桜の朽木に虫の這うこと第1話 ウツロとアクタ「人間って、何だろう?」
ウツロがそう
呟いたとき、アクタは「またはじまったか」と
内心そわそわした。
弟分の『
悪癖』が
発動したからだ。
穏やかな春の
昼下がり、山の
奥深くの、ちっぽけな『
隠れ
里』の中で。
杉林に
囲まれた小さなネギ
畑。
二人の少年がそこで、言葉を
発するのも
忘れるくらい、せっせとネギを
引っこ
抜いている。
ひとりは名をウツロ、もうひとりはアクタといった。
年齢はともに十六
歳だが、彼らは自分の
歳など
数えたこともないし、そもそも知らない。
生年月日がわからないのだ。
西日がしだいに強くなってきて、二人が身に
纏う
紺色の
作務衣は、すっかり
汗だくになってきている。
「何をもって、人間といえるんだろうか?」
ウツロの
悪癖――それは彼が『
思索』と
自称するものだ。
この少年は
哲学書を
愛読し、その
思想について考えをめぐらせるのを
趣味としている。
もっとも彼にいわせれば、それは趣味ではなく
人間になるため、らしいのだが。
「何が人間を、人間たらしめるんだろうか?」
ウツロとアクタは
孤児だった。
二人が
赤ん
坊のとき、それぞれ
別な場所に
捨てられていたのを、この
隠れ
里の
主が発見し、
拾い
上げ、ここまで育てた――と、彼らは聞かされている。
親から捨てられたという
過酷な現実を二人は
背負っている。
特にウツロは、その現実に
耐えきれず、「自分に責任があるのではないか?」と、みずからを
責めつづけている。
俺は親に捨てられた。
こんなことが人間にできるはずがない。
そうだ、俺は人間
じゃないんだ――
醜い、おぞましい……そう、『
毒虫』のような存在なんだ――と。
それゆえ、
古今東西の
哲学者・
思想家の
知恵を
拠り
所とし、つねに自分という存在について
問いつづけているのだ。
それは考えているというよりも、すきあらば
襲いかかってくる
自己否定の
衝動と戦うためなのだった。
「人間が自身を
克服できる存在だと
仮定するのなら」
「ウツロ」
「その
行為が
人間的な
生命活動といえるのであって」
「ウツロっ」
「それをたゆまず
続けることではじめて、
真の人間といえるんじゃないだろうか――」
「ウツロっ!」
果てしない
思索の
連鎖に
陥っているウツロへ向け、アクタは手にした
一本のネギを、
頑丈な
肩の力と
腕のスナップをきかせて、
手裏剣のように
投げつけた。
大気を
切り
裂くほどの速さと
鋭さで飛んできたそれを、ウツロは
片手を少し動かして、たやすく
掴み
取った。
たかがネギとはいえ、
直撃していれば
頭蓋骨に
ひびくらいは入っていただろう。
だがウツロもアクタも、いたって
涼しい顔をしている。
杉の
並木は変わらず、そよ
風にさざめいている。
こんな彼らのほほえましい『
日常』を、春の
陽気もにこにこと笑っているようだった。
「アクタ、いまいいところなんだ。
邪魔をしないでおくれよ」
ほおっ
面をかすかに
膨らませたウツロに、アクタは
生来の
仏頂面を向けて
応酬する。
「『
催眠術』はそのへんにしておけ。こんなところで
寝落ちしたら、ネギの
肥やしになっちまうだろ」
「うまい
表現だね」
「ほめてねえだろ?」
「うん」
アクタはその
容貌に
反して
柔らかい
意思表示をしてみせたが、ウツロに
軽くあしらわれた。
ウツロの
思索癖はいまにはじまったことではないとはいえ、アクタにとっては
読経をひたすら聞かされているようなものである。
悪気など
毛頭ないことは
重々承知だったが、アクタにとってはこれが大きな心配の
種なのだった。
「お前がこの世でいちばん好きな単語を
発表してやろうか? 『人間』だ、そうだろ?」
低く
野太い、
芯のとおったアクタの言葉に、ウツロは
驚いた様子だ。
一八五センチという
長身のアクタに対し、十センチほど背の低い彼は、かがんだ
体勢からゆっくりと顔を上げ、
目線を合わせた。
「アクタ……」
「なんだ?」
「……そこまで……俺のことを、わかってくれていたなんて……」
「やめろ、
勘違いするだろ」
「……
違うの?」
「
違わねえけど、
違う」
「何それ?
矛盾してるよ……
誰の
思想かな?」
「お前は……」
アクタの
態度にウツロは
困惑気味だ。
ウツロの
心境をアクタはじゅうぶんすぎるほど
把握している。
だから
余計なことを考えすぎる
危険性をかねてから
示唆してきた。
だが
当のウツロは、その
配慮に気づきつつ、それでも
思索をやめられないのだ。
それほどのトラウマを彼はかかえているのである。
ウツロは
視線を落としてまた何か考えこんでいる。
「……人間とは何だろう、アクタ……俺はずっと、それを考えているんだ……何をもって人間といえるのか……何が人間を人間たらしめるのか……」
「
難しすぎるんだよ、お前の『
人間論』は」
「……そうかな……もし……俺がこの
問いかけに解答を
見出したとき……俺は、人間になれるような気がするんだ……」
こんな
不条理があるだろうか?
彼は自分が人間
ですらないと思いこんでいるのだ。
アクタも同じ
境遇なので
明かしてこそいないが、「俺の存在は
間違っている」「俺は
間違って生まれてきたんだ」とさえ考えてしまうのだ。
理不尽にもほどがある。
いったい彼に何の
罪があるのか?
あるいは幸せに生きることだって、できたはずなのに。
自己否定がウツロを
食い
殺す。
精神に
巣食う
悪魔が彼を
破滅へ
導こうとする。
それがどれほどの
苦痛であろうか?
ウツロの顔が
苦悶に
歪んでくる。
アクタは見ていられなかった。
どうしてこんなに
苦しまなければならないのか?
お前は何も
悪くなんかないのに……
彼は「しかたねえな」と、ひとつの決意を
固めた。
ウツロは顔を
伏せて落ちこんでいる。
フッ――と
気配を感じて――
むぎゅー
顔を上げた彼の
頬を、アクタは
真横に
引っ
張った。
ゴムのように
伸びたその
顔面を、アクタの
鉄面皮がのぞいている。
「
にゃんだよ、アクタ」
アクタがひょいと手を
放すと、ウツロのほっぺたは
復元力にしたがって、ポヨンと
元に
戻る。
「俺で遊ばないでよ」
いぶかるウツロにアクタは
相変わらずの
能面顔だ。
彼は
一呼吸してゆっくりと、
間を
置きながら語り出す。
「なあウツロ、俺らは生きてるだろ? だから人間なんだ。それでいいじゃねえか。あんま
難しいこと考えんな」
ひとつ
間違えれば
逆にウツロを
傷つけてしまうかもしれない。
しかし
危険な
状況でもある。
アクタは考えに考え、
最大級の
賭けに
及んだ。
ウツロは
口もとを
一文字に
結んで
難しい顔をしている。
アクタはハラハラするあまり
冷や
汗が出そうになった。
「生きてるだけでいい、か。うーむ……」
「
納得できねえか?」
「……人間は、
難しい……」
ウツロは
例によって考えこんではいるものの、どこか頭の中が晴れていくのを感じた。
それをくみ取ったアクタは、やっと
胸を
撫で
下ろすことができた。
「いらんことを考えすぎるのはお前の
悪い
癖だぞ。俺みたく頭をパーにしろ」
「それ、言っててつらくないか?」
「どうせ俺は、パッパラパー
助くんだよ」
「なんだ、それ」
ウツロの顔が
緩んだのを確認して、アクタはようやく
笑顔を見せた。
この
場はなんとかやりすごすことができたが、
一事が
万事である。
今後も気が
抜けない――だが、俺がやらずに
誰がこいつを
支えるのか?
