C100サンプル/この素晴らしき世界What a Wonderful World as Shitty「キリコ先生、その腕があるんなら、どこぞのお抱え医師になれるんじゃないのか?」
使用した器具一式の乗る台車を近くに控えていた保安局の局員に渡しながら、キリコと呼ばれた男は手を止めることなく問いを口にした相手の顔を見ることもなく、横たわるものを仏頂面のまま見つめ、口を開いた。
「で、報酬はきちんと準備してもらえているのかな」
ここは東国の国家保安局の庁舎内にある、拘束されている政治犯やら国家の反逆者たち専用の病棟の処置室。
尋問から拷問までがありとあらゆる手段で行われる死の監獄だが、口を割らせるために死なれては困る場合もあり、本来であればバーリント総合病院などで高い地位にいられるような凄腕の医者が勤務する。それでもある種のエキスパートが必要となる場合もあり、今回は「毒」を包括する「薬」、そして「死」に関するエキスパートであるDr.キリコが呼ばれたのだ。
そして、キリコが見つめていたそれは保安局員だったモノで、死体袋に移されジッパーが閉じられると、遺体安置所に運ぶためにストレッチャーを押し処置室から出ていった。
運ばれていく死体は生まれも育ちも東国でありながら、保安局が血眼になって追っている西国一のスパイ〈黄昏〉に唆され情報を流していた売国奴。保安局員となるために高度な訓練を受けたその死体だったものは拷問でも口を割ることはなく、東国で使用する各種の自白剤も意味をなさなかった。そこで呼ばれたのがDr.キリコだ。
――Dr.キリコ、死に神の化身。
医者でありながら死を提供するその闇医者は、裏の世界では有名人で、彼の仕事は死だけではなく、死に繋がるもの――毒物や関連する薬のエキスパートなのだ。
* * *
二週間前、Dr.キリコはその依頼の手紙を受け取っていた。
依頼は、訓練されている者への自白を引き出せる薬が欲しいということだった。キリコにとってこの手の依頼は少なくはない。差出人の国が東国で、手紙を寄越した主が保安局のトップだった時点で、なんのために使われるのか考えなくとも分かりきっていたが、それはキリコには関係のないこと。仕事として依頼されれば裏がない限りは引き受ける。
生業である「安楽死」の依頼であれば受け取りはたとえ東国だったとしても東側の通貨は受け取らず、この世界で覇権である合衆国通貨を指定するのだが、今回はキリコの使う薬が欲しいということ。であれば、薬だけではなくキリコ自身が運びキリコ自身が対象者に使い、依頼者には使わせない。これが依頼する側への最低条件。
依頼内容からすれば、結局は安楽死も依頼されることを見越し依頼場所までの往復の旅券と旅費に相当する代金も請求する。尾行も詮索もなし。
そして薬の依頼への報酬は、キリコでもなかなか手に入らないその国ならではの指定された薬を提供すること。こんな条件でも、横暴な東側諸国の連中であっても素直に従うのは、キリコのバックに付く力を怒らせたくはないということだ。
現在、東国は〈黄昏〉を捕まえるのに必死になっている。普段はうっかり殺してしまったが得意な保安局がトップの名入りでわざわざ連絡を寄越したのは、〈黄昏〉絡みで少しでも情報を得たいからだと考えられる。それなのに手紙なのはうっかり殺しかけたのだろう、しゃべれる程度に回復する時間が必要らしく、返事も手紙でいいときている。その手の拷問の加減が難しいのはキリコも軍医時代に経験済みで、普段からうっかり殺してしまう連中に「絶対に殺すな」はさぞかし高難易度なお達しだったのだろう。
裏もなそうな依頼に引き受けることとし、返事を書く前に二、三連絡するべき場所があるなと髪を掻くと、盗聴の心配のない回線の方の電話の受話器を取った。
滅多に鳴る事がない回線を引いた電話が鳴る。
その電話は緊急回線でもあり、この番号を知っているのはWISEの局員でもほんの一握りだけで、後は直接自分自身で話を通したい各方面で顔のきく名の通った人物に渡している程度。どちらにしろ、鳴ることのない電話が鳴っている時点で良いことではない。毎朝、出勤時に部屋の中の盗聴器の有無を確認しているが身分が外交官とう時点で安心はできないため、緊急回線が繋がる電話は盗聴器の仕込む余地のない壁の前にあるチェストの上にあり、そこは外からの監視の目の死角になる場所でもあった。
