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    例えばこんな 脱衣所の窓枠に置かれた、視認性無視の小振りな時計を確認すれば、大体17時過ぎを指している。

     朝からサッカー部の練習試合に付き合って、昼過ぎに解放してもらうはずが、あと一試合、もう一試合、と食い下がられ、思い描いていた帰宅時刻は大幅にズレ込んだ。
     今日の大きい予定はこれ以外ないしなと、二つ返事でズルズルと付き合い続けたのがいけなかった。昼飯が完全に消化され切ったあたりで、次の練習試合の日程を告げられたのをすげなく断り、ようやく切り上げて今に至る。
     
     これでも一応、頭の隅にふんわりと、勉強という名の学生の義務感は巣食っている。
     ……いやでも課題はまだ、焦らなくて良いし。
     ここ数日、ノータッチで先延ばしにしている分、自分への言い訳が徐々に苦しくなってきている。ついに頭の中で相棒が「毎日コツコツやれ」とジットリとした目で説教を垂れ始めそうになるのを、白黒のボールに集中して見ぬフリしたかった訳じゃない、多分。
     
     
     
     こざっぱりとした首元にタオルを引っ掛けて、風呂場から続く蒸した廊下で汗が引かなくなる前に、さっさと湿度の低いひんやりとした室内に移動した。台所で水を煽ってひと心地ついていると、夕飯の準備を終えかけている母さんから、ああだこうだと話しかけられる。
     適度に相槌を打っていると、そのまま流れるように軽い頼みごとをされた。こういうちゃっかりした所が、絵名と似ていると思う。
     そうして幾分熱の取れた頭で、明日の予定をリマインドして……口には出さないがやはり、未だに少し、ノリ気ではない。
     家の都合で、歌えなくなるのだから。
     
     まぁどうせ今更変わるものではないからと、こぼれそうな溜息を殺して、母さんに依頼された任務を遂行する。場所は廊下、さっさと済ませてしまおうと階下で気持ち、息を吸い込んで、
     
    「絵名!!親父!!メシ!!!」
     
     うっさい!!と金切り声が飛んできた気はするが、無視だ無視。それとは別にのっそのっそとした足音が聞こえ始めたので、親父はねぐらから出てきたらしい。とりあえずやる事はやったので、リビングに戻る。
     
     上がって呼んできてって言ったでしょうと、ひとつ肘で小突かれてから、テーブルに料理と食器を運んでいく。
     どうせわざわざ2階に上がって声を掛けても、簡単に出てきてくれないだろうしな。そんなやり取りをする暇があるなら、今は少しでもはやく腹に何か入れたかった。
     
     大方運び終わった所で、明け方の出立に備えて、いつもより数時間は早い夕食の席につく。
     人の顔を見るなり「戻っていたのか」と眠たそうに言う親父に「夏休みなのに相変わらず家に居る方が少ない」と母さんが苦笑混じりに話題提供をする。
     色々忙しいんだよと流して……ほぼ手付かずの課題に言及されないよう、素知らぬ顔で夕飯を掻き込んだ。
     
     
     
     たらふく食って、次のセトリに組み込んだ曲をBGMに、部屋で荷造りをしている時だった。
     曲の音量が勝手に絞られたかと思うと、デカめの通知音がイヤホンから鼓膜に投げられる。
     
    『これから少し会わないか』
    『明日の準備で、忙しければいい』
     
     スマホにメッセージが続けさまに2通、送り主はどちらも冬弥だった。
     
    『問題ねぇよ』
    『そうか、ではこれから迎えに行く』
    『了解』
     
     既読がついたのを確認して、スマホを手放す。
     少し前まで床に広がっていた服も今は選別し終わって、衣装ケースの中に無事収まっている、が……こういう作業は一度手を止めると、途端に続きが億劫になる。
     まぁ、でも。
     
    「やるかぁ……」
     
     荷造りが終わってない話をすれば、きっと気を遣われるだろうから。あいつが来るまでになんとか終わらせるかと、残りのパッキングを再開した。

     
     
    『もう着く』
    『分かった。今から出る』
     
     
     
