スパンコールとバラ色の日々Day1-15
Day1- Holding hands
我がガラルのパパラッチは、ちょっとタチが悪いのが多い。ポケモンバトルがショービジネスとして成立していて、他の地方とジムリーダーの立ち位置がちょっと違うというのも作用している気がするけど、あいつらはわらわら湧いて出てオレたちの生活に忍び寄る。特にオレさまなんかは恰好の餌食にされていて、最早常連だと言える。そんなもんの常連にはなりたかなかったが。あわや訴訟、というところまで持っていったこともある。
しかし同じく成人男性で、音楽業界という華やかな世界に身を置いているはずのネズは、どう考えてもオレよりもパパラッチのお世話になることが少なかった。いやそりゃオレに隙がありすぎるのかもしれないけど、隙があろうがなかろうが滑り込んでくるのが奴らだ。なんせ一マイル離れたところから望遠レンズで撮ってくるんだぜ。わかるかよそんなの。
常日頃思っていた疑問をネズにぶつけると、ネズは「おまえほど素行が悪くないので」としれっと答えた。
ナックルシティの石畳を鳴らして、オレたちは歩いている。手には細々した買い物の袋。ドラッグストア寄って、オレの家に帰るところだ。にべもない回答に、オレは口をひん曲げた。
「ひっでえ、そんなに悪くねえし、素行」
「まあ確かにお前のネタ、別におもしろくもなかったですよね。気の抜けた服で女と朝の散歩してたとかゴミ出しのネットのかけ方が甘かったとか、そんなんばっかりで」
こいつ意外にゴシップ誌読んでやがる。かつての諸々を思い出して苦い気持ちになったが、こうやって本題から話を逸らそうとするのがコイツのやり口なのはよくわかってる。オレは無理矢理話を元に戻す。
「いやそれは置いといてさ、やっぱ少なくね? オマエのネタ。なんか納得いかねえ」
「……まあ、耳がいいからね、おれは」
「耳?」
そういうとネズはいきなり後ろの誰もいない方を向いて、べろりと舌を出した。突然の奇行に度肝を抜かれる。オレの方を向いて、ネズは真顔で後方を指さした。
「気付いてなかったでしょ? いますよ、ちょっと遠いけど」
「え、嘘、マジで? 全然わかんねえ、どこ?」
あっち、と指すネズの指の先を見ようと目を眇めたが、全くわからない。視力は悪い方ではないのだが。首を捻るオレを見て、ネズは肩を竦めた。
「ってなわけで、大体見られてるときはわかっちまうんですよね。便利でしょ」
「……なんつーかそれ、もはや『耳が良い』の域超えてない? シックス・センスに近いんじゃねえの」
しかし本当に、オレの目にはパパラッチの姿は全く見えない。ただしんとしたナックルの裏通りがあるだけだ。執拗くきょろきょろと辺りを見回すオレの手を、ネズが不意に掴んだ。目を見開くオレをものともせず、そのままネズの指が絡む。いわゆる恋人繋ぎってやつになった手を目の高さにまで上げて、ネズは涼しい顔で微笑んだ。
「ほんとかどうか、こうすりゃ明日にはわかるんじゃないですか」
「……力技すぎない?」
「手っ取り早いでしょ」
そう言うや、ネズは繋いだ手はそのままにゆっくりと歩き出した。背後に向かってもう片方の手で裏ピースを決めるのも忘れない。なんだか無闇に楽しくなってきてしまって、オレは握り締めた手もそのままに走り出した。おい、と後ろから不満げな声がしたけど、気にしない。あはは、と思わず大きな笑い声をこぼしたら、後ろのネズもつられてケラケラと笑った。
翌日案の定出た写真は、まあパパラッチにしては上々の出来だったと言っておいてやろう。
Day2- Cuddling somewhere
快適とは言えない空の旅が終わりを告げた。ネズは大きく溜め息をひとつ吐く。
イッシュでの二週間に及ぶ初ツアーだった。無事に行程を全て終え、スタッフたちを先に帰らせ、現地の音楽会社やら何やらとの打ち上げ及び打ち合わせなど諸々に単身取り組んでの帰路である。仕事自体には手応えがあった。ツアーは満員御礼。次のライブにも先方は乗り気で、ぜひ近いうちに、とこれ以上ないほどの歓待を受けた。大成功のうちに収まったと言えるだろう。だがそれに反してネズが今疲労のただ中にいる理由はただ一つ。彼は飛行機の旅があまり得意ではなかったのだ。
手配されたのはビジネスクラスの座席で、ネズは大いに萎縮した。やたらと丁重に扱われるのも気が引けたし、周りの人間のそう扱われて当然といった様子もやけに気に障った。こんな時に限って、ホテルに耳栓を忘れてきてしまっており、ネズは己の耳の良さを恨みながらまんじりともせず座席にしがみつくしかなかった。悪いことは重なるもので、乱気流に捕まってしまい飛行機の機体は大いに揺れた。とても生きた心地がせず、七時間に及ぶフライトのあいだじゅう、リラックスできた瞬間は皆無に等しかった。ガラルの街の灯りが翼の下に見えたときは、安心からうっかり涙が滲んでしまいそうになったほどだった。
小さな、だがずっしりと重いボストンバッグをほとんど背負うようにして空港に降り立つ。人を避けるべく深夜便を手配したため、空港の人出はまばらだった。ひっそりとして薄暗く、だだっ広い。磨かれた灰色の床がつめたく光る。だがそれでもじっとりと呼吸をするように至る所が蠢いている。入国手続をつつがなく終え、何度目かわからぬ溜息を吐きながら常よりもさらにのろのろと歩みを進める。身体に充満する疲れと眠気を抱えて、アーマーガアタクシーを呼び出すべくスマートフォンを取り出したが、電源を切ったままにしていたのをすっかり忘れていた。数年間無精で機種変更もしないままの旧式のスマートフォンは、一度電源を落としてしまうと復活までに結構な時間がかかってしまう。諦めてポケットのなかに仕舞い込み、ゆっくりと到着ゲートにまで向かった。他の乗客は、みな足早にそこを過ぎ去ってしまったらしい。見渡しても周囲にはほとんど人はいなかった。まるで世界にほとんど人がいなくなってしまったかのようだった。
靴の爪先ばかり見て歩いていたので、目の前に自動ドアが現れて初めて、ネズは顔を上げた。静かな機械音と共に自動ドアが開く。その向こう、目に飛び込んできたのは、ぽつんとひとり佇む、やたら背の高い青年の姿だった。彼は、ネズの姿をまっすぐその目に捉えて、笑った。
「おかえり」
数瞬、息をするのを忘れた。今日この便で帰ることは、彼には知らせていなかったのだ。深夜になることもあったし、気を遣わせたくなかったから。どこから聞きつけたのだろう。もしかしたら気を利かせてスタッフの誰かしらが伝えたのかもしれなかった。しかしネズを驚かせたのは、彼がそこにいることより何より、彼の姿が目に入った瞬間自身の胸のうちに溢れてきた喜びの大きさのほうだった。
到着ゲートの柵を回ってふらふらと近付けば、キバナは驚きで力が入っているネズの肩に手をかけ、ボストンバッグをそっと外して床に置いた。
「……なんで、いるんですか」
「そりゃ、はやく会いたかったから」
こともなげにそう言って、キバナはそのままネズを抱き寄せた。しっかりと抱き締められる。あたたかかった。ぽんぽんと背中をやさしく叩かれて、ネズは息を深く吐き出した。キバナの声が、温度が、匂いがネズの痩身を包む。身の芯に染み込んでいくように、ネズを満たす。
「おつかれさま」
「……疲れました」
「はは、素直。めずらし」
よっぽど疲れたんだなあ、とキバナは小さな声でネズの耳元に囁いた。そうだ、ものすごく疲れた。乱気流とか、やたら柔らかくて掴みどころのないシートとか、ノイズみたいな他人の囁きとか。キバナの背に手を回すと、抱き締める腕の力がより強くなった。心地よい圧迫感に目を細める。
