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    泥の靴にも対がある 私は驚愕した。驚愕とは大げさな言いようだと思うだろうか。だがそう表現していいほどに驚いた。彼女だ。彼女だった。「J」だった。


     初めて彼女と出会ったのは釜山の漁港、彼女はひっそりと人目から逃れるようにトラックの陰で煙草を吸っているところだった。私は旅行者で、同様に一服しようと人けのないほうに足を向けて、ふと目が合ったのだった。
     きれいな女だった。化粧っけは少ないが、ちょっと息を呑むくらいきれいだった。卵型の輪郭に冷たいほどさえざえと白い肌、無造作に束ねた髪が一房落ちて杏仁形の瞳にかかって憂いげな印象を作っていた。私を見た目はどこか焦点を結ばないようにぼんやりとして、しかし私が尋ね人──あるいは追手か何か──ではないことを確かめるように凝望していた。
    「火を?」
     と私は言った。ほんの思いつきだった。他に人のないところで、お互い指に煙草を挟んで、好機だと思ったのかも知れない。こんなにきれいな女に会うのは初めてだったから話してみたかった。ああ、と答えた女は唇に煙草を挟んでポケットから出したライターを握った拳を私に差し出した。私の煙草に手ずから火をつけてはくれないようだった。短く礼を言ってライターを受け取り火をつける私を脇に手を挟んで寒そうにして楽しくもなさそうな顔でただじっと見ていた。
     ライターを返しながら「釜山の方ですか?」と尋ねると、女は是とも非ともつかないように肩をすくめ首をひねった。喋らせれば訛りでわかるだろうか。そんなにきれいなのににこりともしない女に私はむらむらと興味が湧いた。
     私が名乗り、名前を尋ねると彼女は「ジェイ」と言った。
    「イニシャルですか」
     と私が聞くと彼女は鼻から小さく息を漏らして(笑ったのだと私は信じる)「そうだ」と答えた。ジア、ジウ、ジユン、ジウォン、ジュア? と思いつくかぎりのJを並べてみたが、Jは「なんだっていいでしょう」と言って眉を上げ、唇の端をちょっと歪めた。そのいびつな表情がひどくかわいくて、私は形容しがたい感情に襲われた。そのときの心情をもっとも近く表すなら、許されたような心地だった。
     それから私たちは他愛ない話をした。釜山の天気についてとか、海鳥の無礼さについてだとか。Jはせわしく煙草を吸って、吸い込むたびに目に見えるほど巻き紙が短くなるくらい強く吸って、私の質問に「ええ」とか「どうでしょう」とか「あなたは?」とか答えていた。その謎めいた答えが容貌とあいまっていよいよ魅力的だった。そうして一本吸い終わると携帯灰皿に吸い殻を突っ込んで、ぶっきらぼうに「もう行きます」と言った。また会えますかと私が聞くと、Jは肩をすくめて唇の左端だけを小さく上げた。電話番号なんかを聞いたりしたら、なんだか幻想的ですらあるその佇まいが一気にくだらない現実に落ちてきそうでできなかった。ほんの一時間にもならない邂逅だったが、美しい出会いだった。


     そのJがいた。愛用しているマッチングアプリに。いつから登録していたのだろう。私は驚愕した。こうして再会することはある種の運命だと思えた。私を覚えていますか、とメッセージを送ったが音沙汰なく、顔を見れば思い出すかもと改めて写真つきのメッセージを何通か送ると少ししてから返信があった。
     釜山で一服した方でしょうか。お久しぶりです。
     それだけだったが、あの邂逅がJにとっても特別であったと自然と知れた。それから私たちはアプリを介してメッセージをやりとりするようになった。
     Jからの返事はいつも遅かった。文章を考えるのに苦心するのか、そのわりに文面は簡素で、こんなにきれいな女がマッチングアプリを利用するかしらんと最初は思ったがこういう不器用なところがあって苦労するのかも知れない。釜山でのひとときも寡黙だった。かわいい人だと私は思った。メッセージだけでは足りなくなり、どうにかしてもう一度会いたかった。
     実のところ私には他にも気になる女がいて、そっち──仮に名をAとしよう──とは顔も合わせて懇意にしていたが、その好機も逃しがたく思いながらJのほうに惹かれてもいて、Aへの決断はずるずると先延ばしになっていた。安全で盤石な出会いか、未知数の運命的な出会いか。選ぶのは難しかった。Aは私を信じきっていたし、私が決めさえすればという状況だった。


