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  • micm1ckey Link 人気作品アーカイブ入り (2024/03/06)
    2024/02/21 23:44:21

    菊の賜物

    #則さに #刀剣乱夢 #大正パロディ
    隠居した一文字則宗と意地っ張りでへそ曲がりの妻の話。

    いつものなんちゃって大正パロです。

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    しおり
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    しおり
    菊の賜物

     腹が立つから、条件を出してやった。
     嫁に行ってやってもいい。でもその代わり、お前は隠居すること。
     だって気に食わなかったのだ。自分がその男の箔付に利用されることが。身分の高い女を妻にもらって、この男は家の名前に格式をつける気なのだ。
     だったら隠居させてやる。箔をつけたその家の表舞台からお前を引き摺り下ろしてやる。そういう意地悪のつもりだった。
     だが男ときたら、彼女の要求を聞くと男のくせにやたら長い睫毛を瞬いた後、なぜかにっこりと破顔した。
    「なんだ、そんなことでいいのか。そんなことで、お前さんは僕の妻になってくれるのか」
     そうしてその男は彼女を妻に迎えると、彼女の出した条件通り同時にあっさりと一家の総代を退いて隠居した。彼女はそれがますます気に食わなかった。
     気に食わないその男の名は、一文字則宗という。菊の花のような鮮やかな髪が印象的な男だった。



     彼女の生家はもう何年、何十年、更には何百年と続く貴族の家系である。幸い兄弟も多くおり、家督は長兄が継いだものの、旧い貴族の家ではいまだに娘の結婚がかなり重要視された。というわけで、他の娘たちはそれぞれ名家に嫁していった。今では立派にその家の嫡男を産み育て、本家御正室としてやっている。
     一文字則宗に嫁いだ、末娘の彼女以外は。
    「おはようおひいさん、そろそろ起きないか? 朝食ができてるぞう」
    「うぅ……うるさい……」
     部屋のカーテンを思いきり開けられたものだから眩しくてかなわない。彼女は布団をかぶったままそちらに背を向けたのだが、今度は布団を則宗に引きはがされた。陽光だけでなく冷気に晒された彼女はぎょっとして目を開く。
    「ひゃっ!」
    「今日は天気も良い、散歩にでも行かないか」
    「さむ、寒いわ! 何するのよ!」
     ベッドから跳ね起きて彼女が抗議すれば、既にすっかり身支度を整えてあった則宗は愉快気に笑った。そのまま寝起きの彼女にショールを羽織らせると、肩を掴んで立たせる。
    「うはは、だが目も覚めたろう。ほら、顔を洗っておいで。湯も用意してある」
     まだ眠っていたかった彼女は、仕方なしに呻きながら洗面台に向かった。そこには確かに洗面器に程よい温度の湯が溜めてある。それを使って顔を洗いつつも、彼女は則宗を睨んで言った。
    「お前、いつも言っているけど子ども扱いしないで。私はもう姫なんて言われて喜ぶ年じゃないわ」
    「そうか? 僕にとってはお前さんはいつまでもおひいさんなんだがなあ。女中を呼ぼう、着替えて髪を結ってもらうといい」
     今日もこの男は気に食わない。彼女はふんと鼻を鳴らすと、則宗と入れ違いに入ってきた女中の方を向いた。女中はまた新しい洋服を持っている。則宗には無駄遣いをしないように言い含めなければならない。服は使い捨てではないのだ。
     この屋敷に来てからずっと、彼女は日がな則宗に世話を焼かれて過ごしている。家のことは女中や下男が行い、天気のいい日は則宗と散歩や買い物や活動写真に出かけ、場合によっては遠出して旅行もする。彼女が行きたいと行ったところには則宗は必ず連れて行ってくれたし、彼女が一人で出かけたいと言えば「まあ年寄りにはわからないこともあるからな」と家のものを付けて外に出してくれた。基本的にどんな我儘も通る。それがまた彼女には気に食わない。大体、年寄りというには則宗は若々しく見えすぎる。それでも彼女とは一回り以上年齢が離れているのだが。
     彼女と則宗が結婚したのはもう何年か前のことである。縁談が申し入れられたのは彼女が社交界デビューしてすぐのことだった。けれど彼女の結婚は異例尽くしであった。当時則宗が総代を務めていた一文字一家は旧い家ではあるが、彼女の実家とは毛色が違いすぎる。もっと言えば身分も彼女の家の方が高かった。だから本来ならば、則宗は彼女に縁談を申し入れることなど不可能だったのだ。
     それがどうしてこうなっているかというと、彼女の父が乗る馬車が暴漢に襲われた折、たまたま則宗とその部下に助けてもらったからだ。運の悪いことに、その場には彼女も同席していたのでよく覚えている。財産があるということは、ときに危険だ。
     とにもかくにも暴漢を取り押さえた則宗は礼儀正しく彼女の父に挨拶をした。金銭程度の礼で済ませておけばいいものを、そんな則宗のことを気に入った彼女の父は則宗に尋ねた。「礼に何か欲しいものはないか」と。
     そのときのことを、彼女は今でも昨日のことのように思い出せる。
    「ではあなたの末の娘御を僕の妻に頂きたい」
     名指しされた車内の彼女からははっきりわかった。地に跪いていた則宗の青い瞳は、父ではなくただ真っ直ぐと彼女の方に向けられていたのだ。
     そうして彼女は則宗の元へ嫁いできた。当時かなりの幼な妻だった彼女は、幾年か経った今でもまだ若いと言っていい年齢である。逆を言えばそのくらい早い輿入れだったのだ。だが妻らしいことは特に何もせず、こうして毎日則宗に世話を焼かれて生活をしている。勿論彼女だってこれでいいのかと思わないことはないし、これもまた彼女が則宗を気に食わない理由の一つである。
    「お前、今日もこんなにぐだぐだと暮らしていていいの」
     朝食を摂りながら彼女は尋ねた。今朝の献立はパンケーキである。口の中が甘くなりすぎたなと彼女が思っていると、タイミングよく女中が苺とオレンジの載った器を持って来た。則宗はその苺にフォークを刺しつつ答える。
    「ぐだぐだと言ってもお前さん、僕はもう隠居した身だぞ。大してやることもない。お前さんと散歩したり毎日のんびり暮らすのが今の僕の仕事だ」
     それは事実なのだが、彼女ははあと息を吐いた。
    「そんなことを言って。お前が少しでも太って醜くなったら私は家に帰らせてもらうからそのつもりでいてちょうだい」
    「うははは、気を付けておこう。お前さんに実家に帰られては僕も寂しい」
     軽口を叩く則宗を彼女はやや睨んだ。彼女の正面に座っている則宗は、愉快そうに彼女が朝食を食べるのを眺めている。
    「美味いか?」
     軽薄な金の髪は朝日に酷く眩しい。彼女は顔をしかめ、珈琲を啜っている則宗に返した。
    「口の中が甘ったるいわ」
    「おや。……だが暫くぶりに少し顔を出しに行くのもいいぞ。御両所様も喜ぶだろう」
     それに彼女は益々眉を顰める。自分で言い出しておいてなんだが、彼女には実家も煩わしかった。
    「いいわ、気が進まない。向こうの家に行くならお前ひとりで行って」
     ぴしゃりと彼女は言い返した。しかしそれに特に気分を害したような様子も見せず、則宗は微笑んでコーヒーカップを置く。磁器が華奢な音を立てた。
    「なら帰りたいときに言うといい。僕も一緒に行こう」
     それには返事をせずに、彼女は自分も果物に手を伸ばす。
     彼女の上の姉は嫁いですぐに嫡男を産んだ。その下の姉は二人続けて娘を産んだ後に男子に恵まれた。だから実家に帰ればその辺りをとやかく言われるに違いない。彼女の両親は彼女が則宗の子を産んで、一文字の家との繋がりができることを望んでいる。
     だが彼女は嫁いで数年、未だ乙女であった。
     

    「したくないならしなくていいさ。無理強いする趣味はないぞ」
     初夜、寝室にいた彼女に則宗はあっさりとそう言った。そのままどさりとベッドの上に腰かけると、則宗はこきこきと首を回す。当然のことながら、彼女はそれに面食らうと同時に動揺した。かなり不本意な結婚ではあったが、それでも彼女は彼女なりに腹は括って来たのだ。
     しかし則宗はそんなのお構いなしだった。一つ伸びをすると、則宗はそのままベッドに仰向けになる。
    「正装は肩が凝る。まあとにかく、お前さんが嫌なら僕は無理なことはしない」
    「……しないって、どういう」
    「そのままの意味さ。嫌ならお前さんを無理に抱くことはしない、疲れたなら寝る、ただそれだけだぞ。僕はどちらでもいい」
     どちらでもいいってなんだ。それにここで拒否したら今日以降は一体どうなるのだろう。明日以降も毎日どうするか聞かれるなんて堪ったものではない。
     それで彼女が黙っていると則宗はベッドの上に肘をついて頭を起こし、うははと景気よく笑って続けた。
    「まあそれでも枯れちゃいないから安心していいぞ。だが僕はもう隠居したじじいだからな、余裕があるだけだ」
     余裕というのは一体何に対してなのだろう。彼女にはわからないことだらけだった。新婚初夜に彼女を抱かないことを指すのであれば、それは結局彼女に興味がないということにもなるのではあるまいか。
     ……自分から、彼女を妻にと所望しておいて?
