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    スパンコールとバラ色の日々Day1-15Day16-30 + more!Day1-15

    Day1- Holding hands

     我がガラルのパパラッチは、ちょっとタチが悪いのが多い。ポケモンバトルがショービジネスとして成立していて、他の地方とジムリーダーの立ち位置がちょっと違うというのも作用している気がするけど、あいつらはわらわら湧いて出てオレたちの生活に忍び寄る。特にオレさまなんかは恰好の餌食にされていて、最早常連だと言える。そんなもんの常連にはなりたかなかったが。あわや訴訟、というところまで持っていったこともある。
     しかし同じく成人男性で、音楽業界という華やかな世界に身を置いているはずのネズは、どう考えてもオレよりもパパラッチのお世話になることが少なかった。いやそりゃオレに隙がありすぎるのかもしれないけど、隙があろうがなかろうが滑り込んでくるのが奴らだ。なんせ一マイル離れたところから望遠レンズで撮ってくるんだぜ。わかるかよそんなの。
     常日頃思っていた疑問をネズにぶつけると、ネズは「おまえほど素行が悪くないので」としれっと答えた。
     ナックルシティの石畳を鳴らして、オレたちは歩いている。手には細々した買い物の袋。ドラッグストア寄って、オレの家に帰るところだ。にべもない回答に、オレは口をひん曲げた。
    「ひっでえ、そんなに悪くねえし、素行」
    「まあ確かにお前のネタ、別におもしろくもなかったですよね。気の抜けた服で女と朝の散歩してたとかゴミ出しのネットのかけ方が甘かったとか、そんなんばっかりで」
     こいつ意外にゴシップ誌読んでやがる。かつての諸々を思い出して苦い気持ちになったが、こうやって本題から話を逸らそうとするのがコイツのやり口なのはよくわかってる。オレは無理矢理話を元に戻す。
    「いやそれは置いといてさ、やっぱ少なくね? オマエのネタ。なんか納得いかねえ」
    「……まあ、耳がいいからね、おれは」
    「耳?」
     そういうとネズはいきなり後ろの誰もいない方を向いて、べろりと舌を出した。突然の奇行に度肝を抜かれる。オレの方を向いて、ネズは真顔で後方を指さした。
    「気付いてなかったでしょ? いますよ、ちょっと遠いけど」
    「え、嘘、マジで? 全然わかんねえ、どこ?」
     あっち、と指すネズの指の先を見ようと目を眇めたが、全くわからない。視力は悪い方ではないのだが。首を捻るオレを見て、ネズは肩を竦めた。
    「ってなわけで、大体見られてるときはわかっちまうんですよね。便利でしょ」
    「……なんつーかそれ、もはや『耳が良い』の域超えてない? シックス・センスに近いんじゃねえの」
     しかし本当に、オレの目にはパパラッチの姿は全く見えない。ただしんとしたナックルの裏通りがあるだけだ。執拗くきょろきょろと辺りを見回すオレの手を、ネズが不意に掴んだ。目を見開くオレをものともせず、そのままネズの指が絡む。いわゆる恋人繋ぎってやつになった手を目の高さにまで上げて、ネズは涼しい顔で微笑んだ。
    「ほんとかどうか、こうすりゃ明日にはわかるんじゃないですか」
    「……力技すぎない?」
    「手っ取り早いでしょ」
     そう言うや、ネズは繋いだ手はそのままにゆっくりと歩き出した。背後に向かってもう片方の手で裏ピースを決めるのも忘れない。なんだか無闇に楽しくなってきてしまって、オレは握り締めた手もそのままに走り出した。おい、と後ろから不満げな声がしたけど、気にしない。あはは、と思わず大きな笑い声をこぼしたら、後ろのネズもつられてケラケラと笑った。
     翌日案の定出た写真は、まあパパラッチにしては上々の出来だったと言っておいてやろう。



    Day2- Cuddling somewhere

     快適とは言えない空の旅が終わりを告げた。ネズは大きく溜め息をひとつ吐く。
     イッシュでの二週間に及ぶ初ツアーだった。無事に行程を全て終え、スタッフたちを先に帰らせ、現地の音楽会社やら何やらとの打ち上げ及び打ち合わせなど諸々に単身取り組んでの帰路である。仕事自体には手応えがあった。ツアーは満員御礼。次のライブにも先方は乗り気で、ぜひ近いうちに、とこれ以上ないほどの歓待を受けた。大成功のうちに収まったと言えるだろう。だがそれに反してネズが今疲労のただ中にいる理由はただ一つ。彼は飛行機の旅があまり得意ではなかったのだ。
     手配されたのはビジネスクラスの座席で、ネズは大いに萎縮した。やたらと丁重に扱われるのも気が引けたし、周りの人間のそう扱われて当然といった様子もやけに気に障った。こんな時に限って、ホテルに耳栓を忘れてきてしまっており、ネズは己の耳の良さを恨みながらまんじりともせず座席にしがみつくしかなかった。悪いことは重なるもので、乱気流に捕まってしまい飛行機の機体は大いに揺れた。とても生きた心地がせず、七時間に及ぶフライトのあいだじゅう、リラックスできた瞬間は皆無に等しかった。ガラルの街の灯りが翼の下に見えたときは、安心からうっかり涙が滲んでしまいそうになったほどだった。
     小さな、だがずっしりと重いボストンバッグをほとんど背負うようにして空港に降り立つ。人を避けるべく深夜便を手配したため、空港の人出はまばらだった。ひっそりとして薄暗く、だだっ広い。磨かれた灰色の床がつめたく光る。だがそれでもじっとりと呼吸をするように至る所が蠢いている。入国手続をつつがなく終え、何度目かわからぬ溜息を吐きながら常よりもさらにのろのろと歩みを進める。身体に充満する疲れと眠気を抱えて、アーマーガアタクシーを呼び出すべくスマートフォンを取り出したが、電源を切ったままにしていたのをすっかり忘れていた。数年間無精で機種変更もしないままの旧式のスマートフォンは、一度電源を落としてしまうと復活までに結構な時間がかかってしまう。諦めてポケットのなかに仕舞い込み、ゆっくりと到着ゲートにまで向かった。他の乗客は、みな足早にそこを過ぎ去ってしまったらしい。見渡しても周囲にはほとんど人はいなかった。まるで世界にほとんど人がいなくなってしまったかのようだった。
     靴の爪先ばかり見て歩いていたので、目の前に自動ドアが現れて初めて、ネズは顔を上げた。静かな機械音と共に自動ドアが開く。その向こう、目に飛び込んできたのは、ぽつんとひとり佇む、やたら背の高い青年の姿だった。彼は、ネズの姿をまっすぐその目に捉えて、笑った。
    「おかえり」
     数瞬、息をするのを忘れた。今日この便で帰ることは、彼には知らせていなかったのだ。深夜になることもあったし、気を遣わせたくなかったから。どこから聞きつけたのだろう。もしかしたら気を利かせてスタッフの誰かしらが伝えたのかもしれなかった。しかしネズを驚かせたのは、彼がそこにいることより何より、彼の姿が目に入った瞬間自身の胸のうちに溢れてきた喜びの大きさのほうだった。
     到着ゲートの柵を回ってふらふらと近付けば、キバナは驚きで力が入っているネズの肩に手をかけ、ボストンバッグをそっと外して床に置いた。
    「……なんで、いるんですか」
    「そりゃ、はやく会いたかったから」
     こともなげにそう言って、キバナはそのままネズを抱き寄せた。しっかりと抱き締められる。あたたかかった。ぽんぽんと背中をやさしく叩かれて、ネズは息を深く吐き出した。キバナの声が、温度が、匂いがネズの痩身を包む。身の芯に染み込んでいくように、ネズを満たす。
    「おつかれさま」
    「……疲れました」
    「はは、素直。めずらし」
     よっぽど疲れたんだなあ、とキバナは小さな声でネズの耳元に囁いた。そうだ、ものすごく疲れた。乱気流とか、やたら柔らかくて掴みどころのないシートとか、ノイズみたいな他人の囁きとか。キバナの背に手を回すと、抱き締める腕の力がより強くなった。心地よい圧迫感に目を細める。
    「ただいま……」
     そう呟くと、キバナは喉の奥で笑った。
    「帰ろうぜ」
     こくりと頷く。ものすごく疲れた。おまえに会って、より一層それを実感した。だから、はやく帰って、抱きあってそのまま溶けるように眠りたい。常よりも弱気になっている心をそのままキバナに預けて、ネズはそっと彼の胸に顔を埋めた。



    Day3- Watching a movie

     最近忙しそうにあちこちに出かけているなと思ったら、デカめの仕事が入ったのだそうだ。なんと、映画への楽曲提供および音楽担当である。
     監督はと訊けば、オレでも知ってるような名前だった。ビッグバジェット系とアート系のちょうど狭間くらいの作風で、根強い愛好家が存在する監督だ。なんでも前々からネズのファンで、念願のオファーだったのだとか。「そういうのはやったことがないから」と躊躇うネズに、監督自ら直々に電話してきたらしい。熱烈だ。そういうことをされるとネズは弱い。まんまと引き受けてしまったというわけだ。
     どんな映画なのかといえば、それがなんとゾンビ映画なのだという。監督曰く「ゾンビ・ロマンティック・コメディ」なのだとか。聞いた時は思わず笑ってしまった。なんだそれ。普段は人々の悲喜こもごもをじっくり描いた映画を撮っているような人なのだが、新境地の開拓だろうか。ネズはしきりに首を捻っていた。
    「予習でもするかと思って過去作を全部見たんですが、対策があまり当てにならなさそうですね」
    「いつの間にそんな楽しそうなことしてたんだよ、オレさまも一緒に見たかった」
    「仕事ですよ?」
    「仕事とデート、一気にできてお得じゃん」
     おまえね、人の気も知らねえで、とネズは渋面を作った。しかしその後にぽりぽりと頬を掻いて、床に無造作に放り出されていたバッグをごそごそと漁る。
    「……じゃあ、見ますか」
     そう言ってネズが取り出したのは、どうやらレンタルショップで片っ端から集めてきたと思しき古今東西のゾンビ映画だった。思わず、げえ、と声が出る。
    「ええ、そっちも研究すんのぉ?」
    「やるからには全力です。おれ、あんまりこういうジャンル映画には詳しくないからね」
    「オレも詳しくないけど……うう、ゾンビかぁ。グロいのあんまり得意じゃないんだよなあ」
    「一緒に見たいって言ったのおまえでしょ」
     そう言うやオレの腕をぐいぐい引いて、ソファに無理矢理座らせる。DVDプレイヤーの前にしゃがみ込んでディスクをセットしたネズは、やたら柔らかい座面に沈み込んだオレの太腿の上に無造作に細い脚を投げ出して、隣に座った。こういうときばっかりスキンシップが増える。オレが乗り気じゃないときばっかり。ほんとにあまのじゃくだ。
     名前も知らなかったような数本の映画の宣伝が終わって、始まったのは十五年ぐらい前のゾンビコメディだった。これはオレでもタイトルは知ってた。今や主演俳優は大活躍のスターになってるはずだ。あんまり冴えない男と、その家に同居してるカビゴンみたいな幼馴染の男がパニックに巻き込まれるみたいな筋書きで、テンポも小気味よかった。だがまあ、ゾンビ映画なのだから当然しっかりグロテスクなシーンもあって、首が文字通り飛んだり胴体から鋭利な棒が突き出たりするそのたびに、オレは「うおぉ」だの「うえぇ」だの情けない唸り声を上げて体を捩るしかなかった。なんせネズの脚がしっかりオレを押さえつけているのだ。ネズはぐふぐふとグレッグルみたいな篭もった笑い声を立てた。ここぞとばかりにおもしろがりやがって。
     映画も中盤になってくると、出てきた登場人物がどんどんゾンビ化していったりする。なるほどこれがゾンビ映画の肝なのか、と思った。親しい人間が変わっていってしまう極限状況で何ができるかってことなのかな、とぼんやり考えながら、ちらりと横のネズを窺った。テレビの画面をじっと見つめている。白い顔に、画面の光がちかちかと映っている。もしこういう状況になったらネズならどうするかな、と想像した。他愛もない想像だ。でもなんとなく、ネズは顔見知りのことは殺せなさそうだ。なんとかして殺さずに済む方法を模索するに違いない。がんばるんだろうなあ、とそんな状況にはなりそうもないのにしんみりしてしまった。でもそういう、「殺せない」ってなっちゃう奴って、大体終盤くらいで死んじゃうんだよな多分。嫌だなあ。死んでほしくないなあ。いろいろ考えていたらすっかりオレの頭にはネズ主演のゾンビ映画の筋書きが出来上がってしまった。思わずネズに語りかけてしまう。
    「あのさあ、もしオレがゾンビになっちゃったらさあ……一撃で仕留めてね……オマエは生き伸びろ……」
    「……何言ってるんです?」
     呆れた顔でネズは口をひん曲げた。いやなんかたまんなくなっちゃって、と言うと、ネズはオレの太腿の上で脚を組み替えた。爪先をひくひくと動かす。
    「やですよ。殺さないよ。鎖に繋いでガレージで飼ってやるから安心なさい」
     今度はオレが呆れる番だった。
    「なんかそれ、一撃で仕留めるよりさらに……こう……倒錯してないか?」
    「ハートフルでしょ。ゾンビ・ロマンティック・コメディにしてやりますよ」
     ううん、とオレは頭を捻った。ロマンティックなのか? コメディではあるだろうけど。ブラックな。ネズは唇の端だけで笑って、前髪を掻き上げた。
    「うん、なんかちょっと今、いいリフが浮かんできましたね」
    「鎖に繋がれたオレで?」
    「鎖に繋がれたおまえで」
     ご協力どうも、と言ってネズは立ち上がった。浮かんだリフが消えないうちにメモをしに行くんだろう。映画に使っちゃうんだろうか。ちょっと複雑な気分だ。画面の中では相変わらずゾンビと人間が大騒ぎを繰り広げている。上機嫌なネズの鼻歌がバックグラウンドミュージックのように聞こえてくる。鎖に繋がれたゾンビのオレがネズに引かれて近所を散歩する様を想像すると、それは思ったほど悪いアポカリプスじゃなさそうだった。



    Day4- On a date

     ガラルの飲食店は軒並み屋内禁煙である。数年前に法律が改正されたのである。レストランだろうがパブだろうが喫茶店だろうが、例外はない。ただ屋外は規制に含まれない。愛煙家は自然、テラス席や入口付近の灰皿にわらわらと集まる。
     ネズはヘビースモーカーとまではいかないが、そこそこ頻繁に煙草を嗜んでいる。対してキバナは非喫煙者だ。ネズはそれを気遣ってなのかなんなのか、いつもするりと逃げ出すようにして煙草を吸いに行く。互いの自宅にいる時も必ずベランダに出て吸う。「マリィと暮らしてますから、癖になってるだけですよ」と彼は言うが、それだけではないことが最近ようやくキバナにはわかった。彼がキバナといる時に煙草を吸いに行くのは、居た堪れなくなったタイミングなのだ。
     ふたりが関係を進め、体さえ重ねるようになってからもうしばらく経つというのに、ネズは未だにこの状況に慣れないようだった。たまにふと、「なんでこんなことになっているんだろう」といったような表情をする。どれだけ彼がキバナにとって魅力的であるかと滔々と伝えようと、彼は眉を顰め首を傾げるばかりだった。そして時折、こうやってひとりで煙草を吸いに行く。
     キバナは残り少なくなったティーカップの中身をゆらゆらと揺らしながら、つい今しがたネズの向かった入口の方を見遣った。喫茶店のウィンドウのガラス越しに、ネズの後ろ姿が見える。高く結った白黒の髪の束を重そうにもたげ、俯きがちに白煙を吐き出している。丸まった背は、常よりもきついカーブを描いているように見えた。
     今回のトリガーは、多分、キバナがあんまりにも彼を見つめすぎたからだ。それしかキバナには思いつかない。久々に外出しての「デート」だと浮かれていたので、ネズのキャパシティを超える愛情表現をぶつけてしまったのだろう。テーブルの上に置かれていた手を取ろうとした瞬間、ネズは小さな声で「……ちょっと」とだけ口走って席を立った。もうこの流れも幾度目かなので慣れてきてしまったが、初めてやられた時は面食らったものだ。ずんずんと入口に向かっていくから、自分を置いて帰ってしまうのかと冷汗をかいた。慌てて追いかけたら、煙草に火を点けようとしていたネズは必要以上に狼狽してそれを取り落とし、危うく前髪を焦がしそうになった。以来、彼がクールダウンするためのその時間を邪魔したことはない。
     そろそろ慣れてほしいと思わなくもないが、仕方がない。それに、一周回ってキバナにはネズのその挙動がどうも可愛らしく思えてきてしまった。見た者が十中八九怯むであろう仏頂面で煙草を吸いに行く癖に、その理由が「恋人に見つめられすぎて居た堪れなくなったから」だなど、キバナ以外の誰にわかるであろう。ネズの感情の出力がどうも他人とズレがちであるところは、キバナの興味を掻き立てて余りある。他よりも成長の速度が緩やかなドラゴンタイプのポケモンを愛するキバナは、人間関係においてもなかなかに我慢強かった。いっそ観察日記でも書いてやろうかと本気で考えているほどだ。
     ガラス越しのネズが、灰皿に吸殻を押しつけるのが見えた。少し躊躇うようにドアの前で逡巡したあと、扉を押し開け、のろのろと店内に戻ってくる。相変わらず眉間にはくっきりと皺が刻まれていた。
    「おかえり」
     座席へと近づいてきたネズにそう声をかけると、ネズは「お待たせして」とやや気まずげな小声を発した。ふわりと残り香が漂う。んーん、と首を振ってキバナは応えた。
     きっちり煙草一本分の時間、それが今のネズに必要な時間である。ひとりになるための時間。必要なくなるまで、果たしてどれくらいかかるだろうか。ともかく、じっくりやっていくに限る。にやにやと笑えば、ネズは怪訝な表情を浮かべてチョーカーのトップを弄った。



