スイートホームスイートホーム 遅くなるから部屋で待っていてくれとメッセージを送れば、返ってきたのはウインクしたキャラクターひとつだった。丸を描く二本指から見て、了解、の意味だろう。
「…………」
短く瞑目して端末を置く。液晶画面を下に伏したが意味はない。隠したのではなく、たまたまだ。
アーチャーはため息を飲みこみ、疲労の帯びる目を眇めてディスプレイと向きあった。
「ただいま」
「おー、おかえり。遅かったな」
「ああ」
玄関ドアの鍵を閉めて靴を脱ぐ。ネクタイを緩めながら短い廊下を進むとリビングの明かりが目を差した。
ソファに転がっていたらしい同居人が起き上がりきるのを待たずに隣室を開ける。電気はつけないまま鞄を置き、クローゼットを開けて背広を脱いだ。
ワードローブと向かい合いながら、帰宅してからいまだ姿を見ていない男に声をかける。
「夕飯は」
「済ませちったけど。なんだ、食ってねえのか」
「いや、軽く食べた」
「コンビニ飯か?」
揶揄するような言い方だが否定できない。
アーチャーの無言の肯定に、「腹減ってんならラーメンでも作るか?」殊勝な提案が寄越された。
「オレも小腹減ったとこだし」
「……そうか。なら、お願いしようか」
「あいよ」
無視できる程度の空腹感だったが、せっかくの申し出だと素直に受けることにした。明るい戸口の前を影が横切る。
「ああ、そうだ。ランサー」
「あ?」
呼び止めて部屋を出る。
キッチンに向かいかけの足を止めたランサーは、寝る前だからだろう、いつもは後ろでひとつにまとめている髪をそのまま背に流していた。
アーチャーはネクタイとベルトを外しただけの恰好だ。ランサーの腕を引いて胸に抱けばワイシャツ越しに男の体温が沁みる。
「なんだよ、珍しい。ヤなことでもあったか?」
顔も見ずにぎゅうぎゅう抱きこむアーチャーの背を手が撫でた。
笑う振動が直に伝う。
「何もない」
「嘘をつけ」
「本当だ、何もない。……何もないが、何もできない自分の不甲斐なさが申し訳なくてな」
すまない、と言えば「はあ?」耳元で頓狂な声があがる。なんだそりゃ、と続けられた。
「…………」
「黙るな」
「……今日は、外で会う約束だっただろう」
ランサーの肩越しに床を眺める。
今日は仕事上がりに外で会う約束をしていた。
テレビで話題にされていたバーへ行ってみようと、最初に提案したのはランサーだ。アーチャーはそれに賛同して、思いつきのまま放置する言い出しっぺの代わりに店を調べた。
久しぶりにまともなデートができると思っていた。少しばかり浮かれてもいただろう。──が、いざ当日になってみれば、明日使う資料作成に追われて就業時間どころか、かろうじて日付を越えずに済んだ有様だ。
先に部屋へと連絡を入れておいた相手はすっかりくつろいで、あとは寝るだけの恰好だ。今から外へと言う気は毛頭ないものの、果たせなかった約束に消沈せずにはいられない。
「仕事だ、仕方ねえだろ」
「そう、だが……」
「明後日になりゃ休みだし」
「ああ」
そうだな、とため息混じりに頷いた。腹の奥から息を吐く。世のビジネスマンの大多数がそうであるように、アーチャーもランサーも土日はカレンダー通りの休日にあたる。
ランサーはその上下する背を撫でてから叩き、離すよう促した。ラーメン食うだろ、と鼻先をつきあわせて問う。
「着替えてこい」
撫で上げているアーチャーの前髪を雑に掻き乱してから、くるりと背を向けた。鼻歌交じりにキッチンに立つ。なぜか機嫌がいいらしい。
シンク下から鍋を取り出して水を注ぐ。
「何か良いことでもあったか」
「ああ? 別にねえけど」
即席麺の袋を探すランサーにキッチンは任せて、アーチャーは言われたとおりズボンを履き替えた。ワイシャツはボタンをひとつ外しただけで済ます。
手を洗って戻れば、ランサーはざく切りにしたキャベツとタマネギを鍋に投下して菜箸を握り、コンロの前にいた。いつもとは逆だ。
何か手伝いをと近づいたが座ってビールでも飲んでいろと追い払われ、仕方なくダイニングのイスを引く。
頬杖をついて、鍋と向きあう青い背を眺めた。
「待たせて退屈させたかと思ったが」
「ヒマではあったな。だがまあ、外で待ちぼうけ食らわされたわけでもねえし」
「約束を反故にしてすまなかった」
「だからそれはいいっつの。これだって立派なオウチデートだろ」
予想外の単語に、オウチデート、とアーチャーは思わず繰り返した。
その言わんとしている意味を飲みこんで頷く。なるほど。
「君とならどこでも構わない、と」
「オレぁそんなキザったらしい言い回しはしねえ」
言い直せば、気に入らなかったらしい。肩越しに半眼で睨まれた。
