でもそうだよね、鈍感なジュンくんにはこれくらい分かりやすくないといけないね!」

    ぐいっと包まれた頬を持ち上げられ唇に柔らかい感触。
    …は?
    血液が一気にぐわりと全身を駆け巡る。
    目を白黒させたオレを気にせず、ゆっくり離れてにこりと微笑むおひいさんはオレの唇を綺麗な長い指でつーっとなぞった。 

    「こういうことだね。好きでもない子にしないねぼくは。よぉく聞いてねジュンくん。ぼくはね、キミの事が一等気に入っているね。初めて会ったときは知らない子だったけど、今はぼくが、この巴日和が1番に愛を注いでる子なんだよ。キミが勝手に勘違いしたぼくの好きな子はねジュンくん、キミなんだよ?」
    「うぅ?…え?うそ…」
    「嘘じゃないね!!あの時だって本当は噛みたくて手に入れたくて仕方なかったんだから!
    …ジュンくん泣かないで。本当のことだよ。ぼくはキミが大好き。番になりたいし、ずっと大事にしたいんだよ。だからお返事が聞きたいね?」

    嬉しくて苦しくてぐちゃぐちゃになって壊れてしまったオレの涙腺はぼたぼたと大粒の涙を落とし続ける。ばくばくとはやくなる鼓動は死にそうなくらい熱くてぐらぐらとオレの体温を上げて、おひいさんがゆらゆらと滲んでわけがわからなくなる。
    ずるずると座り込んだオレを優しく撫でるおひいさんが愛しいって目で見てくるから。
    オレも精一杯の返事を返さないと。

    しゃっくりを上げ続けるオレの口をなんとか宥めて、再度深呼吸する。
    ゆっくりとおひいさんに視線を合わせば、優しいアメジストが見つめてくるから、オレは精一杯の声を出した。 

    「オレもっあんたが好きですっ、大好きです、おひいさん…!オレを、あんたの番にして下さい」

    ぱぁっときらきら輝いたアメジストが見えたと思 えばぎゅうっと強く抱きしめられる。
    大好き、大好きだよジュンくんありがとうなんて声が耳元で何度も聞こえるから、オレもですと返事の代わりに、ぎゅうっと腕に力を込めた。


    しばらく抱き合っていたが、ここが玄関だと思い出したんだろうおひいさんが名残惜しく離れて腕を掴んで立たされる。
    帰ってきた時と同じように引っ張られながらリビングに着けば、ゆっくりとソファの上に座らされた。
    にこりと微笑んだおひいさんはいつもオレに我儘を言うときみたいに当たり前のようにオレのうなじを撫でて喋り出した。
    「ジュンくん。ぼくはやくキミがぼくのものって証明したいんだよね。」
    「証明?」
    「もう、にぶちんなんだから!番になりたいんだよね!!ねぇジュンくん…噛んでもいい?」

    あとはキミが頷くだけだねと雄弁に語る瞳に思わず笑みが溢れる。
    オレがいいってはやくと急かされて嬉しくないわけがない。
    「ははっおひいさんはせっかちですねぇ?オレはあんたの番になりたいんです。願ったり叶ったりですよぉ。…はい、これが証明です。噛んで下さい、おひいさん。」

    ぱちんと金具を外してうなじを晒せばとくとくと心臓が高鳴る。
    真っ直ぐおひいさんを見つめれば、ぱっと瞳を輝かせ、太陽みたいに、オレの知ってる大好きな笑顔で笑う。

    「ありかとう。愛してるよジュンくん。キミの永遠ボクが貰うね。」

    優しく胸に抱かれ、ガリっと音を立てた痛みとぴりぴりと走る刺激と共にじわりと熱が広がっていく。

    オレ、おひいさんの番になったんだ。

    湧き上がる喜びに胸がいっぱいになってまた涙が出てくる。嬉しい、嬉しい。
    どくどくと走る心臓すら心地よくて、噛んだ後をゆっくりと、いつもみたいに撫でるおひいさんが心底幸せだと微笑むから、オレも幸せですとおひいさんにキスを送った。
    始まりは番からびりっと頸に静電気が走ったような違和感。
    春の桜が散り始める頃にいつも通り校門を潜って得た感覚に首を傾げる。
    もう暖かいからマフラーもしていないし、髪が触れ合うほど長くもない。
    疲れてんのかな。それとも日差しが眩しいから暑かったのだろうか。そんな馬鹿な。
    上履きを履き替えて一呼吸。廊下を進むたびにばくばくと速くなる心臓に、上がる息に眉を寄せる。
    熱はない。至って平常だ。学校に着いた途端に上がったならそれはもう心の問題だろう。オレはそんなものには負けない。負けるわけには、いかない。
    非特待生のオレは無我夢中でこの泥の底から這い上がらないといけないのだ。アイドルになるために。

    学年が上がって真っ先にやる事が歌のテストだなんて、アイドル学校らしいんじゃないだろうか。
    抜き打ちの小テストのように講師から渡された課題をじっと見つめる。
    サビの高音が特徴的な曲だ。実力テストとして丁度良いとも言えるのかもしれない。
    依然心臓は早鐘を打つままだ。寧ろそわそわした気持ちも何故かあって、悪化している気がする。
    歌に集中したいのに、まるで何か他のモノを求めているような焦燥感。分からなくて、気持ち悪い。
    それでも体はいつも通りを覚えている。
    順番が来て、当てた音はばちっとあっていて、でも掠れて完璧とは言えなかった。

    失礼しますと丁寧にお辞儀して教室を出る。
    悔しい。悪くないのだけどと微妙な顔してコメントした講師は次の人とオレを切り捨てた。
    オレ以外にも生徒がいて、一人一人に気に留めている必要なんてない。分かってんだけどな。
    認められる程の圧倒的実力がない事を突きつけられ、ギリギリと唇を噛む。
    このまま何にもできない煌びやかな花にかき消された、薄汚れた泥で終わるなんてごめんだ。
    長い廊下を抜けて、校舎の裏庭で足を止める。
    すうっと大きく息を吸って、課題のフレーズをなぞる。
    さわさわと吹く風にオレの声が乗る。木漏れ日の時間に歪んだ顔したオレに似合わない、穏やかな歌が辺りに響く。
    ここが課題の難点、新鮮な空気の中で出した音は講師の前の何倍も良くて、悔しい。
    GODDAMN! 本番で出せなきゃ、意味なんてねぇんだよ!!

    「今の歌きみだね! 中々良い声だね!……ってもしかして」

    クソが。と、くしゃっと歪んだ跡の付いてしまった譜面を指でなぞってなおしていると、よく通る大きな声がオレの耳に入る。
    何だと振り向いて、濃い紫の宝石のようにキラキラと美しい瞳とぱちんと目が合った瞬間、手から譜面が落ちた。
    頸が痺れて、ぶるりと体が震える。
    ひゅうっと締まった喉では息を吸う事すら出来なくて、ばくばくと速くなった心臓は校舎に入ってきた時なんて可愛らしいもので、このまま血を巡らせすぎて死んでしまいそうだ。
    それに。
    「ねぇ、きみ」
    「……ぁ…っぅ………な、なんで……あ、あんた、なに……?なんでオレ、あんたのにおい」
    おかしい、おかしい。オレはこんな匂い嗅げないはずだ。しらない、なんだこれ。
    ふわっと柔らかく、甘い匂いに混ざるビリビリと脳を焦がす匂い。ぐらぐらと体の軸がブレて分からなくなる。恐らくα特有のフェロモンを察知している。は、何で?
    オレが混乱しているうちに、ざりっざっざっと埋まっていく距離にじりじりと後退してヒヤリとした壁にぶつかる。
    そっと伸ばされた腕に捕まった手がびくりと跳ねた。
    「きみ、ぼくの運命の番だよね! だってさっきからぼくきみの事が気になって仕方ないもん! 他のΩにはなかったね!」
    「ひっ!……はぁ? いや、わかんねぇ、です。あんた多分αでしょう?……ぁっ、はなせ、離してくださっ」
    「うん、そしてきみはΩだね! ぼくは巴 日和! ねぇきみ、ぼくとユニットを組もうね。きみの声気に入っちゃったね! そして番になろうね!」
    「や、やだ、いや、いやです! つがい、やです、はなして、いやだやっやだ」
    きゅうっと力を込められにこっと笑う人にぶんぶんと首を振る。なんて事ない力でも今のオレには毒のよう。αの人間なんて今までも会った事があるのに。初めての感覚が怖くて、ビクビクと無様に震える体が熱くて、熱くて、高く掠れて必死に冷静になろうと喘ぐ声が泣き声みたいに木霊する。
    「うーん、番、嫌なんだ。じゃあ先にユニットを組もうね。きみ非特待生でしょう? 特待生の、世界の主人公のぼくがきみを拾ってあげる! それならいいでしょう? さぁ、ぼくの拾った野良犬くん! 主人に名前を教えるといいね!」
    よしよしと落ち着かせるようにそっとオレの頭を撫で、するりと顎を掴まれる。
    じぃっとオレを見つめる目が真剣で、オレの中の絶対的な意識が、この人に従えと叫ぶ。
    「さ、漣 ジュン。漣 ジュンです」
    「うんうん、ジュンくんだね!! 2回も言うなんてよっぽど覚えてほしいんだねぇ、欲しがりさん!」
    「ほしがり、なんかじゃ」
    「さっそくだけど、ぼくとユニットを組む手続きをしなくちゃ! でもその前にそのお顔をなんとかしないとだね。うるうるしちゃって可愛いらしいけど、人前にはそぐわないね」
    そっと真っ白なハンカチでオレの目元を拭う巴 日和……巴先輩はにこにこと上機嫌にオレに笑う。
    「あ、あの、ありがとうございます。離れてください。オレ今へんで……」
    「ヒートかね? このまま早退しちゃおうね。きみのお部屋まで連れて行ってあげる。ほら行くよ」
    離せの言葉なんて知らないとオレを引っ張り進む人が昼の太陽に照らされる。
    ふらついたオレを支える事もなく、ステップを踏むようにダンスの振りのようにオレを動かす。
    ふらふら動く体は熱いのに、不思議と軽い。
    柔らかく吹く風にふわふわと踊る薄桃の花弁と柔らかいスプリンググリーンの髪。どんな花より美しい紫の瞳で満開の笑みを浮かべる巴先輩がオレの譜面を拾って歌い出す。
    何となくつられてオレも歌う。
    寄り添うように、明るく華やかな声がオレの声と混ざって溶けて、なんか、一つになったみたいだ。
    ぼうっと熱の回ってろくに動かない頭で背中を眺める。
    くるりっと振り返り光の中で微笑む姿が眩しくて、ドクンっと心臓が動いて、ぽろりと涙が溢れた。


    本当にユニットを組んでしまった。
    傍若無人の我儘貴族。強引でその癖繊細な厄介な人。アイドルとして天才。そしてオレの運命の番。
    一緒に暮らそうとしつこくて、折れてしまったせいで何故か同室相手になってしまった、巴先輩、もといおひいさん。
    オレはこの人のせいで変わった事が一つある。

    「わっジュンくん!?…….あー、あの人αだったね。仕方ないね、ショッピングは明日に変更だね。……お薬飲んだね、帰るよジュンくん!!」
    「っ……すんません」
    お疲れ様でした!っと元気に声をあげるおひいさんと頭を下げて楽屋を出る。
    オレのせいで早足に進むおひいさんはぎゅぅっとオレの手を繋いだまま離そうとせず、そのまま茨が手配していた車に乗り込む。
    多分これを見越していたんだろう敬礼した茨の笑みを思い浮かべて食えねぇやつだなと心底思う。
    お陰で助かってはいるから文句なんて言えない。
    ぎゅうっとおひいさんの手を強く握ってはぁっと息を吐く。やっと、一息つけた。
    「困ったものだね。きみの体質が改善された結果と考えたらいいのか、今までなかった分の反動と捉えたらいいのか」
    うーんっと悩むおひいさんがそっとオレの頭を撫でるのに申し訳なさでいっぱいになる。
    「すんません。オレの、せいで」
    「きみのせいじゃないね。着いたら起こしてあげる。寝なさい。特別に肩貸してあげるね!」
    ぐいっと頭を肩に押し付けられ、ゆっくり頭を撫でられる。
    すうっと息を吸えばおひいさんの匂いでいっぱいになって不安定なグラグラした心地が安定する。おひいさんの、αの、匂い。

    オレはおひいさんに出会ってαの匂いがわかるようになった。
    それまでは体に負荷をかけすぎていたのか、幼い頃からのストレスか、要因がありすぎて正確には分からないがオレはαの匂いも分からなければ、ヒートもないΩだった。
    体の、性の成長が止まっていたオレはβと何も変わりがなく、自分がΩだという実感があまりなかった。
    だけど、おひいさんという運命の番に出会ったあの日、初めて来たヒート以来それはひっくり返った。
    おひいさんの匂いを筆頭に、同じユニットのナギ先輩。αの発情期が近い時や感情が大きく現れた時など、α特有のフェロモンや匂いが分かるようになった。
    問題はここだ。
    分かる、という事はΩとして機能しているという事。そしてオレは今までそう言った事が一切無く、耐性のない人間だった。
    「おひ……さ」
    「うん、大丈夫。起こしてあげるからね。怖がらなくても平気だね。ぼくがそばにいるから、ゆっくりお休み」
    とろっと甘い蜂蜜のような声でオレを甘やかすおひいさんにそっとすり寄って、もう一度匂いを吸い込む。
    仮にも運命の番。オレが拒否したせいで番ではないけれど、それでも本能が決めている番。その人がいるのに他の人の匂い、フェロモンなんて体が受け付ける訳がない。
    強い刺激のフェロモンを嗅ぐたびに、闇の中に一人放り込まれたような、全身ぐちゃぐちゃにされて切り刻まれて、オレが無くなってしまうような心地で心身にダメージを負う。
    いつになったら慣れるのだろうか。
    不安な気持ちのまま目を閉じてはおひいさんの匂いと温度に安心するのが定期的に起こっている。
    オレにとって、今一番の問題だった。



    おひいさんに肩を揺さぶられて目を覚ます。
    いつの間にか眠っていたらしい。
    ぼぅっとしたまま車を降りようとして気付く。
    ここ、ベッドじゃないか?
    「うん、起きなかったからね。仕方ないから運んであげたね。ぼくが優しくてよかったね、ジュンくん」
    「あ、すんません、オレ」
    「取り敢えず顔を洗ってくるといいね。洗ったらすぐ戻ってきて欲しいね、ジュンくん」
    言われるまま顔を洗う。ぼうっと赤くなった顔で釣り上がった目尻は人相が悪くて我ながら怖いなと少し思う。
    ぴしゃぴしゃと何度か水をつけ、マシになった顔でおひいさんの元へ戻る。
    からんっと音のなるアイスティーの氷がゆっくり溶けた。
    「きみの状態が一向に良くならないの体が慣れていないっていうのはあると思うんだけどね、ぼくっていうαが、運命の番がそばにいるのに、番になっていないのも原因の一つなんじゃないかなって思うんだよね」
    「はぁ……。いや、オレが悪いと思うんすけど?もう夏も終わるってのに全然慣れねぇし」
    「うん、だからその原因だね」
    ぴしゃっとオレが言い訳する間もなく言い切るおひいさんがオレをじっと見つめる。
    原因と言われても。
    「α慣れしてないから、なわけがないよね。それにねジュンくん気付いてなかったと思うしあえて言うんだけどね、ジュンくんのそれ、お薬関係ないね。ぼくの匂いで回復しているねきみ」
    「おひいさんの匂い」
    さっきもおひいさんの匂いを嗅いだ時不安感は確かに安定した。でもそれがなんだと言うのだ。

    「先月だったかな。格下のアイドルとレッスンした時の事。珍しくぼくも怒っちゃった時の事覚えてない?」
    先月、ってTrickstarの皆さんとサマーライブがあって、ああ、あの後の。
    別の仕事の共演者のαとおひいさんと言い争いになった時だ。いつも通りのEveの戦略に嵌った相手が激昂して、その時の興奮したαに当てられてオレもヒートを起こしかけたはずだ。
    性的興奮と感情的興奮でもなんでも当てられてしまうこの不慣れな体に鞭打って、そろそろレッスン室に置きっぱなしの鞄を漁って薬をのんで。
    でもあの時確か。
    「オレ、あの時おひいさんに大丈夫って言いましたよね? なんかすげぇ効いた記憶あります」
    ざぁって白い顔をさらに白くしたおひいさんがオレを守るみたいに抱きしめて、ぐちゃぐちゃして朦朧とした頭にジュンくんってオレを呼んだおひいさんの声が届いた瞬間、気持ち悪い感覚が全部するりと無くなったのだ。
    そういえばあれからおひいさんの匂いはいつでも分かるようになった気がする。体の一部がそこにいるって、何となくだが。
    「うん、その時だね。きみあの時お薬間違えて飲んでたんだよ。よっぽど焦ってたんだろうね。
    薬もないのに、何で平常に戻れたと思う?思い出して」
    そう言われても思い出せる事なんて他にない。
    「帰るね!!」って有無を言わさずオレの手を引いて、まだ納得してない共演者を放置し、そのまま仕事もボイコットしたおひいさんの代わりに謝りに行ったくらいだ。

    唸りながら首を捻っていると、呆れた顔したおひいさんの綺麗な瞳がきっとつり上がる。
    「もう、本当に覚えてないの? あの時きみぼくの首筋噛んだんだよ? ほら、ここに。思い出した?」
    すーっと白い指を自身の首筋に滑らせとんとんっと叩くおひいさんにえっと呆けた声が出る。
    跡も傷一つない、陶器みたいな肌を晒してぐっと近寄るおひいさんが驚きで固まったオレの顔を覗き込む。
    「うん。甘噛みみたいに何度も噛んできたね。
    視覚的に満足したのかね? ぼくの跡見た途端に急に元通りになったんだもん。びっくりしたね。
    ……あれからぼく、ずーっと考えてたんだよ。ねぇジュンくん」
    「あの、すみませんでした。覚えてなくて。それにあんたに噛み跡つけるなんて」
    「違うね。ぼくが欲しいのは謝罪じゃないね」
    とんっと唇に白い指を当てられ聞いてね、とレッスンの時みたいにオレを嗜めるおひいさんにこくりと頷く。
    「ぼくと番になろうジュンくん。きみに自覚はまだないだろうけどね、きみがこのまま苦しみ続けるよりずっといいね。後ろ向いてね、ジュンくん」
    「はっ? 待って下さいおひいさん!!」
    ぐっとさらにオレと距離を詰めるおひいさんから慌てて距離を取る。
    むっと怒った顔したおひいさんが立ちあがるのを阻止しようと声を張り上げる。
    「何考えてんすか!! 不調はオレの体質のせいで、あんたがオレを番にしないといけない理由にはならないでしょうが! それに番って一生ものなんすよ!?」
    「うん、そうだね? だからなろうって言ってるね? きみはぼくと一心同体の運命共同体なんだから、どんな形でも一緒だし、離れられないね? それに番になったらきみのそれが治るってきみから教えてくれたね? ならないって選択肢の方がないと思うんだけど」
    不思議そうに首を傾げたおひいさんがゆっくりこっち向かうのを見て反射的にリビングへ駆け出す。

    番、何てオレで良いわけないだろ。
    おひいさんはいつだってオレを不要だと捨てると決めれる人だ。
    落ちるつもりは毛頭ないし、食らいついてやると決めているが、おひいさんの気持ちなんて分からない。
    もしおひいさんがオレを捨てると決めた時、番だったら枷になる。オレも人生一生分の傷を負う。
    精神安定になる、が理由の番ならオレは多分今よりもっと酷い状態になるに決まってる。
    何考えてんだおひいさん。
    「逃げるなんて酷いね。鬼ごっこにしてもつまらなさすぎるし。観念するといいね、ジュンくん」
    「うわぁっ!?」

    玄関までのドアを開こうとした瞬間、がしっと手を掴まれる。
    動くなと言いたげに腰に回った腕が痛いくらい力を込められていて、逃げようにも逃げられない。
    「番になろうね、ジュンくん」
    「絶対嫌です、おひいさん」
    チョーカーの留め具を押さえて抵抗を示す。
    ぐっとさらに強くなった力に悲鳴が漏れる。
    「何でそんなに嫌の? ジュンくんは苦しい思いしなくなるし、悪い事ないね?」
    「……あんたに、メリットねぇでしょうが」
    第一オレ達はアイドルで、学生だ。
    おひいさんだって好きな人ができるかもしれない。その人と番になりたいと思う事だってきっとある。
    オレが慣れさえすれば今の問題は解決するのだ。
    軽率になるものではない。
    「メリット? ぼくがジュンくんと番になりたい、以外に理由が必要?」
    「もし好きな人が出来たらどうするつもりなんすか? それにいくらあんたが優しいからってオレのΩとしての精神、体調安定だけで番になるなんてありえねぇですよ、おひいさん」
    「…………そう」 
    「おひいさん?」

    すっと突然拘束がなくなる。おひいさんが折れるなんて珍しいとホッとした気持ちで振り返れば、再び腕を掴まれソファに投げ出される。
    ぼすんっと体が沈む音とクッションが勢いに負けフローリングに落ちるのを横目に、ゆらりとオレに覆い被さるおひいさんにぞわぞわと背中が震えた。
    「ねぇ、ジュンくん」
    「な、なんすか。おひいさん、なんか変でっぐぇ」
    そのまま倒れ込んできたおひいさんに圧迫され、潰れそうになる。
    拗ねた時みたいにオレの首筋に顔を押し付けぽろぽろシャツを濡らすおひいさんの頭をそっと撫でる。
    何で泣いてんだ、おひいさん。

    「泣きたくもなるね。ぼくの愛情も心配も全く伝わってないんだもん。だからぼく決めたね。
    きみの番はぼくだって絶対認めさせるね。ぼくじゃなきゃきみの不調も治せないって、ジュンくんはぼくの事大好きだってきみに自覚させてあげる。宣戦布告だね」
    首筋から顔を離したおひいさんがオレを真っ正面から見下ろす。
    ふっと不敵に笑うおひいさんはかっこいいのに、赤らんだ目元がうるうる潤んで今にも溢れそうだ。
    「宣戦布告にしてはキマってないですねぇ。でもオレ、間違った事言ってないと思うんすけどね」
    「きみの意識から塗り替えてあげる。覚悟していてね、ぼくの可愛いジュンくん」
    ちゅっと小さく重なった音と頬にぽたりと濡れた冷たい温度がじわじわ染みてぶわりと頬が熱くなる。
    「な、な、な」
    「はやく自覚するといいね。きみはぼくの運命の番なんだから」
    頬を撫でるおひいさんがゆっくり涙の跡を拭う。
    くすくすと笑う姿はいつもと変わりなくて、さっきのは夢だったのではないかと思いそうだ。 
    「惚けた顔しないの。信じられないの? ならもう一度」
    「い、いや、いらねぇです!! 飯作るんで退いてください、おひいさん!!」

    そう?っとオレから離れるおひいさんにバクバク煩い心臓がようやく落ち着く。
    何考えてんだ、わけわかんねぇ。

    「きみの事好きだから番になりたいんだね? それだけを今日は覚えるといいね! 晩ご飯はオムライスがいいね! デミグラスソースをかけていただくからね!」
    お腹空いたね!っと急かすおひいさんに立たされキッチンに押し込まれる。
    本気だからね?っと念押しするように薬指に口付けシャワーに消えたおひいさんからふわりと柔らかい匂いが漂ってへろへろと腰が抜ける。
    GODDAMN!っと出した大声は掠れて、小さく響いた。

    ジュンくんって、本当に鈍感で無防備で、無自覚だよね。

    「…おひぃ……さ」
    すりっとぼくの肩に身を預け、頬を寄せるジュンくんが小さくぼくを呼ぶのに応えて頭を撫でる。
    ふわっと嬉しそうに微笑んで再び眠るのを確認して紅茶を啜る。
    うん、上手に淹れれるようになったね。
    「ジュンくんこんなにぼくに気を許してるのにまだ自覚ないんだもん、ぼくびっくりしちゃったね」
    「ジュン、すごく幸せそう。でも苦しそうだね。ずっと離れない」
    興味深そうにジュンくんを見つめる凪砂くんに頷いてそっと頭を膝に変えてあげる。
    もぞもぞと動いて、きゅうっとブレザーの裾を掴んで眠るジュンくんは知らないだろうけど、きみが眠る時の定位置と控えめの甘えはぼく達の中では珍しい事ではなかった。
    「毒蛇も早く戻ってくるといいのに! そしたらお家でゆっくり寝かせてあげるのにね!」
    「車の手配忘れなんて珍しいよね。茨も疲れてるのかな? 私、何かしてあげたい」
    「凪砂くんは本当に優しい子だね! 凪砂くんからの施しならあの子何でも喜ぶと思うね、素直じゃないから表に出さないけど」
    「ジュンも、少し違うけど似たような感じだね。早く気付いて番になれるといいんだけど……私、ジュンと長くお喋りしたいな」
    凪砂くんのフェロモンはΩにとってはそれはそれは支配的でくらりと酔って、なんて可愛らしくない酩酊の美酒のようなのだろう。
    芳しくも神々しい花の香り、百合の花より清廉で強くて、ぐらぐらしますって初めて会った時ぼくに捕まって必死に意識保ってたジュンくんを思い出す。やっぱり慣れ、だけじゃないと思うんだけどね、きみの体質。ゆっくり頭を撫で思案する。

    宣言して5日経った今も変わらず、番になる事に頷いて貰えない。
    毎日欠かさずぼくが好意を伝える事に照れてるジュンくんは逃げるようにぼくから離れようとするし、顔は真っ赤なのにそれに気付かず文句を返しては嫌だ、ならないの繰り返しだ。
    ぼく、きみにキスまでしたんだけどね? 嫌だって嫌悪もなかったくせに。分からずや、鈍感!
    「うぅ……」
    もぞりと体を震わせ起き上がったジュンくんがぼーっとぼくを見つめ、きゅうっと抱きついてくるのを受け入れる。
    すりすりと肩口に頬を寄せる姿は幼い子供みたいだ。
    「ジュンくんおはよう。あ、こら!」
    「ん、ん、おひい、さん。おはようございます」
    かぷ、かぷっとぽくの首を噛んで満足そうに、物欲しそうにするジュンくんの頬をぷにっとつねる。
    跡が付かない力加減を覚えるほど噛んでくるジュンくんの黄金の瞳はとろりととろけていまにも落っこちてしまいそう。
    「熱烈だね。これも覚えてないの? すごいね、ジュン」
    「ぼくの番は嫌だーなんてどの口がいうんだって思ったでしょう? ぼくも思うね」
    「あぅ……だって、おひーさん、オレをすてるかもじゃないっすかぁ」