    Day5- Kissing

     この男の「温厚さ」は、後天的に努力して手に入れたものだ、少なくともネズはそう思っている。些か大きく育ち過ぎた体躯から否応なしに放たれる威圧感を誤魔化すために、彼は柔和な空気を身に纏う。それはいかにも熟れ、あたかも生得的な、天与の資質ですよと控えめに主張するかのごとく、彼の輪郭に沿って漂う。人当たりよく、心地よく。身のこなしや語り口、僅かな表情に至るまで、よくもまあここまで完璧に振る舞えるものだと感心してしまうほど、彼の擬態は周到だ。
     だが皮一枚剥いでしまえば、その下には獣のごとき獰猛な一面が、確かに息づいている。いや獣でなく、竜に擬らえるべきだろうか。多くは試合中にしか見せぬそれをパフォーマンスだと云う者も少なからず存在するが、どこを見ているのかと言ってやりたくなる。決して言ってはやらないが。勘違いしたまま精々囀っていろとすら思う。そういう時ネズの胸に満ちるのは、不理解を詰る気持ちとほんの少しの優越感である。
     他人を害さぬよう丁寧に幾重にも塗り重ねられた穏やかな顔、それも無論彼自身には相違ないとも思っている。二面性がどうだだの、一部の人間が好んで口さがなく言い立てるだろうような言葉を思い描いたこともない。あの「温厚さ」は紛れもなく彼の弛まぬ努力によって培われたものであり、それである故に好ましい。だがネズには、それにみしみしと皹が入り、慎重に隠していた竜の顎が垣間見える瞬間が、たまらなかった。彼が望んで会得し、もはやもうひとつの皮膚のようにぴったりと貼りついた習性をかなぐり捨て、繕うことなど出来ぬまま、剥き出しの感情をぶつけてくる。他ならぬネズ自身の所為によって。それを肌で一等実感できるのが今だ。彼の腕の中に絡め取られ、唇を奪われている、この瞬間。
     常ならば快活な笑みを携える口許が、がばりと大きく開く。喉の奥へと続く暗闇は底無しだ。闇の入り口には、白くぬらりと艷めく牙がある。まるで捕食だ。下拵えする時間も惜しいといった風情で、言葉で飾り立てることすら忘れて、彼は──キバナは、ネズに覆い被さる。舌は其処彼処を這い回り、執念深く総てを味わい尽くそうとする。骨が軋むほどに強く肩を掴まれ、痛みと綯い交ぜになった恍惚が襲い来る。
     唇の隙間に態とらしいほどに小さく、微かな吐息を零せば、更にキバナは息を荒らげた。ネズはうっそりと微笑む。
    「興奮、してるね」
    「……だめ、ずきずきする、そこらじゅう」
     痛みに耐えるようにキバナは硬く眉根を寄せた。ああ、駄目駄目、まだ理性がひとひら。もっと我を忘れて貰わねば。
     おやさしい麗しのご尊顔が、欲に塗れて獲物を食い千切る竜の表情へと変わる、その放物線。それにこそ胸高鳴るのである。やがて訪れるであろう嵐のような蹂躙への甘やかな予感が、ただネズの胸に揺蕩う。ぞわりと項の後ろが総毛立つ。
    「……だめになっちゃいましょ」
     囁きの合間に下唇を甘噛みして、たっぷりと堪能してから解放してやる。唇が離れたその端から、ひとときも経たぬうちにまた噛みつかれる。噛みついて噛みつかれて、きっとそのうち過熱したあまりに互いの肌には無数の噛み跡が残るのだろう。喉の奥だけでくつくつと笑っても、猛る竜と化した愛しい男は、どうやらそれどころでないご様子であった。



    Day6- Wearing eachothers’ clothes

     当然だがネズの服はキバナにはサイズが合わない。ネズは大概においてタイトなシルエットの服を好むし、キバナの身体は規格外のサイズである。戯れにネズの気に入りのジャケットに腕を通そうとしてみたら、途中でつかえてしまった。すると、ネズは一通り笑ってから「それ、レディースなんですよね」と種明かしをした。上背と肩幅はあるものの針金のような痩躯のネズは、レディースのLサイズ程度であればなんなく着こなしてしまえるのである。レディース服だろうがメンズ服だろうが気に入れば着られるというのは、ファッションを好むキバナからすれば少々羨ましい。無駄だとわかってはいながら、ムキになってどうにか着られる服がないかとネズのクローゼットを漁るキバナを、彼はおもしろそうに眺めていた。
    「なんか、こういう絵本なかったですか? ピカチュウが着てる服がどんどん他のポケモンに着られていくんですけど、最後にはダイオウドウが着ちゃってびよんびよんに伸びちゃう、みたいなやつ」
    「読んだことないけど……絵本とか妙に詳しいよなネズ」
    「マリィによく読み聞かせしてやったんで……まだ家にあるかな、あの絵本」
     ネズの気に入りのジャケットをびよんびよんにするわけにはいかない、キバナはしょんぼりとそれをハンガーにかけ直した。ピカチュウとダイオウドウかぁ、と思う。いやそこまで体格差があるわけじゃないけど、と隣をちらりと窺った。
     ネズはといえば、キバナが脱ぎ捨てたパーカーを手に取ってタグを確認している。えっくすえる、と唇が小さく動いて、目が細められる。
    「やっぱデカいですね」
    「やー、オーバーサイズが好きなんだよな、こんだけ育っといてオーバーサイズってのもなかなか難しいんだけど……でも服の中で体が泳ぐ感じが好きで」
    「……服の中で体が泳ぐ」
     ネズは不思議そうにそう繰り返した。あまり考えたことがなかった、という感じの表情である。かと思うと、徐ろにそろりとキバナのパーカーに腕を通した。
     きっちりとファスナーを一番上まで上げ、シルエットを整え、着心地を確認するように腕を広げる。面持ちは真剣そのものだ。暫しの時が過ぎて、ネズは得心したように呟く。
    「なるほど、体が泳ぐ。確かにそういう感じですね。おれはタイトな服を着た時の体の輪郭がピシッと決まるような感じが好きなんですけど、これはこれで……」
     そこまで言って、キバナの表情を見た瞬間ネズは固まった。そのまますごい勢いでファスナーを下ろし、躍起になって腕を抜こうとする。それをほとんど反射的に抱き着くような形で止めようとすると、キバナの腕の中でネズはじたばたと暴れた。
    「なんで脱ぐんだよ! いいよ、着ててよ!」
    「いや、いいです、もう結構です、脱ぎます、わかったので」
    「もうちょっと堪能してもいいよ!? いやぁー、似合うなー、ルーズな服もいいんじゃないかなー」
    「……クソ……」
     諦めたようにネズは肩の力を抜いて、両手で顔を隠した。反面キバナは満面の笑みを浮かべる。下ろしたファスナーを再び上げてやって、顔を隠す手をそろりと剥がしてやる。むっつりと口角を下げたネズの頬をそっとつまんで、「今度ふたりで着られるやつ買いに行っていい?」と訊けば、渋々といった様子でちいさく、しかしこくりと頷いた。



    Day7- Cosplaying

     ぱりっとした白いシャツに、黒のネクタイのコントラストが目に眩しい。分厚いジャケットをかっちりと身に纏い、極めつけは特徴的な帽子である。正直ネズはこの職業の人間をあまり好んでいなかったがそれはそれとして、キバナには不思議とこういう堅い服装も似合ってしまう。ナックルシティの一日警察署長、それがキバナの今日のお仕事であった。少し遠くで、キバナは人だかりに囲まれてにこやかに微笑み手を振っている。
     周りからはひっきりなしにシャッター音が聞こえる。浮かれたような熱っぽい囁き声も。かっこいいーとか、似合うー、とか、逮捕されたーい、とか。思わず小さく笑ってしまう。逮捕されたいはないだろう。犯罪撲滅のためのイベントで犯罪志望者が増えてるぞ、キバナが本物の警官でなくてよかったな、と人混みのなかのひとりひとりの顔をちらりと盗み見る。立ち並ぶ顔、顔、顔はどれもみなうっとりと緩んでいて、軽く変装しているとはいえ無防備に立っているネズに気付く様子もない。彼ら彼女らの目線は一心に壇上のキバナに注がれている。
     珍しく天気のよい昼間、あれだけかっちりと着込んでいるにも関わらずキバナの額には汗ひとつない。フェイクの肩章やバッジが、陽を受けてきらりと光った。囲み取材に応える彼の表情は概ね真面目で、だが時にへらりと無邪気に崩れた。それをしばらく見つめていたが、そういえば他の用事があったのだということを思い出す。くるりと踵を返そうとすると、背後で「ではこれより移動いたしまーす」と間延びした声が聞こえた。それから少し遅れて、タッタッタッ、と軽快な足音がする。歩みを止めないネズの後ろから、にゅっ、と上半身が現れて、行く手を塞いだ。ねーず、とやけにご機嫌な声が名前を呼ぶ。言うまでもなくキバナだった。顔をしかめてやれば、それをものともせず、さらに嬉しそうに肩を揺らした。
    「来てくれたんだ。うれしー」
    「……別に、ナックルに用事があっただけです」
    「またまたぁ」
     キバナは腕を広げてくるりと一回転した。
    「どうよ? 似合ってる? かっこいい?」
     誇らしげに胸を張る姿は一見非の打ち所がないほど完璧だというのに、なぜかまるで初めて一張羅を着せてもらった子どものようだった。
    「……まあ、似合ってはいますけど」
    「む、けどって何だよ」
    「いや、官憲はお断りですんで、おれは」
     そう言うと、キバナは一瞬目をぱちくりと瞬いたあと、弾けるように笑い出した。
    「官憲って、言い方! 」
    「官憲は官憲だろうが。こちとらあっち側よりも世話になってる側のほうが多いんですよ数としちゃ」
     キバナは相変わらずけらけらと笑っている。キバナさーん、と背後から呼ぶ声がして、あーはい、と雑に返事をした。
    「んじゃーオレさま、もうちょっとかかるから」
    「早く行けよ」
    「ふふ、つれねえの……待ってなよ、絶対逮捕してやるから」
     じゃあね、悪いオニーサン、そう言ってキバナは軽快に走っていった。きゃあ、と黄色い声が再び巻き起こる。それをぼんやりと眺めながら、「……変なスイッチ入ってそうだな、めんどくせえ」とネズは一人頬を掻いたのだった。



    Day8- Shopping

     いつも通り歩幅を合わせる気もないであろう足取りで歩いていたネズが、ふと足を止めたのはフラワーショップの前だった。あまりにも突然だったので、おかげでキバナはそれに気付くまでに少々時間がかかった。数メートル進んで後ろを振り返ればネズがいなかったので、キバナは慌てふためいて辺りをきょろきょろと見渡す羽目になった。フラワーショップにふわふわと足を踏み入れる白黒の髪の尻尾が見えて、キバナはほっと安堵の息を吐きそれを追いかけた。
     外の能天気な明るさから一転して、店内に入るとやや薄暗い。明暗の変化に目が少々戸惑い自然眉根が寄る。ややあって、ようやく瞳がその薄暗さに慣れてきた。
     おそらく老舗らしい、内装にはあまり飾り気のないフラワーショップは、その素っ気なさを補うがごとく花で満ち溢れていた。天井まで届く大きなガラスケース、どっしりと立ち並ぶ鉢植え、所狭しとひしめくバケツの中の切り花。古びたレジスターの後ろに誇らしげに鎮座する包装紙や色とりどりのリボン。色の洪水のような景色の中で、キバナは目をしばたいた。
     ネズは少し奥の方で、しげしげと花を眺めている。うろうろとその視線が彷徨って、ひとつのバケツの前で止まった。ひっそりと、しかし押しつけがましくなく様子を窺っていたのであろう老齢の店員がするりとネズの傍に寄っていく。ネズの指が、バケツのなかの花を指した。店員は小さく幾度か頷いて、たった一輪、五分咲きほどの花を選び出した。
     花。誰に贈るのだろう。マリィになにかお祝いでもあったとか言ってたっけな、とキバナはぼんやり考えた。そういえば昨日のトーナメントじゃいい感じに勝ち進めていたけれど。でもあの花、マリィのイメージじゃないなあ。マリィに贈るならば、ピンクだよなやっぱり。あの花の色は、目にも鮮やかな黄色だ。
     会計を済ませたネズが、店員にぺこりと一礼してゆっくりと近付いてくる。一輪の花には、簡素な包装がされていた。プラスチックバッグには入れず、それをそのままふらりと手に持っている。
    「花なんかどうしたの」
     ネズの足取りに合わせるように歩幅を緩めながら、キバナはそう問うた。店内から出れば、再び午後の日差しが目に刺さる。目をしぱしぱと瞬かせて、ネズに向き直ると、むんずと目の前に何かが差し出された。焦点を合わせる。それは先程ネズが買ったばかりの花一輪だった。
    「やります」
     あまりにもなんでもないような声音でそう言うので、反応が遅れた。えっ、えっ、と数度言葉を詰まらせる。
    「おっ……オレに?」
    「やるって言ってんだからおまえにでしょ」
    「えっ、ほんとに?」
    「なんで嘘を言いますか」
    「ほ、ほんとに!? えっ、なんで!?」
     なんでも何も、とネズは口の端を思いっきり下げた。それからぼそぼそと小さな声で呟く。
    「……なんとなくです。やりたいと思ったんで。……いりませんか」
    「い、いる!!」
     うるせぇ、声でけぇ、とネズはキバナの口を片手で塞いだ。もごもごとそれに抗って、ネズの手ごと花を受け取る。ネズの手の中で、五分咲きの花はふわりと微睡むようだった。
    「えー、なんでー……全然わかんねーけど、うれしー……」
    「……理由がいりますか?」
    「ううん、いらない……理由がなくて、うれしい……」
     相好を崩し、蕩けんばかりの様子で花を眺めやっていたキバナは、突如ハッとしたように顔色を変えた。
    「待って! オレの家、花瓶ない!」
    「コップとかでいいんじゃないですか、酒瓶とか」
    「やだ!! 絶対花瓶に活ける!! 今から買いに行く、花瓶!!」
     キバナはネズの腕を掴んで勢いよく歩き出した。大事そうに胸元に抱きかかえられた黄色い花は、まるで微笑むように、幾層にも重なった花びらを微かに風に揺らめかせていた。



    Day9- Hanging out with friends

     がやがやと、賑やかでありながら親密な空気が流れている。数時間前までの闘気に溢れた空気はどこへやら、いつものスポーティーなユニフォームを脱ぎ捨てた面々は皆それぞれ思い思いにドレスアップしていた。
     チャンピオンであるユウリ主催のトーナメントの後に開かれた、懇親会のさなかである。飾り気のない少女ゆえ、店のチョイスはリーグ委員会の選定するお決まりのそれよりも少々カジュアルだ。それも相俟って、肩肘張らない緩やかな雰囲気が漂っている。歳若いチャンピオンや同年代のジムリーダーたちがころころと笑い転げる声。それを見守っている大人たちの視線。心地よい空間だった。無論ロッカールームでのあの、各々が真剣に己自身と問いを重ねるような、ぴんと張り詰めたようでありながら血がふつふつと沸き上がるような空気もキバナは大好きだった。だがこれはこれで良い。
     キバナはこういう場は苦にならない。それどころか、社交場の申し子であるとすら言える。何の負担もなく楽しく過ごせるのは勿論、その気になれば一瞬でその場を自分のものにしてしまえる。しかし今日のホストはあくまでユウリである。彼女にこういう場での振る舞いというものの経験値を積ませてやらねばならない。よって本日は大人しく壁の花の身の上をゆったりと楽しんでいるのであった。やや小ぢんまりとしたバーカウンターに凭れかかり、キバナは悠然と会場を見渡した。パートナーであるネズは、少し遠くでメロンとカブに捕まっている。マリィの付き添いでという名目ではあったが、むしろ現役のときよりもこのような場に顔を出すようになったのではないだろうか。柔らかな表情で談笑するネズを見て、キバナはひとり頬を緩めた。そこに一人が近付いてくる。
    「珍しいじゃない、あなたが一人でいるなんて」
     涼やかな声の持ち主はルリナだった。パーティーの前半はヤローやカブといたようだったが、三々五々それぞれに散ったらしかった。細いシャンパングラスを持ち、目の覚めるようなブルーのシンプルなドレスを身に纏っている。キバナはへらりと笑って、カウンターの隣の席を彼女に示した。レパルダスのようなしなやかな動きでルリナはするりとそこに腰掛ける。
    「そーですよー、誰かさんがほっとくから、オレさま一人なの。相手してくれる?」
    「お預け食らってるってわけね。いい気味」
     ルリナはくすくすと笑ってシャンパングラスに口をつけた。すると、久し振りに聞く主人以外の声に気付いてか、キバナのポケットからスマホロトムが元気よく飛び出してきた。
    「ケテ!」
    「あらどうも。一枚撮ってくださる?」
    「もちロン!」
     ルリナがグラスを掲げた瞬間、パシャリ、と電子音が鳴る。誇らしげにロトムが見せた画面には、さすがモデルといった貫禄のルリナが美しく収められていた。ルリナは感心した様子でにっこりと微笑む。
    「あなたのロトム、撮る量が段違いだからか、学習に学習を重ねてかなりの腕前よね。あなたよりも撮るの上手いんじゃない?」
    「言ってくれるじゃん」
    「照れるロ〜!」
     ロトムは嬉しそうに空中をくるくると舞った。ルリナはけらけらと笑う。
    「ねえ、他の写真も見せてよ。撮ったのが溜まってきてるでしょ?」
     数瞬のうちに「見せてヤバいものは入ってないはず」と頭を働かせ、キバナはルリナの願いに頷いて受け入れた。ロトムはやはり心なしかウキウキした面持ちでルリナの手の中に収まる。もっと見て見て、と自慢げな様子である。ルリナはしばらくロトムと会話しながらフォトフォルダを眺めていたが、すいすいとテンポよく画面を操作していた指が、ふと止まった。
     なんかまずい写真入れてたっけ、と少々気まずい思いでキバナはその手元を覗き込んだ。画面に表示されていたのは一枚の写真。キバナを写したものだった。ちょっとピントがぶれていて、キバナの自宅の室内で撮られている。画面の中のキバナは、へにゃり、としか形容のできないような間の抜けた笑顔を向けていた。あ、と思わず声を出す。振り向いたルリナは、なぜか少し頬を赤らめていた。唇をやや尖らせて、必要以上に小さな声で呟く。
    「ねえこれ……撮ったの、ロトムじゃないでしょ」
    「えっ」
     ネズでしょ、撮ったの、とルリナは顰めっ面で言った。
    「な、なんでわかんの……」
    「あのね、わたしモデルやってるでしょう。色んな写真見るから、わかるの。こういうポートレートって……被写体と撮影者の関係が、ものすごく、出るのよ」
     もうね、うわーーって、出るのよ、とルリナは呻いた。
    「そ、そんなに……?」
    「そんなに、よ。もう一発でわかるわよこんなの……はぁーやだやだ、当てられちゃってもう、ほんと、なんでここにソニアいないの? ソニアいないとやってらんないわもう」
     スマホをキバナの胸元に押しつけて、ルリナは身悶えするように何度も首を振った。遅れてキバナの顔にもだんだんと熱が集まってくる。おずおずともう一度画面を見た。ピンぼけの、へたくそな写真だ。笑顔だって、いつもの決め顔なんかではなくて。
    「……ネズもこんな写真、撮るのね。でもそうか、彼、そういう人よね」
     しみじみとルリナが呟いた。それを聞いた瞬間、キバナは片手に握り締めていたエールの瓶をカウンターにごとりと置いた。身体中がむずむずする。走り出したくなってくる。ルリナ、オレ、と漏らしたその声は上擦っていた。ルリナは頬杖をついてひらひらと手を振る。
     ばたばたと駆けていくキバナを見遣り、彼女はひとり、赤くなった頬をシャンパングラスで冷やした。



