ResonanceResonance
音がする。それは、カルデアの魔力供給や生命維持などのシステムが立てるかすかな駆動音とも、夜勤のスタッフが立ち働く音とも違っていた。少し低めの、例えて言うなら男の声に近い音域で、しかし、人の声ではない。
クー・フーリン・オルタは身を起こした。旋律を持たない音、かき鳴らされる和音に身に纏う海獣クリードの鎧がわずかに共振している。聖杯によって生み出されたクー・フーリン・オルタに楽器を奏でた経験はない。だが彼の中にあるクー・フーリンの記憶から一番近いものを探すなら弦楽器だろう。
「誰だ?」
奏でる音には海の響きと死の音がある。しかし、カルデアにいる音楽家の英霊、アマデウスからは死の臭いはしなかった。人を人とも思わぬ男だが、あの男は生を愛している。それに、アマデウスが奏でるのならただかき鳴らすのであってももっと音楽的になるだろう。クー・フーリン・オルタの父神はイルダーナフ、戦士の武勇も狩人の技も詩人の語りも何でもできる男と名乗ったこともあった。オルタ自ら楽器を奏でようとは思わないが、多少は才を継いだのか演奏者の技量くらいは分かる。下手ではないが、音楽家ではない。深夜でもあり、演奏者は皆の眠りを妨げぬよう気を使っているのかもしれない。小さな音は、並外れた感覚を持つサーヴァントでも離れていれば聞き取れない。動物じみた感覚を保つオルタだから聞き取れた。
「どこにいる?」
そのまま無視しても良かったはずだが、共振が気になってしまう。ずっと一人で戦い、屍山血河を築いて果てる。そういうモノとして在る自分が他者を気に掛けるとは。自分の振る舞いを奇矯と思いながらもクー・フーリン・オルタは自室の扉を開けた。
消灯時間を過ぎ、魔術を応用した間接照明がところどころに灯るだけの廊下は薄暗い。夜目は利くが、見るよりも耳を澄ませて音を辿った。棘の尾が緩やかに揺れる。
「ここ、だな」
音楽室と小さなプレートには記されている。しかし、ドアに手をかけたオルタの手が止まる。この音を止めさせようと向かったはずだったのに、いざ来てみるともう少し音を聞いていてもいいような気もしてきた。
「……フン」
クー・フーリン・オルタは踵を返した。離れるにつれて、音も共振も弱くなっていく。夜通し続くかと思われたが寝台の上で丸くなったオルタがまどろむうちに音はやみ、演奏者が手を止めたことが分かった。
理由は分からない。敗れてなおも慕われ、多くの名家が貴種として自らの祖にすえた。信教を越えて九の偉人と称えられたこともあり、手にした刃は不毀と謳われた。一方で義憤にかられて他国の王妃を連れてきた弟を見捨てられずに開戦の道を選び、結局は破れて民と家族を死なせた。生き延びた者も虜囚に落としてしまった。それにも関わらず、兜輝くと未だに語り継がれている。太陽神から賜った兜を身に着けていなくても、だ。いつかはマスターにも見せられる日がくるかもしれない。ただ、今はまだその時ではなかった。
トロイアは時の彼方に消え去ったがオケアノスでもカルデアでもヘクトールは感じていた。自分が英霊として在るこの世界に、対の定めの英雄、運命の糸を断ち切る女神の鋏でも断ち切れぬ彼との宿縁を。ヘクトールは踵に触れた。自身が暴いた彼の秘密は、今では世界にあまねく知られており、そして、ヘクトールの体にも彼の名が記されている。霊基にも刻まれている。名を思うだけでも切り離したはずの感情が追いかけてくる。
「イリアスの話を聞かせて」
カルデアに来てから幾度となく言われた。生前、読みたい時にすぐ読めるよう常に写本を持ち歩いたと言われる征服王を始め、欧州の英霊達やスタッフにはイリアスを知る者も多く、時に話を求められる。英霊達は皆そうだが、人理の影法師の自分は完全なヘクトールではない。それでも、置いてきた者達への想いが溢れそうになることがある。そんな日は、決まって眠れなくなる。サーヴァントに睡眠は必要ないが、まどろむことはできる。しかし、まどろみさえも拒んでしまうのだ。魔力の消費を抑えるために身を休めるか、霊体化した方がいいと分かっているが、誰も見ていない、取り繕う必要がないがゆえにとどまってしまっている。叫びだしそうになる思いを抱えるが夜勤の者に聞かせるようなものではない。ヘクトールは足を忍ばせて音楽室へ向かった。