     そんなある日、私からのメッセージに答えるだけだったJから突然誘いのメッセージがあり、私は飛び上がった。
     直接お会いしませんか。文字のやりとりだけではじれったくなってしまいました。お返事お待ちしていますね。
     かわいらしい花束の絵文字がついていた。らしくなかったが、彼女の精一杯なのだと思えてたまらなかった。私は矢も盾もたまらず是非と返事をした。
     一度目はソウルでと言われてソウルのカフェで会った。ちょっと気後れするくらいしゃれていて、飴色の木でできた高い天井の店内はずうっと奥行きが広く、賑わっていた。若い女同士も、カップルも、中には男一人の客もいた。京畿道に住んでいると言ったJに都会っぽさはなかったが、ソウルで見てもやっぱり図抜けてきれいに見えた。私はお代わりしてお茶を二杯、Jは一杯だけ飲んで日が傾く頃Jは「家が遠いので」と言って帰った。私ばかり喋っていたのではないかと不安になって、その日の夜に長く礼を書いて「次はあなたの町に行ってみたいです」と添えると、Jからは「待っています」と次の日程を打診する色良い返事が返ってきたので、杞憂だったと知れて私は胸を撫で下ろした。やはり、控えめな性格で誤解されやすいのだろう。そんな人こそふさわしいと思えた。Aもかわいかったが少し若すぎたのでうるさかった。私はいよいよ決断に迷った。
     二度目の約束は彼女の住む町、ムンジュ市だった。バス通りの広場にカフェトラックが出ていて、私たちはそこで話した。広場に広げられた白い簡易テーブルを挟んで腰掛け、Jはくるりと広場を見渡すように首をひねった。その横顔が美しかった。
    「こんな広場があるんですね」
    「ええ。講演とか、市の催しがあります」
     Jの目は広場に面した車道に停まる車をさらうように舐めて、それから私を見ずに手元のコーヒーに落ちた。
    「住まいはこの近くですか」
     と私が聞くと、Jは静かに「いいえ」と答えた。
    「家のほうには、何もないから」
     それでも構わないのにと私が言うとJはそっと微笑んだ。笑い慣れていないような微笑みだった。しばらくそうして話してから私が煙草を勧めると長い前髪を揺らしてJは首を横に振った。
    「煙草はやめたんです」
    「なぜ?」
     Jはうっすら唇を開いて逡巡して、それから一度、二度、まばたいて白いテーブルに目を落としたまま言った。
    「あのときは、店をたたむつもりでいたから。今は違うので。やめました」
    「店って?」
     尋ねると、Jの丸い目が私を見た。そうして、静かな声で
    「精肉店」
     と言った。その答えは彼女の白い顔や細い指にあんまり不似合いで、冗談のつもりなのだろうと私は思ったが、Jが真面目な顔をしているので「はあ」とか答えてただ頷いた。
    「精肉店って、ほんとうですか」
    「ええ」
     私が苦笑いするとJは「豚もばらしますよ」と言い、豚の大きな肋についた肉をどう切るかを短い言葉で説明した。それでもやはり疑わしかった。
     そしてやはり私がコーヒーを二杯、彼女が一杯を飲み終わると、Jはこの間と同じように「家が遠いので」と言って立ち上がった。私も慌てて立ち上がって「送っていきますよ」と言うと、「迎えが来ます」とJは言った。私がさらに言い募るより先にJは頭を下げて踵を返して行ってしまい、しかし私は彼女とのより長い逢瀬を諦めきれずに遅れてそっと後を追った。彼女はすたすた広場を横切ってバス通りを横切ってビルの間の道をまっすぐ進むと、数メートル先で黒いシボレーから降りた若い男の前で立ち止まった。それを見て私も止まる。二人は歩み寄り、二言三言交わしているようだったが私までは聞こえなかった。あの青年がJの言った迎えだろうか。声をかけようか迷っていると青年の目が私を見た。つるりとした顔に白目がちの目がまるで剃刀で切れ目を入れたみたいな形に開いていた。Jの前に立った時も、私を見たその目も、怖いくらい無表情だった。
     青年の眼差しの見る先に気づいてJも振り向いて私を見た。
    「弟です」
