memoria/l ごぽ、と泡が生まれる。紛れも無い、オレの足掻きの証。
丁度自分の口元にぶつかる味気のしない水を吐き出しながら、爪先で水底を蹴る。吐き出したそばからシャツに重く染み込んでは、行く手を阻む。昏く曇った空が反射するせいか水も濁って底の状態が見えないので、裸足の皮膚でどうにか感じ取る。
——息が、苦しい。呼吸をしようとした途端に、喉がつっかえる。
咳き込んではいけない。今は、駄目だ。せめてどこか人に見られない所で、例えば自分の部屋で——違う。それは『今』じゃない。ここ暫くオレの頭を支配していたその思考と習慣に、此処が虚ろな夢である事を思い知る。だって今オレは、■■■に居る筈だ。
自覚して一抹の冷静さを取り戻したが故か、偶然か。足の裏が、しっかりと全体で底の土を感じられる水深まで来た。飛沫で埋め尽くされていた視界が拓け、正面に立ち尽くす枯れ木を視認した。枯れているが幹は太く、支えにするには十分だった。
オレは尽きかけている体力を奮い立たせ、ざばざばと水を掻き分けて進む。辿り着く頃には、上半身が水面の上にあった。案の定白いシャツはぐっしょりと水を吸っていて、空気に触れたせいで背筋も凍る。漸く見つけた藁かカルネアデスの板かのように木に掴まりながら、辺りを観察する。
(……何も、妙なもんは無い、か……?)
水面は延々と続いているように見える。ただ、空が昏いせいで遠くが曖昧だ。『地平線の果て』とまでは断定出来ない。周りにはこの木の他には、さっきまで来る途中にも稀にぶつかった、くすんだ色をした流木が疎らに漂っている。それ以外は、何も。
(……——いや。あれ、は)
動かしていた視線が、ぴたり、一箇所で止まる。流木の中の一点。黒い影。違う、……髪だ。黒い髪。そして白くすらりとした、幼い横顔。
ざぱ、と。自分の思考より先に足が動いていた。せっかくの止まり木を手放し、また水の深い方へ。けれども自分の顔が隠れる程じゃない。だから、いや仮にまた水に溺れる事になっても、行かないと。——何故?
(オレが、……オレが、行かなきゃならねーんだ)
思い浮かぶ言葉に、理由は付加されない。それはオレの中だけで消化したものだ。
足に水が纏わりつく。流木が体を掠めた拍子に視界がブレる。一歩進むたびに、体が重くなっていく感覚さえする。『あれ』に近付くというのはそういう事だ。途端に、ぐら、と目眩を覚えた。頭を抱えて下を向くと、黒く濁った水が映る。そこに、じわり、鮮やかな色が混ざった。
「…………、ッ……?」
顔を上げると、眼前に目的地があった。そこに居たのは生きた人間でも、死体ですらなく。置いてきたはずの、空の果ての模様を描いた見慣れたジャケットだけだった。じわり、じわりと、誰かの体内にあったはずの、
ピンク色の液体を滲ませて。手を伸ばす。触れても手応えが無い。染み込んでいく。輪郭が、分からなくなる。あいつの輪郭が。
何処に。
何処に、行った。
(この手で、■した)
「……——、」
声は音にならずに空気に溶けた。気配を感じて振り返るのが先だったからだ。オレは今来た方を向く。枯れ木は変わらずそこにあって、……しいて言えば、その上に大きなカラスが腰掛けていた事が変わった点だ。勿論、比喩だ。カラスと呼ぶには服は白かったし、上半身は裸だったのだが。こんな殺風景の中では余計に寒々しく映る。
カラスは——否、男は何も言わず、足を組みながら頬杖をつき、太い枝に優雅に座っている。こちらに居たと思えばもうあちらに居る。夢の中なら何でも『そういうものだ』と納得出来てしまうし、この男ならそれも可能だとすら思った。それが血の通った人間である事を知っても尚。
枯れ木の方を睨んだまま、オレは後ろ手でジャケットを探り当てる。色も重量も文字通り重みを増した、触り慣れた生地を水面で引きずりながら、一歩ずつ木の方へ進む。男は相変わらず口を開かず、微かに笑みすら浮かべながらこちらを観察している。性格が悪い。