    Day10- With animal ears

     きゃあきゃあと走り回る幼子たちの声がする。いつもの町とは少し違った様子に、キバナは頬を綻ばせた。
     ネオン灯る「大人」の町といった趣のスパイクタウンに、今日ばかりはたくさんの子どもが溢れていた。本日はネズのチャリティライブが行われるのである。ライブの収益はスパイクタウン内の児童養護施設や関連機関に寄付される予定だ。数年前に始めてから毎年恒例となったそれは、年々参加者が増えている。ライブに合わせて多くの店が頭を捻って子ども向けのメニューや玩具などを並べており、明るい雰囲気が漂っている。
     キバナはコートの片隅に立ち、通りを過ぎ行く人々の顔を眺めた。みな一様に楽しげな表情を浮かべている。そして同じものを身につけている。ポケモンの耳を象ったカチューシャである。ジグザグマやモルペコ、エレズン。テーマパークのような様相を呈しているその光景は、キバナの目を楽しませるのに充分であった。
    「キバナさん、来てくれてありがと」
     声のした方に振り向く。そこにいたのはマリィだった。ジムのユニフォーム姿で、首にかけたタオルで額の汗を拭いている。マリィは先程このコートでエール団団員、それから手持ち制限のハンデの上で一般参加者とエキシビションマッチを行っていた。連戦にも関わらず彼女はきっちりと魅せる試合を行い、拍手喝采を浴びていた。ジムリーダーとしての成長目覚ましいその様子にキバナも気を引き締めたばかりである。そんな彼女の頭にも、モルペコのカチューシャがちゃんと鎮座していた。
    「お疲れ。試合見てたよ。よかったぜ」
    「気付いとったよ。試合中キバナさんが見えて、対戦相手に名乗り出てこられたらどうしようか思とった」
     そう言いながらもマリィはにやりと笑う。もしキバナと対戦することになったとしても一歩も退かずに迎え撃つのだろうという好戦的な笑みだった。さながらはらぺこ模様のモルペコである。キバナも唇の端を吊り上げる。
    「オレさまも思わず躍り出ちゃいそうだったぜ。まあでも今日はオフのつもりで手持ちも一体だし、また次の機会を楽しみにしてるよ。ところでさ、そのカチューシャ、みんなつけてるな」
    「ああ、これ」
     一転してマリィはやや恥ずかしげに頭の上を触る。
    「子ども向けのイベントやし、ってアニキと一緒に考えたんよ。言い出しっぺやけんちゃんとつけて、って団員に押し切られて。あ、これはチャリティグッズ扱いで購入代金は寄付に回るよ」
    「なるほどな。じゃあオレさまも買っちゃおっと」
     ありがとう、と少女は律儀にぺこりと頭を下げた。すかさず団員がそそくさと近寄ってきてキバナにカチューシャを渡す。エレズンの頭部を模したデザインだった。なかなかよく出来ている。早速つけてみると、マリィは「でっかいエレズンやね」とけらけら笑った。
    「ところでネズは? さっきから探してんだけど見当たらないんだ」
    「そのうちライブやから、その辺にいると思うけど……」
     きょろきょろとマリィが辺りを見渡し、少し遠くの人混みに目を止めた。傍にいる団員が、あそこですね、と嬉しそうに呟いた。たくさんの子どもがわらわらと集まるその中心に、ネズがしゃがんでいる。へらりと柔らかな笑顔を向けるその頭には、ジグザグマのカチューシャがつけられていた。
    「いた! ネズ!」
     おーい、と手を振ると、一瞬でネズの顔色が変わった。すっくと立ち上がり、見たことのないくらいのスピードで一目散にコンテナの後ろに引っ込んでいった。思わず呆気にとられてマリィと顔を見合わせてしまう。
    「……照れとるね」
     呆れたようにマリィは首を振った。照れてるなあ、と言いながらもキバナはにやにやと笑った。じゃあまた後で、とマリィに手を振って、ネズが消えた方へとずんずん歩を進めていく。
     コンテナの後ろは当然行き止まりだった。奥の暗がりにネズは腰を下ろしている。むっつりした顔つきで、手に持ったカチューシャを弄んでいた。
    「よう、ジグザグマちゃん」
    「……そんなでかいエレズンはいません」
     ネズの横に腰を下ろす。胡乱な目つきでこちらをじっとりと睨んできたが、照れからだと知れているので全く怖くない。にこにこと笑うキバナのその様子に、ネズはより一層渋面を深めた。
    「このカチューシャ、チャリティグッズなんだって? いい思いつきじゃん、かわいいし」
    「……お褒めに預かりどうも」
    「さっきまでみんなの前で普通につけてたじゃん、なんで外しちゃうの」
     ネズの手からカチューシャを取って、耳の細工を手で弄る。ふわふわとした毛並みはなかなかの再現度だ。ネズはそれから目を逸らして、チョーカーのトップに指を突っ込んで神経質そうに弄り回した。そしてぽつりと苦々しげに呟く。
    「……今日は、来ないと思ってたので。……びっくりしただけです」
    「照れちゃった?」
    「うるせえ」
     ああクソ、と呟いてネズは立ち上がった。キバナの手の中のカチューシャをひったくるように奪い取ると、やけくそのように頭に装着した。白黒の髪に、まるで元から生えていたかのようにジグザグマの耳がちょこんと立った。
    「……まあ、来たからには楽しんでってください。これからライブなので、しばらく構えませんけど」
    「もちろん! 期待してるぜ、ジグザグマちゃん」
     満面の笑みで答えてやると、ネズは口角を下げて「その呼び方やめろ」とキバナの脛を蹴った。



    Day11- Wearing kigurumis

     ナックルシティの駅に降り立つと、謎のいきものがいた。
     ちょっとした野暮用で出てきたわけだが、駅改札口の辺りにそいつはいた。そいつというのは、着ぐるみである。なんともいえないデザインのそいつは、「ナックルくん」とでかでかと書かれたタスキを下げて、うごうごと名状しがたい動きをしていた。隣には微妙な顔つきで暇そうにしている男性が一人。大量の紙の束を抱えている。どうやら、何かのキャンペーンのようだった。だがしかし、悲しいかな周りには誰も寄っていかない。
     なんじゃありゃ、と遠巻きに見ていると、なぜかその着ぐるみはおれをロックオンしたのかもぞもぞと近付いてきた。少なからずぎょっとして、思わず辺りを見回す。後ろには誰もおらず、どう考えてもターゲットはおれだった。
    「わぁ、ネズさんだ」
     暇そうにしていた男性が、ほっとしたような顔つきで着ぐるみの後ろから近付いてくる。よく見れば見たことのある顔だった。宝物庫のスタッフだと思い出す。一度キバナの忘れ物を届けた時に挨拶をしたことがあった。ぺこりと一礼すると、彼もそれに倣った。着ぐるみも変な動きをした。お辞儀のつもりなのだろうか。
    「みんな気味悪がって近付いてこないんです。ちゃんとしたキャンペーンなのに」
     そう言いながら彼は手に持っていた紙を一枚ぺらりと渡してきた。「文化に親しもう! ナックル宝物庫無料開放日!」と、十分くらいで完成しそうなデザインで書かれている。右下の方に、「ナックルくんも来るよ!」とおそらくナックラーを元にデザインしたのであろうキャラクターが描かれていた。二足歩行のナックラー、といった趣だ。チラシのそれと、目の前に立っているデカブツを見比べる。まあ確かにコレが「ナックルくん」なのだろうが、なんだか絵とは印象が違う。異様にでかいのだ。頭部が。ナックラーらしきその頭部をゆらゆらと揺らして、そいつは妙にスリムな下半身の腕と足をばたばたと動かした。
    「……予算足りてないんですか、宝物庫は?」
    「いやぁ、新資料の保存ですとか、そっちに回っちゃいまして。やっぱりちょっと、変ですよねえ」
     男性は困ったように頬を掻く。ナックルくんは心外だとでも言いたげに首をぶんぶんと──頭部がでかすぎるので、どうしてもスローではあったが──振った。
    「はあ、まあ、周りには言っておきますよ。あまりこういうのに興味がありそうなメンツはうちにはいませんがね。何枚かもらっておいていいですか」
    「やあ、いいんですか、助かるなあ」
     彼は嬉しそうに十枚ほどの紙を俺に手渡してきた。マリィやエール団員に宝物庫への興味があるとは思えないが、まあ渡すだけ渡しておこう、と思いつつ鞄にそれをしまう。
     では、とその場から去ろうとしたおれの前に、ナックルくんがぬっと立ちはだかった。思わずたたらを踏む。逆光のせいか異様な迫力がある。
    「……まだ何か?」
     慎重にそう訊くと、ナックルくんは何も掴めないであろう着ぐるみの腕で、おれの手を取ろうとした。だがしかし当然うまくいかないので、すかすかと空を裂く。クエスチョンマークを浮かべながら、おれは手のひらをかざした。
    「手、ですか?」
     ぶんぶん、とナックルくんは縦に頭を振る。
    「握手?」
     今度は横に頭を振った。そして、少々かがんで、そのやたらにでかい頭部を、おれの目の前にずいと差し出した。呆気にとられる。横の宝物庫職員は、なんともいえない苦笑いをしていた。
    「……おれのファンかなんかですか、この中の人は?」
    「ナックルくんに中の人はいません! ……と言いたいところですが、ええ、まあ、そういう感じですね」
     ぐいぐいとナックルくんは頭部をおれの手に押しつけてくる。根負けして、おれはその頭を撫でた。そりゃもう存分に撫でた。頭だけでなく顎下なんかも撫でてやったりした。しばらくすると、ナックルくんは満足したようにでかい顔を上げ、右左に珍妙な動きで鈍いステップを踏んだ。喜んでいるらしい。
    「えっと……よくわかりませんが、じゃあおれはこれで」
    「あはは……すみませんでしたネズさん。ありがとうございましたぁ」
     ちいさく胸の辺りでひらひらと手を振ると、ナックルくんはぶんぶんと腕を振り回した。
     一体なんだったんだあいつは、と首を捻りながら、おれはその場を後にした。帰ったらキバナに言ってみようと思う。あの着ぐるみ、もうちょっとなんとかした方がいいんじゃないかと。



    Day12- Making out

     スイッチなんて突然入るものだ。こそばゆいくすくす笑いの途切れ目。激しい言い争いの直後。雨宿りに失敗してずぶ濡れの帰り道。からだの芯、奥底まで焼き尽くすようなバトルのそのあと。とかく、オレたちの興奮のスイッチは生活の至るところに存在している。
     今日はどうやらネズの番っぽかった。ネズのスイッチは、正直まだオレには掴めないことが多い。今日もどこがネズのお気に召したんだか、よくわからない。おかげで全く飽きないが。
     ソファに並んで座って、見るともなくぼんやりとテレビを眺めていた。賭けてもいいが絶対に間抜け面だったと思う。しょうがないだろ、二十四時間キメ顔のままいられる人間なんていないんだ。
     そしたら不意に、ぼすん、とオレの膝に何かが乗った。わう、と変な声が出る。乗せられたのはネズの細い脚だった。彼はオレの膝の上で足首をぐるぐると回して、うっすら微笑んだ。その笑みだけでわかっちまう、「スイッチが入ったんだな」って。ふつりと腹の下の方がざわつく。
     なに、って訊いたら、ちょっとね、って笑った。そろりとスキニーのレザーボトムに包まれた脚をさすったら、ご満悦といった感じで髪を揺らした。右脚を持ち上げる。尖った踝に口づけたら、自由なままの左脚が悪戯を仕掛けてきた。爪先でオレの腹をなぞって、そのまま下に移動する。おいおいまだ昼間だぜ。太陽はまだまだ元気だし、あっちじゃせっかくお利口なポケモンたちが昼寝の時間と洒落こんでるところだってのに。でも止めやしない。そこまで野暮じゃない。左の爪先がするりと円を描く。右足の指先をねろりと舐めたら、ネズは喉の奥でくつくつと笑った。
    「なに、今日はどしたの」
    「ふふっ……べつに」
     あっそう、そう言って下唇をわざとらしく突き出してやると、余計嬉しそうに唇の端を上げた。数ミリだけだけど、オレにはわかる。その数ミリが大事なんだ。
     爪先の悪戯は止まらない。持ち上げていた脚を肩にかけて、太腿から上へするすると掌でなぞる。服の上からでも骨っぽいのがわかる。薄い皮膚と申し訳程度の肉、主張する骨のその下に、渦巻く欲望がある。どくどくと心臓の息衝くその胸元まで辿り着いたら、手を阻まれた。するりと取られ、指が絡まる。口づけの雨が降る。たまらなくなってきてそこに噛みつこうとすれば、他ならぬオレの手でそれを防がれた。組んだままの手を押し付けてきているのだ。
    「……運んでくれます?」
     続きはあっち、そう言って意地悪げにネズはほくそ笑む。
    「……あいよ、女王陛下」
     いい子だね、とそう言ってネズはオレの頬を撫でた。気まぐれのそのスイッチが切り替わらないうちにその身体を抱き上げるべく、滑り込ませた腕に力を込めた。



    Day13- Eating icecream

     アニキの好きなアイスってなんだっけ。あたしはスーパーのでっかい冷蔵庫の前で固まる。
     アニキは、あたしの前ではあんまり食べものの好き嫌いのことは言わなかった。音楽とかバトルスタイルとか、そういうのは割とズバズバ言うんだけど。
     特に甘いものはいつも、あたしに合わせてって感じ。たとえばあたしが定番のチョコフレーバーと、期間限定のロゼルの実フレーバーで迷ってたとする。そしたらアニキは、そのふたつをカゴに入れる。それで家に帰って、ふたりでそれを食べる。大体、半分よりももっと多くの量があたしに回る。アニキが「これにしようかな」って自分から言ったことはない。どれ食べても「うまいね、マリィはいつもいいのを選ぶ」って微笑んでる。そんな調子。
     だから、「アニキがほんとはどの味のアイスが好きなのか」、ちゃんとわかってなかった。今更それに気付いてちょっと愕然とする。気付いてなかったなんて。あたしもガキやったいうことたい、思わず独りごちてしまう。
     冷蔵庫の中にはとりどりのフレーバーが並んでるから、余計途方に暮れてしまう。アニキはどれが好きなんだろう。眉間にシワが寄りすぎて、凶悪な面相になったあたしが少々曇ったガラスに映る。チョコか。キャラメルか。クッキーアンドクリームって手もある。大人向けに洋酒で風味をつけたやつも。さっぱりしたフルーツフレーバーも選り取りみどりだ、甘くないのならオレン、ナナシ。甘いのがいいならモモン、マゴ、ソクノ。もうだんだん訳が分からなくなってきた。なんでこげんこつようけあるとやろか。
     そしたら後ろに、でっかい人影が映った。その人影はにゅっと手を伸ばしてケースの扉を開け、一瞬の迷いもなくふたつの味のアイスを選び取った。振り返ると、キバナさんがへらりと笑う。
    「オレさまこれー。ネズにはこれ。妹ちゃんは?」
     でっかい手のなかで、アイスのカップは一口サイズくらいの大きさに見えた。キバナさんの手の中には、バニラアイスと、チョコミントアイスが一つずつ。あたしはぱちくりと瞬きして、それを見る。
    「……チョコミント、アニキの?」
    「うんそーそー、なんか最近ハマってんのよこれに」
     なんでもないようにそれをカゴに入れて、キバナさんはふたたび冷蔵庫を熱心に見た。期間限定も捨て難いよなあ、ほらこれ結構おいしそう、でも結局バニラに戻っちゃうんだよなあオレ、とか、いろいろ話しかけてくれてる。でもあたしはそれどころじゃない。カゴの中のアイスを見る。さっきよりもおっきく見えるカップが、ふたつ寄り添ってる。アニキ、チョコミント、好いとったとか。あたしは知らんかったよ。
    「……あたしも、チョコミントがよか」
    「オッケー」
     キバナさんはニコニコしながらもうひとつチョコミントを取り出して、カゴに入れた。なんか悔しか、そういう気持ちと、アニキが「好きなもの」をのびのび言えてることへのうれしさみたいなのと、いろんなのが混ぜこぜの気持ちだ。それを吐き出すみたいにあたしは小さく溜息をついた。
    「大人にならんとね……」
    「ん? チョコミントの話?」
    「こっちの話たい」
     唇を尖らせて、下を向いて言うしかなかった。まだもうちょっとガキからは抜け出せないみたいだ。少し遠くから、アニキが酒瓶を鷲掴みにしてのそのそ歩いてくるのが見える。キバナさんが嬉しそうにそっちの方に小走りで近寄っていく。ふたりの背中を見て、あたしは目を細めた。