     結局、その晩彼女と則宗の間には何もなかった。もっと言えばその晩どころかそれ以降もない。だから彼女と則宗が「夫婦」だというのは、事実戸籍の上だけの話である。だが則宗は彼女が幼い頃読んだ物語のように、彼女を形式上の妻として冷遇することはなかったし、余所に側室を作ることもなく、むしろ服を買ったり流行の甘味を食べさせたり、観劇に連れて行ったりとにかく彼女の世話を焼いた。もう訳が分からない。最初はまだまだ少女だった自分を気遣い、妻というよりは子どもだと思ってのことかと考えもしたが、今の彼女はもうその理由が適用されるような年齢ではなかった。
     結婚するにあたって、妻の方が若い例は珍しくない。彼女に面識はないが、古備前や三条の御正室も夫とかなり年が離れていると聞いた。華族階級以外では武家の源氏の奥方も年若い女だと言う。それに妻の方が若くていい理由はいくつもある。良家の妻ともなれば、嫡男を産む義務がある。妊娠も出産も並大抵のことではない。若く、体力があった方がいいのは確かだ。無論それは惚れた腫れたを抜きにした生物学上の話ではあるが。
    「則宗」
     読んでいた本の最後の頁をめくって、自室の窓辺に座っていた彼女は声を上げた。するとどこからか足音が聞こえて扉が開き、ひょこりと則宗が顔を出す。
    「どうしたんだおひいさん」
    「この本が読み終わったの。本屋に行きたい」
     そう言えば、則宗は持っていた扇子で口元を叩いてすぐに微笑んだ。
    「もう読み終わったのか。お前さんは賢いな、文字を読むのが早い。ついでに菓子でも買いに行かないか、丁度切らしてるんだ。今夜の分がない」
    「お前の好きになさい。車を用意して、馬車は揺れるから嫌だわ」
    「わかったわかった。おおい誰か、おひいさんが出掛ける準備をしてやってくれないか」
     則宗は女中にそう声をかけると自分も出ていく。楽な服装だったから、きっと自分も身支度を整えるのだろう。
     隠居して日中に仕事もない則宗は決まってどこかに行くことはない。だから彼女があそこに行きたいあれが欲しいと要求すれば、大抵の場所には連れて行ってくれるかすぐに用意をしてくれる。したがって彼女の一日はとても穏やかなものだった。早くもないが遅くもない時間に起床し、則宗と朝食を取り、そのあとは読書なりなんなり好きなことをする。昼が来ればまた則宗と一緒に食事を摂り、夕食まで好きに過ごす。その後に入浴を済ませたら就寝しておしまい。それの繰り返しである。一日のうち則宗とのかかわりと言えば食事と、入浴後就寝前に茶を一服する習慣に同席するくらいだ。今日切らしていて買いに行きたいという茶菓子も、おそらくそのとき用のものだ。
     女中に外出用の洋服を着せてもらい玄関へ向かうと、則宗も外出着に着替えていた。被った帽子と肩掛けを直しながら則宗は彼女に問いかける。
    「今日は少し冷えるが寒くはないか」
    「平気よ」
    「そうか。じゃあ出てくる、留守を頼んだぞ」
     家のものにそう声をかけると、則宗は屋敷を出て車の後部座席を開けてくれた。そこから乗り込むと、則宗は扉を閉めて回りこみ自分も乗車する。そんなこと下男にやらせればいいのにと彼女は思うが、出掛けるたびに則宗は必ずそうした。彼女の隣に座ると、則宗は運転手に言う。
    「お前さんの本屋を先にしよう。終わったら帝都の百貨店に回してくれ」
    「かしこまりました、御前様」
     屋敷の家の者たちは、則宗を「御前様」と呼んだ。隠居した則宗は総代ではないのでそれは間違いではないし、その呼称は今も一文字の家の中では則宗の存在が大きい証でもあるのだろう。
     彼女を娶ったとき、則宗は一文字一家の本家の屋敷を出たと聞いている。次期総代に屋敷をそのまま譲り、帝都の外れの方にこの洋式の屋敷を建てたらしい。本家のお屋敷には彼女も結婚した折一度だけ訪ねたことがあるが、一文字邸はかなり広く大きな和風の作りだった。まあ、いかにも侠客の本家ですという雰囲気ではあった。
     とにもかくにも、そのとき則宗は単身屋敷を出たらしいのだが、何人かの女中や下男はそのまま則宗を慕ってついてきてしまったのだという。その名残が「御前様」なのだ。ちなみにこの呼称だが、彼女はどうもあまり好きではない。
     本屋で彼女は適当な小説と歌集を見繕って買った。則宗は何をするわけでもなかったが、彼女が本を選ぶのをただ楽しげに見ていていつも通り口を出したりはしなかった。
     それが終わると運転手は則宗の言いつけ通り、車を帝都の百貨店へと回した。則宗は着物やドレスを見るかと彼女に聞いたけれど、彼女はそれに首を振った。何度も言うが服は使い捨てではないのである。彼女の部屋の箪笥は、則宗から贈られた衣類で溢れかえっており、一回袖を通したきりのものまである。それなのにどうして新しいものを買おうという発想になるのだ。
    「そうは言ってもお前さん、まだ背が伸びたり寸が変わったりもするだろう。それにお前さんは女子で服はあって困るものでもない、流行り廃りもある」
     むうとむくれて則宗は扇子を口元に当てた。それに彼女はぴしゃりと言い返す。
    「身長はもう殆ど変わらないし、流行に合わせていたらそれこそ服が使い捨てになる。文句があるなら流行り廃りで着られなくならない長く使えるドレスを選びなさい、そうしたら着てあげる。勿体ないことしないで。浪費家は嫌いよ」
     すると則宗はいくらかぱちぱちと目を瞬いたあとに「うはは」と声を上げて笑った。それからパチンと扇子を閉じると、上機嫌に彼女の腰に手を回した。
    「そうだな、長く着られるもののほうがいい。そういうものを選ぶことにしよう!」
    「違う、無理に買えとは言っていないわ、則宗ったら」
     彼女はそう言ったけれど、則宗が聞いているのかいないのかはわからなかった。本当にこの男は、気に食わない困った男だ。
     婦人服売り場に行こうとする則宗を引っ張って、彼女と則宗は和洋各種菓子を取り揃えている売り場へと来た。則宗が一文字前総代だからか、はたまたしょっちゅうこの売り場を使う上客だからか、売り場の責任者が顔を出して則宗に挨拶をする。彼女は並べられたチョコレートを眺めながらそれを聞いた。高価なカカオをふんだんに使うチョコレートは少量でもそこら一帯に甘い匂いをさせている。
    「どれ、おひいさんはあれが食べたいのか」
     店員と話し終えたらしい則宗がひょいと顔を出す。彼女は首を横に振った。
    「珍しいから見ていただけ」
    「ああ、近頃大量に作れるようになったらしいからな。手に入れやすくなったらしい。買ってみるか?」
    「どうしてお前はすぐに買う発想になるの」
    「まあまあ、試しに食べてみればいい。そら」
     試食用に楊枝を刺されたものを則宗は彼女の口元に差し出した。もらってしまったものはもう戻すわけにもいかない。仕方なく彼女が口を開けると、ひょいと則宗がその中にチョコレートを放る。チョコレートの周りについていた粉末はいくらか苦かったが、そのうちに柔らかく溶けて甘みが広がった。美味しい。