「ただいま……」
そう呟くと、キバナは喉の奥で笑った。
「帰ろうぜ」
こくりと頷く。ものすごく疲れた。おまえに会って、より一層それを実感した。だから、はやく帰って、抱きあってそのまま溶けるように眠りたい。常よりも弱気になっている心をそのままキバナに預けて、ネズはそっと彼の胸に顔を埋めた。
Day3- Watching a movie
最近忙しそうにあちこちに出かけているなと思ったら、デカめの仕事が入ったのだそうだ。なんと、映画への楽曲提供および音楽担当である。
監督はと訊けば、オレでも知ってるような名前だった。ビッグバジェット系とアート系のちょうど狭間くらいの作風で、根強い愛好家が存在する監督だ。なんでも前々からネズのファンで、念願のオファーだったのだとか。「そういうのはやったことがないから」と躊躇うネズに、監督自ら直々に電話してきたらしい。熱烈だ。そういうことをされるとネズは弱い。まんまと引き受けてしまったというわけだ。
どんな映画なのかといえば、それがなんとゾンビ映画なのだという。監督曰く「ゾンビ・ロマンティック・コメディ」なのだとか。聞いた時は思わず笑ってしまった。なんだそれ。普段は人々の悲喜こもごもをじっくり描いた映画を撮っているような人なのだが、新境地の開拓だろうか。ネズはしきりに首を捻っていた。
「予習でもするかと思って過去作を全部見たんですが、対策があまり当てにならなさそうですね」
「いつの間にそんな楽しそうなことしてたんだよ、オレさまも一緒に見たかった」
「仕事ですよ?」
「仕事とデート、一気にできてお得じゃん」
おまえね、人の気も知らねえで、とネズは渋面を作った。しかしその後にぽりぽりと頬を掻いて、床に無造作に放り出されていたバッグをごそごそと漁る。
「……じゃあ、見ますか」
そう言ってネズが取り出したのは、どうやらレンタルショップで片っ端から集めてきたと思しき古今東西のゾンビ映画だった。思わず、げえ、と声が出る。
「ええ、そっちも研究すんのぉ?」
「やるからには全力です。おれ、あんまりこういうジャンル映画には詳しくないからね」
「オレも詳しくないけど……うう、ゾンビかぁ。グロいのあんまり得意じゃないんだよなあ」
「一緒に見たいって言ったのおまえでしょ」
そう言うやオレの腕をぐいぐい引いて、ソファに無理矢理座らせる。DVDプレイヤーの前にしゃがみ込んでディスクをセットしたネズは、やたら柔らかい座面に沈み込んだオレの太腿の上に無造作に細い脚を投げ出して、隣に座った。こういうときばっかりスキンシップが増える。オレが乗り気じゃないときばっかり。ほんとにあまのじゃくだ。
名前も知らなかったような数本の映画の宣伝が終わって、始まったのは十五年ぐらい前のゾンビコメディだった。これはオレでもタイトルは知ってた。今や主演俳優は大活躍のスターになってるはずだ。あんまり冴えない男と、その家に同居してるカビゴンみたいな幼馴染の男がパニックに巻き込まれるみたいな筋書きで、テンポも小気味よかった。だがまあ、ゾンビ映画なのだから当然しっかりグロテスクなシーンもあって、首が文字通り飛んだり胴体から鋭利な棒が突き出たりするそのたびに、オレは「うおぉ」だの「うえぇ」だの情けない唸り声を上げて体を捩るしかなかった。なんせネズの脚がしっかりオレを押さえつけているのだ。ネズはぐふぐふとグレッグルみたいな篭もった笑い声を立てた。ここぞとばかりにおもしろがりやがって。
映画も中盤になってくると、出てきた登場人物がどんどんゾンビ化していったりする。なるほどこれがゾンビ映画の肝なのか、と思った。親しい人間が変わっていってしまう極限状況で何ができるかってことなのかな、とぼんやり考えながら、ちらりと横のネズを窺った。テレビの画面をじっと見つめている。白い顔に、画面の光がちかちかと映っている。もしこういう状況になったらネズならどうするかな、と想像した。他愛もない想像だ。でもなんとなく、ネズは顔見知りのことは殺せなさそうだ。なんとかして殺さずに済む方法を模索するに違いない。がんばるんだろうなあ、とそんな状況にはなりそうもないのにしんみりしてしまった。でもそういう、「殺せない」ってなっちゃう奴って、大体終盤くらいで死んじゃうんだよな多分。嫌だなあ。死んでほしくないなあ。いろいろ考えていたらすっかりオレの頭にはネズ主演のゾンビ映画の筋書きが出来上がってしまった。思わずネズに語りかけてしまう。
「あのさあ、もしオレがゾンビになっちゃったらさあ……一撃で仕留めてね……オマエは生き伸びろ……」
「……何言ってるんです?」
呆れた顔でネズは口をひん曲げた。いやなんかたまんなくなっちゃって、と言うと、ネズはオレの太腿の上で脚を組み替えた。爪先をひくひくと動かす。
「やですよ。殺さないよ。鎖に繋いでガレージで飼ってやるから安心なさい」
今度はオレが呆れる番だった。
「なんかそれ、一撃で仕留めるよりさらに……こう……倒錯してないか?」
「ハートフルでしょ。ゾンビ・ロマンティック・コメディにしてやりますよ」
ううん、とオレは頭を捻った。ロマンティックなのか? コメディではあるだろうけど。ブラックな。ネズは唇の端だけで笑って、前髪を掻き上げた。
「うん、なんかちょっと今、いいリフが浮かんできましたね」
「鎖に繋がれたオレで?」
「鎖に繋がれたおまえで」
ご協力どうも、と言ってネズは立ち上がった。浮かんだリフが消えないうちにメモをしに行くんだろう。映画に使っちゃうんだろうか。ちょっと複雑な気分だ。画面の中では相変わらずゾンビと人間が大騒ぎを繰り広げている。上機嫌なネズの鼻歌がバックグラウンドミュージックのように聞こえてくる。鎖に繋がれたゾンビのオレがネズに引かれて近所を散歩する様を想像すると、それは思ったほど悪いアポカリプスじゃなさそうだった。
Day4- On a date
ガラルの飲食店は軒並み屋内禁煙である。数年前に法律が改正されたのである。レストランだろうがパブだろうが喫茶店だろうが、例外はない。ただ屋外は規制に含まれない。愛煙家は自然、テラス席や入口付近の灰皿にわらわらと集まる。
ネズはヘビースモーカーとまではいかないが、そこそこ頻繁に煙草を嗜んでいる。対してキバナは非喫煙者だ。ネズはそれを気遣ってなのかなんなのか、いつもするりと逃げ出すようにして煙草を吸いに行く。互いの自宅にいる時も必ずベランダに出て吸う。「マリィと暮らしてますから、癖になってるだけですよ」と彼は言うが、それだけではないことが最近ようやくキバナにはわかった。彼がキバナといる時に煙草を吸いに行くのは、居た堪れなくなったタイミングなのだ。
ふたりが関係を進め、体さえ重ねるようになってからもうしばらく経つというのに、ネズは未だにこの状況に慣れないようだった。たまにふと、「なんでこんなことになっているんだろう」といったような表情をする。どれだけ彼がキバナにとって魅力的であるかと滔々と伝えようと、彼は眉を顰め首を傾げるばかりだった。そして時折、こうやってひとりで煙草を吸いに行く。
キバナは残り少なくなったティーカップの中身をゆらゆらと揺らしながら、つい今しがたネズの向かった入口の方を見遣った。喫茶店のウィンドウのガラス越しに、ネズの後ろ姿が見える。高く結った白黒の髪の束を重そうにもたげ、俯きがちに白煙を吐き出している。丸まった背は、常よりもきついカーブを描いているように見えた。