     少し冬弥と出てくると、歓談中の両親に声をかける。用意はもう終わったのか、今日はあまり遅くならないようにと、続けさまに飛んできた言葉には、へいへいとおざなりな返事を投げ返しておく。
     スマホだけ持っているのを再度確認し、足先は迷わず気に入りのサンダルを突っ掛け、ともすれば鼻歌でも歌い出しそうな、そんな気持ちでドアノブを握って。
     本日2度目となる、七月の空の下へ踏み出した。
     
     
     
     アーミーグリーンの五分袖パーカーに、ラインカーで引いたみたいな線が数本入ったクロップドパンツ、ピアスは外してある。
     そんな寝巻きにも出来そうな格好で行われる夕方の散歩も、長期休暇に入ってからだと今日で3回目くらいだろうか。
     練習のない日に、あるいは早めに解散した日に。どちらかの誘いでふらりと始まるコレに、特に急ぎの用事があった事はない。
     
    「よぉ冬弥、昨日ぶり」
    「あぁ」
     
     似たり寄ったりな格好で家の前に立っていた冬弥に玄関から声をかけて、そのまま歩き出す。ほぼ沈みかけの日に照らされながら、示し合わせた訳でもないのに、まずはコンビニを目指すのがお決まりになりつつある。

    「焼けたな」
    「マジ?」
    「マジ、だな。昨日より黒い」
     
     1日でそう変わるもんなのかと、改めて腕周りをしげしげと眺める。まぁ言われてみれば確かに、そうかもしれない。
     連んでそう季節は何周もしていないが、去年のこの時期も何かのタイミングで、似たような事を指摘された気がする。
     少し可笑そうに目を細めた冬弥は、昨日となんら変わらない。まだ夏の昼を知らないとでも言いたげな肌が、大人しくなりつつある茜の陽光を、やんわりと受け止めている。
     
    「少し羨ましいな」
    「あー……組んだ年だったか?日焼け止め塗り忘れて、次の日、痛そうだったよな」
    「それもあるが」
     
     相棒の可哀想なくらい赤く焼けた肌が痛々しくて、ライブ間際でも、真夏の昼に外で練習するのは避けようと決めた事を思い出す。
     
    「夏らしいだろう。暑さに負けずに動き回って、友人達と汗をかいて、健康的に日に焼けて。彰人を見ていると、また季節が巡ったなぁと……まるで風物詩だな」
    「ンな大袈裟な」
    「そうでもないぞ。俺にとって夏は、彰人の形をしているのかもしれない」
     
     茶化しているのではなく、嬉しそうに感慨に耽っている。それくらいは分かってしまうのに、与えたい言葉の正解が分からない。

    「……彰人?はやく入ろう」
     
     お前の言う夏景色に、お前自身は居ないのか、なんて。
     飲み下す一方の台詞は、目的地の軽い入店音に更に押し込まれて、呆気なく出口を失った。
     
     
     
     リーチインから背の低い缶サイダーを2本取り出すと、レーン上の後方待機列はガラガラと音を立てながら、律儀に前へ詰めてくる。そんな整列を見守る事なく扉を閉めて、アイスのショーケース前で神妙な面持ちを披露する相棒の元へ向かった。
     たかが数点の買い物にカゴは必要ないと思うが、毎度いつのまにか握り締めているので深く言及はせず、選んだ商品をそっと入れてやる。
     
    「今日はサイダーか」
    「おう。そっちは?」
     
     来るたび興味深そうに目移りしているものの、今回はやけに真剣だ。
     
    「このコーヒーの……でもこの前もコレだった」
    「いま食いたいヤツ、選べばいいんじゃね」
    「良いのか?」
    「そりゃあ、お前が良けりゃ?」
     
     するとどうやら解決したらしく、愁眉を開いてみせる。先客のアルミ缶と並べるようにカゴに入れられたのは、結局前回と同じ、チョココーヒー味のチューブ型をしたアイスだった。

