キミとボク「ノクト」
慣れ親しんだ名を呼ぶ声が、静けさに満ちた城の温室に反響した。
真白な床に寝そべっていた黒く小さな犬は声の方へと耳をそば立て、伏せた状態から目だけを開いてこちらをうかがった。
両手で抱えられるサイズの子犬は毛玉のように丸まり、小さな口をあんぐりと開いて大きな欠伸をひとつ。
朝はいなかったのに、いつの間にやってきたのだろう。
神の使いである子犬はたとえ“王”がどこにいようと初めから知っていたかのように正確に居場所を嗅ぎ当て、気が付けばいつも足元に座っている。
今日も頼まれたお使いを無事に終えたのだろう。
落ち着いた様子だった子犬は鼻をひくひくと動かして何かの匂いに気付くと、頭を持ち上げイグニスを見上げた。
「来ていたのかアンブラ」
「クゥン」
まるで人間の言葉が分かっているのか、鳴き声で返事をされた。
お使いとして遠路はるばる訪れたのは良いものの、尋ね人は燦々と降り注ぐ陽気の心地よさに眠ってしまったようで、待っている間に子犬もまた一緒になって眠気につられたようだった。
再び姿勢を伏せて目を瞑ったアンブラの脇を通り抜け、足音を響かせぬよう植物の生い茂る温室にぽつんと置かれた車いすに歩み寄る。
大きな車いすの上では一人の少年が気持ちよさげに寝息を立てていて、どうりで名を呼んでも気が付かないはずだ。
安穏とした寝顔を見て、表情を覗き込んだイグニスの顔が自然と綻ぶ。
せっかくなのでゆっくりと眠らせてやりたかったが、逸る心を抑えきれず細い肩を揺り動かしもう一度名を呼んだ。
「ノクト」
シルクのように滑らかでいて耳障りの良い声に覚醒を促され、重い目蓋の下から現れた大きな瞳。
眠たげに双眸を瞬かせ、足元に寝転ぶ子犬と同じように口を開き大きな欠伸をして涙を手で拭う。
そして、たっぷりと時間を掛けて目覚めた少年―ノクティスは、声をかけて来た相手が最も親しい友人であることが分かると、なんとも嬉しそうな表情を浮かべ微笑んだのだ。
「おはよう」
「いぐにす……ごめん、寝てたみたい」
「いや、起こしてしまってすまなかった」
にこり、ノクティスは目を細めて笑ってくれたが、その表情には覇気がなく声にも張りがない。
服から覗く肌には白い包帯が巻かれ、車いすに力なく凭れる弱弱しい様子に側付きは眉を顰めた。
かつては太陽に負けない眩さで城の者たちに笑顔をもたらしていた快活な少年だったのに。
火が消えた城の中は静まり返り、大人たちは誰もが表情を曇らせ腫物のように距離を置いて遠くからこちらの様子を窺っていた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
すべては彼が重傷を負い、生死の境を彷徨った日にまで遡る。
あの日、安全なはずの王都内で起こったシガイによる襲撃事件でノクティスは多くの人の死を目の当たりにし、自身も傷を負った。
療養先のテネブラエでは突如として帝国が強襲し、燃える森から父王と共に逃げ延びる際に世話になった少女を置いていってしまったことが心にしこりを残してしまっているようだった。
目の前で二度起こった凄惨な悲劇。
宝石のように脆く清らかな心に癒えない爪痕を残した出来事はノクティスから生気を奪い、かつては活発に城を駆けまわっていた少年の姿は今ではもうどこにもなかった。
「どうかした…?」
消え入りそうなか細い声、影の落ちた表情を見るだけで胸が締め付けられる。
幼少から王子の世話係として側にいることを許されていた“兄”は、せめて自分だけは明るく努めなければと一歩踏み出し膝をついた。
車いすと同じ目線になり、首を傾げる“弟”に勇気を出して手に持っていた皿を差し出す。
せめて、元気を出すきっかけになればと。
「なんだかいい匂いがする」
「初めてだが作ってみたんだ」
皿に乗せられた菓子からは焼き立ての甘い香りが漂い、匂いを嗅いだノクティスは弾かれたように前のめりになった。
「すごい、イグニスが作ったの?!」
「少し焦げてしまったが」
それは誰も名前を知らない菓子だった。
片手で持てる大きさのタルト生地に包まれたスポンジには多少焦げがついていたが、こんがりとしたきつね色の焼き目に食欲を誘われたノクティスは居ても立ってもいられず皿へと手を伸ばした。
