ヤギと菅波午前中の訪問診療から戻った菅波が昼食をとりにカフェに現れて、それにまず気づいたのはカフェ店主の里乃だった。
「先生、そのお腹のあたり、どうされたんです?」
「あぁ、これ…。あの、訪問診療先でヤギが…」
下膳を手伝っていた百音が振り返って聞く。
「もしかして伊藤さんちですか?」
「そう…です。あそこのヤギ、行くと必ず通せんぼしてくるんですよ。頭突きとか、胸に蹄を乗せてきたりとか。それで汚れてしまって。午後の診療開始までには一度着替えに戻ろうとは思っているんですが、こちらに来るのも遅くなってはと思って」
そう言いながら菅波が手を当てる服の腹のあたりには、皺がよってなにか毛がついていて、胸のあたりにはなんなら土をはらったような跡もついている。困り果てた表情の菅波が面白いが、わらってはいけない、と里乃と百音が目線を交わし、案内された席に座った菅波に日替わりランチを運んだ。
その日の勉強会、百音は菅波のシャツが変わっていることに気づいた。
「着替えたんですね、先生」
「ヤギの毛や土がついたままの服で診察するわけにはいきませんからね。これからあそこに行く日は着替えを持ってきておこうと思います」
「ですね」
嘆息する菅波に、くすくすと笑いながら百音が相槌を打つ。
「んでも」
と百音が話を続けるので、菅波が首をかしげる。
「私、サヤカさんのおつかいでたまに伊藤さんちに行きますけど、ユキちゃんに頭突きとかされたことないですよ」
「そういえばあのヤギ、ユキちゃんですね。えぇ…僕は必ず頭突きされますね」
「好かれてていいなぁ!なんだかんだ、塩対応で有名ですよ、ユキちゃん」
「いや、それなら僕にも塩対応?で構わないんですが…」
「ユキちゃんの愛情ですね!」
「うれしくない…。診療先で犬に吠えられることにはだいぶ慣れましたけど、ヤギはなかなか…」
そんな会話を交わし、相変わらず訪問の度にヤギに菅波が構われつづけ、洗濯物が増える…と嘆いて数か月、菅波が1週間ぶりに登米夢想に出勤してみたものは、外庭の草をのんびりと食むヤギの姿だった。なぜ…と菅波がめまいを覚えていると、おもむろにヤギが軽やかな足取りで菅波に向かってやってきて、キャリーケースを引いたままの菅波にどしんと頭突きをする。
伊藤さんちのユキちゃんより大柄なヤギに頭突きをされて、菅波がうずくまっていると、それに気づいた佐々木がやってきた。
「センセ、大丈夫?あれー、この子、先週から来てて、誰にも頭突きとかしなかったのになぁ」
うずくまっている菅波の背中に、なおもヤギが頭をすりつけているので、佐々木が首輪をひっぱって菅波から引きはがす。そうしているのに百音も気づき、佐々木からヤギのリードを受け取った。
「なんでヤギがここにいるんですか…」
立ち上がった菅波が何とか言葉を絞り出すと、佐々木がオランダ風車までの丘から外庭までを手で示した。
「この辺の除草を、最近はやりのヤギ除草でやってみたらどうかって話になって、エコだしやってみようって話になって。ウヂは人の出入りも多いから、とびきり大人しいヤギでってお願いしたんだけどねぇ」
「先生、ヤギを引き寄せる何かをもってるんじゃないですか」
百音がくすくす笑うのを、菅波は憮然とした表情を返す。
「まあまぁ、ヤギに悪気はないから!」
朗らかに言う佐々木に、悪気があったらなお困りますよ、と菅波がボヤく。
結局、登米夢想に来たヤギも、毎日毎晩、菅波への頭突きを飽きることなく繰り返し、これでは診療に必要な衛生を維持できません!と菅波は断固たる抗議をサヤカに寄せた。たまたま同時に登米夢想に来ていた中村が「僕は頭突きされないけどなぁ」と鷹揚に言う中、チベスナ顔で抗議を通した菅波の意見が通り、登米夢想でのヤギ除草の本格導入は見送りとなった。
夕刻、診療を終えた菅波がレンタル元に返されていくヤギを見送るともなしに見送っていると、その横につと百音と中村が立つ。中村がにやにやしながら百音に言う。
「サヤカさんに抗議してるときね、菅波先生、こーんな顔だったんですよ」
「あ、知ってます!チベットスナギツネみたいになりますよね、菅波先生」
「あぁ、それでかぁ」
「え?」
「チベットにはヤギがたくさん生息してるって言うし、それでじゃないですか、菅波先生がヤギに好かれるの」
「チベットつながりで?」
「そう」
「なるほどー」
隣で言いたい放題の中村と百音に、菅波はそれこそチベスナ顔である。
「何言いたい放題言ってるんですか。永浦さん、今日の課題、終わってますか?この後すぐ見ますよ」
「え、あ!えーっと、あと10分!」
「いや、10分あればなんとかなるもんじゃないでしょう。終わってないなら終わってないと言ってください」
「うぅう~。ユキちゃんに言いつけてやる~」
「ヤギが頭突きしても、永浦さんの理解にはつながりません。妙なことをユキちゃんに吹き込まない」
よく分からない応酬を重ねる師弟を、その大師匠は笑って眺めている。
トラックに乗せられたヤギが一声、め゙ぇ~と鳴く声は、おおきな夕陽に溶けていくのだった。