「まあなんだ。外で会おうと部屋にいようと、どうせヤるこた一緒だしな」
「君のその明け透けな物言いはなんとかならないのか」
「おまえのクサい台詞よりはマシだと思うがね」
ランサーは器に即席麺の粉末を入れて火を止めた。鍋を傾けてスープを器に注ぎながら背で笑う。
「できたぞ」
箸と蓮華を用意する傍らから、アーチャーは器を二つテーブルへ移した。
運んで振り返った手に箸を押しつけられて何事かと伺えば、ランサーは冷蔵庫からビールを二缶取り出した。コップはないまま席に着く。
プルタブを引くと、プシ、と疲れを払う音がした。
「いただきます。と、おつかれ」
「いただきます。君もな」
すでに日付が変わって今日の朝にはまた出勤だが、今日が終われば休日だ。
たまには外で恋人らしいデートでもするかと訊けば、ラーメンを啜り缶ビールを煽る男はちょいと眉を上げて、足腰が立てばな、と意地の悪い笑みを浮かべた。
愛撫誘発性攻撃行動 ただいま、と玄関から聞こえてきた声はその時点でずいぶんと沈んでいた。
組んだ足の上、タブレット端末から顔を上げたアーチャーが待つこと数秒。
「おかえり、ランサー」
リビングのドアを開けた青年に目を細め、迎えの言葉をかけた。皮張りのソファを軋ませて立ち上がる。
帰宅したランサーは不機嫌に苛立ちを混ぜた剣呑な赤眼でアーチャーを睨みつけた。──これは怒っているのではなく、疲れきっているときの顔だ。
週明けから早々に何かあったのか。夕飯の時刻は過ぎたものの日付を越えるにはまだ早い。
「何か食べるか? それとも先に風呂へ、った、うわ!」
ドン、と胸に衝撃。ぐらついた上体を戻そうとしたアーチャーは、しかし抵抗むなしく、腰を上げたばかりのソファに背中から逆戻りさせられた。息を詰めて目を白黒させながらも、腰に回ったランサーの腕を潰さないよう背を浮かす。
床に落ちた鈍い音はランサーの通勤カバンか。ぱたん、と続いた軽い音はどうやら水平に倒れたらしい。精密機器は入っていないようだったが口は開いていたのか、何かが滑り出たようだった。
ソファから頭を上げたところでランサーの背が見えるばかりで、床は見えない。
「ランサー?」
「…………」
押し倒すというよりも自分ごと突き落とす形で抱きついてきたランサーは、アーチャーの胸に顔を埋めたまま動きを止めた。
呼びかけにも返事をしない。
息を吐いて力を抜けば全身に重しがかかる。
「……何かあったのか」
顎を引き、先に見える青い後頭部をわしわしと掻き乱して撫でつけた。うなじで括られた髪を梳き、スーツの背に流して指に絡める。
外気を纏っていたランサーの背広にネクタイ、ワイシャツと、接する面すべてにアーチャーの体温が馴染んだころになってからようやく青い頭が上がり、額を見せた。
「落ち着いたか?」
「……おう」
二度目のおかえりに、ただいま、と返す。アーチャーのシャツを息が焼く。
アーチャーは宥めるようにぽんぽんとランサーの背を叩いて苦笑した。
「週明けから疲労困憊だな」
「……コトミネの野郎が」
「ああ」
「疲れた……」
「おつかれさま」
うう、と額が押しつけられる。上がった面はまた伏せられた。
ランサーが具体的に“何”と語らないのは原因を思い出したくもないのか、詳細を話すことすら億劫なほど疲れているのか、その両方か。
アーチャーは短い答えの中に背景を察しつつ、たいへんだな、と一言だけで労った。
「何かあたたかい物でも飲むか? 腹が減っているなら作るが」
「……、ん」
「このまま寝てもかまわんが、その場合は裸で転がされても文句は言うなよ」
「追剥ぎかよ」
「スーツに皺がつかないようにという優しさだ」
シャツは洗濯のために。下着ぐらいは残してやろう。
天井を見上げて笑う。
鏡を見なくとも、アーチャーは自分がいつになく穏やかな表情をしているとわかった。疲れきっているランサーには悪いが、甘えられて悪い気はしない。
うつ伏せで重しになったままのランサーは、まだ動く気にはなれないらしい。手慰みにその青い髪をいじる。
耳のうしろを擦って耳朶を包む。手首を掴まれやめさせられた。
ランサーはアーチャーの両手を握り、のっそりと顔を上げた。──目を眇めた凶悪な顔つきもかわいく見えるのだから重症だ。
「……ふろ」
「ああ」
「風呂、入る」
「そうか。湯はもう張ってあるから」
「テメェもだ」
ゆっくり浸かって疲れを癒すといい。そう続けようとして、アーチャーは目をしばたたかせた。
下唇を突きだしたランサーはアーチャーの胸に顎を載せて、なんだよ、と口角を下げる。
「……どうした?」
「ああ?」
「いや、その」