カルデアには、雪と氷に閉ざされて過ごす時間を少しでも楽しめるよう、娯楽のための様々な品が揃えられている。音楽室はその一つだ。最近は、アマデウスやファントムが興味深そうに現代の楽器をつま弾くこともある。英霊達の触媒も兼ねてか、古代や中世の楽器も揃えられており、ギリシャのリラなどヘクトールになじみ深い楽器もあるがあえて現代の楽器を選んだ。その形状と音域からアップライトベースと呼ばれる楽器は共鳴胴がないので増幅器を付けなければ音も小さい。働く者達の手を止めることもマスター達の眠りを妨げることもないだろう。
「サーヴァントってのは便利だねえ」
薄暗い室内だが、英霊だからか多少は夜目が利く。ヘクトールは調弦を済ませると弦をかき鳴らした。
トロイアは太陽神アポロンの都市だった。アポロンとポセイドンが築いた堅固な城壁はしかし、光に照らされて明るかった。神代の地中海世界において神々と人々の距離は現代では考えられないほど近かった。機械的な神々は、時に人を部品のように扱いもしたがその優れた演算による技は人々の助けとなった。トロイアにもアポロンはしばしば訪れた。かの神は音楽の神でもあったので、トロイアにおいて音楽や舞踊はたしなみの一つだった。ヘクトールも楽器は一通り学んでいる。とはいえ、下手ではないが特別巧みでもない。誰かに聞かせるのではなく、ただ、心を鎮めるためにかき鳴らした。和音に時折滑り出る言葉が重なる。もしパリスがいたならば子守歌だと言っただろう。アップライトベースの低い音に重なる低い歌声は扉の前でたゆたっていた。しばらく弦をかき鳴らすうちに波立つ心が凪いでいく。手を止めるとまず弦の音が消え、それから声の残響が部屋の空気に溶けていった。
「悪いね、オジサンに付き合わせて」
楽器を拭くと音楽室へ戻る。扉が少し開いていた。
「締め忘れてたかな?」
ヘクトールは小首を傾げた。
翌朝、出撃のためにゲートに向かったクー・フーリン・オルタは自身の側面がいることに気付いた。
「昨夜は何も聞こえなかったか?」
ゲイ・ボルグは同じ海獣クリードの骨から作られている。きっと共振するはずだ。だが、側面の問いに青い槍兵は首を横に振った。
「ああ。あんまり静かで寝ちまったよ」
「そうか」
オルタは鎧に手を当てた。
「どうした、バーサーカーの俺」
「海と死の音だ」
「はい?」
クー・フーリン・オルタは会話もできるとはいえ、狂化の影響で時折意思の疎通が難しくなることがある。自分の側面を青い槍兵はまじまじと見つめた。
「いったい何の話だ?」
「聞こえないならそれでいい」
鎧として纏うのと、槍として振るうのでは違うのかもしれない。
「我ながらよくわかんねえ時あるよな、お前」
クー・フーリンは肩をすくめた。
「おや、今日はお前さん達と出撃かい?」
軽やかな声に二人は顔を上げた。
「ヘクトール」
薔薇色の外套をなびかせた男は穏やかに微笑んでいる。クー・フーリン・オルタ同様、特異点で敵対した後にカルデアの召喚に応じたそうだが、かつて敵対していたことが信じがたいほどマスターの信頼も篤い。不利な状況でも国をまとめ上げ、同盟者をも集めて十年も戦い抜いた男は人当たりがよく、周囲と衝突しがちな気性の者ともそつなく付き合う。マスターの方針でクー・フーリン・オルタともしばしば組んでいた。少し前には概念礼装の写真も一緒に撮っている。
「ボクもいるんだよ」
アストルフォがヘクトールの後ろから顔を出す。
「今日は問題児のお守りかよ」
クー・フーリンがはあ、と天を仰いだ。
「あ、ひどい。泥舟に乗ったつもりでどーんとボクに任せてよ」
「それ沈むだろ。ヘクトール、任せた。シャルルマーニュ関連はそっちの担当だろ」
ヘクトールの宝具でもあるドゥリンダナはアストルフォの同僚、シャルルマーニュ十二勇士の一人ローランに受け継がれている。タタール王マンドリカルドらとのヘクトールの武具を巡る争奪戦もシャルルマーニュ伝説の一部だ。
「たまたま折れずに伝わっただけなんだけどねえ」
ヘクトールが苦笑する。アストルフォが抗議しようと口を開いたところへ孔明とマスターが現れ、会話は打ち切られた。
「そろそろ出撃だ」
「皆お待たせ、行くよ」
空色の瞳を瞬かせた少年に英霊達が手を上げて応えた。
(薔薇?イリアスに薔薇は出てきたか?)
