彼は平凡ではない
「秋山くん、これ、読んで欲しいの」
目の前に差し出されたそれは、少し前までの隼人には縁のないものだった。以前の隼人ならまず飛び跳ねて、自分宛なのかどうかを確認して、顔を真っ赤にして手を震わせながら受け取っただろう。でも今の隼人の頭にはプロデューサーと旬の言葉が巡る。
アイドルに恋愛は御法度だよ。
アイドルとしての自覚を持ってください。
そして隼人は、自分の目の前に立つ女子生徒と目をあわせないようにして、グループ全員が何度か使ったことのある常套句を口にした。
「ごめん、事務所からきつく言われてるんだ」
本当にごめんね。そう言って、隼人は名前もクラスも知らない女子生徒に背を向けた。
部室に向かう道すがら、隼人は長いため息をつく。
プロデューサーに五人まとめてスカウトされて、アイドルの仕事としてイベントライブなどに出させてもらうようになってからは先ほどみたいなことがぐっと増えた。増えたというよりも、今まで縁がなさすぎただけのような気もするが。とにかく、女の子から気に入られることが増えたというのはアイドルとしてはもちろん、隼人個人的にも喜ばしいことであった。ただ、
「また何も聞かないで断っちゃったよ……」
今まで縁がなさすぎたせいか、他人からの好意をかわすことが隼人は苦手だった。他の四人は上手くかわしているようだし、人気を集めやすいボーカルの四季に至っては「これからも応援よろしくっすー!」などとファンサービスにすり変えている、なんて話も聞いたことがある。
「俺アイドル向いてないのかなー」
「秋山ってさ、アイドルとか向いてないよな」
ぴたり、隼人の足が止まる。
隼人の独り言にかぶるように、知らない声が聞こえた。続いて「軽音部の?俺も思ってた」なんて声も聞こえてくる。周りを見回すけれど、周囲にはだれもいない。この廊下を少し進むと曲がり角があって、そこを曲がればすぐ軽音部の部室だ。声はおそらくその角の先からで、きっと軽音部の貼り紙を見かけて思い出すように話題にされたのだろう。
「あいつってさ、最近女子に告られるようになったじゃん?あいつだけじゃないけど」
「秋山調子乗ってるよなー。地味だし普通じゃん」
「そーそー。他のやつはまぁわかるけど、あいつだけおかしいよな」
人違いや聞き間違いということも隼人の頭をよぎったが、可能性はゼロだった。この学校でアイドルの仕事をしているのは自分たちだけだし、最近告白されるようになったのも隼人のことだし、他のメンバーに比べて地味で平凡なのは紛れも無く隼人だった。
これは聞いてはいけないことだ。わかっていても、隼人の体は動かなかった。名前も知らない相手に、嫌われている。疎まれている。それが怖くて怖くて逃げ出したいのに、足は固まったままぴくりとも動いてくれない。隼人がそうしている間にも、秋山隼人への陰口は止まらず、近づいてくる。このままここにいたら、隼人をよく思っていない名前も知らない人達と顔を合わせてしまう。
名前も知らない人から好かれることも嫌われることも、アイドルにとっては当たり前だということに隼人はこのとき初めて気付いた。ああこんなことになるなら、こんな恐怖を感じるなら、アイドルになんてならなければよかった。隼人がそう、目に涙を溜めて思った時だった。
ふっと周囲の音がなくなる。近づいてきていた陰口はもちろん、校庭で部活に励む声も、どこかで誰かが友達を呼ぶ声も。
「ハヤト、聞くな」
よく知った声と、よく知った甘い香り、よく知った手の温かさ。メンバーのうちの一人である春名が、隼人の耳を塞いでいた。
「ハルナ?」
涙目をそのままに振り向くと春名の隣に四季もいて、四季はニコリと笑う。いつもの四季の笑い方ではなくやけにおとなしいのだが、さっきまでとは少し違う恐怖を感じて後退りそうになる。四季は隼人の肩をぽんと叩くと、「ハヤトっちはそこにいて。ハルナっちはハヤトっちの耳塞いでて」そう言って角を曲がっていった。
「ちょ、シキ、」
そっちはダメだ、四季に手を伸ばそうとしたけれど春名に引き戻され、そのまま四季の言った通りにぎゅっと耳を塞がれる。少し痛みを感じてもがくけれど、普段ドラムを叩いている春名の腕の力に隼人が敵うはずなかった。周りの音が聞こえにくいままそれでも隼人の耳に聞こえてきたのは、引き戸を乱暴に開ける音と、壁に何かがぶつかる音、それと、怒鳴り声とも取れるような怒りを含んだ二人分の声だった。
「聞こえているんですよ、さっきから。よくここでそんなことが言えますね」
「アンタら何様?うちのリーダーがいつ調子乗った?自分がモテないからって僻まないでほしいっすね」