中まできちんと火は通っているだろうか、生焼けになっていたりしなければいいが。
小難しい顔で様々な心配を巡らせたが、無用な心配だったようだ。
「おいしい」
一口齧ったときの驚きようは、決して忘れられない。
臥せっていたのが信じられないほどの旺盛さであっという間に空っぽの胃に菓子は詰め込まれ、イグニスが瞬きをする間にすでに二つ目の菓子が口に運ばれていた。
その勢いに遠巻きに見ていた女中たちはにわかにどよめいた。
城の料理人たちがどれだけ料理を並べても決して口にしようとしなかった王子が、素手で不格好な焼き菓子を頬張ったのだから。
「そんなにいきなり食べるとお腹が驚くぞ」
「だって」
「お茶を淹れよう。テーブルに座って、ゆっくり食べればいい」
結局、茶を淹れるのを待たずして皿に乗せられていた菓子はノクティスが一人で平らげてしまい、 城には数カ月ぶりに賑やかな二人の笑い声が木魂した。
その日から、イグニスの胸中にはあるひとつのささやかな願いが灯った。
誰でもない、俺だけが叶えたい夢。
人がひしめき合うレスタルム唯一の大市場。
高い建物に四方を囲まれた僅かな隙間のスペースに作られた広場には多くの店が軒を連ね、狭い通路は歩くだけで肩がぶつかるほどに多くの人で溢れ返っていた。
香辛料と果物、そして屋台からの煙が混ざり合い、市場には独特の匂いが立ち込める。
最初はメテオの熱気と人混みに汗を滲ませ、形容しがたい匂いの中で真っ直ぐに歩くこともままならなかったが、今ではもうこの通り。
イグニスは器用に人の流れを潜り抜けると旅に必要な物資を軽快に探し当て、硬貨と引き換えに紙袋の中へと放り込んでいく。
「必要なものはこれくらいか……」
頭の中で買い物代を器用に計算しつつ、別行動で宿泊先へと向かっている仲間たちと合流しようかと踵を返したところ、視界に何かを見つけたイグニスはとある一件の露店の前に立ち止まり、引き寄せられるように輝くものを手に掴んだ。
「これは」
「おう兄さん、今朝入ったばかりで新鮮な野菜だよ」
店主であろう恰幅の良いおじさんは活き活きとした笑顔でニカリと歯を見せて笑ってみせた。
「確かに美味しそうだ」
手にしたのは赤々と輝かくトマトで、陽の光を浴びてツヤツヤと光沢を放つ様がとても食欲をそそり思わず買ってしまうところであった。
今日の宿泊先がホテルでなければこれを使って夕飯にしたいくらいなのに。
「サービスしておくぞ」
買い置きしておこうか、しかし野菜は新鮮さが大事だ。
資金も無駄遣いは控えたいし、どうしたものか。
一度は手に取ったトマトだったが、置いてあった場所に再び戻すと眉根を寄せ優秀な頭脳をフル回転させる。
「いや、すまない…やはりまた今度…―」
気の良い店主とまたとない美味しそうなトマト。
悩んだ末に断腸の思いで断ろうとしたところで、ポケットに仕舞いこんでいた携帯が震えた。
『おー、イグニス?』
液晶には話し相手が誰なのか表示されていたのだから分かっていたのに、声を聞くとどうしても頬が緩んでしまう。
別行動のために分かれたのが数分前なのにも関わらず、だ。
「ノクトか、どうした」
『ホテルなんだけど、祭りの前だからどこも一杯なんだと』
「そうか」
『で、しょーがねぇからキャンプにしようってことになった』
「残念、無駄足だったな」
『そーなんだよ、だから買い物が終わったら駐車場に集合な』
「わかった」
溜息交じりのノクティスの声は心底疲れていた。
それもそうだろう、ようやくベッドで眠れるとレガリアであれほど喜んでいたのだ。
これは今日は気合を入れて美味しいものを作って労ってやった方がいいだろう。
ならば、とパチリ指を鳴らした。
「すみません、やはりコレをください」
目を惹いて止まないルビーような赤。
まるで野菜の方から使ってくれと手招いているようで、イグニスは迷わず真紅のトマトを手に取った。
「ノークト!キングスナイトやろ!」
「夕方に充電切れた」
「じゃあトランプ!」
「オラ、そうやって夜更かしするから朝起きられねぇんだろ、もう休むぞ」
神凪によって築かれた小高い丘の上の休息地。