     とまるで唐突な感じにJが私に言った。青年はたった今自分が人間であることを思い出したとでもいうふうに目を細めて唇の端を上げ、「どうも」と言った。そうして「姉さんヌナ。行きましょう」と言ってJを車に乗せた。車が去るのを見てから私は急いでバス通りに戻り、タクシーを捕まえ、Jを乗せた車の行ったほうを指示した。黒のシボレーは何台か先にちらちら見えていたが、背の高い建物がまばらになるあたりに差し掛かる頃に見失ってしまった。運転手に「どうしますか」と聞かれ、私はどこともよくわからない場所で肩を落として車を降りた。スマートフォンの地図を見ると、ムンジュ市マニャンとあった。土地勘も何もない場所だ。Jがここらに住んでいるのかもわからない。ほとんど一本道だったのに見失うなんて、あの運転手はよほど運転が下手だったのか。少し先にマニャンスーパーという看板が見えたがなんだか閑散として、空き家みたいな様相だった。
     私は深くため息をついた。追いつきたかったのに。弟だというあの青年とJは、なんだか異様な感じだった。弟というのは本当だろうか。弟があんな目で姉を見るだろうか。追いついて確かめたかった。
     悔しくてどうにもならず私がそこいらをうろうろしていると、ふいに「おや」と後ろから声がかかった。振り向くと、四十がらみの男がジャンパーのポケットに手を突っ込んでにこにこして立っていた。
    「デートのお相手じゃあないですか」
     と男は言って、距離を詰めて私に握手を求めた。握手に応じながら
    「ええと。私をご存知で?」
     と尋ねると、目を丸くして男は頷き、
    「ええ、ええ。自慢されましたもの。素敵な人と二回目のデートなんだって」
     と言った。Jの知り合いらしい。私がついやにさがってにやつくと、男は「私はあの子の叔父のようなものでね」と言った。
    「彼女、このあたりに住んでいるんですか」
    「ううん。もうちょっと遠いかな」
     なにしろ田舎でねえ、と男は肩をすくめてにっこり笑って私の目を覗き込むように首を傾げた。まだJとしか教えられないJの本名を聞いたら教えてくれるかしらんと思ったが、デート相手が名前を知らないのは変に思われるかもと尋ねることはできなかった。素敵なデート相手だと吹聴するわりに名前も本当の仕事も教えてくれないなんて、ずいぶん妙な駆け引きをするじゃないか。精肉店だなんて変な嘘をついて。ますますJに興味が湧く思いと、なんだか妙なところに足を踏み入れかけている心地とがして、私はちょっと不安になった。
    「ゆっくりデートしたかったんですけれど」
     うん、うん、と男が人の好さそうな顔で頷いた。
    「なんだか、睨まれちゃって。迎えにいらした弟さんに」
    「ああ、彼」
     鼻を鳴らして小さく二度、三度頷いて男は言った。
    「あの子は外国育ちで、そういうところがあるから。悪気はないんだ。言っておきますよ」
    「やあ、そんなつもりじゃ。私のほうこそ、別れを惜しんで追いかけるなんて、怪しまれるようなことをして。すみません」
    「うん、うん。ほら、欧米じゃこっちより目をじっと見たりするでしょ。そういう子なんだ」
     ええ、ええ、わかります、と私は適当に相槌を打った。男はどの町にもいるお節介な調停役という感じだ。その時、
    「このあたりはすぐに暗くなるからね」
     とふいに男が言った。
    「あっちのほうに葦原があって、灯りがほとんどないもんだから、夜に迷い込んだら一晩出てこられませんよ。そろそろ帰ったほうがいい。家が遠いでしょう?」
     そう言って私の目をじっと見た。色の薄い虹彩が何も映さないように見えて、そうですね、タクシーを呼びます、と私が言うと、男は目尻にしわを寄せて狐のような顔でにっこり笑った。タクシーが来るまで男は私の横であれこれ話して、私の乗ったタクシーが遠ざかるまでそこで見ていた。タクシーの中から振り返って一度そこに立ったままの男の姿を見たが、なぜだか首筋がぞっとして二度は振り向けなかった。近くの列車の駅までタクシーをつけてもらって列車に揺られて帰る間、なんだか奇妙な世界に迷い込んでしまったような心地がした。途中でAから「ジャージャー麺を買ってきて」とメッセージが入って、それが私を現実に引き戻した。
     アプリを見ると、Jからもメッセージが来ていた。私はさっきまでのそら恐ろしい気持ちも忘れてのぼせあがった。Jからのメッセージには、「次は私があなたの町へ行きますね」とあった。Jが来る。Jが来る! 私の住む町に。私の家に来てくれるだろうか。しかし浮かれる一方で、やはりAのことを決めかねていた。AもJもとはいかないだろうか。悩ましかった。三度目に私の町でJに会って決めようと私は思った。


