殴らないとは言っていない(りゅさい)「ああ、煙草が吸いたい」
ぐったりと疲労の滲む声に振り返ると、振り返ることを見越していたかのように芥川と目があった。聞かなかった事にしようか、と首を戻しかけたところでそれを許さぬようにまた声が聞こえる。犀星、と名を呼ぶ声は短い襟足の髪をすくってくすぐるようだった。後ろ髪を引かれるとはこのことかと嫌でも実感する。指と指の間にとられた毛束を撫でられているような、そんな錯覚さえ覚える声に、甘ったれめ、と歯噛みする心を丁寧に隠してもう一度振り返ると、一目顔を見た途端に芥川は破顔した。隠したと思っているのは室生ばかりで、隠れきらずにぼろが出ていたらしい。大変に腹立たしいことこのうえない。
「煙草はどこだ?」
「それが、袂の中でね」
草むらに座り込み、巨木の幹を背もたれにしている芥川が器用に首を竦める。要するに室生の煙草をひとつ寄越せと言っているのだ。この間、駄賃の代わりにと購買に新しく入荷した銘柄を一本抜き取っていたっけな、と思い出せば、断る理由もない。懐から取り出した煙草を揺すぶって、飛び出した数本を口元へ寄せてやる。が、一向に銜える気配のない芥川の様子に、窺い見るより先に面倒臭さが勝った。伸ばしていた腕を引き戻し、飛び出た白筒に浅く歯を立てて引き抜くと、マッチで火種を移してゆったりと吹かす。たった一口、火を移すためだけに吸い込んだ煙は、室生にとっては馴染みのある味だ。そのまま吸い口に歯を立てそうになるのをぐっと堪え、指で引き抜くとまた同じように芥川の口元へと寄せてやる。
今度は招き入れるようにうっすらと唇を開き、火のついた煙草を銜え受け取った男が美味そうに煙草を吸うのを見ていると、口の中に残った煙草の味が無性に恋しい。もう一本取り出して火をつけてもよかったが、時間も無い。場所も悪い。間が悪い。なにせ、潜書の真っ只中、それも最深部まであとどれほどあるのか見当もつかぬ道の途中なのだ。道草を食っている場合では無い。進むのか、それとも戻るのか。
童謡ではないが、行きは良くとも帰りが怖い。撤退を進言しようか、煙草の味が残る唇を舐めながら、細く揺らぎながら消えていく煙を見上げていると、腰を屈めていた谷崎と徳田が立ち上がり、室生を呼んだ。
「戻りましょう。このまま進んでも、望むものは得られませんでしょうしね」
「僕も賛成だ。先へ進むより、急いで彼を補修するべきだと思う」
「筆頭がそう言うのであれば、従うさ。芥川は俺が運ぶから、」
心得たとばかりに頷いた室生が、二人へ残りを任せても構わないだろうかと尋ねてみれば、二人とも神妙な、谷崎に至ってはどこか艶のある倦怠滲む表情で頷いて、落ちていた腕をそれぞれ抱え持った。のんびりと煙草を吸う、芥川の腕だ。
「悪いね、二人とも」
吹き飛んだ直後はおびただしい量の洋墨が溢れていたが、今はすっかりと滲む程度だ。両腕を失くしたというのに、憎たらしいほどに清々した顔で煙草を吸う芥川へ、苦言を呈したのは谷崎だった。貴方の腕なんて、私には重すぎます。言ってから、自分の持っている腕が右腕なのを知ってますます柳眉を潜めて、猫の襟首でも摘むように腕をぶらぶらと揺らしながら踵を返した谷崎の後ろを、複雑な顔をした徳田が追いかける。こちらは赤子を抱きかかえるように、後生大事に左腕を運んでいた。運ばれていく腕を見送り、残るその他を運ぶべく膝を折った室生は、ちびた煙草を芥川の口から抜き取って揉み消すと、肩に担ぎあげるように胴体へ腕を回した。息を詰め、腹に力を込めて一息に担ぎ上げる。
「犀星」
「大人しくしててくれ、落としそうだ」
「暴れたりなんてしないよ。そうじゃなくて。君、怒っているかい?」
「どうしてそう思う」
下駄が鳴る。自分以外のひとの重みに背骨が軋む。痩躯だろうが己より上背のある男を担ぐのは難しい。腕二本分、軽くなっていたとしても、むしろその方が運び難かった。つっけんどんな返事に、一度言葉が途切れて、ううんと気の抜けるような息を吐き出して芥川が動いた。室生の顔を伺い見ようとするような、そんな挙措を阻むように抱えている体を揺すり上げて抱き直すと、また芥川は大人しくなった。
「殴られると思ったんだけれど」
けれど。室生は芥川を殴っていない。怒鳴りつけたりも、説教も、窘めたりもしていない。腕が吹き飛んだ瞬間をまなこに焼き付けるように、瞬きもせずに草むらに落ちるところまでを見つめ、青々とした薄刃のような鋭さで芥川の前に立ち、侵蝕者の追撃を阻んだ。排除なんて生ぬるさではなく、容赦の一欠片もなく殲滅しつくしたあと、室生のしたことといえば、強請られるまま煙草をやったぐらいだ。
「殴られたいのか」
「痛いのはいやだなあ。優しくしてほしいよ」
「そうか」
優しくしてほしいとの給うその顔が見えなくて幸いだった。面と向かって言われていたならば、握り締めた拳は行き場をすぐに見つけていただろう。先導するように歩く徳田と谷崎の視線に、苦々しく唇を曲げながら室生は芥川を運びきった。両腕を失くし、頬を青黒く染めた芥川はすぐに補修室へ運び込まれ、完治した後は自室から姿を晦まし、室生の部屋へ入り浸っていたという。