けれどそれ以上に、喋らないあいつは率直に気味が悪く。その死の間際の、必要な事しか喋る事が出来なくなった蒼褪めた顔を思い起こさせる。……酷い夢だ。こんなタイミングで、こんな風景を見せてくる。気が滅入るにも程がある。
(……でも。最後のチャンス、なのかもな……)
冷たい水に、己の体を浸す。思考を回す。気がつけば、木の根元まで戻って来ていた。
男は手を伸ばす。オレを引き上げようとしているのではないのは分かった。『それを返せ』とでも言いたげだ。元はオレのものだというのに理不尽だが、くれてやった手前、渋るつもりもなかった。
(……言うべき事は、全部『あいつ』には言ったつもりだけどよ)
——目の前で、重力など知らないかのように腰掛けているそれは、夢だ。残像だ。
きっと本人では無い。それでいい。
それは、葬式が死者の見送りのためであると同時に、生者が想いに区切りをつけるための儀式であるように。
「……なあ、王馬」
漸く、その名前を口に出来た。幻影は首を傾ける。ちゃぷ、と音を立ててジャケットを水面から引き上げ、奴に向かって突き出しながら、オレは口にする。
「オレは、テメーの事嫌いだった」
きょとんと丸い、生前のあいつと変わらぬ菫色が光る。それが『そんな事知ってる』と言わんばかりに細められそうになった所に、付け加える。ああ、こればかりはあの場では言えなかった。あいつの決意を踏みにじってしまうような予感がしたからだ。
「嫌いだったし、気に食わなかったし、許せねーけどよ。——死んでほしいなんて本気で思った事、一度も無かったんだよ」
——あいつがオレに計画を持ちかけた時に使った言葉と言えば、脅し紛いの謳い文句ばかりで。手を替え品を替えあらゆる形で繰り出されたそれらは、確かにオレの決断に影響を及ぼしはしたが、根幹たる理由とはピントがずれていた。
(あいつは、オレが計画に乗った理由を誤解したまま、死んだんだろうな……)
だからどうだとは思わない。同様に、黒幕を打倒するという啖呵の真意も、あいつのものだけでいい。
逆に、だからこそ気になった箇所があった。たった一点だけ。
本当は幾多の策を巡らせていたのかもしれない。ハルマキが乗り込んで来たあの状況に——あれも黒幕がけしかけたのだろうとあいつは言っていた——対応する策が、あれしかなかったのかもしれない。
(なあ、それでも。テメーの策の中で、——テメーの生存ってもんは、どんだけの重さを占めてたんだよ)
目の前の影は、何も語らない。ただ、口の端を少し上げただけだった。オレも答えは求めていなかった。
この影がただの、オレの頭の中の想像でしかないのなら、この無言も道理だ。あいつを理解するにはこの数十日間は短すぎたし、もし仮に何十年一緒に居たとしても理解出来る気もしない。他人同士なのだから当たり前だし分からない事があって然るべきなのだが、あいつに関しては特にそうだと思う。
オレに出来るのは。手持ちの
道筋と知識をフル活用し、あいつがどんな喋り方とトーンと理論で言葉を並び立てるのかを再現する事くらいだ。
そう、改めて託された役目を反芻した所で、ジャケットがオレの手から離れた。
水を吸ってくったりしていたジャケットは、向こうの手に渡るとみるみる乾いていく。瞬きの間に、ふわりと空中に靡いていた。まるで次元を超えたような変質の仕方。未だ此岸と彼岸は分かたれている。影はひらりとジャケットを翻し、その背に羽織る。最期に見た姿はそれに近いものだった。眺めるオレを他所に、影はあいつのように不敵に笑い——しゅわりと、それこそ夢のように消えた。
水底に足をつけ、一人佇む。休息と儀式は此処まで。休息というには時間も体力も使ってしまった。
オレは空を見上げる。意識を浸透させ、夢という沼から、現実という海へ戻る。託されたものなら、しっかり果たしてやる。台本通りとは行かないかもしれないが。
背中からそっと、水面に自身の体を倒れさせる。ざぶ、こぽぽ……と空気を裂く音が聞こえる。せめて、最後までオレらしく生きてやるよ。そうして昏い空を切り裂く、光の一つになってやる。
(まあ、そういう手向けは、テメーの好みじゃねーかもな)