    ぽわぽわした声で参加したジュンくんをばっと見つめる。
    いたいれすとジト目でぼくを凝視するジュンくんに慌てて手を離す。
    ごめんねと頬を撫で、また寝そうになっているジュンくんの背をゆっくり叩いて続きを促す。
    ごくりと思わず飲み込んだ唾がどろりと喉を滑っていくのが気持ち悪い。
    うー?っと首を傾げたジュンくんが小さく口を動かすのに耳を傾けた。
    「オレまだおひいさんの隣に立ててません。どりょくはとうぜんしてますけど、でもまだまだです。もう知らないっていらないって捨てられる日が先かもしれない。その時番だったらおひいさん、なんだかんだ甘いから捨てられないじゃないすか。そんなの、ダメです。だから嫌ですよ、おひいさん」
    言い切ったジュンくんがはむっかぷっとぼくの首筋を噛む。
    ふにゃぁっと寂しそうに笑うくせに誇らしげでちっともわかってない。でもぼくはきみのそういうところが気に入ったのだ。危うく無垢で気高い熱のあるきみが好きなのだ。
    ぎゅうっと力を込めて抱きしめる。
    「ぼく、絶対ジュンくんと番になるね」
    「根底から洗い直しだね、日和くん」
    なるほどねと納得した凪砂くんが頑張ってとぼくに微笑むのに大きく返事する。
    「当然だね!!! ぼくに愛されてるって事たぁっぷり教えてあげなくちゃね!」

    ね! ジュンくん!っと抱きしめたジュンくんの額にキスを送る。
    くすぐったそうに笑うジュンくんはまだちゃんと受け入れてないと分かる、戸惑った顔をしている。
    ぼくの言葉をアイドルとして正しく受け止めて、それのせいで番にならないとイコールで結びつけた短絡的思考にしょうがない子と小さく微笑む。
    ぼくはねジュンくん。きみを手放す気なんてないね。ぼくの相方はきみだって予感めいたものすら感じるね。運命、なんて信じてないけど、きみがぼくの腕の中にいるんだもん。人生って面白いねぇ。
    曖昧に笑って、首を振るジュンくんのとろりとした瞳がぱちぱちと瞬きする。そろそろ本格的に起きそうだ。
    5日前なら離したけどね、配慮なんてもういらないね。
    ばっちり目覚めたジュンくんが暴れるのに言い返して、騒ぐぼくらを気にせず分厚い本を読み始めた凪砂くん。
    随分と愉快な部屋に帰ってきた茨が呆れたように敬礼した。

    さっさと帰れと珍しく分かりやすかった茨に見送られ寮に着く。
    がっしりと繋がれた手は秀越の廊下でも車内でも離れず、もう諦めた。
    機嫌がいいようで刃物で刺すように鋭い目が部屋に入ったら覚えてろと言いたげで、びっくりするほど帰りたくない。
    オレなんかしたっけ。また気分が悪くなって、寝ちまって、何故かおひいさんに抱きしめられてたぐらいだ。
    筋トレ嫌いなくせに力の使い方が上手いおひいさんから逃げられなくてばたばたと無様に足掻くことしかできなかった。
    関節を上手く捉えるのだ、護身術でも習っていたのだろうか。あり得るな。
    「顔が怖いねジュンくん! なぁに? ぼくと手が繋げるのが嬉しいの? うんうん、そうだよね、少しでも長く繋いでいたいよね! かわいいねぇジュンくん!」
    「はぁ!? 違いますよ、なんか帰りたくないだけで、そういう意味じゃ」
    「帰ってからも繋いでいるけどね? ふふっ見せつけて帰ろうね、ぼく達仲良しですって!」
    「やめてください、まじで離せっておひいさん!!」

    あははと大声で笑うおひいさんに引っ張られながら門を潜って、部屋の鍵を回す。
    靴を脱ぐ時ぐらい離してほしい。脱ぎづらくて仕方ない。
    手洗いで解放された手をまたすぐに掴んだおひいさんがソファに座るのに従ってオレも座る。
    さっきまで鳴りを潜めてた鋭い瞳でオレを見つめるおひいさんがにこりと微笑んだ。

    「お話があるね、ジュンくん」
    「何すか」
    「ぼく、きみの事凄く大事に思っているね。だから番になろうって何度も伝えているんだね。でもきみはその事よぉっく分かってないみたいだから、だからきちんと伝えてあげる」
    ちゃんと聞くようにと言いつけるおひいさんをじっと見つめる。
    「ぼくね、きみの事捨てないと思うね。大事に育てて、ぼくの隣で歌う子はきっときみだと思うんだよ。もちろん、見込み違いなら捨てるね、それは当然。でもね、その事と番になる事の拒絶はイコールにはならないね」
    「は、」
    「ぼくはアイドル! それは未来永劫変わらないね! そしてその相方にきみはなる、そう思うね。未来の事なんて誰も分からないけれど、ぼくはきみと一緒に生きたいって思うんだよジュンくん。これはぼくのずっと持ち続けている気持ちだね」
    「気持ちが、だからなんすか」
    「うん、番とアイドルを両立するくらいきみなら出来るね! ぼくが捨てるかもしれないってそうならない為に必死に崖を登っているきみが、なりふりなんて構ってられないはずのきみが! 落ちた時のぼくの心労を真っ先に考えるくらい、とびきり優しいきみの事、ぼくちゃんと愛したいね。だからね、ぼくにちゃんと愛される事を受け入れてほしいね」
    きゅっと小さく握る指に力を込めたおひいさんがお願いっと呟くのに呆然とする。
    捨てないと思うから、捨てたくないから、愛させて、何て言われるとは思ってもいなかった。
    どこで知ったのか知らないが、オレの不安要素を捨ててまでなりたいって真剣に伝えるおひいさんが珍しくて本気で戸惑ってしまう。
    「う……えっと、そのでもオレおひいさんの事恋愛的な好きじゃ」
    「それなんだけど、ジュンくんぼくとのキスは嫌だった?」
    そっと頬に触れて額を合わすおひいさんの親指がオレの唇をなぞる。
    別に嫌悪感はない。ないけれど。
    「なら、いいじゃない。ぼくは何度だってきみとしたいね。それにその気持ちがまだ分からないならぼくと過ごして分かっていけばいいね」
    「そう、何すかね」
    「そうに決まってるね」
    ゆっくり重なった唇が離れて、もう一度なぞるおひいさんが花の咲いたように笑う。

    「ねぇジュンくん、番になろうね。そしてぼくと恋をして、愛を知ってね」

    するっと回った指がぱちんっとオレのチョーカーを外す。
    いい?っと聞く人に頷いて手を繋いだまま頸を差し出す。
    「よろしくね、ぼくの番、ぼくのジュンくん」
    がりっと噛まれた頸からびりびりと痺れが全身を駆け巡る。
    倒れそうなくらい熱くて堪らない体を抱きとめたおひいさんの匂いに酷く安心して、やっと、何て不可思議な歓喜と共に首筋に擦り寄る。
    「おひ、さ」
    かぷりと噛むように唇で食んでゆっくり離れる。
    にこりっと愛しげに頬を染めたおひいさんの鮮やかに輝くアメジストをみて、ボロボロと涙が溢れる。
    ぎゅうっと抱きつくおひいさんを受け入れて、握り合ったままの手にきゅうっと力を込める。

    オレの、番。オレのおひいさん。
    どくどくと動く心臓に、熱に溺れそうになりながらゆっくりと息を吸う。
    陽だまりの温もりに甘い、金木犀の匂いに薔薇のように華やかなフェロモン。おひいさんの匂いを肺に満たして、脳まで溶かすように体に染み込ませる。

    アイドルの相方が変わらないとオレはあんたに認めさせます。
    だからあんたはオレがおひいさんと番として共にあるために。
    最初は好きの気持ちから、恋から、教えて下さい、おひいさん。

    薄紫への盲目
    おひいさんと番になった。

    とはいえオレとおひいさんの関係が変わる事はなく、相変わらず奴隷として荷物持ちをし、アイドルの相方としてレッスンして、ステージに立つ。
    何ら変わらない生活を送っている。
    変わったと言えばおひいさん以外のαのフェロモンに振り回される事が格段に減った事だ。
    ね、言ったでしょう?っと胸を張って笑うおひいさんに悔しいけど何も言い返せないくらいには、オレの精神も身体も安定している。

    ふわりと香る甘い金木犀の匂いを捕まえて真っ直ぐ向かう。
    華やかなライトグリーンの頭を見失わないように
    人混みを縫うようにかき分け袖を掴む。
    まだ何も買っていないらしい手ぶらのおひいさんがオレを見下ろしぱちりと瞬きをした。
    「ぼくをひとりぼっちにするなんて、悪い子だねジュンくん?」
    「あんたがオレのホームルームが終わるのを待たなかったからでしょうが。少しはオレの事も気にしてくれませんかねぇ?」
    「そう思うなら待ってってお願いすればいいね? 叶えてあげるかは気分次第だけど!」
    「そうですよねぇ。あんたはそういう人ですよねぇ」
    GODDAMNっと呟く声はくすくす笑うおひいさんの笑い声にかき消される。
    そっと袖を掴んでいるオレの手に触れたおひいさんに外され、きゅうっと握られるのにため息を吐く。
    「……信号変わるまでですからね」
    にこりと笑ったおひいさんにそっぽ向いて真っ直ぐ前を見る。
    たった数分手を繋ぐだけ。それだけなのに最近なぜかムズムズと背中に痒みが走ってじわりと手のひらが熱くなる。
    これも番になったからだろうかと、はやくもデメリットを感じて軽率だったかと頭を抱える。
    きゅっと一瞬強まった力にゆっくり顔を向ければ、行こうねといつも通り笑うおひいさんの手がそっと離れた。


    「ただいまー! メアリメアリ、いい子にしてたかね? うんうん、たぁくさん撫でてあげるね!」
    「おひいさんその前に手洗ってください、メアリに菌が移る!」
    「わかってるね! ぼくをなんだと思ってるの!? ジュンくんったら酷いね、ねぇ〜? メアリー?」
    「ワン!」
    おひいさんと目を合わせて返事するメアリはぶんぶん尻尾を振ってオレ達が帰ってきた事を歓迎する。
    ちゃんと洗面所に消えたおひいさんを追いかける前にオレの足の周りに擦り寄っておかえりっ!っと全身で告げるメアリにただいまと笑う。
    とてとてとドアの前に移動したメアリが、早く撫でて撫でてと甘えた声を上げるのに可愛いなと頬が緩む。
    お行儀がすこぶるいいオレ達のお姫様をおひいさんが構っている間に飯を作って一緒に食べる。
    番になっても変わらない日常だ。
    当たり前なんだけど、それにどこかほっとする自分もいるのも確かで。
    両立、ってやつができている結果なのだろうかと首を捻る。
    まだ実感が浅いだけなのだろうか。
    「ジュンくんジュンくん、明日は和食が食べたいね! 炊き立ての白いご飯にお味噌汁とお鮭がいいね!」
    「あれ、卵焼きはいらないんすかぁ?」
    「だし巻きがいいね! お弁当にも詰めてね?」
    るんるんっと音符が飛びそうなくらい弾んだ声を上げるおひいさんが楽しそうに笑うのをぼんやり眺める。
    ご馳走様でした!っと丁寧に合わせた手に米粒1つも残っていない綺麗なお皿に、お粗末様でしたと呟いた。

    風呂から上がれば、オレに気付いたおひいさんがぽんぽんっとソファを叩く。
    いつもなら既にベッドに入っている時間だ。
    珍しいなと思いながら素直に従う。
    「ねぇジュンくん」
    「うわっ!?」
    手を取られ引っ張られる。支えがなくなればおひいさんにぶつかるしかなくて、とんっと鼻が鎖骨に当たってじんじんする。
    「ねぇジュンくん、ぼく達番だね」
    「そっすね。番、ですね」
    オレの困惑した返事にうんっと頷くおひいさんがするりとチョーカーを撫でるのにピクリと肩が跳ねてしまう。
    「な、なんすかぁ? 一回じゃダメなんすか、また噛みます?」
    「魅力的なお誘いだけどね、今は大丈夫。うん、顔色も肌艶も良くなってる。ふふっぼくの匂いがするね、いい日和」
    すんっと仔犬のように首筋を嗅ぐおひいさんが背中に回した腕に力を込める。
    何がしたいんだ。分からない、変だ。
    「あの、おひいさん?」
    「番になって、ちゃんと他のαからの影響はカットできてるね。威圧にも、もう意識は飛ばなくなってるね。でもしんどい事に変わりはないね? だからこれあげるね」

    チェーンのついたガラスの板のようなものを取り出したおひいさんがにこりと微笑む。
    透明な板の中でちゃぷんっと揺れる薄紫の液体はおひいさんの匂いと酷似していて目が離せない。
    「ぼくがずーっときみのそばにいる、っていうのも難しいからね。ちゃんとぼくの匂いも分かるみたいだし、そろそろいいかなって。つけてあげるね。大丈夫ちゃんと割れないように工夫されてるから。」
    もし割れても新しいのあげるからね。なんて言いながら器用にホックを付けたおひいさんは満足そうだ。ぷらりと揺れるのをとんっと指で触れれば、ふわりと柔らかく香るのに本能的に安心感と麻薬みたいな痺れを覚える。
    「こ、れ」
    「気に入ってくれて嬉しいね。お仕事中も外さなくていいからね。……ジュンくん?」
    「おひいさ、ん」
    ずるずると体を預けて必死に息を吸う。
    胸元からの香りと本物の本人の匂いにくらくらして、生理的な涙が浮かぶ。
    いくら好きな匂いでも、多幸感でいっぱいでも、多すぎると毒になるのだと初めて知った。
    「い、ぱ、」
    「……ふむ。なるほどね。ごめんねジュンくん、ちょっと予想外。これはぼくがいない時につけてね」
    チャリっと外され揺れるガラスを無意識に掴んで手の中に閉じ込める。
    「あ、ぅ、オ、オレのです、や、やだ」
    「ジュンくーん。大丈夫取らないから。これ以上振り回さないためだからね、ね? ごめんね、まだ早かったね」
    「ぅ、う、やだ、やだぁ! オレの、おひいさんの、なのに」
    ぎゅうっと握って、返してと必死に訴える。
    面食らったようにぽかんっと口を開いたおひいさんがじわじわ赤くなっているのも気付かず、離して、返してと繰り返す。
    「う、うん。きみ、ぼくの事大好きだね……?」
    ぱっと離されたチェーンの温い温度が手の甲に伝うのにほっとして、何か言ったおひいさんが小さく唸っているのに首を傾げた。



    あの日以来ブレザーの胸ポケットには必ずあのペンダントを忍ばせるようになった。
    身嗜みの一つとして捉えられているのかお咎めもないのは有難い。茨にはため息吐かれたけど。
    授業中もふとした時におひいさんの匂いがするのは結構嬉しいものがある。言わねぇけど。
    体調が良い、という事はパフォーマンスも自然と良くなる。番になってから軽かった体は、このペンダントをそばに置いてからさらに良くなった気がする。
    番がいるってすげぇ事なんだなとやっと実感が伴ってきた。
    遅いね!っと脳内で怒るおひいさんに思わず苦笑すれば、漣っと教師に当てられ、ぴんっと背筋を伸ばした。


    「ジュン、その後どうですか?」
    「どうって何が?」
    カタカタとタイピングの音が軽快に響く。
    ガブリとバーを食べながらちらりとオレをみた茨は興味なさそうにパソコンに視線を落とす。
    いや、何だよ。
    「殿下と番になられたんでしょう? 新婚生活はどうですか?」
    「なりましたねぇ。体調は絶好調ですよ、おかげさまで。新婚って、オレ達べつに夫婦じゃないですよ」
    「そうですか。似たようなものでしょう? べったりなんですから、少しは落ち着いたらどうです?」
    「いや、だから、夫婦でも恋人でもないですって。べったりなのはおひいさんの距離がおかしいってだけです」
    はぁっ?と少しクマの濃い目でオレを流し見る茨は変に凄みがある。
    ストレス溜まってんだろうな。エナジードリンクの空き缶の山に飲み過ぎと小言を返す。
    「あんなにひっついて牽制されて、甘えておいて何言ってんですか? おひいさ〜ん♡って感じですよ貴方」
    「うわっきめぇ」
    「客観的に自分を見てください。殿下の事大好きだってダダ漏れなバカップルな番だって自覚してください」
    はぁっと大袈裟にため息吐く茨が今度はゼリーをジュージュー吸い始める。
    成人したらヘビースモーカーになるんじゃないか?
    タバコくさいね!って叱るおひいさんと肺と寿命、アイドル活動におけるデメリットについて訥々と語るナギ先輩。想像の二人にうるせぇとキレる茨が禁煙するまでがセットだ。
    オレよりよっぽど体調を気にするべき茨の胃痛を少しでも軽くするため、取り敢えず自覚とやらをした方が良いのかも知れない。

    おひいさんが大好きねぇ? そりゃ嫌いじゃないけど、大好きって言われたらどうだろうか。
    あんな性格だけど相方しては尊敬してるし、感謝もしている。オレが重荷にならないっていうならいいかと、番になった。あの痺れの中で感じた歓喜と安堵は忘れられない。
    他の誰に目移りしてももうオレと番なのだ。一生、あの人が望まなくなっても一緒なのはオレだけ。上等だと口角が上がる。
    「おひいさん、オレが好きなんじゃなくてオレしか居ないだけなんじゃないんすか。ナギ先輩は唯一無二の親友で家族だから」
    「殿下と閣下の関係に横槍なんて入れませんけどね。ジュンのその自信はどこからくるんですか、全く。恋は盲目ですね」
    「こい」

    恋? 好き、じゃなくて?

    「はい。相手の嫌なところもなんやかんや許せてしまうんでしょう? しかも自分だけ、だなんて優越感すら抱いて。しかも全てを預けあう番になるだなんて何も思ってないままなんてなれませんよ普通は」
    「そう、なんすかね。オレは」
    言葉が出てこなくなる。オレはおひいさんの奴隷で、相方で、番。隣に居る名称だけが脳を巡って気持ちが追いつかない。

    「殿下に何を思うんです?」

    おひいさんに、何を思う。
    何を、思っているのだろうか。


    一昨日からジュンくんの様子が変だ。
    ぼうっとぼくを見たと思えば首を傾げて、ぼんやりしたまま家事をこなす。
    どろーっとだるそうな目で遅刻すると叱る声はいつも通りなのに、ぼくを追いかける足はほんの少しもつれて、それに気付いていないジュンくんはつまずきながら空を見上げている。
    レッスン中は変わらず真面目に取り組んでるし、問題ないと言えば無いんだけど。
    「うわっ」
    びちゃりと胸元にスポーツドリンクをこぼしてうぇっと顔を歪ますジュンくんを見て前言撤回する。
    おかしい、やっぱり何か変。

    「ジュンくん! 先にお家帰ってるといいね! ぼく先生に呼び出されちゃった」
    「うー? 先にですか、待ってますよぉ?」
    「ううん、先に帰って欲しいね。メアリのお昼ご飯入れ忘れてるの思い出したね」
    「まじすか!? 急いで帰ります!」
    わたわたとぼくの荷物全部抱えてお疲れ様です!っと礼儀正しく頭を下げたジュンくんの姿が見えなくなる。
    呼び出されたのは本当だけど、メアリのご飯の入れ忘れは嘘だ。
    そうでも言わないと帰らないだろうなんだかんだ健気な忠犬ジュンくんを動かすための嘘。
    帰ったらほんの少し少なかったご飯にちょっぴりお腹空いたと跳ねるメアリに、晩ご飯までの適量のお菓子をあげるだろう。
    昨日ごめんねっと伝えたメアリもジュンくんが心配なのだろう、構わないと頼もしく返事をしてくれたから悪いことはしていないね。
    ぼくが帰ってくるまで少しでも落ち着いてるといいんだけど。
    こつこつ、っとゆっくり廊下を渡って職員室へ向かった。



    さて、ジュンくんはメアリセラピーを受けて少しはましになったかな?っと心配半分、期待半分でドアを開ける。
    「ただいまー……メアリ?」
    とてててっと駆けてきたメアリは何も言わず、足下をくるりと回って、てってってっと戻って行ってしまった。
    メアリまで不思議になっちゃったと手洗いうがいをきちんと済ませてリビングへ向かう。
    ぽすっと自分の寝床でまるまるメアリがじーっとぼく達のベッドを見つめるのに促されてそっちを見て目を丸くする。
    点々と落ちている靴下やネクタイ、夏のジャージ、全てぼくのもの。
    すぴっと寝息が小さく聞こえるのはお姫様の優しい配慮だ。
    そっとそっと近づいて2段ベットの下段、ぼくの寝床に話しかける。

    「ジュンくん、ジュンくん。ただいま」
    「お、おかえりなさい……ぅぅ」
    もぞりとぼくの掛け布団を抱き枕のように抱いていたジュンくんがころんっとぼくの方へ向き直る。
    「あっぁぅ……えっと…うぅ……」
    ぎゅうっとペンダント握りしめ困惑した顔をするジュンくんの瞳にぷわりと涙が浮かぶ。
    中途半端に集められたぼくの服は乱雑に散らばって、未完成のお城に助けを求めるように伸ばされる手をそっと握る。
    「入っていーい?」
    「は、い」
    必死にこくこく頷くジュンくんの弱々しい力がぼくの手を引くのに笑ってお邪魔する。
    ぽすっと目線を合わせて寝転がれば、はくはくと小さく口を開くジュンくんが大きく息をすって、吐いてを繰り返す。
    「巣作りだね? 上手だね、えらいねジュンくん。がんばって作ったね。でも、どうしたの? ぼくが恋しくなっちゃった?」
    ぽふんっと途端に真っ赤になったジュンくんにおやっと瞬きをする。
    小さく途切れた声を出すジュンくんはぷるぷる震えていて、怯えたような、困ったような、何かに期待したような顔をして、ぽとりと涙をこぼした。
    「その、おひいさんに、こいって」
    「こい?」
    「恋してるんじゃないかって言われて、分かんなくて、考えてたら、こんな、こんな」
    ぎゅうっとペンダントを握る力を込めて下を向くジュンくんの手を優しく包む。

    匂いに敏感なジュンくんは、キャパオーバーだと目を回して、ぼくを感じている。
    今のうちとジュンくんの手のひらからペンダントをとって、そっとポケットの中へしまう。
    あっと寂しそうな声を上げる前に抱きしめて、かぷりと首筋を甘噛みする。
    驚きで顔を上げたジュンくんのお月様がまた溢れる前にそっと拭って、背中をさすれば、それすら刺激になると言いたげに震えるのが可愛らしい。
    「ひっうぅ……ぁあ」
    「ん、ぼくの目見れる?」
    「お、ひ、しゃ」
    一生懸命ぼくを見つめ返すジュンくんに笑ってゆっくり口を動かす。
    「ぼくに恋しちゃったの? ジュンくん」
    ぷるりと震えたジュンくんが困ったように眉を下げる。
    「オレ、あんたの事尊敬してます。多分すき、なんです。でもそれが恋か分からなくて」
    「そうなの?」
    「オレはあんたの番に恋をしなくてもなれたから。あんたの相方で、奴隷で番ってあんたへの付属物である名札は出るのに、あんたへのオレの気持ちだけが分からないんです」
    しゅんっと落ち込んだように声を窄めるジュンくんはごめんなさいと言うように身を縮こませる。
    何にも悪い事してないのに。それに自分の気持ちだって、分かってるのにね。
    「ねぇジュンくん。ぼくの事好き、なんだよね」
    「う?……はい」
    困ったように頷くジュンくんの頬を撫でる。
    すきなのに、恋か分からないなんて、難しく考えるジュンくんらしい。
    「ジュンくん。ぼくとこの先キスしたり、ヒートがきたらううん、来なくてもSEXしたりしたいなって思う?」
    「な、何、何言って」
    「この前キスはしちゃったけどね。ねぇ、例えばそれを他の人としたいなって思う? 誰ともしたくないなって思う?」
    ゆっくり瞬きして考えるジュンくんを刺激しないようにじぃっと見つめる。
    本能に疎いジュンくんの本心はジュンくんにしか分からない。
    どんな答えでも、たとえそれが変わってもぼくは受け入れると決めている。
    ジュンくんの番は、ぼくだから。
    「………するなら、おひいさんがいいです。おひいさんならなんだっていい、です」
    ぼうっとぼくを見つめたジュンくんがすんっと息を吸う。
    へにゃっと笑った顔は無垢で幼い。
    「オレ、おひいさんの匂い嗅ぐと安心するんです。そんなのおひいさんだけなんですよぉ。拾ってくれた時も、番になった時も嬉しくて涙が出て、あんたのにやっとなれたって思ったんです。あんただけのオレに、あんたはオレだけのだって。恋は盲目だって言うんならもう、それでいいやって。あんたから一生離れられないんです。だったら恋だって一生あんたにしていたいです」
    ぎゅっとぼくに抱きついたジュンくんが久し振りにぼくの首筋を噛む。
    「うん、やっぱおひいさんだけですね。好きだなって思います」
    「理解の仕方が野生的だね……? まぁ、いいけれど」
    「うー? あ、キスしますか? おひいさん、またしたいって言ってましたよね、オレもちゃんとしたいです」