     今回の会計は冬弥持ち。毎回細々と割り勘するのが面倒臭くなり、いつの間にか交互に支払うようになっていた。
     アイスのパッケージと割いて、2本セットになっているチューブを分ける。ついでにキャップ部分も千切って店内のゴミ箱へ捨てていると、支払いを済ませた冬弥が寄ってきた。

    「サンキュー、ほい」
    「んっ」

     小さい口にチューブの先端を挿し込むと、キュッと目を瞑ってみせる。

    「ははっ冷てぇ?」
    「らい、じょうだ」
     
     そのまま受け取って口をむぐむぐとさせ始めたので、オレもそれに倣う事にする。
     甘くて冷たい感覚に舌を喜ばせながら店を出ると、痛いほどの日差しはもうすっかりと鳴りを潜めていて。それでもまだアスファルトからじわじわと上がってくる熱が、まだまだ宵の口だということを物語っていた。

     
     
     いつもの公園に向かう道中、ぽつぽつとした会話でお互いの居ない時間をまばらに埋めていく。
     昨日の夜に見たテレビとか、誰かと話した内容だとか、あるいは今日の午後やるはずだった課題の事とか……コレに関しては「英語をやると言っていなかったか?」としっかり睨まれた。
     
     そうしている内にシャクシャクと音を立てていたアイスは、いつの間にかコーヒー味の液体に変わって、もう出てこない。
     話題が休暇明けのテストに差し掛かった辺りで遂にキマリが悪くなって、空のチューブを噛んでペコペコと上下させる、行儀の悪いガキじみた仕草で白旗を掲げた。
     
     
     
     オレと冬弥の間に並べた2つのサイダーが、その汗でベンチを少し濡らすの横目に、空になったビニール袋へ持て余していたアイスのゴミを放り込む。
     そうしてやっと、徐々に購入時の冷たさを失いつつある揃いの缶を持って、カツンと軽くぶつけ合った。
     
    「助っ人お疲れ様、彰人」
    「冬弥も1日お疲れさん」
    「ん?俺は特に疲れていないぞ」
    「こういうのは受け取っときゃ良いんだよ」
    「そういうものか」
    「そういうもんだな」
     
     そうか、とようやく口をつけたかと思うと、シュワシュワする……と顰めっ面で半ばボヤいている。嫌いだったら言えと最初に伝えてはいるが、せっかくならこの時間くらいは同じものを飲み食いしたい、との事らしい。
     
    「そういえば、旅行の準備は済んだのか?」
    「まぁな。あ〜〜……3日もまともな練習出来ねえ」
     
     無声でも出来る練習は欠かさないつもりでいる。ただどうしたって半端な練習になってしまう事も、また事実だ。
     
    「そう言わずに楽しんできてくれ、久々の家族旅行なんだろう」
    「絵名が来年どうしてるか分かんねえし……今度いつ行けるか分かんねえから、母さんがどうしてもってな」
    「親孝行だな、彰人は」
    「……まぁ、良いけどよ」
     
     楽しみにしている親の手前、家の中では出てこなかった駄々のようなものが、つい溢れてしまう。なんとなく気恥ずかしくなって、誤魔化すようにベンチにわざとらしくダラっと凭れ掛かった。
     
    「みやげ、何がいい?食いモン系?」
    「そうだな…………ふふっ」
     
     あ。これは、茶化したい時の顔だな。
     
    「なに笑ってんだよ」
    「もっと日焼けした彰人がいいな」
    「はぁ〜?言ってろこのやろっ」
     
     軽めのヘッドロック状態でぐりぐりとこめかみを虐めると、楽しそうな笑い声と共に、ギブアップだと腕をポンポン叩かれた。
     
    「元気に帰って来てくれたら、それで良い」
    「……たかが3日だろ」
    「そうだな。待っている」
    「おう」

     左右の色が雑に混ざってしまった細い髪を、手櫛で梳かして整えてやる。なんとなく離れるタイミングを失って、肩を抱いたままになってしまった。

    「そういえば昨日の練習前、世間話ついでに聞かされたんだが」

     他に誰も居ない、普段は練習場所にしている公園を眺めて、自然とここに居ないチームメイトの話題があがる。

    「白石がな。クラスメイトから、小豆沢に取り次いで欲しいと頼まれたらしい」
    「マジかよ。やるな、こはねのヤツ」
     
     そもそもこはねは他校の生徒だ。ウチの校内に入った回数も知れているだろうに、一目惚れというやつだろうか。
     
    「しかし白石はその場で断ってしまったらしい」
    「へぇ……」
    「それに珍しく、随分と参った様子でな。愚痴っぽくなってしまったとコーヒーをご馳走してくれた」
     