     Jはそれからほとんど日を置かず三度目の日を指定した。Jが私の住む町に、うまくいけば私の家に来るかも知れないと思うと眠れないほどだった。Aは私のそんな様子を見て揶揄するように笑った。Aはこのところよそいきの態度が崩れ始めて生意気だった。やはり、Jと会う日に全てを決めようと私は思った。
     だがその日、待ち合わせに現れたのはマニャンで話した男だった。突然現れたその姿にぎょっとする私の顔を見るなり眉を下げて笑った男は猫撫で声で「ごめんなさいね」と言った。
    「実は、頼まれたんだ。スマホを水没させちゃったんだって。それでスマホがないから店の取引先に直接行かなきゃならなくて今日のデートに行かれないのに、アプリも、連絡先も、全部わからなくなっちゃって、約束の場所だけは覚えてるから伝えてほしいって。申し訳ないって言ってましたよ。ごめんなさいね」
     そう言うと男は目を細めて首を傾げ、唇の両端をきれいに左右対称にきゅっと上げた。その顔に、それじゃあ仕方ないですね、と悔しさを隠して私は反射的に言ってしまう。こうなったらすぐにでもAのところに帰ってやることをやってしまいたかったのに、男はだらだらと私と話そうとした。このあたりだと何が美味いですかとか、一人暮らしですかとか、うまいククスの店を知ってませんかとか、金物屋に寄って帰ろうかなこのへんにありますかとか、ここいらのアパートならオートロックが便利でしょうとか、どうでもいい話ばかりだ。私は適当に返事をして「それじゃあ」と言ってそそくさとその場を去った。男がこの間と同じようにいつまでもそこに立って私を見ているのではないかと思って振り向いたがその姿はなかった。出くわした亡霊が忽然と消えたようだった。
     そうして足早に帰路を辿りながら、ふいに私はあの男に何か重大な秘密を喋ってしまったような不安に襲われた。風邪をひいたときのようにみぞおちがぞくぞくして落ち着かない。人懐こいふりをして他人の胸元に入り込んで隠し持っていたナイフをちらつかせるような雰囲気があの男にはあった。私の思い違いだろうか。知られて困るようなことは何もないのだが。
     いいや。だがやはりJも、あの青年も、あの男も、どこかおかしい。
     そう思って私はふいに浮かんだある想像に背筋が寒くなった。Jの言う「精肉店」は何かの喩えなのではないか。豚の解体について淡々と語る様子はちょっと異様だった。本当は豚なんかじゃないとしたら? その想像はそんなに頓狂でもないように思えた。だって、あんな若い女が一人で精肉店をやるだろうか。そもそも、あんなにきれいな女がマッチングアプリに登録すること自体があやしい。Jが殺人者だとしたら? この想像は突飛だろうか? いや、もしかすると私は皮一枚でとんだ危機を逃れたのかも知れなかった。
     私はぞっとして上着の前をかき合わせた。さっさと家に帰ろう。Aが待っている。AもJもと欲を出すのではなかった。Aは何も疑わずに私の家にいるのだ、よほど安心だし、Jが本当に殺人者ならJも招き入れていったいどうなったか予想もつかない。だが、知られて困るようなことは何もないんだ。だって私はまだ何も実行に移してはいないのだから。
     私は小走りにアパートの階段を登り鍵を開け部屋に滑り込んだ。と同時に、オートロックのメロディが鳴る前に、玄関のチャイムが鳴った。驚いて振り向くとドアは閉まる直前の状態のまま不自然に開いていた。オートロックの鍵がむなしくぼんやり呆けている。私がノブに手を伸ばすより先にドアは外から引かれてゆっくりと開いた。
     すぐそばの台所には今日のために新しく買った中華包丁があったのに私はそれに手を伸ばすこともできずに脚は部屋を向いて顔はドアを向いて半身をひねって突っ立っていた。Aは部屋の中で寝ていた。音もなく開くドアから部屋の中の薄闇を引き裂くように差し込み広がっていく午後の曇天の光が地獄の門が開くようだった。
     ドアの外にはあの三白眼の青年が立っていた。私をつけてきていたのだろうか。いつからだろうか。やっぱりこいつら、殺人集団か何かだったのだ。マッチングアプリに不似合いなJのきれいな顔も、この青年の陶器人形みたいな姿も、あの男のやたらに人懐こい様子も、全部全部罠だったのだ。こいつら、ああやって標的を誘い込んで「精肉」するのだ。きっとそうに違いない。私は結局逃げ損ねたのか。
     まともな人間にこんなふうな無表情が可能だろうかという顔つきのまま、青年は上着の内ポケットに手を差し込んでプラスチックでラミネートされたカードを取り出し、顔の前に掲げた。
    「警察です」