    ぴとりと隙間なくくっついたジュンくんが顔を上げて笑う。
    真っ赤に照れてるのに自覚はないみたいで、どうします? っと尋ねるのにため息を吐く前に唇で塞ぐ。
    「んぅ……ん」
    ぴくりと震えたジュンくんがもっとっとねだるように唇をつくたびにちゅっちゅっと小さく音が鳴る。
    自分からキスを仕掛けている、とは思ってないようでおひいさんっと不安そうに呼ぶ声に笑って蓋をする。
    だんだん黄金の瞳がとろっと溶けていくと同時にぷるぷると涙が浮かんでいく。
    「おひ、ひぅ…おひい、さ」
    ついに泣き出してしまったジュンくんに大丈夫だと何度も何度も落ち着かせるように触れて、ゆらゆら揺れる涙がまた溢れる前に唇で触れる。
    何も言わずぎゅうっとぼくの胸元を掴む手に最大限優しく笑う。
    「ジュンくん。いいこ、いい子。大好きだね」
    「………」
    すりっとぼくに擦り寄るジュンくんを抱きしめてキスを再開する。
    ぴくりとまつ毛を揺らして小さく声を漏らすジュンくんが愛おしい。
    「おひいさん、すきです、すき」
    「うん。ぼくも」
    幸せそうに笑うジュンくんは力尽きたように目を閉じる。
    そっと離れて掛け布団をかけて抜け出す。
    探すようにシーツを泳ぐ手にまたペンダントを与えておやすみと声をかける。
    きゅうっと握って笑うジュンくんは頬を薔薇色に染めて、夢の中でも恋をしているみたいだった。
    独占的な赤をきみに
    おひいさんが好きだと自覚した秋が過ぎて、寒い冬がやってきた。
    オレの想い人であり恋人のおひいさんは控えていたのだろうスキンシップを増やした程度で、別に今までの扱いと何も変わらず、我儘を極めている。

    はぁっと薄水色の空に溶ける白い息に、ぴとりとくっついた隣の人がぷるりと震える。
    昨晩雨だったから、凍って滑りやすい路面に咲く小さな草花の霜が、淡い太陽の光を浴びてきらきらと柔らかな雪の光を見せる。
    「ジュンくん、もっとこっちにくるといいね。ぼくが凍えちゃう」
    「これ以上くっつくと歩けねぇでしょうが」
    むっと機嫌の悪いおひいさんは寝起きみたいに目つきが悪くて、いつもより冷たいオーラを纏っている。
    寒いのが極端にダメな人だ、冷え込んだ空気が痛くて寒くて堪らないのだろう。
    ぎゅうっっと絡んだ腕に手袋の上から握りあった手をおひいさんの上等なコートのポケットに入れられ、オレをおひいさんのマフラーにうずめ、オレの頭にほっぺたを乗せるおひいさんは容赦なくもたれかかる。
    べたべたの距離だ。びゅうっと吹く風は寒くて、オレを盾にした方がまだ凌げるだろうに。
    それでも暖取りが優先のようで、逃がさないと言いたげに強まる力に白い息を吐く。
    「逃げませんから。もうこのまま行くんでちょっと緩めてくれません? マジで歩きにくい」
    「……嫌だね」
    ぷむぅっと膨らんだのだろうほっぺたの感触にまた白を吐いて、なんとか正門前に着いた。

    驚く事に下駄箱でも離れず、階段で二人三脚をし、教室に行かせまいと何故かオレを3年生の教室に向かわせようと無言で引っ張るおひいさんに流石にダメだと声を上げる。
    不機嫌すぎるおひいさんはオレがダメだと言う理由はちゃんと分かってるようで、本気で嫌そうに渋々離れたのに首を傾げる。
    「そんなに寒いんすか? 熱あったりします?」
    廊下の真ん中で騒ぐわけにもいかず、攻防を続けた結果、教室から大分離れた人気のない廊下は、朝なのに少し暗い。
    ほんのり赤くなっているような気のするおひいさんの額に触れ、暖かい温度に眉を寄せる。
    「平温だね。ぼくの体調管理を舐めないでほしいね、三食美味しいご飯を食べて健やかに眠っているんだから」
    「そりゃどうも」
    「三限から合同授業だよね、一限から来ない?」
    「だからダメだって言ってんでしょうが! どうしたんすかおひいさん。今日そんなに寒いですか? オレのカイロ貸しましょうか」
    「そういうんじゃないね。ただ嫌なだけだね」
    不機嫌、の中におひいさんにも分かっていないのだろう困惑がほんの少し浮かんですぐに沈む。
    どうしたものかと腕を組めばペンダントがちゃりっと音を立てた。 

    「……ずるいね」

    予鈴のチャイムが鳴ってぽつりと何かを呟いたおひいさんの声がかき消される。
    こつこつとおそらく教師のだろう、階段を登る足音が人気の無い廊下に響く。
    後五分でホームルームが始まってしまう。
    慌てておひいさんの背中を押せば、恨めしそうな顔して振り返ったおひいさんの唇が触れたのに思考が止まる。
    「休み時間全部ぼくの元に……ううん、やっぱり嫌だね! 帰ろうジュンくん!!」
    「はっ!? 何言ってんすかおひいさん!!?」
    「ミーティングは行くから! 学校はお休み!!」 


    反論する間もなく走り出したおひいさんに腕を掴まれ、もつれそうになりながらオレも走る。
    登校の時の遅さは何だったのかと物凄い勢いで寮まで戻ってきたオレ達は今、ソファの上に座っていた。
    この人ちゃんと出席日数足りているのか? ちゃんと卒業できるのだろうかとオレじゃどうにも出来ない心配が思わず脳をよぎる。

    カチカチ、っと規則正しく進む時計の針はとうに九時を回ってしまった。
    普段は居ないオレ達がいるのに、艶々と黒曜石の瞳を不思議そうに煌めかせ、嬉しそうに尻尾を振るメアリがてちてちとそばに寄ってくるのに笑みを浮かべる。

    そういえば、すれ違った教師がおひいさんを見て何故か公欠にしますからねと返した事を思い出す。
    えっと思わず声を上げた瞬間、ぐいっと腕をひっぱり階段を駆け降りたせいで浮いたような足取りと、冷やりと冷たい汗が背中を滑った感覚を思い出してぞわりとする。
    オレの気分なんて知らずに、帰ってから今までオレをがしりと抱きしめ、首筋に顔を埋めるおひいさんは微動だにしない。
    互いに制服も脱がず、困った顔してるだろうオレを気遣うようにちょこんっと隣に座るメアリと目を合わせて、苦笑する。
    どうしてこんな事になっているのだろうか。
    「おひいさーん、せめてブレザー脱ぎませんか? シワになりますよぉ」
    「…………」
    「おひいさーん、おひいさーん」
    ぽんぽんっとふわふわの髪を撫でてかき混ぜれば、ふわっと甘いおひいさんの匂いがする。
    何も言わないおひいさんに気付かれないように頬を寄せて、匂いを吸い込む。
    肺いっぱい、いつもより濃い本物のおひいさんの匂いに満たされて気分がいい。
    「……ジュンくん」
    「う? なんすかぁ?」

    するりとオレの頬に指を這わすおひいさんの指先が火のように熱くて、びくりと背が震える。
    つーっとチョーカーをなぞってカチャカチャと音が鳴るのを不機嫌そうに見つめるおひいさんの紫の瞳が赤く揺らめくのにどくどくと心音が速くなっていく。
    「ジュンくん」
    いきなり上がった体温に目を回していると、ぱちんっと慣れた手つきでチェーンの外れた音がしてハッとする。
    おひいさんの手の中で、ペンダントが淡く揺れていた。
    「これ、いらないよね? ぼくが居るのに。酷い子」
    「酷いって……付けとけって言ったのはあんたなんすけどぉ?」
    「知らないね」

    苛立ったようにテーブルにペンダントを放って、また肩に頬を付けるおひいさんがぎゅうっと目を瞑る。
    すり、すりっと柔らかな髪をマーキングするみたいに擦り付け、綺麗な爪でかりかりとチョーカーを引っ掻くおひいさんは噛みたいと言いたげで、流石に心配になってきた。
    「おひいさん、噛むのはいいんすけどちょっとどいてくれません? 茨に連ら」
    「嫌だね。他の子になんてあげないね。ぼくのだもん、嫌だね」
    「おひいさん……?」
    嫌、いや。を繰り返すおひいさんがぎりぎりと力を強めるのに悲鳴が漏れる。
    「ぼくのなのに。ぼくだけのジュンくんなのに。ぼくの」
    譫言のように繰り返すおひいさんはぶわりと頬を赤く染め、ライブの時みたいに汗が一滴顎を伝う。
    ギラギラと赤紫に染まった瞳は焔を燃やし輝く。

    こんなおひいさん初めて見た。
    伝染したように顔が熱くなったのを自覚して目を伏せる。
    心臓が馬鹿みたいに速くてうるさくて、痛いくらいだ。
    「ジュンくん」
    ぼすんっと体重をかけて押し倒される。
    ぴょんっとソファから降りたメアリを潰さなかった事にほっと胸を撫で下ろす。
    「ごめんねメアリ。後でたくさん遊んであげるからね。……今はメアリにも取られたくないの。許してね」
    じぃっとおひいさんと目線を交わすお姫様が快活に一鳴き響かせ、てちてちとゲージへ去って行く。

    「ジュンくん」
    こっち見てと言いたげに視線を合わせ、どろっとごろごろ果実を溶かしたジャムみたいな声が鼓膜を震わす。
    にこりと甘い毒のような笑みを浮かべ、ゆっくり唇が塞がれる。
    柔らかくて、甘い。

    ぼうっと目が奪われるくらいどろどろに赤いおひいさんが、オレの首筋にキスを落としては噛み付いていく。
    カチカチと規則正しい音が響くだけの冷たい部屋の温度がゆっくりと、じわじわ上がっていくのをぴりぴりと痺れる感覚と共に感じていた。


    「んっんぅ……おひ、さ」
    とろっと甘い蜂蜜みたいな声をこぼすジュンくんの口から銀が落ちる。
    帰ってきてからずーっとぼくに拘束されて、頸を噛み続けたせいか、くったりと力を失った体は赤く染まって、美味しそうだ。
    そうっと伝った銀をなぞればぴくりと震え、ぼくを見つめるのに仄暗い欲が少しだけ満たされる。

    ぼくしか映さない金の瞳、ぼくだけを呼ぶ甘い声。
    そろりと持ち上げた腕で、なんとかぼくに触れるジュンくんの掌をそのままぼくの手で包んでしまう。
    そうすればもう、下げる事も離すこともジュンくんじゃ出来ない。
    あぁ、気分がいいね。

    にっこりと上がっていく口角に合わせて、へにゃっとジュンくんの口角も上がる。
    「おひぃさん、きょーどうしたんすかぁ?」
    ぽやりと熱に浮いた声でくすくすと囁くジュンくんの無垢な言葉に笑ってしまう。
    どうした、だって。意味も分からずぼくの独占欲を受け入れていたのかこの子は。
    ちゅうっと軽い音を送って指を絡める。
    とろんっと嬉しそうに目尻を下げたジュンくんがやわい力で握り返す。健気な仕草にもっとと、キスの雨を降らす。
    「おひ、さん。くすぐってぇですよぉ」
    「それだけ? ぼくが触れてるのに?」
    「ふへ、すげぇー自信っすねぇ」
    へらりと揶揄うように笑うジュンくんの生意気な舌を吸って唾液を飲み込む。
    途端に赤く染まってどろどろになる姿は素直で可愛い。
    「ぁ…んぅ………き、もちーれす……はぁふ……ん」

    すりっと落ち着こうとぼくの首筋に頬を押し当てるジュンくんが大きく深呼吸を繰り返す。
    すっかりぼくの匂いで落ち着く癖がついてしまった。
    無意識に本能的にぼくで満たされて落ち着く、なんて。
    相方、番だなんて関係ない。ぼく自身がいいとぼくじゃないとダメだと示す姿にもっとぼくに溺れて欲しいと浅ましい欲がとめどなく溢れる。

    「おひいさん。おひいさん」
    ぺたりと頬に触れた手はじんわり汗ばんでいて、ジュンくんの熱が伝わってくるのにほくそ笑む。
    もっと、もっと、ぼくのせいで全て変わって仕舞えばいい。
    きみに対する愛というには生々しい、きみにしか抱かない欲を全部知って染み込ませて、ぼくだけのものに一秒でもはやく、はやく!

    「おひー、さん?」
    ぽうっとぼくを見つめる金の瞳に獰猛に笑って、するりとシャツに手を伸ばした瞬間。


    ぶーぶーっと無機質な音が部屋に響いた。


    そろりとぼくから視線を外したジュンくんが困ったようにテーブルを見つめ、おひいさんと口を動かす。
    あぁ悪い日和。
    無視してジュンくんに触れても、真面目な彼は電話に意識が向いてしまうだろう。
    ぼくの事だけ考えて、ぼくだけを感じてほしいのに。全くタイミングが悪い。
    「茨からじゃないっすかぁ? 今日ミーティ」
    「他の人の名前出さないで、ジュンくん」
    びくっと揺れた瞳にごめんねと心の中で呟く。
    ジュンくんは悪くないのにね。ぼく以外に意識を向けるのが、今日はどうしてもダメだ。

    腕を伸ばしてスマホを手に取る。
    ジュンくんの言う通り画面は茨の名前を表示していた。
    『お疲れ様です! 今どちらにいらっしゃいますか? もし授業が長引いた、ショッピングに夢中になっていたなどでしたら、こちらで車を手配』
    「うんうん、ご苦労だね!! でもぼく達今日そっちに行かないね! 後で資料を貰いにいくね!」
    『殿下!! 今日は来月のライブのことで…あ、……ちょっと!?……………日和くん』
    「わぁ凪砂くん! 悪いけど今日は行かないね!」
    『ジュンも来ないの?』
    「行かないね」

    ぼく今怖い顔してないだろうか。
    自分の顔なのに分からない。凪砂くんにまで苛立って、冷たくなるだなんて。本来のぼくから外れて、狂っていくのを感じて嫌になる。
    そろそろと気遣うように見上げるジュンくんの頬を撫で、ゆっくりと息を吐く。
    何かを考えるような沈黙と苛立ってるだろう茨の指の音が耳に通る。
    『日和くん。明後日までお休みした方がいいかも。私日和くんがラットになってるの初めてみ、わぁ』
    『勝手に決めないでくれませんかね! 殿下! 閣下の言う通りなのでしたら正直に申告して頂かなければ困ります。自分貴方達のプロデューサーなんで』
    ぎゃぁぎゃぁと普段のぼく達みたいに騒がしい2人の声が聞こえたのか、へらりと笑うジュンくんを見て、黒い感情が胸をどろりと満たすのにようやく気付く。
    ぼくは皆の事を愛しているね。
    世界中に暖かい光のような花束を、愛を届けるのがぼくの使命。
    それなのにねぇ。
    「うん。ぼく今ラットになってるね。きみ達にもジュンくんを奪われたくないの」
    『はぁぁ。分かりました。馬に蹴られるようなことは致しません。何とか調整致します。メールにて連絡致しますので後程ご確認お願いします』
    「うんうん! ありがとうね! これからはジュンくんとのお仕事もっと増やすといいね!」
    これ以上?っと後ろから穏やかに問う凪砂くんに元気に返事を返して通話を切る。
    卒業したら一緒の時間って極端に減っちゃうから。
    だから今のうちに先手を打っておかないと。

    ぽいっとスマホを投げて、いい子で待ってたジュンくんに触れる。
    少し冷静になったのだろう。ぼくの指先が触れるたび、くすぐったそうに身を震わせる。
    「ジュンくん」
    ぱさりと紺碧を散らして逃げていた金の瞳がゆっくりぼくと交わる。

    「……おひいさん、オレの事好きなんすねぇ」
    当然の事を言うお馬鹿さんの金の瞳は何故か潤んで蕩けていて、そのまま落っこちてしまいそう。
    「オレ、とっくの昔からおひいさんのですよ。これ以上なんてないくらい」
    照れたように笑うジュンくんがぼくの首に腕を回す。
    「ラット、は正直オレじゃよく分かりませんけど、あんたの満足いくまでずっとそばに居ますから。だからそんな顔しないでください」

    そんな顔って、どんな顔だろうね。
    ぼくの腕の中のきみは、とても嬉しそうに笑っているのだけれどね。


    通話中のギラついた残暑のように燃えた瞳が、緩やかに甘い熱の灯火に戻る。
    暗い焔を燃やした苦しそうな顔より穏やかでほっと胸を撫で下ろす。
    心配の気持ちも嘘じゃないのにどうしても嬉しくて顔がにやけてしまう。
    オレに、番に対する庇護のような独占欲がおひいさんにもあったのだ。 
    お日様みたいに世界を照らす人が、照らした分の影を全部オレにくれたのだ。
    愛されてんなぁって思ってしまう。
    これ以上おひいさんに染まったらオレは灰になってしまうんじゃないだろうか。
    燃やされ尽くして、ドロドロに溶かされて、浮いてしまうほどおひいさんで満たされて。
    怖い、なんて思う間も無く喜びで震えてしまう。

    なんでも与えるおひいさんが上げたくないと言ったのだ。
    それがどれだけの幸福かきっとおひいさんは分からない。

    おひいさんはオレを手放さない。
    オレだっておひいさんの隣を譲らないのだ。
    どこまでも駆けて、どんな深みにだって落ちていける。
    がぶりと今も頸を噛み続けるおひいさんに、初めて噛んだ時の言葉を思い出して、胸がいっぱいになる。

    「おひい、さん」

    恋も愛も、あんたにしか抱きませんよ、オレ。
    こんなに愛してくれたんだ、だからあんたもオレに愛されて下さいねぇ。

    足りないと無言で示すおひいさんの唇に噛み付いて、ゆっくりと視線を交わす。
    今度こそシャツを這う指先に一度だけ大きく息を吸う。
    変わらない甘くて柔らかいおひいさんの匂いに、心の底から笑みを浮かべた。
    不器用な温度

    芸能界はアルファとオメガが他の業界と比べて非常に多い。
    才能や見た目、カリスマ性に優れたアルファならともかく、オメガも多いのは希少性と庇護欲をそそる見た目や儚さ、自然と人を魅了する性質ゆえとも言われている。
    オレの相方のおひいさんは当然のようにアルファ。ナギ先輩もそうだと言っていた。茨は教えてくれなかったからオレは知らない。
    基本的に皆オープンに第二性を公開しているが、やはりまだまだデリケートな部分だ。弱みを他者に握られてたまるかと笑顔で毒を吐く茨は世間にも公開していない。
    オレは別に抵抗もなく、そもそもアルファでもオメガでもない普通のベータの為、公開するとあらかじめ伝えていたのに、何故かオレの第二性はプロフィールに載っていない。
    年上2人が公開して年下2人はしない……みたいなバランスみたいなのでもあるのだろうかと適当に茨の策を考えて、何でもいいかと思考を放棄した。

    この時少しはちゃんと考えていたら良かったのだろうか。
    今更思っても遅いのだけれど。



    きみとユニットを組むね! と突然告げられたオレは、それはそれは驚いた。
    職員室でぽかーんっと口を開けたオレは大層間抜け面だっただろう。
    まだ特待生でもユニットを組んでない人だっているのに。
    わざわざ非特待生に声をかけた変人に理解が追いつかないのは仕方ないことだろう。
    話題の転校生である巴 日和、もといおひいさんは職員室でも気にせず大声で、声とか、育てるとか、都合がいいとかぺらぺら何か話している。
    「お返事は? 聞かなくてもはいだよね!」
    「え、う?」
    「ぼくが見つけてあげたんだからもっと歓喜に震えるといいね! ……うーん、ピンピンしてるね不思議だね」
    はいっサインして。と押し付けられた紙は一世一代のチャンスだ。すうっと息を吸ってペンを走らせる。
    変人でも何でもいい。オレは、アイドルになる。

    「所できみ、今誰かと同室だよね? さよならしてぼくのお部屋においでね?」
    「は?」

    礼儀正しく職員室を後にしたオレに告げた謎の命令に思わず止めた足も気にせず、どんどん進むおひいさんは当たり前だろうと首を傾げる。
    「ぼくのものなんだからぼくのお部屋に置くのは当然だよね。今日中に来るといいね。あ! ジュンくん!!」
    「何なんすかあんた。はい?」
    ぎゅうっと手を握られてブンブンと振られる。
    熱い手のひらからじわじわと熱が伝わって、はくりとのどが引き攣る。
    「うん! やっぱり今すぐおいでね!! 授業前で良かったね、さすがぼく! お昼までにぼくのお部屋に荷物全部持ってきてね!」
    「……は、? 授業」
    「あ、部屋分からないよね、仕方ないね。連れてってあげる」
    「人の話聞いてます???」
    地味に遠いよねぇとよく回る口がオレを無視して話続ける。
    右から左へと流しては、聞いてる? と腕を引っ張るおひいさんの力が強くて、前のめりに倒れそうになる。
    ぱっと腰に伸びた手に助けられ、お礼を言おうと顔をあげれば、首筋を凝視し、紫を見開いたおひいさんとばちんと目が合った。
    「ねぇ。ジュンくん」
    「何すか、ちょっと」
    がしっと首根っこ掴んで引き摺るように歩くおひいさんは乱暴なはずなのに、何かに焦ってるみたいで不思議だった。

    かちゃんっと鍵のような音とドアの閉まる音に長い廊下の景色が知らない部屋の景色に変わる。
    ここがおひいさんの部屋か。
    「はい! お馬鹿さんなきみにぼくからプレゼント! 愚かで可哀想な子達に対するぼくの目だと思って必ず付けておくといいね!」
    「なんすかこれ、首輪?」
    「チョーカー! ファッションに疎いね? アイドルなんだからもう少し気を使おうね」
    やれやれと心底呆れて、早くつけろと訴える声にしぶしぶ首に回す。
    見えないチェーンが上手く付けられずGODDAMNっと舌打ちが響く。
    「下手くそ。練習するといいね」
    見かねたおひいさんの腕がすっと回る。
    香水だろか。甘い匂いがする。
    ぱちんっと一発で付けられたチョーカーをするりと撫で、今度こそちゃんとお礼を言う。
    「構わないね。いい? ジュンくん。絶対外しちゃダメだし、毎日つけてね」
    まだ出会って2日なのに何故か真剣だと伝わる目に、こくりと頷く。
    この人、贈り物のセンス独特だな。



    おひいさんの部屋で同居して、分かった事がある。
    我儘で自由で、お姫さまみたいに傲慢で、寂しがりで他者に冷たいふりをする愛されたがり。
    アイドルとしてとんでもなく才能があって、太陽みたいに眩しくてキラキラしたすげぇ人。
    出来ること全てやって返しても返しきれるかわからないほどの恩がある。
    呆れるしムカつくが、重い荷物持ちも慣れない料理も慣れてきた。
    いやぁ、いい根性ですね! と敬礼した茨に下僕が染み付いているぞと言外に言われた日に自覚した。オレはおひいさんに相当絆されている。
    でもさ、生活を共にするとほんの少しは誰だって変わっていくものなんじゃないだろうか。

    「ジュンくん。何してるの?」
    「あぁ? あんたがアイロン当てとけって言ったんでしょうが!」
    雑念を払うように、しゅっしゅっと蒸気の音を立てるアイロンを持ち上げ、ぎろりと睨む。
    半袖のシャツはこうして皺が消えていくんすよ。良かったですねぇ? と嫌味ったらしく言ってやろうか。
    「うん。それはそうなんだけどね? 今じゃなきゃダメなの?」
    「時間って有限なんすよぉ。米炊いてる間にやれば食い終わったら自由の身になれるんです。隙間時間は有効に使うべきなんすよ、おひいさん」
    「……そう」
    おもちゃが釣れなくてぶすくれたおひいさんが、駄々こねるように腹に腕を回して、背中に体重を乗せてくる。
    相変わらず体温の高い人だ。
    ぽかぽかてして、熱い。
    「ジューンくーん。終わった?」
    「……ぁ。はい」
    無意識に手を動かしていたようで、綺麗になった真っ白なシャツにホッとする。
    ぼうっとしていたせいで、焦げたかと思った。
    「あれ、ジュンくんお熱ある? 顔赤いね?」
    こつんとくっついたおでこに肩が跳ねる。
    顔が近い。長い睫毛が触れそうだ。こんなのライブよりも近いんじゃないか?
    無駄に整った顔にドキドキと心臓が速くなる。
    熱い、内側がゾワゾワする。
    「うん、ちょっと熱いね。しんどくない?」
    「は、い。別に」
    「ならいいけどね。ところ構わず筋トレなんかするからそうなるんだね。明日は長袖着たら? 少しは暑苦しさも減るね!」
    「袖は関係ないでしょうが」 
    「ぼくも着てあげるから! 寛大なぼくに感謝するといいね!」
    着ないならやらせなきゃいいのに。まだほんの少し熱を持ったシャツにもったいねぇなとイラッとした気持ちが浮かぶ。
    「そのシャツ使っていいからね」
    「は? もう卒業気分なんすか? まだ暑い日は続きますよ」
    「そうじゃないんだけどね。いつか感涙に咽ぶ日が来るから大事にしていてね」
    「はぁ……そっすか」
    じんわりした温もりがまだ手のひらに残るシャツに触れる。
    明後日は32度まで上がる予報だが、本当に耐えられるのだろうか。
    悪い日和!! の大声が頭にガンガン響く。早く準備してと朝から慌しくなりそうな予感をひしひしと感じる。
    すぐに取り出せるように、オレのクローゼットの1番前にかけておく。
    隣のおひいさんのクローゼットの中は綺麗に並べられていて、衣装持ちのくせにすっきりしている。
    定期的に中を変えてるのだろうかと凝視していると、ドドソソララソと電子の気の抜けた音が鳴る。
    「ジュンくんお米炊けたね!」
    「うぃーす。よそっていいっすよぉ」
    「ジュンくんお茶碗どこー?」
    「あーもー、すぐ行きます!」
    パタンっと閉じた音が小さく響く。
    何となく、宝箱の鍵の音みたいだと思った。


