夢と影 今日も当て所無く彷徨うだけの一日だった。朝遅くに起きて昔から持っているヒーロー漫画を読み、昼過ぎにとりあえず外出し、街灯が点る頃に自宅のアパートへと帰ってくる。狗凱の毎日はそれが基本となっている。
ぼんやりと部屋に入ろうとした寸前、集合郵便受けを確認しなければならないことに気付く。昨日は見ていなかった。どうせ紙くずにしかならないものが入っているが、詰め込んだままにしておくと大家に怒られてしまう。さっさと鍵を開けて中のものを漁ると、やはりチラシやパンフレットばかり。目を通すことも無く捨てるから乱雑に掴んでもいい。……が、いつもとは違う感触が一枚だけあることに狗凱は気付いた。
「……あぁ?」
間抜けな声が出る。確かめると、手触りの良い、上質なはがき。宛名には――狗凱剣獅という名と、現住所が記されている。そして、「H県P市愛造町」という差出人の住所の文字。ずきりと頭が痛むほどに、それは狗凱の故郷を確かに表している。捨て去った故郷から遠く離れるこの地で暮らしている狗凱にとって、これは奇妙だった。実家とはほとんど絶縁状態であるし、連絡を取り合う同郷の友もいない。それなのに、どうして。
「何で……こんなのが、俺んとこに来るんだよ」
不可解さに呟きが漏れてしまう。これだけでも困惑するには充分だというのに、ひっくり返した裏面に綴られた報せで狗凱の頭はすっかり覚めた。
「死んだ? 葬式? ……鼠谷?」
正直、狗凱にとって、その名前を見ても一瞬で顔立ちが浮かぶ相手ではなかった。多分、そんな奴がいた気がする。綴られた一文を読めば、母校――愛造小学校のクラスメイトだったらしい。鼠谷の両親による文面では、亡くなった我が子の為に葬儀を行うから、当時のクラスメイトを招いて追悼を願いたいとのことだった。
一つのクラスが四十人で構成されているとして、その中には左利きもいるし、同性愛者もいるし、死者や犯罪者も出るだろう。全て少数派だ。だから、クラスメイトが死んだということに関して、狗凱はそこまで驚かなかった。ただ、今になってあの町が自分を呼び招く、その現実に違和感を覚えた。
面倒臭い――その一言が今の狗凱の心境だった。特別親しかったわけでもないクラスメイトの為に、憂いが過る故郷にわざわざ戻りたくない。それなら、チラシやパンフレットと同じように、はがきも無視して捨てればいいだけだ。
そう、捨てれば終わる。こんな紙切れに従う必要は無い。見なかったことにして、読まなかったことにして、ゴミ箱に放り込んでやれ。くだらない故郷の名前も、一晩寝れば忘れられる。それから……二度とこんなはがきが届かないように、また別の町に移ろうか。
自室に入って玄関ドアを閉めた瞬間、狗凱はドアにもたれかかるようにしてずるずると崩れ落ちた。
(俺は……覚えてねえよ)
小学校の頃の記憶は、狗凱にとってこの上なく曖昧だ。中学も高校も大学も、全部霞んでいる。つまらないことばかりだったから、残しておく意味が無いとも思っている。だが、小学生時代だけは、何となく感覚が違うのだ。年を重ねるにつれて忘れたのではなく、自ら忘れてしまったと言うべきか。
――あの頃、側に誰かがいた気がする。でも、小さな人影が霧に包まれていて鮮明には見えない。ガラクタだらけの場所があった。そして、そこでヒーローごっこをしていた。楽しかった。嬉しかった。こんな時間が、ずっと続けばいいのにと思っていた。単純で素直な気持ちだ。
それと同時に、考えれば考えるほどに胸が痛み、怒りや悲しみが混ざり合った激情が湧き起こる。理不尽で、やるせなく、どうにもならなかった。ヒーローを夢見ながら、無力で幼く弱いただの子供。虚しい自分の影だけが浮き上がる。狗凱は、それをずっと抱えることに耐えられなかった。だから故郷を捨てた。
今も思い返すと、小さな人影がある。笑っているのか、泣いているのか、顔色も分からない。
(お前……誰なんだ?)