今回のトリガーは、多分、キバナがあんまりにも彼を見つめすぎたからだ。それしかキバナには思いつかない。久々に外出しての「デート」だと浮かれていたので、ネズのキャパシティを超える愛情表現をぶつけてしまったのだろう。テーブルの上に置かれていた手を取ろうとした瞬間、ネズは小さな声で「……ちょっと」とだけ口走って席を立った。もうこの流れも幾度目かなので慣れてきてしまったが、初めてやられた時は面食らったものだ。ずんずんと入口に向かっていくから、自分を置いて帰ってしまうのかと冷汗をかいた。慌てて追いかけたら、煙草に火を点けようとしていたネズは必要以上に狼狽してそれを取り落とし、危うく前髪を焦がしそうになった。以来、彼がクールダウンするためのその時間を邪魔したことはない。
そろそろ慣れてほしいと思わなくもないが、仕方がない。それに、一周回ってキバナにはネズのその挙動がどうも可愛らしく思えてきてしまった。見た者が十中八九怯むであろう仏頂面で煙草を吸いに行く癖に、その理由が「恋人に見つめられすぎて居た堪れなくなったから」だなど、キバナ以外の誰にわかるであろう。ネズの感情の出力がどうも他人とズレがちであるところは、キバナの興味を掻き立てて余りある。他よりも成長の速度が緩やかなドラゴンタイプのポケモンを愛するキバナは、人間関係においてもなかなかに我慢強かった。いっそ観察日記でも書いてやろうかと本気で考えているほどだ。
ガラス越しのネズが、灰皿に吸殻を押しつけるのが見えた。少し躊躇うようにドアの前で逡巡したあと、扉を押し開け、のろのろと店内に戻ってくる。相変わらず眉間にはくっきりと皺が刻まれていた。
「おかえり」
座席へと近づいてきたネズにそう声をかけると、ネズは「お待たせして」とやや気まずげな小声を発した。ふわりと残り香が漂う。んーん、と首を振ってキバナは応えた。
きっちり煙草一本分の時間、それが今のネズに必要な時間である。ひとりになるための時間。必要なくなるまで、果たしてどれくらいかかるだろうか。ともかく、じっくりやっていくに限る。にやにやと笑えば、ネズは怪訝な表情を浮かべてチョーカーのトップを弄った。
Day5- Kissing
この男の「温厚さ」は、後天的に努力して手に入れたものだ、少なくともネズはそう思っている。些か大きく育ち過ぎた体躯から否応なしに放たれる威圧感を誤魔化すために、彼は柔和な空気を身に纏う。それはいかにも熟れ、あたかも生得的な、天与の資質ですよと控えめに主張するかのごとく、彼の輪郭に沿って漂う。人当たりよく、心地よく。身のこなしや語り口、僅かな表情に至るまで、よくもまあここまで完璧に振る舞えるものだと感心してしまうほど、彼の擬態は周到だ。
だが皮一枚剥いでしまえば、その下には獣のごとき獰猛な一面が、確かに息づいている。いや獣でなく、竜に擬らえるべきだろうか。多くは試合中にしか見せぬそれをパフォーマンスだと云う者も少なからず存在するが、どこを見ているのかと言ってやりたくなる。決して言ってはやらないが。勘違いしたまま精々囀っていろとすら思う。そういう時ネズの胸に満ちるのは、不理解を詰る気持ちとほんの少しの優越感である。
他人を害さぬよう丁寧に幾重にも塗り重ねられた穏やかな顔、それも無論彼自身には相違ないとも思っている。二面性がどうだだの、一部の人間が好んで口さがなく言い立てるだろうような言葉を思い描いたこともない。あの「温厚さ」は紛れもなく彼の弛まぬ努力によって培われたものであり、それである故に好ましい。だがネズには、それにみしみしと皹が入り、慎重に隠していた竜の顎が垣間見える瞬間が、たまらなかった。彼が望んで会得し、もはやもうひとつの皮膚のようにぴったりと貼りついた習性をかなぐり捨て、繕うことなど出来ぬまま、剥き出しの感情をぶつけてくる。他ならぬネズ自身の所為によって。それを肌で一等実感できるのが今だ。彼の腕の中に絡め取られ、唇を奪われている、この瞬間。
常ならば快活な笑みを携える口許が、がばりと大きく開く。喉の奥へと続く暗闇は底無しだ。闇の入り口には、白くぬらりと艷めく牙がある。まるで捕食だ。下拵えする時間も惜しいといった風情で、言葉で飾り立てることすら忘れて、彼は──キバナは、ネズに覆い被さる。舌は其処彼処を這い回り、執念深く総てを味わい尽くそうとする。骨が軋むほどに強く肩を掴まれ、痛みと綯い交ぜになった恍惚が襲い来る。
唇の隙間に態とらしいほどに小さく、微かな吐息を零せば、更にキバナは息を荒らげた。ネズはうっそりと微笑む。
「興奮、してるね」
「……だめ、ずきずきする、そこらじゅう」
痛みに耐えるようにキバナは硬く眉根を寄せた。ああ、駄目駄目、まだ理性がひとひら。もっと我を忘れて貰わねば。
おやさしい麗しのご尊顔が、欲に塗れて獲物を食い千切る竜の表情へと変わる、その放物線。それにこそ胸高鳴るのである。やがて訪れるであろう嵐のような蹂躙への甘やかな予感が、ただネズの胸に揺蕩う。ぞわりと項の後ろが総毛立つ。
「……だめになっちゃいましょ」
囁きの合間に下唇を甘噛みして、たっぷりと堪能してから解放してやる。唇が離れたその端から、ひとときも経たぬうちにまた噛みつかれる。噛みついて噛みつかれて、きっとそのうち過熱したあまりに互いの肌には無数の噛み跡が残るのだろう。喉の奥だけでくつくつと笑っても、猛る竜と化した愛しい男は、どうやらそれどころでないご様子であった。
Day6- Wearing eachothers’ clothes
当然だがネズの服はキバナにはサイズが合わない。ネズは大概においてタイトなシルエットの服を好むし、キバナの身体は規格外のサイズである。戯れにネズの気に入りのジャケットに腕を通そうとしてみたら、途中でつかえてしまった。すると、ネズは一通り笑ってから「それ、レディースなんですよね」と種明かしをした。上背と肩幅はあるものの針金のような痩躯のネズは、レディースのLサイズ程度であればなんなく着こなしてしまえるのである。レディース服だろうがメンズ服だろうが気に入れば着られるというのは、ファッションを好むキバナからすれば少々羨ましい。無駄だとわかってはいながら、ムキになってどうにか着られる服がないかとネズのクローゼットを漁るキバナを、彼はおもしろそうに眺めていた。
「なんか、こういう絵本なかったですか? ピカチュウが着てる服がどんどん他のポケモンに着られていくんですけど、最後にはダイオウドウが着ちゃってびよんびよんに伸びちゃう、みたいなやつ」
「読んだことないけど……絵本とか妙に詳しいよなネズ」
「マリィによく読み聞かせしてやったんで……まだ家にあるかな、あの絵本」
ネズの気に入りのジャケットをびよんびよんにするわけにはいかない、キバナはしょんぼりとそれをハンガーにかけ直した。ピカチュウとダイオウドウかぁ、と思う。いやそこまで体格差があるわけじゃないけど、と隣をちらりと窺った。
ネズはといえば、キバナが脱ぎ捨てたパーカーを手に取ってタグを確認している。えっくすえる、と唇が小さく動いて、目が細められる。
「やっぱデカいですね」
「やー、オーバーサイズが好きなんだよな、こんだけ育っといてオーバーサイズってのもなかなか難しいんだけど……でも服の中で体が泳ぐ感じが好きで」
「……服の中で体が泳ぐ」
ネズは不思議そうにそう繰り返した。あまり考えたことがなかった、という感じの表情である。かと思うと、徐ろにそろりとキバナのパーカーに腕を通した。