    なんか、熱い。
    ぼうっとミーティング資料の準備をテキパキと進める茨を眺める。
    おひいさんとナギ先輩は絶賛遊び中だ。
    早く着いたから早く始める、気分ではなかったようで、邪魔したら許さないからね! と、ぴーんっと指を茨に突きつけ、仲良く手を握って出て行った2人は、茨曰く商店街にいるらしい。
    ジュンくんは今日はお留守番! お土産待っててねとご機嫌だったおひいさんが買い込んでくるだろうものが未知数になったと思い頭を抑える。
    暫くタブレットを凝視していた茨は時間の無駄と割り切ったのか特に会話もなく、静かだ。
    「ジュン。自分、コーヒーでも飲もうかと思うのですが、飲みます?」
    「う〜……アイスで」
    「おや。……ジュン、風邪ですか? 顔が赤いですよ」
    「流行ってるんすか、それ」
    「はい?」
    いつぞやに聞いたなと思った事をそのまま口にすれば、何言ってんだこいつと眉を顰める茨にすんませんとへらりと笑う。
    「冗談です。自分の管理ミスです」
    「体調管理はオレの仕事っすよ」
    「普段ならそうですがね。流石の自分も分かります。病院に行きましょうか。薬は……あるわけないですね、腕伸ばして」
    「……う? はい」

    がしりと掴まれた手が冷たくて目が丸くなる。
    秋口で冷えやすいとはいえ、不健康すぎないか?
    「いばらぁ。オータムライブもありますし、もうちょっと気使った方がいいっすよぉ」
    「あっははは! お言葉ですがジュン! 自分の手が冷たいのではなく、貴方が熱いんです!」
    もう喋るなと圧のある笑みでオレを黙らせた茨に助けられながら車に乗る。
    タブレットをすいすい動かして、病院の予約やおひいさん達に連絡したりと、オレがしないといけない事を代わりに全部終わらせた茨にすんませんと呟く。
    申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
    「ジュン。今は絶対、寝ないで下さい。このまま裏口から入りますよ」
    「……? 病院なのに」
    「だからこそです。信頼のおける病院ですし、殿下も飛んでくるでしょう。ご安心を」
    「おひいさんが…?」
    よく分からないままこくっと首を振る。
    茨が大丈夫というなら、そうなんだろう。


    「漣さん。オメガとしての数値が上がっています。おそらく完全にオメガになるでしょう。本日は発熱を抑える薬とフォルモンバランスを整える薬を用意しますね」
    「……はい?」
    何だって? オメガと言ったか?
    「まだヒートになる段階まで性が成長していないようですが、男性でいう精通と同じくいつ訪れるか分からないものですので、抑制剤は必ず持つようにして下さい」
    「あ、あの!」
    「はい」
    「オレって、ベータですよね……?」
    ぱちっと瞬きしたお医者さんとあーっと額を抑える茨にもやもやと煙みたいに不安が立ち込める。

    「漣さん。恐らく幼少期の検査結果はベータだったと言う事ですよね」
    「はい」
    親父ががっかりした顔をしたのを、お袋が悲しそうに微笑んだのをよく覚えている。
    「あまり知られていませんが、体の成長と共に第二性が変わる事があります。アルファとオメガと比べ、ベータは変わりやすいです。漣さんはデータでもベータプラスと表記がありまして、これはどちらかに変異する可能性が高いベータの事ですね」
    「ベータプラス……」
    初めて聞いた。オレの事の筈なのに。
    「一晩入院されますか?」
    「いいえ! 自宅養生に致します! ではまたよろしくお願い致します、失礼します!」
    敬礼☆ とろくに頭のまわっていないオレを立たせ、お大事にと優しく笑ったお医者さんに背を向ける。

    ずんずん進む茨にまた車に押し込まれ、玲明寮へと走る車はどんどんと窓の景色を変えていく。
    「ジュン。3日間安静にして下さい」
    「茨……オレがオメガになるかもしれないって知ってたんすか?」
    仮にもユニットメンバーの第二性が変わったというのに、やけに落ち着いている茨に思わず尋ねる。
    だって、おかしいだろ。スムーズに、冷静に対処できるのは茨の処理能力が高いからとはいえ、動揺1つないだなんて。
    「はい。むしろ自分はジュンも知っていると思ってました。健康診断を受けた時、恐らくそろそろベータじゃなくなると言われてましたしね。殿下の声が大きくて殆どかき消させれてましたけど」
    「あー。そういや、なんか言われた気がします」
    びっくりした顔をした看護師さんと煩いと顔に書いてた茨を置いて、ジュンくんは分かってるね! とか何とか言ってそのまま出口まで引っ張られてしまったのだ。
    何だったのだろうと思う間も無くおひいさんの我儘に付き合わされ忘れた気がする。いや、きっとそうだ。
    「薬があるとはいえ無理は禁物です。いや〜もし、殿下に愛想尽きた又は逃げたいと言う事でしたらいつでも言って下さい。閣下と一部屋にぶち込みます」
    全くとイラついたように窓に頬杖つく茨がとんとんっとタブレットを叩く。

    そうか、オレ、オメガになるのか。
    だとしたら問題だ。おひいさんはアルファだ。
    茨の指摘で気付いたどうしようもない現実に、急速に体の熱が冷めていく。
    何だかんだおひいさんはオレを気に入っているようで、今更相方として捨てられる事は無いだろう、多分。ただ、プライベートはどうだろうか。
    もうオメガになったオレとは過ごさないと冷静に切り捨てられるかもしれない。なんせメリットがない。アルファとベータだから何の問題もなく過ごせたのだ。アルファとオメガが一緒に暮らすなんて、間違いが起きたら大変だ。オレ達は番でもなんでもない。貴族とその奴隷だ。
    そう思うとなんだか肩が重くて、気分が悪い。
    熱のせいだろうか。黒いクレヨンでぐちゃぐちゃに円を描き続けたような気持ちだ。
    あぁ、これから煩い人がいない部屋で1人で過ごすのか。それとも誰か知らない生徒と暮らすのだろうか。
    「ジュン。自分の連絡は無視するのがお好きなようなのでジュンのスマホ貸していただけます?」
    「あ……いや。大丈夫です。自分で連絡します」

    「ナギ先輩と暮らして下さいって」
    キキっとブレーキのかかった音が車内に響く。
    熱のせいだろう、軸がブレたように歪んだ視界は、すぐに戻った。


    ミーティングは後日調整しますと敬礼して去っていった茨から、途中で寄ったドラッグストアの袋を貰って、部屋に戻る。
    ガサガサ鳴る音がやけにうるさい。
    でもそれ以上にぶーぶーっと鳴り続けるスマホの方が耳障りだ。
    リビングのど真ん中。ここまで来ればもういいかと、息を吸って、吐く。
    バクバクと心臓が煩い。緊張している? どうして。
    「はい、漣で」
    「ジュンくん!!!!!! どう言う事!!!!!」
    きーーんっと耳鳴りがするほどの大声で切羽詰まったような、怒りに満ちた声を上げるおひいさんと、日和くんっと小さく宥めるように寄り添う声が耳に届く。
    思わずほっと息をはく。怒ってるのに、おひいさんの声が聞けて暗い気持ちが少し晴れた気がする。
    「どうって。そのままですけど」
    「うん、おかしいよね!? 凪砂くんの事ぼくだぁいすきだから一緒に住むのは構わないけど」
    「ならいいじゃないっすか。荷物詰めて後で送りますね。本来はオレが出て行くのが筋なんすけど、玲明生だし厳しいんすよ。すみません」
    「ぼくだって玲明生なんだけど? ねぇジュンくん、どうしたの? ううんいいね、直接聞くね」
    「いや、あんたは真っ直ぐナギ先輩の家に帰ってください。茨から連絡入ってるはずっすよぉ」
    連絡? と遠くなった声と、ほんとだとのんびりしたナギ先輩の声が聞こえる。

    「……ジュンくん病院行ったの」
    怒りの消えた声が心配の色に変わる。
    電話越しだと直接会ってる時より顕著に変えるよな。おひいさんなりの伝え方なんだろうか。
    「熱は? 苦しくない? その様子だともうお家だよね。すぐ帰るから待ってて」
    「はい。まぁ、そこそこです。いや、あんたはナギ先輩の家いって下さい」
    「おかしいね。どうしてきみを1人にしないといけないの?」
    「色々、あって、その……」
    「ぼくを追い出してまでひとりぼっちになる理由は何?」
    理由って。体調不良だから、ならナギ先輩の所に泊まって下さいだけでいい。熱が下がればまた共同生活ができるはずだ。おひいさんもそれに気付いてる。
    でも、出来ないのだ。ナギ先輩にも迷惑をかけるとわかっていても、無理なのだ。いつ完全にオメガになるか分からない状態でおひいさんのそばにいるのは無理がある。
    「すみません、どうしても無理なんです。おひいさんと一緒には居られないんです」
    ちゃんと出て行きますから。今のうちに、何とかしますから。
    「………」
    「おひいさん? 聞こえてます? おひいさん」
    「……ジュンくんのばか」
    ぶつんっぷーぷーっと突然切れた通話にスマホを離す。
    馬鹿とは、その通りだ。自分の体の事何も知らず好き勝手に迷惑をかけている。
    ナギ先輩にあらためてメッセージを入れておこうとアプリを起動し、目を見開く。
    「お大事に。性の変化はゆっくり確実に変わるから、怖いと思ったらすぐ相談して。私も幼年期と変わっているから、少しは力になれる……と思う。日和くんには上手く誤魔化しておくね」
    茨が連絡を入れていたのだろう。
    優しい言葉にぽとぽとと透明な水滴がスマホに落ちて気付く。
    オレ、怖いんだ。
    わけもわからず変わっていく体も、追いつかない気持ちも、何もかも。
    「うっ…うぅ」
    へろへろと力が抜けてフローリングにしゃがみ込む。
    ぼたぼたと頬を滑る感触は、熱に蝕まれ、何も感じなかった。


    朝昼晩の食後、就寝前に追加された薬を飲むのが地味に大変な事をこの1ヶ月で痛感した。
    まず兎に角眠い。初めて飲んだ日はあまりの眠気に3秒で眠ってしまった。
    次に飲む場所だ。仕事や学校、人目につく場所で飲むのは結構厄介で、人が見ていない時に急いで飲んだり、見られたらサプリと誤魔化したりと工夫が必要だった。

    「ジュン。薬は水で飲まないとダメだよ」
    「あ。ありがとうございます」
    スポドリに手を伸ばしていたオレに首を振るナギ先輩に礼を言う。
    今日の昼分含めて残り2錠。そろそろかと思うと憂鬱になる。
    「定期検診に行ってるんだっけ」
    「そっす。そろそろなるんじゃないっすかね。体が安定してきたって言われました」
    「うん。それならもうすぐだね。私とは症例が違うからあまり力になれなかったけど」
    「いやいや、ナギ先輩に助けられてばっかですよぉ」
    何度ナギ先輩に相談したか分からない。SSだってもうすぐなのにタイミングの悪い体に何度ムカついた事か。
    それに。
    「今も部屋決まんないんすよね。元々非特待生ってのもありますけど、普通に借りるのは茨に止められましたし」
    空き部屋に転居願いが出さなかったのは結構堪える。
    上級生が卒業するにはまだ早く、時期的に退寮する生徒も少ないのが原因だ。
    「おひいさん、元気にしてます……?」
    今もナギ先輩の部屋に住んでるだろうおひいさんの事心配じゃないと言えば嘘になる。
    オレのせいで追い出してしまったのに。オレは早く出て行くべきなのに。
    「毎日ジュンの事心配してるよ。お仕事以外で会えないって不満いっぱいって嘆いてる」
    今も茨に呼び出されて不機嫌だもんねとドアの先を眺めるナギ先輩に頷く。
    荷物持ってとかきみが謝ったら許してあげるとか色々話したり、連絡はくるのに、オレは全部すみませんって断っている。
    恩を仇で返すってこう言う事なんだろうな。
    「ジュン……あのね」
    「何すかナギせ」
    「ジュンくん!!!」

    ばんっと開いたドアの先にはぎっとオレを睨むようにアメジストを光らせるおひいさんと、茨の焦った顔。
    そうっと隣で呟いたナギ先輩の意味深な声に、にこりと怖いくらい整った笑みを浮かべるおひいさん。2人は意思疎通がばっちりなようで、大股で近づくおひいさんとすっと立ち上がったナギ先輩が交差する。
    「ジュンくん。お家帰ろっか」
    「へ」
    掴まれた手から錠剤が落ちる。
    無理矢理引っ張ってドアまで進むおひいさんの手が熱い。
    「ほらほら、どいてね。レッスンは明後日くるね」
    「殿下」
    「約束してあげる。ジュンくんに酷いことはしないね。絶対」
    しぶしぶどいた茨にいいことぐしゃりと髪をかき混ぜ、前を向いたままオレを呼ぶ。
    「帰るよ。ジュンくん」



    「ただいま!!! うんうん! ぼくの荷物少ないね、悪い日和!!!!!」
    ぐるっとリビングを見渡して一声あげるおひいさんがくるりと振り返る。
    久しぶりにおひいさんが、居る。
    「ジュンくん。お話しよっか。ほらほら、隣においで」
    「……分かりました。手、離して下さい」

    にこりと笑ってソファに座ったおひいさんは知らんぷりして握る力を強める。
    諦めて座ればいい子と唇を動かし目を細め、向き合うおひいさんの膝が当たって、少し痛い。
    「ねぇジュンくん。ぼくに言う事あるよね」
    「まだ、部屋見つかってなくて」
    「ううん、違うね」
    ふるふる首を振るおひいさんは穏やかな笑みを浮かべる。優しげな目に何故か背中がぞわぞわして、怖い。腰が浮きそうだ。

    「ジュンくん。ぼく、知ってるね」
    「なにを」
    「きみがオメガになる事」
    さらりと言われた言葉に視線を落とす。
    いつ、バレたのだろうか。さっきだろうか。茨の焦った顔はそのせいだったのだろうか。
    別に性の事なんて誰に知られても構わなないと思っていたのに。おひいさんに知られた事は居た堪れなくて、苦しい。
    「だから嫌だったんだね。ぼくと暮らすの」
    「………はい」
    改めて言われると自分勝手すぎて胸が痛い。
    ぎゅうっと膝の上の左手を握り込んで、込み上がる目の熱さに耐える。
    「でもねジュンくん。きみは知らなかったかもしれないけど、ぼく最初から知っててきみをぼくの部屋に招いたよ」
    ひくりと肩が震える。知ってて、って、何だ。
    さらさらと髪を撫で、横毛を耳にかけたおひいさんの白い指がチョーカーに触れる。
    「きみはぼくの子になるって、最初から分かっていたね。無防備で鈍感で成熟していない子供のきみに、心臓が動いて仕方なかった」
    ぱちっとはずされた黒は確かにおひいさんがくれたものだ。
    ずっとつけてと、真剣だった目は、オレの性を分かっていた目だったのか。
    「知ってて暮らしていたぼくがきみと離れる必要ってやっぱり無いと思うんだよね。ねぇ、ジュンくん」
    ぐいっと顎を掴んだおひいさんと、逸らせなかった目が合う。
    「ぼくと一緒に暮らそう? ぼくはどんなきみでも構わないね」

    構わないのだろうか。本当にそれは、いい事なんだろうか。
    「ねぇジュンくん? お返事聞きたいんだけど」
    「……迷惑かけますよ。薬とか、まだ来た事もないヒートとか。オレもおひいさんも番がいませんし、オレに当てられてあんたも欲情するかも知れません。おひいさんそういうの嫌いでしょう?」
    他は、なんだ。まだまだ沢山あるはずだ。メリットなんかないとちゃんと伝えないといけないのに、酸素の薄くなったようにぼんやりとした思考が邪魔をする。
    「ぼく、きみに巣作り用のシャツあげたと思うんたけど。伝わってないみたいだね?」
    はぁっとため息ついたおひいさんがゆっくりと顎から手を離す。
    解放されたはずなのに、おひいさんから目が逸らせない。

    「ぼくね、ジュンくん」
    「ひっ…!? うぁっ……な、に?」
    すーっと頸を撫でる手にから感電したようにびりびりとした痺れが走る。
    目を白黒させるオレに覆い被さるように身を乗り出したおひいさんは無言で撫で続け、無様に跳ねるオレを見つめ続ける。
    「お、おひ、いさ」
    「きみのここに早く噛みつきたいと思うくらいには、きみの事気に入ってるね。あぁ……泣いちゃった。……ぼくの事、怖い?」 
    怖い、のか? びりびりと痺れを伝える指は確かに怖い。ばくばく心臓が速く動いて、くらくらする脳も、酸欠になりそうな程足りていない酸素も、ねぇと紫をいっそ赤に染めそうなくらい真剣に見つめる目も、分からなくて、ぼやけた視界に正解なんて何もなくて、宙に放り出された心地だ。

    でも。

    「おひいさん、は、怖くないです」
    ぴたりと止まったおひいさんに手を伸ばす。
    オレよりもよっぽど赤い頬に、重なった温度は知っている熱で、ジュンくんと呼ぶ声にオレはどんな時だって救われる。
    「おひいさん、おひいさん」
    きゅうっと手に触れ、そっと握る。
    やっぱり、熱い。いつだって、おひいさんの手はあたたかい。
    「こわくないです、すきです、あったかい」
    そっかと笑うおひいさんがぐいっと距離を詰め、額が触れる。
    「ぼくも。大丈夫、オメガになっても、ぼくはきみと一緒だから、安心して身を預けるといいね」
    「ん、う」
    重なった唇では、返事もなにも言えないから。
    きゅうっと繋いだ手をゆっくりと広げて、指先を絡める。ふっと笑ったアメジストから、ぽたりと雫が光った。
    それだけ好きって事
     あつい。ぼーっとする。
    熱があるのだろうか。体調管理くらいしっかりしろと叱責の気持ちを煽る様に、ぞわぞわと背中に風を送った時の様に背が粟立ち、耳の上の方が冷たい感覚。アンバランスな体温にびくりと震える。
    冷たいはずのシーツすら温く手のひらにへばりつく。
    「はぁ……ぁ…」
     小さく吸って、吐いてを繰り返す。
    吐息が熱っぽくてなんか、いけない事をしている気分だ。
    「は、ぁ…すぅ……はぁ、ぁ…」
    「……ジュンくん?」
    「ふぁっ…ぁぁ…!」
     体を丸めて、息の音しかしなかったベッドに寝惚けた声が混ざる。
     おひいさんだ。起こしてしまったようで申し訳ない気持ちが湧く、筈なのに。どくりどくりとさらに熱くなった体にびびって、ぎゅっと胸を掴む。
    「ジュンくん?……ジュンくん!」
     ぎぃ、ぎぃ。一歩ずつ梯子を登る音がぼんやり聞こえる。
    熱に魘されたオレの頬にそっと触れた指が冷たくて気持ちいい。
    「あ、ぁ……」
    そうっと目を閉じて、優しく撫でる手付きに感じ入る。もっと、もっと、触ってほしい。
    「……」
    「おひー、さん……?」
     ぱっと離れてしまった指が恋しくて目を開ける。
    ばたばたと暗闇の中、駆け降りたおひいさんがシャカシャカと鳴る銀色と揺れるペットボトルを持って、またぎぃぎぃ鳴らして戻ってきた。
    「飲んで、ジュンくん」
    「う…? くす、り? のむまえに、めし」
    「食べなくて良い薬だね。起き上がれる? 触ってもいい? 大丈夫、何もしないね」
     何もしないのか。
     残念で堪らない気持ちのまま、ゆっくり起き上がれば、汗ばんだオレの背におひいさんの腕が回る。
     支えるように触れているのに、くすぐられた時のようにぞくぞくして、腰が震える。
    「おひいさん、オレ」
    「大丈夫。お口……開いてるね。うんうん良い子だね」
     ぽとんと舌に落とされた錠剤を流し込むように、水を注がれる。
    ごくごくと喉を動かし、何とか飲み切れば、口から溢れた透明を拭うおひいさんの指がふにっと唇に触れた。
    「いいこ、いいこ」
    「……おひい、さん」
     そのまま舐めてしまいたい。芽生えた衝動のまま、白くて美しい指を口に含もうとぱかりと開く。
    「ダメ、ジュンくん」
     がっと突っ込まれた指が舌を押す。これじゃあ閉じたくても閉じられない。
    「いい? きみは今から寝るの。きみの寝ている間に助けてあげるから、何も考えずに寝るの。分かった?」
     ぼたぼたと溜まっていた唾液がおひいさんの指を伝って、シーツを濡らす。
    寝るって、こんなに熱いのに。寝れるわけないじゃないかと反論の眼差しを向ければ、真剣な顔したおひいさんが、顔に反して甘く、優しい声でオレを撫でた。
    「眠れるね。ぼくが歌ってあげる。すぐに眠たくなるからね。大丈夫、大丈夫だよジュンくん」
     ら、ら、ら。小さな子守唄を歌うおひいさんの指がずるりと抜け、慈愛いっぱいのアメジストがぎらぎら輝く。
    「おひいさん」
     穏やかな歌が熱した体に溶けていく。
     あ、寝る。ぶつんっとテレビを消した瞬間の様に途切れた意識の中、いいこ。と動いた唇がにっと笑っていた気がした。




     結論を言おう。
    昨晩オレはヒートがきたらしい。

     ヒート。オメガ性の者が持つ発情期の事。
    体が熱くなり、自身の身体に性が欲しいと、子供を作りたいと叫ぶ本能をオレ達はそう呼ぶ。
    アルファ、ベータを誘う匂いを撒き散らし、誘惑するこの独特の体質は、番と呼ばれるパートナーができればそのパートナーのみに伝えられるという、摩訶不思議な仕組みなのだ。
    昨日おひいさんがくれた薬はヒートを抑制する薬で、望まないパートナーと番にならない為、熱を無理矢理鎮める為、不慮の事態を宥める為など用途は様々だ。
     察しの通りオレはオメガ。
    誰とも番にならない為に、厳重なロックのついたチョーカーを毎日きちんと付けている、れっきとしたオメガだ。
     そしておひいさんは。

    「ジュンくん、後ろ向いて」
     オレの黒いチョーカーを手に持つおひいさんが冷たい紐を留め、ぴぴっとロックをかける。
    「ありがとうございます、おひいさん」
    「うんうん。もっと感謝するといいね!」
     ふふんっと得意げな顔したおひいさんにぺこりと頭を下げる。
    「あの、おひいさん。お願いがあるんすけど」
    「なぁに? 昨日のお礼は聞き飽きたし、チョーカーは留めてあげたし、朝ご飯は食べたね? あ! 心配しなくても今日はお外に出ないからね!」
     ぺらぺら聞いてない事を話すおひいさんは、オレのお願いに検討が付いているのだろう。煙を撒く様に、触れない様に、逸らしたくて仕方がないみたいにソワソワしていた。

    「おひいさん。オレの番になってくれませんか?」
    「まだ早いね!!!」

     バッサリ切られたオレの告白にぶんぶん首を振るおひいさんが、だよね! と叫ぶ。
    「ジュンくん、物事には順序があるね!!」
    「良いじゃないですか!! オレにチョーカーつける手間もなくなりますよ!!」
    「このくらい手間じゃないね!!」
    「オレが他のアルファと番になってもいいんすかぁ〜? 身内同士でなった方が色々安泰じゃないっすか?」
    「その手には乗らないね! よーし、ジュンくん、寝ようね!!」
     まだまだ今日はこれからだというのに。全力で逃げる意気地なしを睨みつける。
    オレの視線が痛いと、ブリキのようにガタついた動きで目を逸らしたおひいさんは、それでもつーんとしていて、そっけない。
    「ならないから。ならないからね!」
    「なんでっすかぁ〜??」
     あんたに好意を持ったオメガがいて、あんたは番の居ないアルファ。問題なんてちっとも無いはずだ。運命の番と呼ばれる特別な相手を探しているようなロマンチストでも無いだろう。
    もしそうなら、オレとあんたの出会いは文句なしに運命的だったんだからさ、それでよくないっすかねぇ。
    じっと視線を送り続け、おひいさんと呟く。
     小鳥のように囀る口を閉ざし、もぞもぞ布団を被ったおひいさんの姿が見えなくなる。
    狸寝入りも良いところだ。
    オレと話す気も無い、どうでもいいと言われたみたいでムカつく。
    「そーですか! もういいです! おひいさんのアホ!!」
     バンっと大きく鳴った机の音に、少しだけ冷や汗をかく。
    じんじんと痛む手のひらに、じわじわと熱が篭っていく。
    乱暴なオレの声にも、机の音にも何も言わず、反応もないおひいさんの姿が悔しくて、どうしようもなく頭に血が上って、まずいなとふるふる頭を振る。
    ぺたぺたとフローリングを歩いて、バタンと扉を閉める。
    「……ジュンくん?」
     戸惑ったような声が聞こえたが知った事か。
    ガチャリとドアを開け、身一つで外に出る。
    オレの気持ちと裏腹に、晴れ渡った冬空は美しく澄んでいた。





    「どうしたらおひいさんを落とせると思います???」
    「どうして貴方はヒート中なのにこちらに来られたんです???」

     どうぞと出されたコーヒーにミルクを入れ、ぐるぐるかき混ぜる。
     何してんだこいつとあり得ないものを見る顔をした茨は、帰れ帰れと手早く車を手配する仕草を見せ、もう片手はキーボードを忙しなく叩いていた。
     玲明寮を出たオレにあてなんかある訳なく、茨達の城である秀越くらいしか思いつかなかった。
    ユニットメンバーを、ヒート中のオメガを追い出す薄情者ではない、優しーやさしー茨に甘えて、相談もとい愚痴を吐く。
    「薬飲んでるんで、いつもと何も変わりませんよぉ」
    「見た目はかわりませんけどね。普段より魅力的に自分の目には映っていますよ。良くここまで来れたものです。殿下の支配下になかったら貴方、悲惨な目にあってますからね」
    「そう、それなんですよ。オレおひいさんのものになりたいんですって」
     かき混ぜる手を止め、ゆっくり飲み込む。
    まだ苦い。ガムシロップを入れ、またかき混ぜる。
    「素直に伝えればよろしいじゃないですか。自分に言われても困ります」
    ぐっと黒い液体を流し込んだ茨のどうでもいいと告げる顔に首を振る。
    「言ったんすけど、ダメって言われました」
    「殿下が?」
    「おひいさんが」
     マグカップを置いた茨の冬色の目と合う。
    は? と漏れた声に頷く。やっぱ茨もそう思いますよねぇ。
    「どうしたらいいと思います? オレ、今まではヒートが来ていないのがダメなんだと思ってたんすよ」
    「おかしいですね、殿下なら喜んでなりそうなのに」
    「そーなんすよ! おひいさんだって、オレとなるの満更でもないはずなのにさぁ〜〜」

