日の傾いた午後の川岸の芦原に揺れる影が二つ。
一人の男は腕組みで立ち、いま一人は傍らにしゃがみ、今は空よりも一段深い色に流れる川面を見つめていた。
視線の先の、水面に波の揺れる震えの上に。
その、そこに揺蕩うそれは、時に向きを変え、また水の流れに上がっては下がり、
戯れるように水に運ばれて、ゆっくりと視界から遠ざかっていった。
「これは、全て錆兎の傍らに埋めてやって下さい」
「では、ご面倒をおかけしますが、その時は後をよろしくお願いします」
冨岡は幾つかに分けた小さな風呂敷の包みを師匠の前に左の手で並べた。
「わかった」
年老いた男は、前に座るまだ年若い弟子を天狗の面の内から眺める。
面立ちだけではない。開けられた穴から透かし見るのは生きているうちに形見分けをしているようなこの時間も。
自分よりも長い時を過ごして、今更にその先を見据えるかのようにきたこの男の。
「おお、そうだ義勇」
思い出すようにつと老人は座を立つと戸の外に出てゆく。
それほどの間もなく戻ってきた鱗滝は手に薄紅の小さなものを持っていた。
「忘れておった」
その包みを、鱗滝は冨岡の今は唯一つの手に差し出し、冨岡はそれをそっと押戴く。
包みの色、そのくるまれた形、重み。何一つ忘れてはいなかった。
その向こうに霞む小さく赤い実を見たような気がしていた。
「おっと」
屈んだ拍子に懐で中身が当たり、からんと乾いた音が鳴る。
耳敏くそれを聞きつけた男が聞いた。
「何だァ?」
簡潔に冨岡は答える。
「下駄だな」
「俺が狭霧山に拾われたときに履いていたやつだ」
冨岡は端座して懐を寛げ、内から縮緬の包みを掴みだすと畳に置き、襟を正した。
それから片手でしゅっと結びを解いて膝の前に広げて見せる。
ひょいと鼻緒を摘まんで中のものを一つ取り上げた冨岡は、載せた膝の上でその目方を確認するように目を落とした。
「山では履かなかった」
「置いてきても良かったが、なんとなく持ち帰ってしまってな」
冨岡の手の中の刃だけ色の変わる小さな塗りの下駄を不死川もまた少し離れたところから眺めた。
挿げた鼻緒は所々綻び、そこに人の手が触れていなかっただろう時間を思わせる。
子供の足だ。これを履いて走っていた子供は今ここに、不死川の目の前に向かい合って座っていた。
「この材は、柿だ」
それを見たまま冨岡は言葉を継ぐ。
「家の裏に柿の木があったんだ。毎日そこに登っては姉に叱られた」
「柿から落ちると、三年で死ぬんだと」
「落ちたのかァ?」
「一度も落ちてない」
冨岡は笑う。
「これで、神経はそう鈍くもないんだ」
どの口が言うんだと思う。
どれだけ励んでも手が届く者は数えるばかりの柱という座に、精励ばかりで辿り着けると誰が思うものか。
俺はお前たちとは違う、その言葉が小憎らしいほど嵌る奴は他にいなかった。
思い出す。闇に目を切り裂くような逆巻く水の奔流と刃の蒼を。
それからまたひとつ、鮮やかに見える気がした。
庭に程高い柿の木を下から見上げて心配する少女。
その木の上で枝に跨り、足をぶらぶらさせながら声を上げて笑う子供の姿が。
「遠くまで見渡せるあの眺めが好きだった」
「周りの家並みと
田畑、その遥か向こうを真っ直ぐに走る汽車の煙。その向こうに富士だ」
「いつか木が枯れて、それで下駄を作ってもらった。あとにはまた若木を植えて」
冨岡はそこで一つ息をつく。
「それが実をつける前に俺は家を出た」
「今の屋敷に柿を入れてもらったのは、名残だな。俺の」
水柱の屋敷の、軒の横の柿が不死川の脳裏をよぎる。
妙なところに植えてあるもんだと思ったが。
載せた膝から敷いた薄紅の上に冨岡はそろりと下駄を下ろした。
二つ並んだ小さなそれがぽつんと頼りない風情を醸した。
不死川が言う。
「冨岡の墓に入れてもらえよ。姉さんと一緒に」
「そこにあるのは姉の髪紐だ。それと俺の髪と爪も」
「ずっと離れないと、そう願って」
冨岡は少し考え、己の内を確かめるように首をひとつ横に振った。
「あの子供はあそこから出たんだ」
「もう、あそこにはいない」
「姉は、今はもういつも俺のそばにいる」
「なら」
「いつか、弔ってくれる人間に渡しゃァいい」
その言葉に冨岡は半ばは首肯するように、また半ばは畳の上を見るように目を伏せた。
「うん。そうかもしれん」
今しばしの思案の後冨岡はふっと顔を上げ、言った。
「ちょっと付き合ってくれないか」
砂利を踏んで水際に屈み下駄を手から離す前に、冨岡はくすりと笑う。
「土座衛門が出たと思われるかな」
「間違ってはねぇな。俺達は半分土座衛門みてぇなもんだろう」
ごく当たり前の声色で不死川は言った。
水面に差し伸べた左の手から離れた二つの小さな下駄が、思いがけず速い流れに乗って
下へ下り始める。
冨岡はそこにしゃがんで腰を落としたまま、揺れて遠ざかるその姿を見ていた。
不死川もまた脈を打つように揺らめく水面に浮かんだそれをじっと見据えていた。
「その辺に引っかかってるかもしれねェ」
「それともどっかの乞食に拾われるかもしれねぇな」
「だが、運がよけりゃァ
河口まで行きつく」
「ことによっちゃ、もっと遠くまで」
何処へ。
知らない何処かへ。遥か先の。
つもる日々を、幼い日々を戻らない流れに乗せたまま往く今日を見送って。
明日へ。誰も知らぬ日々へと。
去年のボツ原稿。ちまちまとこれを削りながら無限列車編に先立つ兄妹の絆編をリアタイしていたのですが、次回予告に小義勇が出た瞬間心臓が凍りました。いわゆる「ヒュッ」というやつです。そうです。彼が履いていたのは下駄ではなく草履だったのです…。
だからこれは違う世界線の何かということで。連載中から二次をやられていた方たちのご苦労が偲ばれる…。
このたび無限列車編再放映につきこそっと公開にしてみた。羽黒の表と裏。かつてあったものと今ここにあるものとの相似と差異と。