そう自分に言いきかせた。
兄貴分も
楽じゃねぇぜ。
アクタは体の力が
抜けるのを、この
憎めない
弟分に
悟られないよう、笑いつづけた――
(『第2話 その男、
似嵐鏡月』へ続く)
第2話 その男、似嵐鏡月 東京都と神奈川県の辺境に位置する山脈地帯。
とびきり標高のある一角をすっぽりと削り取って、この隠れ里はつくられていた。
ネギ畑はその中の小さな日本家屋に併設されたもので、彼らの食料はほぼ、ここの農作物でまかなわれている。
家のほうは屋敷というより、大きめの庵といった感じだ。
長方形の母屋は前座敷と奥座敷に分かれていて、そこから直角に折れる渡り廊下の向こうに『はなれ』、そしてさらに直角に頑丈な塀が建てられている。
上から見ると『コの字』になっているわけだ。
その中には簡素ではあるが庭園――植えこみの松や花々、石燈籠、錦鯉の泳ぐ池などが設置されている。
ここ空からの目視では死角になるよう設計されていて、地中にはソナーなどの音波、GPSなどの電磁波を誤認識させるシステムが組みこまれていた。
端からはただの山にしか見えないのである。
しだいに傾いてくる太陽の角度から、二人はそろそろ夕刻であることを意識した。
「ウツロ、日が暮れるぞ」
「うん」
「腹あ、減ったな」
「うん、俺もだ。でも、もう少しで終わるよ」
アクタは手を止めて、天を仰ぎながら額をぬぐっているが、ウツロは会話をしながらも、せっせとネギを引っこ抜いている。
里へと近づいてくる気配を、彼らは少し前から感じ取っていた。
そしてそれが、自分たちの育ての親・似嵐鏡月であることも。
似嵐鏡月は傭兵上がりの殺し屋で、暗殺の請負で生計を立てている。
ウツロとアクタをこれまで養ってきたのは、自分の暗殺稼業の後継者に据えるためであり、実際に二人は、その方法を徹底的に指導されてきた。
さまざまな武器・暗器の使用方法から古今東西の体術、果ては諜報の極意から実戦における戦略の立て方まで。
人間を殺傷するために必要な技術の多くを教育されたのである。
「ウツロ、お師匠様が来る、急ぐぞ」
「いま、『蛭の背中』のあたりだ。この歩みなら、あと三十分はかかる」
「夕餉の支度をしなきゃならんだろ?」
「今日は『さしいれ』があるみたいだよ。ひとりぶんの携行食にしては強すぎる」
「お前、においまでわかるのか?」
「こっちはいま、風下だからね」
「いや、そういうことじゃなくてだな……」
『蛭の背中』とは、隠れ里からだいぶ山を下った渓谷沿いの難所を指し、盛りあがった硬い土壌がすっかり湿って苔むしていることから、彼らだけに通じる暗号として用いられている言葉である。
そんな場所の状況をたちどころに言い当てる獣のような嗅覚に、アクタは驚いて呆気に取られている。
その態度にウツロ当人は不思議そうな眼差しを送った。
自分の気づかない間に成長を続けているこの憎めない弟分の存在に、アクタはポカンと開き気味だった口をすっと締め、控えめに破顔した。
「どうかした?」
「なんでもねえ。ほれ、仕事仕事」
「……変なの」
ウツロとアクタがそれぞれ最後の一束をギュッと結び、大きく伸びをして一息ついたところへ、その男は現れた。
杉の大木が作る密な並木の、人ひとりがやっとくぐれる程度の間隙。
木漏れ日も弱まってきて、すっかりぼやけているその林の奥から、獣道を通り抜けて姿を見せる、歪んだ蜃気楼。
それは黄昏の闇を背負ってなお暗い、黒炎のような。
彼こそウツロとアクタの育ての親である殺し屋・似嵐鏡月その人である。
群青色のストールから、ほぼ白髪だが、中年としては端正な顔がのぞいている。
藍色の羽織と着流しの下には、筋肉細胞を爆縮したような、屈強極まる体躯を隠してある。
ただでさえ豪奢に見えるが、これでも着痩せしているのだ。
腰にはマルエージング鋼製の愛刀『黒彼岸』を差している。
斬るというよりは『砕く』ことに主眼を置く大業物だ。
軍靴の仕様に改造した黒色のロングブーツで大地を重く踏みしめながら、彼は二人の前まで歩み寄ってきた。
その右手には、風呂敷包みを引っ提げている。
ウツロの予見どおり、その中には三人分の夕食が納められていた。
「お帰りなさいませ、お師匠様」
ウツロとアクタはすぐさま片膝をついて、その男の前にかしずいた。
「せいが出るじゃないか、二人とも」
ウネの横いっぱいに結束されたネギの列を一瞥して、水晶の帯留めを弄りながら、似嵐鏡月は満足げな表情を浮かべた。
同時に彼はその状況から、小脇に抱えた食事の存在を悟られていたことを察知した。
「ウツロ、わしのさしいれを嗅ぎ当てたな?」
「ご無礼をお許しください、お師匠様」
ウツロはハッとした。
彼は心のどこかに、自分の成長をほめてもらいたいという願望があった。
だからアクタにも、晩の支度はしないよう促したのだ。
アクタもそれに感づいていたから、あえて反対はしなかった。
しかしウツロは、この親代わりの殺し屋を前にして、突如自責の念に駆られた。
こざかしい承認欲求をさらし、自分をはぐくんでくれた尊い存在を、不快な気分にさせてしまったのではないかと。
お師匠様がそんなことをするはずがないと、彼は重々理解している。
しかしどこかで、自分を否定するのではないかという恐怖が芽生え、それは決壊寸前のダムの水のように、緩徐として、しかし十二分の重量感を持ってあふれ出てきた。
師に無礼を働いたと考えているのか、それとも自分の保身のことしか考えていないのか、それすらもわからなくなってきた。
頭が混乱する。
思考の堂々めぐり。
ウツロはただひたすら平伏して、似嵐鏡月に黙して許しを請うた。
しかしそこは、いやしくも育ての親。
似嵐鏡月本人は、ウツロの複雑な胸中をすぐに察し、口もとを緩めてみせた。
「よいよい、わしはほめているのだ。お前のその鋭敏な嗅覚――いや、嗅覚だけではない、五感のすべてが突出してすぐれている。しかも日に日に、その鋭さを増しているな? それがどれほど、わしにとって有益であるか。ウツロ、お前の存在は本当に心強いぞ」
ウツロはグッと拳を握った。
俺はなんて最低なんだ――心の底からそう思った。
大恩あるお師匠様を煩わせた挙句、あらぬ疑いまで持ってしまった。
俺はつくづく最低だ。
恥ずかしい、この世に存在しているという事実が。
可能であるならば、いますぐ消えてしまいたい。
俺はこの世に、存在してはならないんだ。
彼はいよいよ思考の泥沼へ――その鈍く重い深みへと、はまりこんでいく。
落ちる先は自己否定という名の深淵。
たどり着くことのない奈落へと――
「頭を上げてくれ、ウツロ。アクタもだ」
ウツロは反射的に顔を上げた。
似嵐鏡月はひざまずいて、ウツロに目線を合わせている。
彼はいかにもやさしい顔で、ほほえんでいた。
「あ……」
ウツロの口から嗚咽にも似た声が漏れる。
似嵐鏡月はそっと、ウツロの頭に手を当てた。
「ウツロ、お前は心根のよい子だ。それゆえ、そのように自分を責めてしまうのだね。恥じることなど何もないのだ。それがお前の個性なのだから」
師を見つめるその眼差しが濁る。
「う……お師匠様……」
アクタも気丈を装ってはいるが、そのまなじりはにじんでいる。
「ウツロ、アクタ。何があろうと、お前たちはわしにとってかけがえのない存在だ。たとえ天が裂け、地が割れることがあっても、お前たちを否定することなどあるはずがない。それだけはどうか、わかってほしいのだ」
似嵐鏡月は身を寄せて、ウツロとアクタを両腕で抱えこんだ。
二人はしばし、伝わってくるそのぬくもりを享受した。
「よし、もう大丈夫だな。ウツロ、お前は強い子だ。アクタ、どうかこれからもウツロのよき支柱となってくれ。お前がいてこそなのだ、アクタ。車輪と同じく、どちらが欠けても成り立たない。お前たちは二人でひとつだ」
「……もったいない、お言葉です。お師匠様……」
アクタは隠しているつもりだが、体が小刻みに震えている。
兄貴分として気を強く持とうとつねづねふるまってはいるが、彼もウツロと同じ境遇には違いない。
思いのたけをぶつけたくなるときとてあるだろう。
それを察してくれる師の存在は、何ものにも代えがたい。
ウツロもアクタも、心は決意に変わっていた。
アクタはウツロを、ウツロはアクタを、絶対に守り抜く。
そしてお師匠様に――この偉大なる救い主に、絶対の忠誠を誓うと。
「うむ、よきかな。さあ、立ってくれ二人とも。今夜はうまい飯を手に入れてきたのだ。冷めないうちにいただこう」