     朝は気乗りしていなかったがおひいさんだって別にオレが嫌いな訳ではない。
    元々シンプルだったチョーカーを面倒なチョーカーに変えたのは他でもないおひいさんだ。手間だろうに毎日ロックを変えて、シャワー前や起きた時に外して、ロックをかけるのを1日だって怠る事なくおひいさんが行っている。オレは自分の事なのに、今だってロックナンバーを知らない。おひいさんが分かっていればいいの一点張りだ。
    他にも共演者にアルファが居るといつも以上にくっついてくるし、間に入ってくるし。何より他のオメガに興味はないって言ってたし。
    「自信満々ですね、いえ、認識は正しいのですが」
    「ですよね! だから分かんねぇんすよ〜! 何でダメなんですかね」
     腕組んで唸っても答えなんか出てこない。
    同じように思案する茨とうんうん唸る。
    「オレが嫌い……オレだけは嫌?」
    「絶対違うと信じている所から潰していくんですね」
    「そうしねぇと分かんねぇんすもん。選択問題みたいなもんですよ」
     とは言えこれ以外に思いつかない。
    嫌われていない、満更でもないと思っているのはオレだけで、おひいさんの本心は相方を気遣う、ただの貴族の慈悲なのだろうか。
    勘違い男もいい所と一人なら思うが、茨もおかしいと首を傾げているお陰でそんな気にもならない。
    「ナギ先輩にも聞いてみますかね…オレじゃおひいさんの気持ち分からないですし」
    「閣下に恋愛相談というのは……」
    「過保護ですねぇぇぇ!」
    「変な知識を与えないでいただきたいだけです!!」
     ぎっと睨む茨は頭が痛いと額に手を当て困り顔だ。
     人の営みに興味を持ったナギ先輩、今以上に活発になりそうだもんな。

    「それより自分が気になるのはですね」
    「何すか?」
    「ジュンにヒートが来たのに殿下は平気だった事です。病院の手続きや自分に連絡、着いてからの看病など全て平常の殿下のまま。当てられてないのかと医者すら怪訝そうな顔をしておりました」
    「ヒートのオメガには慣れてるんじゃないっすか? この業界多いですし」
    「いえいえ! アルファにとって、オメガのヒートは本能の刺激です。理性の動員だけで抑えられるものではありません!」
    そう言われてみるとおかしい気がしてきた。
    顔色一つ変えず、オレの事心底心配だと、とにかく安心させようと気遣った優しい色を湛えた瞳。呼吸の乱れもなかったおひいさん。
     ヒートのオメガの匂いはアルファにとって、抗うことのできない媚薬のような香り、と聞く。
    おひいさんもしかして。
    「アルファじゃない……? ありえねぇ…」
    「殿下はれっきとしたアルファです。閣下も仰ってましたが、アルファとしての理性や秩序、振る舞いは殿下仕込みです」
    「じゃあ何なんすか? もしかして、実はもう番がいる!?」
    「自分は聞いていませんが……」
     興味が無いのは愛する人が既にいるからで、オレのヒートが平気なのは番った同士の発情にしか反応しなくなるからで……。そう考えるとしっくりくるな。

    「オレ、失恋したって事ですかね……?」
    「殿下にはジュンよりも好きな方が居られるようには見えませんけどね」
    「……日和くんはジュンが大好きだよ」
    「帰るよジュンくん」
     
     突然聞こえた声に振り返れば、何を言ってるんだろうと首を傾げたナギ先輩と俯いたおひいさんがドアの前に立っていた。
    やっほうと手を挙げるナギ先輩にぺこりと会釈する。
    いつもと変わらないナギ先輩を横切り、ズンズン歩くおひいさんがオレの腕を掴んだ。
     どくんどくんと心音が速くなる。ヒートなんか関係なく、単純に好きな人に触れられたから。
    失恋疑惑があってもオレの恋心はまだまだ健在なのだ。
     ところで、何でいるんだろう。呑気に考えるオレに、嫌そうな顔した茨がシッシッと早く出て行けと合図するのに合点する。
    茨が呼んだのか。
    「考えなしのおバカなジュンくん。お説教は後だね。帰るよ」
    「自分、車を手配しております! 運転手は信頼のおける人間ですので、ご安心いただければ!」
    「ありがとう茨」
    「閣下にお褒め頂くとは予想外ですな!」

     立てと引っ張る腕につられて立ち上がる。
    いい笑顔で敬礼する茨とまたねと手を振るナギ先輩が遠ざかっていく。
    捕まった腕は解かれる事がないまま、オレはまた玲明寮に戻ったのだった。



    一時間足らずの脱走を終え、部屋に入る。
    ずっとダンマリのおひいさんと向かい合って座る姿は、刑事ドラマの取調室の中のようだ。
    癇癪を起こして出て行ったオレが犯人で、理性的に部屋に押し戻したおひいさんが刑事。
    なのに今顔を上げ、おひいさんに謝罪の声を上げるのはオレで、ダンマリと下を向いているのはおひいさんだ。立場の逆転した刑事モノをオレは見た事がない。
    カチカチと進む時計の針の音が静かな部屋によく響く。居た堪れなくなってきた。
    「あの、おひいさん」
    「……反省してる?」
    「そりゃ、勝手に怒って出て行きましたし、一応病人なのに出歩きましたし」
    「そんな事どうでもいいね。きみ、ヒートが来たって意識が無さすぎるよね。薬が良く効いてるから大丈夫なんて事ないんだよ?」
     ようやく顔を上げたおひいさんは呆れた顔をしてため息を吐いた。
    「きみ、オメガなんだからね。チョーカーは外せないから番にはなれないけど、それでも性犯罪に巻き込まれる可能性は充分あるんだよ。ヒートの匂いに当てられた、野蛮なアルファやベータに酷い事をされていたかもしれないんだからね。自分の事、大事にしてほしいね」
     真っ当な叱りにはいと返事を返す。
    分かっているのかと胡乱な眼差しに、信用ないなとムッとしてしまう。
    「ジュンくん。きみ、分かってないでしょ」
    「分かってます。おひいさんが正しいです」
    「自分の、ううん。薬の事を過信しすぎているね。きみはね、ぼくとずっと一緒に居るんだよ。アルファの近くに居るオメガの匂いは、他のオメガより強いからね。普通の薬じゃ通常の半分しか抑えられないね。茨の所に無事に向かえたのは奇跡と思っていいんだからね!」
     珍しく語気を荒げたおひいさんにこくりと頷く。相当心配されていた事を自覚して自分が恥ずかしい。浅はかな行動だったとただただ思う。
    「反省したならいいね。ジュンくん、今日と明日はお外に出ちゃダメだからね」
    「出ません。すみませんでした」
     ならいいねと笑ったおひいさんはすっかりいつも通りだ。
    喉渇いたとキッチンに向かったおひいさんは、珍しく自分で紅茶を淹れて、オレの分も一緒に持ってきた。
    優雅にカップに口付け、少しずつ中身を減らすおひいさんに、今度はオレが聞きたかった事を言おうと思う。

    「あの、おひいさん」
    「何?」
    「……おひいさんって番がいるんですか?」
    「え??」
     ぽかんと口を開けたおひいさんが何でと首を傾げる。
    「オレのヒートに当てられてなかったんで」
    「あぁ。ぼくは常識のあるアルファだからね。きちんと対策をしているだけだね」
    「じゃあ居ないんすか?? 対策って出来るもんなんすか?」
     だったら世の中のアルファだって出来るだろと訝しげなオレに苦笑するおひいさんがふるふる首を振る。
    「ぼくはアルファの中でも優秀なアルファだから。きみのヒートに当てられていなかったでしょう?」
    「薬…….は当てにしちゃダメなんでしたっけ」
    「そうだよ。だからねジュンくん、外に出ちゃいけないね」
    「はい。……じゃなくて、番は!!」
     また同じ流れになって慌てて軌道を戻す。
    流されなかったオレに笑顔を貼り付けたおひいさんはさぁと知らんぷりで紅茶を飲む。
    「オレだって、その、あんたに番がいるなら迫ったりなんてしません」
    「うん」
    「ダメ以外の理由が聞きたいんですよ」
     
     朝もバッサリ切られているが、オレは今まで何度もおひいさんに迫った事がある。
    最初は死んでもなりたく無かったのに、おひいさんを知っていく内に、おひいさん以外となりたくないと思うようになったのだ。
    一心同体、一生離れてやらないと、おひいさんの隣を譲らないと決めてから何度も。
    その度に曖昧に笑われたり、ダメと首を振られたりと振られ続けている。
    遊びで言っているわけじゃないと分かっているはずなのに。

    「何で教えてくれないんすか? おひいさん」
    「まだダメだからだね。何度も言っているけど」

     カップをソーサーに戻したおひいさんがじっとオレを見る。
    綺麗な澄んだ紫水晶にどくんどくんと心臓が高鳴る。
    「ほら、ぼくがちょっと見るだけできみ、顔真っ赤だね」
    「それは、オレがあんたの事」
    「うんうん。そうだね、いい日和! でもねジュンくん」

     カタンと立ち上がったおひいさんがオレに手を伸ばす。
    そっと頬を触るおひいさんに、夜を思い出して、すりっと無意識に手のひらに擦り寄る。
    「……いけない子」
    「な、んぅ」

     唇があったかい。柔らかい。息が、出来ない。
    伏せられた長いまつ毛がゆっくり開いて、離れて、また重なるのにじんじんと口が熱くなっていく。

     オレもしかして、おひいさんとキスしてる!?な、何で、何でだ!?

     混乱したまま、重なり離れないおひいさんの服を思わず掴む。  
     好きな人からキスされてるなんて、都合の良い夢でも見ているのだろうか。こんなにリアルにおひいさんを感じる夢なんて今まで見た事ないし、息継ぎのたびかかる息は熱いし、夢みたいな現実に目も閉じられない。

     オレの様子に冷たい光を向けたアメジストが、現実だと突きつけるように背に回った腕に思考が全部飛んでいく。
    「ジュンくん」
    「はぁはぁ、……ぁ、うぅ……? あ、あつい……?」
     オレの顔を覗き込むおひいさんに、夜と同じ熱が体に巡るのを感じてびくりと震える。
     薬が切れたのだろうか。だとしたら、離れないと。ぼんやり浮かれた理性が警告するのに、オレの手はぎゅっとおひいさんの服をつかんではなさなかった。
    「分かった? ぼくね、きみに触れ」
    「おひー、さ。あつい、だめ、です、はなして」
     おひいさんの言葉を遮ってしまった。何がいいたかったんだろう。ごめんなさいと口を動かす前に頬を撫でたおひいさんがオレに言葉を被せる。

    「そう。離れたいんだ」
     考える前にぎゅぅぅぅとさらに強く掴んだオレの手に、どっちなのかねと冷たく問うおひいさんにぽたりと目から涙が溢れる。
    「うぅ〜〜、…い、いやだ、いやです、」
    「素直でよろしい。でも離れるからね。ベッド行こう?」
    「はなれ、や、です。やだ、いかないで、おひいさん」
     ぼとぼと視界を悪くさせる水の膜に、おひいさんの姿がぼやけて、幻のように揺れる。
    「おひい、おひいさん、おひんぅ」
     柔らかい。さっき知った感触が嬉しくて、離さないように、震える手を伸ばして背を抱きしめる。
    息継ぎの合図のようにとんとんと背を叩かれ、離れたおひいさんを追いかけるまえにそっと口を開く。
    酸素が冷たい。冷えた空気を肺に感じる前に熱いのが口内にくちゅりと入って、どろりと肺に熱が落ちた。
    「んっんぅぁ」
    「飲んで、ジュンくん」
     ぐちゃぐちゃとかき回された口内に溜まった唾液をこくりと飲み込む。
    「あえ……?」
    「飲むの下手くそだねジュンくん。ごっくんして」
     ごっくんと促されるまま飲み込み、喉をさする。
     何か、喉に引っかかったような気がする。
    「ジュンくん。寝ようね」
    「……なんで」
    「眠れば全部元通りだね。大丈夫だね、ジュンくん」
     大丈夫。聞いたことある言葉だ。大丈夫ってなんだっけ?
    「うぅ……?」
    「ジュンくん」
     ふらつく頭を抱えられ、そのままおひいさんに身を預ける。オレと同じ柔軟剤と、ほんの少しの汗の匂い。おひいさんの華やかな薔薇の香りと、微弱に感じるアルファ独特のお酒のような匂いに、あれ? と首を傾げる。
     おひいさんのアルファの匂い、初めて嗅いだ気がする。
    「おやすみ、ジュンくん」
     そっと髪を撫でられ、何故か逆らえなくて目を瞑る。

     いい子、いい子。前にも聞いた言葉が聞こえた気がした。


     いい事なのか悪い事なのか。ヒートが来てからもオレとおひいさんは何一つ変わりなかった。
    当たり前のように一緒に暮らして、レッスンして、ライブに出て。
     日課のチョーカーも変わらずおひいさんしかロックが分からないし、アルファの共演者が居れば間に入ってくる。
     ナギ先輩と二人っきりで楽屋待機も、よくよく思い返してみれば今まで一度もない。ナギ先輩の場合はおひいさんがナギ先輩と一緒に居たいから、の可能性が否定出来ないけど。
     キスした事実は、やっぱり夢だったのだろうかと思うほどオレに対して何も変わらない。
     変わらない事をいい事に、懲りずに定期的にお願いしているが、相変わらず首を振られ、もう少しだけ待ってねと肩を落とされる始末。
     諦めるのが下手くそだって知ってる人なのに。
    そう言うところが気に入ってくれたんじゃなかったんすか、おひいさん。

    「あー!! もう! どうすりゃいいんすかねぇ!!」
    「いっその事夜這いしてみれば如何です?」
    「危ねぇ思考ですよ、それ」
     犯罪だと難色を示せば、冗談ですと適当にあしらわれる。茨にこの相談をするのはもう何度目だろう。面倒くさいと最近あからさまになってきた茨がミルクの入ったコーヒーを渡してくれたのをありがたく受け取る。
     優しいのか、優しくないのか分からないな、茨って。
    「何ですその顔。追い出しますよ」
    「ヒート、多分そろそろ来るんですけど、オレ、おひいさんと同じ所居ない方がいいですかね?」
    「そろそろと言うか、予定では明日ですよね? 前回平気だったならもうそのままでいいのでは? 殿下の隣ほど安全な場所もありませんし」
    「何で言い切れるんすかぁ〜? オレは間違いが起きてもいいですけど、おひいさんが嫌じゃないっすか、誠実じゃないですよ。オレもやっぱ嫌ですし」
    「どっちなんですか」
    「嫌です」
     はぁと鬱陶しさが滲み出てため息を吐く茨がコツコツとテーブルを叩く。
    面倒くさい、いい加減にしろと貧乏ゆすりをしているような仕草は珍しくて、らしくないなとのんびり思う。
    「自分からこういう事を言うのは大変良くないのですがね。このままだとなぁなぁで番になりそうなのでお伝えします」
    「何を?」
     番になるって、おひいさん頷いてくれてないのに。
    「殿下、嫌。とは一言も言っておりませんよね? まだダメ。待ってと言ってらっしゃるので」
    「それが?」
    「自分と国語の勉強をしましょうか!? 待ってもまだも否定ではないですよね! "今"叶えられないだけで、貴方と番になる事を拒否されている訳ではないと言う事です! 分かりましたか!?」
    「は、はい!……はい?」
     くそっと額を抑えて眉間に皺を寄せる茨がはぁぁっと深いため息を吐く。
    何故分からないと訴える目に困ってしまう。
    ダメって、ダメ以外ないじゃないか。オレ何か間違ってんすかね?
    「言葉の通り受け取りすぎなんです。貴方は。いいですか。殿下の不思議を思い出してください。答えが出ますから」
    「おひいさんの不思議…?」

    何かあっただろうか。おひいさんは世間一般の人とズレているから不思議と言われたら全部不思議な気がする。
    「ジュン……。貴方のヒートの時どうでしたか?」
     ヒート、ヒート? えっと。おひいさんに寝ろって言われて、それで。あぁ。
    「オレのヒートに当てられてなかった事ですね!! あれなんでなんすかねぇ」
    「まだ聞いてなかったんですか? 自分殿下だけが悪い訳ではない気がしてきました」
    「どう言う事ですそれ」
    はぁっと今日何度目か分からない茨が、面倒で面倒で堪らないと隠す事なくぴっとドアを指差す。
    「ご自身で確かめて下さい。自分はもう知りません」
     
     オレがドアを見た瞬間、ガチャリときょとんとした顔して撮影を終えたおひいさんとナギ先輩が帰ってきた。
    取り込み中かな? とのんびりとした動きで着替えに向かったナギ先輩が、ひらひらと手を振るのにつられてオレも手を振る。
    「なーに? ぼくの居ない所でジュンくんで遊んでたなんて許さないからね!」
    「違います。事実無根です。お馬鹿なジュンにちゃんと説明して早く番になって下さい。今日からEveは一週間休みです。分かりましたね、殿下」
    「わぁ、性急! タイミングはいいんだけどね。ぼくにはぼくの都合があるよね!」
    「その都合をきちんと話して下さい。ジュンがそのうち泣きます」
    「え、ジュンくん泣いちゃったの!? 大丈夫だね、ぼくが抱きしめてあげるからね!」
    「く、くるし」
     ぎゅうぎゅうっ! とふざけた掛け声をあげてオレの首を絞めるおひいさんの腕をベシベシ叩く。
    酸欠で頭がクラクラしてきた。ぼやけた視界に本当に泣いてしまいそうでめちゃくちゃムカつく。

     何も解決していないのに終わったとパソコンを開いた茨がコーヒーをごくりと飲み干す。
    「はいはい。戯れ合うのは家でやって下さい。自分バカップルを見て喜ぶ趣味はありません」
    「辛辣だね? ぼく達が仲良しじゃないと何だかんだ気にする癖にね〜! 素直じゃないね!!」
    「幻覚では?」
    「お、ひぃさ」
     ぴとりとほっぺをくっつけたおひいさんがゆっくり腕の力を緩める。
    やっと吸えた酸素を胸いっぱい取り込んで、吐き出してを繰り返していれば、にこにこと嬉しそうな顔したおひいさんがきゅうっとまた抱きついてきた。
    「心配しなくても、大丈夫だね! なんてったってぼくはおひいさんだからね!」
    「分かりました。帰って下さい、車なら手配済みですから」
     タイミング良く着替え終わったナギ先輩と入れ替わったおひいさんが揚々と着替えに消えていく。
    「日和くん嬉しそう。私も嬉しいな」
    「なんで、あんな元気なんすかぁ……」
    「ジュンふらふらしてる。でも熱は無さそうだね。良かったね、ジュン」
    「……? はい」
     にこにこと優しい笑顔を向けるナギ先輩によく分からないまま頷く。
    オレの国語力が足りていないのだろうか。今日は三人の言葉が上手く理解できない。皆オレより何倍も賢いから、普段からそうだと言われたらそうな気もするけどさ。
    「日和くん、かなり収まってきたみたいだよ。日和くんはカッコいい日和くんの姿でありたいから、凄く我慢していたみたい。報われて私も嬉しい」
    「ジュン、その事一切知らないようですよ」
    「……そう。ジュン。これは君が知らなくてもいい事で、知っていてもいい事。そして日和くんが隠していた事。私の独り言だから、気にしないでね」
    「え、あの」

     そうだなとのんびり話し始めたナギ先輩の言葉を理解しようと必死になって頭を回す。
     なんか、それって。

    「日和くん、ジュンが大好きなんだよ。
    なんだかお互い公平じゃなくて、ギクシャクしそうだなって思ったから。私、お節介焼いちゃった。可愛い後輩、ううん。家族には幸せになってほしい。……私間違ってる?」
    「いえいえ! 自分は面倒くさくて投げ出したくらいですから。閣下の優しさは天使よりも純心で神よりも慈悲深いですな!!」
    「ふふっ。茨、早く早くって背中を押す一生懸命さが可愛いらしかったよ。思ってる気持ちは変わりないんだから、もっと素直に祝福してあげたらいいのに」
    「いや〜、自分には何の事だかさっぱりです!」
    「終わったね!! ジュンくーん、帰るよ!」

     ぴょこっと薄緑を跳ねさせたおひいさんが顔を出す。
    にこにこ笑うナギ先輩と、帰れと笑う茨に頭を下げて、ゆっくり立ち上がる。
    「ジュンくん? ……な、なに!? どうしたの!?」
     ぎゅっと思わず抱きついたオレにひっくり返った声をあげたおひいさんが珍しくて、可笑しくて、可愛くて。
    「おひいさん、好きです。番になって下さい」
     おひいさんだけに聞こえるように耳に口を寄せて、そっと囁く。
     いつもみたいにダメ、も待っても言われない事が嬉しくて、嬉しくて。そっと離れて手を引っ張る。
    「お疲れ様でした! 来週またお願いします!」
     パタンと丁寧に扉を閉める。

     ジュンくんっと戸惑った声を出すおひいさんに今だけ聞こえないフリして車に乗り込む。
     今なら何だって出来る気がする。
    握った手に力を込めて、おひいさんに少しだけもたれかかる。
    驚きで見開かれるアメジストのキラキラした輝きに、にっと悪い顔したオレが映った。



     ただいま我が家。帰ってくるまであっという間で、勝手に高鳴り続ける心臓がずっとバクバク言って、全身熱い。
     ぎゅっと握りっぱなしの手を離すのが嫌で、もたつきながら靴を脱ぐ。
    「ジュンくん。どうしたの。ヒートまだ来ていないよね?」
    「ヒートはまだですけど、今すぐ番になりたいんで、すぐに来てもらって構わないっすねぇ」
     笑って告げれば、ふぅんと紫を細めたおひいさんがじっとオレを見る。
    「ねぇジュンくん。もしかして」
    「どっちでもいいでしょ? ベッド行きましょ」
     
     ぐいぐい引っ張っておひいさんのベッドに身を乗り上げる。
    シャワー浴びた方がいいのだろうか。
    きっと汗だくになるし、二度手間だろうかと急く思考に酸素を送って、落ち着かせる。

    「おひいさん。オレのチョーカー外して」
    「どうして」
    「う? あんた、もうオレとなる事に反対じゃないんでしょう? それだけです」
     勝手にベッドに座ったオレを咎める事なく、立ちっぱなしのおひいさんがオレを見下ろす。
    真意が分からなくて揺らぐ顔に少しだけ気分が良くなる。ずっと、オレもそんな顔してたんじゃないですかね、おひいさん。

    「ねぇおひいさん。オレあんたの事大好きです。我儘で、寂しがりやで、かっこつけで、素直じゃない、何でも抱え込んで、きらきら笑うあんたの不器用な所が嫌いで好きで、愛しいなって思います。誰よりも明るく笑って、太陽よりも眩しくて、両手広げて愛情を求めてくるあんたが、好きなんです」
     何も言わないおひいさんの瞳を真っ直ぐ見つめる。
    どんな気持ちでオレの告白を聞いているのだろうか。
    オレは、あんたが好き。それだけのシンプルな気持ちをあんたに伝えたい。オレの精一杯の言葉。
    「おひいさん。オレはあんたと一緒に居たいんです。あんただって、そうなんでしょう? だから、だからさ。オレの番になって下さい。あんたのオメガにして下さい。漣 ジュンは未来永劫あんたの隣で歌っていたいんです。あんたの事全部オレに受け止めさせて下さい」
     
     しんっと鎮まり返った部屋にばくばくとオレの心臓だけがやけに響く。
    無言のおひいさんがゆっくり近づいて、同じように腰を下ろしたのにどきりと心臓が跳ねる。
    「ぼくから告白したかったのに」
    拗ねたような声でオレの頸を撫でたおひいさんがぱちんっとチョーカーを外す。

    「ぼくだってね、ジュンくん。ずっときみの番になりたかった。きみにこうして触れて、噛んで、ぼくのものにしたかった。きみは知らないだろうけどね、ぼく、ずっときみが好きなの。きみが自覚するよりもずっと前から」
     黒い頑丈な戒めを床に落としたおひいさんがゆっくりとオレを押し倒す。
    不思議な色だ。
    薄暗いベッドの中でも艶やかに輝くアメジストの瞳は高貴なのに、瞳の奥で揺れる熱は真夏の陽炎のように不可思議で、オレを捉えて離さない。
    「ぼくの事聞いたんだよね。凪砂くんから」
    「少しだけ」
    「そう。……ぼくとキスした時の事覚えてる? 忘れているわけないよね。あの時、とっても熱かったでしょう? あれはね、全部ぼくのせい。ぼくのアルファ性は強力だから、少し触れたりするだけで、よく効く子には見つめるだけで、オメガを魅了、ううん。ぼくの奴隷にできてしまうね。ぼくはそれが嫌で嫌で、ずっとお薬を飲んで抑え込んでいたね。だからライブ中やきみのヒートも何にもなかったの。そういうお薬だから」
     もう飲んでないけどねと呟いたおひいさんに小さく頷く。
    ナギ先輩から聞いたところの一つだ。
    「きみのヒートが来た時に、もうお薬は要らないなと思ったの。だってきみに薬が上手く効かなくなっていたから。当然だよね。ぼくが本気で愛しちゃった子だもん。だからね、薬を切り替えた。きみに害が及ばないように、きみと愛し合えるように。ぼくが触れてもきみのままで居てくれる事が、ぼくはね、凄く凄く嬉しいんだよ」