十数年と自問してきたが、自答出来ないまま月日が経つ。
葬儀の期日すら刻々と迫る。迷い、悩み、はがきを捨てようとした。けれど、手が止まってしまう。「愛造町」という故郷の名前から目を逸らしたいのに、何かが、誰かが繋ぎ止めようとしてくる。霧に包まれた人影が、手を差し伸べてくる。それは無理矢理迎え入れようとしているというよりも、助けを求めて縋りつこうとしているような形だった。こんな自分に助けを求めて何になるのか、意味が分からない。冷笑しようにも、訳の分からない苦しみが込み上げてくる。息が詰まるとか、涙腺が緩むとか、そういう感覚とは違う。これは自分の苦しみなのか、それさえも疑問になる。
誰かの苦しみと共鳴しているような、そんな苦しみだ。
(呼んでんのか、お前)
まさか。そんな。くだらないヒーロー気取りだ。自嘲する狗凱は、そのことをよく知っている。ほとんど無意味になってしまった夢物語には、そんなシーンも多々出てくるけれど、現実に起こり得る話ではない。
ヒーローになりたかった。映像関係の勉強をして、何本かヒーロー映画を作ってきた。どれもこれも思い通りに作ってきたつもりが、振り返ると駄目だった。協調性が無く、周りと意見が衝突する。突っ走ってしまう癖があると自覚するも、気付いた時には人が離れてしまった後だ。一人なら一人で、結局中途半端なものしか作れない。そんな日々を数年過ごし、今は何もかもやる気が無く、だらだらと生きているだけだ。
誰が自分のことを呼ぶのだろう。誰が自分のことを信じるのだろう。スターヒーローは死んだというのに、自分は誰の為に生きられるのだろう。
はがきが届いたその日から朝も夜も寝られず、葬儀についての簡潔な文章を目で追う。捨てた故郷。クラスメイトの死。誰かの苦しみを感じる。ヒーローの物語。
考え込み、考え込み、考え込み、その末に――大きく溜め息を吐いた狗凱は、クローゼットの奥に仕舞い込んでいた赤いマフラーを手に取った。
駅前で突っ立つ狗凱に通り過ぎる周囲の人々は一瞬だけ目を向けるが、狗凱は全然気にしなかった。そんなことよりも駅に掲げられた「愛造町」という表記を改めて見ると、陰鬱な気分になった。あまりにも久しぶりの町の様相は、当時とどこが変わったとか変わらないとか、その違いにも気付けない。
(あーあ……結局来ちまったなぁ)
これはただの義理だ。葬儀に参列したらさっさと戻ろう。そうだ、誰かの呼びかけに応えたわけじゃない――そんな投げやりな気持ちで歩き出す狗凱を、彼女は何年も何年も待ち続けていた。
狗凱が生まれ育ち、捨てた故郷。
全ての幕開けの町。
ただ一つの色褪せた思い出が蘇る場所。
やがて、再会の時が待っている。
葬儀場での騒動の後、阿黒と豊基とは一度別れ、それぞれがそれぞれの帰路に就く。とは言え、狗凱は実家に戻れるような身ではないので、阿黒の家に近いビジネスホテルに泊まることにした。豊基は阿黒の家を借りるらしい。
狗凱は既に参っていた。鼠谷の訃報が届いた時点でやはりおかしかったのだ。どっと疲れ、シャワーを浴びた後は体に合わないベッドに倒れた。そして、勿論朝は訪れる。夜から朝へ、その間隔が短く感じられるほどの長い長い夢を見た。薄暗い部屋の中、目を覚ました狗凱は、ぼんやりと天井を見上げたまま動けないでいる。
――子供の頃の夢だ。あそこに、あの「誰か」がいた。十数年の時を経て、嬉しくて寂しい思い出が狗凱の脳裏に全て蘇る。
小学四年生の頃、河川敷で出会った。河川敷の草むらの中には、ヒーローと怪獣が戦うガラクタの街があった。あーでもないこーでもないと、二人で街を築き上げた。下校途中にランドセルを背負ったまま直行しては、日が暮れるまでヒーローごっこに耽っていた。疲れても疲れても、疲れを知らないくらいに遊び続けた。普段は物静かだけれど、二人でいれば笑い合い、ヒーローが使う武器や必殺技を考え、打ちのめされても立ち上がるヒーローの物語に、きらきらと黒い目を輝かせる女の子。
(……羊田……羊田……羊……ひつ、じ……)
そして、約束した。彼女は彼に平和で静かな世界を望み、彼は彼女と共にヒーロー映画を撮ろうと。
「メリー」
漏れ出たその響きは、あまりにも懐かしく、心地良かった。呼びにくいからと狗凱自身が彼女に与えた、子供らしいあだ名。
昨日の通夜ぶるまいの場で聞いた、「羊田」という苗字で狗凱の記憶を包む霧が少し晴れた時、その存在をはっきりしたい気持ちと、はっきりさせたくない気持ちが混ざっていた。だが、こんなにも鮮明な夢を見てしまったら、はっきりするに決まっている。