「はい、お師匠様」
「ウツロのやつ、さっきから腹ぁ減ったって、グーグーいわしてたんですよ、お師匠様」
「なっ、それはお前だろ、アクタ!」
「お師匠様、早くご馳走持ってこないかなーって言ってたくせに」
「アクタっ、虚偽の弁論をするな! お師匠様っ、反駁の機会を俺に!」
「ははは、本当に仲がよいなあ、お前たちは」
「よくないです!」
ふくれ面してのにぎやかなやり取りに、似嵐鏡月は破顔が止まらないのであった――
(『第3話 ウツロ、その決意』へ続く)
第3話 ウツロ、その決意「二人とも、汗をかいたろう。ネギを小屋へしまったら、筧の水で体を癒やしてくるといい。わしは先に、中で夕餉の準備をしておこう」
筧とは山間部などで生活用水を得るため、水源から水を引きこむ人工的なしかけだ。
隠れ里での暮らしに先立ち、もっと山奥の源流のあたりから、とびきり大きな竹を半分にさばいたものを何本も連結して、ここまで水を誘導している。
水は似嵐鏡月が里を作るとき、そのへんに転がっていた巨石を、頑丈な金属の『のみ』で砕いて、受け皿としたものに流れてくる仕組みだ。
飛び石をじゃりじゃりと鳴らしながら、彼は屋敷の中へと入っていった。
二人はそれをちゃんと確認してから、屋敷の裏手にある小屋へ、せっせとネギを運び始めた。
塩蔵と味噌蔵の手前にある簡素なものだが、通気性は抜群だった。
収穫済みのネギは湿気を嫌う。
いたみやすくなるし、虫がつくからだ。
小屋の奥から敷きつめるように、結束したネギを立てていく。
うまく立つように、下の部分をトントンと床に叩くのがコツだ。
束はなるべく密着させて。
そうすれば物理的にたくさんの収納が可能となるし、ネギが倒れないのである。
すべてのネギをしまって一呼吸し、二人は畑と小屋の間にある筧へと向かった。
「ひゃーっ、さっぱりするぜ」
アクタは作務衣の上半分を脱いで、手桶にたっぷりぶちこんだ水を頭からかぶりながら奇声をあげた。
ウツロも筧の前にしゃがんで、両手で水をすくいながら顔を洗っている。
「ここでの暮らしはやめられんわな。なあ、ウツロ――」
筧にたたえられた水に映る自分の顔を見つめながら、ウツロはまた何か物思いに耽っている。
まさかまたと、アクタは濡れた半身を拭いながら、ウツロの様子をいぶかった。
「また何か考えてるだろ? お師匠様がさっき――」
「アクタ」
心配したアクタの声を、ウツロは決然とした勢いではねのけた。
彼はやにわに立ち上がり、顔をしとどに濡らす水滴をも意に介さず、凛とした眼差しでアクタを見つめた。
その表情には熱く燃える決意が宿されている。
「アクタ、俺は――お師匠様のためなら、たとえ魔道に堕ちたっていい」
「ウツロ……」
「お師匠様は俺のすべてだ。俺のことを――俺という存在を、問答無用で肯定してくれる。それが俺にはうれしい。世界から全否定された俺を、何の義務もないはずなのに認めてくれる。俺は――お師匠様のためなら、こんな命でよければ、投げ打ったっていい」
さっきまで泣きべそをかいていた少年はこのように力強く、その意志を告白した。
それをくみ取れないほど、アクタは間抜けではない。
「バーカ」
「アクタ?」
「俺を忘れんなよ?」
ウツロへの挑発はその覚悟を見極めてのこと。
ならばと、アクタも語り出す。
「お師匠様が言ってただろ? 俺たちは二人でひとつ。お前がそうするってんなら、俺はつきあうぜ? 魔道だろうが、地獄の果てだろうがな」
「アクタ……」
あのウツロが――自分から切り離すことなどできるはずがないこの弟分が、これほどの精神的成長を見せてくれたのだ。
アクタもすでに、迷いはなかった。
「俺たちは境遇が一緒だ。俺たちがいまこうしているのは――ほかでもない、お師匠様あってのことだ。つまり、お前の考えてることはイコール、俺の考えてることってわけだ」
「アクタ、すまない」
「謝んな、お前の悪い癖だぞ。ウツロ、お前はひとりじゃねえ。お前は、俺が絶対に守る」
「アク、う……」
「バカな弟だぜ、お前は」
「お前こそっ、頭の悪い兄さんだよ!」
「悪かったな、パッパラパー助くんで。ほーら、ウツロくん! パッパラパー助お兄ちゃんだよ!」
「よせ、バカ! バカが移るだろ!」
「よーし、ウツロくんにバカを移しちゃうぞー。それーっ!」
「くるなバカっ! パッパラパーのお兄ちゃんめっ!」
組み合って仲良くケンカをしながら、二人は和気あいあいと、家の中へ入っていった。
*
彼らが敷居を跨いで土間へ入ると、上がりの座敷では似嵐鏡月が、囲炉裏の火を起こして待っていた。
「楽しそうじゃないか」
彼は見透かすように顔を綻ばせている。
ウツロとアクタは少し気恥ずかしくなって、視線を落とし気味に中へ入った。
「早くおいで」
「はい、お師匠様」
二人は汚れた長靴と足袋を脱ぎ、手拭で足をきれいにしてからそそくさと座敷へ上がり、囲炉裏をはさんで似嵐鏡月と差し向かいに座った。
手前には二段の重箱。
黒地に金の凝った細工が施してある。
弁当とはセットとおぼしき箸は、光沢のある箸置きの上にちょこんと乗っかっている。
師匠の心づくしを、二人はつくづくうれしく思った。
似嵐鏡月は鉄器のやかんを五徳に乗せて湯を沸かしている。
「熱い茶が飲みたくてな」
ほどよく赤く光ってきている炭を見て、ウツロとアクタは不思議な感覚に囚われた。
茶を飲むぶんの湯を沸かすにしては、量が多いのではないか?
「どうした? 二人とも」
「え?」
「いえ、何でもないです」
ウツロもアクタも鍛錬によって感覚が鋭くなっているから、単なる思い過ごしだろうと考えた。
「さあ、早いところ、いただこうじゃないか」
似嵐鏡月は二人を気づかって、自分から先に重箱に手をつけた。
「いただきます」
蓋を開けると、まだ温かい中身の熱気に乗って、いかにもうまそうな料理のにおいが鼻まで届いた。
嗅覚だけでウツロとアクタは幸福になった。
「すごい」
「ひえー、うまそ」
「アクタ、はしたないぞ。お師匠様の前で」
「うるせえ、お前だって、ウツロ。いまにもよだれ垂らしそうな顔だろ」
「なにっ」
「これこれ二人とも、ケンカなら飯のあとにしなさい。ほら、遠慮しないでおあがり」
「は、お師匠様」
「よしよし、わしもいただくとするかな」
ちらしは五目。
錦糸卵、レンコン、ニンジン、シイタケ、絹さや、いりゴマ、カンピョウ、トビコにイクラ。
五目といいつつ、五目以上入っているのがうれしいところ。
おかずの箱には、季節の野菜に、肉に、魚に、煮しめに、漬物まで。
「銀座にある老舗のちらし寿司だ。特上だぞ」
似嵐鏡月は淹れたばかりの湯気を出す番茶を、二人にふるまった。
「汁がないのが惜しいところだな」
三人は笑いあいながら、しばし食事と会話を楽しんだ。
「銀座、ってどんなところなんでしょう?」
「そうだな、人間がたくさんいるところだな。それにウツロの好きな本を売っている店もたくさんあるぞ」
「うお、本の店ですか。行ってみたいです、銀座。でも、人間がたくさんは、なんだかこわいな」
「ウツロ、なにビビってんだ? 楽しそうじゃねえか」
「ビビッてなんかない。アクタこそ方向音痴だから、銀座で迷うんじゃないのか?」
「うるへー、山でも迷ったことなんてねえのに、街なんて簡単だろ」
「人間を侮るな、アクタ。やつらはキツネよりも狡猾な知恵で、クマよりも強い機械を作って、そうしてできた街は、夜になったってホタルよりも明るいんだぞ」
「知ったふうなこと抜かすな、ウツロ。街なんて行ったこともねえだろ」
「うー」
「ははは、街か。いつかお前たちを、連れていってやりたいな」
「お師匠様のお仕事を俺らが手伝えるようになれば、すぐに行けますよ」
「うん、そうだね。早く師匠のお仕事の手伝いをしたいです」
炭の赤黒い亀裂がパチンと跳ねた。
似嵐狂月はぴたりと箸を止め、硬直している。
その眼差しは遠く、何かを考えこんでいるようだ。
ウツロとアクタはキョトンとして、彼を見つめた。
「アクタ、ウツロ。聴いてほしいことがある」
似嵐鏡月はにわかに口を開いて、何やら話を切り出す。
「……いったい何でしょうか、お師匠様?」
ウツロを気づかったアクタが率先してたずねた。
それを受けて似嵐鏡月は、酷く重そうな口調で語り出した――
(『第4話 師の告白、そして――』へ続く)
第4話 師の告白、そして――「実はな……わしは近々、いまの稼業から身を引こうと思っている」
何を言っているんだ?