     そうっと重なった唇がゆっくりと深くなる。
    何度も重ねて、だんだん長く重なる時間と共にじんわりと唇が痺れるような甘さを孕む。

    「おひい、さん」
    「熱くないでしょ」
    「心臓、いてぇ」
     ドキドキと壊れそうな程速くなった鼓動を握れば、クスりと大人っぽく笑ったおひいさんが体重をかけ、オレの音を聞く。
    あんたに触られてドキドキしてるんだって事存分に伝わればいい。
    「かわいい。かわいいね、ジュンくん」
    「何すかそれ」
    「大好きって事だね。あは、照れてる」
     くすぐるように頬を撫でるおひいさんが嬉しそうにとろりと甘く瞳を蕩けさせた。

    「ねぇ、いいんだよね。ずっとずっとぼくに伝えてくれていたもんね」

     つーっと頬から頸へと指を滑らせ、撫でるおひいさんにこくんと頷く。

    「噛んで、おひいさん。あんたの番になりたいです」
    「喜んで。待たせちゃってごめんね」

     ゆっくり起き上がって、おひいさんに背を向ける。
    何にもない真っさらな頸を撫で、そっと唇を寄せ、触れるおひいさんの動きがくすぐったくて、じんじんと熱が溜まってどくどくと脈が速くなる。
    そっと再び重なった手にぴくりと肩が跳ねる。
    おひいさんの手もオレと同じくらい熱くて、それが嬉しいと素直に思う。
    「おひい、さん」
    「いい子、いい子。怖くないよ。だぁいすき。ぼくのかわいい、ジュンくん」
     
     カチッと当たったいい? の合図に無言で小さく首を振る。
    きゅっと絡まった指を握り返すと同時に、ガブリと鋭い痛みと雷に打たれたような衝撃と、脳まで一気に駆け巡った快楽と発熱にぼたぼたと涙が溢れ落ちる。
     やっと、やっと。オレ、おひいさんの番に。

     ちゅうっと噛み跡にキスしたおひいさんがくるりとオレをひっくり返してまたベッドに沈める。
    ぼやけた視界を何度も拭われ、ようやく現れた美しい人を抱きしめる。
    「おひいさん」
    「いいこ、いいこ。ぼくのジュンくん」

     どくどくと走る心音と触れ合っただけで気持ちのいい熱にぴくりと体が跳ねる。
    落ち着きたくて吸い込んだおひいさんの匂いが身体の中をさらに熱くさせ、くらくらと脳を揺らす。
    「ふふ。ヒートきちゃったね。ねぇ、ジュンくん。触っていい? 大丈夫、とびっきり幸せにしてあげる。大好きだって、ドロドロに溶かして、愛してあげるからね」
    「おひい、さん」
     必死に頷いてぎゅぅっと抱きしめる力を強める。

     いい子。と囁いた声に身を委ねる。
    望んだものを手に入れた夜は、甘い甘い、色で月を映していた。
    遠い雪の中で
     昔のことはよく覚えていない。
    練習と称して虐待レベルの扱きを受けて、殆ど家と学校の往復で代わり映えのない生活だったから。どれだけ遡っても、大体同じ灰色の記憶で、酒とタバコの匂いがする。
     それでも一つだけ覚えている事がある。
    珍しく両親と買い物に行った帰り道。雪が降り、息が白くなる中、買ってもらったショートケーキよりも甘そうで、幸せになれると何故か確信した、嗅いだ事のない匂い。
     繋がった両手を振り解くには力が弱くて、視界の端に入れるには一瞬すぎて分からなかった。それでもあの優しくて甘い匂いだけを鮮明に覚えている。その匂いを思い出しては、ぽかぽかと胸が温かくなる。幼い頃からお守りにしていた、大事な思い出なのに。
     あーあ、神様って人は、意地悪だ。

    「今日からよろしくね、ジュンくん!」

     差し出された手を、チャンスを掴む時に吹いた風に乗った匂いが、香水の香りに混ざってもはっきり分かる。ショートケーキよりも甘くて、胸がいっぱいになって、知らない喜びに涙が出そうになったから。
    あぁ、この人だ。オレがずっと覚えていた、小さい頃に嗅いだアルファの匂いは。
    巴 日和。おひいさん。オレの先輩、主人、相方、そして多分、運命の人。
    「よろしくお願いします」
     しっかりと手を握って、華やかに微笑んだ甘い人は、きっとオレの事なんか覚えてない。

    だから。

     オレはあの記憶を、思い出を

     無かった事にした。




     アルファとオメガは頸を噛めば番になる。より正確に言うと、オメガはアルファに頸を噛まれると噛んだ人と番になる。
    契約の解消は相手が死ぬまで。あとは、無理矢理解消されるか。あまり考えたくないが最悪の事態で番になり、そのまま捨てられたオメガだって現実には居て。精神的不安、ヒートの恐怖や苦痛、逃げ場のない快楽と二度と番のできない体になるなど、恐ろしい一生を送らないといけなくなる。番は、デリケートで、慎重に決めてならないといけないものだ。
    それなのに都市伝説のように運命というものは存在する。余りにも該当者が少なくて、お互いがお互いにどうやって惹かれたのか、身体が決めていたのか、それとも運命という事象は説明するのは野暮なのか。全部をひっくるめて番になる事を何の理由もなしに決定しているといっても過言ではない。一度出会えば忘れられない存在、どうしようもなく求める人。運命というのは、貪欲で、残酷で、気付きさえしなければ無いに等しい物だと知った。

    「ジュンくんジュンくん」
    ばさっと目の前に広げられた雑誌と、上から覗いてくるおひいさんに目を向ける。隣に座ればいいのに。この程度は日常茶飯事で挨拶のようなもので、一ヶ月もすれば慣れてしまった。
    「美味そうな店でもあったんすか?」
    「うん! 観光名所から少しだけ逸れているんだけどね、とっても美味しそうなお団子屋さんだね」
    「遊びに行くんじゃないんすよぉ? 珍しくやる気あったってのに、すぐこれですもんねぇ」
    気に障ったのかむっと拗ねた頬が膨らむ。我儘貴族のおひいさんは気まぐれで、自分の出たくない仕事をボイコットだってする命知らずだ。おひいさん自身のアイドル性、家のでかさ、茨の手腕がなきゃ今頃干されてたっておかしくない。
    「お仕事だけしてすぐに帰るなんて勿体ないね! それにジュンくんに拒否権なんてないね!」
    「そうっすねぇ。そうっすよねぇ」
     食い意地のはった事で。
    「なぁに? ぼくに文句があるって顔だね!」
    「いひゃいっすよ!!」
     むぎゅっとほっぺを掴んでこねるおひいさんが楽しそうにオレを虐める。スキンシップ過多で子供みたいな人だ。
    睨みつけてもちっとも怯えないクソ貴族がぴたりと止まった。 

    「ねぇ、ジュンくん」
    「なんすか?」
    珍しく無言で考えるような顔をしたおひいさんがぎゅうっと抱きついてくる。
    ここまでのスキンシップは珍しい。よっぽど言いづらいのか、ぐりぐりと肩に頭を擦り付けるのが擽ったい。
    「あのね……勘違いしないでね」
    「なにが?」
     また無言になったおひいさんがぎゅうっとオレにくっつく。悪戯にチョーカーを撫でた指にびくりと体が跳ねる。
    「勘違い、しないでね」
     それは、オレがオメガだからだろうか。オメガだから選んだんじゃないと、そういう事でいいのだろうか。オメガだから襲うようなアルファではないと言いたいのだろうか。
    それとも。
    「大切なの。だから安売りなんてしないでね」
     オレの代わりはいくらでもいるのだから、性を使って引き留めるなんて非道な事はするなという警告。おひいさんはアルファ、オメガとか関係なくオレを選んだと言ってはいたが、性のトラブルをちゃんと避けるよう予め忠告出来るくらいには性の事を理解している。
    「……分かってます」
     子供の頃から夢だったアイドルになれたのはおひいさんのおかげで、オレだってそんな事死んでもしたく無い。第一それで捨てられたら地獄だ。
    おひいさんはそんな事しない人だと分かってる。だから、そこにつけ込む人間には、オメガにはなりたくない。
    「ならいいね。……お団子食べるの楽しみだね! ジュンくん何団子が好き?」
    膝に落ちてしまった雑誌を拾って、明るい雰囲気に戻ったおひいさんがにこりと笑う。
    ぼくはねー。と呑気に続けたおひいさんが指す指をぼうっと見つめる。
     捨てるというのは大袈裟ではなく、オレがアイドルとして相応しい相方で無くなったら即起こる。
    必死にしがみついて、上へとがむしゃらに泥飲んで掴んだ初ライブが終了した時から、それは変わらない。


    「よろしくね、ジュンくん」
     舞台上で汗を落としながら笑ったおひいさんがすれ違い様確かに呟いた言葉に胸が踊った。オレの一歩を認めてくれたのが酷く嬉しい。ぼやけそうになった視界をなんとかおさめて、成功したライブの熱に浮かれた体を引きずりながら舞台からはけて、楽屋へ戻る。
    まだ心臓がバクバク言っている。早く着替えて撤収しないといけないのに、体が痺れたように震えて中々できない。
    吸って、吐いてを繰り返して、ジャケットを中途半端に下ろす。引っかかった腕を抜かないといけないのに、擦れた肌がぴりぴりして、脱ぐのが億劫だ。
    「ジュンくん、お疲れ様」
    「お疲れ様です、おひいさん」
     おひいさんの方が楽屋に近かった為、もう着替え終えているようだ。普段のレッスンはだらだらしているのに、仕事の時は別人みたいにキビキビしている。
     すうっと細まった瞳がきらりと光る。初めてみたサイリウムと同じくらい綺麗でつい見惚れてしまう。緑の光しかなかったのに、途中からポツポツと青に変わったのが嬉しくて、今までで一番響いた歌がお客さんに届いたのを感じて胸が震えた、さっきと似た感覚。
    「ジュンくん、色々言いたい事はあるけど、取り敢えず早く衣装脱いじゃおうね。手伝ってあげる」
     伸びて来た手にびくりと震える。上手い事脱げなかったジャケットをあっさりと脱がしたおひいさんに手伝われながら何とか着替え終わる。
    一人で着替えも出来なかった事に呆然とする。何してんだオレ。
    「帰ろうね。ぼくに体重預けて。絶対落とさないでね」
     ばさりと頭に被せられたのは、おひいさんのブレザーで、あの甘い匂いがしてぐらぐらする。
    風邪ひいた時みたいだ。頭がぐちゃぐちゃで泣きそうで、ぶるりと体が震えて、熱い、とにかく熱い。なのに心はどこまでも寒い。せっかく、上手くいったのに。反省点は沢山あるけど、それでもお客さんに喜んで貰えたライブだったのに。最後まで良いものでないと失敗だ。浮かれて体調崩すなんて今どき子供でもしない。なんて未熟なんだろう。
    「ジュンくん。頑張って。もうすぐだから」
     車に乗り込んでも頑張って、耐えてと肩に体を寄せたおひいさんの声に耐えきれず、ぼとりと涙が伝った。

     結局馬鹿みたいに熱にうなされ、一週間寝込んだオレに、次は気をつけようねと、神妙に言ったおひいさんが、まだ隣にいる事を許してくれただけなのだ。
     次は無い。分かってる。
    雑誌をめくって、行きたい店を嬉々として示すおひいさんの隣に居るために、オレは失敗できない、絶対に。



     失敗をする事なく春を終え、夏が終わりかけている。SSという大舞台に出場する為に始めた布石も功をなし、サマーライブも無事に終わった。
    キラキラしたこっちまで気分の良くなる、貪欲で変わった眩しいアイドル達。あの人達とまた戦うと思うと気合が入る。その為にも失敗は出来ない。SSにEdenとして出たいという気持ちも充分だ。
     なのに最近体が怠い。秋口になるし風邪ひきかけているのだろうか。バレねぇうちに何とかしないと。
    「ジュンくーん! 見てみて、アイス屋さんがあるね!」
    「寄りませんからね! 遅刻するでしょうが!」
     撮影は一時間後。珍しく玲明で授業を受けてから向かっているせいか、ほんの少しある時間で脱走しようとするおひいさんを何とか繋ぎ止める。
    燦々と輝く太陽に照らされ、ぷくりと頬を膨らませたおひいさんは太陽に負けないくらいキラキラしていて、照明要らずだ。
    「まだ大丈夫だね! 英気を養うのは大事な事だね!」
    「せめて終わってからにしません? ほら、電車乗りますよ!」
    「終わってからだと寄れないね! 今日は真っ直ぐ家に帰るんだから!! ね、行こう? あそこのアイス屋さん期間限定のいちごのフレーバーがとっても美味しいって評判だね、食べなきゃジュンくん後悔しちゃうね!」
     ぐいぐいと引っ張るおひいさんに諦めて従う。
    オレの抵抗がなくなったからか、嬉しそうに腕を組んで、くっついてきたおひいさんが暑いとぼやく。
    「なら離しません?」
    「…暑かった後のアイスは美味しいね」 
     確かにそうですけど。今の気温は三十度を超えているのに。ただの気まぐれにしても体を張るなと、日にちっとも焼けない白い肌を見る。
    ぷにぷにのくせにオレよりでかい手はしっかりしていて、振り回す力は加減が抜群で痛く無いのに逃げられない。
    「ジュンくんジュンくん、ゼリーとかプリン以外に何か欲しいものある?」
    「う? おやつ買うんすか?」
    「ううん、違うね。特に無いって事でいい? 困ったね、あ、スポドリはもうあるからね」
    「何の話っすか?」
    「着いたね! いちごとバニラ、レモンシャーベットとソーダをお願いするね!」
     ぱっと離れたおひいさんが、トリコロール色のワゴンに向かって、さっさと注文を済ませてしまう。
    カップに入ったアイスを両手で持ってにこにこしているおひいさんから受け取れば、かわいいうさぎと、ネコの形になっているアイスにぱちりと瞬きしてしまった。

     アイスと格闘を終え、撮影現場に着く。
    無駄に汗をかいた気がする。SNS用なら最初から言えばいいのに。あーんっとふざけながらもらったシャーベットは冷たくて酸っぱいレモンも中に蜂蜜が仕込まれていたようで美味しかった。おひいさん意外とさっぱり系の味が好きだよな。オレの分も一口掻っ攫ったおひいさんの甘いねと困った笑みを見て初めて気付いた。可愛らしいアイスは見た目に反して結構な量で、ぎりぎりに着いてしまった。
    口の中まだいちごの味がして甘ったるい。いちごとバニラの中には練乳も入っていたみたいで、ケーキ食った時の甘さがする。
    「予定より早く終わらせるからね、タイム見てるといいね!」
    「タイムって」
    「この前よりもいい写真を撮ってもらうね!」
     適当な事を言うおひいさんの背中を押す。
    何度かお世話になっているカメラマンさんとスタッフさん達はにこやかにおひいさんを撮っている。
    自分の魅せ方が上手いおひいさんの撮影は勉強になる。じっと見ていれば、ふっと口角を上げ、妖艶に笑ったおひいさんに、挑戦を叩きつけられた気分になる。この撮影は単体で撮った後おひいさんとのツーショットがあるのだ。
    「ジュンくん、交代だね!」
     ぐいっと手を引っ張られ、くるりと立場が逆転する。カメラ外で手を振るおひいさんを睨んで、撮影に挑む。
    「ぼくもう入っていーい?」
    カシャカシャとフラッシュの焚かれた中、入ってきたおひいさんにカメラマンさんから了承の声が上がる。
    「早くないっすか?」
    「そう? そんな事ないね」
     セットも変わらない撮影の為問題ないようで、オレ達が話している間にも響くフラッシュ音に飲み込んでおひいさんの肩に手を添える。
    予め指定されていたポーズだ。おひいさんがオレの腰抱いて、オレが背を向けほんの少し振り向ている、Eveのライブ中に近い距離感で指定されたものだ。
    「……?」
     するりと角度を変える為に動いた指にぴくりと体が跳ねる。
    くすぐったいなんてとっくに慣れたのに、違和感と共に腰がじんっと痺れて、少し汗が滲む。
    「ぁ…ぅ…?」
     きゅっとつい指に力を入れてしまう。気付いたおひいさんがバレない程度に浮かした手にほっと胸を撫で下ろす。
    「ジュンくん、帰ろっか」
    「……へ?」
     おひいさんの無機質な声と共に終わりを告げられ、おひいさんに引っ張られる。
    「お疲れ様でした! ぼくたち次の仕事があるので、先に失礼するね!」
    「お、お疲れ様でした!!」
     嘘だ。今日はもう仕事なんてない。撮影の服を買い取ったおひいさんが、このまま帰ろうねと笑って、荷物全部持ってタクシーに乗り込む。
    おひいさんが荷物持つなんて。明日は槍が降るんじゃないだろうか。
     違う、現実逃避してる場合じゃない。今日の撮影はまずい。仕事にきちんと集中出来ていたとは思えない。
    何よりもおひいさんだ。目を合わせる事なく、オレの手首を掴んだままぎりっと力だけが強くなっていく。
    「お、ひい」
    「黙って」
     有無を言わさぬ声にびくりと震える。
    失敗してしまった。もうしないと決めていたのに。
    「ジュンくん、帰るよ」

     玲明寮に着いたタクシーを降りて、ずんずんと部屋の前に着く。
    「メアリ、ごめんね、後でね」
     最近拾った可愛い犬に微笑んだおひいさんに掴まれたまま、ベッドに投げ込まれる。
    背中が痛いが文句何て言えない。
    「いい、ジュンくん。誰が来てもドアを開けちゃダメ。ぼくを呼んじゃだめ。あぁ、もう…」
    薬箱から二錠、錠剤を取り出したおひいさんが飲み込んで、別の薬をオレに飲ませる。
    何の薬だ、これ。
    「さっきも言ったけどスポドリはあるから、あとゼリーとプリンが冷蔵庫にあるね、あと何が聞きたい? 無いならぼくは出て行くね」
    「え、あ、待って、くださ…」
     起き上がっておひいさんの裾を掴む。
    オレの風邪のせいで出て行くならオレが出て行かないと。おひいさんは何だかんだ優しいから、きっとオレの体調が戻るまで待ってくれているだけだ。捨てるのが遅くなるときっと情が湧いてしまう、それじゃダメだ。
    「オレが、出ていくんで、おひーさんは出ていかないでいかないでくだ」

     どんっと再び背中が痛む。遅れて聞こえたぎしりと乗り上がった音と、怒りを燃やした目に声が出なくなる。ただ見下ろされただけなのに、知らない人みたいだ。
    「自分が何言ったか分かってるの」
     静かな声にひくりと情けない音が出る。
    「ジュンくん。きみ、何考えてるの?」
    さっきよりも強い力で手首を握られ掠れた声が出る。痛いのに逃げられなくて、手首が熱くてたまらない。
    「おひい、さん」
    「そんなにお馬鹿だったっけ? うん、そうだよね、きみお馬鹿さんだもんね」
     ぎりぎりと音が鳴る。かかる体重が重くて、鈍色に変わっていく瞳が怖い。
    「馬鹿なこと言わないで、ここにいてね。じゃないとこんなものよりずっとずっと怖い目に遭うね。きみ、オメガなんだから」
     離された手首からじんじんした痛みが走る。
    するりと撫でられ、痛み以外の感触が指から伝わるのに脈拍が速くなる。
    「もういいね。じゃあね、ジュンくん」
    「……っ」
     叫ぼうと、手を伸ばそうとした衝動全部を引っ込める。オレにそんな権利はない。そんな事許されない。
     ぱたんと閉じた扉と、わんわん鳴いたメアリの声が遠ざかる。一緒に出て行ったと分かって、視界が歪む。
    「おひいさん……」
     出てしまった声が情けなくて、どうしようもなく悲しくて、ぐっと腹に力を込める事しか出来なかった。


     捨てられると言うのは、オレの全てが無くなると思っていたのに、おひいさんは全てを置いていってしまった。
    おひいさんとオレの過ごした跡が染み付いた部屋を後にした方が未練もないし、引き摺る事もきっと無い。
    捨てるってこういう事を言うんだなと、賢いおひいさんに息を吐く。情けないオレはぎゅぅっとおひいさんの枕を抱きしめて、ひたすら熱を発している。
     春にあった一週間の発熱と同じくらいしんどい。あの時は体が沸騰したように熱くて、ぐちゃぐちゃで、何も考えられなかったが、今回は少し違う。おひいさんの匂いが、痛かった手首の感覚が体に纏わりついて、熱を煽られている。
     多分、ヒートが来たんだと思う。ヒート、オメガ性の発情期。生まれて初めてきた。触れるもの全部が気持ちよくて、惨めで、泣いても終わらなくて。ヒートが来たから、仕事中も変だったのかとやっと理解して、もう遅いと後悔が募る。
    体の不調を感じた時に、ちゃんと病院に行けばよかった。そしたら発情を抑える薬を貰えて、失敗もしなかったかもしれない。後の祭りだ。

    「あぅ…ぅ……うぅ……」
     性的快楽は自分のを擦れば終わるはずなのに、ここはおひいさんのベッドの上で、汚したく無いのに、匂いに興奮して、見事な悪循環だ。
    ぼろぼろ零した涙とぼたぼた垂らした唾液、ちっとも耐えれてなくてぐちゃぐちゃに飛ばした精液で目も当てられない事になっている。
    おひいさん、居なくて良かった。捨てられて、良かったと思うと同時に、助けてほしいと自分勝手すぎる懇願が奥底で芽を出すのが許せない。
    「おひ、さ…うぅ……おひい、さ」
      ぼろぼろ口からみっともない声が出る。出て行く力もなくて、甘い匂いは忘れたはずなのに、それすら許さないと脳を揺らして、ぐちゃぐちゃと嫌な音を響かせて終わらない。もう嫌だ。何でオレ、こんな。失敗したから、こうなったのだろうか。ヒートなんて来たから。Edenの一員で、おひいさんの相方で居たかっただけなのに。
    「あぅ、うぅぁ…ひっぐ、ぅう」
     びしゃりと手が汚れる。ひくひくと手の中で震えた性器はまだ熱を持っていて、とろりと尻の穴からは蜜が溢れていく。何度達したのか、何日経ったのか分からなくて、冷静になっては熱に溺れて、何もできない。
    「おひい、さん。おひいさん…あぅ…おひ、さ」
     もう、このまま消えてしまいたい。また一人で立ち上がるまで、せめて、オレを襲う熱が少しでも冷めるまで。
    「おひ、さ、ごめんなさい」
     落ちた言葉と共に意識が切れる。このまま目覚めなければと、願ったのは何度目だったか忘れてしまった。


     体が熱くて、また目覚める。ヒートってこんなに長いのか。地獄よりも長いと身じろいで、開けたくない目を開ける。
    「……え?」
     信じられなくて、もう一度目を閉じて、開く。
    嘘だ。なんだこれ。
    「ん………起きたのジュンくん……」
     もぞりとオレを抱えた腕がぎゅうっと力を込める。熱かったのはオレじゃなくて、おひいさんのせいかと理解した脳が固まる。理解したくせにちっとも分からない。何でここに居るんだ、おひいさん。
    「おはよう」
    「……お、おはようございます」
     オレの頭を撫でて、眠たそうな目で優しく笑ったおひいさんは夢ではなく現実だと温かい温度が告げている。
    「次からヒートの事、一緒に考えようね……離れるのもよくなかったね…」
    「何、言って」
    「何って……きみの事だね。あれだけ呼ばれたら戻っちゃうね誰だって。それに夏だったから良かったけどあのままじゃきっと風邪ひいちゃうし…うん、とりあえずもう一度寝ようね……」
     眠たいねとぽやぽやしたおひいさんがすぐに目を閉じてしまった。
    分からない、結局何も分からない。
    腕から抜け出そうとして、Tシャツを着ている事に気付く。体はベタベタしておらず清められていて、シーツも新しいものに変わっている。
     なんで?
    「おひいさん、起きてください、おひいさん」
    寝ていても抜け出せない腕に諦め、背中に回してとんとん叩く。
    んんーとイヤイヤ首を振るおひいさんは疲れているのか起きる気配がない。
    「起きてください、なんでここにいるんすか、おひいさん!」
    捨てたものの所にどうして、どうして帰ってきたんですか、なんで、なんで!
    「もう……寝かせてくれてもいいよね…ぎゅうが足りないの…?」
    「は? え、ちょっ!?」
     ぎゅうぎゅうーとぽやぽやした声で抱きしめる力を強めたおひいさんは完全に寝てしまった。
    なんだ、これ。どうしたらいいんだ。
    ばくばくと心臓がうるさい。おひいさんが起きるまで、このままなんて無理だ。背中を叩いて、ほっぺたつねっても無反応。端正な顔をじっと眺めて、ほんの少し濃い隈に起こす事を諦める。
    にしてもあつい、この人こんなに熱かったっけ。
     するりと手のひらをほっぺたにくっつける。すべすべしていて、柔らかくて、気持ち良さそうに寝ている顔は穏やかであったかい。
    とく、とくっと合わさった胸から心臓が動く音がする。なんで、ここに。どうして。
    「こんな所で寝なくてもいいでしょうよ」
     悪趣味。クソ貴族。


    「へ? ぼくジュンくん捨ててないね?」
    「は?」
     見開かれた大きな瞳がぱちぱちと瞬く。きっちり三時間寝たおひいさんに命じられ、注いだ紅茶は少し零れている。
    今日は驚いてばかりだ。
    「え、何で? きみ、ぼくに捨てられるような事してないね?」
    「撮影、失敗したのに」
    「失敗はしてないね? でもヒートの周期を把握していなかったのは悪い日和! お薬はいつでもきちんと持っておこうね」
     あっけからんとしているおひいさんの真っ当な叱りに俯く。腑に落ちない。
    「オレ、あんたの足引っ張りました。もう二度としないって決めてたのに……それに、あんた出てったし、もう要らないって」
    「捨てて欲しいの?」
     かちゃんと静かにカップの音が鳴る。
    恐る恐る見たおひいさんの目は静かで、何の色も映してなくて、ただオレを見ている。
    捨てて欲しいなんて思うわけがない。捨てられたくなくて、必死に生きているのだ。
    ぎりっと唇を噛み締める。ざらざらして、痛い。
    「ジュンくん」
    「捨てられたいなんて、思いませんよ」
     どれだけの泥を、切望を飲んでここまで来たと思っているのだ。道半ばで倒れるなんて許されない。
    「そうだね。だったらそれでいいね。ぼくはきみを捨てないんだから」
     にこりと笑みを浮かべたおひいさんが紅茶を飲み切る。
    話は終わり、別の話題に移ったおひいさんをぼうっと眺める。