    「美味いか?」
     則宗が尋ねるのに、彼女は素直に頷いた。すると則宗はにっこりとして言う。
    「そうか、じゃあ買って帰ろう。きっと茶にも合うさ」
    「お前、私の言ったことを聞いている? 無駄遣いをするなと言ったの」
    「ああ、覚えているとも。そうだ、お前さんの実家にも送ろう。義兄上のところにも小さい娘御がいたな、きっと喜ぶ」
    「則宗!」
     ただでさえ高いチョコレート菓子をそんないくつも、しかも彼女の家族にまで配って歩く必要はない。だから彼女は声を上げたのに、則宗は彼女の生家だけではなく、嫁に行った姉たちの元にまでそれを贈るよう店員に言いつけた。
     他にも則宗はいくらか茶菓子を見繕い、百貨店を後にする。車に乗り込んでから彼女は則宗に言いつけた。
    「則宗、お前、あまり私の実家に媚を売るようなことをするものじゃないわ」
    「おや? どうして」
    「売ったって仕方ないからよ。私は末の娘だし、父様も母様も気にしちゃいないわ。だから別に私の実家の機嫌なんて伺わなくていい。何か送る理由があるわけでもないのに」
     しかし則宗はそんな彼女の言葉をうははと軽く笑い飛ばしただけだった。彼女には何がおかしいのかさっぱりと分からない。
    「そうはいかない。お前さんの家と僕とは大事な末の娘御を貰って家族になったんだ、理由はなくとも美味いものがあれば贈る、それだけだ。それに義理の両親と良好な関係を築いておくのも夫の僕の仕事だぞ」
     夫の仕事。その言葉に彼女は眉をピクリと動かした。癇に障ったのだ。
     確かに、嫁としてはそれはとても有り難いことだ。両親だって喜ぶだろう。ただでさえ則宗と彼女の間に子がないことを両親は気を揉んでいるだろうし、そんな折則宗から贈り物が定期的に届けば、一応両家の間には義理の親子関係があると則宗が認識していることを向こうもわかるはず。
    「僕はいい旦那さんだろう?」
     ふふと則宗が口元を扇子で隠して微笑む。それがまた腹が立った。
    「知らない! 則宗の馬鹿!」
    「うはは、おひいさんの機嫌を損ねてしまった。すまんすまん、だが御両所も義兄上も義姉上たちも喜ぶだろう? お前さんも買った菓子は美味しくお食べ。お前さんがうちで元気に過ごしているとわかれば、あちらさんも安心するさ」
     則宗はそう言って彼女の頭を撫でたが、彼女はそっぽを向いた。
     そんなの知ったことか。彼女の両親は一文字がどういう家かわかっていて彼女のことをあっさり嫁に出したのである。それもかなり年の離れた則宗のところに。安心したいなら選ばないはずの嫁ぎ先だ。
     どうにも腹に据えかね、彼女はその晩則宗を部屋から追い出した。就寝前のお茶もしなかった。則宗はそれでも「一人で寝るのは構わないが、明日の朝は何を食べたいんだ」なんて暢気なことを言っていたけれど、それは無視した。則宗だって彼女が実家にも帰りづらいことくらい流石に想像がついているはず。だから彼女が怒ろうが何だろうがのんびり構えていられるのだ。どれもこれも則宗が原因ではないか。だったら締め出されるくらい我慢しろ。
     どうせ、一緒に寝たところで何かするわけでもなし。
    「……惨めだわ」
     一人きりになったベッドの上で彼女は呟いた。本当は泣き出したかったけれど、それは彼女のプライドが許さなかった。
     彼女の両親が則宗が彼女を嫁にと所望したとき、首を縦に振ったのは則宗が「一文字一家総代」だったからである。そして則宗が彼女を嫁に欲しがったのは、言わずもがな彼女の実家が身分も高く旧い華族の家だからだ。則宗と彼女が結婚すれば、彼女の実家は侠客一文字とのつながりができ、一文字は華族と親戚になる。良家共に悪いところがひとつもない。
     もちろん彼女だって、いずれ自分が家のためにどこかへ嫁がされることくらいは理解していた。覚悟だってしていた。何故ならそれが貴族の家の娘として生まれた彼女の役目だったからだ。だがあんまりではないか。相手の則宗はこんなに年上で、彼女を嫁にもらう理由が見え透いていて、同様に両親の魂胆まで明らかすぎる。彼女だってもう少し気持ちよく結婚させてほしかった。おまけに嫁になったのすら形式上ときたら、彼女に残されているものはちっぽけなプライドくらいしかない。
     惨めだ、この上なく。彼女はただシーツの上に座り込む。するとコンコンと小さくドアがノックされた。女中かもしれないと彼女は振り返る。しかし向こうから聞こえてきたのは別な声だった。
    「おひいさん」
     穏やかな声に、彼女は口を噤む。今日は返事をしてやる気はなかった。それでも則宗はそのまま廊下で彼女に話しかけ続ける。
    「僕はもう寝るが、お前さんも夜更かしせずに寝るんだぞ。今夜は冷える。必要なら女中に温かい茶をもらうといい、用意はしておくように言っておく。おやすみ、僕のおひいさん」
     それだけ言うと、あとは則宗が静かに去っていく足音が少しだけ聞こえた。彼女はそれに答えることはできなかった。
     そうしてそのまま黙りこくってのろのろとした動きでベッドに入り、彼女は目を閉じて眠ろうとした。ベッドは異様に広く感じたし、妙に寒く爪先が冷えて痛い。だから則宗の言う通りお茶をもらえばよかったとも思った。けれどそれさえも彼女は言うことができなかった。呼べば、きっとすぐに則宗が来てくれるのもわかっていたのだが。
     だが、そんな風に彼女がまんじりと眠れずにいた夜半過ぎのことである。
    「……なに?」
     目が冴え切っていた彼女は体を起こした。夜風に交じって僅かに車のタイヤの音が聞こえたような気がしたのだ。彼女の部屋は玄関からは遠い、だから気のせいかもしれないとも考えたが、彼女はベッドから足を下ろした。どうせ眠れないのだ、横になっていても起きていても同じである。
     音をたてないように室内履きは履かずに、彼女は部屋の扉をゆっくりと開いた。深夜だ、やはり人の気配はない。それでも彼女はなんとなしに隙間から体を滑らせ、廊下に出る。絨毯敷きの廊下では、彼女が気を付けていれば静寂のままだ。
     彼女が聞いたのが本当に車の音だったとしたら、玄関に誰かいるはず。とはいえこんな夜更けに尋ね人など思い至らない。彼女がそのまま階段まで足を進めるとやっと、下に微かな灯りが見えた。下男が燭台を持っている。そちらに悟られないように彼女は物陰から階下を見やり、そして口を押えた。
     たった一本の蝋燭の火でもきらきらと光る金髪、則宗だ。それもこんな夜に白いジャケットに赤い肩掛けをまとっている。あれは白に赤の意匠だから一文字の正装だ。そんなちゃんとした服装で一体どこへ。先程もう寝ると言っていたのに。
     そんな彼女の混乱と疑問を他所に、則宗は下男が照らした玄関の扉からどこかへ行ってしまった。結局彼女はその晩一睡もできなかった。


     もう寝ると言ったはずの夫が夜更けに家を出て行った。それもかなりめかし込んで。しかもそれがその後数日続いた。これがどういうことか、彼女にはもう察しがついている。
     遂に側室を囲ったのだ、あの男は!
