ひとひらの… 若い娘の体からは、桃と、ある種の木の実の芳香がする。
図書室かどこかで目にしたその一節を思い出したのは、いつものように立香の首すじに頬を寄せてすっと息をした時だった。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと……」
もう一度、今度は自分の中にある彼女の記憶をたどりながら鼻先を近づけて確かめる。
以前の立香からは、薄めたミルクのような淡泊で無機質なにおいがしていた。体を洗う時にカルデアから支給される廉価な石鹸を使っているためだ。だが、今の彼女の肌からは、花のように品がよくほのかに甘い、深みのあるにおいがする。
立香に目を戻すと、何も言わなかったが、秘密を隠しきれない子どものようにそわそわと落ち着かない様子をしていた。
「石けん、変えた?」
そう訊くと、嬉しそうに大きくうなずいた。
「メディアに教えてもらって、支給品をいくつかハーブ石けんに作り直してみたの」
「ハーブ?」
「うん。普通の石けんを細かく砕いて、融かしてから、精油やハーブティーで香りをつけたんだよ」
立香はそう言って、ベッド脇のサイドテーブルに置いていたものをビリーに手渡した。
それは、ちょうど手のひらに収まるくらいの大きさの石けんだった。つるつるとした表面が、赤橙色の常夜灯を反射してうっすらと輝いている。色味はよくわからなかったが、貝の形を模している所が島育ちのメディアらしいと感じた。
「へえ、上手いじゃないか。何の香りだい?」
「ローズ。どれにするか迷ってたら、とりあえずこれにしておけば外れはしないから、ってメディアが選んでくれたんだけど……」
立香は、ためらうように言葉を切って、おそるおそるビリーに向かってたずねた。
「いやじゃない?」
「うん。前よりずっと好きだな」
そう伝えると、ぱっと顔が華やいだ。
「よかった」
「でも、意外だな。こういうのって、
獲物を捕まえる前に仕掛けるものだと思ってたから」
「獲物……?」
きょとんとした顔でビリーを見ていた立香は、しばらくたつと、あっと声を上げて「なんで、そういう身も蓋もない言い方するかなあ」と言いながらばしばしと背中を叩いてきた。
「違うよ。支給品の石けんじゃ、あんまりにおいが消えなかったの」
「それこそ気にする必要ないだろ」
「そうじゃなくて」
話をさえぎるようにもう一度首すじに唇をつけると、立香はくすぐったそうに身をよじりながらため息をついた。
「あのね……初めてした時の、次の日、煙草のにおいがしたみたい。私の体から」
つかの間、手を止めて考えをめぐらせていたビリーは、その言葉の意味する所に気づくと見る間に青ざめた。
「誰が?」
「ダ・ヴィンチちゃん」
好奇心を満たして悦に入っている、かの人物のやたらと朗らかな笑顔が脳裏をよぎった。
ビリーは悪態をつきながら枕に顔を埋めた。
「知ってて言ってる。絶対」
「わたしもそう思う」
立香も苦笑しながら隣に転がる。
「『昨日はキャンプファイヤーでもしたのかい? ああ、ビリーならきっと、枯木に火を着けるのも朝飯前だろうね』って言ってたよ」
「くっそ……癪に障るなぁ」
初めて寝た日から今まで、ダ・ヴィンチが自分達を眺めながらどんな想像をしていたのか考えると、苦い薬でも飲まされたような気分になったが、少したつとそれとは異なる感情がふっと浮かび上がってきた。
(ずっと知っていたのか)
それは、奇妙な安堵感だった。
(知っていて、何も言わずに……)
他人が聞けば眉をひそめるような選択をした事を、自分も、立香もよくわかっている。だからこそ、少しでも長くこの穏やかな時間を守ってやりたくて、ビリーは何かの拍子に周りに悟られてしまわないようにとずっと気を張っていたのだ。
だが、考えてみれば、現在のカルデアを統括する立場であるダ・ヴィンチには遅かれ早かれ知らせなければいけなかっただろう。それでなくとも、万能を自称する彼女の事だ。些細なきっかけであっさりと見抜いたかもしれない。……そう思うと、自分の小ざかしい足掻きようが、なんとものん気に思えた。
ダ・ヴィンチは読みにくい性格をしてはいるが、己の知識欲のみに従順な人物だ。たとえ何らかの確証を得ていても、それを周囲に言いふらしたりはしないだろう。案外、最初に立香をからかった時も、半分くらいは本気で自分と立香が火を囲んでいたと思っていたのかもしれない。そんな物思いにふけって口元をゆるませていた時、隣でかすかに身じろぐ気配がした。