                     §


     イ・ドンシクがハン・ジュウォンを伴って精肉店に現れたのはそれから十日後だった。ジュウォンの顔色は悪く、顔つきは疲れ切っていたが、同時にようやく人心地ついたようでもあった。
    「女の子は?」
     と茶を出してやりながらジェイが聞くと青白い白目の勝つ三白眼がジェイを見た。目の下の隈が濃い。
    「無事です。幸いと言っていいものか、保護時点ではやつに手厚くもてなされていて、自分が監禁状態にあったこともよくわかっていなかったようですね」
     容疑者の検索履歴と購入した道具をやんわり説明してやったら青くなっていましたが、とジュウォンは続けた。家に居場所のない彼女の処遇についてはまだこの先の課題ですが、ひとまず容疑者は未成年略取誘拐と監禁の罪に問われます。そう言ってジュウォンは深いため息をついた。計画していた犯行に至らなかったのは幸いだがそのぶん大した刑は下らないかも知れない。ジェイが肩をすくめて「お肉?」と聞くと眉間を揉んで息をついているジュウォンのかわりにその隣に座ったドンシクが頷いた。
     少女は二ヶ月前にジュウォンの管轄区域から家出して、彼女の家族が探そうとしないのだと同級生が涙ながらに警察署に訴えに来て、ジュウォンが個人的な領域で探し回っていた一人だった。いろいろ点々として、ひと月前にくだんの人物──ジェイの「デート相手」だ──のところにSNSを介してたどり着いたらしい。「デート相手」は、釜山で声をかけてきた時からなんだかきな臭いやつだと思ったが、運悪くマッチングアプリで再会したら本当に気味が悪かった。ひと月ほど前、来店したドンシクとジュウォンに雑談のつもりで話したら性犯罪の前歴があるタイプではないかと言われて、個人情報をぼろぼろ漏らしているやたらに長ったらしい受信メッセージを見せたらジュウォンの眉間が険しくなった。そうしてその後ほんの数日の間にいろいろ探ってきたらしいジュウォンにたいしたわけも聞かされずただ頼まれて釣りをしたら、ジェイの想像をはるかに超えた魚が釣れた。その腐った魚と二度もデートをして良い顔をしてやるのは、ジュウォンとドンシクが何かあれば飛び出そうとすぐ後ろで身構えているとわかっていてもだいぶん厄介な仕事だったが。
     ハン・ジュウォンはこれから、大人と子供の境い目でさまよう若者の無防備な信頼と孤独につけ込む悪党をどれほど捕らえることができるだろうか。今回のようにジェイやドンシクの手を借りることはジュウォンにとって本意ではないだろうが、彼を助けることができるのはジェイやドンシクにとってちょっとした(ドンシクにはちょっとではないかも知れないが)喜びであることをジュウォンはいつ頃理解するだろう。そして、ジェイにとって今回のことが、救えなかったかわいいあの子への焼けるような後悔の念をほんの少し、本当に少しだが軽くすることでもあり、夜に一人で泣いたことをジュウォンは知る由があるだろうか。話してやるつもりは毛頭ないが。
    「協力」
     とかき上げたせいで少し乱れた前髪でジュウォンが言った。