男子生徒二人が通り過ぎたばかりの軽音部部室からは冬美旬が、目の前の廊下からは伊瀬谷四季が、それぞれ怒りをあらわに男子生徒達へと詰め寄る。旬が乱暴に開けた部室の戸からは夏来が続いて出てきて、男子生徒達をじっと見つめた。その瞳は悲しみや怒りを混ぜたような色をしていたが、男子生徒達はそれを読み取れるほど夏来と仲がいいわけでもなく、またそんな余裕もない。結果的に夏来の視線は彼らの恐怖心を煽ることとなった。
ダンッ、と四季がもう一度壁に拳をぶつける。四季が相手を殴らないのは隼人のためだと、旬と夏来にはわかっていた。中学時代の四季ならきっととっくに相手を殴っていたのだろう。それをしないのはこれから先も隼人達とアイドルを続けていく為で、男子生徒達を睨みつけながらもどこか心の端で旬は四季に感心する。
陰口を叩いていた相手の身内ともいえる三人の登場に狼狽えていた男子生徒達は、壁と拳がぶつかる音により一層肩をすくめ、続けざまに聞こえた舌打ちによってさらに体を強張らせた。
「何も言わねーならさっさとどっか行けよ。失せろ」
普段にも増して乱暴な四季の言葉をきっかけに、男子生徒達は逃げるように駆け出した。四季が現れた曲がり角、つまり隼人と春名が隠れている角には気付かずに、振り向くこともなく走り抜けていった。
春名の腕からやっと解放された隼人がおそるおそる角から顔を出すと、四季が旬に怒られているところだった。先ほどまでの剣幕さはどこかへ消え去っていて、すっかりいつもの表情だった。四季は左手の甲をさすっていて、旬は四季の手と顔を交互に指さして説教している。かすかに声だけ聞こえていた隼人には、本当は旬と四季ではなくてそっくりな声の別人だったのではないかと思うくらい、普段見ている光景だった。
「……ハヤト、ハルナ」
しばらく眺めていると、夏来と目があった。旬が夏来の声を受けて弾けるように顔を上げるのと、隼人の後ろにいた春名がおーっす、と普段通りに軽い挨拶をするのはほぼ同時だった。春名があまりにもいつもと同じように振舞うものだから、隼人もゆるゆると夏来達に手を振る。そのまま、さっきまでのことはなかったことにして部活を始められるものかと思ったが、そんな気を回せない者が一人、いた。
「ハヤトっちー!大丈夫っすか?泣いてないっすか?」
四季の言葉に、旬と夏来が固まったのが隼人にもわかる。隼人の隣にいる春名は、これを想定していたのか小さな声で「やると思ったぜ」と呟いて片手で顔を覆った。
「ハヤト、まさか、今の……」
こわばった表情のまま問うてくる旬に、隼人は目をあわせることができなかった。
「あー、うん、ごめん、少しだけ……」
隼人が謝る必要は全くないのだが、旬が聞かれたくなかっただろうことはわかるし、そもそものきっかけも隼人といえば隼人なのだ。
「……気にするんじゃありませんよ」
つかつかと隼人のそばまで来た旬は隼人の腕を掴んで、そのまま部室へと入る。歩きながら言われた言葉はまだ少し怒っているようなきつい口調だったが、それは今の隼人には怖くなかった。なぜなら、さっき隼人をかばって怒ってくれたのは紛れも無く旬だったのだから。
放課後、事務所にて。学校での出来事を聞いて真っ青になったプロデューサーから、隼人は何故か平謝りをされた。
「本当に、申し訳ない」
「いや、プロデューサーのせいじゃないって。ほら俺が地味で平凡なのは事実なんだし」
「本来なら私が君達を守らなければいけないのに、そんな思いをさせてしまっただなんて」
隼人の言葉は、プロデューサーの耳には入っていないようだった。プロデューサーは来客応対やら打ち合わせやらに使われるソファーに座って、両手で顔を覆ってうなだれている。ローテーブルを挟んだ向かいには隼人が座り、その隣に旬、夏来と座って、四季はプロデューサーの隣に、春名はプロデューサーの座る横にある肘掛けに腰掛けていた。
この件はプロデューサーさんに報告すべきです、という旬の一言により事務所に顔を出した際に伝えたのだが、隼人にはどうもそれが正解だったとは思えなかった。見ての通りプロデューサーは思いつめている様子だし、四季は思い出してちょっと不機嫌になっている。
この空気を少しでも解したいと、隼人は口をひらいた。
「でも、俺、アイドルになって後悔してないよ」
ぱっとプロデューサーが顔を上げる。涙目だ。
「今日みたいなこと、またあるかもって思ったらちょっと怖いよ……。でも、みんなで曲作って沢山の人に聞いてもらって、聞いた人が笑顔になってくれたら、そんな怖いの吹っ飛ぶくらい、嬉しい!」
半分は、強がりだった。
怖いものは怖いに決まっている。顔も名前も知らない他人から、好意を寄せられることも嫌悪されることもある。自分の全く知らないところで、自分のことを話題にされる。今までただの男子高校生でしかなかった隼人にはもちろん経験のないことだ。そんな未知のことを怖がらずにいられるほど、隼人は大人じゃない。