ウツロとアクタの口は、麻酔をかけられたように弛緩した。
世界が崩壊してなお、何が起こったのか理解できないでいるような間抜け面だ。
「……なん、と」
アクタがやっと絞り出したセリフがそれだった。
似嵐鏡月は間髪入れずに続けた。
「わしはいままで、殺人の請負を生業としてきたわけだが……このへんでもう、引退しようと思うのだ」
二人の世界が崩れ出す。
口から魂が抜け出てもおかしくないような顔だ。
誰でも知っているに誰にも答えられない命題。
そんなものを提示されたような無情感が彼らを襲う。
「なぜ、ですか……ご教示ください、お師匠様……」
意識が遠のいていくような感覚の中、アクタは亡霊のような口調でたずねた。
「もう疲れたのだ。身を立てるためとはいえ、人様の命をみだりに奪うことにな。わしがひとり殺めるだけで、その者に関わる者、関わった者の人生のすべてを破壊することになる。決して終わることのない憎しみの連鎖が生まれ、それはわしだけではなく、ひいてはアクタ、ウツロ、お前たちにまで及ぶことになってしまう。それが、わしにはそれが耐えきれんのだ」
似嵐鏡月は間を置きながら話を続ける。
「アクタ、ウツロ。身寄りのないお前たちを引き取り、育ての親となったのは確かにこのわしだ。わしはお前たちに跡目を継がすつもりで、持てる技や知識のすべてを叩きこんできた。しかし、お前たちがすくすくと成長するにつれ、ずっと思ってきたことがある。罪悪感というべきものか。なぜわしは、お前たちに普通の生活を与えてやれなかったのかと。わしは不器用な殺し屋だ。できることといえば、人を殺すための術を伝授することくらいだ。もしわしが平凡でも、普通の父であれば、あるいはお前たちを学校へ行かせ、充実した青春を送らせ、世にいう温かい家庭なるものを、ともに分かち合えたかもしれんのだ。それをわしは……わしはただ、お前たちの人生を奪ってしまったのではないかと……」
似嵐鏡月はときおり声をつまらせながら、このように語った。
「……お師匠様」
アクタはどう返せばいいのか、わからずにいた。
「だからわしは考えた。いまからでも遅くないと。廃業し、けじめをつけた上で、お前たちを自由の身にしてやりたい。こんな隠れ里から出して、もっと広い世界を見せてやりたい。当たり前の、普通の日常をお前たちに取り戻して――」
「お師匠様あっ!」
ウツロの勢いあまった大声に制され、似嵐鏡月とアクタはびっくりして口をつぐんだ。
「俺たちにとって……親があるとすればお師匠様、あなたこそがそうなのです……」
膝の上で拳を握り、全身を震わせながら、ふりしぼった言葉がそれだった。
「俺は……肉親によって捨てられました。この世に必要ない、いらない存在なのです」
「ウツロ……」
似嵐鏡月は悲痛な面持ちになったが、ウツロの話を最後まで聞こうとした。
「ですが、お師匠様。あなた様は……こんな俺を、不要の存在の俺を……拾い上げてくれた……手を差しのべてくださった、衣食住を与えてくださった、学問を教えてくださった、生きていくためのあらゆる術を、伝授してくださった。そんなあなた様が……親でなくて、なんでしょう? 血のつながりなんか関係ない。お師匠様、あなた様こそ、いや、あなた様が俺の親なのです」
「……ウツロ、お前を不幸したのは、このわしであるのに……」
「不幸だなんてとんでもないことでございます! 俺は最高に幸福です! お師匠様が、そしてアクタが一緒にいてくれる。俺にはこの里の暮らしが幸せでならないのです。これ以上なにを望みましょう? ですからお師匠様、そのような弱気にならないでください!」
「なんという、ウツロ……だがお前たちを、わしと同じ闇の中へは、魔道へなど落としたくはないのだ……」
「魔道、喜んで落ちます。俺は世界が憎い。俺を捨てた世界が、俺を全否定したこの世界とやらが。お師匠様のためなら、こんな世界なんか粉々に破壊してやる。愛される者を愛する者の目の前で八つ裂きにしてやる。世界中の人間が俺を憎めばいい。それが俺の、世界への復讐なのです。その本懐のためなら――魔道、喜んで落ちます」
彼の矜持は確かに兄貴分へと届いた。
「お師匠様、俺もウツロとまったく同じ気持ちです」
「アクタ……」
「俺はウツロを本当の弟のように思って、いや、ウツロは俺の弟です。俺は兄として、ウツロを傷つける存在を絶対に許さない。ウツロにこんな仕打ちをした世界が、消えてなくなるまで戦います。世界の頂点でへらへら笑っているやつを、俺たちの存在に気づこうとさえしないような奴の面をぐしゃぐしゃにぶん殴って、内臓を引きずり出し、四肢を切り落として、ウツロの足もとに這いつくばらせてやる。そして、許しを請うその舌を、引きちぎってやるんだ」
「……アクタ、なんでそこまで」
アクタの同調に、口火を切ったウツロですら驚いた。
「何度も言わすな。俺たちは二人でひとつ。お前の敵は俺の敵だ。お師匠様、平にお願いいたします。稼業の引退など、どうかご撤回ください。ウツロも俺も、ご覧のとおり覚悟は決まっています」
似嵐鏡月は両眼を深く閉じて考えこんだが、次の瞬間カッと見開き、話し出した。
「いや、撤回はせん。これだけは譲れんのだ。アクタ、ウツロ、どうかわかってくれ」
「なぜでございますか、お師匠様!」
「平に、平にその理由をお聞かせください!」
ウツロとアクタはどうしても納得がいかない。
稼業から身を引くという決意を、なぜ師は頑なに固持するのか――
それがいっこうにわからなかった。
「ならば話そう……話さなければ、お前たちの気持ちを踏みにじることになる……」
似嵐鏡月はさらに重く、その口を開いた――
(『第5話 絶叫』へ続く)
第5話 絶叫「よいか、アクタ、ウツロ。わしはおびただしい数の人間を殺めてきた。わしによって殺められた者たちには、当たり前だが家族がいる。恋人が、友人が、どんなに小さくとも関わりを持つ者がいる。その者たちの悲痛な叫びを聞くことに、わしは耐えられなくなってきたのだ。愛する者を奪われた人間たちの、嗚咽を聞くことに」
「おそれながらお師匠様、それは先ほどもお聞きしました。しかしそれが何でしょう? 生きるために他を犠牲にするのは、世の常でございます」
ウツロはこのように申し立てをした。
アクタも言葉には出さずとも同意している。
「もう十年ほど昔のことになるが――わしはある政治家の暗殺を依頼された。わしはすぐにその男の身辺を調査した。名を万城目優作。当時、政権与党の中堅政治家だったが、幹事長に目をかけられ、強い発言力を持っていた。彼の妻は最初の子――日和という名の少女を生んだあと、不慮の事故で鬼籍に入っていた。万城目は男手ひとつで娘を育てる『戦うパパ』として、世間での評判も良好だった。しかしこの男、支持基盤である大手ゼネコンと結託し、その企業の受注を有利にする見返りに、多額の賄賂を受け取っていたのだ。依頼主は素性を明かさなかったが、おそらくそやつに遺恨を持つ何者かだろう」
「なんと、そのような悪行を……しかしお師匠様、そんな男など始末されて当然ではないでしょうか?」
「最後まで聞いてくれ、ウツロ。わしは身辺調査の過程で、万城目優作が国際的なテロ組織から何度も脅迫されていることを知り、これを利用することにした。万城目が主催するパーティーの会場を、そのテロ組織の犯行に見せかけて襲う計画を立てたのだ。ビルのほとんどを爆破するという大胆な作戦だったが、正体を知られないためにはいちばん合理的だった」
「その話が、いったいどうつながるのでしょう?」
話の筋が見えない。
アクタはぶしつけを承知で、おそるおそる質問をした。
「わしは万城目の娘――日和のことが気にかかっていた。ちょうどお前たちと同じ年ごろだったからだ。わしはなんとか、彼女だけでも逃がしたいと考えていた。父親を殺せば万城目日和は二親を失ってしまうわけだが、それでも命だけは助けたいと思った。幸いにもイベントの当日、父方の実家に預けられるという情報を得たわしは、作戦を決行した。しかし――」
ウツロとアクタはごくりと生唾をのんだ。
「万城目日和はその会場にいたのだ。父が忘れたスピーチの原稿を届けるという理由で。こっそり行ってパパを驚かそうという、子どもの発想で」
まさかと、二人の顔に冷や汗が浮き出る。
「わしはこの黒彼岸で万城目優作の頭を砕いた。作戦の完遂を見届けて、その場をあとにしようとした矢先……あの声が、少女の絶叫が……」
人殺しいっ!