ただ立ち上がったただけを装い電話へと歩いて行き受話器を取ると、間髪おかずに声が聞こえた。
「シルヴィア・シャーウッドか?」
聞いたことのない声にシルヴィアは眉を顰めた。だが、この回線を知っているということは何かしらで関わったことがあるということ。
「ああ。そちらは?」
「Dr.キリコだ」
名前を聞いて、シルヴィアの息が詰まる。
死に神の化身と言われる非合法に安楽死を施す闇医者が連絡してきたことに戸惑いを覚えつつ、相手が盗聴される可能性のない電話にかけてきたことに胸をなで下ろす。声を聞いたことがある訳がない。キリコとは話したことはないが、確かにキリコの関係者にこの番号を教えたことがあった。それがきちんと伝わっていたということなのだが、はっきり言ってこの男と関わり合いになりたい組織は無いだろう。
「いい話と悪い話がある。どっちから先に聞きたい」
「それよりも、なんの意図があって死に神の化身が私に連絡を寄越した」
「ふっ、そっちでも嫌われているようだな。俺のところにきた話が、あんたら(WISE)にとっても美味しい話じゃないかと思ってね」
いい話も悪い話も、さらには「美味しい話」というのであればなおさらDr.キリコから告げられるのでは出来れば聞きたくないものだが、わざわざこの電話にかけてきたということだけで話を聞く価値はありそうだった。
「いいだろう、聞かせてもらおうか」
シルヴィアとキリコの電話から数時間後、突然召集の連絡を受けた〈黄昏〉は、訪問診療の患者の様子を診てほしいと連絡があったと偽り、勤務先の病院を出ると指定のセーフハウスへとやってきた。
「こんにちは、あるいはこんばんは、エージェント〈黄昏〉」
〈黄昏〉は、管理官であるシルヴィアの声に少しの苛立ちが混じっている事に気づき不安を覚えたものの、その後に起こる無茶振りには慣れてしまっておりそのままシルヴィアの座るデスクへと歩いていく。
「……悪い知らせですか?」
帽子をとりながらデスクの前に置かれた椅子に腰を下ろすと、シルヴィアの盛大なため息が流れ出した。滅多なことでため息をつかないシルヴィアがここまで盛大についたという事実に〈黄昏〉は胃がズキリと痛んだものの、それは慣れた痛みで無視できるものだったため、ポーカーフェイスを貫いた。
「〈黄昏〉、Dr.キリコに会ったことは?」
突然、意外な人物の名前が飛び出し過去の記憶が頭をよぎる。WISEの本部には、その人物の追跡できる範囲ではあるもののエージェントになる前からの過去のデータがどのエージェントのものか解らぬよう、ただのデータとして保管されているため、嘘はつけない。
「……軍属だった時に」
年齢を誤魔化して軍に入隊するため、ローランド・スプーキーという名で生きていた時に前線でおかしな医者に出会った。
元々は東方の熱帯圏で起こった戦争に介入した合衆国の軍医だったというその医者は、西国の正規軍の軍医ではなく、傭兵のように報酬に見合えば依頼を受け雇われている流れ者の医師だった。なぜ印象に残ったのかというと、医者だというのに隻眼で眼帯をしていたから。そういった者は正規軍では後方任務に回るというのに、その医者はフリーの雇われ医師で、前線から運ばれてくる負傷者に応急処置を施すMASHの第一線で仕事をしているのだ。
ローランドは前線の人員補充のためにそのキャンプに行ったわけではなく、たまたまそのキャンプの維持のための人員として補充されたため、その変わった医師を観察する時間があった。十歳そこら、爆撃で母親を亡くし、ドブネズミのように地べたを這いずり回り、死ぬもんかと生きていせいか、変わっている人物に興味を持ちやすい。そういった人物は大抵生き残る上で役に立つ業を持っており、子供のころはそういった大人に付きまとい業を盗んで身に着け、自分のものにして生きてきたのだ。