「なんだ、いやか」
「嫌ではない」
「だったらいいじゃねぇか」
なんか悪いことあるかとまで言い切られて、アーチャーに否やがあるはずもない。
「承知した」
気が変わる前にとランサーの背を押さえて起き上がり、
「おわ!?」
そのまま縦に担いだ。両脚を脇にまとめて固定する。
反射的にしがみついたランサーは犬歯を剥いた。眦が赤いのは、まさか抱き上げられるとは思わなかったからだろう。
「てめっ」
「疲れているようだからな。運んでやろう」
ランサー曰く胡散臭い笑顔を浮かべて嘯く。
鼻先を突きあわせた同居人兼恋人は、アーチャーがこういった言い方をすれば「ふざけるな」か「デケェ世話だ」と噛みついてくるのが常だ。──が、今日は珍しくもそういった気分ではないらしい。
ランサーは何も言わずに鼻を鳴らすと、アーチャーの首にしがみついて力を抜いた。
下がってきた体を抱えなおしてリビングを出る。
「痛いぞ、ランサー」
「うるへえ」
抗議か愛情か、首筋を噛んでくるランサーの背を叩いて脱衣所へ。
Think outside the box. 差し出す右手は剣の代わりだと、聞いたことがある。
「アーチャーだ」
「ランサー=クー・フーリン。ランサーでいい」
アーチャーと名乗った男の手を握り返して離す。きつめの握手は牽制か。口角が自然とつり上がる。芯のあるクライアントは嫌いではない。
促されて腰を下ろす。皮張りのソファはまだ新しいのか、引き攣れた音がした。
出入り口のある壁はガラスにスクリーンが降ろされ、応接用のソファとテーブルを挟んだ向かいの窓は高層階らしくビルが敷き詰められて空が眩しい。対面するアーチャーも目を細めてランサーを見た。
「単刀直入に言おう。君を買いたい」
「……検討したいってのは、商品じゃなくて社員のことだったか。引き抜きの話なら帰らせてもらう」
「失礼、言い間違いだ。君から買いたい。ほかの者から買うつもりはない、と言うつもりだった」
「…………」
「本当だ」
座ってくれ、と手のひらが薙ぐ。
ランサーは言葉どおり帰るつもりで立ち上がったが、言い間違いだと嘯いたまま平然と見上げてくる男と視線を合わせて、元のように座りなおした。
「先に言っておくが、オレに男色の趣味はない」
「私にもない」
だったら誤解を招くような言い方するんじゃねえよ、と喉元まで出かけた文句を飲みこむ。
アーチャーは背もたれに身を預けて足を組み、眉尻を下げた。
「ヘッドハンティングしたい気持ちは本当だが」
「…………」
「今ではない。そう睨むな」
滑らかに吐きだされるセリフは芝居がかって嘘くさい。
無言で睨みつけるランサーに首を傾げる。まるで子どもを窘める親のようだ。
「優秀な人材を欲しがるのは当然だろう?」
「そこは否定しないが、オレはスカウトされに来たわけじゃないんでね。本題に入らないのなら」
「せっかちだな、君は」
「性分でね」
鼻を鳴らす。
仮にも客相手にとる態度ではないが、アーチャーは気にした様子もなく肩をすくめた。雑談を終わらせて「では、話を聞こう」切り替える。
ランサーが鞄から取り出した資料を受け取り、目を通す。
形式的な製品説明を聞き流しているようで、遮って投げられる質問は聞かれたくないポイントがきっちり抑えられていた。──侮って舐められるのは癪だと、ランサーが意地を張るところまで最初から計算されているとしたらたいしたものだ。
商談自体は最初の問答がウソのようにスムーズだった。
鈍色の目が伏せられる。
「いいだろう。明日、見積もりを持ってきてくれ」
「時間は?」
「今日と同じで。ああ、夜でもいいが」
「延長はなしだ」
「つれないな」
態度だけは殊勝に、返事はまるで残念そうに聞こえない。
立ち上がって会議室を出る。閉めきっていたドアをランサーが先んじて開けたのは、妙な意地の張り合いだ。エスコートされるのは気に食わないと大股で近づき踏みこんだせいで、同じように伸びていたアーチャーの指先にふれた。事故だ。
受付の前を通過する。
八機あるエレベーターはどれも稼働中らしく、下降のランプをつけた一機が下りてくるまで長く感じた。
到着を知らせる音とともにドアが開く。
「では、また明日」
「ああ」
無人の箱がランサーをしまって閉じる。
その扉が隙間なくあわさるまで、アーチャーと互いに睨みあう視線を外さなかった。別れを惜しむかのように。
同棲している“カノジョ”の話を求められたランサーは、果たして出会いのアレはなれ初めと言っていいのか、思い出して首を傾げた。
アーチャーはひと目惚れだったと言っていたが、どうだか。
運命というには色気のないはじまりだった。