お父さんをっ、返してえええっ!
「わしは名状しがたい恐怖に駆られた。いままでわしのしてきたことは、すべて間違いだったのではないかと。そしてわしは、混乱したわしは……手に握っていた黒彼岸を、その少女に向かって、振り下ろした――」
ウツロとアクタは絶句した。
「そのとき以来、わしの頭の中には、あの少女のことがつきまとって、離れなくなってしまった。あの声が、わしに憎悪を惜しみなく向ける、あの顔が……」
まるで覚醒しながら悪夢でも見ているかのような心境を、似嵐鏡月はまざまざと吐露した。
ウツロもアクタも身じろぎすらできずにいる。
「あの少女がお前たちと重なる。お前たちが成長するごとに、わしの頭の中のあの少女も大きくなってくるのだ。そしていつか、わしに恨みを晴らしに来るのではないかという、幻影が……」
このように彼は、精神の中に巣食う呪詛について告白した。
普段の威厳ある師からは想像もできない姿に、二人は息をのむのも精いっぱいだった。
「だからもう、わしは耐えられなくなった……この稼業を続けることに……アクタよ、ウツロよ、どうかわかってくれんだろうか? このとおりだ――!」
似嵐鏡月はやにわに深々頭を下げ、板の間に両手をついた。
「おやめください、お師匠様!」
「頭をお上げください、お師匠様!」
ウツロとアクタは慌てふためいて、師を土下座へ追いこんでしまったことを激しく後悔した。
「アクタ、ウツロ……愚かなわしを許してくれ……」
*
その後、三人は会話も乏しく食事を済ませた。
ウツロとアクタは師のすすめで風呂に入ることになった。
鋳物の風呂釜は似嵐鏡月が沸かして、すっかり湯気の立ちこめる熱湯になっていた。
二人は順番に湯につかったが、先ほどのことが頭から離れない。
薪は外で似嵐鏡月がくべている。
不器用ながらも親を演じようとする態度に、彼らは人知れず落涙した。
その涙は文字どおり、結露の中へと消えていったのである。
風呂から上がったあと、ウツロとアクタは薪をくべると申し出たが、似嵐鏡月に「残り湯で入るから、お前たちは休みなさい」と、逆に気づかわれた。
彼らは奥座敷の二十帖ある寝室に入り、畳の上に布団を敷いて横になった。
言葉は、ない。
アクタは頭の下に両腕を組んで、天井をボーっと見つめている。
いっぽうウツロは、書棚から一冊の本をおもむろに取り出した――
(『第6話 深淵をのぞく者たち』へ続く)
第6話 深淵をのぞく者たち 彼は迷ったとき、いつもこの一冊を選択する。
ボロボロになったハードカバーの哲学書。
トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』。
表紙には王冠をかぶった金髪の少女が描かれている。
右手には闘争の象徴である剣を、左手には統治の象徴である錫杖をそれぞれ携えている。
人間は自然な状態では闘争――すなわち悪へと向かうが、法という概念を導入することにより、善へと向けることができる。
そんなホッブズの思想を端的に表していた。
少女が身に纏うドレスは、喘ぎ苦しむ人間たちの集合体として表現されている。
概念による統治にはおびただしい犠牲が伴うという、ホッブズが危惧した状態の描写だった。
どこかの出版社が、若者に哲学を親しんでもらうというコンセプトで企画し、『リヴァイアサン』の初版に使われた挿絵を、人気のイラストレーターにアレンジさせたものだ。
原文の翻訳には新進気鋭の哲学者を採用したものの、予算の都合でわずかな部数しか発行されず、売れ行き自体も芳しくはなかった。
しかしウツロにとっては特別な存在だった。
本といえばはじめにくる一冊なのである。
当たり前であれば小学校高学年くらいの年ごろのとき、本が読みたいという彼に請われ、似嵐鏡月が買い与えたものだからだ。
お師匠様が本を買ってきてくれた。
物静かなウツロが柄にもなく興奮して喜んだ。
彼は夢中になって読み耽った。
言葉は字引を借りて調べられたが、そもそもこれは哲学書である。
思想を読み解くのは幼いウツロには難しかった。
しかし読まずにはいられなかった。
世界のすべてがこの本の中につまっている。
近代から現代に至る社会システムの基礎は、このホッブズという男の頭の中で完成していた。
死と双子の、孤独な思索家の脳内で――
ウツロは前半の『人間論』を愛してやまない。
ホッブズは人間を信じなかった。
人間による統治では平和は訪れない。
だから概念を定義し、導入した。
人間ならざる概念に統治させれば、世界は平和になると考えた。
貨幣を、法律を、社会を、国家を――あるいは世界そのものを。
まるで仏を作って魂を入れるように。
魂というより亡霊。
ホッブズは死してなお、亡霊となって世界を支配しているのではないか?
世界――
ページをめくるごとに世界が降り注いでくる。
同じ箇所でも読むたびに違う景色に見える。
遊園地というのはこういう感覚なのだろうか?
そう、ウツロは読書に『遊園地』を見出していた。
隠れ里から一歩も外へ出たことのない孤独な少年の心を、読書という『遊園地』が慰めてくれたのだ。
外の世界とはどのようなものか?
このあわれな創造主の手になる世界とは。
もし叶うのなら、いつか――
ところでこの本は、似嵐鏡月が古書店で買い求めたものだった。
本文の前後には白紙のページがそれぞれあって、そこには鉛筆で殴り書きがしてあった。
前に三行、うしろにも三行の、都合六行。
しかしその六行が、たったの六行が、ウツロの心を鷲掴みにして放さなかった。
人間とは何であるか?
何をもって人間というのか?
何が人間を人間たらしめるのか?
これが前の三行。
備忘の筆者は人間という存在について問いかけているようだ。
これがすなわち、ウツロがつね日ごろから問いかけている命題である。
俺は解答を得た
あとは実行あるのみ
俺は、人間になるのだ
こちらが後ろの三行である。
備忘者は何かを発見したようだ。
ウツロにはこれが気になって仕方がなかった。
この筆者はいったい何者だ?
いったい何を悟ったというのだ?
そして何を起こそうというのか?
人間という存在についての問い。
少なくともこの筆者は何かの解答を得たということである。
何なのだ?
いったい人間とは、何だというのだ?
この筆者は何者なのか?
存命なのか故人なのか。
生きているなら、会いたい。
いったい人間とは何であると結論づけたのか、問いただしたい。
このおそるべき問いかけは、ウツロの現実とガッチリと噛み合っていた。
肉親から捨てられたという出自。
その事実から発生する強烈なトラウマ。
俺は親から捨てられた。
こんなことが人間にできるはずがない。
そうだ、俺は人間じゃないんだ。
何かおぞましい、そう、毒虫のような存在なんだ。
俺はこの世に必要ない。
いらない存在なんだ。
しかし醜い毒虫だって、美しい蝶になりたい。
俺は、人間になりたい。
この問いかけに解答を見出したとき、あるいは俺は……人間になれるのではないか?