軍の医者ではないからなのか、休みや暇を見つけて顔を出す自分を嫌がるどころか医療技術が知りたいんならと助手として使ったり、誰も気にしないのをいいことに緊急処置を教えてくれたり、ひどい時には敵の攻撃で溢れかえった負傷者の処置までこき使ってくる始末。そのおかげで今に至るまで大いに役立ったことは役立ったのだが、おかげでその医師がなぜ雇われたのかも知ったのだ。
彼の本当の仕事は、戦場では必要悪となるその仕事を一手に引き受ける、死に神の化身。
「ならば話が早い。写真がなくても見れば分かるだろう」
「声で分かりますが、そもそも彼は隻眼で眼帯をつけてますよ」
「であればいい。いい知らせではないが悪い知らせでもない。協力者にした保安局員が消えたことに関係している」
消えた協力者は〈黄昏〉がこちら側に寝返らせた保安局員で、接触時は毎回変装し〈黄昏〉をちらつかせたことがあるが、〈黄昏〉だと伝えたことはないものの、相手が相手だけに消えた協力者について探りつつ、続報が入るのを待っていたところだった。
「ではオレ絡みですか?」
「とも違う」
「Dr.キリコとどう関係あるかぐらい、教えていただけませんか?」
歯切れの悪いシルヴィアの返答に、流石の〈黄昏〉も苛立ちを覚えはじめていた。
シルヴィアは「いい話でも無いが悪い話でもない」とは言ったが、Dr.キリコが関与しているのであれば悪い話でしかないのだろうと、保安局絡みでもある故キリコの仕事を思い出し、座り心地の悪くなった椅子に座り直すと、〈黄昏〉の動きにシルヴィアはまたため息をついき、ようやく口を開いた。
「取引を持ち掛けられた」
話を聞いた〈黄昏〉は背もたれに寄りかかり天を仰ぐ。
「管理官、これは我々の仕事ではなく、火消しか火種の仕事でしょう」
「どちらともDr.キリコが絡んでいるなら関わり合いになりたくないと言ってきた。当たり前だがな」
それはそうだろう。
軍医時代に助からない兵士を「安楽死」と称し薬殺していったその男は、不名誉除隊になっておきながらも非合法的に呼び戻され従軍し、不名誉除隊となったその仕事を請け負い、それ以外の時であっても彼の背後には合衆国の力がちらつくのだ。普段から国内にばらまかれた火種を消すために奔走する組織も、逆に国外で火をつけ燃え上がらせるために奔走する組織も、お互いそれぞれの諜報機関が奪い合うこともある仕事でも、今回の件にDr.キリコが関わっている以上、後始末に手は貸しても自分たちで取引したいとは絶対に言わないのだ。
それは、取引を提案されたWISEがすべきだ、と言ってくる。
分かりきったことだったが、ぼやくたくもなる。
「取引内容を考えれば、あの国が出てくることは無いでしょうが」
「第七艦隊の機で来るそうだ」
「じゃあどうしてオレが接触しなくてはならないのか教えてください」
「ああ、まずはDr.キリコが連れてくる別の医者との接触及び輸送の任務もあるんだ」
この話が持ち込まれてから超特急で集められただろう資料がデスクに置かれ、〈黄昏〉の方へ押し渡された。
「かの天才無免許医、ブラック・ジャック」
――天才無免許医、ブラック・ジャック
自分達と同じ裏社会の住人なのだが、彼の仕事は裏社会だけではなく、自分達が陰ながら守る表の世界にも及び、依頼を受けるのは彼の気分次第。貧乏人から金持ちまで幅広く、知らないものは誰もいない無免許――モグリの外科医だ。
無免許ながらその腕は世界一だが、法外な依頼料を吹っかけてくるかと思えばタダだったり異様に安かったり。
見た目は、白髪と黒髪のツートンカラー、顔には大きなサンマ傷、おまけにサンマ傷の左右で皮膚の色が違う、モグリの闇医者らしいいで立ちだという。顔立ちから日本人だと言われており本名は知られていないが、裏社会に生きる者に本名は必要ないどころか自分を貶めるモノでしかないので、ブラック・ジャックという通り名なのは頷ける。
そしてとても傲慢だとも聞いている。
と、〈黄昏〉が知っているのはその程度で、自分で調べたことも裏を取ったこともない相手なので、〈黄昏〉自身は実際のブラック・ジャックについて知らないと言ってもいい。そんな人の噂ほど信用ならないものはないが、シルヴィアから渡された資料を見れば、強ち間違ってもいなさそうだった。
