天童覚は恋がしたい 俺は恋というものを知らない。
そういってもう高校生だ。もちろん、知識として恋という感情がどういったものなのかは知っている。毎週欠かさず購入しているマンガ雑誌の中にはラブコメもののマンガもあるし、クラスメイトの誰が誰と交際しているとか、そういった話を耳にする機会は度々あった。恋愛感情というのはつまり、異性に対して好意を持ち、ずっと一緒にいたいと思うことだと、俺は理解している。
だけど実際の体験として、俺は恋というものを知らなかった。英太くんに一度その話をしたことがあるのだけれど、眉根を寄せて、シチューを掬っていたスプーンを取り落し、整った顔を丸めた紙みたいにくしゃくしゃに歪めて、嘘だろ、と呟いていたから、高校生にもなって恋の一つもしたことがないのは珍しいのかもしれない。
俺は今の今まで、初恋らしい初恋をしたことがなかった。小学校の頃は女の子のことよりもマンガやゲーム、そうでなければバレーをする方が楽しかったし、中学校ではあまりクラスに馴染めていなかったから、恋なんてものを考えることなんてなかった。だけど今は健全な男子高校生だ。女の子という存在自体は好きだったし、グラビアアイドルだって女優だって好きだ。だけど特定の女の子に対して恋愛感情を持っているか、と問われれば、俺は首を捻る他なかった。
「またですか」
ようやく夏の鋭い陽射しが和らぎ始め、秋の柔らかくて優しい匂いが空気に混り始めた頃のことだ。昼食のカレーライスが乗ったトレーを持って俺の座るテーブルに来た太一は、呆れたようにそう言葉を吐き出した。食堂の騒めきの中に溶けていきそうなそのため息みたいな声を聞き取って見上げると、相変らず無表情の太一が俺を見下ろしていた。
「ウルセーヨ」
「でも、今月で二回目でしょう」
俺の許可も取らずに、太一が目の前の席に座る。赤くなってますよ、と太一が自分の右頬を軽く指差した。
「知らねぇヨ、あのコが好きだっていうから付き合ったのに、思ってたのと違うとか言うんだもん」
「好きでもないコと付き合うのも、俺はどうかと思いますけどね」
自分から話をふっておいて、まるで興味がないような声で言いながら、太一がスプーンでカレーライスを掬い上げた。まだ少しひりひりする頬の痛みを、太一のせいで思い出して俺はゆっくりと指先だけで撫でてみる。まだ、ちょこっとだけ熱がある。
「人聞き悪いこと言ってんじゃないヨ」
「事実でしょう。いい加減にしないとその内牛島さんの耳にも入りますよ」
「なんでそこで若利くんが出てくんのサ」
吐き捨てるようにそう言えば、太一はまた、呆れたようにため息を吐いた。
俺は時々、女の子と付き合う。付き合うというのはもちろん、恋人になるという意味だ。強豪校のバレー部だからだろうか、中学校ではむしろ煙たがれていた俺でも、時々、告白をされることがある。
俺が誰かと付き合う時はいつも、相手の方から告白をしてきた時だ。こう言ったら英太くんあたりから怒られそうだけど、俺は今まで誰かに告白したことは一度もない。女の子から告白してきて、特に断わる理由もなくて、付き合う。ただそれだけのことだ。基本的に断ることはあまりないけど、恋人がいる間は流石に断る。浮気はしない主義だ。
初めの内は確かに楽しい。俺は恋というものがよくわからないけど、女の子という存在自体は好きだ。俺の為に一生懸命な子は尚更可愛いと思う。部活が終わるまで待っていてくれたり、昼食を一緒に食べたり。部活のない休日は時々遊びにも行くし、頻繁にラインを送ってくれる。俺のことを好きでいてくれる子を見るのは可愛くて好きだ。だけどそれは大抵の場合、長くは続かない。
俺の恋愛と呼べるかもわからない恋愛において、始まりと終わりはいつも同じようなものだ。俺に一生懸命だった子が、その内俺に飽きる。ラインも無くなって、部活を待っていてくれることも少なくなっていく。そしていつも、同じセリフで別れを告げられるのだ。
――天童くん、私のこと好きじゃないよね
俺はいつも、そんなことないヨ、と言う。だけどそれは多くの場合嘘だった。そもそも付き合い始める時、そっちから告白してきたのであって、俺は彼女たちが好きだとは一言も言っていない。ついそう言い訳をしてしまった前の子からは、ついに頬を引っ叩かれたのだった。
俺は恋というものを知らない。だから恋というものを知ってみたくて、与えられる恋愛感情に触れてみた。恋はキラキラしていて綺麗な虹色をしているけど、裏返せばすぐに好きから嫌いなのものに変わるのだと知る。