きっちりとファスナーを一番上まで上げ、シルエットを整え、着心地を確認するように腕を広げる。面持ちは真剣そのものだ。暫しの時が過ぎて、ネズは得心したように呟く。
「なるほど、体が泳ぐ。確かにそういう感じですね。おれはタイトな服を着た時の体の輪郭がピシッと決まるような感じが好きなんですけど、これはこれで……」
そこまで言って、キバナの表情を見た瞬間ネズは固まった。そのまますごい勢いでファスナーを下ろし、躍起になって腕を抜こうとする。それをほとんど反射的に抱き着くような形で止めようとすると、キバナの腕の中でネズはじたばたと暴れた。
「なんで脱ぐんだよ! いいよ、着ててよ!」
「いや、いいです、もう結構です、脱ぎます、わかったので」
「もうちょっと堪能してもいいよ!? いやぁー、似合うなー、ルーズな服もいいんじゃないかなー」
「……クソ……」
諦めたようにネズは肩の力を抜いて、両手で顔を隠した。反面キバナは満面の笑みを浮かべる。下ろしたファスナーを再び上げてやって、顔を隠す手をそろりと剥がしてやる。むっつりと口角を下げたネズの頬をそっとつまんで、「今度ふたりで着られるやつ買いに行っていい?」と訊けば、渋々といった様子でちいさく、しかしこくりと頷いた。
Day7- Cosplaying
ぱりっとした白いシャツに、黒のネクタイのコントラストが目に眩しい。分厚いジャケットをかっちりと身に纏い、極めつけは特徴的な帽子である。正直ネズはこの職業の人間をあまり好んでいなかったがそれはそれとして、キバナには不思議とこういう堅い服装も似合ってしまう。ナックルシティの一日警察署長、それがキバナの今日のお仕事であった。少し遠くで、キバナは人だかりに囲まれてにこやかに微笑み手を振っている。
周りからはひっきりなしにシャッター音が聞こえる。浮かれたような熱っぽい囁き声も。かっこいいーとか、似合うー、とか、逮捕されたーい、とか。思わず小さく笑ってしまう。逮捕されたいはないだろう。犯罪撲滅のためのイベントで犯罪志望者が増えてるぞ、キバナが本物の警官でなくてよかったな、と人混みのなかのひとりひとりの顔をちらりと盗み見る。立ち並ぶ顔、顔、顔はどれもみなうっとりと緩んでいて、軽く変装しているとはいえ無防備に立っているネズに気付く様子もない。彼ら彼女らの目線は一心に壇上のキバナに注がれている。
珍しく天気のよい昼間、あれだけかっちりと着込んでいるにも関わらずキバナの額には汗ひとつない。フェイクの肩章やバッジが、陽を受けてきらりと光った。囲み取材に応える彼の表情は概ね真面目で、だが時にへらりと無邪気に崩れた。それをしばらく見つめていたが、そういえば他の用事があったのだということを思い出す。くるりと踵を返そうとすると、背後で「ではこれより移動いたしまーす」と間延びした声が聞こえた。それから少し遅れて、タッタッタッ、と軽快な足音がする。歩みを止めないネズの後ろから、にゅっ、と上半身が現れて、行く手を塞いだ。ねーず、とやけにご機嫌な声が名前を呼ぶ。言うまでもなくキバナだった。顔をしかめてやれば、それをものともせず、さらに嬉しそうに肩を揺らした。
「来てくれたんだ。うれしー」
「……別に、ナックルに用事があっただけです」
「またまたぁ」
キバナは腕を広げてくるりと一回転した。
「どうよ? 似合ってる? かっこいい?」
誇らしげに胸を張る姿は一見非の打ち所がないほど完璧だというのに、なぜかまるで初めて一張羅を着せてもらった子どものようだった。
「……まあ、似合ってはいますけど」
「む、けどって何だよ」
「いや、官憲はお断りですんで、おれは」
そう言うと、キバナは一瞬目をぱちくりと瞬いたあと、弾けるように笑い出した。
「官憲って、言い方! 」
「官憲は官憲だろうが。こちとらあっち側よりも世話になってる側のほうが多いんですよ数としちゃ」
キバナは相変わらずけらけらと笑っている。キバナさーん、と背後から呼ぶ声がして、あーはい、と雑に返事をした。
「んじゃーオレさま、もうちょっとかかるから」
「早く行けよ」
「ふふ、つれねえの……待ってなよ、絶対逮捕してやるから」
じゃあね、悪いオニーサン、そう言ってキバナは軽快に走っていった。きゃあ、と黄色い声が再び巻き起こる。それをぼんやりと眺めながら、「……変なスイッチ入ってそうだな、めんどくせえ」とネズは一人頬を掻いたのだった。
Day8- Shopping
いつも通り歩幅を合わせる気もないであろう足取りで歩いていたネズが、ふと足を止めたのはフラワーショップの前だった。あまりにも突然だったので、おかげでキバナはそれに気付くまでに少々時間がかかった。数メートル進んで後ろを振り返ればネズがいなかったので、キバナは慌てふためいて辺りをきょろきょろと見渡す羽目になった。フラワーショップにふわふわと足を踏み入れる白黒の髪の尻尾が見えて、キバナはほっと安堵の息を吐きそれを追いかけた。
外の能天気な明るさから一転して、店内に入るとやや薄暗い。明暗の変化に目が少々戸惑い自然眉根が寄る。ややあって、ようやく瞳がその薄暗さに慣れてきた。
おそらく老舗らしい、内装にはあまり飾り気のないフラワーショップは、その素っ気なさを補うがごとく花で満ち溢れていた。天井まで届く大きなガラスケース、どっしりと立ち並ぶ鉢植え、所狭しとひしめくバケツの中の切り花。古びたレジスターの後ろに誇らしげに鎮座する包装紙や色とりどりのリボン。色の洪水のような景色の中で、キバナは目をしばたいた。
ネズは少し奥の方で、しげしげと花を眺めている。うろうろとその視線が彷徨って、ひとつのバケツの前で止まった。ひっそりと、しかし押しつけがましくなく様子を窺っていたのであろう老齢の店員がするりとネズの傍に寄っていく。ネズの指が、バケツのなかの花を指した。店員は小さく幾度か頷いて、たった一輪、五分咲きほどの花を選び出した。
花。誰に贈るのだろう。マリィになにかお祝いでもあったとか言ってたっけな、とキバナはぼんやり考えた。そういえば昨日のトーナメントじゃいい感じに勝ち進めていたけれど。でもあの花、マリィのイメージじゃないなあ。マリィに贈るならば、ピンクだよなやっぱり。あの花の色は、目にも鮮やかな黄色だ。
会計を済ませたネズが、店員にぺこりと一礼してゆっくりと近付いてくる。一輪の花には、簡素な包装がされていた。プラスチックバッグには入れず、それをそのままふらりと手に持っている。
「花なんかどうしたの」
ネズの足取りに合わせるように歩幅を緩めながら、キバナはそう問うた。店内から出れば、再び午後の日差しが目に刺さる。目をしぱしぱと瞬かせて、ネズに向き直ると、むんずと目の前に何かが差し出された。焦点を合わせる。それは先程ネズが買ったばかりの花一輪だった。
「やります」
あまりにもなんでもないような声音でそう言うので、反応が遅れた。えっ、えっ、と数度言葉を詰まらせる。
「おっ……オレに?」
「やるって言ってんだからおまえにでしょ」
「えっ、ほんとに?」
「なんで嘘を言いますか」
「ほ、ほんとに!? えっ、なんで!?」
なんでも何も、とネズは口の端を思いっきり下げた。それからぼそぼそと小さな声で呟く。
「……なんとなくです。やりたいと思ったんで。……いりませんか」
「い、いる!!」
うるせぇ、声でけぇ、とネズはキバナの口を片手で塞いだ。もごもごとそれに抗って、ネズの手ごと花を受け取る。ネズの手の中で、五分咲きの花はふわりと微睡むようだった。