標に刻まれた穏やかな光に守られ、ビーフシチューの鍋が空になる頃には夜空に数えきれない満点の星が瞬きだしていた。
時間に縛られないこんな自由気ままな旅をいつまで続けていられるのだろうか。
テントに戻っていく二人を焚火の側で見守り、ノクティスは一日の終わりに飲む格別なコーヒーを時間をかけて味わっていた。
熱すぎるコーヒーが苦手とよく知っている昔馴染みは、いつもはコーヒーと同じ量の牛乳を注いで適度に冷ましたカフェオレを差し出してくれるのだが。
「牛乳を買うのを忘れていたな」
「珍しい」
急に決まった野営に頭の中では夕食の献立を考えることにばかり気を取られ失念していた。
次に店を訪れた際には愛用の缶コーヒーとともに買っておかなければ、優秀な頭に忘れずに刻み込んだ。
「ふぁ…」
ノロノロとコーヒーの湯気を払っている間に他の二人は早々に明日の準備を整えて寝入ってしまい、一人残されたノクティスは大きな欠伸をしてカップの淵に齧りついた。
息を吹きかけ少しずつカップを傾ける姿を横目に、夕食の片づけを終えたイグニスもまたすぐ隣に腰を下ろす。
「今日の夕食はどうだった?」
「ん…うまかった…」
「美味しそうなトマトを選んだからな」
「お前が作ると野菜でもあんなに美味しくなるの、すげー不思議」
城の料理人が作ってくれた食事を思い出す。
硬い野菜に、脂身の多い肉。
香辛料をやたらと効かせた料理によくわからない横文字の名前。
毎回くどくどとした調理の過程を聞かされるも、そのクセ味はいまひとつ。
味は濃いのに、無駄に大きいだけのテーブルに一人で腰掛けて摂る食事のなんと味気ないことか。
イグニスが菓子だけではなく、仕事の合間を縫って食事を作ってくれるようになったのはいつからだったろう。
マンションの小さなテーブル、膝がぶつかる距離で相手の顔を見ながら摂る食事は、苦手な野菜もふんだんに使われていたが美味しかった。
自分は料理が不得手だから、どこがどう旨かったのか聞かれてもうまく言葉に出来なかったのだが。
「また食べたい」
ノクティスの口から出た一言にイグニスは思わず目を丸くした。
「そういってもらえると、作り甲斐もある」
焚火の明かりでカップの中の水面が輝き、ユラユラと揺らして遊んでいる間にコーヒーはずいぶんと温くなってしまっていた。
火の側は居心地がいいのか、瞼を深く閉じて眠たそうにしているノクティスの横でイグニスは日課となった手帳を広げる。
料理の出来栄えを丁寧に図絵入りで小さな紙の上に書き記す、毎日の記録。
使用した食材はどこで仕入れたものか、味付けと煮込んだ時間を事細かに記帳する。
一見すると市販の料理本にも劣らない出来だったが、大きく異なる点が一つ。
それは、なによりも欠かせない“料理を食べたノクトの感想”だった。
ビーフシチューを口に運んだ後の頬を緩ませた表情と「うまい」という第一声を思い出し、微笑まずにはいられない。
几帳面な字体でペンを紙の上に滑らせ、見たまま聞いたままを記した。
具体的な味の感想など聞いたことはなかったが、彼が料理を口に運び美味しいと言ってくれた。
それだけで十分。
『お前が作ると野菜でもあんなに美味しくなるの、すげー不思議』
それはもちろん、日々どうやって野菜を食べてもらおうか試行錯誤しているのだ。
小さな手帳はどのページも文字で真っ黒になり、自分でもこんなに研究熱心だとは思いもしなかった。
加えて今日はいつも以上に特別なお褒めの言葉を戴いてしまい、花丸をつけたいくらいだ。
何気ない一言がよほど嬉しかったのか、イグニスは口角を持ち上げ笑いをこぼした。
「なんかいいことあった?」
「ああ、とてもな」
鼻歌交じりに手帳のページを繰る側付きの横顔は大層幸せそうで、子守歌のような優しい歌声を耳にしつつ冷めたコーヒーを飲み干した。
仲間たちはイグニスの鼻唄を聞いて驚いていたが、イグニス・スキエンティアとは本来こういう男なのだ。
「な、その手帳何が書いてあんの?」
「俺が作ってきた料理の記憶だ」
「相変わらずマメだな」
「そうだな……もう、十年以上にもなる」
今でも目を瞑れば目蓋の裏に映し出せる。
十年以上も前の出来事にも関わらず、思い出は決して褪せることはなく鮮明に残っていた。