     ここ数日上手く眠れていないのに、彼女は不思議と欠片も眠気を覚えていなかった。開ききった目で朝食と一緒に出された果物の盛り合わせを見つめる。
    「どうした、お前さん、果物は好きじゃなかったか」
     正面に座っていた則宗が首を傾げて彼女に尋ねた。あまりにもいつも通りのその様子に彼女は色々言いたいことがあったけれど、口を開きかけてやめてしまった。
     別に普段通り則宗を叱咤することも、詰ることも彼女にはできた。できるはずだ。それなのにいざ思っていることを言おうとすると、喉がカラカラに乾いてしまうのである。
    「……食欲がないの、もういらないわ。お前が食べたら」
    「どうしたんだ一体。ここ数日様子もおかしい、具合でも悪いのか」
     匙を置いた彼女を見て、則宗は腰を上げ傍までやってきた。それから手のひらを彼女の額に当てて、うーんとこちらを覗き込む。
    「熱はないようだがなあ。おおい、誰かおひいさんの寝床を整えてくれ」
    「っなんでもないったら」
     パッと首の向きを変えて、彼女は則宗の手から逃れた。だが則宗の方はそんなの気にしない様子で、「よいせ」なんて言ってから屈むと彼女のことを何でもない風でひょいと抱き上げた。
    「則宗!」
    「そう暴れるな。風邪は拗らせるとまずい、今日は寝ていた方がいいぞ。そこの女中、医者も呼んでくれるか」
    「いらない!」
     しかし則宗はそのまま彼女を寝室まで連れて行くと、ベッドの上に下ろして掛布団を彼女に被せた。ぽふぽふと羽根布団を整えると、則宗は側にあった椅子に腰を下ろす。
    「お前さん、近頃僕と一緒に寝ずにいて寝台が広いからって腹でも出していたんじゃないか? 女子に冷えは禁物だぞ」
    「違うったら!」
    「うはは、とにかくゆっくりお休み。明るいところで見てもいくらか顔色が悪いぞぅ」
     誰のせいだと思っているのだ、誰の。問い詰めてやりたかったが、ぐっと彼女は唇を噛み締めた。
     則宗が側室を囲ったとて、彼女は則宗を責められない。何故なら彼女は則宗の妻としての役目を果たしていないのだ。代わりにしていることと言えば、ここで毎日則宗に猫かわいがりされているというだけ。まるで小さな子どものように。
     だがそれも仕方のないことなのかもしれない。ここでずっと子どものようにへそを曲げているのは、他ならない彼女なのだ。
     則宗が呼んだ医師は彼女を診察して、近頃寒い日が続いたから軽い風邪でも引いたのだろうと言った。よく休ませるよう指示をくれた医師を見送ると、則宗は再び彼女の枕元へ戻った。すとんと豪奢な椅子に腰かけると、則宗はそのままベッドサイドのテーブルに置いてあった湯呑や急須を整え始める。どうやらそのままそこにいるつもりらしい。
    「……そこにいたってつまらないでしょう。部屋に戻って」
     彼女が言っても、則宗は少しふふと笑っただけで首を振る。
    「気に食わんだろうが今日は我慢してくれよ。風邪引きのお前さんを放ってはおけないからな。夜寝る頃には部屋に戻るから勘弁してくれ」
     だけど、落ち着かない。彼女は掛布団を少し引き上げた。その間にも則宗は女中に湯を沸かして持ってくるように言い、用が済めばその女中も下がらせた。則宗と二人きりになるのは、彼女が部屋を追い出して以来数日ぶりのことだ。
     特に理由も言わずに則宗を寝室から追い出しているのは彼女の方で、則宗にはそれを問う権利がある。彼女と則宗の間に男女の関係はなくとも、形式上彼女は則宗の嫡妻であるし、夫婦関係以前に人間として、一方的に締め出して終わりというのがよくないということを彼女とて理解していた。けれど今、則宗にそれを聞かれたところでどう返したらいいかも彼女にはわからなかった。
     最初の一日は、実家に良い顔をする則宗が気に入らなかったからだけれど、今は違う。夜な夜などこに行っているのか、側室を作ったのか、作ったとしてそちらの女とはうまくやっているのか。彼女にも聞きたいことは山ほどあったが、答えを聞くのは恐ろしかった。
     だって、どういう顔をして則宗から別な女の話を聞いたらいいか彼女にはわからないのだ。いけない、そんなことを考えていたら本当に気分が悪くなってきた。彼女が顔を顰めて布団に潜ろうとすると、不意に則宗が口を開く。
    「懐かしいな、お前さんは近頃丈夫になった」
    「……近頃って何よ」
    「ん? 嫁に来た頃はしょっちゅう熱を出したり風邪を引いたりしていただろう。僕はよくその看病をした。昨日のことみたいに覚えてるぞ」
     懐かしそうに言って、則宗は彼女の湯呑にとぽとぽと白湯を注いだ。その音を聞いて、彼女の脳裏にも僅かにその時のことが思い起こされる。
    「辛くはないか。どれ、額の熱さましを変えてやろう。早く元気におなり、僕のおひいさん」
     今と同じようにベッドの傍らに座った則宗が、彼女の額に載せてあった手ぬぐいを冷たいものに変える。記憶の中の則宗は彼女の手を握って、睫毛の長い瞳を和ませて微笑んでいた。
    「……もう何年も、私風邪なんか引いちゃいないわ」
     あのころ、自分は則宗に何と言ったのだっけ。
     少し彼女は考えたが、どうせ今と大して変わらないのだろうなと思った。特に嫁に来てすぐの頃なんて、きっと今より則宗に対する当たりは酷かったはずだ。だが則宗は何故だか楽しげに笑って言う。
    「お前さんは熱を出すたびに、喉が痛い頭が痛いとよく泣いた。僕が泣けば余計に痛むぞと言っても、でも痛いものは痛いと言って聞かなかった。そのうちにお前さんは疲れて寝てしまうから、僕はその隙にあちこち冷やしたりなんだりしていたんだぞ」
     そんなことないと彼女は言いたかったが、事実当時の自分ならやりかねないのもわかっていたため閉口した。今だってそこまで大人に振る舞えているとは思えないが、当時の自分は輪をかけて子どもだった。
     許せないことがたくさんあったのだ。簡単に一文字に嫁にやられたこと、この結婚に対する両親の意図も則宗の意図も見え透いていたこと。だからあの頃の彼女は今よりも不機嫌で、ぶっきらぼうで、それでも則宗は今と変わらず彼女の世話を焼いた。
    「お前……」
    「ん?」
    「私の世話ばかりしていて……、嫌にならないの」
     もしも逆の立場なら、彼女はとっくに愛想をつかしてしまっているはずだ。こんな扱いづらい、素直でもない女のことなんて。ああもしかしたら、だから則宗は余所に側室を作ったのかもしれない。それは納得がいく話だ。
     しかしそんな風に自暴自棄な気持ちになっていると、則宗は不思議そうに首を傾げた。それから大きな手で何度か彼女の頭を撫でる。
    「妻の世話を焼いてどうして嫌になるんだ? おかしなことを聞くおひいさんだなあ」
     鼻の奥が痛い。こちらに向けられた青い瞳を見て、彼女は何故だか泣き出しそうになってしまった。だが泣いている顔なんて絶対に見られたくなかったので、彼女は布団の中にもぐりこむ。
     本当はわかっているのだ。ずっと意地を張っているのは彼女の方。則宗は彼女が嫁に来た日から変わらずに彼女に優しくしてくれていた。たとえ彼女を娶った理由が家のため、一文字のためだったとしても、彼女の嫌がることは決してしないという点で則宗は彼女を重んじてきた。あまつさえ彼女の実家とも関係を崩さずにである。本人が言う通り、則宗は絵に描いたような「良い旦那さん」でいてくれた。
     それならば、彼女もまた則宗の正妻としての役割を果たすべきなのだ。則宗が他に囲うほど好きな女ができたというのなら、彼女は嫡妻としてそれを認めなくてはならない。身分の高い家に生まれた女として、その心構えだけは彼女も教えられてきた。だからもしも、側室の方に子どもができたときは、そのときは。