「えー、なんでー……全然わかんねーけど、うれしー……」
「……理由がいりますか?」
「ううん、いらない……理由がなくて、うれしい……」
相好を崩し、蕩けんばかりの様子で花を眺めやっていたキバナは、突如ハッとしたように顔色を変えた。
「待って! オレの家、花瓶ない!」
「コップとかでいいんじゃないですか、酒瓶とか」
「やだ!! 絶対花瓶に活ける!! 今から買いに行く、花瓶!!」
キバナはネズの腕を掴んで勢いよく歩き出した。大事そうに胸元に抱きかかえられた黄色い花は、まるで微笑むように、幾層にも重なった花びらを微かに風に揺らめかせていた。
Day9- Hanging out with friends
がやがやと、賑やかでありながら親密な空気が流れている。数時間前までの闘気に溢れた空気はどこへやら、いつものスポーティーなユニフォームを脱ぎ捨てた面々は皆それぞれ思い思いにドレスアップしていた。
チャンピオンであるユウリ主催のトーナメントの後に開かれた、懇親会のさなかである。飾り気のない少女ゆえ、店のチョイスはリーグ委員会の選定するお決まりのそれよりも少々カジュアルだ。それも相俟って、肩肘張らない緩やかな雰囲気が漂っている。歳若いチャンピオンや同年代のジムリーダーたちがころころと笑い転げる声。それを見守っている大人たちの視線。心地よい空間だった。無論ロッカールームでのあの、各々が真剣に己自身と問いを重ねるような、ぴんと張り詰めたようでありながら血がふつふつと沸き上がるような空気もキバナは大好きだった。だがこれはこれで良い。
キバナはこういう場は苦にならない。それどころか、社交場の申し子であるとすら言える。何の負担もなく楽しく過ごせるのは勿論、その気になれば一瞬でその場を自分のものにしてしまえる。しかし今日のホストはあくまでユウリである。彼女にこういう場での振る舞いというものの経験値を積ませてやらねばならない。よって本日は大人しく壁の花の身の上をゆったりと楽しんでいるのであった。やや小ぢんまりとしたバーカウンターに凭れかかり、キバナは悠然と会場を見渡した。パートナーであるネズは、少し遠くでメロンとカブに捕まっている。マリィの付き添いでという名目ではあったが、むしろ現役のときよりもこのような場に顔を出すようになったのではないだろうか。柔らかな表情で談笑するネズを見て、キバナはひとり頬を緩めた。そこに一人が近付いてくる。
「珍しいじゃない、あなたが一人でいるなんて」
涼やかな声の持ち主はルリナだった。パーティーの前半はヤローやカブといたようだったが、三々五々それぞれに散ったらしかった。細いシャンパングラスを持ち、目の覚めるようなブルーのシンプルなドレスを身に纏っている。キバナはへらりと笑って、カウンターの隣の席を彼女に示した。レパルダスのようなしなやかな動きでルリナはするりとそこに腰掛ける。
「そーですよー、誰かさんがほっとくから、オレさま一人なの。相手してくれる?」
「お預け食らってるってわけね。いい気味」
ルリナはくすくすと笑ってシャンパングラスに口をつけた。すると、久し振りに聞く主人以外の声に気付いてか、キバナのポケットからスマホロトムが元気よく飛び出してきた。
「ケテ!」
「あらどうも。一枚撮ってくださる?」
「もちロン!」
ルリナがグラスを掲げた瞬間、パシャリ、と電子音が鳴る。誇らしげにロトムが見せた画面には、さすがモデルといった貫禄のルリナが美しく収められていた。ルリナは感心した様子でにっこりと微笑む。
「あなたのロトム、撮る量が段違いだからか、学習に学習を重ねてかなりの腕前よね。あなたよりも撮るの上手いんじゃない?」
「言ってくれるじゃん」
「照れるロ〜!」
ロトムは嬉しそうに空中をくるくると舞った。ルリナはけらけらと笑う。
「ねえ、他の写真も見せてよ。撮ったのが溜まってきてるでしょ?」
数瞬のうちに「見せてヤバいものは入ってないはず」と頭を働かせ、キバナはルリナの願いに頷いて受け入れた。ロトムはやはり心なしかウキウキした面持ちでルリナの手の中に収まる。もっと見て見て、と自慢げな様子である。ルリナはしばらくロトムと会話しながらフォトフォルダを眺めていたが、すいすいとテンポよく画面を操作していた指が、ふと止まった。
なんかまずい写真入れてたっけ、と少々気まずい思いでキバナはその手元を覗き込んだ。画面に表示されていたのは一枚の写真。キバナを写したものだった。ちょっとピントがぶれていて、キバナの自宅の室内で撮られている。画面の中のキバナは、へにゃり、としか形容のできないような間の抜けた笑顔を向けていた。あ、と思わず声を出す。振り向いたルリナは、なぜか少し頬を赤らめていた。唇をやや尖らせて、必要以上に小さな声で呟く。
「ねえこれ……撮ったの、ロトムじゃないでしょ」
「えっ」
ネズでしょ、撮ったの、とルリナは顰めっ面で言った。
「な、なんでわかんの……」
「あのね、わたしモデルやってるでしょう。色んな写真見るから、わかるの。こういうポートレートって……被写体と撮影者の関係が、ものすごく、出るのよ」
もうね、うわーーって、出るのよ、とルリナは呻いた。
「そ、そんなに……?」
「そんなに、よ。もう一発でわかるわよこんなの……はぁーやだやだ、当てられちゃってもう、ほんと、なんでここにソニアいないの? ソニアいないとやってらんないわもう」
スマホをキバナの胸元に押しつけて、ルリナは身悶えするように何度も首を振った。遅れてキバナの顔にもだんだんと熱が集まってくる。おずおずともう一度画面を見た。ピンぼけの、へたくそな写真だ。笑顔だって、いつもの決め顔なんかではなくて。
「……ネズもこんな写真、撮るのね。でもそうか、彼、そういう人よね」
しみじみとルリナが呟いた。それを聞いた瞬間、キバナは片手に握り締めていたエールの瓶をカウンターにごとりと置いた。身体中がむずむずする。走り出したくなってくる。ルリナ、オレ、と漏らしたその声は上擦っていた。ルリナは頬杖をついてひらひらと手を振る。
ばたばたと駆けていくキバナを見遣り、彼女はひとり、赤くなった頬をシャンパングラスで冷やした。
Day10- With animal ears
きゃあきゃあと走り回る幼子たちの声がする。いつもの町とは少し違った様子に、キバナは頬を綻ばせた。
ネオン灯る「大人」の町といった趣のスパイクタウンに、今日ばかりはたくさんの子どもが溢れていた。本日はネズのチャリティライブが行われるのである。ライブの収益はスパイクタウン内の児童養護施設や関連機関に寄付される予定だ。数年前に始めてから毎年恒例となったそれは、年々参加者が増えている。ライブに合わせて多くの店が頭を捻って子ども向けのメニューや玩具などを並べており、明るい雰囲気が漂っている。
キバナはコートの片隅に立ち、通りを過ぎ行く人々の顔を眺めた。みな一様に楽しげな表情を浮かべている。そして同じものを身につけている。ポケモンの耳を象ったカチューシャである。ジグザグマやモルペコ、エレズン。テーマパークのような様相を呈しているその光景は、キバナの目を楽しませるのに充分であった。
「キバナさん、来てくれてありがと」