     事実を並べていただけの横顔が「そういえばなぜ小豆沢ではなく、白石が断ったんだろうか」と思案顔になる。真面目な相棒は出来る範囲で、チームメイトの事を理解したいらしい。
     
    「確かに小豆沢に恋人が出来れば、練習時間が減ってしまう可能性も否めない……のか?」
    「練習時間、ねぇ」
     
     それもきっと間違いじゃない。けどそういった打算をする間もなく——焦燥感に突き動かされたんじゃないかと思う。どうもアイツとは、似ている所があるから。
     
    「その、勝手に断った事。こはねは知ってんのか」
    「いや、余裕がなくて格好が悪いから、小豆沢には……黙って、おいてくれと…………あ」
    「……そういう事じゃねえの?」

     こはねのヤツも、知らない相手にひょいひょい着いて行くようなやつじゃない。そんな事はオレ達なんかより、杏の方が分かっているはずだ。
     とにかく。
     
    「これ以上は野暮だな」
    「……勝手に話して、悪い事をしてしまっただろうか」
    「アイツも誰かに聞いて欲しかったんだろ。まぁ、オレは聞かなかった事にしとく」
    「あぁ、ありがとう」

     ほっとした様子の冬弥が、もう気の抜けてしまっているであろう炭酸飲料を、ようやく飲み干す。
     
    「……そういえば彰人は、恋をした事はあるのか」
    「へ?」
     
     まさかそのまま話題の矛先が自分に向くとは思っておらず、素直に間の抜けた間投詞が飛び出した。
     
    「どうなんだ?」
    「どう、って」
    「これは経験しようと思って出来るものでもないだろう?恋愛要素のある曲を歌う時の、参考になるかもしれない」
     
     ヒットチャートにのぼる楽曲に、恋愛を歌ったモノの多いこと多いこと。確かに参考になる具体例が提示できれば、感覚的なものを表現するのに長けたコイツの事だ、何か掴めるのかもしれない。

    「コイ、恋……」
     
     自分事として差し出されたその単語を、改めて口の中で転がしてみる。
     しかし咄嗟に結びつくような、それらしき記憶の欠片は、残念ながら見当たらない。
     
    「……オレも、あんまり分かんねえかな」 
    「そうか……彰人なら何かヒントを持っているかと思ったんだがな」
     
     冬弥が視線を投げかける先、同じ空を見上げて、暫し逡巡する。
     声色、息の入れ方、表情……なんにせよ、引き出しが増えるのに越した事はない。だから、
     
    「お前にとって、どんなもんなんだ?」
     
     なんとなく気恥ずかしくて、目を見て話せなかった。今まで言及した事のない話題に、ガラにもなく緊張しているのかもしれない。
     それでも見聞きしてストックしていたであろう情報を、手繰り寄せて掴もうとしている感覚を、共有して欲しかった。
     
    「俺か?そうだな……」

     参考元は、本に出てきた端役たちの仕草だろうか。それとも実体の見えない、何万通りも綴られてきたラブソングの一節だろうか。

    「…………きっと側に居られたら、嬉しいんじゃないだろうか」
     
     当たらずといえども遠からず。それくらいには合点のいく答えが編み出せたのか、お前は見知らぬはずの恋について語り始めた。

     ——同じ学校だったら登下校を一緒にして、昼ごはんもふたりで食べられるといい。あぁそうだ、勉強だって教え合うことができるな。苦手な科目があったら、付き合おうと、きっと思う。休みの日にも出かけて、そうだな……司先輩のショーでも観に行けたら、嬉しいかもしれない。道中が長くても、きっと声を聞くのに飽きないし、沈黙があっても苦痛じゃない。思い思いのタイミングで話すんだ。それで夜になったら、眠くなるまで、話して、たまに……会えない日が、続きそうなら、こうやって——……。
     