「ウツロ」
いつもの思索に耽っているウツロに、アクタは声をかけてみた。
この弟分が黙っているときは、つい心配になる。
「眠れないのか?」
「アクタこそ」
ウツロは本を開きながらも、意識はアクタのほうへ向けた。
「これから、どうなるんだろうな」
アクタがウツロに弱気をさらすのは珍しい。
それほどの衝撃を受けたということだ。
「自由、か……俺は枷と鎖のほうが楽だけどな」
「なにそれ? 何かの比喩かな?」
「お前の真似してみたんだよ」
「……変なの」
あえてとぼけたが、ウツロとてアクタの心中は察してあまりある。
つながれていようとも、俺はこの里の暮らしがいい。
願わくば、ずっと――
「自由、って何だろう……何をもって自由というのか――」
ぺしん
「いっ」
アクタは体を翻してウツロの頭を打った。
「なんだよ、アクタ」
「いらんこと考えるなっつーの」
「悪いかよ、俺は人間的生命活動の発露として――」
ぺし、ぺしっ
「いたっ、アクタ!」
「バーカ」
「うー」
今回ばかりはアクタの意趣返しもぎこちない。
彼らのやり取りには、どこか小芝居のようなむなしさがあった。
「ほら、寝るぞ」
「……うん」
お互いに背を向けて横になる。
涙を隠すため。
これからどうなるのだろう?
まるで見当もつかない。
でも確かのは、お師匠様が、アクタが一緒にいてくれる。
それなら何もこわくない。
こわくなんてあるもんか。
そうだ、大丈夫だ。
大丈夫、大丈夫……
ウツロは言い聞かせるように、「大丈夫」と念じた。
羊を数えるようにしているうちに、彼は眠りへと落ちていった。
*
「ウツロ、ウツロっ」
アクタの声?
夢だろうか?
「ウツロ、起きてくれ、早くっ」
「アク、タ?」
「ウツロ、何かがここにくる。それも、すごい速さだ」
「まさか――」
アクタは畳に耳を押しつけ、振動を拾い取っている。
「『忍び足』だ。人間、それも訓練を受けたやつらだな」
「賊か?」
「わからねえ……早く、お師匠様のところへ!」
「うん、急ごう!」
すでにウツロの眠気は吹き飛んでいた。
危機の察知を鋭敏にするための訓練として、似嵐鏡月から仕込まれたものだった。
ウツロとアクタはすぐさま布団から起き上がると、われ先にと部屋の外へ出た――
(『第7話 来襲』へ続く)
第7話 来襲「お師匠様っ!」
似嵐鏡月は縁側にどっしりと座って、黒彼岸を片手に握りしめながら苦い表情をしている。
「いったい何事でしょう?」
「賊だな、明らかに。とすれば答えはひとつ、わしらを殺しにきたのよ」
このような状況での気づかいはむしろ厄災のもとだ。
似嵐鏡月ははっきり「殺しにきた」と二人に伝えた。
「ま、わしに恨みを持つ何者かが放った刺客――といったところだろうな、やれやれ」
「そんな……」
「いつかはこんなことがと思っていた。アクタ、ウツロ、すまぬ」
「こんなときに、お師匠様!」
「話はことが済んでからだ。お前たち、わしについてきなさい」
似嵐鏡月はすぐさま、普段自室にしている『はなれ』に、ウツロとアクタを導いた。
二人とも彼の部屋へ入るのは、日課になっている掃除のときくらいだ。
似嵐鏡月は室内の一番奥にある長持の前まで、彼らを案内した。
重量感のある木製のそれを開けると、黒光りするアタッシェケースが二つ、収められている。
「これは……」
「お師匠様……」
「お前たちがわしの仕事を継ぐときにと思い、ひそかに用意していたのだ」
「なんと……」
「これがアクタ、ウツロのはこれだ」
似嵐鏡月は順番にそのロックを解除した。
「まずは戦闘時に着る衣装だ。二人とも、身につけて見せてくれ」
「はい、お師匠様!」
ウツロとアクタは師の手を借りながら、その『戦闘服』を身にまとった。
強化繊維の下地は薄く軽量だが、急所の集まる正中線上はナノレベルで高密度に作られている。
やはり繊維強化が施された胸当てと肩当ては、心臓や肩甲骨をじゅうぶんに守れる上、防御力はもちろん、機敏に動ける仕様だ。
手袋と足袋を模したものは、フットワークが軽くなるように設計されている。
いずれも衝撃を最大限、分散させられる効果を持っていた。
すなわち、防御のときは受けた衝撃を最小に抑え、攻撃のときは与えた力を最大にできる。
現代科学の粋による、闘争に特化した技術の結晶である。
目的にかなうこと申し分ない。
前腕と下腿のみ素肌が露出している。
あえて弱い部分を作ることで、そこへの攻撃を相手に誘導し、活路を見出すためだ。
人間の心理をうまく利用した戦術と言えよう。
黒く艶のあるそれらを装備した二人は、すっかり戦士の出で立ちとなった。
その姿は実に凛としている。
「うん、よく似合っているぞ。さて、武器だ。まずはアクタ」
「はっ、お師匠様!」
「この手甲を使ってくれ」
「これは……」
見た目はカブトガニのような、V字に細かく装甲が重ねられた合金製の手甲。
「アクタ、お前は体術に優れている。これを両腕に装着し、戦うがよい」
「もったいない、ありがたき幸せにございます!」
「そしてウツロ、お前はこれだ」
「なんと……」
「剣術に長けたお前には、この刀を授けよう。黒彼岸を模して作ったものだが、ちゃんとお前の体躯にあわせてある」
師の愛刀をひとまわり小さくしたような黒刀が手渡される。
「お師匠様、うれしゅうございます! 謹んで承ります!」
「よし、首尾は大丈夫だな。ゆくぞ、アクタ、ウツロ」
「はっ!」
装備を整え、三人は急ぎ足で玄関へと向かった。
「さて、どのへんまで来おったかの」
「『蛭の背中』をやすやすと越えてきやがる……お師匠様っ!」
「ああ、相当な手練れとみえるな。ウツロ、何人かわかるか?」
「すごい数です。二十……いや、全部で三十人……!」
「十倍か、敵もやりおるわ」
「なあに、ひとり十人だ。俺らにかかればひとひねりですって」
「うむ、アクタ。その意気だ」
「お師匠様、どうかこたびの作戦をお授けください!」
「ウツロ、よく申した。よいか、これからわしの言うことをよく聴きなさい」
「はっ! なんなりとお申しつけください!」
「アクタ、ウツロ、わしが時を稼ぐゆえ、戦いながらバラバラに分かれ、逃げるのだ」
「なっ、お師匠様! 逃げるなどと! われらが力を合わせれば、相手が何人だろうと、負けることなどありえません!」
「ウツロの言うとおりです、お師匠様! それに逃げるということは、この里を捨てるということ! 里が敵の手に落ちてしまう可能性だって、じゅうぶんにあります!」
「二人とも、冷静になれ!」
逃げるという指示が腑に落ちず反論した二人に、似嵐鏡月は喝を入れた。
「よいか、アクタ、ウツロ。この隠れ里の存在が知られた以上、たとえこの場はやりすごせたとして、敵は何度でもここを襲いにやってくるだろう。わしとしても不本意であるし、なによりお前たちの故郷であるこの里を落とすのは口惜しいが、やむをえないのだ。アクタ、ウツロ、どうかわかってくれ」
二人は唇を噛みしめ、拳を強く握った。
しかし師の言い分は至極もっともである。
彼らに同意しないという選択肢はあり得なかった。
「……仰せにしたがいます、お師匠様」
「すまぬ。そうと決まれば二人とも、覚悟を決めてかかるのだ」
「はい! お師匠様!」
(『第8話 カラスの群れとの戦い』へ続く)
第8話 カラスの群れとの戦い ほどなくして、くだんの賊たちは現れた。
杉並木の隙間から、虫が這い出るようにぞろぞろとその姿を見せる。
全員が一様に黒装束。
顔にはカラスを模したような、『とんがり』のついた仮面を被っている。
ウツロの予見どおり、その数、実に三十名。
玄関の前に陣取る三人の前を、弧を描くようにたちどころに取り囲んだ。
「こんな夜更けになんのご用かな?」
「問答無用、似嵐鏡月。お前に恨みを持つ者は、お前が思うよりも多いということだ」
「ふん、見ればえらく大人数だが、引っ越しでもはじめる気かね?」
「ああ、そのとおりさ。ただし運ばれる荷はお前たちだ、あの世へな」
弧の中心の首魁とおぼしき男は、似嵐鏡月の皮肉を皮肉で返した。
だが当然、皮肉で終わらせるという雰囲気ではない。
「さかしらぶりおって。黒彼岸の錆にしてくれる」
「果たしてそう、うまくいくかな? 者ども、かかれえいっ!」
合図とともにカラスの群れは、一気に三人へ跳びかかった。
「ぐげっ!?」
似嵐鏡月の黒彼岸が、前方の中空を大きく切り裂いた。
五~六人がそのまま後ろに吹っ飛んで、杉の大木に叩きつけられる。
「なっ……」
「ひるむなっ! かかれ、かかれえいっ!」
「ぎゃっ!?」
「ぐえっ!?」
