merrow「これは貴方のですか」
静かな断定口調で差しだされた本からその腕を辿って見上げると、美しい蛇と目が合った。
同僚のライダーだ。眼鏡越しの双眸が細められる。
「──ああ。それが?」
わざわざワインセラーまで持ってきて確認するほど急ぎの要件かと思えば、「たいしたことではありません」違うらしい。それどころか、お返しします、と二センチばかり鼻先に本が近づけられた。
私はセラーからワインを一本抜いて腰を上げた。空いている手でライダーから本を受け取る。
「人魚姫」
タイトルが読み上げられた。ライダーだ。私の隣に立ってはいるものの、その目はセラーのワインを順に追うばかりでこちらは見ない。
「またあの客ですか」
ボトルを一本、静かに抜いてラベルを確認してから戻す。
「断ればいいのでは?」
「彼は上客だ。特に問題行動があるわけでもなし、本の読み聞かせ程度で満足度が上がるなら惜しむこともあるまい」
目的を達した私はライダーの話につきあって肩をすくめた。数分ならば支障はない。
三本目で納得のいくものが見つかったのか、ライダーがようやくその顔を上げた。
「物好きですね」
「それは相手に言ってくれ」
「遠慮しておきます。関わりたくないので」
辛辣だ。そこまで嫌われるような男ではないと思うが。
「ところで、ライダー。君はワインを選ぶためにこの本が必要だったのか?」
まさか私と会話をするきっかけがほしくて──ではあるまい。ありえない。
思ったとおりライダーは首を横に振ってから、
「ちょうど目に留まったものですから」
思わず最後まで読んでしまいましたと言った。
なるほど。
「つまり君は、読みふけっているうちに元の場所がどこだかわからなくなったと」
「お先に失礼します」
図星か。
意外と大雑把なところのあるライダーはその長い髪を揺らして、ひとつしかないセラーの出入口から立ち去った。
ノックをしてもしばらく反応がなかったため外出したか寝ているかと思えば、かなり遅れて返事があった。
入ってきてくれと言われて仕方なく部屋の鍵を開けて中へ。
仕方なく、というのは自分で開けるのが面倒なのではなくセキュリティの問題だ。
部屋主の
命なしに──あるいは緊急と察せられるときか、掃除のとき以外は──勝手に開けて入っては、侵入と見做されても文句は言えない。
キャスターは風呂に入っていたようだった。リビングルームの奥、開け放たれた寝室から、バスローブ姿の男が姿を現す。
濡れそぼった青い髪と湿気を帯びた肌を見て、思わず口を突いた。
「
人魚」
「あ?」
「──いえ」
ワインをお持ちしましたと言って誤魔化した。
ソファのあるリビングに用意するよう受けてローテーブルの近くにワゴンを寄せる。バケツ型の
容器に詰まった氷がその山を小さく崩して音を立てた。
スリッパをぺたぺた鳴らしながら人魚──キャスターがソファに近づく。
「おまえも飲めよ」
「職務中だ」
「つきあいの悪い」
喉で笑う。断られるとわかった上での誘いだった。互いに承知しての会話は軽い。
タオル地のバスローブは膝下まで長さがあるため、露出はあまり高くない。とはいえ腰の紐一本で留められたそれは簡単に肌蹴てしまう。座って開いた両膝のあいだから
脹脛が見えた。
私は何食わぬ顔でテーブルにコースターとワイングラスを設置した。ワインのラベルを見せてから封を切ってコルクを抜く。
「テイスティングは」
「不要だ」
堅苦しいと最初に断られて以来変わらない
注文に了承し、グラスに赤を
注ぎ入れた。
これが普通の──キャスター以外の客であったなら、三度目も訊くような愚行はしない。客の嗜好と
思考を把握して先回りできずして何が
執事か。
だが、この男相手は別だった。これで四度目になるやりとりを繰り返すのは嫌がらせに近い。
私にとっては、だが。このあとに待ち受ける時間を思えばこれくらいかわいいものだ。
「今日はなんだ」
キャスターはまるで
麦酒か
炭酸のようにワインを煽ると、こちらを見上げて楽しそうに尋ねてきた。
私はそのくちびるの赤を見ないよう注意しながら二杯目を
注ぐ。
「人魚姫だ」
「リトル・マーメイドか。またずいぶんロマンチックなやつを選んできたな」
対面のソファに座るよう目で促されたが、気づかなかったことにした。キャスターがその手を伸ばせば届くけれど近すぎない距離に立って控える。
クーラーにワインボトルを差す。
大概の赤ワインは常温だ。しかしこのワインは室温より少しだけ冷やしたほうがいい。というのも理由のひとつだが、風呂上がりのキャスターには常温より冷たいくらいがおいしいと感じるはずだ。あまり冷やしすぎてもよくないけれど。
「
王道だろう」
私は本についてそう嘯いた。この男からワインの産地や歴史について聞かれたことは一度もない。
キャスターがワイングラスを片手に目を眇めた。おもしろがっているようで、底の読めない
瞳だ。顎でワゴンを指す。
「そいつが『オレに聞かせたい話』か?」
「…………」
私は黙ってワゴンの下段に載せてきた本を取り上げる。
前に、といってもほんの数日前だが、たまにはリクエストはないのかと、私から戯れに聞いた。聞いてしまった。よせばいいものを。
『そうさなぁ……。なら、次は“オレに聞かせたい話”を選んでこい』
ベッドに寝転んだ格好で、この男はまるきり子供のように瞼を重くしながらそう
命令した。
その結果が今日のこれだ。
「そう思うなら、そうなのだろう」
「おいおい、客のリクエストに応えないつもりか?」
「私は否定していない。君の好きなように受け取るといい」
君のために用意したものであることには変わりない。そう告げて本を開く。原文のまま改竄されていない童話はその内容に合わせてか挿絵の人魚も写実的で、子供向けとは言い難い。
目の前の大きな子供にはちょうどいい。
人魚は叶わぬ恋をする。
溺死を免れた王子は修道女に懸想する。
王子は人魚に思わせぶりなことを囁き希望を持たせておきながら、最後は修道女だった王女と結ばれて、人魚は王子を殺せずに泡となり風に生まれ変わる。
風になった哀れな女は天国を待ち望む。そこで今度こそ男の魂を手に入れるために。
「──めでたしめでたし」
「ぞっとしねえな」
やり方が気に食わねえと、キャスターはその赤い瞳で私を睨みつけた。
声を失い足を得て一途に王子を想う人魚を健気と見るか、天国で男の魂を手に入れることをあきらめない執念を恐ろしいと感じるか、見方は人それぞれだ。
肩をすくめる。
「
終わり方の苦情は作者に言ってくれ」
この話を選び、持ってきたのは私だが。
世界的に有名な童話だから。理由はそれだけで、他意はない。──あったところで教える気もない。
「寝るならベッドに行け」
ソファでだらしがなく垂れるキャスターを見下ろして眉をひそめる。そういえばこの男、まだバスローブのままだ。
「キャスター」
「つれてってくれ」
「起きているなら自力で歩け、Sir Cu Chulainn」
敬称をつけて呼ばれることを嫌うとわかっていて呼んでやれば思ったとおり顰め面を向けられた。下向きに曲がった口角が可笑しい。
バスローブの肩にふれる。
「ほら、立てるか」
「……こどもじゃねーっつの」
「そう主張したいならしっかり歩け」
自分とほぼ変わらない体格の男を抱えてやることは、まあ、できなくはないが、遠慮したいので肩を貸してベッドルームまで連行した。
我ながら行き過ぎたサービスだという自覚はある。