    「則宗……」
     呟きは本当に小さなものだったけれど、則宗は布団を捲ることなく手だけをその中に差し込んでもう一度彼女の頭を撫でた。それから少し熱っぽくなった彼女の手をしっかりと握る。
    「おいおい、どうしたんだ。本当に具合が悪いんだな、可哀想に」
     心配そうな声で則宗は彼女にそう言った。鼻を啜った拍子に力が入って則宗の手を握り返してしまい、彼女はそれにハッとして離そうとしたけれど、そんなのお構いなしで則宗はしっかり手を握り直す。睫毛も長く、金髪に碧眼で美しい容姿の則宗だけれど、手指はごつごつとした男性のものだった。
    「少し眠るといい。起きたときにはいくらかましになっているさ。そうしたらまた果物でも用意させる、明日には一緒に食べられるはずだから今日は辛抱して、大人しく寝ているんだぞ」
     そうしようなあと謳うように言って、則宗はそのまま彼女の手を握ってベッドの傍にいた。布団にずっともぐっているのは息苦しく、しばらくしてほんの少しだけ彼女がそこから顔を出したときも、その体勢のままで則宗は彼女が読み終えて積んでいた本を捲っていた。その様子を見ているとなんだかうとうととしてきて、彼女は久方ぶりに深く眠った。
     夜更け過ぎにどこに行くのか、問いただすのはまだ怖かったけれどそれでも、彼女は目を覚ましたら、そうしたら今度は則宗と話をしようと思った。何をどこから話したらいいかわからないが、もう自分は則宗が傍にいないとよく眠れない。それだけは理解できた。


     本当は、一目見て綺麗な男だと思った。
     馬車に取り付けられたレースのカーテンの向こう。夜道でもわかる金の髪と真っ直ぐとこちらに向けられていた青い瞳を、まだ覚えているくらいに。
    「ご令嬢、お怪我はありませんか」
     微笑んでこちらに手を差し伸べ、馬車の中で震えていた彼女にそう言ってくれた男のことを、彼女は確かに綺麗だと思ったのだ。
     けれどだからこそ、男がその場で彼女に結婚を申し込んできたのが気に食わなかった。
     貴族の家に娘として生まれたからには、自分の役目は良家に嫁いで嫡男を生むことであると彼女は理解していた。そうして家を盛り立てていくことが、家族だけでない、彼女の家に仕える人間、それに連なる人間たちすべてに対して彼女が果たせる責任だったから。したがって彼女は結婚にはなから夢など抱いていなかった。好き合った者同士が運命的に出会って末永く幸せに暮らすなんていう綺麗な物語は、所詮本の中にしか存在しない。近頃はモダンガールだの職業婦人だの増えてきたらしいけれど、それは彼女のいる世界の外の話。彼女が住む場所では、まだまだ遠い生き方だ。
     だから本当ならば、彼女は両親が彼女の嫁ぎ先に一文字一家を選んでも傷ついたりへそを曲げたりするはずがなかった。戸惑うことは多かっただろうけれど、きっとそこそこうまくやったはずだ。家のものと適度な関係性を築いて、何となく夫婦関係を維持して、子を産んだり育てたりして、良家の娘らしく、この家の正室らしく振舞っただろう。
     相手が一文字則宗でさえなければ。
    「……則宗?」
     次に彼女が目を覚ましたとき、室内は随分暗くなっていた。夜が更けるまで、彼女はぐっすりと眠っていたらしい。だがその分体調は回復したようで、体を起こしてみても怠さや気分の悪さは覚えなかった。首を回すと、部屋の隅でぼんやりストーブが点いているのが見える。しかし暖房を用意させただろう則宗本人が見当たらなかった。
    「則宗」
     いつも呼べばどこからかやってくるのに、則宗は姿を見せなかった。しっかり握っていたと思うのに、と彼女はシーツについている自分の手を見つめる。俯いた拍子に、布団の上からかけられていたらしい何かがするすると滑って落ちた。暖房のぼんやりとした橙の光でもわかる深紅のストール、則宗のものだ。
     ストールを取り上げて羽織り、彼女はベッドから足を下ろした。部屋の外はシンとしている。皆寝静まっている時間なのだ。部屋の扉を開けてみると、廊下に椅子を置いてそこに座っていた女中が顔を上げた。
    「奥様、お目覚めですか?」
    「……あなたずっとそこにいたの? 寒くない?」
     一応防寒着は着ているようだが、それにしても。彼女が訝しんでいると、女中は立ち上がって彼女に一礼した。
    「ご心配ありがとうございます。御前様が、奥様の様子に変わったことがないか見るようにと」
    「そう……わざわざごめんなさい。もう平気」
    「それはようございました。御前様もお慶びになります」
     その当の御前様はどこに行ったのだろう。暗い廊下を見渡したが、人の気配がない。しかし女中の方はそんな彼女の様子で誰を探しているのか察したようで、寝室の扉を開いて促した。
    「もう遅うございますから、奥様もあとはゆっくりお休みください。寝付きやすいよう白湯でもお持ちしましょうか」
    「いらないわ。則宗はどこ? 部屋?」
    「御前様はもう、お休みですので」
     嘘だな、と彼女はすぐに悟った。そういえば、毎晩姿を消していたのもこのくらいの時間のはず。彼女は羽織っていたストールをぎゅっと握り締めた。
    「……どこか他所へ行っているのなら、教えて」
    「奥様」
    「大丈夫、覚悟はできてるから」
     そう、もう意地を張っていられないのだ。
     もしも、もしも則宗に他に囲うほど好きな女性ができたのだとしたら。彼女はそれを黙って受け入れなくてはならない。それが名家の正室というものである。そちらに子が出来れば則宗の子として、彼女はその子をちゃんとした教育を受けさせてしっかり育てなくてはならない。自分の子かどうかだとか、そんなのは些末な問題なのだ。彼女はそういう風に育てられてきた、だから知っている、わかっている。
     結婚して何年も、へそ曲がりで生意気で、そんな彼女に則宗は一度たりとも無理強いをしなかった。それは結局家のために結婚して、本当のところは彼女に対して愛情はなかったからなのかもしれない。けれどそうだとしても、則宗はいつも夜更けに出て行って、早朝には戻ってきていたのだ。この期に及んでまで、彼女を傷つけないようにしてくれた。
     それならば、彼女とて「良い妻」をするべきだ。
    「ち、違います、奥様、それは違います」
     しかし女中の方は慌てふためいて首を振った。
    「いいの、わかってるから、大体、全部私が悪いの、いつまでも子どもみたいにしてるから」
    「違います、奥様、とにかくお部屋にお戻りください。お話は明日、御前様がなさるはずですから」
    「則宗からなんて聞きたくないっ!」
     ああ、だめだ。子どもっぽく喚いたりするのは良くないとわかっているのに。でも、則宗の口からそんなこと聞きたくなかった。女中から伝え聞くのには耐えられても、あの青い瞳がこちらを見て、彼女が綺麗だと思った唇でそんなこと言ってほしくない。
     そう、綺麗だと思ったからこそ、彼女は則宗に家目的で褒美として自分と結婚なんてしてほしくなかったのだ。
    「御前様!」
     俄かに階下の玄関の方で声がして、彼女はそちらを見た。やっぱり外に出ていた、と思うより他にその尋常ならざる声音の方が気になる。彼女は自然とそちらに向かっていた。
    「則宗、則宗!」
    「奥様、奥様お待ちください!」
     女中が焦って追いかけてくる。けれどそれを振り切って彼女はそのまま玄関まで駆けて行った。途中で室内履きが脱げても気にもならなかった。