黒彼岸は次々と、襲い来るカラスの群れを叩き落す。
彼らはまるでハエがされるように、たちまちのうちにのされてしまった。
「おやおや、もう半分くらいになってしまったかのう。誰をあの世へ送るだって?」
「くそっ、調子に乗りおって! ガキだ、皆の者! うしろのガキ二人を人質に取れ!」
「させるかっ!」
似嵐鏡月はまた、黒彼岸を大きく払った。
「ぬっ!?」
吹っ飛んだそのさらに上方から別動隊が出現し、彼のうしろまでついに降り立った。
「くっ、しくじったわ! アクタ、ウツロ! 逃げろっ!」
「ごえっ!?」
カラスのひとりの首から上が、ねじれるように弾けた。
アクタが身につけた手甲で、裏拳を炸裂させたのだ。
「人質に取るだって? 取られるのはてめえらの命のほうだ!」
「ガキがあっ!」
カラスたちは空から円陣を組んでアクタに襲いかかる、が――
「げおっ!?」
鉄壁に構えた彼は、正中線を軸に体を回転させ、その群れを薙ぎ払った。
「なんだこいつ、強いぞっ! もう一人を狙え! いかにも弱そうだ!」
「失礼だな」
「ひっ!?」
ウツロはカラスよりも高く跳躍していた。
落下しながら舞うように、カラスの群れを矢継早に叩きのめしていく。
―― ヒヨドリ越え
その姿はまさに踊っているかのようだ。
彼の身軽さと俊敏さ、そして一体化でもしたように刀を操る、無駄など一切存在しない動き。
それらすべての要素が有機的に絡み合うことによって初めて可能となる、ウツロの個性を最大級に生かした絶技だった。
こんな彼を、いったい何者に御することができるというのか――
「誰が弱いだって?」
音もなく着地してすぐさま体勢を整えたウツロは、自分が倒した敵たちに問いかけた。
念のためではない。
答えなど帰ってくるはずがないということを、彼は知っているからだ。
自分がまかり間違っても仕損じるはずがない――初めての実戦にして、ウツロは絶対の確信を持っていた。
それは決しておごりなどではなく、突きつめられた経験が彼にそう教えるのだった。
時間にしてほんの二十分ほど。
屋敷の前の庭には、大地に接吻するカラスの山ができあがっていた。
「ふん、他愛もない。アクタ、ウツロ、見事だったぞ。初陣ではあったが、学んだことをいかんなく発揮してくれ、うれしいかぎりだ」
「めっそうもないことです、お師匠様!」
「アクタの言うとおりです。お師匠様からのご教授があったればこそで――」
嗅覚に不穏なにおいを感じ取り、ウツロは息を殺した。
「どうした、ウツロ?」
突然黙った彼をいぶかるアクタが、その顔をのぞきこむようにたずねた。
「お師匠様っ、遠くからまた気配が!」
「何だって!?」
まさかと、アクタは混乱気味に叫んだ。
「ちいっ、援軍か!」
「どのくらいの数かわかるか、ウツロ?」
不安げなアクタの質問を受け、ウツロは嗅覚神経をフル稼働させている。
「においが強すぎて鼻が曲がる……ゆうに五十人は軽く超えています!」
「そんな……」
アクタは戦慄のあまり、冷汗を浮かべた。
いまの戦闘は圧勝とはいえ、三人には確実に疲労が蓄積されていたからだ。
「……どうやらここまでのようだな。アクタ、ウツロ、かくなる上は当初の予定どおり、三方に散って逃げのびるのだ。わしが時を稼ぐ、早く行け!」
意を決した似嵐鏡月は、力強くそう言い放った。
「そんなっ、お師匠様も一緒に!」
「このままでは共倒れになってしまう。ウツロよ、なんとかこらえてくれ」
「いやです、お師匠様! 俺はあなた様とともにいとうございます!」
「ウツロっ! 落ち着け!」
慌てたアクタは動揺するウツロを押さえつけた。
その様子を見た似嵐鏡月は覚悟を決めた。
「……仕方がない、アクタ!」
「うっ……」
ウツロの首筋に鈍い感覚が走る。
アクタが当て身を見舞ったのだ。
崩れ落ちるウツロの体を、アクタはすくい取るように支えた。
「アクタ、ウツロを頼む!」
「御意! お師匠様も必ず!」
「なぁに、すぐにまた会えるさ!」
気絶したウツロを担いで、アクタは山のさらに奥へと駆け抜けた。
止まらないその涙を、必死に隠しながら――
(『第9話 邂逅』へ続く)
第9話 邂逅「ここまで来れば、とりあえず大丈夫だ」
「アクタ、なんで……」
目を覚ましたウツロは、肩を貸すアクタとともに、暗い林の中を歩いていた。
小一時間ほど山中を駆けめぐり、木の枝に傷つけられ、苔むした岩に足を取られ、二人はもうボロボロになっていた。
「アクタ、少し休んでくれ。もう傷だらけじゃないか」
「なあに、こんなもん、ちょっとかゆいくらいさ。俺よりウツロ、お前が心配だ」
「……なんで、俺のことばっかり」
「何回言わすんだ。お前は俺が守るんだっつーの」
「アクタ……」
「ま、ひと休みか。少しだけな」
ちょうどいい大きさの岩壁があったので、アクタはそこにウツロを降ろし、自分も隣へ座った。
「ふう」
アクタはうなだれながらひと息ついた。
その顔はなぜか穏やかだ。
「へへっ」
「アクタ?」
「いや、わりい。昔のことを思い出しちまってな」
ウツロは不思議に思ってアクタを見つめた。
「覚えてっか? ガキのころ、お前『厠』ですっ転んで、頭からはまったことあったよな?」
「あれは、アクタ! お前が前の日に掃除をさぼったのが悪かったんだろ!」
「お前、クソ塗れになってただろ? 落とすのたいへんだったし、しばらく臭かった」
「おまっ、こんなときに俺の人生の汚点を!」
「汚物だけに汚点ってか?」
「バカ、アクタっ! 全然うまくないぞ!」
アクタはゲラゲラ笑っている。
ウツロは顔を赤くしながらも、なんだかおかしくなって、一緒に笑いあった。
「……もう、戻れないのかな? あの楽しい日々に……」
「さあな。ま、これからまた作りゃいいだろ? 三人で、な?」
「……うん、そうだよね。それがたとえ、別な場所でも」
「そうさウツロ、また一緒にネギ育てようぜ。知ってっか? このへんはネギの産地で有名なんだとよ」
「ネギか……思索にネギ掘りはうってつけだしね」
「またネギこさえて、そしたら思うぞんぶん思索したらいいぜ?」
「うん、そうだね。俺はやっぱり、考えてるのが性にあってるよ」
「哲学者だかにでもなったらどうだ? 儲かるんじゃねえの?」
「お金か。概念は人間の敵だからね。俺は人間のほうがいいよ」
「おっ、出たな思索!」
「悪いかよ。俺は人間的生命活動の発露として――」
「はいはい、わかったから。ほんと難しいよな、お前の『人間論』は」
「アクタの頭が悪すぎるんだよ」
「何だとー? お前もパッパラパー助くんにしてやろうか!?」
「やだよ、そんなの」
「うるせー。そらっ、パッパラパー助くんになれー!」
「バカっ、来るな! アク――」
気配を感じて、ウツロとアクタは息を殺した。
「この辺まで歩いた跡があるぞ」
「残りの二人は必ず近くにいる。探せ!」
彼らとしたことが、疲れとしゃべることに気を取られ、敵の接近に気づくのが遅れてしまった。
「ウツロ、ここは俺がなんとかする。先に行け!」
「そんな……ダメだ、アクタ!」
アクタの真剣な表情に、ウツロは言い知れない不安を感じた。
これがもしや、今生の別れになってしまうのではないかと。
「このままじゃお師匠様の言うとおり共倒れだ。なあに、すぐ追いつくから心配すんな」
「いやだ! 一緒に行こう、アクタ!」
ぱしんっ
アクタはウツロに、気つけのビンタを食らわせた。
ウツロはほほを押さえながら、悲しい顔でアクタを見た。
「ウツロ、こらえてくれ。大事なのは生きのびることだ。俺はもちろん、お師匠様が万が一にもやられるわけねえだろ? だからウツロ! 俺を信じてここは行ってくれ!」
「う、アクタ……」
「泣くんじゃねえよバーカ。パッパラパー助お兄ちゃんは無敵なんだぜ?」
複数の声が近づいてくる。
「いたぞ、あそこだ!」
「ちっ、見つかったか。ウツロ、行けっ!」
「……絶対、会えるよね……アクタ?」
「あったりめえだろ。俺たちは二人でひとつ、な?」
「……うん」
「よし、行けっ!」
ウツロの背中を押すと、アクタは阻むように敵のほうへと突っこんでいく。
「かかってこい! パッパラパー助お兄ちゃんが相手だっ!」
「殺せ、殺せえいっ!」
ウツロは振り返らなかった。
振り返ればアクタ、そして師の気持ちを踏みにじってしまうから。
ひとり戦っている兄貴分を背に、ウツロはただひたすら、駆け抜けた――
(『第10話 魔王桜』へ続く)
第10話 魔王桜「ううっ……」
ほうほうの体のウツロは、気がつけば深い闇の中にいた。
森、深く暗い森。
ここはどこなんだ?