その日は若利くんが家の用事で一日学校にいなくて、俺はまだ一度も顔を合せていなかった。夜、談話室でテレビを見るのにも飽きて自室のベッドの上でごろごろしていると、ふと、今週のジャンプを若利くんに貸したままだったことに気付く。
マンガってやつは中毒性が高くて、一度あのシーンってどうなってたんだっけ? と思い始めるといてもたってもいられなくなるのだ。消灯にはまだ時間がある時分、ガラス窓の向こうから、どこからか誰かの笑い声が漏れ聞こえている。部屋の外はずいぶんと騒がしいのに、俺がいるところだけ、いやに静かだった。
若利くんはきっともう帰っているだろう。マンガを読み返したくて、若利くんと一日顔を合せていないのが落ち付かなくて、俺は自室を飛び出した。
やはりもう寮に戻っていた若利くんは、ノックもせずに入ってきた俺をを読んでいたバレー雑誌から顔を上げて一瞥し、それから顔を顰めた。ちょっと子どもっぽい、不機嫌そうな表情。ジャンプ返して、と用件を言えば、机の上にあったそれを差し出してくれる。受け取ろうとすると手首を掴まれてひき寄せられたから、少しよろけながらベッドの縁、若利くんので隣に腰かけた。読んでいけ、ということだろうか。それにしては、手首を離してくれない。
「若利くん?」
下から覗き込むように、俺は若利くんを見た。
夜だった。ドアの外はまだ人の気配がしてどこか騒がしいが、二人だけの部屋はむしろ静かで耳鳴りがする。いや、外が騒がしいからこそ、一層静かに感じているのかもしれない。部屋の人工的な照明の光で、若利くんの輪郭が少しぼやけていた。俺を見る若利くんは、相変わらず不機嫌だ。僅か寄せられた眉、少し尖った唇の先。
「また、別れたのか」
そう言って、昼間の太一のように、若利くんが頬を指先でとんとんと示す。
「ああ、うん。知ってたの?」
「天童のことは、わかる」
俺はゆっくりと、二度瞬く。
「好きでもない相手と、交際するのはよくないと思う」
若利くんの声は、ほんの僅かだったけれど、軽蔑するように尖りちくちくとしていた。
その瞬間、俺は頭を殴られたみたいに、鈍い衝撃に襲われた。目の前が一瞬真っ白になって、音が引き潮のように引いていく。苦しくて、ゆっくりと吐いた息は少し震えていた。
「わかとしくん、は、」
若利くんに、咎められたからじゃない。ましてや、軽蔑をするような声色のせいでもなかった。俺は他人にどう思れようが、気にする人間じゃない。それはもちろん、若利くんに対してもそうだ。
俺が息をするのも苦しいのは、それは、若利くんが、
「好きな子、いるの?」
俺の言葉に、若利くんがひくりと目を細めた。唇の先が、僅かに戦慄く。
俺は、恋というものを知らない。恋というものがどういうものなのか、知識としてはもちろん知っているが、実際の体験としてどういうものなのか、知らなかった。恋をしたらどう感じて、どう思って、どう心臓が鼓動するのか、俺は知らない。
それを、知りたいと思った。俺に恋をしているという子たちが、一体どう思って俺と接しているのか、付き合ったら少しでもわかるんじゃないかと思ったのだ。
若利くんの軽蔑を含んだ声色は、俺に別れを告げる女の子のそれによく似ている。
「……ああ」
きゅ、と口を引き結んだ後、若利くんが言った。
恋愛感情というものはつまり、異性に対して好意を持ち、ずっと一緒にいたいと思うことだ。
「っ天童」
若利くんが珍しく声を上擦らせ、驚いたように目を見張った。その顔がぐにゃりと歪んで、俺は自分が泣いているのだと知る。若利くんの大きな手のひらが、俺の頬を包んだ。
「わかとしくん、」
震える喉から必死に吐き出した声は、ずいぶんと濡れきっている。ああ、酷い声だ。あの、俺から離れていった子たちみたいな。
若利くん、に続く言葉を、俺は思いつかなかった。自分の気持ちを表す言葉が何なのか、自分でもわからない。
俺は恋というものを知らない。異性に対して、特別な好意を抱いたことはない。知らず知らずの内に目で追っているのも、気がつけば会いたいと思うのも、ついラインを送ってしまうのも、全部、全部、全部。
女の子になりたいと思ったことはない。だけど時々、心臓に穴が空いたみたいにすかすかするのだ。俺は恋を知らない。この感情は、恋ではない。だって俺は、女の子ではないから。
ぐずぐず顔を濡らす俺を若利くんが胸にぽすんと抱き寄せてくれた。若利くんの匂いと、眠くなるような落ちつく心臓の音。
「天童、俺は、」
ゆっくりと、若利くんが一音一音噛み締めるように言葉を紡ぐ。俺はそれを、どこか夢の中のような気持ちで聞いている。
俺が、人生で最初で最後の恋に落ちた夜の話だ。