    「御前様、すぐに医師を」
    「大した怪我じゃない、そう騒ぐな」
    「御前様」
     目立った明かりは消してあったけれど、手燭を持った使用人が玄関先に集っている。だが則宗の声はしても、あの目立つ金髪や白い服は見えなかったので彼女は階段を駆け下りる。
    「則宗!」
     絨毯敷きを裸足で走って音が殆どしなかったからか、その声でハッとした使用人が何人かこちらを振り返った。すると自然と人だかりが開けて、手燭の明かりの中できらりと何かが光る。それが椅子に腰かけている則宗の金髪だと気づいた彼女はホッとして、そして同時に足を止めた。
    「ひっ……」
     白かったはずの則宗の正装が赤黒く染まっている。怪我をしたのだろうか、則宗は片袖を脱いでいた。いつも飄々とした好々爺のような姿からは想像できない逞しい腕には、彫り物が覗いている。こちらに気づいた則宗が彼女の方を見た。
    「お前さん、起きていたのか。具合は。おい誰か、おひいさんを部屋に連れて行ってくれ、ここは寒い」
    「御前」
     則宗の声を遮って、玄関を開けた黒い服の男たちが何人か屋敷に入ってくる。暗く、服の色も相まって目ではわからなかったけれど、匂いで分かった。彼らも一様に血に塗れている。則宗が面倒くさそうに眉を上げた。
    「なんだ、騒々しい」
    「今一度お戻り願えないでしょうか」
    「若いのは若いの同士でやれ。そもそも僕は隠居してるんだぞ、いちいち呼び出すんじゃない」
    「ですが」
     いつもにこにこだらだらとして彼女の世話を焼きながら屋敷で寛いでいた則宗が、全く知らない顔をしている。それだけで既に彼女は訳が分からなくなっていた。カタカタと手指が震えて、彼女は一歩後ずさる。それに気づいた則宗は彼女を一瞥してため息を吐いた。
    「とにかく帰れ、僕はもう疲れた。十分働いただろう」
    「御前」
     尚も詰め寄る男たちに彼女がびくりとしたとき、則宗が立ち上がった。
    「わからんのか、僕の妻を怯えさせるな。用があるなら昼に出直せと言ってる」
    「しかし」
    「何度も同じことを言わせるな」
     則宗に睨まれ、男たちは各々頭を下げ謝罪をして屋敷から出て行く。はあぁと則宗は心底疲れた表情で再び椅子に座った。
    「まったく、塩でも撒いておけ。夜中に騒々しい。躾がなってない」
    「御前様、手当を」
    「わかった、わかったから。沁みないようにやってくれよ」
     バタバタと使用人たちが一様に湯を沸かしに行ったり救急箱を取りに行ったりする。彼女を追いかけてきた女中が、お部屋に戻りましょうと彼女に促したけれど彼女は首を振った。則宗の方を見つめれば、則宗は彼女の方に怪我をしていないほうの腕を広げた。
    「おいで、僕はお前さんに怖いことをしないだろう」
     正直なところ、血塗れで腕の彫り物が見えて、今の則宗は彼女にとって恐ろしいことばかりだった。それに彼女の着ていたネグリジェは白く、近寄ればきっと汚れてしまうだろう。
     けれど彼女の足は自然と則宗の方に進んでいた。傍に行って、首に腕を回す。綺麗な金髪も所々が血で固まってしまっていた。それでも則宗の頭を彼女はしっかりと抱きしめる。
    「驚かせて悪かった、僕が悪かった。もう大丈夫だ、だからゆっくりお休み」
     ぽんぽんと二度則宗が彼女の肩を叩く。馬鹿だとか心配かけるなだとか言いたいことはたくさんあったのだけれど、彼女は暫くの間そこで則宗に抱き着いてすすり泣いた。


     医者はいいと則宗は言ったけれど、傷は縫合が必要で結局医者を屋敷に呼ぶことになった。それで夜の間ずっと屋敷はバタバタとして、できることはあまりなかった彼女も則宗の部屋におり、早朝少しうとうととした。本人はもう平気だと言ったものの、流石に今日は安静にしているようにと医者は則宗に言いつけて行った。深夜にわざわざ来てくれた医者や看護師に礼を言い、彼女は玄関先までそれを見送る。一文字と懇意にしているというその医者はよくあることだからと言ったけれど、それはそれで嫌だなと彼女は思った。
     そうしてやっと屋敷が落ち着き、彼女も遅い朝と昼を兼ねた食事を摂った頃、やってきたのは一文字の現総代たちだった。山鳥毛というその男性には、彼女も結婚式の折に会ったことがある。左腕役だという日光一文字を連れた山鳥毛は、則宗に挨拶をした後彼女の部屋も訪ねてきた。
    「この度は深夜に屋敷を騒がせて申し訳なかった、奥方。こちらの手落ちだ、心からお詫びする」
    「……ええ、そうね。気を付けてほしいわ」
     少し迷ったけれど、彼女は正直に山鳥毛にそう答えた。
     あとから説明を聞いたところ、このところ夜な夜な則宗が留守にしていたのは一文字の本家に顔を出していたからだったらしい。なんでも、一文字一家の末端の方でいざこざがあり、色々不満を持った者同士がぶつかっただけでなく、隠居した則宗を担ぎ上げようとしたのだとか。それで最初は我関せずで静観していた則宗が重い腰を上げざるを得なかったというわけだ。
     彼女からしてみれば馬鹿馬鹿しい話だが、組織は規模が大きければ大きいほどそう言うことが起きる。彼女の家とて、本家に嫡男がいてそれなりにちゃんとしていたからどっしり構えていられるのであって、分家と合わせて財産の話などすればそういうことになるだろう。彼女も家督を継いだ兄がたまに頭を悩ませていたことを覚えている。
     けれどそれはそれ、これはこれだ。
    「あれはもう隠居したただの私の夫よ。要らぬことで家を騒がせて巻き込まないで」
     年端も行かぬ娘の自分が一文字総代に意見をするのは気が引けたけれど、彼女ははっきりとそう言った。年齢を別にすれば、身分はもちろんのこと隠居した先代の正室という点でも彼女の立場は山鳥毛より上なのである。このくらいは釘を刺したい。
     だが山鳥毛はそれに気を悪くした様子もなく、むしろ恐縮したようにもう一度頭を下げた。
    「その通りだ、申し訳ない。御前に何かあれば奥方の御両所も大層ご心配されることだろう。私の落ち度だ」
    「あ、いえ、私の家が心配することはそうないだろうけど」
    「ん?」
     思っていたよりも気にした風で山鳥毛に返事をされたので、彼女が慌ててフォローすれば、これまた山鳥毛は首を傾げて少し笑う。掛けていた黒眼鏡を山鳥毛は押し上げた。
    「そんなはずはないさ。奥方のご実家は嫁入りのときも酷く渋っておられたのだから、こんなことがあったと聞けば今からでも奥方を家に連れ戻したいと仰るはずだ」
    「……そんなはずないわ、だって私、あんなにすぐ結婚が決まって」
     そうだ、そのはずだ。だって、あの暴漢に襲われた晩からすぐに彼女の結婚は決まった。なにせその間彼女が則宗と顔を合わせたのはたった一度きりだったくらいなのだ。両親から一度会うだけだと言われ、彼女が腹立ちまぎれに則宗に隠居するよう要求したあのときだけ。
     けれどそんな彼女の様子を見て、山鳥毛は何かを察したらしい。やや気まずそうにして口元を押えた。
    「あー、それは、うむ……」
    「それはあなたのご結婚が御前の一目惚れだからです、姫様」
    「は?」
    「日光!」
     聞き捨てならないことを言った日光一文字に対し、山鳥毛が焦って声を上げる。だが日光の方は部屋に入ってからの鉄面皮を変えなかった。
    「姫様がご存じなかったとは知らなかったので」
    「だからといって」
    「知らぬことは、一番姫様にとってよろしくないのでは。御前もご自分では言われぬはず、姫様への負い目ゆえ」
