【五七】ハイドレンジア 濡れたアスファルトに紫陽花が姿を落とす。
地に開くもうひとつの花園、水に揺れる色あざやかな青紫と赤紫を、しかし七海の汚れた靴先が踏みしめ水しぶきとともに散らした。
明け方まで続いた呪霊退治がひと段落したのはつい先ほど。汚水と汚泥、散り散りの肉塊、一面の血しぶきと何体もの腐りかけの屍……奪われた命と失われた命。
汚いものは一夜で一生分見た。そしてこれが終わりでも始まりでもない。
傘はなかった。腐臭の沁みつく汚れたスーツの肩口を、静かに降り出す雨が叩く。黴雨とはよくいったものだ。ぬるい温度に甘やかされた雨が疲れた体も心も黴させ、腐らせていく。
清浄さが恋しい。乾いて清潔な自宅が恋しい。汚れを熱いシャワーで洗い流し、白いシーツを敷いたベッドに倒れ込みたい。けれど疲れた体はままならない。足を踏み出すたび濡れた道路にずるりと疲労の泥が跡を引く。
救えなかった命を思う。最低で、最悪な気分。世界はこの気分と同じに最悪のクソだ。とっくに黴て腐り果てている。
「お疲れ、七海ィ」
ふいに行く手が輝いた、気がした。
くたびれたまぶたを上げれば、すぐそこに五条が立っていた。目隠しではなく丸いサングラス、いつもに輪をかけラフな服がプライベートと告げている。
その手には、清らかさを花にしたような真っ白な紫陽花。彼の髪にあつらえたような白さはまぶしくて、七海はレンズの奥で目を細める。
「……五条さん、どうして」
「伊地知から聞いたら、おまえまだ帰ってないっていうからさ。色々準備して迎えにきてあげた」
五条が歩む。足元の水たまりには、さざめきすら立たない。
「バスタブにはお湯を溜めて、いい香りのオイルを垂らした。食卓にこの紫陽花を飾って、リベイクした温かいパン、旬のジャムに焼き立てベーコンエッグ、新鮮なサラダとフルーツジュースを並べてあげる。香り高い上質の珈琲も用意するね。仕上げは洗い立てのシーツをかけたベッドと、そこに寝そべる世界でいちばんにうつくしい僕!」
得意げな五条に七海は堪えられずに笑い出した。仕上げが過ぎていっそコメディだ。
「よし、よし。ちゃんと笑ったな。僕はね、七海」
五条は七海の汚れた手を取り、真っ白な紫陽花の花を握らせる。花弁越しにサングラスをずらし、きらめく宝石眼で七海を見つめると、甘やかすように蕩ける声でささやく。
「おまえを、こんな最低な世界から連れ出すためにきたんだよ」
さあ、帰ろ。
五条の腕が濡れたスーツの肩を抱きしめる。無下限が七海を包み、雨をさえぎり、汚濁の世界をゆっくりと遠ざけていく。
きれいは汚い、汚いはきれい。世界は反語の裏表、境目のないグラデーション。しかし五条はすべての汚濁を、強さとうつくしさで退ける。きっぱりと世界を白に染め上げる。
五条の背中に腕を回し、ほっと七海は息をついた。疲労の泥が足元へ抜け落ちて、悲嘆の代わりに安堵が心をゆっくり満たしていく。
雨と紫陽花が貴方を連れてきた。それならこんな天気も悪くはない。
「素晴らしいですね。仕上げを放って熟睡しそうですが」
「そこは堪能してからじゃないの? ……なんて、疲れたおまえに無理はいわないよ」
堪能するのはまた、後日。甘い笑みで五条がささやき、七海も笑みで彼の口付けを受け止める。白い紫陽花の陰で、恋人たちは深く唇を重ねる。
英名はハイドレンジア。語源は水の器。
私は貴方を受ける器。この身を満たす、貴方という美しい水。