クセの強い人物の相手は慣れているが、こちらは使い捨ての駒として動くことに慣れた人間だけ。相手は命を救うことに情熱を燃やす医師。考え方が違いすすぎる男に振り回される予感に身震いをする。ブラック・ジャックとDr.キリコを相手にするなら、Dr.キリコを相手にする方が共通点も多く、そしてキリコを知っているという点では扱いやすい。
「助手も一緒に来るそうだ」
シルヴィアがページをめくれと顎をしゃくる。
めくった先には、アーニャと同じぐらいの女の子の写真があった。
馬鹿にされているのかと思い険しい顔つきで資料から目を上げると、シルヴィアは肩をすくめて見せた。
「それがブラック・ジャックの助手だ」
シルヴィアの一言に、流石の〈黄昏〉も絶句してしまったのだった。
シルヴィア・シャーウッド書記官直通の電話を終えたキリコは、かけたくもないし覚えたくもないのだが嫌でも覚えてしまったダイヤルを回し始めた。
あのシルヴィアをやり込め契約成立の連絡をもらったのだから上上すぎる結果だ。持ちかけた件は、後はWISEがやってくれる。回しているダイヤルは、一番相手にしたくない疫病神への電話だ。
ダイヤルを回し終えると少し間があり、そして回線が繋がると、キリコは呼び出し音を数え始めた。
一コール……っと、ああ、なんで電話してるんだか
二コール……だが俺じゃなく、あの疫病神じゃないと
三……
受話器が上がった音が聞こえると、間髪おかずに口を開く。
「よお、ブラック・ジャック。あんたの腕を借りたい」
キリコは挨拶もなしに依頼を切り出すと、電話口のブラック・ジャックは明らかに不機嫌な声をあげる。
「人殺しに貸すもんなんぞないね」
「話ぐらい聞けよ。それに報酬はたんまりもらえるぜ」
報酬に興味を持ったのか、不機嫌さは変わりなさそうだが静かになった。
「聞かせろ」
「センセのとこの電話、盗聴の心配ないよな?」
「ああ、ここの所ところ盗聴されるような心配のある患者の手術はしてないし、今朝調べた時点ではバグはない」
「ならいい。面白いモン、治療できるぜ?なんならセンセの腕を奮いまくれる。報酬は、あのWISE持ち」
キリコの話に、電話越しだが食い入るように聞いていたブラック・ジャックだが、「WISE」という単語を聞いて明らかに声が陰った。
「ああ、なるほど。確かに魅力的だが……だからといえば、だからだな」
「詳しくは電話口じゃなんだ、言えないが、偽装は俺んとこのチームがやってくれる。センセが西国に行ったことも東国に行ったことも、そんな事実は出てこないさ」
電話越しにブラック・ジャックが唸っているのがよく分かる。キリコはそう言うものの、WISEの仕事を受けたと分かれば、東側陣営にも仕事に行くブラック・ジャックにも不利益なことが多い。キリコとは違い、ワンマンアーミーなブラック・ジャックを守る後ろ盾もないのだ。そこがネックだった。
「漏れることはないと断言できるが、万が一漏れることがあったらだが、そんな時は俺の依頼だったって噂を流してやるよ」
今回の依頼は、キリコの後ろ盾がにらみを利かせなければならない可能性もあるような内容なだと言うこと。ダブルブッキングやブラック・ジャックでは対応できないとなった時にキリコにと言うことで二人が呼ばれ喧嘩になることはあるが、キリコから稀にくる依頼に不足なところもなければ、むしろ自分の腕を見せることで顔が広がることを依頼してくる、イヤミな奴。今回も、万が一の可能性はあったとしても、それ以上に価値のある仕事であるからキリコは電話をかけてきたのだろう。腹を決めた。
普段から協調性のない無鉄砲な男だと言われ、自覚しているものの直す気のないブラック・ジャックだが、今回の依頼の重大さは分かっているようで、受話器越しに大きなため息が聞こえてきた。
「お前さんの顔を立てるのと、死に神の化身が俺に依頼してきたということに自尊心が満たされそうだから、引き受けよう」
「そう言ってもらえると嬉しいねぇ。交渉成立だ。詳細はセンセの家で話そう」