     訥々と日光が答えると、はあと山鳥毛はため息を吐いて片手で顔を覆った。もはや彼女には何が何だかわからない。しかし居住まいを正すと、山鳥毛は口を開いた。
    「あなたの御両所はあなたの結婚には反対しておいでだった。無理もない、一文字一家は侠客、旧家とはいえあなたのご実家とは違いすぎる。結婚後にあなたが苦労することも考えて、特にお母上は縁談を渋っておられた。話し合いの場には私も同席した、嘘ではない」
    「なら、どうして」
    「あなたの条件を御前が呑んだ、それが一番大きいだろう。あなたが出した隠居するなら嫁ぐという条件を、御前は一も二もなく了承してその通りにした。あまつさえ本家を出て別邸を構えるまでしたものだから、そこまでするならと御両所が折れてくださった。本家を出れば、一家のいざこざにあなたが巻き込まれる可能性は低い」
     式の日、父と母は何と言っていただろう。あのとき、彼女は最悪の気分だったのであまり覚えていない。不安そうではなかっただろうか、心配した言葉を言っていなかっただろうか。あれきり、気まずくて彼女は実家に戻ってもいない。兄弟たちと違って一文字の嫁としての役目を果たせていない自分の立場が恥ずかしかった。
     だから余計に意固地になってしまった。自分で自分の首を絞めていた。へそを曲げて、他の誰にも、何も、話を聞くことも問いかけることもしないで。
    「姫様、御前はこまめに、姫様のご実家に便りを出しておいでです」
     再び口を開いた日光が真っ直ぐと彼女の方を見つめて言った。
    「……便り?」
    「はい。姫様が一文字でどう過ごされているか、毎日何をなさっているか。事細かに、お伝えしています。半ば強引に姫様を嫁取りなさったゆえ、きっと心配しているだろうと」
     小さく、彼女は息を吐いた。そうするとここ何年かの捻くれてぐちゃぐちゃになっていた気持ちが、スッと抜けていくような気がした。
    「私……とても恥ずかしいわ。本当に、まるで子どものままだったのね」
     背筋を伸ばし、彼女は正面から山鳥毛と日光の方を向いた。それからしっかりと腰を折って、二人に頭を下げる。
    「……ありがとう。あなたがたのおかげで、私、大切なことを勘違いしたままでいないですんだ」
     顔を上げたとき、山鳥毛と日光は瞳を和らげて微笑んでいた。それに少し面映ゆくなって、肩を竦めて彼女は日光に続ける。
    「でも姫様はやめてくださる? 恥ずかしいから」
    「御前の姫様を姫様と呼んで何がおかしいので」
     大真面目な顔で日光が答える。やっぱりあの「おひいさん」呼びはなにがあってもやめさせよう。彼女は固く心に決めた。


     いつも則宗が使っている湯呑と自分のものを盆に乗せ、彼女は則宗の部屋の扉を叩いた。普段は則宗がしていることだ。扉を開けると、布団用の背もたれに体重を預けていた則宗がこちらを向く。則宗の部屋は和室だった。一文字本家が日本家屋だから、きっとこちらの方が落ち着くのだろう。
    「おや、お前さんが持って来てくれたのか。女中はどうした」
    「私が行くと言ったの」
    「そうか、手間をかけたな」
     布団の傍に座って、彼女は湯呑の茶を差し出した。則宗はずずとそれを一口飲んで盆に戻し、胡坐を組み直す。
    「昨日は悪かった。もう少し早く片を付けるつもりが若いのは血の気が多くていけない、止めるのに手間取った。お前さんの寝巻まで汚して、悪かったよ」
    「……あれは捨ててしまったわ。血は落ちないから」
    「すまんすまん、ならまた買いに行こう。腕の怪我なんかすぐに治る」
    「だめよ。大人しく養生なさい。痕が残ったらどうするの」
     ピシャリと彼女が言い返せば、則宗は肩を竦めて笑った。しかしその拍子に傷が痛んだのか、やや「いてて」と漏らす。
    「ほら、じっとしていなさいとお医者様から言われたのに」
    「うはは、確かに、ざまあないな。大人しくお前さんと先生の言うことを聞くよ」
     静かに言って、則宗は再び背もたれに体を預ける。普段持っている扇子も今日は傍に置いてあった。彼女は黙って、この間則宗がしてくれていたように座っている。自分から則宗の手を取ることはできなかった。
     じっとそうしていると、則宗は窓の外を眺めながらぼそりと呟く。
    「……すまなかったよ。お前さんは勘がいいから、僕が夜出かけているのに気づいていたんだろう」
     彼女は何と言おうか迷い、結局簡潔に答えた。
    「今度から行き先くらい言って」
    「ああ。まあ、本家なんざもう行く用もないだろうがな。僕が夜出歩くことなんてないさ。変に酒なんか呑みに行くより、今はお前さんと茶でも飲んで菓子を摘まんでいる方がいい」
     穏やかに則宗がそう言うのに、彼女は小さく息を吐く。言われてみれば、彼女の前で則宗が酒を飲んでいる所は見たことがない。則宗の嗜好もあるだろうけれど、そんなところまで気遣われていたのが些か情けなかった。
    「……私、てっきり」
    「ん?」
     囁くようにぼやいたのに、則宗は聞き逃さずにこちらを振り返った。彼女はそれにいくらか怯んだものの、仕方なく答える。
    「他所に女の人でも作ったのかと思った」
     だって夜ふけに出て行くのなんて、そのくらいしか彼女は思いつかなかったのだ。だが今冷静になってみれば、飲み歩いていたとしてもそう不思議ではなかったのに。
     則宗は彼女のぼやきを聞いて、ぱちぱちと長い睫毛を瞬いた。青い瞳が驚きでやや見開かれ、それから口を開けて笑い始める。
    「うはははは! お前さん、僕が妾を作ったと思ったのか! そりゃあ本の読み過ぎだぞ!」
    「う、うるさい!」
    「ふ、はは、いてて、笑うと傷が引き攣れる、あまり笑かさないでくれよ」
     耳が羞恥で真っ赤になったのが、鏡を見ずとも分かった。酷く熱くなった首と頬を、彼女は顰め面でやり過ごす。その間も則宗はひいひい言って笑っていた。ひとしきりそうした後に、涙まで出たのか指で眦を払いつつ則宗は崩れかけた体を起こす。
    「生憎と僕はおひいさんの相手で手いっぱいだ。妾なんて作る予定も気もない、覚えておいてくれ」
    「……そんなのわからないじゃない」
     彼女が口を尖らせ拗ねて言えば、傷のない方の手を伸ばして則宗は彼女の頬を軽く摘まんだ。ふふとまだ愉快気にしている。
    「いいや、覚えておいてくれ。僕はお前さんで十分だよ」
    「……私、お前が他所に子どもを作ったときのことまで考えていたのよ」
    「ふ、ふふ、なんだそれは。大体、僕が子どもを作ったところで、僕は隠居してるんだぞ? 本家には他に総代がいるのに、話がこじれるじゃあないか。そんなことはお前さんが気にせんでもいい。ああおかしい、近頃様子がおかしいと思ったら、そんなことずっと気にしていたのか」
    「でも、私」
     ムニムニと好き勝手に彼女の頬を弄っていた則宗は、その手をずらして今度は彼女の頭を撫でた。小さい子どもにするように、よしよしとして宥める。
    「嫡子を産まないんじゃ、お前さんが家に肩身が狭く感じるのはわかる。だが僕も、お前さんの御両所もそんなこと気にしちゃいないさ。結婚するときにそう言った。僕はお前さんに決して無理はさせないし、お前さんに辛い思いをさせるようなこともしない。そう約束した。お前さんの家は僕に念書まで書かせたんだぞ、気にせずたまには里帰りするといい」
     そんなの知らなかった。彼女は唇を噛み締める。本当に、何も知らないことばかりだった。意地を張っていたせいでもう何年も無駄にした。今はそれが口惜しい。
    「……この際だ、言いたいことは全て言ってしまえ」