    Day14- Genderswapped

     あーこれ夢だな、って薄々気付いてる夢ってあるじゃん。今日の夢がそれ。夢のなかでオレさま、もとい、アタシは女だった。そりゃもうすこぶるつきの美女だ、さすがオレさま、もといアタシ。
     全然違和感とかはない、夢なんだけど。夢なんだけどアタシはずっと前から「アタシ」であったようにそこで息をしてた。そして、ネズも女だった。パッと見あんまり変わんなかったけど。アタシは、「『変わんない』ってなんだ?」と一瞬思って、すぐに忘れた。ほっそい手足。浮き出た鎖骨。ちょっと力を込めれば折れそうな腰。別に特段ちっちゃいわけじゃない、どっちかってと平均身長よりは高い、けど、猫背と相俟ってどうもちっちゃく見える。アタシ多分六フィートくらいあるし、それもある。不意に愛おしさが胸の中にうわっと湧いてきて、ぎゅうと抱き締めると、ふにゃりとしたあったかい肉体はちいさく身を捩った。
     なんですか、とちょっとハスキーな声がめんどくさそうに発せられて、ネズはアタシの背中をぽんぽんと叩いた。んーん、なんでもない、って笑う。
     しばらくぎゅうぎゅうと抱き締めていた。頭の片隅で、あーめっちゃリアルー、って思う。「オレさま」だった時に触れ合った女の誰よりも細っこいその体は、しっかりと存在感があった。温度だけじゃなくて匂いまでする。なんだか甘い、でもちょっとだけ奥にスパイスが香る、そんな匂いだ。
     ねーなんか急に思ったんだけど、アタシがオトコだったらどう、って訊いてみた。ネズは怪訝な顔をする。
    「思考実験かなんかですか?」
     そんなとこ、と答える。ネズは顎に手を当てて俯いた。
    「……どうでしょうね。現代社会じゃ男と女の社会的扱われ方にどうしても差があるでしょ、ムカつくけど。それが人格形成に影響が出ないわけじゃないだろうし」
    「うへ、めっちゃまじめに考えてくれてる」
     おまえが訊いたんでしょ、ってネズは呆れた顔をした。
    「でもそうだね、おまえがオトコだろうがオンナだろうが、同じくあたしがオトコだろうがオンナだろうが……きっと、ポケモントレーナーでしょ」
    「うん」
     強く頷くと、ネズは口の端をすこしだけ吊り上げた。
    「じゃあ、変わんないです、きっと。『あたし』が『おれ』だろうが、『アタシ』が『オレさま』だろうが。きっとおまえはあたしを見つけて、しつこいくらい追い回して、いつの間にかしれっとあたしの横にいる」
     そう言って、ネズはちょっとだけ背伸びして、アタシの唇に触れた。柔らかい。きっとこれは、男だろうが女だろうが変わらない。
    「ふふ……熱烈」
    「誰かさんのせいだね」
     ネズは肩を竦めた。そうだよね、変わらないものだってあるはずだよね。男だろうが女だろうが、おんなじ人間だもん。これが夢だったとしても、それだけは現実であってほしいな。「オレさま」に戻ったとしても、ちゃんと覚えてたい。そう思いながら、アタシはもう一度、その唇にそっと触れた。



    Day15- In a different clothing style

     ばばんばばんばんばん、と気の抜けるような歌声が聞こえる。やたらご機嫌なそのメロディに、ネズはゆるりと隣を見遣った。
    「……その曲は一体」
    「これ? なんかカブさんが教えてくれた。カントースタイルのオンセンに浸かる時は歌うのがレイギなんだって」
     それなんかちょっと勘違いしてるんじゃないか、とこっそり思う。だがまあ、楽しそうなのでその言葉はそっと胸にしまった。
     というわけで、温泉とやらに来ている。所在はカントー地方、ナナシマ。ともしび温泉である。ネズのツアーの終幕に合わせて、溜まりに溜まった休暇を潰すべくキバナが合流した形である。火山の地熱を利用したという温泉街であるが、少しばかりアクセスがしにくい場所であるからか、観光客はそこまで多くなくやや小ぢんまりとしていた。「入れば こころに 火が灯る」とのんびり謳うその町は、溜まった疲れを溶かすにはちょうどよさそうな場所であった。ガラルでは知らぬ者のない有名人同士であるふたりも、気を張らずに過ごせそうだ。優秀なコーディネーターに感謝である。
     町には至るところに温泉が湧いている。観光客は皆、その温泉を回って楽しむらしい。ポケモンたちと一緒に人間がとろけそうな顔で足を湯につけている光景はのどかで微笑ましかった。だがネズとキバナはそちらではなく、まっすぐに予約を入れた旅館へと向かった。せっかくなので誰にも邪魔されず存分に温泉を楽しんでやろうという魂胆である。
     愛想の良い客室係に案内され、至る所に頭をぶつけそうになりながら入った部屋は眺めのよい内風呂付きの客室だった。キバナは荷物を放り出し、子どものようにはしゃいで部屋のあちこちの扉を開けて回った。そして機嫌よくうたい出したのが先程の歌である。ばばんばばんばんばん、とそればかり繰り返してうたっており、そのあとに続くメロディを知らないのは明白だった。
    「わっ、見てこれ、キモノじゃん」
     コート掛けらしき扉を開いたところに畳んでしまってあった浴衣を見つけ、キバナは目を輝かせた。「館内でご着用いただけます」と扉の内側に但し書きがある。
    「初めて着るよ。どうやって着りゃいいのかな、調べるか」
     スマホロトムに浴衣の着方を検索させて、キバナはいそいそと着ていた服を脱ぎ始めた。風呂に入ってからではないのか、とネズは思ったが、水はささないでおこう。ほらネズも着替えようぜ、と唆され、浴衣を手渡される。白地に紺色で柄の入ったそれは、柔らかく手に馴染んだ。キバナはもう既に浴衣を羽織り、細長い紐と悪戦苦闘している。
    「……これでいいのか?」
     ネズが着ていた服を適当に畳んでいると、珍しく自信なさげな声が聞こえてきた。
     そちらを見遣ると、浴衣を着たキバナが微妙な顔つきで自分の全身を眺めやっていた。上半身はきっちりときれいにまとまっている。苦戦していた帯も腰元できりりと決まっていた。問題は下だった。あからさまに丈が足りていないのである。人並み外れた長身であるため仕方がないだろうが、つんつるてんだった。思わず噴き出してしまう。
    「ぶっ……」
    「あっ!! 笑ったな!!」
     すこし顔を赤くしてキバナが口角を下げる。浴衣の裾からにょきりと脛が出ていて、育ち過ぎた子どものようでおかしかった。
    「いや、うん、かわいいですよ、かわいい」
    「かっこいいって言ってほしかった……」
    「……フロントにもう一つ上のサイズがないか訊いてみましょうか」
    「うん……」
     少々しょげた様子のキバナが、なんとなく哀れに見えてきた。剥き出しの若々しい脛が眩しい。それを眺めて、ネズはふと思いついた。
    「キバナ、ジャージでもなんでもいいんですけど、紺色のボトムとか持ってきてますか?」
    「え? あるけど……」
     キバナがごそごそと荷物を漁る。取り出されたのは少し幅のあるストレートのボトムだった。運のいいことに、浴衣の柄の色と近い。
    「これ履いてください、下に」
    「浴衣着たまんまで?」
    「そうです。それでこの裾をこう、からげたら……」
     ネズは膝を折って姿勢を低くすると、キバナの浴衣の裾をちょいちょいと腰の後ろの帯に挟み、整えた。
    「これでどうです?」
    「あっ! えー、いいじゃん!」
     すげー、とキバナは先程までのしょげた様子はどこへやら、満面の笑みでくるくると回った。さっき泣いたココガラがもう笑ったという感じである。
    「気に入ったようで何よりです」
    「さっきよりも動きやすいし! ネズ、ありがとな、すげーうれしい、かっこいいこれ」
     へらへらと嬉しそうにするキバナを見て、ネズも口角を緩めた。
    「でもオレ多分これ一人でできねえや。あとでまたやってくれる?」
    「そのくらいならお安い御用です」
     じゃあ大浴場行こ、といってキバナは跳ね回らんばかりの勢いでネズの手を掴む。はいはい、と返事をして、ふたたび繰り返されはじめた「ばばんばばんばんばん」のメロディに、ネズはこっそり目を細めた。


    Day16-30 + more!


    Day16- During their morning ritual

     ふたりで暮らし始めてから結構経った。オレはともかくとして、ネズの生活リズムは当初かなり不規則で、朝顔を合わせることがないというのはザラにあった。仕方がないことと思っていたが、なんとネズはだんだん時を重ねるにつれ人間らしい時間に活動を開始するようになってきた。すげー進歩。
     なんでもいつかミュージシャン仲間のうちでそういう話になったらしい、そういう話ってのはいわゆる働き方の話だ。そいつはサラリーマンのようにきっちり朝起き、昼には一時間の休憩を取り、十八時を過ぎるときっぱり作業を止めるのだという。むしろ生活にメリハリが出てコンスタントに作品を出せるようになったのだとか。ネズはそいつほどカッチリ時間を決めたわけではないようだが、なるほどそれは長期的に見ても良い判断だと思ったらしかった。無論オレさまも大賛成。だって長生きしてほしいもんね。
     しかしだからといって朝に強いわけではないネズは、ほとんど無理矢理って感じで起きてくる。オレさまは大体朝六時前くらいにはぱっちり目が覚めちまうんだけど、ネズが起きてくるのはそれより大分あとで時間もまちまちだ。
     起きてくるとネズは一番にベランダをがらりと開ける。日光浴かと思うだろ、それがさ、一発目に煙草吸うんだよね。吸わないと目ぇ覚めないんだって。それってどうなのって感じだけど。健康な生活目指してるくせに、明確に不健康寄りだよな。本末転倒じゃね? って思わなくもないけど。とにかく朝イチに目覚めの一本だ。たっぷり時間をかけてタールとニコチンと日光を吸収し、幾分はっきりした感じの目元でネズは戻ってくる。そんで、そのまんま洗面所に直行する。
     ばちゃばちゃと乱雑な水の音が聞こえてくる。顔を洗って、歯を磨く。そこまでしてやっとネズは九割くらい覚醒する。オレはといえば、朝食もその片付けも終わって今からコーヒーでも淹れようかなって頃合。キッチンで適当にドリップバックをふたつマグカップにセットして、湯を沸かしてる。そしたら、ネズがのっそり近付いてくるのだ。
    「……おはようございます」
    「ん、おはよ」
     そんで五割くらいの確率で、ぼすっと頭とか肩とかをぶつけてくる。来ない日もある。今日は、来た。そういう時はちょっと屈む。そしたら伸び上がって、唇がそっと触れる。髪から煙草の匂い。口の中はミント味。なんだかんだ言って、オレこの瞬間好きなんだよね。なんかこのアンバランスな感じ、ネズっぽいだろ。ぬるま湯みたいな緩い触れ合いを数瞬だけ楽しんで、すぐにふいと離れる。
     そしてぺろりと唇を舐めて、ネズはぱちぱちと瞬く。そんで、ぽつりと呟く。
    「……ケチャップ。スクランブルエッグ」
    「せいかーい」
     何やってんのって、オレの朝飯のメニュー当て。ちょっとしたゲームみたいになってきてる。これが楽しくて、オレの朝飯のメニューのレパートリーは一時より格段に増えた。まあネズは食わないときの方が多いから一人分しか用意しないんだけどさ。当てられると得意気だし、外れるとやや悔しそうなのが楽しいんだ。今日は簡単だったねとか何とか言って、やや満足気にネズはテーブルの方にゆらゆら歩いていく。オレは湯気を立てるマグカップをふたつ持って、その後を追うってわけ。
     そんな感じで、オレたちの朝はちょっと変なかたちで定着しつつある。でもなんかオレたちっぽくていいんじゃないかなって思ってる。始点はばらばら、寄り道も少々、でもコーヒーだけは一緒に飲む。もしかしたらちょっとずつまた変わっていくかもだけど、それもそれで楽しみではあるんだよな。マグカップを片手にしかめっ面で新聞読むネズは、オレの顔を見て「なに笑ってるんです」と文句を言うのだった。



    Day17- Spooning

    「……つめてっ」
     ちいさく声がしました。もぞもぞと身じろぐ音も。ああ当たっちまった、そう思って足を引っ込めたのに、あっちから伸ばしてきた。あっという間に背後から腕やら足やらがやってきて、絡め取られる。おれは抱き枕じゃねえんですけど。こんな冷たい抱き枕、冬場はいやでしょ。
    「作業おわったの?」
     キバナはとろんとしたまろい声を出します。ひと段落したと伝えると、つむじに柔らかい感触がした。おれ風呂入ってないんですけど、いいんですかね。でもあんまり気にしてないみたいです。自分はキレイ好きでしょっちゅう風呂に入ってるくせにね。
     冷え切ったおれの爪先を、キバナは脚に挟んでさすった。よくやるな、と思います。自分で言うのもなんですけど、氷みたいだから。おれ、作業に夢中になると暖房とかつけんの忘れちゃうんです。気付いたときには大体後の祭りです。元から体温も高くないのに、もうこのまんま冷え切ってぱきんと折れちまうんじゃないかってくらいになって。
    「つめたいでしょ」
    「うん」
     うん、って返したくせに、それを止める様子はない。布団のなかはこいつの体温であったまってるから、別にそんなことしなくたってそのうち、まあ、しばらく待ってればこの爪先だって徐々にじわじわあったまってくだろうに。
    「あったかい部屋でさあ……」
     相変わらずのんびりした声で、キバナはゆったり呟く。
    「あったかい部屋のなかで、あえてアイス食べるのって、いいじゃん」
    「そうですかね」
    「うん、いいんだよ。なんつーの、ちょっとすぅっとする感じっていうか。そんで、そのあと余計、あったかさを感じられるようになる、っていうか」
    「はあ」
    「うん、だからさ……そういう感じだから。だから、つめたいけど、いいの」
     そうですか、とだけ返します。ほんとはわかってます、多分おれに気を使わせないようにこういうことを言ってるんだって。どうしてだかこいつは、おれに甘い。時々どうすればいいのだかわからなくなる。シンガーソングライターが、聞いて呆れるでしょ。だから、せめて動かないようにじっとしている。後ろのキバナは機嫌よくもぞもぞしてますが。
     こうしてると、こいつの肌のなめらかさに、その温度に、とくとくと息衝く心臓に、目眩がしそうです。だんだんととろかされていくようです。てのひらの中で溶けていくカップのアイスになった気分です。そしてそれが存外いやな気分じゃないことに、おれは戸惑ってしまうのです。アイスは、溶けちまったらおいしくないのにね。でもきっとこいつは、ぺろりと飲み干しちまうんでしょう。
     瞼を閉じると、じんわりと昏い宇宙が廻ります。ふと、肩の辺りに、キバナの鼻が押しつけられた感触がしました。ふすんと鼻息が当たって、ひっそりと笑う気配だけが、漂ってくる。何がそんなに楽しいんでしょうね。困っちまう。困っちまうから、寝ちまおう。おやすみ、と言ってみたら、やっぱりとろけた声で、キバナは同じ言葉を返してきました。