そう、まるで昨日のことのように。
療養先のテネブラエから命からがらルシスへと帰り着いたノクティスは意気消沈して毎日窓から外を眺めるだけの日々を送っていた。
食事も碌に摂れなくなった王子のために城のシェフたちが様々な手段を取り、毎日代わる代わる好みの皿を目の前に並べる。
だが、彼は首を横に振るばかりで、やせ衰えていく姿を案じたイグニスが差し出したのが名も知らぬひとつの菓子だった。
療養先であるテネブラエで食べたという焼き菓子をまた食べたいという願いを叶えてやりたくて、初めてエプロンを身に着けた。
『おいしい』
焦げかけたものまですべて、綺麗に平らげられた皿を見て胸の内が温かくなるのを感じた。
『僕が食べたものと、少し違ったけど』
『も、もう一度頑張って作る、今度は焦げないように』
あれから、十年か。
―とても甘くて、サクサクしていて、おいしかった―
―形はこんなので、大きさもこれくらい―
なにもかもが曖昧。
自らの手で同じものを再現してノクティスと一緒に菓子を頬張り「おいしい」と共有したいという、側付きになったばかりの幼い少年が抱いたささやかな“夢”。
その日から、おぼろげな記憶の中にだけ残る味を手探りで探す、長い長い旅路が始まった。
「いつの話だよ」
「俺は今でもよく覚えている」
何冊の手帳を積み重ねただろうか。
作る度、今度はまた違った工夫をしてみようと意欲が沸き上がる。
最初は菓子だけを作っていたが、興味があるものは何にでも手を伸ばしてみるものだ。
今では旅の貴重な調理役として仲間に料理を振舞えるまでになり、こうしている間にも明日の朝食のレシピを考えてしまっている自分がいる。
「ふぁ…」
「もう遅い、休んだほうがいいんじゃないか?」
「ん…」
もっとたくさん下らない話をしたかったが、思考も呂律も碌に回らないノクティスは船を漕ぎ、相槌だけをようやく返せる有様だった。
手帳を閉じて空になったカップを取り上げ、相も変わらず細い体躯を軽々と抱え上げる。
「……ねみ」
「いくつになっても、困ったな」
じきに結婚を控えているとは思えない体たらくぶりに苦笑してテントまで連れ帰る。
張られたテントの中ではすでにグラディオラスとプロンプトが高いびきを搔いており、空いたスペースにノクティスを横たえた。
火から離れるだけで一気に冷え込む空気に、多少なりとも足しになるだろうかと自らの上着を脱ぎ細身の上から掛けてやった。
こういうことをするからいつまでも甘える癖が抜けないのだと仲間たちから野次を飛ばされてしまうわけだが、仕方がないではないか。
自分でも抑えきれないくらい、どうようもなく沸き立ちあがる庇護心。
大切にしたい。
いつまでもこの時間が続かないとしても、許される限り側にいてやりたい。
色んな世界を見せて、おいしいものを食べさせて、笑わせてやりたい。
ノクトがノクトで在れるよう陛下に任されているのだから。
いつまでも手のかかる“弟”でいて欲しい。
添い寝をして食べ過ぎで膨らんだ腹を撫でてやると、薄らと目を開けたノクティスが不思議そうな顔を浮かべた。
「なに……?」
「いや、なんでもない」
柔和な笑顔で黒髪をかき分け、額に口づけを落とした。
「明日は、ホテルが取れるといいな」
レスタルムのホテルがもし取れたら、二人で一緒に市場へと繰り出して忘れずに牛乳を買おう。
そして、材料を揃えてホテルの部屋にある簡単な台所でいつもの菓子を作る。
甘い匂いに誘われてグラディオとプロンプトがやってきたらコーヒーを淹れ、温いカフェオレを差し出してノクトが焼き立てを頬張るのを待つ。
ああ、なんて楽しみなんだ。
眠ってしまうのが惜しいくらい。
どうしてお前はこんなにも俺の心を弾ませてくれるのか。
俺の作ったもので腹を膨らませてくれるお前を見ているのが幸せなんだと言ったら、お前はどう思うだろう。
「んー…」
ころり、寝返りを打ち胸元に寄って来たノクティスに促され目を瞑った。
「おやすみ……ノクト」
明日はお前に何を作ってやれるだろうか。
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