     穏やかな声で則宗が言う。彼女が自分から取れなかった手は、則宗の方から伸ばして繋いでくれた。
    「則宗……」
    「ん?」
     気を抜くと嗚咽をあげてしまいそうだったので、彼女は俯いて空いている方の手で目元を擦る。
    「なんなのお前は……」
     しかしやっと絞り出せたのはそんなことだった。言いたいことなんてたくさんある。たくさんあってどこから言ったらいいかわからない。
    「私が我儘言っても、へそを曲げていてもどうして文句ひとつ言わないのよ。本の読み過ぎだって言うけど、私が本を選んでいても何も言わないし」
    「そりゃあ、お前さんが好きな本を選んだ方がいいだろう。僕が口を出してどうする」
    「好みくらい聞いたりしなさい! お前の好みがわからなければ私だって、お前と話せないじゃない、お前と何を話したらいいかわからないじゃない!」
     ワッと彼女が声を上げれば、則宗は「おお」なんてちょっと面白そうにした。なんだ人が怒っているのに、何がおおなのだ。こうなったら片っ端から気に入らなかったことを言ってやる。
    「大体御前様なんて呼び方も好きじゃないわ! 酷いおじいさまみたいじゃない!」
    「そうは言ってもなあ、僕はもう隠居したじじいだぞ」
    「なにがじじいよ! お前私と長く添い遂げる気あるの!?」
    「お前さん僕と長く添い遂げたいのか」
     やや驚いたように則宗が言ったので、彼女は愈々腹を立てた。どうしてそこに驚くのだ。
    「当たり前じゃない! それなのにお前は、初夜だって余裕があるとかなんとか言って私のことほったらかしにして、私が、私がどれだけ腹をくくってこの家に来たと思って」
    「そりゃ悪いことをしたが、お前さんついこの間初めて僕の刺青を見て怯えたじゃないか。初夜にあんなものを見て平気だったか?」
    「それとこれとは話が別よ! 何年も放置された私の気持ちも考えなさいよ!」
     彼女がそうしてわんわんと喚くと、流石の則宗も動揺したらしい。座椅子に凭れていた体を再び起こし、彼女の顔を覗き込んだ。
    「おいおい……そう泣かなくてもいいだろう。僕は体は頑丈だし、この間言っていたようにお前さんに買ってやった服が全部くたびれるくらいには長く生きるつもりだぞ。心配するな」
     結局ぐすぐすと鼻を鳴らして、彼女はしゃくりあげる。則宗は彼女の手を一度離して、そのまま肩に回す。鼻を啜ると、僅かに消毒液の匂いがした。目を閉じて則宗の胸元に顔を寄せれば、ふわふわの金髪が頬に当たる。
    「……お前、私を愛している?」
     濁った声で、それだけは聞きたくて、彼女は則宗に尋ねる。則宗が笑うと、彼女のこめかみのあたりで則宗の喉が震えるのがわかった。
    「何かを愛したくなったんだ」
     晴れやかなようで、どこか寂しげに則宗はそう答えた。
    「僕を育てたのは、先代の若い男でな。若いうちに病で死んじまったんだが、まあそれはいい。だがとにかく僕を可愛がってくれた。僕の何が気に入ったんだか知らないが、こいつはきっと将来立派な男になるから、跡継ぎはこいつにすると。そう言って僕を次の総代に選んだ。有難いことに僕はその男の期待に応えられる程度の能力は持っていたし、そうすると周りも大事にしてくれる。気が付いたら、僕はこの時代の一文字の礎を作った祖なんて大層なことを言われるようになってしまった。そうなる風に、先代がずっと言って、愛して、育ててくれていただけだったんだがな」
     彼女の肩に腕を回したままだった則宗は、少しだけ彼女に寄りかかるように体重をかけて指先で彼女の髪を絡め取った。くるくるとそれを指に巻き付けて、そのまま話し続ける。
    「だがある日突然、ふと思った。僕も、何かを同じように愛してみたいと。でも何でもよかったわけじゃあない。そうしたらなんだ、お前さんが僕の前に現れた。お前さん、知らないだろう。僕はお前さんの社交界デビューの日に同じ社交場にいたんだぞ」
    「そんなの知らない……」
     本当に覚えがないのでそう答えると、則宗はまたふふと笑う。彼女の社交界デビューは平均より早い年齢のときだった。そのときも彼女は子どもながらに侘しく思ったものだ。社交界デビューをすると言うことは、良い結婚相手を見つけるための第一歩を踏み出すということ。自分を値踏みされる場所に行くのは気が進まなかった。
    「まだ小さい娘だったのに、きつい目をしていたなあ。この世のすべてに不満がある顔だった。でもそれが僕には泣き出しそうに見えた。泣くのを我慢している顔に見えた」
    「……」
    「それでもお前さんは卒なく周囲の大人が声をかけるのに応対していただろう? そのとき思った。このまま放って置いたらこの娘はきっと周りと同じつまらん大人になって、色んなことを割りきったり飲み込んだりするようになる。それは惜しい。だったら今のこの、素直で、気の強い顔をしたままで自分の手元に置きたい。僕はありのままのお前さんを愛したかったんだ」
     だから、まるで宝物のように彼女のことを世話して構ったというのならこの男は馬鹿である。彼女は静かに目を閉じた。
     馬鹿みたいに素直で、真面目で。少し歪な形をしているけれど、深い愛情をひたすらに彼女に注ぎ続けた。おかげさまで彼女はそれが当たり前になってしまった。いつも傍にいて、呼べば来てくれて、お茶を飲んだりだらだらしたりするこの男がいつだって隣にいることが。
     彼女は凭れていた体を起こした。目元の涙を払って、背筋を伸ばす。泣き喚いて、もう格好がつかないことなどわかっている。けれどこうして真っ直ぐ、意地を張って言いたいことを言う彼女を則宗は愛しているはずだ。
    「お前、本当に私を愛しているというのなら、お前は私よりずっとずっと長生きしなくちゃいけないわ」
     青い瞳がじっと彼女を見つめている。怯むことなく彼女はその瞳から目を逸らさなかった。
    「もうこんな怪我なんて一つもしないで、お前は長生きをして、しわくちゃのおじいさまになっても私のそばにいなくちゃいけないのよ。どんなにヨボヨボでも、それでもお前が選んで私を妻にしたんだから、私を愛しているというのなら、お前は絶対に、私より長生きしなくてはならないのよ。私とずっと、二人で生きていかなくちゃいけないの」
     この答えを得るのに、彼女はもう何年も時間をかけてしまった。だからその分、これから取り返さなくてはならない。その分だけ、則宗には長生きをしてもらわなくては。
    「だって、今更」
     唇を噛んでも、再び彼女の視界が滲んだ。和室の則宗の部屋は窓が大きくて、則宗の目と同じ色の空はまだ日が高く明るい。あの綺麗な金髪も眩しかった。だからきっとそのせいだ。本当に気に食わない、綺麗な男。
    「今更、お前がいない人生を送るなんて、無理だもの」
     彼女のことを思い切り怒って、泣かせて、きっとこれから同じだけ笑わせてくれる。そういう彼女を愛してくれる。腹が立つほどに、則宗以上に彼女を愛する男はいないだろう。
    「私のことを一日だって一人にしたら、承知しないから」
     顔を覆って俯いた彼女を、今度は両腕で則宗は抱きしめた。広い背中に腕を回してしがみつく。
    「僕だってお前さんがいない人生なんてごめんだとも。そんなのはつまらん。これからだって目いっぱい、お前さんを愛せるさ」
     首筋から、ほんの少しだけ彫り物が見えた。駄々を捏ねてでも、彼女は近々それをちゃんと見せてもらおうと思った。彼女は則宗相手なら、意地を張って我儘をいうのが得意なのである。
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