    Day18- Doing something together

     ぴかり、と頭上で太陽が光る。心地良い陽射しが体ぜんぶを包む。すこし遠くから、潮の匂いもする。くん、と鼻を鳴らし、にかりとキバナは笑った。
     いつものワイルドエリアから足を伸ばして、今日はここヨロイ島で、キャンプを楽しんでいる。離れ島には人もそう多くはなく、広々としたフィールドを存分に使うことができた。折しも天候に恵まれ、絶好のキャンプ日和と言えた。ポケモンたちものびのびとその辺りを走り回ったり、うとうととまどろんだり、思い思いに楽しんでいる。そんな様子を眺め、キバナは満足げにうんうんと頷いた。そしてちらりと横を見る。そこには、晴天が妙に似合わない男がひとり。
     どでかい銀色のパラソルの下に、簡易なチェアが一脚。そこにネズは気だるげに腰掛けていた。しかし不機嫌そうな様子ではない。バトル中の悪辣な闘いぶりが嘘のように無邪気にはしゃぐ手持ちたちを、微笑ましく眺めていた。視線の先には、その中でもいっとう嬉しそうに駆けずり回るズルズキンがいる。
     キバナはチェアのすぐ横の地面にそのまま座り込んだ。青草の感触が心地良い。自然、ネズを見上げる形になった。
    「晴れてよかったね」
     ちいさな声で、うたうようにネズはそう言った。晴れは嫌いなんじゃなかったのか、と言えば、そりゃ好きじゃないけど、雨の中のキャンプは大変でしょ、と当たり前の答えが返ってきた。
    「あんなにはしゃいじゃってまあ……久し振りに見たね。ヨロイ島、来るのは億劫だったけど、来てよかったかな」
    「ズルズキン、嬉しそうだな」
     まあそりゃそうだろうね、とネズは視線を外さないままに答える。
    「ここ、あいつの故郷ですからね」
    「へーなるほど道理で……って、え? そうなの?」
    「そうですよ」
     そう言うや否や、ネズはいきなりキバナの目の前で両手をパチンと叩いた。うわっ、と声が出る。
    「びっ、くりした、なんだよいきなり」
    「……ねこだまし」
     ひるみましたね、とネズは意地悪げに笑った。はいはいひるみましたよ、とキバナは頭を搔く。ねこだまし、ネズのズルズキンの得意技である。
    「この技、卵遺伝でないとズルッグは覚えないんですよ。あいつの親はね、この島のコジョンドです」
    「あーなるほどな!?」
     何度も苦戦させられたズルズキンの闘いぶりを思い出す。そういえば彼は、いかくという珍しい特性の持ち主でもあった。技構成といい、彼には特別な思い入れがあるのだろうな、と感じていたのである。なるほどここの生まれであったか、と納得する。そして、ひとつの可能性に思い至った。
    「……っていうことはネズさ、あの道場で修行とかしてたの?」
     コジョンドの名を聞き思い出したのは、この島の持ち主の老爺の飄々とした、人を食ったような顔であった。ダンデが幼い頃に修行をした道場に、キバナは入門したことはなかった。最近はチャンピオンも成り行きで入門し一波乱巻き起こしたのだと聞く。キバナの問いに、ネズは首を横に振った。
    「いえ、してません。ポケモンより先におれが死にそうだと思ったので。ここでは少々うろうろさせてもらって、ズルッグのたまごをもらったぐらいです」
    「あっ、そう……」
     なぜかそれを聞いて、ほっとしてしまった。いや、なぜかというのは薄々キバナも自分で気付いているのだが。多分これで、ネズも入門しておりそして万が一その期間がダンデとかぶっていたなどということになったら、滅茶苦茶に臍を曲げてしまいそうだからである。
     ネズとダンデは、割と仲がいい。多分キバナがそれぞれと知り合う前に、彼らは出会っている。ふとした時の言葉の端々にそれが滲み出ている。そのたびにキバナの知らないふたりの昔話を勝手に想像して、心のなかの普段はあまり使わない場所がざわついてしまう。それは子どもっぽい「オレさまも混ぜてほしい」という気持ちだったり、それよりももうちょっとビターな種類の感情だったりするのだ。その感情にたまにブレーキをかけられなくなることに、最近のキバナはこっそりと苦心しているのであった。
     頭上でネズがふっ、とちいさく笑うのが聞こえた。それを聞くや急に気恥ずかしくなってきて、キバナは慌てて立ち上がった。
    「あー、なんか腹減ってきたな! カレー作ろうぜ、カレー」
    「ふふっ……おまえ、誤魔化し方下手くそだね」
    「うっ……」
     いいですよ、と言ってネズは立ち上がった。向こうで転げ回るポケモンたちは相変わらず元気いっぱいだ。眩しげにそれを見遣って、ネズは唇の端をすこし上げた。
    「そういえばおまえの相棒たちがどういう生まれなのか、あまり訊いたことがありませんでしたね。カレー作りながら、ゆっくり聞かせてくださいよ。おまえがどんな旅をしてきたのか、ね」
     そう言ってネズはゆっくり歩き出した。それに気付いた数匹が嬉しそうに駆け寄ってくる。すこしの間だけその背中を眺めて、キバナもすぐに後を追いかけた。



    Day19- In formal wear

     じんじん、じわじわと熱を持っている。ひりひり、じりじりと痛む。ほんのちょっとだけの傷のはずなのに、だんだん頭まで痛いような気がしてくる。靴擦れ、だ。そうとは知られないように精一杯の笑顔を振りまきながら、キバナはもぞもぞと足を動かした。
     立食形式のパーティーである。チャンピオンであるダンデの成人祝いも兼ねたそのパーティーは、ロンド・ロゼの大広間で開催されていた。主賓のダンデが遠くに見える。目を白黒させながらも初めての酒に果敢に挑戦しているらしかった。絢爛豪華なシャンデリアの下に、人、人、人が洒落た服で飾り立ててひしめいている。キバナも張り切って、最近新調したばかりの一張羅でもって華を添えた、つもりだった。
     しかし慣れない革靴がキバナに牙を剥いた。普段は履き心地のよいスニーカーに甘やかされたその足は、どうも革靴をフィッティングした時よりすこし大きく育ってしまったらしい。キバナは成長著しい己の体を恨んだ。靴擦れというものはなぜこんなにも苦痛なのだろうか。ほんのちょびっと皮が剥けて、柔らかい肉が革に擦れる、それだけで身悶えして泣きたくなってくる。少しでも動くたびに、否応なく傷口を意識させられる。顔が歪むのを誤魔化すのが難しくなってきた。
     ちょっとすみません、と話を中断し、トイレにでも行く振りをしてその場を離れる。若い自意識が邪魔をして、靴擦れしてしまって痛いのだ、と正直に白状することはできなかった。カッコ悪いから、である。せっかくキメてきたのに、とキバナは唇を噛み締めた。夜の闇のような濃いネイビーのスーツ。普段着用しているユニフォームと似た色だが、大人への入口に立ったようでわくわくした。それも今は、なんとなく霞んで見えるような気がしてしまう。
     じんじんと痛む足をなんとか動かして、広間を出る。人気の無い廊下の隅に椅子を見つけ、そこに座り込んだ。もう二度と立てないような気もした。情けない気持ちで大きく溜め息をつく。そうっと靴を脱ぎ、こっそり靴下も脱ぐ。思ったよりも広い範囲で靴擦れを起こしてしまっていた。傷口を見ると余計に気が沈んだ。どうしよう、戻りたくないな。為す術なく、もぞもぞと爪先を動かして、しばしそこでぼうっと座り込んでいた。
     ふと、影が差した。細身の革靴が視界に入って、鈍く艷めく。びくりと震え、視線を上げる。そこには、隣町のジムリーダーが、無表情で立っていた。
    「あっ……」
     ネズだった。肩口のあたりまで伸びた髪を緩くハーフアップにして、これまた細身のグレーのスーツを纏っていた。トレードマークのチョーカーは、今日はその首にはない。代わりに、ほどかれたボウタイが揺れている。シャツのボタンもいくつか開けられて、すこしよれていた。ネズは、すうっと指を動かし、キバナの足を指した。
    「痛そう」
    「えっと、これは……」
     靴擦れ、見りゃわかる。そう言うと、ネズは手に持っていたグラスをキバナに手渡した。なみなみと、薄いピンク色の液体で満たされている。思わず受け取ってしまった。
    「ノンアルですよ、安心しな」
     訊いてもいないのにネズはそう言った。そして、ポケットから何かを取り出してしゃがんだ。キバナの足をそっと取る。いきなりの行動に少なからず動揺したが、グラスを持たされているので激しくは動けない。
    「えっ、ちょっと」
    「痛いんでしょ」
     ネズが取り出したのは、絆創膏だった。妙にかわいらしいデザインである。白黒模様、ジグザグマ。
     ぺりぺりと間の抜けた音を立てて、細い指がフィルムを剥がす。それから傷口にパッドをあてがった。一瞬ちくりと痛みが走る。つぅ、とキバナがちいさく声を上げるのも構わず、べたりと絆創膏が貼り付けられる。両足を同じように処置したあと、ネズはほとんど無表情のまま、確認するように一度頷いた。
    「まあ、ないよりゃマシでしょ」
     柄は気にしないでください、妹用なので。靴下履きゃ見えませんよ。またもや訊きもしないのにそう言って、ネズはさっさと立ち上がった。そしてそのまま挨拶も何もなしに帰っていこうとする。
    「ちょ、ちょっと待って、ください」
    「なんです」
     くるりと猫背が振り向いた。裸足のまま立ち上がる。背は、ややキバナの方が高い。目線がはじめて合って、思わず視線が泳いだ。多分、今まであまりまともに話したことはなかった。初めてちゃんと話すのがこんな情けない場面だなんて、そう思うと悔しかったが、礼を言わずに帰す訳にはいかないと思った。
    「あの……ありがとう。……なんでわかったの」
    「……いかにも痛そうだったから」
     あとおれ、耳いいんだよね。君の息遣い、普段と違ったから。なんでもないようにそう言って、ネズはまたくるりと踵を返した。
    「あっ、これ、グラス……」
    「あげます。おれには甘すぎたんで」
     ひらりと背中越しに手を振って、ネズは会場の方に歩いていった。細身のシルエットはそのまま消えて、あっという間に見えなくなる。呆気にとられて、そのままキバナは椅子に座り込んだ。
     手の中のグラスに、そっと口をつける。流れ込んできた液体は、ひんやりと甘かった。キバナにとってはちょうどいい甘さだった。眉を顰めて、絆創膏の貼られた足を見る。
     気の抜けた顔でべろりと舌を出すジグザグマ。かわいらしい絆創膏、「甘すぎる」と渡されたドリンク。複雑な気持ちでふたつを代わる代わる眺め、キバナは溜め息をついた。
    「……クソ、おとなになりてえ」
     舌に残る甘さの余韻を噛み締める。まだしばらく、会場には戻れそうになかった。



    Day20- Dancing

    「えっちょっと、これオレさま史上最高じゃない……? 超仕上がってるんですけど……」
     鏡の前。キバナはほとんど恍惚とした表情で自分の体を丹念にチェックしていた。
     プロテインメーカーとのタイアップCMの撮影を間近に控え、最近のキバナは怒涛の勢いで身体を作っていた。元来ボディメイクには気を配っていたが、やるならとことんだと気合いを入れた結果、それは惚れ惚れするような成果を生み出した。思わず鏡の前で写真を撮る。努めて「なんでもないですよ」という表情を作り、「近々の仕事に備えて」「お楽しみに」と短めのハッシュタグをつける。それだけでは飽き足らずあらゆる角度から自分の身体を眺め回して、ようやくキバナは満面の笑みを湛えて化粧台を後にした。裸身にパーカーを羽織り、下にスウェットパンツを履いただけの姿である。
     口笛でも吹き出しかねない様子のキバナを、ネズは胡乱げな目付きで眺めていた。すっかり冷めた紅茶のマグカップを手に持っている。
    「……妙にご機嫌ですね」
    「いやそりゃご機嫌だよ。見なよこの体を」
    「毎日見てますけど」
     や、まだ足りない、もっと見て、と迫るとネズは口を歪めて身を捩った。好きなクセに、とキバナは無理矢理ネズの座る椅子の近くまでにじり寄る。
    「暑苦しい、近い」
    「いやさ、ほんと、見てよこれほんとオレさま史上最高レベルの仕上がりよ。こんなジムリーダーいる? いるんだなぁここに」
    「鬱陶しい」
     キバナのテンションが上がれば上がるほどにネズは嫌がるポーズを作る。だんだんそれが面白くなってきたので、キバナは少々度の過ぎた悪ふざけを思いついた。
    「ロトム、ちょっと音楽かけてよ」
    「了解ロ!」
    「は? 何ですか急に」
     くるくると舞い上がったロトムが音楽ライブラリから適当に音楽を流し始める。スピーカーからちょっとねっとりした感じのヒップホップが流れ出した。少々、いやかなりセクシャルな雰囲気の歌詞である。ふふん、とキバナは得意げに笑う。こほんと咳払いをし、表情を作り、椅子に座ったままのネズの肩に両手をかけた。
    「……お嬢さん、今日はバチェロレッテパーティにお招きいただきありがとう」
    「オイなんだいきなりその設定」
    「独身最後の夜を過ごす女とメイル・ストリッパー」
     ばかですか、とネズは天井を仰いだ。
    「おれ、絶対女だったとしてストリッパーは呼ばねえよ。ソニアとルリナならともかく」
    「よくつるんでんじゃん」
     流れる重低音のビートに合わせて、キバナは身体をくねらせた。最初は勿体ぶって、そして肘先からは一気に勢いよくパーカーを脱ぎ捨てる。床を滑っていくパーカーをネズは呆気にとられて眺めた。ネズの手から取り上げた紅茶のマグをテーブルに置く前に、中に指を突っ込む。濡れた指を胸元から綺麗に割れた腹筋まで滑らせ、背筋をなめらかに湾曲させる。そのままの勢いで床に伏せ、腰をまるで性行為の最中を思わせるようなあからさまな動きでグラインドした。ほとんど見よう見まねであったが、なかなか様になっていたと言えよう。ネズは気圧されたように唇を引き攣らせ、しかし目を逸らさずにいた。
     舌なめずりをして起き上がり、座っているネズの脚を腰に導き、肩に手をかけさせる。ほとんど予備動作なしでネズの身体を担ぎあげると、「ぎゃっ」と小さな色気のない悲鳴をネズが漏らした。
    「お、おまえねぇ」
    「ふふん、軽い軽い」
     そのままゆさゆさと揺らす。行為を暗示する動きに、ネズの顔が赤くなって歪んだ。
    「も、もういい、たくさんです、わかったから……」
    「うはは」
     まだまだ曲続くぜ、とほくそ笑む。ネズは眉間にこれ以上ないというほど皺を寄せて、「わかりましたよ、セクシーですよ、認めますよ」と音楽にかき消されそうなほどの小声で呟き、キバナの肩口に顔を埋めた。



    Day21- Cooking

     ネズの料理は割と雑だ。キバナはネズと暮らすようになって初めて、「名前のない料理」というのがあるということを知った。
     今日のこれは何、と訊けば、高確率で「……なんだろうね、なんか、野菜を煮たやつですね」だの「豆を煮たやつですね」だの「肉を煮たやつですね」だの返ってくる。煮てばっかりなのはご愛嬌である。火が通ってればいいだろというのがネズの言い分である。
     キバナは反対に、名前のきちんとついている料理ばかり作る。まず作る前に、調べる。スマホだったり雑誌だったり料理本だったり、色々だ。そこから、「これうまそう」「ネズこれ好きそう」などとアタリをつけたもののレシピをメモして、買い出しに赴く。そしてレシピに忠実に、真面目に、作る。アレンジはほとんどしない。別に料理について手慣れているわけでなし、初心者に毛が生えた程度のものだと自認しているので慎重なのだ。プロの書いたレシピと己の勘とどちらが信用できるか、そう問われればキバナは即座にプロに軍配を上げるであろう。であるからして、ネズに「今日のこれはなんですか」と訊ねられれば、胸を張って答えることができる。「チキンのクリーム煮込みカロス風!」「おふくろ直伝クスクスサラダ!」「今日はちょっと趣を変えてバウタウン風フィッシュカレーだぜ!」、などなどである。まあ訊ねられることは少なく、自分から意気揚々と宣言するのだが。
     この違いで困ったことはほとんどない。名前がついてようがついていなかろうが、うまいものはうまい。まずい時はまずい。微妙な時も同じくらいある。名前の有無は味には関係ないのである。ただ強いて言うならば、名前がないことにより、再度のリクエストがし難いこと。それだけであった。つまり現在。
    「あのさあ、前作ってくれたやつあんじゃん、うまかったなーあれ、あれ食べたい……あれ……」
    「どれだ」
    「えーと野菜煮たやつ、そうだ確かなんかズッキーニとかも入ってて……」
    「……どれだ」
    「えっと確かちょっとピリ辛で、ってもう、だーっ!!めんどくせえ!!」
     キバナは頭を掻き毟った。ネズはその様子を口をひん曲げて見つめている。
    「もうちょっとさあ、なんつーの? 識別しやすい名前つけてよ……」
    「いちいちそんなめんどくせえこと……」
     こういう時に困んじゃん、そう言って唇を尖らせると、ネズは腕を組んで顎を摩った。
    「……というか、もう一回作ってくれって言われてもね、自信ないですよおれ。毎回ありあわせのもんで適当に作ってんだよ」
    「ええ?」
    「いや半分くらいおまえのせいですよこれ」
    「えっオレ? なんでよ」
     そう言うとネズは、わかってなかったのかと言いたげな顔で鼻白んだ。
    「おまえが手当り次第次から次に新しいのに挑戦するからだろうが。余った材料やら調味料やらが増える増える、そしたらそれ使い切んなきゃいけないでしょ。だからおれもいちいち何入れたかなんて覚えてねえんですよ」
    「あっそういうことだったの?」
     途端にキバナは眉尻を下げた。なぜか嬉しそうですらある。なんだよ、とネズは反対に眉を吊り上げた。
    「こっちは苦労させられてんだそれで」
    「ええ〜、なんだ、じゃあそれ言っちゃえばオレさまとネズの合作ってことじゃん」
     キバナが至極上機嫌に漏らしたその言葉に、ネズは一瞬目を見開いた。そしてすぐに呆れたように溜息をついた。
    「……あのね、作ってんのおれですから」
    「うん、オレさまが余らせた材料で、ネズが作ってる。合作!」
    「自分の手柄にしねえでくれます? ……クソ、なんで料理でまでおまえの尻拭いしてんですかねおれは」
    「えっそれもしかしてこの前のトーナメントでのこと言ってる? 謝ったじゃんあれは!」
    「ええそうですよ、言ってますよ」
     はああ、ともう一度大きな溜息をついて、ネズはキッチンの方に向かっていく。その後ろをいそいそと着いていく。
    「……あっそうだ、オレさまがメモすればいいんじゃね? 記録係。そしたら気に入った時にまた作れるじゃん。どう?」
    「……まあ、好きにすりゃいいんじゃないですかね」
     よし、やるぞ、と意気込むキバナを見て、ネズは少々困ったように、しかし満更でもなさそうに、ちいさく笑った。計量スプーンではなく適当なカレースプーンで調味料をだばだば入れるネズの料理の手つきにキバナが度肝を抜かれるのは、数分後の話である。