声のした方に振り向く。そこにいたのはマリィだった。ジムのユニフォーム姿で、首にかけたタオルで額の汗を拭いている。マリィは先程このコートでエール団団員、それから手持ち制限のハンデの上で一般参加者とエキシビションマッチを行っていた。連戦にも関わらず彼女はきっちりと魅せる試合を行い、拍手喝采を浴びていた。ジムリーダーとしての成長目覚ましいその様子にキバナも気を引き締めたばかりである。そんな彼女の頭にも、モルペコのカチューシャがちゃんと鎮座していた。
「お疲れ。試合見てたよ。よかったぜ」
「気付いとったよ。試合中キバナさんが見えて、対戦相手に名乗り出てこられたらどうしようか思とった」
そう言いながらもマリィはにやりと笑う。もしキバナと対戦することになったとしても一歩も退かずに迎え撃つのだろうという好戦的な笑みだった。さながらはらぺこ模様のモルペコである。キバナも唇の端を吊り上げる。
「オレさまも思わず躍り出ちゃいそうだったぜ。まあでも今日はオフのつもりで手持ちも一体だし、また次の機会を楽しみにしてるよ。ところでさ、そのカチューシャ、みんなつけてるな」
「ああ、これ」
一転してマリィはやや恥ずかしげに頭の上を触る。
「子ども向けのイベントやし、ってアニキと一緒に考えたんよ。言い出しっぺやけんちゃんとつけて、って団員に押し切られて。あ、これはチャリティグッズ扱いで購入代金は寄付に回るよ」
「なるほどな。じゃあオレさまも買っちゃおっと」
ありがとう、と少女は律儀にぺこりと頭を下げた。すかさず団員がそそくさと近寄ってきてキバナにカチューシャを渡す。エレズンの頭部を模したデザインだった。なかなかよく出来ている。早速つけてみると、マリィは「でっかいエレズンやね」とけらけら笑った。
「ところでネズは? さっきから探してんだけど見当たらないんだ」
「そのうちライブやから、その辺にいると思うけど……」
きょろきょろとマリィが辺りを見渡し、少し遠くの人混みに目を止めた。傍にいる団員が、あそこですね、と嬉しそうに呟いた。たくさんの子どもがわらわらと集まるその中心に、ネズがしゃがんでいる。へらりと柔らかな笑顔を向けるその頭には、ジグザグマのカチューシャがつけられていた。
「いた! ネズ!」
おーい、と手を振ると、一瞬でネズの顔色が変わった。すっくと立ち上がり、見たことのないくらいのスピードで一目散にコンテナの後ろに引っ込んでいった。思わず呆気にとられてマリィと顔を見合わせてしまう。
「……照れとるね」
呆れたようにマリィは首を振った。照れてるなあ、と言いながらもキバナはにやにやと笑った。じゃあまた後で、とマリィに手を振って、ネズが消えた方へとずんずん歩を進めていく。
コンテナの後ろは当然行き止まりだった。奥の暗がりにネズは腰を下ろしている。むっつりした顔つきで、手に持ったカチューシャを弄んでいた。
「よう、ジグザグマちゃん」
「……そんなでかいエレズンはいません」
ネズの横に腰を下ろす。胡乱な目つきでこちらをじっとりと睨んできたが、照れからだと知れているので全く怖くない。にこにこと笑うキバナのその様子に、ネズはより一層渋面を深めた。
「このカチューシャ、チャリティグッズなんだって? いい思いつきじゃん、かわいいし」
「……お褒めに預かりどうも」
「さっきまでみんなの前で普通につけてたじゃん、なんで外しちゃうの」
ネズの手からカチューシャを取って、耳の細工を手で弄る。ふわふわとした毛並みはなかなかの再現度だ。ネズはそれから目を逸らして、チョーカーのトップに指を突っ込んで神経質そうに弄り回した。そしてぽつりと苦々しげに呟く。
「……今日は、来ないと思ってたので。……びっくりしただけです」
「照れちゃった?」
「うるせえ」
ああクソ、と呟いてネズは立ち上がった。キバナの手の中のカチューシャをひったくるように奪い取ると、やけくそのように頭に装着した。白黒の髪に、まるで元から生えていたかのようにジグザグマの耳がちょこんと立った。
「……まあ、来たからには楽しんでってください。これからライブなので、しばらく構えませんけど」
「もちろん! 期待してるぜ、ジグザグマちゃん」
満面の笑みで答えてやると、ネズは口角を下げて「その呼び方やめろ」とキバナの脛を蹴った。
Day11- Wearing kigurumis
ナックルシティの駅に降り立つと、謎のいきものがいた。
ちょっとした野暮用で出てきたわけだが、駅改札口の辺りにそいつはいた。そいつというのは、着ぐるみである。なんともいえないデザインのそいつは、「ナックルくん」とでかでかと書かれたタスキを下げて、うごうごと名状しがたい動きをしていた。隣には微妙な顔つきで暇そうにしている男性が一人。大量の紙の束を抱えている。どうやら、何かのキャンペーンのようだった。だがしかし、悲しいかな周りには誰も寄っていかない。
なんじゃありゃ、と遠巻きに見ていると、なぜかその着ぐるみはおれをロックオンしたのかもぞもぞと近付いてきた。少なからずぎょっとして、思わず辺りを見回す。後ろには誰もおらず、どう考えてもターゲットはおれだった。
「わぁ、ネズさんだ」
暇そうにしていた男性が、ほっとしたような顔つきで着ぐるみの後ろから近付いてくる。よく見れば見たことのある顔だった。宝物庫のスタッフだと思い出す。一度キバナの忘れ物を届けた時に挨拶をしたことがあった。ぺこりと一礼すると、彼もそれに倣った。着ぐるみも変な動きをした。お辞儀のつもりなのだろうか。
「みんな気味悪がって近付いてこないんです。ちゃんとしたキャンペーンなのに」
そう言いながら彼は手に持っていた紙を一枚ぺらりと渡してきた。「文化に親しもう! ナックル宝物庫無料開放日!」と、十分くらいで完成しそうなデザインで書かれている。右下の方に、「ナックルくんも来るよ!」とおそらくナックラーを元にデザインしたのであろうキャラクターが描かれていた。二足歩行のナックラー、といった趣だ。チラシのそれと、目の前に立っているデカブツを見比べる。まあ確かにコレが「ナックルくん」なのだろうが、なんだか絵とは印象が違う。異様にでかいのだ。頭部が。ナックラーらしきその頭部をゆらゆらと揺らして、そいつは妙にスリムな下半身の腕と足をばたばたと動かした。
「……予算足りてないんですか、宝物庫は?」
「いやぁ、新資料の保存ですとか、そっちに回っちゃいまして。やっぱりちょっと、変ですよねえ」
男性は困ったように頬を掻く。ナックルくんは心外だとでも言いたげに首をぶんぶんと──頭部がでかすぎるので、どうしてもスローではあったが──振った。
「はあ、まあ、周りには言っておきますよ。あまりこういうのに興味がありそうなメンツはうちにはいませんがね。何枚かもらっておいていいですか」
「やあ、いいんですか、助かるなあ」
彼は嬉しそうに十枚ほどの紙を俺に手渡してきた。マリィやエール団員に宝物庫への興味があるとは思えないが、まあ渡すだけ渡しておこう、と思いつつ鞄にそれをしまう。
では、とその場から去ろうとしたおれの前に、ナックルくんがぬっと立ちはだかった。思わずたたらを踏む。逆光のせいか異様な迫力がある。
「……まだ何か?」
慎重にそう訊くと、ナックルくんは何も掴めないであろう着ぐるみの腕で、おれの手を取ろうとした。だがしかし当然うまくいかないので、すかすかと空を裂く。クエスチョンマークを浮かべながら、おれは手のひらをかざした。
「手、ですか?」
ぶんぶん、とナックルくんは縦に頭を振る。
「握手?」
今度は横に頭を振った。そして、少々かがんで、そのやたらにでかい頭部を、おれの目の前にずいと差し出した。呆気にとられる。横の宝物庫職員は、なんともいえない苦笑いをしていた。