     滑り出しは流れるようだったのに、ドンドンと減速していき、ついには静まり返ってしまった。
     対してオレの心臓は反比例するように、ドクドクと血液を送り出して、全力疾走で寿命を縮めていく。
     
    「ど、どうしよう、彰人」
     
     冬弥の助けを求めるような震えた声に、オレは完全に顔を背けてしまっている。
     
    「ほとんど、お前じゃないか……っ」
     
     明後日の方向を向いて、ダンマリを決め込んでいると、なんとか言えと胸をひとつ叩かれるが、もう顔から火が出そうで見せられたモンじゃない。
     
    「……ほとんどっつーか、ぜんぶ……」
    「う、」
     
     かつてここまでか細い声で話し合った事があっただろうか。顔を覆いながら別の事を考えようとしていると、冬弥がするりと腕の中から抜け出した。
     
    「今日は、もう、かっ、かえる」
    「ん」
    「りょ、旅行っ、気をつけて、行ってきてくれ、ご家族によろしく」
    「ん!」
    「あとは、その、今日、疲れてただろう、来てくれてありが——」
    「んっ!!」
    「彰人ッ!いつまで顔を隠してるつもりだっ」

     ぐいぐいと手首を引かれて、束の間の攻防戦に興じる。
     
    「この馬鹿力め……っ」
    「頼む、マジ、今は」
     
     しかしそんなプライドを賭けた戦いも「しばらく、顔を見られないんだから……寂しいだろう」という誰かさんのしょぼくれた一言で、呆気なく終戦を迎える。
     眉間にぐっと力を込めて発火しそうな顔から、そろそろと手を退けると「柔よく剛を制す、だな」と嬉しそうに目を細めた冬弥が目に入った。
     
    「おっ、まえさぁぁ……」
    「彰人、」
     
     するりとピアス穴を確かめにいくように、首筋から両の掌が滑らされる。
     そして、
     
     頬に柔らかい感触と、ひとつだけ落とされたリップ音。
     
    「また、な」
     
     蚊の鳴く様な声で一言残して、冬弥はパッと背を向けて走り出す。一言も発せずにかたまっていると、うなじまで真っ赤にした後ろ姿はぐんぐん遠ざかって、すぐに公園から消えてしまった。

    「うそだろ……」

     ようやく硬直が解けたオレは、情けなくヘナヘナとベンチからずり落ちた。やりたい事だけやって、逃げられた、が。それで良かったのかもしれない。
     ——鏡ナシでも分かるほど、最高に締まりのない顔をしている自覚がある。
     
     呻きだしてしまいそうな気持ちを堪えて、ベンチに放置されていた、ふたつの空き缶をそっと手に取る。
     共有するどころか、すでに同じものを持って、飲み込んで、一部にしていた。
     
    「はぁーーーっ……」

     息を吐けども吐けども、バカになった頭は茹だる一方で、延々とやわらかく触れた唇の感覚をリフレインし続ける。
     
    「………………帰りたくねー……」

     これは旅行どころじゃなくなったなと、温いベンチの座面を枕に星の出始めた空を眺めて、熱った頬の夕涼みに勤しむ。
     
     大層ドラマティックな筋書きの延長だったり、常に隣でソワソワと浮き立つような空気なんて、案外。万人に当てはまるものでも、ないのかもしれない。

     だから、つまり、例えば。

     例えばこんな恋の自覚も、あるもんなんだ。





    例えばこんな
     平日の雨は、客足を遠のかせる。夏休みに入っていても、そういったセオリーは、案外崩れないものだ。
     空調が効いていても、テーブルや椅子のみならず、床やら壁の一部まで木製の店内は、そこかしこが湿り気を帯びている感じがして、換気扇を回していようと、水を含んだ木のにおいが、店内に篭り続けている。
     父さんが外しているのと、お客さんが居ないのを良いことに突っ伏したカウンターテーブル。いつもは大好きなその場所も、例に漏れずしっとりとしてしまっていて、触れた頬からじわじわと憂鬱に拍車をかける。
     ……頭が少し、痛い。
     