隣に立ったヘクトールから花と死の香りをクー・フーリン・オルタは嗅ぎ取った。
その日の晩、クー・フーリン・オルタは眠らずに耳を澄ませていたが海の音が奏でられることはなく、鎧の共振も起こらないまま夜が明けた。
カルデアの外は雪と氷に閉ざされており、中は空調で温度が一定に保たれている。温室もあるが、季節の変化は暦によってもたらされる。マスターの故国、日本の流儀に倣った行事がしばしば行われた。だが、それはクー・フーリン・オルタが聴く海の演奏者にはあまり関係がないようだった。月の満ち欠けも調べてみたが関連はない。演奏者の気が向いた時に奏でられていた。扉の前に行っては耳を傾ける夜を何度か過ごす。次に聞こえた時は、演奏者の顔を確かめよう。そう思いつつ日が過ぎていった。
ヘクトールは身を起こした。纏う外套を薔薇の赤から弔いの黒に変える。置いてきた者達、死に追いやった者達への弔意というわけではないが、夜に楽器を鳴らす時は黒を選んでしまう。
「マカリテース」
幸福なる者よ。古代のギリシャでは亡き者達をそう呼んだ。ヘクトールも記憶をたどって影法師に呼びかける。愛し子を抱くように楽器を抱きかかえ、調弦を澄ませると弦をかき鳴らす。捧げるのであればリラにする。細長い楽器はただ自身の想いを表すために弾いた。
ここに海はない。それでも奏でられる音色に海獣の鎧は共振する。クー・フーリン・オルタは身を起こした。
「鳴ったな」
今日こそ演奏者を確かめよう。クー・フーリン・オルタは音楽室へ向かった。彼の知らない楽器と和音に耳を傾けるうちに、クリードの共振が強くなった。演奏を妨げぬよう、そっと扉を開けると楽器と共に低い声が聞こえた。これまでは厚い扉に塞がれて声までは聞こえなかった。海で歌うセイレンは美しい女性であると伝えられるがオルタを惹きつけた演奏に重なっていたのは男の声だ。暗い部屋の中、暗い色を纏い、低い声で歌いながら細長い楽器を奏でている。
(誰だ?)