深夜とはいえ、夜とはこんなに暗いものだったのか?
月も星さえも見えない。
真っ暗だ。
恐怖、そして寒さ。
彼は震えながら、暗黒の中をさまようように歩いていた。
「あ」
明かりだ。
ゆらゆらと燃えている。
近いような遠いような。
すぐに掴めそうでいて、永遠に掴めないような。
こんなところに人が?
何か妙だ。
しかし違和感はあるものの、ウツロにとってはまさに希望の光だ。
彼は不信に思いながらも、その明かりのほうへと近づいていった。
明かりはしだいに大きくなってくるが、人の気配などまったく感じられない。
得体の知れない恐怖に、ウツロは自身の心臓の鼓動が聞こえてくるのを認識した。
「う」
明かりの近くに、別な明かりが突然、浮かびあがった。
さらにひとつ、もうひとつ――次々と。
それはあたかも、空間上へランダムに並べられた蝋燭に、適当な順番で火をともすような。
「まさか、これは……」
鬼火。
その単語がまっさきに脳裏をよぎった。
いけない。
何かわからないが、とても危険な気がする。
ウツロはしりぞこうと試みるが、なぜか足が動かない。
依然として鬼火の数は増えていく。
「な……」
桜の木。
空間を満たした鬼火を前置きとするように、とてつもなく巨大な桜の木が出現した。
おかしい、ここはどこなんだ?
こんな木の存在など知らなかった。
しかしこの桜は……なんと、美しい……
まず、幹の太さ。
黒ずんだそれは、岩盤のようにごつごつと硬そうで、いまにも膨らみきって爆ぜそうだ。
どこかしわくちゃの老人の顔のようにも見え、不気味なことこの上ない。
根は鬼の爪のように地面に食いこんで――いや食らいついているかのよう。
枝はといえば、天を串刺しにするかのような勢い。
そして瞠目すべきは、その大輪に咲く花である。
雪よりも白い花びらが、ひらひらと静かに舞い飛んでいる。
醜い『胴体』との対照は、まるで天国と地獄が同時にここに存在していると表現したくなる。
ウツロは金縛りにあったように硬直した。
しかし不思議なことに、心から恐怖は消え去っていた。
それほどの生命力。
まるでこの桜が宇宙の中心であるかのような、その存在感に圧倒される。
「お師匠様がいつかおっしゃっていた……この世とあの世の境に咲くという幻の桜……その名を、『魔王桜』……」
体が前方へ動き出す。
自分の意思なのか、眼前の桜の意思なのか、それすらもわからない。
あやかしの引力に吸い寄せられるように、ウツロはその桜のほうへと足を進めた。
「この桜が、そうなのか?」
桜の巨木は周囲を青白く照らし出している。
見れば見るほど美しい。
何という力強い存在感。
この桜の前では、どんな存在もかすんでしまうような――
「これが魔王桜だとしたら……俺は、死んだということなのか?」
突如、体の力が抜けて、ウツロはその場にへたりこんだ。
「それにしても……きれいだな」
ウツロはすっかりその桜に心を奪われて、うっとりした気分になってきた。
彼はしゃがみこんで、魔王桜の美しさに見とれた。
「疲れた……」
ふいに物悲しくなって、彼はうなだれた。
こんなに美しい桜でさえも、俺の心を癒やしてはくれないのか?
「お師匠様、アクタ……無事だろうか? 早く会いたい……ひとりぼっちは、さびしいよ……」
茫然自失のウツロは、しばらくの間くだんの桜と、静かなにらめっこをしていた。
ここにいると時間への意識がなくなってきて、ふわふわと漂っているような、夢の中で遊んでいるような感覚に陥る。
こんなに気持ちが楽になるのは、はじめてかもしれない。
「なんだか、いい気持ちだ」
コクリとうなだれたところで、かすかに目を開いたウツロは、眼前に人間の腕ほどの朽ちた一枝が転がっていることに気がついた。
「枝、枯れている……」
それは桜の枝のようだが、ほとんど風化してカラカラに乾いている。
この桜から分離したものだろうか?
そう思ったとき――
「あ――」
虫、一匹の地虫。
小指の先ほどもないような、それは矮小な地虫が、枯枝のくぼんだ穴からひょっこり顔を出して、何やら小刻みに、痙攣でもするように、ぴくぴくと動いている。
ウツロにはその地虫が苦しみ喘いでいるように見えた。
存在していることに、この世に生を受けたことそのものについて、なにか劫罰でも受けているかのような。
「桜の朽木に虫の這うこと、か。はは、俺のことみたいだ」
ウツロはなんだかおかしさを覚えるいっぽう、その地虫にどこか親近感を覚えた。
虫が朽木を這うように、自分もこの世の一番下で、這いつくばっている。
その感情はすぐに、強い共感へと変わった。
「この虫は、俺じゃないのか……?」
鏡でも見ているかのような気分だった。
もはや彼には、その地虫が他の存在とはとうてい思えなくなってしまっていた。
こんなちっぽけな虫けらに、心が引き裂かれそうになるほど共感してしまう自分がいる。
「……俺は、間違って人間になった……戻りたい、あるべき姿へ……」
ウツロのほほを滴が裂いた。
その落涙はやがて滝のように。
「俺は、虫だ……醜い、おぞましい毒虫……」
なんで俺は人間なんだ?
毒虫のほうがずっといい。
「……お前に、なりたい……」
そっと手を伸ばす。
こいつに触れればあるいは、悲願成就となるのではないか?
彼は地虫が這うよりもゆっくりと、愛する者に対してするように、その距離を縮めていく。
もうすぐだ。
指先が触れる。
「……なるんだ」
うれしい。
こんなに幸せでいいんだろうか?
「俺は、お前になるんだ」
涙はいつしか歓喜のそれへ。
ほら、もうひとりじゃないよ。
「俺は、毒虫になるんだ」
あとほんの少し、毛ほどの長さで指が届くというところで、ウツロの全身に異様な怖気が走った。
末端神経の全部に針をとおされたような激しい悪寒。
気配、目の前だ。
彼が顔を上げると、くだんの魔王桜が、風もないのにざわざわとさざめいている。
揺らぐようなその動きは、催眠術でもかけているようで、彼にはまるで桜の木が、意思を持ってこちらへやってくるような気がした。
いや、本当に動いている。
桜の一枝がゆっくりと、触手のようにウツロのほうへ向かってくるではないか。
鋭い先端に咲くおびただしい花は、まるで目玉のように彼を狙いすましていて、明らかに何かをしようとしている。
わかってはいるのだが、ウツロの腰はすっかり抜けて、恐怖のあまりあとずさりすらできない。
次第に距離をつめてくるあやかしの桜に、彼はおののいた。
「くるな、くるなっ」
そして――
「うあ――」
魔王桜の枝は、ウツロの額にぐさりと突き刺さった。
「……が……あが……」
枝がどんどん頭の中に食いこんできて、まるで何かを注入されるような感覚が走った。
「あ……」
そして彼の意識は、奈落へと落ちていった――
(『第11話 ユリとバラ』へ続く)