しかし、アイドルにならなければ、自分の曲を今のように沢山の人に聞いてもらうことはできなかった。せいぜい学校内、多くても文化祭などの催し物に来てくれた生徒の友人や保護者達ぐらいだろう。アイドルになったことで、新しい可能性も未来も夢見られるようになった。それは本当に良いことだと思っているし、自分達を見つけてくれたプロデューサーに感謝もしている。
「ハヤト、よく言いました」
それでこそ僕らのリーダーです、とどこか誇らしげな旬が隣にいた。そして、ではアレにも出れますね、と壁に向かう旬の指の示す先を見ると、プロデューサーがああ!と突然大きな声をあげた。
「そう、君達にも立候補してもらおうと思っていたんだよ!」
旬が示した壁のポスターには、315プロ総選挙、と書かれている。総選挙といえば、人気投票のようなものだろうか。隼人の疑問を代弁するように春名が口を開いた。
「それって、なにすんの?」
「ファンの皆さんに投票してもらって、順位を決めるんだ。上位五人には、その五人での仕事がある予定だよ」
「じゃあじゃあ、オレたちみんなで上位に入ったら、みんなでその仕事できるっすね!」
「お、乗り気だね?みんなには、自分のキャッチコピーを考えてもらう。私が考えてもいいんだけどね。ポスターに書くから、きちんと考えてね」
どんどんと話が進んでいく。四季もプロデューサーも乗り気で、とても口を挟めるような雰囲気ではない。誰が人気とか、順位を決めるとか、まだ自分達には関係のないことだと隼人は思っていた。でもそれを決めなければならないときが、目の前まできている。
個性の強いユニットが揃うこの事務所の中でも、ハイジョーカーはとても上手くやっているとリーダーながらに隼人は思う。だがそれは他のメンバーがいてこその話で、個人となれば話は全く別だ。
「あ、あの、俺……」
「ダメです」
旬は隼人の言いかけたことがわかるかのように、ピシャリと叩き切った。旬と目を合わせるのが怖くて隼人は顔を必死に背けるが、そんなことお構いなしの旬からは視線と一緒に言葉が次々へと飛んでくる。
「出ないとでも言うつもりなんでしょう。ダメですよ、さっきの台詞はなんだったんですか。その弱気を克服する良い機会です。なんなら、今みんなでハヤトのキャッチコピーを考えてもいいんですよ。それでもいいですよね、プロデューサーさん」
最後にプロデューサーへと投げかけた旬は、もちろんと頷かれると満足そうに笑みをつくった。その笑みはとても高校二年生のする顔ではなく、悪いことさえ考えていそうな顔に春名と四季は隼人へ同情するが、旬から顔を背けている隼人にそれが伝わるはずもなかった。そんな隼人をよそに、旬は機嫌良く隼人のキャッチコピー作りを仕切る。
旬の言うことは、よくわかる。嬉々としてノートとシャープペンを鞄から取り出す旬を見ながら、隼人は考えていた。
アイドルである以上、ハイジョーカーのリーダーである以上、自分に自信を持たなければいけない。アイドルを続けていくにはそれが必要不可欠なのだ。隼人とて、そのくらいのことはわかっていた。それでも旬が口うるさく言うのはきっと隼人のためだとわかっているけれど、隼人はいまいち自分に自信が持てないでいる。四季をはじめ、隼人を支持してくれる人がいても、どうして支持してくれるのか隼人にはわからないのだ。四季に理由を尋ねたこともあるが、四季の口からは次々と褒め称える言葉ばかりが飛び出して、それが隼人を指しているとはどうしても思えなかった。あまりにも隼人の知っている隼人とは違うから、人違いなのではないかと思うことさえあった。けして、四季を疑っているわけではないのだが。
旬が手にするノートには、隼人に関連すると思われる言葉が並んでいた。「ギター」「リーダー」「優しい」「仲間思い」「弱気」「弟っぽい」……物によっては、誰が出したのかすぐにわかる言葉達だ。
四季と旬がああでもないこうでもないと言い合う中、夏来が小さく言ったことに、皆耳を疑った。
「平凡」
「え?」
「……ハヤトはよく、言うよね」
隼人は己の発言を振り返ってみるが、夏来に指摘されるほどとは思えなかった。ということは、無意識に口に出していたのだろうか。それはそれで嫌だなと思ったが、指摘されたからにはそういうことなのだろう。
口に出しているつもりはなかったが、自分が平凡なのは事実だと隼人は思う。たいした取り柄もなく、顔も勉強も性格も普通。それが隼人の思う隼人で、他人から見てもそうなのだと思っていた。
「……ナツキ、それ」
採用、と旬が呟いた。向かいのソファーではプロデューサーも頷いている。
「どういうこと?」
平凡がキャッチコピー?