見定める前に薔薇と月桂樹に似た清しい匂いとかすかに混じる死を嗅ぎ取る。それで分かった。見慣れぬ黒を纏っていたため見定めるのにいささか時間がかかったが、分かってしまえば簡単だった。
「ヘクトール」
呼ぶつもりはなかった。演奏者を確かめたら帰ろうと思っていたのにオルタの唇から名前が滑り出た。
「……悪い、起こしちまったか」
ヘクトールが手を止めた。
長い指が入り口を指し示す。クー・フーリン・オルタは部屋に滑り込むと扉を閉めた。だが、指はまだ降ろされない。戦闘時は籠手に覆われている手は日に焼けてないため、夜目でもわかるほど白い。ヘクトールの手が何かを押すように動いた。
「灯り」
「ああ」
急に明るくなった室内で暗がりに慣れた目を互いに瞬かせる。明るさに慣れてきたオルタは改めてヘクトールと彼の手にした楽器を眺めた。細長い胴は木を模しているが良く見ると違う。張られた弦も金属でできていて、神代の英霊が奏でるには意外に感じられた。
「現代の楽器か」
オルタの聴いた海の音は旧きものを感じさせた。それは、ヘクトールが生きた時代ゆえだろう。
「そう、アップライトベースって言ってね。本当は音を増幅させる機械をつけて使う」
ヘクトールは楽器を傾けて見せた。不自然な穴は機械をつなぐ管を付けるためのものだという。
「コイツだけだと音は小さいから誰にも聞こえないと思ったんだがなあ」
音楽室には防音措置も施されている。
「俺以外は誰も聞いていない」
オルタが答えた。
「海の音がした」
「ああ。トロイアにも港はあったよ。黒い軍船が何隻も来た」
パリスは船でヘレネーを連れてきた。彼女を取り戻すべく、盟約に従ってアカイアの英雄達は船団を率いてやってきた。船体の保護などのためタールが塗られた船は黒く、破壊と死をもたらすように思われたものだった。トロイア自体も海神に縁がある。ヘクトールが生まれるずっと前、トロイアの城壁を築く際にアポロンと海神ポセイドンが力を貸したといわれている。また、神々の酌人として王子ガニメデを召し上げた際に償いの品としてトロイア王家には名馬が贈られた。馬はポセイドンと縁が深く、アテネの所有権を争った際や、義妹テティスの結婚祝いにもポセイドンは馬を贈っている。さらに、これはヘクトールも英霊になってから知ったがだがトロイアが落ち、アカイアの英雄達が去ったのちにアポロンとポセイドンがトロイアに洪水を起こしたと記した書物もあった。
ヘクトールが詫びた。
「うるさかったかな。悪いね」
「海の音だけなら問題ない」
オルタは唸った。
「だけ?」
ヘクトールが小首を傾げた。ブルネットとそれを束ねる帝王紫の髪紐が揺れる。クー・フーリン・オルタは知らなかったが、彼を彩る紫もまた海の貝から作られる。
「俺達サーヴァントの多くは何かを殺してきた」
「お前さんの言う通りだ。オジサンの手も綺麗とは言えないね」
アキレウスの親友を始め、多くの英雄を斬った。兵士たちを死に追いやった。全てのサーヴァントではないが、英霊達の多くには死がまつわりついている。
「テメエの音からは海と死の音がする。ざわつくんだよ、コイツがな」
クー・フーリン・オルタは鎧に手を触れた。
「鳴らせ」
「は?」
「ソイツをもっかい鳴らせ」
ヘクトールが楽器を抱え直した。弦をかき鳴らすとオルタの鎧が共振する。すぐそばにいるからか揺れは大きく、ことに背に広がる棘、反転していても光の御子なのだと思わせる光輪に似た棘は大きく振れた。
「驚いた」
ヘクトールは目を丸くした。
「匂ってもくる」
「匂い?」
ヘクトールが自らの腕に顔を近づけた。
「薔薇と月桂樹に似ている神の加護と、死の匂いだ。他の者には分からんだろう」
太陽神の血を引き、番犬の名を持ち、人と言うより原初の者に近く、精霊に呼びかけることのできるクー・フーリン・オルタだからこそ嗅ぎ取れたもの。また、ヘクトールは呪いと言っていいほど神々に愛された者を輩出したトロイアの王族に生まれ、太陽神からは兜を、美神アプロディーテからは婚礼祝いを贈られ、生ある間に留まらず死後も亡骸を守られるほど加護を受けた。薔薇は美神の、月桂樹はアポロンの聖木だ。さらにケルトの聖木サンザシも薔薇の仲間であり、夏至にサンザシの下にいると妖精にさらわれると現代になっても言い伝えられている。絡み合う逸話がカルデアにおいて二人を近づける。