「……おれのファンかなんかですか、この中の人は?」
「ナックルくんに中の人はいません! ……と言いたいところですが、ええ、まあ、そういう感じですね」
ぐいぐいとナックルくんは頭部をおれの手に押しつけてくる。根負けして、おれはその頭を撫でた。そりゃもう存分に撫でた。頭だけでなく顎下なんかも撫でてやったりした。しばらくすると、ナックルくんは満足したようにでかい顔を上げ、右左に珍妙な動きで鈍いステップを踏んだ。喜んでいるらしい。
「えっと……よくわかりませんが、じゃあおれはこれで」
「あはは……すみませんでしたネズさん。ありがとうございましたぁ」
ちいさく胸の辺りでひらひらと手を振ると、ナックルくんはぶんぶんと腕を振り回した。
一体なんだったんだあいつは、と首を捻りながら、おれはその場を後にした。帰ったらキバナに言ってみようと思う。あの着ぐるみ、もうちょっとなんとかした方がいいんじゃないかと。
Day12- Making out
スイッチなんて突然入るものだ。こそばゆいくすくす笑いの途切れ目。激しい言い争いの直後。雨宿りに失敗してずぶ濡れの帰り道。からだの芯、奥底まで焼き尽くすようなバトルのそのあと。とかく、オレたちの興奮のスイッチは生活の至るところに存在している。
今日はどうやらネズの番っぽかった。ネズのスイッチは、正直まだオレには掴めないことが多い。今日もどこがネズのお気に召したんだか、よくわからない。おかげで全く飽きないが。
ソファに並んで座って、見るともなくぼんやりとテレビを眺めていた。賭けてもいいが絶対に間抜け面だったと思う。しょうがないだろ、二十四時間キメ顔のままいられる人間なんていないんだ。
そしたら不意に、ぼすん、とオレの膝に何かが乗った。わう、と変な声が出る。乗せられたのはネズの細い脚だった。彼はオレの膝の上で足首をぐるぐると回して、うっすら微笑んだ。その笑みだけでわかっちまう、「スイッチが入ったんだな」って。ふつりと腹の下の方がざわつく。
なに、って訊いたら、ちょっとね、って笑った。そろりとスキニーのレザーボトムに包まれた脚をさすったら、ご満悦といった感じで髪を揺らした。右脚を持ち上げる。尖った踝に口づけたら、自由なままの左脚が悪戯を仕掛けてきた。爪先でオレの腹をなぞって、そのまま下に移動する。おいおいまだ昼間だぜ。太陽はまだまだ元気だし、あっちじゃせっかくお利口なポケモンたちが昼寝の時間と洒落こんでるところだってのに。でも止めやしない。そこまで野暮じゃない。左の爪先がするりと円を描く。右足の指先をねろりと舐めたら、ネズは喉の奥でくつくつと笑った。
「なに、今日はどしたの」
「ふふっ……べつに」
あっそう、そう言って下唇をわざとらしく突き出してやると、余計嬉しそうに唇の端を上げた。数ミリだけだけど、オレにはわかる。その数ミリが大事なんだ。
爪先の悪戯は止まらない。持ち上げていた脚を肩にかけて、太腿から上へするすると掌でなぞる。服の上からでも骨っぽいのがわかる。薄い皮膚と申し訳程度の肉、主張する骨のその下に、渦巻く欲望がある。どくどくと心臓の息衝くその胸元まで辿り着いたら、手を阻まれた。するりと取られ、指が絡まる。口づけの雨が降る。たまらなくなってきてそこに噛みつこうとすれば、他ならぬオレの手でそれを防がれた。組んだままの手を押し付けてきているのだ。
「……運んでくれます?」
続きはあっち、そう言って意地悪げにネズはほくそ笑む。
「……あいよ、女王陛下」
いい子だね、とそう言ってネズはオレの頬を撫でた。気まぐれのそのスイッチが切り替わらないうちにその身体を抱き上げるべく、滑り込ませた腕に力を込めた。
Day13- Eating icecream
アニキの好きなアイスってなんだっけ。あたしはスーパーのでっかい冷蔵庫の前で固まる。
アニキは、あたしの前ではあんまり食べものの好き嫌いのことは言わなかった。音楽とかバトルスタイルとか、そういうのは割とズバズバ言うんだけど。
特に甘いものはいつも、あたしに合わせてって感じ。たとえばあたしが定番のチョコフレーバーと、期間限定のロゼルの実フレーバーで迷ってたとする。そしたらアニキは、そのふたつをカゴに入れる。それで家に帰って、ふたりでそれを食べる。大体、半分よりももっと多くの量があたしに回る。アニキが「これにしようかな」って自分から言ったことはない。どれ食べても「うまいね、マリィはいつもいいのを選ぶ」って微笑んでる。そんな調子。
だから、「アニキがほんとはどの味のアイスが好きなのか」、ちゃんとわかってなかった。今更それに気付いてちょっと愕然とする。気付いてなかったなんて。あたしもガキやったいうことたい、思わず独りごちてしまう。
冷蔵庫の中にはとりどりのフレーバーが並んでるから、余計途方に暮れてしまう。アニキはどれが好きなんだろう。眉間にシワが寄りすぎて、凶悪な面相になったあたしが少々曇ったガラスに映る。チョコか。キャラメルか。クッキーアンドクリームって手もある。大人向けに洋酒で風味をつけたやつも。さっぱりしたフルーツフレーバーも選り取りみどりだ、甘くないのならオレン、ナナシ。甘いのがいいならモモン、マゴ、ソクノ。もうだんだん訳が分からなくなってきた。なんでこげんこつようけあるとやろか。
そしたら後ろに、でっかい人影が映った。その人影はにゅっと手を伸ばしてケースの扉を開け、一瞬の迷いもなくふたつの味のアイスを選び取った。振り返ると、キバナさんがへらりと笑う。
「オレさまこれー。ネズにはこれ。妹ちゃんは?」
でっかい手のなかで、アイスのカップは一口サイズくらいの大きさに見えた。キバナさんの手の中には、バニラアイスと、チョコミントアイスが一つずつ。あたしはぱちくりと瞬きして、それを見る。
「……チョコミント、アニキの?」
「うんそーそー、なんか最近ハマってんのよこれに」
なんでもないようにそれをカゴに入れて、キバナさんはふたたび冷蔵庫を熱心に見た。期間限定も捨て難いよなあ、ほらこれ結構おいしそう、でも結局バニラに戻っちゃうんだよなあオレ、とか、いろいろ話しかけてくれてる。でもあたしはそれどころじゃない。カゴの中のアイスを見る。さっきよりもおっきく見えるカップが、ふたつ寄り添ってる。アニキ、チョコミント、好いとったとか。あたしは知らんかったよ。
「……あたしも、チョコミントがよか」
「オッケー」
キバナさんはニコニコしながらもうひとつチョコミントを取り出して、カゴに入れた。なんか悔しか、そういう気持ちと、アニキが「好きなもの」をのびのび言えてることへのうれしさみたいなのと、いろんなのが混ぜこぜの気持ちだ。それを吐き出すみたいにあたしは小さく溜息をついた。
「大人にならんとね……」
「ん? チョコミントの話?」
「こっちの話たい」
唇を尖らせて、下を向いて言うしかなかった。まだもうちょっとガキからは抜け出せないみたいだ。少し遠くから、アニキが酒瓶を鷲掴みにしてのそのそ歩いてくるのが見える。キバナさんが嬉しそうにそっちの方に小走りで近寄っていく。ふたりの背中を見て、あたしは目を細めた。
Day14- Genderswapped
あーこれ夢だな、って薄々気付いてる夢ってあるじゃん。今日の夢がそれ。夢のなかでオレさま、もとい、アタシは女だった。そりゃもうすこぶるつきの美女だ、さすがオレさま、もといアタシ。