    Day22- In a battle,side-by-side

     俺は長いことアニキと苦楽を共にしてきた。仲間内じゃ一番の古株だ。アニキがまだケツの青いガキで、オレがまだたいあたりしかできなかった時から、俺たちはずっと一緒。仲間が増え続けても、俺はアニキの相棒としてアニキの前に立ち続けてきた。俺には数えるのが難しいくらいの長さの時間を過ごしてきたんだ。
     アニキはこの前、ずっと番を張ってきたジムリーダーとやらの座をお嬢に明け渡した。もちろん俺はまだまだやれる、そう思ってたわけだが、アニキはなんともいえないスッキリした顔をしていた。まあこれで「引退試合」が腑抜けたもんだったら、俺もアニキのことを小突いてやり直しを要求するにやぶさかじゃなかった。だが、その試合の内容はアニキにとっても俺たちにとっても納得のいくものだった。全て出し切った。「ラストライブ」にふさわしい幕切れだった。今でもそう思う。
     まだ若く血気盛んなお嬢のチームからは惜しむ声も上がったが、俺たちアニキチーム五匹の総意は一緒だった。引退だ。黒星での終わりじゃあるが、胸を張れる試合だった。あの日あのスタジアムで立ったポケモンであるならば、異を唱える者はいないだろう。そういう試合だった。砂まみれで口の中はじゃりじゃりだったけどな。でもそれもまあ、悪かない。
     ただ引退試合のあとも、俺はすぐにフィールドには戻ることになった。アニキはトレーナーやめたわけじゃねえからな。くわえてアニキの持ち前の面倒見の良さだか巻き込まれ体質だかが祟って、俺たちはガラル全土を回ることになった。面倒ではあったしなかなか困った状況じゃあったらしいし、こんなこと言うのはなんだけども、楽しかったぜ。ついジムチャレンジの頃を思い出しちまった。いろいろヘマもやったし、負けが込んだこともあったけどよ、がむしゃらに進んできたよな。初心に返るっつうのかね。多分アニキもそんな気持ちだったんだと思うぜ。俺はアニキの言葉が全部わかるわけじゃねえけどよ、なんかそういう顔してたもんな。
     その顛末が終わったあと、なんだか知らねえがアニキはそわそわしてた。あの「引退試合」のあとは、もう何一つやり残したことはねえ、みたいな、晴れやかにもほどがあるって感じだったんだけどな。
     夜中にリビングでなんにも映ってねえテレビ、いやもうちょっと正しく言うと、あれよ、なんて言うか俺は知らねえが、ざーざー言ってる耳障りなやつがあるだろ。あれを見てぼけーっとしたりよ。急に俺と一緒にヨロイ島に足を伸ばしたりよ。野生の奴らと闘ったりするでもねえ、ただ海を見たり砂漠でうろうろしたり、何考えてんだかよくわかんなかったが。ただ、ぼけーっとしてるようには見えたが、腑抜けてるってツラでもなかったんだよな。今思えば。そうだな、何かを待ってるって感じだった。ライブ前にギターのチューニングしてる時みてえな感じだよ。感覚を研ぎ澄まして、何かを待ってる。そういう感じだった。
     何を待ってるのかわかったのは、つい最近だ。そしてそれは、今の俺に、繋がる。
     狭いボールの中から解き放たれて、俺は雄叫びを上げた。アニキがいっとう褒めてくれる、甲高い唸り声だ。振り返れば、アニキがちいさく俺に目配せをする。あの作戦で行くんだな。全部を諒解して、今度は横を見る。ばさばさと羽ばたく音がする。もう一度雄叫びを上げて、俺は前に向き直った。
    「フライゴン! じしんでスタジアムを揺らしてやれ!」
    「タチフサグマ! ブロッキング!」
     二人分の指示が飛ぶ。横で滞空する砂漠の精霊が綺麗な羽音を響かせて、大きく地面が揺れた。だが防御態勢を取っていた俺にはダメージは通らない。目の前の二匹は大きく身体を揺るがされて、ひび割れた地面に膝をつく。今回はうまくいったぜ、と内心ほっとした。いやほんと、この作戦どうかと思うんだよな。たまにスカすからな。そのたんびにアニキのマイクスタンドが横のでっけー兄ちゃんに火を噴くからよ。チームだろオイって感じだ。だけどそういうとこがまあ、らしいのかね。こっちはじしん当たっちまうと結構キツいからやめてほしいんだけどよ。技構成考え直した方がいいんじゃねえの。
     ああ、アニキは今日もご機嫌だよ。歌っちゃってるもんな。新曲だぜ。ぼーっとしてた期間、これ作ってたのかねえ。何をうたってんのか、俺にはわかんねえけどよ。でも晴れやかで、ちょっと冗談めいてて、のびのびしてる。そのくらいはわかるぜ。
     横に視線をやると、砂漠の精霊はバトル中だってのに俺に向かってへらりと笑ってみせた。ポケモンってのは、持ち主に似るのかねえ。俺たちのチームとはちょっと雰囲気違うよな。慣れてきたけどよ。しかし、こいつらと肩並べて闘うことになるなんて想像してもなかったぜ。アニキは……多分折り込み済みだったんだろうな。いやどうかな。でも少なくとも、楽しそうだ。いきいきしてるぜ。じゃあまあ、問題なしだ。隠居の身とは程遠い、そんな日々が俺らにもまだ待っていたってわけだ。何があるかわからんね。アニキが楽しいなら、俺らも楽しいよ。さあ、次はどの作戦でいくんですかい、アニキ。天に向かって吼えれば応えるように、マイクのハウリングが、響いた。



    Day23- Arguing

     ネズってさ、なんつーか、急に卑屈になるじゃん。自信満々で堂々としてる時もあるのにさ、えっそこ?そんなふうに思ってたの?ってとこでいきなりスイッチ入んの。酒入ったらその打率上がるのよ。んで今日はさあ、酒入れちゃったんだよな。しかもお互いまあまあ疲れててさ。もうダブルパンチだよな。
     えー、話戻すけど、まぁそういう感じでバッドになられちゃったらこっちとしてはさ、えっそうかな、とかそんなことねーと思うけど、とかさ、フォローしようとすんじゃん。でもそれはまあ全く響かねえわけよ、そのモードに入っちゃったネズには。そういうの求めてるんじゃないんだろうな多分。ただ浮かんできちゃうんだと思うよ。でもやっぱ、聞く方もさ、うーん、なんとかできねえかなって、思っちゃうじゃん。だろ?
     そんでさー、正直オマエもうそういう言い方やめたら?とかさー、思うわけ。っていうか言っちゃったわけ。言っちゃったんだよなあ。そういう風に自分で言っちゃうから余計落ち込むんだろ、つって。言っちゃったんだよ。別に他から見りゃそんなことねえんだからさぁ、いずれにせよ結果出してきてるわけだし、気にすんなよなぁ、とかなんとか。いやわかるよ、ちょっとオレもこれは普段だったら言わずに流したかなって思うよ。でも言っちゃったんだよ酔ってたから。オレ酔っちまうといつにも増して正論マシーンになんのよ。わかってるよ良くないの、自分でもやめてえけどこれ。熱くなっちまうのよ良かない方向に。でも言い訳さしてもらうとよ、ネズもそれは知ってんのよオレが正論マシーンに変貌することは。そんでまあいつもだったらさ、あっちも流す。んで、「あーごめんちょっと今のは言い過ぎたかも」「いや、まあ、酔ってるしね」「ごめんごめん」「まあこっちもちょっとはね」つって終わんの。
     だってのに、その時はなんかもうさ、場がシーーンとしたわけ。そんでその後アイツなんてったと思う? せせら笑ってさ、顔歪めて、「おまえにはわかんねえですよ」、だって。
     なんか、カチーンときちゃって。何それって。いや待ってなんでそーいう話になんの? って。オマエそれは、それはさ、言っちゃいけないだろ、当たり前だろわかんねえのなんて、他人なんだから、他人だと思いたくねえけど他人なんだから、でもそれ言っちゃおしまいじゃんよ。終わっちゃうじゃん。コミュニケーションが終了するじゃん。他人だよ、他人だからそりゃわかんねえよ。生まれも違う育ちも違う、好きなもんも嫌いなもんも違うし、何もかも違うよ。だからわかんねえよ。でもわかんねえからわかろうとするんだろうよ。それを手前で「どうせわかんねえだろ」って拒否られちまったら、こっちゃもうやることねえじゃんよ。そりゃまあ、オレのいた環境の方が「恵まれてる」んでしょうよ。でも苦しみって別に全部環境由来じゃねえじゃん。人それぞれあるじゃん。いろんな理由で。それぞれ違うからこそ苦しいし、でもそれだからこそ歩み寄ろうとするんじゃねえの、って。なんかそんなことをさあ……つらつらとさあ……。
     なんかもう、カーッとなっちゃって、今言ったようなことを、うん、捲し立てちまった。やっちゃった。
     したら、アイツ立ち上がって。ゆらりって感じで。そんでそのまんま、なんにも持たないまんま、上着も着ないで、玄関に向かってった。オイ、って声掛けたけど止まんなかった。その代わりになんか飛んできた。無言だぜ。あっぶねえ、つって避けたらガシャンって落ちた。んで割れた。マジあぶねえ。
     そんで、ネズは出てった。ドターンってでけえ音してドア閉まって。足元見たらさ、割れてたの芳香剤だった。玄関口に置いてたやつ。あーあーあー、つってしゃがんで先にそれ拭いた。いや追いかけろよって思っただろうけどそんときはそれが先だと思ったんだよなあ。
     だばだば溢れた液体をタオルで拭いてたら、だんだん酔い醒めてきてさ。否応なくいろいろ反芻すんじゃん。したらちょっと、あーやべ、酔ってたからかもしんないけどオレもまあまあまずかったなこれ、って思えてきた。いや酔いのせいにするのは良くないな。
     違うからこそわかりたいんだってのは、これは、ほんと。ほんとにそう思ってる。でもその手前のやつね。「オマエそういう言い方やめたら」ってやつのほうね。いやオレこれある意味では正しい処方だとは思うんだけど、もしかしたらちょっと言うタイミングまずったよな、つか言葉足んなかったな、ってそう思ったわけ。だってこれ、ネズからしたらさ、「オマエの『中身の』問題だ」って言われたように思っても仕方ないんじゃねえの? って。冷静になってきたらそう思ったんだよな。ってか絶対そう捉えただろうなって思えて仕方なくなってきた。だって今日のアイツ、バッドに傾いてんだもん。うえーーそんなつもりじゃねえのに、つって頭抱えた。頭抱えたら手に持ってたタオルが芳香剤吸っててすっげー匂いしてんの、思わずむせたわ。涙目んなっちゃった。そしたらつられた感じで泣けてきちゃった。いや泣いてる場合じゃねえんだけど。傷ついてんの多分あっちだし。オレが思ってたのとは真逆の捉え方されてたんじゃねえの? だから「おまえにはわかんねえですよ」とか言って、そんでそこにオレが「いやわかりたいんだよ」とか言って火に油注いだからガシャーンつって出てったんじゃないの? ネズからしたらさ、「どの口で言ってんだ」って感じだったんじゃないの? 「『オマエの問題だ』って言ってきたのはそっちだろ」って感じだったんじゃ、ないのかなーって……ああほんと凹んできた。そんでここでようやく「追いかけよう」ってなったんだけど、テーブル見たらアイツ、スマホ置いてってんの。マジかよって感じ。うんわかった? オレがなんでアンタに電話してんのか。そっち行ってねえかなって思ったわけ。前置き長すぎ? それはオレさまもそう思う。あと多分余計なこといっぱい言った。酔いまだ残ってるっぽい。とにかくそういう訳でこっぴどく喧嘩して探してっから、なんかあったら連絡くれると助かるわ。何も持ってないから多分そんな遠くには行けないとは思うんだけどさ。ホントごめん巻き込んで。よろしく。どうにかなったら、うん、お礼するから。どうにかなんなかったら……どうしよう?



    Day24- Making up afterwords

     喧嘩して飛び出すなんて、おれもガキっぽいとこが残ってたもんだね。そうぼんやり考えられるようになったのは、飛び出してからしばらく経ってからでした。それまでの三十分くらいは、もう最悪で。酔ってるとこに走ったから、ゲロ吐きそうで。でも多分ここでゲロ吐いたら己の身が一層情けなく感じられて、拭くもんもないし、ゲロまみれでしくしく泣いてる成人男性の一丁上がりってことになるんだろうな、ってのが容易に想像できたんで、耐えました。生唾呑んで、呼吸を必死に調えて、耐えました。でも涙のほうは、ちょっと難しかったです。おれこういうとき、だめなんです。泣きたくて泣いてるわけじゃねえです。っていうかこの世で泣く人間の八割くらいは泣きたくて泣いてるわけじゃねえです。ストレス発散してえからってわざと「泣ける!」とかって銘打たれた映画見る人間とかはいるでしょうけど。あれもちょっとおれにはよくわかりませんが。大体みんな、胸に詰まった言葉を言葉にできなくて、怒りとか情けなさとかさみしさとか、そういうのが大渦みたいにとぐろを巻いて、そういう時に泣くんですよ。つまり今のおれです。
     飛び出して、きちまいました。今日はだめでした。耐えられませんでした。ついでになんか投げちまったのは覚えてます。何を投げたのかは覚えてません。でも割れた音がしたから多分、えーと、芳香剤でしょう。スーパーで安売りとかのやつじゃなくて、あいつがどっかで買ってきた、まあまあお高いやつです。匂いが好きだって言ってました。割れちまいましたね。ガシャーンと。おれはたまに、こうやってなにかを台無しにしちまうんです。割れたものは、元には戻せません。
     あいつが言ってることは、間違ってはないんだと思います。「そういう言い方するからそう思っちゃうんじゃないの」、そう言いました。そうです。あいつはいつも「正しい」です。でもその「正しさ」に息が詰まりそうになるときがあるんです。ひとは変われるというのは、あまりにも美しいおとぎ話です。おれはずっとこうで、これからもきっと変われません。どうやったって正しくはなれない、わかっています。そんなことはないってあいつは言うでしょうが、それも、苦しい。期待が苦しい。おまえの思うような人間じゃない。おれにはそうとしか思えません。あいつのまっすぐさが、苦しくてたまらなくなる時がある。それが今日でした。
     なんだってこんなおれといやがるんでしょうあいつは。おれがあいつなら、とっくの昔に見捨ててます。嫌でしょこんな、変えられねえことをいつまでもぐずぐず繰り言言うような。自分でもわかってんですよ。言わなきゃいいのにってね。あいつの言う通りです。でもね、だめなんです。どうしたって溢れてきちまう。変われないに決まってるのに、それが嫌で嫌で仕方なくて、止められない。「そんなことねえよ」ってあいつが困るのなんてわかりきってるのに、言っちまうんです。どうしようもないでしょ。ほんとに、どうしようもない。
     目の縁が熱いです。擦ると赤くなるから触りません。流れるままにします。首のあたりまでべちょべちょだけど、拭くものもない。鼻が詰まって、呼吸も苦しいです。腹の辺りがひくひく震えます。顔だけじゃない、体中があついので、適当にぺたりと座ったベンチが冷たくて、ちょうどいいです。横になりたくなってきました。というかなりました。お世辞にも綺麗とは言えねえ公園のベンチに。汚いけど、保冷剤にはちょうどいい。
     ほんとは見捨てられたいのかもしれないとすら思います。そうじゃないと説明できない気がします。呆れられて、匙を投げられて、「付き合ってられねえわ」って、そうやってあいつが離れていくのを待ってるのかもしれません。こわいからです。こわくて苦しいからです。正しくて、まぶしくて、こわくて苦しいから。なのにそのくせ、自分から離れていくことは、できないからです。今だってこうやってあいつの家からそんなに離れてねえ公園で、じっとしてます。別にスパイクに帰ったっていいし、もっと遠くにだって行けるはずなのに、ここにいる。来ないでくれと思いながらここで待ってるんです。齟齬が生じてます。つじつまが合いません。自分でもよくわからねえです。
     火照っていた頬が、ベンチのおかげでようやく冷えてきました。伝った雫のあとがすうすうします。首元なんか悲惨です。でももういいや。世界が横向きだから、ぜんぶどうでもよく見えてきました。目を閉じてたらいろんなことを後回しにできるような気がして、目を閉じました。
     しばらくして気が付いたら、あいつがいました。あいつの後頭部が目の前にあります。ベンチには座らず、地べたに座ってました。潔癖症の気があるくせに。ぼうっと、向こうを見てます。だいすきなスマホも弄らず。
     上着もないまんまベンチでうつらうつらしてたから、体は冷え切ってました。ぶるりと震えてくしゃみが出て、しまった、と思う前に、あいつが振り向きました。なんともいえない顔をしてます。真剣な顔です。でもどこかやさしいのです。ああ、ほんとうに苦しい。絞り出した声は、情けないものでした。
    「……ほっといてもらえないですか」
    「ほっとかない」
    「なんで……」
    「ほっといてほしくないくせに」
     あいつの手がおれの首に触れました。超濡れてんだけど、とか言います。じゃあ触んなきゃいいのに。あいつは袖口でぐいぐいおれの首元を拭きました。
    「泣いたの」
    「見りゃわかること聞くな」
    「そっか」
     ごめんな、ってあいつは言いました。またです。悪いの、ぜんぶおれなのに。
    「謝んないでください……」
    「ううん、謝る。オレが謝りたいから」
     これです。そう言われてしまえば、もうおれに逃げ場はないのです。わかってるんでしょうか。わかってて、こう言うのでしょうか。
    「あのさ、あれは、ほんとだよ。オレとオマエは違うから、わかりたいんだよ。それはほんとだ、本心だよ、ネズ」
    「わかって、ますよ……おまえが、正しい、おまえは正しいんです……おかしいのはおれで……だからおまえにはわからないんです……」
     キバナはおれの目元を撫でました。どこまでもやさしい手つきです。
    「……でも、わかんなくても、一緒にいたいよ」
     一緒にいて、いいんでしょうか。やさしさが苦しいのに。正しさがこわいのに。おれはきっとおまえをまた傷つけるのに。相互不理解の波打ち際で立ち尽くすおれたちは、お互いにわかりあえないままでも、それでも寄り添えるんでしょうか。
     キバナが、ベンチに頬をつけました。汚いでしょ。冷たいでしょ。おまえにそんなことをさせたくはないのに。うつくしい瞳が、おれを捉えます。一緒にいていい? もう一度、キバナはそう言いました。頷くことも、首を振ることも、おれにはできなくて。そのまま瞼を閉じて、うつくしい瞳から逃げようとしました。逃げられはしないなんてことは、とっくにわかっていること、でした。