クー・フーリン・オルタは一歩踏み出した。
「貸せ」
「弾けるのかい?」
楽器を受け取るとオルタは爪で弦を弾いた。奏法の違いとオルタの性格が出たのかヘクトールよりも尖った音がする。しかし、弦が震えるわずかな振動はあっても海獣の鎧は沈黙したままだった。
「そうか」
楽器に意味があるのではなく、ヘクトールが奏でるからこそ共振が起こったのかもしれない。オルタは楽器を返した。
「もういい」
ヘクトールの瞳を覗き込む。髪同様暗い色と思えた瞳が黄みの強いオリーブグリーンをしていることに気付く。実際に見たことはないはずなのに原風景となっているヒースを思い出した。肥沃な大地の髪、過酷な地でも茂る緑の瞳。不敵な笑みを浮かべる男は命の色を纏っているのに、十年も戦い抜いた逸話があるのに何故彼が奏でる音には死が潜んでいるのか。花の香りに死が混じるのか。改めて興味がわいた。
ヘクトールもオルタを上目遣いに見上げる。元々クー・フーリン・オルタの方が少し背は高い上、ヘクトールは猫背がちだ。ランサーやキャスター、他のクー・フーリンよりひときわ暗い赤は冥府の柘榴を連想させる。冥府への道行きに咲くアスフォデルは不凋花と呼ばれるが、今一つのしおれぬ花の守りを得ていた青年をヘクトールは思い出した。
「クー・フーリン・オルタ。お前さん……いや、何でもない」
ヘクトールは緩やかにかぶりを振った。アキレウスを思い出したとは言えなかった。友を亡くし仇を討って道を見失い、狂気に染まってヘクトールの亡骸を引き回した青年もまた半神の夭逝の英雄だった。クー・フーリン・オルタもバーサーカーだ。
棘の尾がヘクトールを叩こうとして、止まる。このままでは楽器に当たってしまう。気づいたヘクトールがふわりと笑んだ。
「案外優しいよなお前さん」
「優しい?俺が?」
棘の尾が床を叩いた。オルタの苛立ちを感じ取ったヘクトールが楽器を軽く掲げる。
「コイツを傷つけまいとしてくれたんだろう」
「楽器など壊してもつまらん」
目の前の男の方がよほど戦いがいがある。普段は日向で丸くなる猫のようだが、戦場で薔薇色の外套と光の輪を浮かべるブルネットをなびかせて槍を振るう姿は、兜輝くの美称もなるほどと思わせる。今もクー・フーリン・オルタがケルトで狂王と呼ばれていたことを知りながらも臆することなく見返してくる。ヘクトールは、強い。
「そういうことにしておくよ」
ヘクトールが楽器を撫でると弦が鳴った。海獣の鎧がまた共振する。
「あ、悪い。そうだったな、お前さん寝てたんだろうに邪魔しちまって」
「俺達はサーヴァントだ。眠りは必要ではない」
「そうだけど」
ヘクトールが鳴らさぬよう慎重に楽器を抱え直した。
「どこへ行く」
「コイツを片付けようと思ってね。お前さんもその方が静かだろう?」
「止めるならとうにしている」
夜の演奏はこれが初めてではない。鎧の共振を頼りに扉の前まで何度も足を運んだ。
「もっとも俺はやり方を二つしか知らん」
ケルトの妖婦、女王メイヴが聖杯に願ったことにより顕れた理想の王で男であるオルタが知るのは二つ。壊すことと抱くことだ。
「一つは壊すこと」
「もう一つは?」
「……テメェがもっと厳つい熊みたいな見た目なら良かったんだがな」
抱けるか抱けないかといえば、抱ける気がする。オジサンと自称するが髭は申し訳程度でしかなく、十分に若々しい童顔はむしろ男にしては可愛らしい部類に入る。詩人が美しい肌と語り継いだように肌も滑らかで触り心地も良さそうだ。花に似た香りがまたオルタの鼻孔をくすぐる。死の気配を漂わせる男に、影法師とはいえ生ある者ならではの行為を仕掛ける。オルタは自らの発想に戸惑った。
(何を考えている)