     おひいさん。オレは、捨てられて、捨てられたと思って、良かったと思ったんですよ。
    オレの答えは間違っていないと言い切れなかった。



    *****


    「ジュンくん、それ」

     目で示されたものにあぁと軽く答える。
     夏の終わりに来たヒートを考えれば、次はおそらく冬。SS前になるんじゃないだろうか。
    運がどこまでも悪い。タイミングをずらすにしても前倒しになると他の仕事やレッスンに影響がある。するなら後に、となると必然的に服用する薬の量は多くなる。体力や精神の健全性がある程度損なわれるらしい。ずらした分ヒートだって重くなる。でも、乗り越えてしまえばSSにはなんの影響もない。
    当然、選ぶなら後者だ。
    「という訳で薬飲んでます。気にしないで下さい」
    「うん、気にするね」
     三錠のカプセルを振り、首を傾げたおひいさんに伝えれば、お馬鹿とじとりと恨めし気な顔が返ってきた。
    「どうして勝手に決めるの! 自分の事大事にして欲しいね!」
    「えぇ…? SSもうすぐなんすよ? オータムライブも終わりましたし、悠長な事言ってられませんって。上手くいけばヒートは一月に来ますし、あんたにも迷惑かけませんから」
     新年はきっとおひいさんは実家に帰るだろう。中々壮絶だが、家族が大事で、大好きな人だから。だからオレは、またここで耐えればいいだけだ。今度は自分のベッドで。同じ失敗は繰り返さない。
    「何考えてるか手に取るように分かるね。いい? 始めちゃったから、今辞めて、当日に被るなんて事になるといけないから今回は目を瞑るね。でもでも、今度はぼくにきちんと相談してほしいね!」
    「茨にはしたんでだいじょ」
    「何で!?!? ぼくじゃなくて、茨に!? 許さないね!! というか何で茨も黙ってるの!! 信じられないね!!!」
     ばんっとテーブルを叩いて立ち上がったおひいさんの大声が響く。
    何でも何も、茨はオレ達のプロデューサーだ。相談するのは当然だろう。何言ってんだ、おひいさん。
    「ぼくのものをぼくが把握してないなんておかしいね!」
    「いつあんたのものになったんすか」
    「え、ずっとだね??」
     何言ってるのと首を傾げたおひいさんが指折り数えるのに呆れてしまう。
    拾われた時から奴隷ですけどね。そんな自信満々に言うことですかね。
    「歌も、踊りも、声も、心も、体も、匂いもジュンくんの全部ぼくのだね」
    「はいはい」
    「あー! 信じてないね! ずっとずっと、ぼくのものだね。初めて会った時からずっと!」
     真面目な目に不釣り合いな軽い調子でぷんぷん怒る。従順すぎるのは嫌いなくせに、勝手をするのは嫌だなんて我儘な人だ。
    「どうして笑ってるの?」
    「う?」
    じっとオレを見つめるおひいさんに首を傾げる。笑うような事あっただろうか。呆れていたのに。
    ぺたりと触った口元は確かに上がっていて、よく分からない。無意識に面白い事があったのだろうか。
    「……まぁ、いいね」
     ちっとも良くさなそうなおひいさんがやけに目に残った。

     今年の冬は結構寒い。
    吐く息はすぐに白に変わって、ぱらぱらと気まぐれに雪が降る。
    「寒い寒い寒いね!」
     ずぼりとオレのコートのポケットに手を突っ込んだおひいさんの手がもぞもぞ動いて、寒いと叫ぶ。
    「カイロは反対側ですよぉ」
    「悪い日和!!!」
    「ちょっ、くっつかないでください!」
     ちょっとした悪戯にカチンときたようで、オレの腕に腕を絡めたおひいさんがぎゅうぎゅう掴む。自分でカイロ用意すればいいのに。
    人間カイロだって冷たい人がくっつかれると寒いんですよと文句言ってやりたい。
    「今日はシチューが食べたいね…寒いね…凍えちゃうね……」
    「え。明日じゃダメですか?」
    「ダメだね…寒いね…」
     ぶるりと震えたおひいさんが肩にほっぺたを預けてくる。冷えたもちみたいなほっぺはひんやりして、もちのアイスよりも白い。
    「えー…今日は鍋じゃダメっすか?」
    「シチュー」
    「明日にしましょうよ」
    「頑なだね。何で?」
    「何でって、クリスマスってシチュー食べません?」
     ぱちりと雪の乗ったまつ毛が揺れる。クリスマスはシチューとチキンと、あとケーキ。
    「そっか。ジュンくんのお家はそうなんだね。うん、いいよ。明日にしようね」
     ふふっと何故か嬉しそうに笑ったおひいさんが珍しく折れる。この人のクリスマスは違うのだろうか。オレのは庶民的で、おひいさんはもっと豪勢なクリスマスなのかもしれない。そっちにしろと言われたら大変な目に遭いそうだ。気まぐれに感謝しておこう。
    「ジュンくん体調はどう?」
    「平気ですよぉ」
     三錠の薬と抑制の為新たに増えた一錠。毎食後欠かさず飲んでるおかげできちんと週がずれ込んだ。おそらく年始すぐにくるだろう。本来の予定日は今週だったのだ、最後の追い込みのこの時期に休むなんてあり得ない。
    「そう。ねぇジュンくん」
    「何すか? オレは帰りますよ」
     この午後休を過ぎればSSまで走るだけだ。おひいさんはともかく、オレは休まないといけない。オメガはただでさえ体力が他の人達よりも少ないのだ。頷いたおひいさんも今日は寄り道する気がないようで、同じ歩幅で玲明寮へと真っ直ぐ歩く。
    「ぼく、新年帰らないね」
    「え、何でっすか? ご家族きっと楽しみにしてますよ?」
     滅多に会いに行かないのに。正月くらい家族水入らずであった方がいいだろうに。
    「言ったよね、一人にするのも良くなかったねって。一緒に新年迎えようねージュンくん!」
    「……」
    何だそれ。オレなんて気にしなくていいのに。第一オレとおひいさんはただの奴隷と主人で相方だ。番でも何でもない。拾ったから責任があるとでも思っているのだろうか。
    「おひいさん」
    「なぁに?」
     止まってしまった足に、怪訝そうなおひいさんがオレを見つめる。綺麗な紫色だ。自分が変な事を言ってる自覚のない、まっすぐな色。
    「オレは一人で平気ですよ。ご家族の所に帰って下さい」
    「帰らないって言ったね? ジュンくんと一緒に過ごすね」
    「要りません。帰ってください」
     ぐちゃぐちゃな姿を見られたくない。惨めで苦しいだけの時間におひいさんを巻き込みたくない。というか、巻き込んだ方が問題じゃないか? ヒートはオメガの発情期。無理矢理性的なフェロモンを嗅がされて、誘発されるのなんておひいさんだって嫌だろう。理性を奪って、事故で番になってしまったら? 子供を作ってしまったら? リスクしかないだろう。それに。オレは。
    「どうして? きみはきっとぼくを呼ぶね? 一人で熱を発散するなんて苦しいね? ぼくたち運命共同体だね。辛い思いなんてさせないね」
     有無を言わさず切り上げたおひいさんに手を引かれ、これ以上何も言えなくなる。全部わかって言ってるのだろうか、この人。最悪だ。
    発情したオメガが居るのに、アルファが同じ場所に居られるわけがない。また捨てられたと思う事になるに決まってるのに。オレが安堵すると思っているのだろうか。
    だとしたら大正解ですよ、クソ貴族。

     SSが終わった。
    悔しくて悔しくてたまらないのに、おめでとうと伝えれた、波乱と星の輝きが眩しかったステージだった。
    目を閉じればまだあの景色が見れる。
    年も越し、今日から皆ゆっくり過ごすだろう。茨は事務作業してるかもしれないけど。ナギ先輩もなんだかんだ茨のそばにいるかもしれない。
    「ジュンくん、そっち詰めて」
    「ほんとに帰らないんすね、おひいさん」
     ぼろぼろ泣いたオレの隣で肩を寄せ、一緒に帰ってきたおひいさんがうんと頷く。
     おひいさんの目もちょっと赤い。この人も悔しいという感情があると思うと、人間味を感じてしまう。おひいさんも人間なんだけどさ、明るくて、あたたかな人だから、オレが滲み出ていただろう、どろどろした感情の一部を知るたび少しだけ嬉しくなる。オレと、同じ人間なんだなと当然の事を実感する。
    「変な顔。眠たいの?」
    「まだ起きてられますけど……オレ出てっていいっすか」
    「ダメだね。一緒に寝ようね」
    ぽんぽんと寝かしつけるように腕を叩かれる。
    二段ベッドの下段。おひいさんのベッド。
    またここに転がる日が来るとは。今日は夜中で真っ暗だ。

    「ジュンくん、あのね」
    「なんすかぁ」
     ぽんぽんっと一定のリズムが心地いい。
    ぼうっとおひいさんを見つめれば、星の光によく似たアメジストがつるりと光る。
    ぽん、ぽんと続く無言に、だんだん眠くなってきた。
    「番になろうか」
    「……………え」
     眠る前に聞く歌のように優しい声に半分ほど溶けていた意識が浮上する。
    なんて言ったこの人。
    「番になろう、ジュンくん」
    「は、え? な、なんで?」
     するりとリズムを取っていた腕を伸ばして、オレを抱きしめたおひいさんの目尻が赤い。
    泣いた痕をさらに赤らませて、熱くなったおひいさんは緊張しているのか、ばくばくと心臓が早く動いていているのが伝わってくる。
    「好きだよ、ジュンくん。ぼくの気持ち受け入れてくれる?」
     急に、何を言ってるんだろう。
    ぺたりと触った頬はほんのり赤らんで、つねったら痛いとアメジストが訴えてくる。
    「どうして」
    「きみの声が好き。ひたむきに走れる真っ直ぐな純粋さが好き。きらきらとした光の中で磨かれた目でぼくを見た時に笑う瞳が好き。好物を食べて幼い顔になるのも、幸せだって噛み締めてるのを全部ぼくのものにしたい。望めば、きみは隣にいてくれるんだよね? きみの全てぼくのものだけど」
    「え、う?」
    「ジュンくん。ぼくはね、きみの声でちゃんと聞きたいの。ねぇジュンくん、ぼくと番になってくれますか?」
     いきなりすぎて頭が回らない。あれか、SSであんたに感謝してるって言ったから、それで。おひいさんと番って、そんな話した事なかった。性を安売りするなって、言ったのはおひいさんなのに。おひいさん、オレの事好きなんだ。知らなかった。ぐるぐるぐるぐる、脳が回る。
    「お、オレは」
    「今じゃなくていいね。でも、ヒートが来る前に教えてね」
    「それ、実質今日中じゃないっすか……」
     ずらした期間分重たく来るだろうヒートがいつ来るか分からないが、すぐに来るのは確かだ。薬で抑えていたのも昨日終わった。
     ぽん、ぽんと今度は背が叩かれる。おやすみと優しい笑みを浮かべたおひいさんに、夏も、同じ目をしていたなと、今更なことを思った。

     しんしんと降る雪と、明るい街中、沢山のクリスマスソングに溢れた街道。
    とびきり大きな苺の乗ったショートケーキを選んで、両親の温かい手を握っていた帰り道。
    ケーキ屋さんのケーキよりも甘い匂いが横切って、食べる前からふわふわと幸せな布団の中のように温かくなった胸に驚いて、止まりたいのに、振り返りたいのに、幼いオレにはそんな力はなく、見える範囲で必死に逸らした首も目も、何も見つけられなかった。
    思い出すたびドキドキして、あったかくて、辛かった時に思い出しては涙を引っ込めてきたオレにとって、不思議なお守りの記憶。
     久しぶりに思い出した。
    忘れると決めたのに、一年も満たずにまた思い出して、ぎゅっと手を握る。
    あの時分からなかったお守りの正体は、この世を照らす太陽みたいなアイドルで、我が儘で華やかで、一度見たら誰だって忘れられない愛されたがりの愛悦者。

     おひいさん、オレどうしたらいいんすかね?
    あんたに伸ばされた手を掴んだ日、消した記憶が影になって、揺れて、あんたが欲しいって笑って。オレは。


    「ジュンくん、ジュンくん」
    「……ぁ、うぅ…?」
     とんとん、と背中を叩かれ目を開ける。
    朝が来た、らしい。
    眩しい日の光は雪のように白くて、暖房のよく効いた部屋は日の元よりあったかい。
    「ジュンくん、おはよう」
    「おはよう、ございます」
     ひくりと喉が引っかかった感覚に喉をさする。ケアしてからベッドに入ったのに、喉を痛めたのだろうか。それとも、副作用だろうか。
    「うん、水飲もうね。寒くはない?」
    「ありがとうございます、おひいさん」
     渡されたペットボトルを掴んで、一口飲み込む。
    ちょんっと触れた指先が冷たかった。おひいさん、結構早めに起きていたのかもしれない。考えてみたら暖房もタイマーじゃなくて、いつもオレが起きてからつけるのだ、今日は、おひいさんが付けたのだ。
    「ジュンくん、起き上がれる?」
    「至れり尽くせりっすね…雪でも降ってます?」
    「あはは、もう止んだね」
    本当に降っていたとは。メアリが窓際でパタパタと尻尾を振っているのはそのせいか。
    「ジュンくん」
    「雑煮作りますけど、何個食べます?」
     温かいベッドから抜け出し、冷たいフローリングを歩く。すぐに隣について来たおひいさんが肩を寄せて、昨日と同じようにキッチンへ向かう。
    「三つ食べるね。ジュンくん、ベッドに居ようね? ぼくが作ってもいいね?」
    「いや、これくらい出来ますって。ヒートまだ来てませんし」
    「でも、ジュンくん」
    困った声を出したおひいさんがすりっと腕を絡めるのにびくりと心臓が跳ねる。どくどく言ってうるさい。多分顔も赤くなってる。
    「もう……」
    「うぅ、だって、昨日あんたが」
     告白してきた人にドキドキしない事ってないだろ。つられて赤くなってるくせに。
    「ジュンくん、お返事聞きたいね」
    「起きてすぐなんすけど」
    「百面相してたからね。ずっと考えてくれていんでしょう? ぼく知ってるね」

     くすくす笑ったおひいさんがそっとオレから離れる。ひんやりした空気がすぐに温くなる。
    「ぼくの腕で幸せそうに寝てたねきみ」
    「あんたが離さなかったんでしょぅが!」
    「そうだよ。嫌だった?」
     嫌だったらあんな夢見るわけがない! 反射的に返そうとした言葉を飲み込む。
    おひいさんの知らない話で、オレの、オレだけの大事な記憶だ。
    「……嫌じゃないです」
     ずっと助けられてきた記憶の正体を知って、ダメだと思って諦めたのに。おひいさんから言われたらオレの思考なんて全部ひっくり返る。
    初めて会った時から、すれ違ったときからこっちは勝手にあんたに惹かれているのだ。あんたの嫌いなロマンチックな運命なんて言葉に納得して、お姫様みたいに純粋無垢で、我儘で眩しくて、誰よりも強くてカッコいいあんたを尊敬してるのだ。
     好きでも嫌いでもなんでもいい。オレはあんたが望む限りずっと隣で歌うのだ。
    それが番という形になるのを、オレが拒むと思ったのだろうか。
    「オレは、あんたのオメガですよ、おひいさん」
     オレの事好きだって言ってくれたのが、オレはすごく嬉しかった。

     ぱぁっと喜びの色を浮かべたおひいさんが唇を開く前に口を動かす。
    「でもオレ、あんたに言ってない事があります」
    「なぁに?」
     あぁ、罰当たりだなぁと口が震える。
    「オレ、あんたに捨てられた時よかったって思ったんです。あの、ヒートの時」
     ぐちゃぐちゃで、汚くて、弱くて惨めなオレ。
    ヒートが来たらまたオレはああなる。おひいさんと番になれたとしても、それは変わらない。
    「だからさ、オレおひいさんに相応しくないです。捨てられて喜ぶ番なんて、優しいあんたには重いですよ」
     起きて、綺麗な姿で腕の中に抱いてくれた時、ゾッとしていたのだ。混乱の中でも確かに。こんなに綺麗な人に、意識がないだけマシだったオレの醜さを見られて。優しさに甘えて、見ないフリしていただけだ。ずっと汚れると分かっていても離せなかった枕も、どうせ洗えば良いと心の何処かで思って擦り付けるように汚したシーツも、全部全部。
    「おひいさん。オレちっとも綺麗じゃないです。欲ばっかりで、独りよがりでそれで笑えるようなやつですよ」
    やめておいたほうがいい。その一言が言えたらいいのに。好きだと言われて、番になりたいと言われた喜びが忘れられなくて、言えない卑怯者なんかを。
    「おひいさん」
    「ジュンくん」
    悲しそうに聞いていたおひいさんが、優しく笑う。
     夜見た笑顔だ。いけない子と叱るような色を称えた瞳は甘くて、見るだけで体が痺れる。
    するりと頬に伸ばされた指先は温かい。部屋の温度に馴染んで、寒くなくなったのかと思うとよかったと胸があったかくなる。
    「ぼくはね、きみが好きだよ。きみの思う醜さなんて、ぼくからしたら可愛らしいものだね。もっと欲に素直になっていいね。番になるのだって、きみからの告白を、さらけた貪欲さに背中を押されて告白したんだから」
    あれは、別にそんな気持ちじゃないのだけれど。隣に居たいだけで、オレ以外が嫌で。
    「ねぇ、ジュンくん」
     するりと指先が頬を撫で、するりとチョーカーをなぞる。
    「ぼくはきみを捨てないね」
     ぎゅうっとそのまま抱きついてきたおひいさんがぱちんっとチョーカーを外して、頸を撫でる。
    ビリビリして、びくりと肩が跳ねるのが止まらない。
    怖くないのに、おひいさんの裾を掴んで制止するように力を込めてしまう。逃げる気なんてないのに、顔を逸らして、おひいさんが見れない。
    「ジュンくんは本当に、ぼくが好きだね」
     ちゅっと軽く鳴ったほっぺに情けない声が出る。
    キスされた。ほっぺくらいライブでもあるけど、これはそんなんじゃない。
    「ねぇジュンくん、目を開けてほしいね」
     ちゅっと額、目尻と口付けるおひいさんの甘ったるい声に恐る恐る目を開く。
    「いいこ」
    「ひっ」
    耳にダイレクトに響いた声に腰が震える。何すんだと文句を言いたいのに、嬉しそうなおひいさんを見たらそんな気も起こらない。
    「ねぇ、逃げるなら今だよジュンくん」
     さらりとオレの髪を撫で、遊ぶおひいさんが微笑む。腰を抱いた手が緩んで掴んだオレの手にどうすると笑うおひいさんは悪趣味だ。
    「オレが、あんたから逃げるわけないでしょうが!」
    「うんうん、良いお返事! だぁいすき!」
     重なった唇にぴくりと指が跳ねる。
     すぅっと細まったアメジストがオレの手を掴んで、きゅっと絡む。
    片手で器用に力を込めたおひいさんが離れるのにはぁっと熱っぽい息が上がるのが恥ずかしい。

    「ジュンくん、甘い匂いがするね」
    「あんたの、ほうが」
     こつんっとくっついた額がじんじんする。ふわりと揺れた前髪に乗った風から、甘いケーキよりも優しくて幸せになれるあったかい匂いがする。
    「ふふっ好きな匂いだよ。柑橘系でね、雪の中でも真夏みたいに甘酸っぱい匂いがするの」
    「へぇ…」
     自分の匂い、初めて知った。ふつふつと茹だるように熱が沸き立つ。
    「おひいさん、オレ」
    「うん」
    「番になりたいです」
    肩口に顔を埋めてすんっと息を吸う。
    ふわふわして、熱くて、そのまま溶けそうだ。
    思ったものそのまま口から出てしまったオレに、優しく笑ったおひいさんが唇を塞いで、するりと頸を撫でる。
    「ありがとう。番になろうね」

     苦しい事、怖い事、辛い事全部忘れてただあったかい人に手を伸ばす。
    振り返れなかった子供のオレの分も込めて、抱きしめたおひいさんは甘くて、優しい匂いがする。
    きっと、想像した以上の幸福が手に入る。
    だっておひいさんは、オレを覚えていたのだ。覚えていて選んだのか、偶然かは分からないけど、それでもオレはおひいさんに選ばれたのだ。
     好きも甘いもの全部投げ出して、痺れた頸の熱さにぽとりと落ちた涙は、雪のように溶けていった。
    微笑みのありか

     春爛漫。桜は満開、陽は麗か。小鳥の羽ばたきと穏やかな風が吹き水面が揺れたような美しい歌声が聞こえる。
    見なくても分かるね。ジュンくんが歌っている。とっても気持ちよさそうに桜の下で微笑んでいる。
     懐かしいね。ぼくは一年前ここに来て、似つかない景色の中で、ジュンくんを見つけたのだ。 

    「ジュンくーん!」
    「おわっ!」
    ちゃりっと銀の金具が揺れる。
     背中からぎゅうぎゅう抱きしめれば歌が止んでしまった。呆れたようにむっと照れた顔とほんの少し赤らんだ目尻が愛おしい。
     在校生として式に出席していたジュンくんは、ぼくが卒業証書を受け取ってる姿を見て寂しそうにし、祝辞を読んでいる間には目がうるうるしていた。ぼくたちが退場する時は我慢できなかった数粒の雫がぽたぽたとシャツを濡らしているのに拭おうともしないで真っ直ぐぼくだけをみて。
    「も〜っとお祝いしてほしいね! ぼくの門出だね! 狭い学校からぼくは羽ばたいていくね!」
    「あんたはいつでも自由に飛んでるでしょうが。
    ……おめでとうございます、おひいさん」
    「ありがとう! 寂しい、どこにも行かないでってぼくの胸で泣くことを許してあげるね!」
    「要らないっすよぉ」
    腕を広げ笑えば、つれないことを言うジュンくんが素直にぼくの胸に入ってくれる。
    せめてもの抵抗か背中に回らない腕が寂しい。
    「あんたにはすげぇお世話になりました。ぜってぇ追い越してやりますからねぇ」
    「うん? ぼくの隣にいるんでしょう?」
    「一人でさっさと行くくせに。オレが追い越して、待ってジュンくん〜って言ってる姿を拝んでやるんです」
     不遜なふりするジュンくんがにっと笑ってぼくから離れる。
     帰りましょ。なんていつも通り笑うジュンくんの目はきらりと輝いていて、ぼくの気に入った精神を映している。

    「ジュンくん、ぼくね」

     さわさわとそよぐ風が花弁を散らしてくるくる踊る。

    「きみのこと」

     はくりと唇を震わせ、何でもないように微笑みを浮かべる。
    柔らかな薄桃色の先で一人で歩き始めたジュンくんはやっと光を見たところなのだ。
     まだ、ダメだね。

    「おひいさん?」
     
     不思議そうにぼくを見つめるジュンくんに手を伸ばして手を握る。

    「待ってるからね」
    「……すぐ追いつきますよ」
    ぎゅっと握った手の指を一本絡める。

     約束ね。ぼくのジュンくん。


     ぼくはジュンくんの事がだぁいすきなのに、卒業しちゃったから一緒に暮らせなくなってしまった。ジュンくんにおはようと言って、おやすみって毎日伝えられた生活がぼくはとても好きだったのだけどね。文句を言ってでも玲明寮から連れてきたら良かったと今でもふと思うね。
     ここでの生活もまぁまぁ楽しいのだけれどね。星奏館のぼくの部屋は三人部屋で、今は奏汰くんと二人だね。マイペースな彼とぼく、自由なお部屋だ。
    接点はあるけど親しくないぼくたちのお部屋は第二性に従って振り分けられたとか風の噂で聞いたね。でも、奏汰くんは番がいるらしいし、その子と同室になるべきじゃないのかね?
    「どう思う? ジュンくん」
    「……う? いや、知りませんよ。番同士がいいのはそうでしょうけど、ヒート用の棟もありますし、交流って意味では今のままでもいいんじゃないすか?」
    「えー! 嫌だね!」
    「もう決まった事なんすから文句言わないでくださいねぇ。ついでにオレを呼ぶのもやめてください」
     ぎろりと睨みつけるジュンくんはいつもより覇気が無い。ヒート前だもんね。体が怠くてしんどいんだろうね。最近忙しくてバテてたし、余計に大変そうな気配があるね。それにちっとも気付いていないジュンくんは面倒くさそうに動いてぼくの荷物を丁寧に鞄に詰めている。
    「ジュンくんは一緒じゃなくていいの!?」
    「つーか、オレには番がいねぇんでわかんねぇっすよ、そんなのさぁ」
     たくもぉ〜って気怠げにため息ついたジュンくんがぼくの鞄を持って玄関に立つ。
    「ほら、行きますよぉ」
    ガチャリと扉を開けたら見慣れた廊下が続いていて、数ヶ月前とは違うなとちょっぴり寂しくなった。

     うーん。ジュンくんはこっちに引っ越してきたらあの子と暮らすことになるのかね。玲明寮に今一緒に住んでるあの子。あの子ベータなのかオメガなのかアルファなのか分からない、知らないって聞いたね。独特な子だったね。
     
    「では今後は閣下と殿下のペアを売り出していきますので!」
    「日和くんと一緒だって。嬉しいな」
    「ぼくも嬉しいね! 大好きな凪砂くんと一緒だね!」
     平行して考えていた事は表に出さず、ねーっと顔を合わせて、喜びを分かち合う。
    「お二人での活動が増える間は自分とジュンがペアとしての活動が増えますので! ソロも度々入れていきますのでそのつもりでお願いします!」
    「……うーす」
     素直に頷いたジュンくんがぼくの隣でぼーっと茨を見つめている。ちゃんと聞いていたと思うのだけどね。茨はちょっと不安そうだ。 
     ミーティング前のラジオ収録で疲れちゃったのかな。ぼくと二人だけでブースだったし。これはジュンくんのプロ意識の問題ではなく、第二性の問題だから難しい所だ。番とか関係ないホルモンバランスの問題だね。
    「茨と二人って何するんすか? モデル?」
    「そちらはまた後日に! では皆さん本日は解散であります!」