いや――もしかしたら、本心では思い出したかったのかもしれない。ただ、今まで恥晒しの人生を送ってきた中で、あの頃の思い出だけはあまりにも綺麗だったから、汚したくなくて仕舞い込んでいたのかもしれない。
「……マジでお前が呼んだのかよ、メリー」
あの場には他にもいないクラスメイトがいたし、羊田も都合が悪くて出席しなかっただけという可能性は充分あるが、狗凱にはそうは思えなかった。何故か、予感がする。かつて河川敷でガラクタを積んでいた手が、自分に助けを求めて縋りつこうとしているものと同じに見えた。
そこまで考えると、狗凱の胸の奥はずきずきと軋んだ。それなら、自分達が、あんなにもヒーローの世界に夢見た自分達が、すれ違ってしまった理由を教えてほしい。
「何なんだよ、今更。待ってたんだぞ、あそこで、一人で。お前……もう、ヒーローごっこなんか飽きちまったんだろ。俺が勝手に付き合わせてただけで、本当は嫌だったんだろ。訳分かんねえよ。お前、いっつも笑ってたじゃねえか。センス無かったけどさ、アドバイスとかいっぱいしてくれたし。学校帰りだけじゃなくて休みの日も遊んだよな。じゃあ何で約束したんだ。何で。何で一人にしやがったんだ。『カントク』って馬鹿にされてきたんだぞ。お前が呼んでくれねえと意味無かったのによぉ。俺は……お前と一緒に、映画を……」
いつからか、羊田は河川敷に来なくなった。日曜日の朝の特撮番組の話をしたくても、自作ヒーローを描いたノートを見せたくても、「メリー」と呼びかけても、狗凱は羊田から避けられるようになった。同じ中学に通っていたが、やはり話す機会は一度も無かったし、密かに視界に入れてみる彼女は常に独りだった。何度も何度も河川敷へと行った。いつか、羊田が来てくれるのではないかと期待して。そして、中学を卒業したのと同時に諦めたのだ。二人だけのヒーローごっこは、約束は、もう終わったのだと。
むかついて、寂しくて、悲しくて、辛くて、綺麗な思い出で、だから……羊田という存在を、自ら曖昧にしてやった。
むくりと起き上がった狗凱は、深く深く溜め息を吐く。とりあえず洗面台の冷水で思い切り顔を洗った。分かっている、呻いたところで何も始まらないのだから。
「やるしかねえんだよなぁ、チクショー」
今日も赤いマフラーを手に取り、先の見えない所にある答えの為に町へと繰り出す。
その日、二人は再会した。背丈の差が開いただけで他は変わらない、大人になった狗凱と羊田が向き合う。「来たんだ」と迎える羊田の声色は、狗凱達の来訪を当然と思っているようだった。
狗凱の前だけで羊田は微笑む。嬉しそうに、寂しそうに、彼へとその想いを呟いて託した。
「――どうか、お願い。私のヒーロー」
一人残されてしまった狗凱に、事務所の奥へと引っ込んでしまう羊田を追いかける気力は無かった。動けない。混乱している。神だとか、生贄だとか、贖罪だとか、朗読会だとか、猿渡先生だとか、理想郷だとか、赤い石だとか。めちゃくちゃだ。どうやって処理すればいいのか、狗凱の頭は追いつかない。
何より、羊田はヒーローを信じていた。ヒーローごっこに飽きたのだと、裏切られたのだと思い込んで、いつしか河川敷での綺麗な記憶に蓋をして何とか生き延びて狗凱にとって、平常心が保てなくなる台詞を向けられた。
「……勘弁してくれよ」
羊田が期待するような、ヒーローなんて称号には到底相応しくない生き方をしてきたというのに。情けないことばかりで、上手くいかないことばかりで、ヒーローという存在に夢を持てなくなったのは自分の方だ――狗凱は居た堪れなくなる反面、それでも羊田を助けてやれるのは……自分だけだと思った。そう、あの日、河川敷で約束した。平和で静かな世界を彼女が望んだのは、きっとこういうことだったのだろう。
とにかく狗凱は頭の中で繰り返す。羊田の言葉。赤い石を壊せば――この意味不明な異常事態を収められる。そして、生贄を求めて羊田に理不尽な罪を背負わせた神とやらから、苦しみ続けている羊田を救い出せる。影。影が生まれた瞬間に。壊す。それだけだ。そうすれば、きっと。
(全部、終わるんだよな。お前が望んでた平和で静かな世界になって、そしたら俺と一緒に……映画、撮ってくれるよな。……メリー)
彼女に託されたこの想いを、狗凱は自分の胸だけに秘めておくことにした。
完