全然違和感とかはない、夢なんだけど。夢なんだけどアタシはずっと前から「アタシ」であったようにそこで息をしてた。そして、ネズも女だった。パッと見あんまり変わんなかったけど。アタシは、「『変わんない』ってなんだ?」と一瞬思って、すぐに忘れた。ほっそい手足。浮き出た鎖骨。ちょっと力を込めれば折れそうな腰。別に特段ちっちゃいわけじゃない、どっちかってと平均身長よりは高い、けど、猫背と相俟ってどうもちっちゃく見える。アタシ多分六フィートくらいあるし、それもある。不意に愛おしさが胸の中にうわっと湧いてきて、ぎゅうと抱き締めると、ふにゃりとしたあったかい肉体はちいさく身を捩った。
なんですか、とちょっとハスキーな声がめんどくさそうに発せられて、ネズはアタシの背中をぽんぽんと叩いた。んーん、なんでもない、って笑う。
しばらくぎゅうぎゅうと抱き締めていた。頭の片隅で、あーめっちゃリアルー、って思う。「オレさま」だった時に触れ合った女の誰よりも細っこいその体は、しっかりと存在感があった。温度だけじゃなくて匂いまでする。なんだか甘い、でもちょっとだけ奥にスパイスが香る、そんな匂いだ。
ねーなんか急に思ったんだけど、アタシがオトコだったらどう、って訊いてみた。ネズは怪訝な顔をする。
「思考実験かなんかですか?」
そんなとこ、と答える。ネズは顎に手を当てて俯いた。
「……どうでしょうね。現代社会じゃ男と女の社会的扱われ方にどうしても差があるでしょ、ムカつくけど。それが人格形成に影響が出ないわけじゃないだろうし」
「うへ、めっちゃまじめに考えてくれてる」
おまえが訊いたんでしょ、ってネズは呆れた顔をした。
「でもそうだね、おまえがオトコだろうがオンナだろうが、同じくあたしがオトコだろうがオンナだろうが……きっと、ポケモントレーナーでしょ」
「うん」
強く頷くと、ネズは口の端をすこしだけ吊り上げた。
「じゃあ、変わんないです、きっと。『あたし』が『おれ』だろうが、『アタシ』が『オレさま』だろうが。きっとおまえはあたしを見つけて、しつこいくらい追い回して、いつの間にかしれっとあたしの横にいる」
そう言って、ネズはちょっとだけ背伸びして、アタシの唇に触れた。柔らかい。きっとこれは、男だろうが女だろうが変わらない。
「ふふ……熱烈」
「誰かさんのせいだね」
ネズは肩を竦めた。そうだよね、変わらないものだってあるはずだよね。男だろうが女だろうが、おんなじ人間だもん。これが夢だったとしても、それだけは現実であってほしいな。「オレさま」に戻ったとしても、ちゃんと覚えてたい。そう思いながら、アタシはもう一度、その唇にそっと触れた。
Day15- In a different clothing style
ばばんばばんばんばん、と気の抜けるような歌声が聞こえる。やたらご機嫌なそのメロディに、ネズはゆるりと隣を見遣った。
「……その曲は一体」
「これ? なんかカブさんが教えてくれた。カントースタイルのオンセンに浸かる時は歌うのがレイギなんだって」
それなんかちょっと勘違いしてるんじゃないか、とこっそり思う。だがまあ、楽しそうなのでその言葉はそっと胸にしまった。
というわけで、温泉とやらに来ている。所在はカントー地方、ナナシマ。ともしび温泉である。ネズのツアーの終幕に合わせて、溜まりに溜まった休暇を潰すべくキバナが合流した形である。火山の地熱を利用したという温泉街であるが、少しばかりアクセスがしにくい場所であるからか、観光客はそこまで多くなくやや小ぢんまりとしていた。「入れば こころに 火が灯る」とのんびり謳うその町は、溜まった疲れを溶かすにはちょうどよさそうな場所であった。ガラルでは知らぬ者のない有名人同士であるふたりも、気を張らずに過ごせそうだ。優秀なコーディネーターに感謝である。
町には至るところに温泉が湧いている。観光客は皆、その温泉を回って楽しむらしい。ポケモンたちと一緒に人間がとろけそうな顔で足を湯につけている光景はのどかで微笑ましかった。だがネズとキバナはそちらではなく、まっすぐに予約を入れた旅館へと向かった。せっかくなので誰にも邪魔されず存分に温泉を楽しんでやろうという魂胆である。
愛想の良い客室係に案内され、至る所に頭をぶつけそうになりながら入った部屋は眺めのよい内風呂付きの客室だった。キバナは荷物を放り出し、子どものようにはしゃいで部屋のあちこちの扉を開けて回った。そして機嫌よくうたい出したのが先程の歌である。ばばんばばんばんばん、とそればかり繰り返してうたっており、そのあとに続くメロディを知らないのは明白だった。
「わっ、見てこれ、キモノじゃん」
コート掛けらしき扉を開いたところに畳んでしまってあった浴衣を見つけ、キバナは目を輝かせた。「館内でご着用いただけます」と扉の内側に但し書きがある。
「初めて着るよ。どうやって着りゃいいのかな、調べるか」
スマホロトムに浴衣の着方を検索させて、キバナはいそいそと着ていた服を脱ぎ始めた。風呂に入ってからではないのか、とネズは思ったが、水はささないでおこう。ほらネズも着替えようぜ、と唆され、浴衣を手渡される。白地に紺色で柄の入ったそれは、柔らかく手に馴染んだ。キバナはもう既に浴衣を羽織り、細長い紐と悪戦苦闘している。
「……これでいいのか?」
ネズが着ていた服を適当に畳んでいると、珍しく自信なさげな声が聞こえてきた。
そちらを見遣ると、浴衣を着たキバナが微妙な顔つきで自分の全身を眺めやっていた。上半身はきっちりときれいにまとまっている。苦戦していた帯も腰元できりりと決まっていた。問題は下だった。あからさまに丈が足りていないのである。人並み外れた長身であるため仕方がないだろうが、つんつるてんだった。思わず噴き出してしまう。
「ぶっ……」
「あっ!! 笑ったな!!」
すこし顔を赤くしてキバナが口角を下げる。浴衣の裾からにょきりと脛が出ていて、育ち過ぎた子どものようでおかしかった。
「いや、うん、かわいいですよ、かわいい」
「かっこいいって言ってほしかった……」
「……フロントにもう一つ上のサイズがないか訊いてみましょうか」
「うん……」
少々しょげた様子のキバナが、なんとなく哀れに見えてきた。剥き出しの若々しい脛が眩しい。それを眺めて、ネズはふと思いついた。
「キバナ、ジャージでもなんでもいいんですけど、紺色のボトムとか持ってきてますか?」
「え? あるけど……」
キバナがごそごそと荷物を漁る。取り出されたのは少し幅のあるストレートのボトムだった。運のいいことに、浴衣の柄の色と近い。
「これ履いてください、下に」
「浴衣着たまんまで?」
「そうです。それでこの裾をこう、からげたら……」
ネズは膝を折って姿勢を低くすると、キバナの浴衣の裾をちょいちょいと腰の後ろの帯に挟み、整えた。
「これでどうです?」
「あっ! えー、いいじゃん!」
すげー、とキバナは先程までのしょげた様子はどこへやら、満面の笑みでくるくると回った。さっき泣いたココガラがもう笑ったという感じである。
「気に入ったようで何よりです」
「さっきよりも動きやすいし! ネズ、ありがとな、すげーうれしい、かっこいいこれ」
へらへらと嬉しそうにするキバナを見て、ネズも口角を緩めた。
「でもオレ多分これ一人でできねえや。あとでまたやってくれる?」
「そのくらいならお安い御用です」
じゃあ大浴場行こ、といってキバナは跳ね回らんばかりの勢いでネズの手を掴む。はいはい、と返事をして、ふたたび繰り返されはじめた「ばばんばばんばんばん」のメロディに、ネズはこっそり目を細めた。