    Day25- Gazing into eachothers’ eye

     いてっ、と小さく声を上げてキバナは目元を押さえた。
    「なんか……ゴミ入ったかな」
    「あらま」
     いてて、と目を瞬かせるキバナを見遣り、ネズはティッシュを一枚取り出した。水で少し濡らし、キバナを座らせる。
    「見せてごらんなさい」
    「ん?」
     促せば、大人しく顔を上に向ける。きゅ、と瞑った目をそっと開かせて、水を垂らした。ぽとぽと、と数滴がしたたり、真っ青な瞳へと落ちていく。ぴくぴくと目元の筋肉が震える。水はその瞳を洗い、頬を伝ってそのまま流れていった。
     流れた落ちた水を拭ってやる。ぱちぱち、とキバナは瞼を数度瞬かせた。
    「あ、取れたっぽい」
    「そうですか」
     確認のため、下瞼をすこし引っ張ってくまなく見てやる。白目部分が赤くなることもなく、どうやらすんなりとゴミは取れたようだった。深い青色がとろりと渦巻いている。そこには妙に真剣な自分の姿が映っていて、ネズは急に気恥ずかしくなり目を逸らした。
    「ありがとな……ふふ」
    「何笑ってんです」
    「や、なんか……子どもになったみたいで」
     そう言われてはじめて、自分の行動を省みる。
     ほとんど反射で動いてしまっていたが、これは昔から幼いマリィにやっていたことだった。幼い頃のマリィは目薬が自分ではうまく挿せず、こういう時はいつも目をぐいぐいと強く擦ってしまったのだった。なんとかできないかと苦心した上でのやり方だった。こわくない、こわくない。これですぐ痛くなくなるからね。そう言い聞かせてやれば、幼い妹はぎゅっと体を強ばらせてその時が終わるのを待ったものだった。ちいさなポケモンを実験台にしてマリィの恐怖心を和らげてやろうとしたこともあった。膝の上でじたばたするジグザグマを大人しくさせるのは至難の業だったが。遠い記憶だ。今ではあの子もひとりできちんと目薬を挿せる。
    「……でっけえ男相手にやることじゃなかったですかね」
    「いや、すぐ取れたし、助かったよ。ありがとな。オレ目薬さすの苦手なんだよね、未だに。なんかぼたぼたなっちゃう」
     あとネズが真剣でよかった、とキバナはあっけらかんと言い放った。
    「ネズの目にさあ、オレが映るくらい近かったの、よかったな。ちょっとオレさまがアホ面だったのは減点ポイントだけど……」
    「あっそう……」
     やたらとへらへらして、キバナは座ったままネズの腰を抱き寄せた。
    「オレさ、こうやってネズが世話焼いてくれるの、好きだよ」
     ほとんど無意識でやってるだろうけど、と青い瞳がネズを下から覗き込んだ。図星を突かれてむっつりと黙り込む。だが目を逸らすのもなんとなく悔しくて、そのままじっとその目を見返した。穏やかな色を湛えてゆらゆらと揺蕩うそこには、傷ひとつ見当たらない。よかった、と安堵が心の隅に浮かんでほどけるのを、ネズは不思議な気持ちで受け止めた。
    「大事にしてくれてるってことだもんね。懐に滑り込めたって感じして、たまんなくなるんだな」
     だから好き、そう言って彼は目尻を緩ませた。
    「……ただの癖ですよ、それだけです」
    「そーいうことでいいよ」
     癖でもうれしーもんはうれしーもんね。胸元にぐりぐりと頭が押し付けられる。手の中に握り締めたティッシュを捨てに行くタイミングを逃し、ネズはもう片方の手でキバナの頭をぎこちなく撫でた。



    Day26- Getting married

     トイレットペーパーが切れてるから買わなくちゃ。ある朝、そのくらいの口振りで、ネズはぽそりとこぼした。
    「おれと『結婚』しないでいてくれます?」
     ぽかん、と口が開く。
    「えーと……結婚は、うん、してないね」
    「はい。だから、結婚はしないでください」
     その代わり、と言いながら、ネズはキバナの左手を取った。薬指にそっと彼の手が触れる。
    「……その代わり、おれとパートナーになってくれます? まあ、前からパートナーじゃありますけど、なんというか、法的なパートナー、です」
     ぴくぴくと、瞼が震えた。触れ合った手から、ほんのりと温度が伝わる。
    「神は、信じてない。だからね、結婚はしたくないんですけど。信じてない奴相手に誓ったってしょうがねえし。でもまあこんなことがあったらね、ちょっとおれも……考えたわけです」
     ふい、とネズが目線を横に遣る。そこには、キバナの腕から繋がる管があった。点滴の管である。
     ワイルドエリアでの定期点検の際、キバナは怪我を負った。避けられようのない突発的な事故だった。命に別状こそなく意識もはっきりしていたものの、数日の入院を余儀なくされた。ネズもさすがに焦っていて、それがキバナには申し訳なかった。ネズへの連絡が遅れたのである。彼が駆けつけた時には、既に手術も何もかもが終わったあとだった。
    「……ネズ」
    「浮世のしがらみってやつですかね 」
     ネズは苦しげに微笑んだ。
    「できるだけおまえを縛りたくなかったよ。おれも縛られたくはなかった。紙切れ一枚に何ができるって思ってたしね」
     左手で、かちゃかちゃと音を立てて彼はチョーカーのトップを弄った。決まり悪いときの癖だった。個室の静かな病室で、それはいつもよりも大きな音に聞こえた。自分で立てたその音に、ネズは眉根を寄せた。
    「……でもこんなことになって初めて気付きましたよ、縛られてようやく自由になるものもあるんだって」
     ぽとん、と音がしたような気がする。生理食塩水が垂れる音だろうか。それとも、別の音だろうか。心に溶け込むような。
    「おまえの弱ってるときに付け込むみたいになっちまったのは悪いですが」
    「……そんなことない」
     右腕を動かした。くん、と管が引っ張られるような気がして、先に点滴を移動させる。ネズが顔を歪めて、左手を伸ばした。色を失ったネズの左手は、まっさらな病室のシーツと遜色ないほどだった。何もつけられていないその薬指を、そっとさする。
    「オレからもお願いします。パートナーになりたい。オマエと生きて、そんで、後悔なく死にたい」
    「……死ぬ話はちょっと今センシティブだな」
    「違いねえ」
     にやりと笑えば、困ったようにネズは眉尻を下げた。握った手の力を強めれば、答えるように彼の親指の腹がキバナの手の甲を撫でた。そこにも、包帯は巻かれている。包帯だらけだった。
    「……いずれこんな話になるんだったら、もうちょっとロマンティックに決めたかったなあ。腹に穴開いてんだもん、今」
    「今更でしょ。それに、フラッシュモブなんかやりやがったらキレてた」
    「ふふっ……苦手そう……」
    「結婚じゃねえから、式はしないですよ。表向きはあんまり変わらない。ただ、まあ、何もない時よりはね、万一の時に」
    「うん……あのさ、結婚はまあ、しないんだけど、指輪はちょっとほしいかも。証拠。これはオレのわがまま。ネズはそういうの、あんまり好きじゃないかもだけど」
     キバナがそう言うと、今は包帯しかないけどね、とネズは微笑んだ。じゃあこれが取れたら、と約束を差し出す。ちいさく頷いて、ネズはブランケットに包まれたキバナの膝の上にそっと半身を横たえた。



    Day27- On one of their birthdays

     床に散らばる紙吹雪。色とりどりのリボン。美しく包装されたプレゼントボックス。数多並ぶ空の酒瓶。控えめな音量で澱のように漂う音楽。宴のあとである。各々が三々五々、ひとりまたひとりと別れを告げ、その場を後にしていく。高揚と祝福の残り香が、依然そこには漂っている。最後のひとりが今、名残りを惜しみながらキバナの頬に控えめなキスを施して、ドアから出ていこうとしている。今日はお招きいただいてありがとう、素敵な一日だった。最後にもう一度、お誕生日おめでとう、あなたを取り巻くすべてに祝福を。素晴らしい一年でありますように。これからもずっと。まじないのように差し出されたその言葉を微笑みと共に受け取り、見送った。ドアが閉じられた音の余韻が、まだ残っているような気がする。その場に残されたのは、本日の宴の主役であったキバナと、もうひとりである。
     ぽん、と後頭部に軽い感触がした。くるりと振り返ると、ふわりと音もなく床に落下していくものがある。色鮮やかなバルーンだった。投げたらしき張本人は、知らんぷりを決め込んでいる。あからさまに後ろを向き、豊かな髪を揺らしていた。喉の奥でくつくつと笑いを噛み殺して、キバナはそれを拾い上げた。
     宙に放り投げたバルーンをぽん、とはたけば、緩やかな軌道を描いてふたたび彼の元へと戻っていく。ネズが振り返った。舞い落ちてくるバルーンを視界に捉えようと、小さな顎がついと上がった。薄く開かれた唇がほんのすこし、口角に皺を作っている。やや振りかぶって、ネズのてのひらがバルーンに当たった。途端にバルーンはまたキバナの方へふわふわと舞う。穏やかなラリーは数度続いた。双方が漏れ出てくる笑いに耐えられなくなるまで。
     肩を揺らして笑ったあと、小さく息を吐いてキバナはバルーンを手の中で弄んだ。
    「……片付けないとだな」
    「ですね」
     行儀の良い客ばかりであったから、目も当てられぬ惨状というわけではなかった。しかしそれでも十人ばかりが集まって過ごした痕跡はしっかりと残っている。バルーンを跳ね上げながら、リビングダイニングへと戻った。
     テーブルの上には、ガラスのボウルに作っていたパンチが多少余っている。酒が苦手な客のために用意していたノンアルコールのものだった。ネズはそこに、やはり余っていた酒瓶の中身をどぼどぼと注ぎ込んだ。おいおい、と声が出た。しれっとした顔でネズは二つ分のグラスにそれを注ぎ、掲げた。
    「飲み切っちゃいましょ」
    「これ飲んだあと片付けられるかなぁ、オレ」
    「まあその時はその時で」
     受け取ったグラスをかちりと鳴らす。喉を滑り落ちていったアルコールが、甘く喉を灼いた。
    「うお、結構残ってたんだろ酒、全部入れちゃって」
    「おれは飲み足りなかったからちょうどいいです」
     その言葉通りネズはするすると杯を干した。間髪入れずに二杯目を注ごうとする手つきに、キバナは目を細めた。
    「……ごめんなあ、今日あんま相手できなくて」
    「何言ってるんです。ホストで主役なんだから当然でしょう。おまえの知り合いの方が多かったんだし」
     こともなげにそう言ってのけて、ネズは二杯目のパンチを舐めた。透き通った赤い液体が、彼の顔にぼんやりと赤い蔭を映す。
    「……まあ確かに隅の方にばっかりいましたけど、別に退屈だったわけでは。ただ隅の方が好きなだけです、落ち着くので」
    「それならいいんだけど」
    「おれはおれなりに楽しんでましたよ、ご心配なく」
     それにね、とネズは頬杖をついた。
    「……自分が好いてる男がね、他人からも愛されてるところを見るってのは……なかなか良い気分なんだなって、改めてわかりましたから」
     キバナは思わずグラスを握り直した。頬杖をついたその手の指にあるきらめきが、瞳に突き刺さったような気がしたのである。
    「……みんなに言えてよかったね」
    「うん……」
    「いい人たちばっかりでしたね」
    「うん」
    「キバナ、誕生日おめでとう。……おれを見つけてくれてありがとう」
    「オレこそ……」
     息を整えようと前を向く。するりと手が伸びてきて、頬を包むやわらかなてのひらと、すこしひんやりとした金属の感触がキバナの頬を包んだ。
    「片付け、もうちょっとあとでいいかな」
    「いつだっていいでしょ」
     それより先にすることあるよね、そう言って薄い水色が揺れた。頷いたその先に滑り込んでくるその味をもう知っている。目の端を拭われて、キバナはそっと瞼を下ろした。



    Day28- Doing something ridiculous

     ぽつんと立つ白黒のシルエットが、大きなガラス越しに見えた。ガラスの更に向こうには、きらめく夜景がある。少々回り始めた酔いも手伝ってか、その光は二重に滲んで揺らめいている。なんとなくその光がハート型に見えた気がして、キバナは一人、へらりと笑った。
     自分の分と彼のためのグラスを両手に、吸い寄せられるようにふらふらと近付く。目当ての彼は、プールサイドに佇んでぼんやりと向こうを眺めていた。靴音に気付いてか、あともう少しというところで彼はくるりと振り向いた。プールを照らす明かりと室内の明かりとに照らされて、その輪郭はまろく象られ、肌は乳白色に輝いている。彼の名前を呼ぼうと口を開いた瞬間、キバナは勢いよくつんのめった。
     敗因は靴紐である。レースアップの紐がいつの間にか解けていたことに、酔いのせいで気付いていなかった。ネ、の形に口を開いたまま、ネズにまっすぐ体当たりをすることになってしまった。もとより体格差のある二人である。キバナの全身での体当たりにネズの痩躯が耐えられるわけはなく、そのまま二人はプールに盛大な音を立てて、落ちた。
     がぼがぼと耳の横で音がする。グラスを手放す。ぷかぷかとそのまま流れていく。水を吸った服が重い。ぶはっ、とキバナが水面に顔を出した時、ネズはまだ水の下でもがいていた。慌てて腕を掴んで引き上げれば、ネズは空気の供給にげほげほと咳き込んだ。ぜえはあと肩で息をして掴まれた腕を振り払うと、ネズは渾身の力を込めてキバナの肩口を叩いた。
    「ば、ば、……ばかやろう!!」
    「ごめん!! いやこれはマジでごめん!!」
     当然ではあるがびしょ濡れだった。おそらくセットしていたのであろう髪は額や頬に張り付き、目元のアイラインは滲んでいる。二人分の成人男性がプールに墜落した音を聞いてか、プールサイドには数人が集まってきていた。呆れたような笑い声が場にさざめいている。ロトムは……と中空を探せば、彼はしっかりと滞空していた。彼が濡れなかったのは不幸中の幸いだ。ロトムも困り顔でふらふらと舞っている。そちらを顧みて、キバナは曖昧に微笑んだ。苦笑いを向けることしかできない。
     お酒持ってきただけなのに……と肩を落とせば、むっつりと黙り込んでいたネズが、ぷかぷかと浮かんでいたグラスを掴んでプールの縁に置いた。そしてそのままキバナに向き直る。
    「ああクソ……もういいですよ。落ちちまったもんは仕方ねえ。どうせなら泳いじまおう、せっかくですし」
    「へ?」
     そう言うとネズはそのまま仰向けになり、水にふわりと浮いた。ラベンダーのドレスシャツは、水を吸って深い紫色に見える。白黒の髪が四方八方にゆらりと広がって、水面と一緒に揺れた。
    「……服着てると浮くのが楽ですね。おまえも試してみなさいよ」
     ちゃぷちゃぷと音を立てて、誘うように髪が揺らめく。まあいいか、とほとんどやけくそのように、キバナも水に身体を任せた。背中から着水して、天を仰ぐ。ぬるいプールの水が耳元で音を立てて、それは案外悪くない感触だった。
     空には微かに星が瞬いていた。小さな月も。思いがけず、ふうと溜息をつく。横に浮かんでいるネズも同じ空を見ていた。なんだか急におかしくなってきて、腹を震わせて笑えば、さざ波が立った。横からも同じ小さな波が立ち、控えめにぶつかる。水の音だけが彼らの耳に届く。
     すると突然、どぼんと大きな音がした。ざぶざぶばしゃばしゃとこちらに近づいてくる音もする。何事かと浮くのをやめてそちらを見遣れば、やってきたのは紫の髪をどっぷりと濡らした男だった。金色の目が爛々と輝き、頬はなぜか楽しげに紅潮している。呆気にとられてキバナはそれを見つめた。
    「……何しに来たのオマエ?」
    「楽しそうなことをしているなと思ったんだが、違ったか?」
     わくわくと上げられた声に、ネズが弾かれたように笑い出した。
    「あのねえ、後でおまえにバスタオル取ってこさせようとしてたのに、台無しじゃないですか」
    「なんだ、もう上がるのか?」
     着衣水泳ならオレは割と自信があるんだぜ、なんせヨロイ島で何回もやったからな、と的外れなことを言う元チャンピオンに、さらにネズは笑い声を大きくした。なんとなくそれにむかついて、キバナはダンデの顔にばしゃんと水をかけた。一瞬驚いた顔をしたダンデは、「今度はそういう遊びに切り替えたんだな!?」と声を上げて怒涛の勢いでキバナに向かって水をかけ始めた。
    「ばかやろう!!」
    「先に始めたのはキミだぜ!」
     キバナがむきになればなるほど、ネズはおかしそうに笑った。やはりそれがキバナには少し気に食わなかったが、突然の闖入者との闘いはしばらく終わりそうになかった。いつまで経ってもプールから上がってこない彼らにオーディエンスはすっかり心配の色を失ってしまい、ほとんどが室内へと帰ってしまったようだった。
     上空で手持ち無沙汰にくるくると舞うロトムに、ネズは「録画しておいてください」とこっそり伝える。彼はしょうがないな、とでも言いたげにケタケタと電子音で応えた。ホテルのプールには、暫くの間、三人分の笑い声が高らかに響いていた。