ヘクトールは愛でるような花ではない。決して壊れぬ刃、人理を守る不毀の守護者だ。クー・フーリン・オルタは頭を振って惑いを振り払った。フードが落ち、藍色の髪をまとめる青銅が照明の下で鈍い金色の光を放った。
オルタの困惑に気付いていないのか、少年愛の風習があった古代ギリシャの出ゆえ察した上であえて話題を変えようとしているのか。ヘクトールは不意に右手の籠手を実体化させた。瞳が鋭い光を帯びる。
「そう言われてもねえ。まあ、簡単に倒される気はないけど」
「本気の殺し合いになるだろうな。お前と戦うのは面白そうだ」
「ソイツはちょっと困るねえ。オジサンの周りはそういう奴ばっかりだ」
籠手を消して武装を解く。へらりと笑みを張り付けた男はいつものヘクトールだった。漂う死の気配が少し薄らいでいる。
「さて、オジサンコイツを片付けてもう寝るわ。おやすみ」
歩き出したヘクトールが扉の前で振り返った。
「そうそう、灯り消しといてくれよな」
「……承知」
誰もいなくなった部屋で、クー・フーリン・オルタはしばし立ち尽くした。
翌日、出撃のために現れたヘクトールは弔いの黒ではなく、いつも通り巡る季節の薔薇色の外套に身を包んでいた。
「おはよう、クー・フーリン・オルタ。お、今日はキャスターの方も一緒か」
「おう、よろしく頼むぜヘクトール」
青い髪のドルイドがオルタの後ろから手を上げて挨拶する。二人の会話を聞きながらオルタは海獣の鎧に手を当てた。
数か月が経った。あれから海の音が奏でられることはなく、共振も起こらなかった。マスターの方針でヘクトールとクー・フーリン・オルタは時折一緒に組んで出撃したし、二人とも煙草を吸うので喫煙室で顔を合わせることもあった。そのたびにオルタはヘクトールの様子を伺ったが、特に変わったところはなかった。ただ、花の香りに混じる死の匂いが消えることはなかった。
熾天の盾の英雄も、木馬を仕掛けた知将も、そして最速の英雄、駿足のアキレウスも未だ召喚に応じる気配はない。しかし、美貌を称えられたことを屈辱に思い、雪辱を誓うアマゾネスの女王はカルデアに現れた。
「女王様のお守りも大変っすね」
喫煙室にやってきたヘクトールにロビンが声をかける。普段は冷静で鍛錬にいそしむ少女王はアキレウスの名を聞いたり、美しいと聞くと激昂して狂いに身を任せる。ヘクトールはそのたびに止めに入るのだが、皮肉なことにアキレウスとの宿縁が影響して標的にされる。我に返ったペンテシレイアの謝罪を聞きながら仕切り直しで体内の時間を戻して傷を消すヘクトールをカルデアの者なら一度は見たことがあった。
「頼むからいらんこと言わないでくれよ」
「善処はしてみまさあ」
はあ、とため息をつくヘクトールの死の匂いが強くなったような気がして、クー・フーリン・オルタは鼻をひくつかせた。
トロイア戦争の者が現れたことで、ヘクトールの中にある宿縁の糸が太くなった気がする。夜になっても気が休まらずヘクトールは身を起こした。音楽室に向かったが、扉の前で踵を返す。ヘクトールが奏でた楽の音は、クー・フーリン・オルタの纏う海獣の鎧を共振させた。ヘクトールの気は紛れるかもしれないが、クー・フーリン・オルタを起こしてしまうだろう。演奏はできない。壁で身を支えながら歩き、部屋に戻った。
「眠れ、眠れ」
わが身を抱きしめ腕に爪を立てる。切り離したはずの感情に追い立てられたヘクトールの口からこぼれる言葉は、やがて子守歌に変わっていく。もう、寝かしつける弟妹も息子もいないのに。眠らせたいのは波立つ心。
「眠れ、眠れ」
眠れないのに眠れと歌う自身の声を聞くヘクトールの耳朶をインターフォンの呼び出し音が打った。
「こんな時間に……クー・フーリン・オルタ?」
扉の前に立つ狂王をヘクトールは驚きつつも迎え入れた。
ここしばらく絶えていた共振がまた起こっている。しかし、弦の音は聞こえない。それでもクー・フーリン・オルタは音楽室に向かった。
「空振りか」