    「ありがとうございました。民間人をおとりのように使うべきではなかったし、警察が動けなかったのは遺憾ですが」
     笑ったジェイがからかうようにジュウォンの肩を肉を乗せた盆を持った肘で小突くとジュウォンは露骨に煙たげな顔をした。その隣でドンシクが穏やかに笑う。
    「次は、私じゃなくてジュウォンさんがやってくださいよ。マッチングアプリで愛想ふって色仕掛け」
     ジュウォンが喉を鳴らしながら俯いて首を横に振り前髪をさらに乱して
    「次はないです。絶対嫌だ」
     と言った。その容貌を存分に利用してにこにこして愛嬌を売るハン・ジュウォンを想像したら笑ってしまう。今回だって、ジェイのことを「姉さんヌナ」なんてあり得ない呼び方をして鳥肌が立ったが。
    「じゃあアジョシ」
     と水を向けると目を丸くしたドンシクが何か言うより先に首を折ったままのジュウォンが
    「絶対嫌だ」
     と言った。
    「そうねえ」
     と適当に答えてやると
    「絶対嫌です」
     とどうやらちっとも頭が働いてないらしいジュウォンがもう一度言った。「なぜ蹴るんですか?」と言ったので、テーブルの下でドンシクに蹴られたらしい。網に肉を乗せてやっているとジュウォンが顔を上げてふと思い出したというふうに聞いた。
    「今回はジェイさんがマッチングアプリにあやしいやつがいると言ったのが思わぬところで僕の案件に繋がって解決しましたが」
    「うん」
    「マッチングアプリはなぜ登録していたんですか? まさか本当に出会いを求めて? 向いていないと思いますよ。人のことを言えたものではないですが見た目で寄ってきた人間に勝手に性格に幻滅されて不快な捨て台詞を吐かれるのがだいたいのオチでしょう。ブラインドデートとか、もうちょっと適当な方法があると思いますよ」
     なぜ蹴るんですか? と続けて言ったこの坊ちゃんにも旨い肉を出してやるほかないのが癪だった。もっと強く蹴ってやればよかった。親しくなくても親しくなっても嫌なやつだ。悪人じゃないのがかえってむかつく。
    「アジョシ」
     と呼ぶとドンシクはなんだか恐縮したような面持ちで「はい」と答えた。笑ってしまう。
    「草履も一足ってこういうのを言うのね」
     なぜ蹴るんですか、とハン・ジュウォンがみたび言った。


    ※짚신도 짝이 있다・草履にも相棒がある……どんなものにもそれに合った相手があること。割れ鍋に閉じ蓋。
    bare_yama Link Message Mute
    2022/06/17 16:30:25

    泥の靴にも対がある

    怪物ジュウォン×ドンシク
    いきなりレカペ2の無配です。
    表紙つきのPDF版はこちら→https://nikujiru.booth.pm/items/3908248

    #怪物 #BeyondEvil #ジュウォンシク

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