     ——ころんころん、
     
     いつもより軽快さを抑えたドアベルの音が、久々の来客を告げる。
     お客さんに……そして待ち人に、見せたくない顔があるので。床に散らかったシールドケーブルを、足でとりあえず端に寄せるみたいに、その場凌ぎで取り繕った顔を上げる。
     
    「いらっしゃ……あ、冬弥かぁ。はやいじゃん」
    「あぁ、白石」
     
     ショルダーバッグひとつの身軽な格好で立ち寄ったのは、これから共に練習をするチームメンバーの1人だった。肩にかかった雫をハンカチに吸わせるようにして、今日は空いているな、なんて言いながら自分からひとつ開けたカウンター席に腰掛ける。
     なんだか気が抜けてしまって、また行儀悪くカウンターへと、重い頭を逆戻りさせた。
     
    「そうなの、こんな天気だしさぁ〜……嫌になっちゃうよね」
    「そうだな。通りで真面目な店員が居る訳だ」
     
     少し笑いながら覗き込んでくる表情は、以前と比べると随分と豊かになった。ただ、一緒に居ると似てくるとはよく言ったもので、そんな皮肉屋なところは相棒に似てくれなくていいのにとも思う。冬弥はそのままで良い。
     まぁでも、いつまでもこのままテーブルと同化してもいられないなと、身を起こす。
     
    「ハイハイ。ご注文は?」
    「じゃあブレンドを……なぁ、白石」
    「ん?どうしたの」
    「何かあったか」
     
     先程から一転して、揶揄いのニュアンスが消えたその表情。近くで見る真顔の冬弥は、なるほど迫力のある美形だなと、骨抜きにされている誰かさんを思い浮かべる。
     
    「ん〜……」
     
     骨抜きといえば、自分もだ。
     今日こんなにも気持ちが塞ぎ込んでいるのは何も、雨のせいだけじゃない。

    「勿論、言いづらい事なら流してくれて構わない」
     
     相棒関係が私たちよりも長い事もあって、いつも一歩引いた立ち位置から見守ってくれている。なんやかんやと言いつつ、メンバー思いで、優しい2人だ。
     ……誰かに話せば、昨日から曇り模様のこの気持ちも、少しは晴れるのかな。
     
    「じゃあー……聞いてもらっちゃおっかな」
    「あぁ、俺で良ければ」
    「ありがと、ちょっと待ってて」
     
     お茶請けを用意する為に、ようやく立ち上がる。練習まで時間があるとはいえ、きっと長くなってしまうから、コーヒーはご馳走しよう。それなら父さんが淹れていない事にも、目をつむってくれるだろうし。
     
     ——実は昨日、クラスの子が店まで来てくれてさ、
     
     高い位置にある棚から、取り寄せているクッキーの大きな缶を下ろして話し始める。お気に入りの常連さんたちも多い、ウチでは定番のチョコチップクッキー。割れ物だから、取り扱いは丁重に。
     
     手持ち無沙汰になっている冬弥の視線が手元に注がれているのを感じながら蓋を開ければ、容れ物の中に閉じ込められていた甘い匂いが、今日はとりわけ強く香った。
      
     ——……私に頼むの…………こはねにね、
      
     いつの間に、こんなに重くて甘い、認めてしまえば苦しいものに変化していたのか、本当に分からないけれど。飛んでしまった匂いはもう、掴んで缶の中へは戻せない。密閉を解いて外気に触れれば、酸化は始まる。この気持ちはきっと、そういう物なんだ。
     
     ——……格好悪いよね、
     
     私はもう、落ちて割れて、中身が出始めている。





    Ms.H.D.
    しじま🥃 Link Message Mute
    2023/05/10 22:05:06

    例えばこんな

    夏休み、夕方に散歩する彰冬。

    #彰冬

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