閉ざされた部屋には誰もおらず、ヘクトールがアップライトベースと呼んでいた楽器は他の楽器同様、奏でてくれる者を待ちながら佇んでいる。直感に導かれてオルタは楽器を手に取った。共振を頼りに歩き出す。
「ここ、だな」
一番振動の強い部屋の前でクー・フーリン・オルタは足を止めた。オルタの剛力をもってすれば扉を壊すこともできるが、マスターやヘクトールに迷惑がかかる。自身の変化に気付いたオルタは小さく鼻を鳴らした。
「フン」
深夜ではあるがきっと彼は起きている。確信しながらオルタはインターフォンの呼び出しボタンを押した。
「オルタ、どうした?」
首を傾げるヘクトールにクー・フーリン・オルタは細長い楽器を突き出した。
「必要だろうと思って持ってきた」
アップライトベースは、奏でられるのを静かに待っていた。
「ありがとう。だけど」
奏でれば共振が起きる。それはオルタを煩わせてしまうのではないか。知ってしまうと思いを音に変えることはできなくなった。押さえつけていたものが、唇からこぼれてしまっても。
「ソイツは増幅するだけだ。ヘクトール、海と死の音はお前が出している」
「え?」
「お前は海に殺された。そうだな?」
ヘクトールはアキレウスとの一騎打ちに敗れて命を落とした。アキレウスの母、銀の足のテティスは海翁ネレウスの娘たち、海底の女神姉妹ネレイデスの一柱だ。そして、彼の亡骸を引き回した戦車を引く馬の内二頭は海神ポセイドンより贈られた神馬であり、ヘクトール亡き後のトロイアは海神と太陽神の洪水に呑まれている。
「当たらずとも遠からじってところだね。アイツは海の女神の息子で、加護を受けていた。マスターの国じゃ両雄並び立たずって言うのかねえ。二度と戦いたくないってお互い思っているだろうけど、出会っちまったらきっと殺しあいになるだろうね」
微笑んでいるがヘクトールの目は笑っていない。クー・フーリン・オルタは彼のおとがいを掴んで持ち上げた。黄みの強いオリーブグリーンと柘榴の赤が絡み合う。
アルスターの光の御子は戦場で狂乱する。駿足の英雄も十二の試練の英雄も、身を喰らうような狂気に染まったことがある。勝利の女王は復讐者の面を秘めている。しかし、トロイアの守護者ヘクトールは破れてなおも称えられ、不毀の刃の使い手とも伝えられた。諦めずに国を守り抜き、家族を愛した貞潔な王子として信教の違いにも関わらず九の偉人に数えられる。遠く遥かフランクのシャルルマーニュら名家の祖にも据えられた。ノーブル・ファンタズムが幾重にも重なって狂うことも復讐に身を焦がすことも叶わない。切り離したはずの感情に追いたてられた彼が手に取ったのは神代ではなく現代の楽器だった。あふれる思いを、どうしようもない敵意や殺意を紛らわすために奏でられた音は海と死の響きをもって、クリードの骸から作られた鎧を共振させた。死と破壊の狂王で半神のクー・フーリン・オルタの耳に届いた。一度知覚すると、音を広げる楽器がなくとも、声だけでも共振は起きた。
クー・フーリン・オルタは口の端を引き上げた。
「弾きたければ弾けばいい」
「お前さんが困らないか?」
ためらうヘクトールにオルタは尋ねた。
「俺がお前を止めたことがあったか?」
ヘクトールがハッとなった。
「そういえばないな」
「弾きたければ弾け。聞き手が欲しいなら俺がいる」
「誰かに聞いて欲しい訳じゃあないけど」
ヘクトールは手早く調弦を済ませると、クー・フーリン・オルタに椅子をすすめた。自身は楽器を抱えてベッドに座る。
「お前さんが聞きたいのなら構わない。飽きたら帰ってもいい」
薔薇色の外套を弔いの黒に変えるとヘクトールはアップライトベースを奏で始めた。低い和音に小さな歌声が重なる。
「続けろ」
オルタはヘクトールの側に座ると棘の尾を巻き付ける。目を閉じた彼は鎧の共振と海の音を静かに感じていた。
理解はできない。共感とも違う。だが、隣にいることはできる。その日以降も、時折奏でられる海の音と共振にクー・フーリン・オルタは聞き入った。ヘクトールの部屋を訪れることもあれば、自室で静かに聞くこともあった。