意味がよくわからずに首を傾げる。その間に旬はノートの真ん中に何かをさらさらと書くと、満足そうにテーブルの中央へと滑らせた。
平凡なんて言わせない!
ノートの真ん中にはそう書かれていた。
「もうハヤトが平凡だなんて、誰にも言わせません。ハヤト、もちろんあなたもですよ」
旬の言葉に、そうだなと春名が同意する。
「ハヤトが本当に平凡だったら、オレ達を集めてここになんていないさ。今ここにいることが、ハヤトが平凡なんかじゃないって証拠だろ」
「そっすよ!ハヤトっちなら、絶対、ぜーったい一位っす!」
「そんな……だって、他のユニットの人達も出るんだろ?俺なんか……」
「ハヤト、俺なんか、は禁止です」
「うっ」
ピシャリと旬が言うと、隼人は呻いた。助けを求めてプロデューサーの方を見るとにこりと微笑まれたので、もう逃げられないんだと隼人は悟った。ここまできて逃げようだなんて思わないけれど、個人戦はできれば避けたいのが隼人の本音だった。でも、今なら。みんなが背中を押してくれるから、頑張れる気がした。
全員でエントリーをして、プロデューサーがポスターを作って、ファンへのコメントも発表されて、約二週間。個人の中間発表を電話で聞いたときは、大げさに感じていた四季の言葉が真実味を帯びてきたことに隼人は驚いた。それから十日で投票期間が終わり、それからまた約二週間後、放課後の部室で隼人は携帯を握りしめていた。
「み、見るぞ」
「ハヤトっちキンチョーしすぎっすよ〜!」
ライブでもそこまで緊張しないっすよね?
後ろから携帯の画面を覗き込む四季はけらけらと笑うが、隼人の肩に置いた手は少し強張っていた。旬はさっきから手に持った楽譜が逆さだし夏来もそれに気づかないし、春名は持ってきたドーナツにまだ手をつけていない。みんなそれぞれに緊張しているのは、中間発表のあと十日で順位がどう変わったのか全くわからないからだ。発表されるのは十位までで、中間発表では夏来はそこに入っていなかった。隼人は一位であったが、キープしているかなんてわからない。残りの三人も五位以内とそれより下では意味が全く変わってくる。
「ハヤト、早くしましょう」
旬に急かされるまま、震える手で事務所のホームページから投票結果の特設ページを開いた。
プロデューサー。俺、全部頑張るよ。ギターも作詞も作曲も、歌もダンスも。それで、胸はって、ハイジョーカーのリーダーでいたいんだ。だから、これからもよろしくお願いします。
電話の向こうから聞こえる涙声はとても明るい声で、やはり彼をエントリーさせたことは正解だったと胸を撫で下ろした。彼に自信がついたことで、ハイジョーカーはこれまでよりも格段に良くなっていくだろう。彼がただの平凡な少年ではないことは彼らに声をかけた自分が一番よくわかっている。これまではまだ芽が出ていなかっただけ。やっと出始めた芽はこれから大きく成長していけるだろう。
自分が彼らにしてやれることは、良い仕事を取ってくること、たくさんの経験をさせること、他にもまだまだ山積みだ。
受話器を置いて、スケジュール帳を開きながら席を立つ。
「プロデューサーさん、もう出かけますか?」
「ええ。私もあの子達に負けないように頑張らないと」
そうですねと微笑む山村さんに帰り予定時間を告げて、事務所のドアを開ける。
「いってきます」
平凡だと地味だと言われた彼が、誰よりも輝き誰からも愛され、夢を与える存在になるのはそう遠くない未来のことだ。