     ぴしっと敬礼した茨に頷いてソファから立ち上がる。
    「日和くん。玲明寮に行くの?」
    「ううん。ぼくのお部屋だね。奏汰くん居ないから」
     さすが凪砂くん! ぼくの考えはお見通しだね。お利口さんなジュンくんもちゃんとぼくの後をついてきてるね。
    「じゃあまたね! 凪砂くん!」
    「ばいばい。ジュンお大事に」
    「はい、お疲れ様です……?」
    はぁぁって呆れた顔をした茨にもついでに手を振ってさっさと帰っちゃおうね。
     風邪、熱? と後ろでうんうん悩んでるジュンくんもそろそろ限界だろうし。


    「はい、ぼくの腕に来ることを許すね」
    「いきませんけど」
    ぱたんと扉を閉じて、両腕を大きく広げたぼくに冷たい目を向けたジュンくんがぼくの横をすり抜ける。
    わぁ、信じられない。
    「ぼくの優しさを無碍にするなんて! 許さないね!」
    「ぐぇ」
     お腹に手を回してぎゅうっと強くくっつく。真正面が恥ずかしいならこうするしかない。ぼくってば優しいね。一日一善。
    「おひいさん、苦しいっす」
    「ベッドがいいの? も〜早く言うといいね!」
    「言ってねぇです」
    べたりと体重を預けてぼくのベッドまでペンギンみたいに歩く。
    のそ、のそってわざとゆっくり歩いている嫌そうなジュンくんのお耳が真っ赤で可愛らしい。
    「はい、特別だね! どーん!」
    「うお!?」
    ぼすんっ! と体を跳ねさせ、スプリング音がよい大きさで響く。驚きに開いた目がほんの少しとろりと輪郭を滲ませたのを見逃すぼくではない。
    「ご主人様を差し置いて一人でスペース取りすぎだね! もっとこっちに寄るといいね!」
    控えめに鼻を啜って掛け布団を緩く握ったジュンくんの手をぼくの指で絡める。
    照れ隠しで不機嫌なお顔に唇を寄せたくなる。
    「ふふんっ感謝するといいね!」
    「……なんすか、もう」
     きゅっきゅっと指の隙間を無くすように握って、寝転んだまま話し続ける。
    お喋りな気分のおひいさん。ジュンくんは今ぼくのお話を聞かないといけない義務の時間だときっと思ってる。
     それでいい。
     ぼくの声と柔らかなベッド、握った手のひらから伝わる熱、何よりぼくの匂い。
    これが揃えばジュンくんはゆっくり、でも確実に抗う事が出来なくなる。


    「ジュンくん」
    「……ぅ」

    どろりととろけた瞳と赤い頬。すりっとぼくの腕に額を擦り付け、弱い力でぼくの手を握り返すジュンくんに、噛みたいなぁと単純な欲求が脳を過ぎる。ぼく好みの甘い匂いを纏ったジュンくんはとっても美味しそう。
     ジュンくんは甘えるのが下手くそだから嬉しいね。こう言う時はぼくの近くに居なくちゃダメなんだって半年かけて無意識に溶かしてすり込んできたかいがあった。
     ぐちゃぐちゃでどろどろとした欲にまみれた感情を煮詰めてジュンくんを甘やかす。
    はぁっと熱い息を吐いて目を閉じたジュンくんの髪を撫でる。ぼくの体温に混ざった熱が緩やかに収まっていく。
    「ジュンくん」
     左手の指を悪戯に伸ばして、熟れた赤い唇に触れただ遊ぶ。可愛い、かわいいね。ジュンくん。

     くすぐったかったのか、むずがるようにふるりと揺れ開いた黄金の瞳がぼくを映して嬉しそうに綻ぶ。

    「おひいさん」


     あぁ、この子って本当に。
     衝動的に唇を撫で、頬を包む。

    「おひい、」

     愛しいジュンくん。 はやく、ぼくのものに。


       ///////


     コンクエストの後始末。聞こえは悪いがナギ先輩と二人っきりの仕事で大はしゃぎのおひいさんは、オレを呼ぶ事が格段に減った。
     ヒートが来ていたと言うのを抜いても間違いなく減った。
    あの人ヒート中でも一日一回は毎回連絡入れてくるのだ。香水貸そうか、服を貸そうか、飲み水はある? とかなんとか。
    それが数日に一回に減り、ヒートが終わったオレに突撃をかます事もなく、昨日夕方連絡が一回あっただけ。
    おひいさんから連絡がない。初めての体験にソワソワしてしまう。大好きな人とずっと一緒に居るんだ、スマホなんて見る暇がない。当たり前の事だけどさ。でもこれは絶対。

    「ジュン、情けない顔してますね。殿下が恋しいので? しかしこればかりは自分も少し配慮に欠けておりましたかね。Edenの為に許していただきたいですな!」
     撮影衣装を脱ぎ始めた茨が仕事用の笑みを崩す。
    茨とのペアの仕事は存外気が楽だ。
    「何で茨が謝るんすか? オレは自由な時間が増えて楽してるんすよぉ、ありがとうございます」
    「いえ、今回は殿下の行いのツケが回りどうにもできませんでしたが、ジュンは悪くありませんからね。次は問題なく殿下と過ごせる予定ですよ」
    「次?」
    「はい。事前にケアをしていても恐らく最中は辛いだけでしょう。流石に殿下も懲りたと思いますよ、自分は」
     くぃっとズレた眼鏡を上げた茨に訂正する前にスタッフさんに呼ばれて行ってしまった。
     オレとおひいさんは番じゃないとか、次も一人だから関係ないとか、おひいさんが反省する事は滅多にないとか言うべき事は結構あったんすけどね。
    「ケア、ケアか」
     ヒート前、おひいさんの部屋に転がされた事を思い出す。

    「ジュン、風邪ですか?」
     戻ってきた茨に首を振ってオレも着替える。

     あれがケアであってたまるか。



     あの日のあれは最初はケアだったのだろう。
    ケアはヒート前のオメガが不安定になった時、誰かにそばに居てもらうと言うだけのものだ。
    ヒート前体調が悪くなるのは多分オメガはよくある事だと思う。何となく気乗りしないとか、眠りが浅くなるとか些細過ぎて見逃しやすい変化がある人が多いんじゃないだろうか。
    今思えばオレもそれで、おひいさんがしつこく構ってきたのも気まぐれじゃなかったんだと思う。オメガはアルファの匂いに精神的に安心するように出来ている。巣作りとか、番のものを集めて少しでも相手を求める習性も多分そんな感じの筈だ。
     オレは今番が居ない。でも隣にはずっとおひいさんが居る。おひいさんの匂いで気付けば安心するようになったオレを、おひいさんは特に拒む事なく受け入れてしまった。奴隷が主人のものに悦びを感じるのは当然! とか言ってた気がする。
     不甲斐ないけど甘えちまって、おひいさんのおかげで熱が引いたのだ。目を開ければ楽しげにオレを見つめるおひいさんがいて、おひいさんがいるなぁって無性に嬉しくなってさ。おひいさんはオレを呼んだくせに何も言わなくて、おひいさんの目は優しくて。黙ってればすげぇ美人なおひいさんを綺麗だなぁって思ったのだ。

    「おひいさん」
     それで、お礼を言おうと思ったのだ。ありがとうございますって。
    なのにあの人、綺麗な顔のまま、目だけギラギラ別の生き物みたいに輝かせて、炎みたいな色をした紫色に変わって、それが綺麗で。
    「おひい、」
     一瞬で初めて見た綺麗なおひいさんの目が近くにあって、薄膜を通したみたいにオレの黄色がおひいさんの目の色を変えて、喋れなくて。

    「は、んぅ? ……んん」
     音が出たと思ったらさっきみたいにまた色が重なって、唇が熱くて、柔らかいのに塞がれて息が苦しい。バクバクと心臓が耳元で鳴り始めた。
    目の前のおひいさんの瞳が黒色の空に透かしたアメジストのように鈍く光って、すうっと細まった瞳と薄桃に色づいた唇が綺麗な三日月を描いてまた重なって、驚きで丸くなったオレの目がおひいさんの紫色の真ん中で映って。
    「お、ひんぅ、う、んん!」
     ちゅうって分かりやすい音が耳に入ってきて、キスしてるんだとやっと自覚したオレをずっと見ていたおひいさんが笑った声に、はぁって馬鹿みたいに熱い息を吐いて吸い込む。
     じっとりとした熱帯の中にいる気分だ。空調の整った見知った部屋とは思えなくて、ほっぺたをするする撫でる両手が目尻を撫でてくすくす笑うのに頭がぐるぐる回る。

    「ジュンくん」
     歌ってる音より甘くて、我儘言う時よりも軽やかに開いた唇からでた、信じられないくらいどろりと重たく耳に響く熱い声に顔が熱くなる。
    ぴとりとくっついてきたおひいさんに安心なんか一つも出来なくて、狂ったように脈打つ血の流れを感じて、なのに指一本動かなかった。

    「ジュンくん、ぼくね」
    とろりと夢見る少女見たいな可憐な仕草で首を傾げて、少女が腰を抜かす色気を纏ったおひいさんの指先がオレの唇に触れ、愛おしそうに微笑む。
    ギラギラと燃えた瞳は耽美な博愛の色を隠して、貪欲に一途な熱を注ぎ続ける。
    「きみがだぁいすきなの」
    薄桃の三日月を描いた顔はきっと誰も描けない、写真にだって本物を残せない。
     魂取られたみたいにぽかりと開いた口にまたくっついたおひいさんはやっぱり綺麗で、聞いた言葉は嘘じゃなくて。

    「おひい、さん」
     ぼとりと落ちた大粒の涙が熱かった。最初は何で泣いてるのか自分の事なのに分からなかった。
    ぼやぼやと視界が滲んで、おひいさんが見れないのが惜しくて、火照った身体と心臓がバクバクとうるさくて、口元がもぞりと歓喜に震えたのを感じてやっと分かったのだ。
    ちゃんとしないといけない。背筋を正そうとして、ぎゅっといつの間にか掴んでいたおひいさんのシャツがくしゃりと歪んでいるのを察して慌てて手を離す。
    「……ごめんね、ジュンくん」
     何故か謝ったおひいさんに顔を上げる。ぼやけた視界を流せば悲しそうな瞳が映って、何でと問いたいのに、開いた口からはひくりと震えた息が漏れ、溢れた涙がまた頬を伝う。

    「ごめんね」

     ぎゅうっと抱きついて顔の見えなくなったおひいさんが、あやすように背中を叩いているのをただ受け入れる。ぼろぼろと落ちる涙はそれでも全然止まらなくて。
     ありがとうございます、とやっとでた掠れた声はちゃんと伝わったのか分からなかった。


     あれ以来連絡が格段に減ったのだ、絶対オレを避けている。
    ナギ先輩と一緒だから考えたくないのか忘れたいのか知らないが、話題にも出さず、来る連絡は業務連絡ばかりだ。
     信じらんねぇ。なーにがごめんねだ。オレの返事聞いてないくせに。勝手にお終いにしないで欲しい。
    泣いたオレのせいだとしても、オレ相手に逃げないで欲しい。
     とはいえ、もしあれがおひいさんの本心じゃなく、オレのフェロモンのせいならどうしたらいいのだろうか。
    大好きって告白もおひいさんは身内には当たり前の挨拶みたいなもんで、そういう意味でオレのことは好きじゃないから避けてるのだとしたら。
    「嫌だなぁ」
    情け無い声が響いて苦笑する。
    「……おひいさん、番になってくれますかね」
     取り敢えず打ち込んだ文字を送信して目を瞑る
    る。
     今日は何の返事も来なかった。





    『お疲れ様です。話したい事があるんすけど、いつ暇ですか』

     簡素な文にどう返事を返せばいいのか悩んでしまう。
    ジュンくんのお話を聞く責任がぼくにはある。
    きっとあの日の事だよね。ジュンくんがどう思ってるか知らないけど、ぼくだって悲しくて申し訳なくて、気まずいっていう感情は普通にあるね。
     もっと簡単に言えば結構落ち込んでるね。
     いくら愛おしい存在だからって、気持ちが伴わない行為は傷を付け合うと分かっていたのに。
     ジュンくんはぼくのものだけど、ぼくが好き勝手に振り回して壊していいおもちゃじゃない。ぼくの大事な大事な宝物なのだ。
    柔らかな笑みを浮かべるようになった、ぼくが守りたい愛おしい子なのに。困らせたくなかった、泣かせたくなんてなかったのに。
    何より、ぼくはジュンくんのおひいさんなのに。

    「日和くん、どうしたの?」
     ぱらりと台本を捲るのをやめた凪砂くんがこっちを見る。
    「ジュンの事? 私と一緒の仕事だから会う時間減ってしまったし、ヒート中も予定がみっちりだったから連絡も中々出来なかったよね。心配だね」
    「うん、そうなんだけどね」
    「日和くん、大事な物を守れなかった顔をしているね。でも、私はそうは思わない。ジュンは日和くんに怒って無いと思う。とても寂しそうだったって茨が言っていたよ」
    「へ? 茨が?」
    「茨に定期的に二人の事を教えて貰ってるから。日和くんもそうでしょう? ジュンに日和くんが体験した出来事をとてもよく話していたと思う。真似っこしたんだ」
     ふふっと笑った凪砂くんがぼくの手を握る。
    「二人とも想いあっているから。日和くんは聡明で、ジュンは勇敢だから。きっと大団円だよ」
     大丈夫と微笑む凪砂くんに頷いて、返事を返していないスマホの電源を切る。
    こんこんと楽屋をノックした音に、まずは目の前のお仕事を終えようと手を繋いだまま立ち上がった。


    「うぉ!」
     ぴろりろと軽快に響いた音に慌てて外へ出る。
    コーヒー置いた後で良かった。茨の書類にかかっていたら大変だ。
    切れる前にと特に確認もせず耳に当て声を出す。
    「はい、さざな」
    「ジュンくん」
    静かで落ち着いた声が鼓膜に響く。
    「ふふっ電話は久しぶりだね。ぼく今セゾンアベニューに居るんだけどね、もうすぐ星奏館に帰るからジュンくん迎えに来て欲しいね」
    「オレ今」
    「茨の所で雑用してるんだよね。お仕事じゃないんだからすぐに来てね」
    「おひ」
    ぶつんとすぐに切れてしまったスマホにため息をつく。
    返信はしないのに自分の用事は言ってくるんだもんな。相変わらず我儘だ。

    「茨ぁすんません。おひいさんに荷物持ちに呼ばれたんで行ってきます」
     ドアを開けて戻れば、書類にハンコを押して、度々スマホを弄ってと効率悪そうに動く茨がハンコを置いてこっちを見た。
    「殿下のお迎えですか。ではこのままお帰り下さい。ジュンのお陰である程度仕上げたい所まで終わりました。ありがとうございます」
    「オレ何もしてませんけどねぇ。シュレッダーかけに行ったくらいっすよ」
    「自分にはその時間すら惜しいので。あぁ、ジュン、帰る前に一言だけ」
    「何すか?」
    ちらりとスマホを見た茨がんんっとわざとらしく咳払いしてにやりと笑う。
    「ジュン。日和くんを抱きしめて、愛を分かち合ってね。私は笑顔が好きだよ。 だそうです」
     あんまり似てないナギ先輩の真似をした茨がもの凄い速さでスマホを弄る。
    「う、えっと。はい。ナギ先輩と何の話ししてんすか……?」
     ふむと考えた茨がヘビの目をしてただ笑う。
    「閣下と仲良くしてるだけですよ」


     仲良しなナギ先輩と茨に貰った言葉を手土産におひいさんを迎えに行く。
    夏に近い日は高く、遊び回るには絶好の天気である。
    おひいさんは既に買い物を初めて一息付いてるところだろう。アイスティーでも飲んでるんじゃないか。
     取り敢えず着いた事を知らせるかとスマホを開けば、とんとんと軽く肩を叩かれ目を瞬かせる。
    「遅かったねジュンくん」
    「おひいさん」
    あっさりと合流した事にぽかんとしてしまう。
    おまけに仕事用の鞄以外手ぶらなおひいさんは帰ろうねと、何処にも寄ろうとせず歩き出す。
    「どうしたんすかおひいさん? 体調悪いんすか?」
    「何で? ぼくは至って健康だね? ジュンくんは?」
    「オレは元気ですけど」
    「そう。ならいいね」

    じりじりとアスファルトを焦がす太陽にたらりと汗が垂れる。星奏館まで寄り道せず、ぽつぽつと今日あった事を話すおひいさんに困惑してしまう。
    「おひいさん」
    「なぁに」
    昼間なのに珍しく誰も居ない交差点で立ち止まる。ふわりと吹いた風にライムイエローが繊細に揺れる。
    「どうしたんすか、今日」
    「……お話するんでしょう。お外の紅茶より、ぼくはジュンくんの紅茶が飲みたいから、早く帰るだけ。嫌だった?」
    こてりと首を傾げたおひいさんが不思議そうに問いかける。
    夏の匂いを纏ったおひいさんは存在感しかないはずなのに、どうしてか消えそうに見える。
    「っ、ジュンくん」
    「あんたの隣に居るのに何か握って無いって変な感じするんすよね」
    我ながら言い訳が下手くそだなと思いながらオレより大きな手を包む。
    ひんやりと冷たいおひいさんの手。
    「……そう」
    それだけ呟いたおひいさんと信号を待つ。
    星奏館まで後五分。


     おひいさんの部屋は空調が完璧だ。すぐに汗が引いていく。
    要望通りアイスティーを作ってコースターを敷いてことりと置いておひいさんの隣に座る。
    ずっと無言のおひいさんとの間に流れる微妙な空気にもぞりと体を動かす。
    「ジュンくん」
    きゅっと手首を掴まれ、動くなと命じたおひいさんに体が固まる。
    「ごめんね、怖がらせたいわけじゃないね。でも、ぼく」
    「怖くはないっすよ」
    冷え切った手にオレの手を添えて、きゅっと握りこむ。

    「おひいさん、オレあんたに聞きたいことがあって」
    「……なぁに」
    何で震えてるんすかね、おひいさん。
    「おひいさんって、オレの事好きなんすか」
    ぱちりと瞬いた綺麗なアメジストの瞳を真っ直ぐ見つめる。ゆらりと揺れた瞳はキラキラとした星を燃やしている。
    「うん。ぼくはきみが大好き」
     静かに微笑んだおひいさんは、はっきりと強い声でオレに告げる。照れが一切ない。誇りだとでも言うように真っ直ぐオレを見つめている。
    「オレも、おひいさんの事好きです」
     へらりと笑みを浮かべる。ストレートに好きと言うのは照れくさいが清々しい気分になる。
    オレも照れずに言えれば良かったんすけどね。
     おひいさんの目に映ったオレは真っ赤で、中々上手くいかないなと思う。
    「でも、それってどっちなのかなって。恋人的な好きと、家族の好きって違うじゃないですか。オレはあんたの事恋愛対象として好きだってあんたのおかげで気付いたんすけど」
     薄く開いた唇から、えっとか細い音が滑り落ちる。
    あぁ、どっちなんだろうか。
     きみは一番じゃないね。とあっけからんとしていた顔を、だぁいすき。と初めて見たぎらつく瞳を思い出す。

    「もし、あんたも同じ好きなんだったら、オレ」

     どくりと胸が騒ぐ。好き、よりも緊張して、情けないけど震えそうだ。
    そっと手を伸ばして、おひいさんの頬に触れる。
    勇気が欲しくて触れた柔らかな唇に、オレのキスに赤らんだおひいさんを見てあぁ、好きだなとただ微笑む。

    「おひいさんと番になりたいです」


         ///////



    「おひいさんと番になりたいです」

    一世一度の告白をしたジュンくんの手がぷるりと震えている。
    震えているだけじゃない。お顔は鎖骨まで真っ赤で、とろりとした黄金の瞳は涙に濡れた時のように潤んで今にも落っこちそう。ふわりと漂う香りも甘く芳しい香りを放ちぼくを誘う。
    ぼくに触れた唇は赤く染まって、そこから発された甘く蕩けそうな声に、愛おしさに目眩がしそうだ。
     
    「おひいさん」
    きゅうっとぼくの指を握ったジュンくんの緊張とぼくへの愛情をたっぷり込めた声にゆっくりと息をはく。
     ジュンくん。
     ぼくはきみに謝ろうと思っていたんだよ。
    きみの気持ちを無視してきみに触れた事を。愛しているのに泣かせてしまった事も。きみの気持ちを知るまで大事に守っていたかったのを、ぼくが壊してしまったのに。
    ぼくはきみのおひいさんなのにって、自分勝手に落ち込んで、きみの言葉を聞かずに逃げた事を。
    なのに。なのに、きみってば、ぼくに本当に甘くて、優しくて、ぼくの事が大好きで。

    「ぼくも、ジュンくんが好き。大好き」
    そっと頬に触れ、同じように唇を重ねる。
    ふにゃりと目尻を和らげたジュンくんの嬉しそうな瞳にぼくの紫が滲んでゆらゆら揺れている。

    「番ね。なるに決まってるね。ぼくはずっとジュンくんの番になりたかった」
     
     ジュンくんに初めてキスをしたあの時、卒業式のあの日、報われた事に葛藤している瞬間、SSが終わった時、ヒートが来るたび耐えているジュンくんを助けられないもどかしい時も、何よりこの恋心を自覚した日から、ずっと。ずっと今まで。

    「ぼくはきみがだぁいすきなの。可愛いジュンくん。ぼくのジュンくん」

     ぎゅうぎゅうと強く抱きしめる。耳元で聞こえる嬉しそうな笑い声がくすぐったい。
    「おひいさん、苦しい、くるしいですよぉ」
     そうっと背中に回った腕がぎゅうっと強くなる。初めて背中に回った腕に愛おしさで胸がおかしくなりそう。
     ぐりっとぼくの胸に額を擦り付けたジュンくんが、くぐもった声をだすのにそっと耳を傾ける。
    「大好き、です。好きになってくれて、ありがとうございます。おひいさん」
     そっと顔を上げてキスをくれたジュンくんの目から涙が落ちる。綺麗な涙だ。
    慌てて拭おうとする手をそっと包んで、小さく首を振る。

    「ねぇ、ジュンくん」
    そっと手を頸に連れて銀に触れさせる。
    ぱちりと瞬いた瞳から涙が溢れる前に唇を当て、お願いと小さく動かす。
    「おひいさん」
     
     ぱっと手を広げたジュンくんの後ろで、ぽすりとチョーカーの落ちた音が聞こえる。
    すりっともう一度ぼくに額を擦り付けたジュンくんがぎゅうっと首に手を回す。
    「オレから離れられなくなりますね、おひいさん」
    「ジュンくんもね。ずっとぼくの隣にいてね」

    柔く甘噛みをして、歯を立てる。
    ぼくのジュンくん。ぼくの愛しい子。
    ちゅうっと音を立て付けた痕に赤を散らす。

     ヒート中じゃなかったからね。突然落とされた快楽と極上の幸福感に抱きついた腕の力がなくなりずるりと落ちる。
    ぽやぽやと番になった余韻にとろけたジュンくんに口付け強く抱きしめる。

     愛しいジュンくん。これからもずうっと、一生かけて愛してあげるね。
    すーしょ Link Message Mute
    2022/07/26 12:39:42

    運命よりも正しい証明(①)

    ひよジュンオンリーで出しました、オメガバース再録纏めの収容内容(修正前)の全文その①となります。
    これと、「愛の巣より」が入ったものとなっております。
    通販も初めております→https://pictspace.net/suisyosyoten
    ご興味ありましたらよろしくお願い致します!

    #ひよジュン  #オメガバース

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    • 世界一小さなラブレター小さな幸せを積み重ねてるひよジュン!
      年齢操作(要素ほぼない)
      同棲設定

      #ひよジュン
      すーしょ
    • 250g以上の愛を込めて #ひよジュン

      ハートが出ちゃうようになった!みたいな、こう、狭い部屋に二人で閉じ込められちゃったみたいな古?なんですかね、そう言うの大好きだ!
      です。全てはそれになります。

      ファンタジー未満、不思議以上って感じだと思います。現象的に

      ジュンの片想いにみせかせて〜が好きです、両片思い楽しむやつ、好き!

      ジュンくんお誕生日!おめでとう〜〜!!
      すーしょ
    • その偶像に愛を込めて #ひよジュン
      です!!
      ジュンくんとおひの絶妙な焦ったい平行線すき!
      隠していても人間生きてるのでそう言う面ってきっと滲んで出るよなぁ、いつか。
      年越しまでに書きたかったから書けてよかった〜!
      皆様良いお年を!
      すーしょ
    • はろー、はろー、ばらのあなたファンタジーパロ!
      ジュンのみ先天性女体化!
      なんか色々ある!

      おひのフィチャ2見てから書く!!って脳内で暴れ生まれた少女漫画系の…ハッピーで…ちょっとドタバタした感じの…そんな感じのやつです。
      ちなみにおひの方の言い伝えは青薔薇だったりします。出会った奇跡〜

      皆〜後半だけれどイベ頑張ろうねー!

      #ひよジュン #女体化
      すーしょ
    • すべてきみにあげる #ひよジュン
      ファンタジーパロひジ!!

      おひはフィーチャー1.2
      ジュンは花婿衣装のパロ!!
      この衣装が好きすぎて暴れた、私だけが楽しいパロです!

      私だけが楽しいでゴリ押ししているので何これ?の苦情は聞きません。

      薔薇って本数でも色でも愛の言葉があってすごいね。
      6月中に出せてよかった〜!
      すーしょ
    • きみは花がいらないオメガバースです!

      番の日和とジュン!
      ズ!!初期、星奏館に移ってからの初めてのヒート。

      日和の匂いが好きなジュンとジュンの全部が好きなおひいの話。

      #ひよジュン #オメガバース
      すーしょ
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