    Day29- Doing something sweet

     真剣な面持ちである。目の前の男は、じっと見られているのも気にせず、一心不乱に手元に集中している。とろりと爪先に液体が乗る。ちょっとつけすぎだ。小さく笑うと、キバナは己の失敗に気付いて唸り声を上げた。
    「……もっかい」
    「どうぞ」
     除光液を含ませたティッシュで爪の色を拭き取って、キバナはもう一度果敢に挑戦した。マニキュアを塗っているのである。
     すこし剥げかけた色を目にして、塗りたいと言い出したのはキバナだった。断る理由もないので、そのまま好きにさせている。いつも使う黒色のマニキュアのボトルも、キバナの手にかかればドールハウスのおもちゃのように小さくちゃっちく見えてしまうのがおかしかった。先程の失敗を繰り返すまいと、慎重にブラシをボトルの口に擦りつけているのがいじらしい。
     大きな手が小さなブラシをそっと爪の上に乗せる。すうっとまっすぐ動いて、艶のある黒が綺麗に乗った。ぺたぺたと数度動かして、はみ出ることもなくまずは左手の人差し指の爪が黒く染まった。二度目の挑戦はどうやらうまくいったようだ。ふう、と息を吐くのが聞こえる。
    「……これがあと九本あるんですよ」
     微笑みを交えてそう言ってやると、キバナはより奮起したようにもぞもぞと姿勢を正した。なぜかわくわくしたように瞳を輝かせている。
    「足も塗ってやろうか」
    「いや、今日は手だけでいいですよ」
     妙にやる気を出している様子なのがおもしろかったが、それは丁重に断り、次は中指を差し出す。キバナは嬉々として次にかかった。
     最初は、真剣に爪と向き合う様子を見ているだけで退屈しなかった。俯く瞼から伸びる睫毛であるとか、根を詰めるあまりだんだん唇が尖ってきている様だとか、そういったものはネズの目を楽しませた。
     だが、身動きのあまり取れない状況に少々手持ち無沙汰になってくる。向かい合わせになったテーブルの下、ネズはそろりと脚を伸ばした。すぐにキバナの脚にぶつかる。裸足のままの爪先で脛をなぞってやると、キバナの眉だけがぴんと跳ね上がった。
    「……こら、はみ出ちまうだろ」
     悪戯を仕掛ける幼子に対するような声音が癪だったので、やめてやらないことにした。すりすりとそのまま至るところを触ってやると、キバナの眉間にはより深い皺が刻まれた。爪を塗る手つきには変化がないように見えたが、慣れもあるのか、少しずつ速くなっているのが見てとれる。雑にはならないようにしているものの、すぐに終わらせてやろうという考えが透けて見えて、ネズは喉の奥だけで笑った。
    「もうちょいだからさ、いい子にしててよ……」
    「おれに言います? それ」
     うー、と小さくキバナが唸る。爪先で腹を擽ってやると、その体がびくりと大袈裟に震えた。
    「ああもう! あと一本だから!」
    「はやく」
     右手の小指をキバナの手がぐっと掴む。焦れったさでブラシの先が細かく震える。線が歪む。下唇を軽く噛んでいる。指先を見ているその眼に映っているのは、多分指先だけではないのだろうなとネズは思った。そしてそれはキバナだけでなく、ネズもまた同じなのだった。
     全ての指を塗り終えた瞬間、キバナは大きな溜息を吐いて肩の力を抜いた。そのまま席を立ってネズの方に回り込んでくる。降ってきそうになる唇を、乾きかけの左手で塞いだ。
    「……乾いたらね。乾いたら、いいことしてあげますから」
     キバナが目をまんまるに見開いた。すっかり忘れていたという顔であった。そしてそのまま肩を怒らせてくるりと踵を返し、慌ただしくどこかへ向かっていく。
    「どこ行くんです」
    「ドライヤー!!」
     やけくそのように放たれた大声に、ネズは肩を震わせて笑った。



    Day30- Doing something hot

     コンクリートを叩く足音は速い。急ぐあまりにか、時折そのリズムが不規則に崩れる。そのたびに体が小さくつんのめる。腕を引かれているからだ。二人分の足音がばたばたとこだまする。微かな、押さえた息遣いも。
     前を行く男の顔は見えない。一心に、まっすぐ前を向き、ただただ急いでいる。腕を掴む力は強い。ネズは甘い痛みにうっそりと目を細めた。顔が火照って、熱い。体中がかっかと燃えている。きっとそれは、ネズだけではない。
     ホテルのエントランス。エレベーターが到着する時間すらも待ち切れずに、隅にひっそり備え付けられた階段を数段飛ばしに駆け上がった。脚のリーチの違いを考えろよと普段なら悪態の一つでもついてやるところだが、今日ばかりは黙ってついてゆく。非常階段なのであろう薄暗い空間、リノリウムの床でスニーカーのソールがぎゅっぎゅとやたらにでかい音を立ててうるさい。一気に駆け上がったものだから、息が上がって呼吸が苦しい。潤してほしい。今すぐ。
     廊下が見えた瞬間からもぞもぞしているから何かと思えば、ポケットの中に仕舞っていたキーを必死に探していたようだった。ドアの前に辿り着くより先に手の中にカードキーを握り締めている様は、なんとなく間抜けで愛らしかった。大事なおもちゃをなくさないようにしている子どもみたいだった。今から子どもにはできないことをしようとしているのに。
     そっけない電子音を立ててドアのロックが開く。雪崩れ込むように部屋に入ると、そこは真っ暗だった。振り返った男の瞳の青い残像が一瞬だけ焼き付いて、すぐ闇に沈む。そういえばカードを差し込めば電灯がつくタイプだったな、と思う暇もなく、下から掬い上げられるように唇が捉えられる。伸び上がって応えながらなんとか後ろ手に鍵を閉めると、カチリという音に反応して男は息を継いだ。
    「……これいつまで暗いまんまなの?」
    「カード」
     わかっていなかったのかと少々呆れながら、相手の手からカードを奪い取り差し込み口に入れる。光量のいささか足りない照明が光って、ふたりをようやく照らした。視界がはっきりするまでのもどかしい数瞬を経て、キバナの顔が、やっと見えた。
     目の色が変わるというのは本当なのだと知ったのはこの男のおかげだった。普段穏やかな光を讃えた瞳の色が、今はうっすらと変わっている。その色を捉えるたび、どうしようもなく唆られる。だがとっくりと眺める余裕もないままに、また唇が降ってくる。ねろりと粘膜が触れ合う。鋭い犬歯が唇に甘く刺さって、目眩がしそうだった。
     より深いところに這い入りたくて伸び上がると、キバナは反対に屈み込んだ。高低を代わる代わる入れ替えて、お互いを壁に押しつけ合って、至るところに体をぶつけながらふたりは唇を貪った。舌を噛みそうだった。がたがたと壁に掛かった賑やかしの額縁が揺れる。喧嘩でもしているのかと隣部屋から苦情が来そうだったが、止められなかった。
     ふわりと身体が浮いて、ネズは息を呑んだ。思わずしがみつく。壁と挟み込まれる形になり、キバナの腰に脚を巻きつける。キバナの手がネズの後頭部に回って、豊かな髪を結わえていた髪ゴムを取った。途端にばさりと解かれた髪から、ぽろぽろと何かが落ちる。
    「……砂」
     おまえのせいですからね、あとで掃除しなさいよ、そう言って顎を人差し指でついと上げてやれば、その指に噛みつかれた。甘噛みはすぐに離れ、上目遣いで首をちいさく傾げた。
    「掃除なんかあとでいいじゃん……祝杯あげようぜ」
     今は勝利に酔わせてよ。そう宣う唇が、ゆっくりと近づいてくる。
     ネズは瞼を閉じる。耳の奥にこびりついて離れない歓声。すこしのノイズもなく、激しい砂嵐を織り込んで完成した美しいハーモニー。風に吹かれ舞い散る紙吹雪。まさか味わえると思ってはいなかった、いやほんとうは心の奥底で待ち望んでいた、勝利の陶酔。目の前の男とふたりで掴んだ結末。先ほどまでの血のざわめきと、今感じる鼓動の高鳴りと、ふたつのリズムが溶け合って、その波の中でネズは揺蕩う。いい気分だった。この上なく。
     口づけの合間に着衣を解いていけば、あとからあとから砂は落ちてきた。しっかり落としてきたつもりだったのにと、耐えきれなくなって二人で笑った。浮いた爪先をぶらぶらと動かしてやると、ネズを抱えたままキバナが歩き出した。ばたんと音を立ててバスルームの扉が閉まる。カーペットの上の砂の粒が、スポットライトに照らされてそこにただ、残った。



    Day3.5

     薄明るい、狭い室内に、見慣れた男がいた。気付いたのは、ネズが下ばかり向いてその部屋に入ったからだ。彼の背があまりに高いものだから、脚が盛大ににょっきりとはみ出ていたのである。こんなところでその男を見るとは思っていなかったので、ネズは一瞬、入り口近くで立ち止まってしまった。
     今ネズがいるのは、シュートシティ某所。某有名映画配給会社の中に備え付けられた試写室である。
     本日は、とある新作映画の関係者試写会だ。その映画で、ネズは音楽を手がけた。今までにも主題歌を提供することはあったが、今回はそれとは話が違う。映画のテーマに合わせ数曲を書き下ろし、全体の音楽のディレクションを手がけたのだ。これはネズにとっても初めての試みであって、そのおかげで正直なところを言うとネズはここしばらくずっとナーバスだった。
     もちろん、送り出した曲には自信を持っている。自信の持てない曲を出したりはしない。悩みに悩み抜き、制作陣との話し合いを重ね、たくさんの人が関わって作り上げた曲たちである。理屈ではわかっているのだが、どうしても心がついてこない。こればかりはもう性分でどうしようもないのだが、二十数年自分と付き合ってきてなおネズは自分の心を少々持て余しているのだった。
     昨日は緊張がピークに達したのか、いつもよりもやや割り増しで鬱々としてしまった。それを慣れっこといった様子でほとんどあやすように慰めたのが、今ネズの目の前にいる男だった。つまりキバナである。
     ぽかんとした顔で立ち尽くすネズに気が付いて、キバナはかけていたサングラスをわざとらしいほどの仕草でゆっくり外した。にっこりと唇が美しい弧を描く。
    「よ、音楽監督サン」
    「……音楽監督とは言わないっぽいですよ」
    「そうなの? なんだ、かっこつかねえなあ」
     隣どうぞ、とキバナが恭しく手を差し出す。反射でそのままキバナの隣の席に座り、数瞬してからネズは我に返った。
    「なんでいるんです。今日は関係者試写ですよ」
    「んー? ふふ、さあなんででしょう」
    「……おまえみたいに目立つの、忍び込もうったって無理だろうし」
    「ひでえなあ」
     キバナは長すぎる脚を窮屈そうに組み替えて、しかし柔らかな表情で笑った。なぜキバナがいるのか、ネズは頭を巡らせた。
    「そういえばナックルもロケ地に協力してましたか」
    「あーそうそう、ナックルのフィルムコミッションと組んでんだよなこれ。最近ロケ誘致に力入れてるんだぜ」
    「それでおまえにお鉢が回ってきたんですか?」
    「ふふ、うん、まあ、それに近いかなあ」
     なんじゃそりゃ、はっきりしろ、とネズは顔を顰めた。目の前のキバナは相変わらず含みのある笑いを浮かべている。
    「監督とか配給の人とかに挨拶してこなくていいの?」
    「あー、一応さっきちょろっとは……何話したかあんまり覚えてねーですけど」
    「緊張してんな、やっぱり」
     う、と言葉に詰まる。無意識に握り締めていた拳を、キバナがそっと手に取ってほどいた。手のひらをやさしく揉まれる。そしてそのまま、彼は眉尻をすこしだけ下げてネズを上目遣いに見つめた。こうして隣に座っているときによくやってくる仕草だ。
    「隣で見てもいい?」
    「……構わないですけど」
     やった、とキバナは嬉しそうにちいさくはしゃいでみせた。彼はこうして甘えるふりをして甘やかすのがすこぶる巧い。手を揉まれながら背もたれに沈み込み、ネズは少しの間瞼を下ろした。キバナの手の温もりがじわじわと伝わってきて、ネズはそっと息を吐き出した。
     やがて客電が静かに絞られる。監督が言葉少なに上映前のコメントを出し、室内は真っ暗になる。耳にじんと静寂が突き刺さって、ネズは身を強張らせた。だがすぐにもう一度手を握られる。横目でちらりと見た横顔は、白く照らし出されたスクリーンの光を受けていた。
     オープニングシークエンスから、苦心した曲が流れ始める。映像がついた状態でははじめて見る。ゾンビものというひねりのある題材ではあるが、作品を貫く軸は温かみのあるロマンティック・コメディだ。頭を捻りながら生み出した曲は、映像と相まって自分の頭の中にあったときよりもまっすぐ、じわりと身に染み込んできた。ほっと胸を撫で下ろす。観客の雰囲気も、悪くなかった。何より、横にいるキバナの反応が良かった。物語に入り込んでいるのがよくわかる。それが何よりも、ネズの心を落ち着けてくれた。
     そこからしばらくは、自分が書いた曲だと言うことも忘れて物語に入り込むことができた。ゾンビ・パンデミックをなんとか乗り切ろうとする恋人たち。非常時のなかにも垣間見える、おかしくも愛らしいやり取り。しかし、その揺蕩うような心地よさは物語も終盤にさしかかろうという頃、不意に掻き消されることとなった。スクリーンに映し出された映像に、ネズは思わず体をびくつかせた。
     映っていたのは長い時間とは言えない。しかし短すぎるわけでもなかった。ほんの十数秒だが、目を疑ったあとに何度も確認できる程度の長さではあった。恋人たちが逃げ惑う夜の市街、ロケ地はナックルシティ。そこにエキストラとして出てきたゾンビの軍勢のなかに、見まごうことなきキバナの姿があったのである。
     スクリーンの中のキバナは、精巧な特殊メイクを施され、いつもの潑溂とした印象はどこへやら、鈍重そうによたよたと歩いていた。しかし人並み外れた巨躯のせいで、ただのエキストラにしては少々目立ちすぎていた。頭ひとつ抜けているのだから。容貌が変わり果てたものになっていても変わらず人目を引く男なのだと、一周回って感心するほどだった。
     そこから後、ネズはぼうっとしてしまってあまり集中できなかった。映画が面白くなかったわけではないのだが、仕方ない。あんなに気になって仕方なかった自分の音楽も、耳にほとんど入ってこなかった。じわじわとゾンビ化が進行していく女と人間のままの男がなんとか折り合いを見つけてふたり幸せに暮らせる場所を目指し旅を始める、というところで物語は終わりを迎えた。強張った表情筋で曖昧な微笑を浮かべる女の向こう側にカメラがパンしていき、唐突に画面は暗くなってエンドロールへと入っていった。自分の歌声が流れ出して、ようやくネズは我に返った。まるで作中のゾンビの歩みのようにのろのろと流れる字幕を尻目に、ネズは横を向いた。キバナは視線に気付いて、悪戯がばれた幼子のようにはにかんだ笑顔を浮かべた。
     ぱっと客電が点く。部屋中から拍手が起こって、監督が照れくさそうに前に出て一礼した。メモを取りながら室内を慌ただしく出ていく人、監督の方へと駆け寄っていくスタッフ、すこし騒々しい雰囲気が場を包む。しかしそんななかで、ネズはキバナに小さな声で喋りかけた。
    「……いつの間に撮ったんですか、あれ」
    「……えーと、割と撮影終盤? ほとんどクランクアップ直前。ナックルシティ側から見学できますよーとかって言われて、のこのこ行ったらあれよあれよと……あんなことになっちゃった」
     キバナは腕を前に突き出して、ウー、と間延びした声を出す。その様子に、とうとう堪えきれずネズは吹き出した。
    「……ぶはっ!」
    「あ、笑ったな!? いやオレも思ったよりなげーこと映るじゃん聞いてねーんだけどって思ったけどさあ!?」
     キバナが顔を微かに赤らめた。肩を震わせながら、ネズはキバナの腿を軽くはたいた。
    「うん、いや、よかったですよ。迫真の演技でした」
    「ぜってえ思ってねえ」
    「……おかげで余計なこと考えなくて済みました」
    「そう?」
     そう言って急にキバナがやさしい声を出すものだから、ネズはすこし気恥ずかしくなって立ち上がった。キバナも同じくいそいそと立ち上がる。
    「えっと、じゃあおれ、ちょっと挨拶回りだけするんで」
    「おう、わかった。あ、そうだ」
     キバナはへらりと笑って、一言言い添えた。
    「ちょっと離れてたけど……エンドロールにオレたちの名前がどっちも入ってたの、うれしかったな」
    「……おれもです」
     じゃあまた後で、と告げて、足早にネズはそこを離れた。すこし遠くで談笑を続けている監督の元に向かうためである。
     どうして言ってくれなかったのと監督に問いかければ、「悪くないサプライズだったろう?」と微笑まれてしまった。そう言われてしまえば、ネズは俯いて頬を掻くしかなかったのだった。




    蹄/ひつじ Link Message Mute
    2022/09/11 20:29:26

    スパンコールとバラ色の日々

    人気作品アーカイブ入り (2022/09/20)

    Twitterで連載していたkbnz 30days challengeをまとめて本にして頒布したもの、の再録です。
    例のごとく捏造しかありません。

    #kbnz

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    • magic hour + morekbnz短編集、全年齢のものの再録です。
      様々な捏造、第三者との関係性を前提としたもの、なんやかんや何でもありです。

      #kbnz
      蹄/ひつじ
    • ゆめのあとさきフェアリーの悪戯で様子がおかしくなったnzくんに振り回されるkbnくんの話。
      「夏の夜の夢」(NTL版)のちょっとしたオマージュになっています。
      雨の中踊るふたりが見たかったのです。

      2020年に出したkbnz本の再録です。

      #kbnz
      蹄/ひつじ
    • 月光譚 / こおりをとかして こおりにとざしてpixivで公開していたウスパパ関連の短編集です。
      ウスパパを巡るミラさん、ノースの円満三角関係が好きです。
      当然ながら捏造しかありません。

      ※当人がいない場での性的揶揄の描写が含まれます。
      ※277死柱情報により、ノースディン過去捏造は本編と矛盾した情報になりました。ですがそのままにしておきたいと思います。277死より前に書いたことをご承知おきください。

      #ウスミラ  #ノスウス
      蹄/ひつじ
    • Drive It Like You Stole It/Let the right one inkbnz再録です。パロものでまとめています。
      ・学パロ プロムをぶっ壊せ
      ・吸血鬼パロ
      の二本です。

      #kbnz
      蹄/ひつじ
    • Beyond the Blizzard2021年3月チャレにて発行、pixivで全文公開していたものです。

      街にはびこる違法ドラッグの影。手がかりを追い、雪原に乗り出した二人の前に立ちはだかるのは──。
      知人発深い仲行きのkbnz。DLCの内容を踏まえたものになっています。捏造たくさん。

      【注意!】ドラッグ、デートレイプの描写があります。ネームドキャラが使用するものではありませんが、フラッシュバックの恐れにご留意ください。
      また、pkmnが悪用される描写があります。

      #kbnz
      蹄/ひつじ
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