立香の方に向かって少し首をかしげると、一瞬、明るい鳶色のひとみと視線がぶつかって、まぶたを下ろすと共に触れた唇からたまらなく愛しい熱が流れこんできた。
「何というか、君らしいよね」
汗ばんで冷えた肌をさすってやりながらつぶやくと、立香は眠たそうな目でビリーを見上げた。
「何のこと?」
「わざわざ石けんなんて作らなくても、僕に煙草を吸うなって言えばそれで済むのに」
髪を撫でながら、子犬の機嫌でもとるように耳の後ろを掻いてやると、くすぐったそうに嬌声を立てる。
「ビリーの煙草のにおい、いやじゃないもの。我慢させるのも悪いし」
「相談くらいしてくれたっていいだろ」
拗ねているのかとからかわれる前に立香を腕の中に引っぱり込み、顔を見られないように抱きながら、ビリーはぽつりぽつりと言葉を継いだ。
「僕の好きなようにさせてくれるのは感謝してる。だけど、君がその後始末をするっていうのは、何か……いやだ。他人行儀な感じがする」
立香は大人しくしていたが、ビリーが話し終えると「そっか……。うん、それなら……」と独りごちて、それからくつくつと笑いはじめた。
「なんだよ」
「だって、ビリーがすすんで面倒を引き受けてくれるようになるなんて思わなかったから」
そう言ってもぞもぞと腕の中から抜け出すと、ビリーの頬に唇をつけて照れくさそうにはにかむ。
「ちょっとだけ変わったね。ビリー」
離れていく時、まだかすかに残っていた薔薇の香りがふっと鼻をくすぐった。
「……君だって」
こんな蕩けるような微笑みはしなかった、と言おうとしたが、喉がひりつくように渇いてうまく声が出なかった。釈然としない顔で宙をにらんでいるビリーには目もくれず、立香はいそいそと毛布に潜りこむ。
「だけど、ビリーの気が済まないっていうなら……うん、違うにおいの石けんを作るのは、もうちょっと後にするね」
「それ、どういう──」
詳しく訊こうとしたが、立香はすでに気持ちよさそうに寝息を立てていた。
ビリーは苦笑いしながら、ちゃんと肩まで入るように毛布を引っぱり上げてやって、詰めていた息を吐き出した。
初めの頃は、事が済んでもずっと気が昂ぶっているのか、しきりに寝返りをうったり自分に話しかけてきたりして、なかなか寝付けない様子だった立香が、最近は疲れに身を任せるようにすとんと眠りに落ちるようになった。ただ、今のように話をしている途中でも糸を断ったように突然言葉を返さなくなるので、毎回ひやっとさせられるのだが、幼子のように毛布を握って眠る姿を見ていると、言いようのない幸せで胸がいっぱいになる。
かすかに上気した頬に口づけを落として、ビリーは静かにベッドを出た。
目覚めるまで隣にいてやりたいと思っても、多忙な身である立香には朝一で来客がある事も珍しくない。ビリーがシャワーを終えて部屋を出たのは、まだ夜も明けきらぬ頃だった。
自室に戻る前に熱いコーヒーでも飲もうと、気だるい体を引きずって食堂に寄り道をする事にしたが、中に入るやいなや先にテーブルに着いていた人影に気づいてぎょっと足を止めた。
先客──ダ・ヴィンチは、入り口で引き返すかどうか迷っているビリーに気づくと、読んでいた本を閉じて手を挙げた。
「やあ! おはよう、ビリー」
ビリーは「うっ」と呻くと、一瞬だけうつむき、何とか笑顔を作り上げてダ・ヴィンチの向かいに腰を下ろした。
ダ・ヴィンチのトレイには、中身の減ったコーヒーカップと空の小皿が置かれている。
「おはよう、ダ・ヴィンチ。ずいぶん早い朝食だね」
「うん、今日は始業から立て込みそうなんだ。管制室に缶詰になる前に腹ごしらえをしておかないとね」
たいして嫌がる素振りも見せずにそう言って、コーヒーカップの中身を飲み干すと、ダ・ヴィンチは空になったカップをちょいちょい、とビリーに向かって突き出した。
「君もどうだい?」
「いや、自分で取ってくるよ」
席を立ちながら(ついでにそっちのも)と手で示したが、ダ・ヴィンチは首を振った。
「わたしはもう行くよ。どうぞごゆっくり」
「そうかい」
今もっとも顔を合わせるのが気まずい相手と朝の一杯を共にしなくてすむとわかって、ビリーはほっと胸をなでおろした。
だが、食器置き場にトレイを戻した後も、ダ・ヴィンチは食堂を去らずにじっとビリーを見つめている。
「……何?」
そう訊くと、ダ・ヴィンチはふっと愉しそうに目を細めた。
「いやあ、薔薇の香りをたしなむ無法者がいるだなんて、この世界にもまだまだ面白い事が転がっているものだと思ってね!」
インスタントコーヒーの瓶を握ったままあっけにとられているビリーを残して、ダ・ヴィンチは鼻歌交じりに扉の向こうへ消えていった。