残留感覚「この暑い中で、暑苦しい男に暑苦しい格好されると見てて不快なんだよねー」
廊下を歩いて階段に差し掛かった所で、横から愉しげな言葉の矢が頭をすこんと突き抜ける。オレはシャツの袖のボタンを留めながら、少し重くなる気を奮い立たせて声の主の方に顔を向ける。そいつは普段の、色しか涼しげではない普段の服とは異なる、黒いTシャツを着ていた。薄く笑みを浮かべながら、段差に腰掛けてこちらを見下ろしている。
「……るせーよ」
「あの自己主張が激しいジャケット着てないのは褒めてやってもいいけど、その長ったらしい袖も捲ればいいのに」
「誰のせいだ、誰の」
「んー? なーにそれ、オレが関係あるみたいじゃん!」
トボけたように肩を竦める姿に、あるだろーが、と言い掛けた言葉を飲み込む。こんな声の響く階段で話していい内容ではない。左の前腕に、くっきりとヒトの歯型が付いている、なんてのは。
今日は、秋とは思えないほど強い日差しが照りつけている。こうして校舎内に居ればマシだが、一歩外に出れば太陽に焼き殺されそうになる。とは言っても最近雨続きだった所に珍しい快晴なので、先刻まで終一やハルマキと木陰でトレーニングをしていたのだ。本当はその時に暑いので長袖も脱ごうとしたのだが、袖を捲った所で
それを初めて見つけてしまったので、慌てて隠すように止めたのだ。不審そうに覗き込もうとする二人に対して取り繕うのに苦労した。……見られたとして、喧嘩して噛まれたとでも弁解すればいいのだが、晒さないで済むならその方が楽だ。つまり喧嘩するような相手にそうされた、と言えるに等しいのだが。
「百田ちゃんには、何か見られたくないものでもあるのかなー?」
つまりこの嫌味ったらしい男、王馬の事である。これと同衾する奴の気が知れない、とオレは自分で悪態を吐く。
この訳知り顔からして、今朝方部屋で着替える時にでも、この怪我を見ていたのだろう。オレは少し寝惚けていたのでうっかり見落としたのだ。久しぶりの不覚である。奴のニタニタ笑いに背を向け、次の出方を考える。
「おー、誰にだって秘密の一つや二つあるだろ」
「へえ。『オレには秘密なんてねーよ!』って自信満々に馬鹿ヅラで言いそうな見た目してるのに」
「人を見た目で判断すんな、それと一言多いんだよ! ッ、てー……」
相変わらずの言い草に思わずびしりと指を突きつけたくなり腕を上げた所で、ちりりと痛みが腕に走ったので咄嗟に庇う。これだけで痛むとは、どれだけ強く噛んだのか。昨夜は正直余裕が無かったので、王馬に対してもどの程度気を遣えたか覚えていない。自分の腕の傷なんて尚更だ。
「あらら。腕が疼く、って感じ? いーじゃんかっこよくて! でも田中ちゃんとキャラ被りするから許可取って来なよ」
「テメーはなあ……あー、くそ。いっつも同じ所に付けやがって……」
つい愚痴も零してしまう。昨夜のように知らないうちに噛まれている事もあるが、勿論気付く時もある。……『キミが乱暴なんだよ!』とでも罵倒が飛んで来そうだな、と思いながら傷を摩っていたが、意外にも次の矢は飛んで来なかった。
(……ん?)
顔を上げて王馬の方を向くと、頬杖を突いたまま、面食らったように菫色の瞳を丸くしていた。引き結ばれていた唇が、確かめるような緩慢な動作で開く。
「……いつも?」
王馬にしては珍しい、装飾を全て削ぎ落としたようなトーンだった。
「……あ? わざとじゃねーのかよ? ……毎回って程じゃねーけど。テメー、割と噛むんだよ。しかも同じ所をな。……何だ。てっきりオレへの嫌味で、分かっててやってんのかと思ってたんだが」
「——あー。そうだね、その通りだよ! 我を失ってる猛獣を押さえつけるには最適だよね!」
「いや、ぜってー今適当に考えただろ!?」
「ふーん、今朝気付かなかった能天気バカのくせにそういう事言うんだ。いいよ、助手達の前で言っちゃおっかなー」
「ぐ」
少し声を抑え気味に説明したのに、その通る声でからりと言うものだから焦ってこちらも声が大きくなってしまう。王馬の一瞬の真顔はもう影を潜めていた。
しかし考えてみれば、あからさまな表現でなければ、やはりこいつ以外に対しても変に隠さない方が良いのだろうか。……傷の程度次第だが。念のため周りに誰も居ないのを確認し、ちらりと袖を捲る。僅かに覗いた赤く鬱血した噛み跡は、昨日の残り香のように暫くは消えてくれないだろう。
そういえば、これを付ける時のこいつは、どんな顔をしているのだったろうか。或いはどの体位の時にするのだったろうか。……正面から組み敷く時だったような気がするが、余り意識はしていなかった。今後確認する機会はあるだろうか。本人は自覚していないようだったが今言ってしまったので、今後は控えようとするかもしれないが。何度も執拗に付けられた傷を、指でなぞる。
「……まったく、オレの左腕に恨みでもあんのかテメーは」
「——ああ、それは
逆だね」
零れた独り言に、はっきりと返答が、文字通り階段の上から降って来た。先程まで知らなかったはずなのに、妙に確信的な気配があって。だからもう一度奴を見る。真っ直ぐオレを見下ろしていたが、同時に何か別のものを見ている瞳にも思えた。
「……? 逆って、妙な言い方だな。何がだよ」
「さあね。……っていうか、そんな事言ったらキミのトサカの天辺から足の爪先まで憎悪の対象だけど!」
王馬はそう言うと立ち上がり、トン、と踏み切ったかと思うと、階段の下まで軽やかに着地する。
「トサカって何だよ!? んなもんねーよ!」
「えっその頭まんまでしょ。あと鳥頭に掛けたんだけど伝わらなかった? うわー情緒無いね」
「情緒なのかよそれは!」
「あーもう、返しもワンパターンだし。面倒だからオレはここでお暇するよ!」
「あっテメー待て、逃げんな!」
オレの横をするりと抜けて廊下を走り出すので、その背を追いかける。こうなれば風紀委員に『廊下を走るな!』と叱られるまでの戦いになる。しかし、憂いすら垣間見える表情をしたかと思うとあれだ。コロコロと玩具箱をひっくり返したように態度を変える様にウンザリしながらも、先程の言葉の意味だけが、オレの中で引っ掛かっていた。
§
(あー、考えてみたらこれ、声出るかもしんないな……)
能面のように冷たく見つめてくる、やたらと低い天井を睨み返しながら、実際に横たわって息を吐いた所でふと思い至った。まるで玄関のドアから出て閉めた途端に忘れ物に気付いたようだった。ドアを開ければすぐ解決するのだが、鍵をもう一度取り出して開けるコストに見合うかどうかを図りかねるような。ドアを開けるだけの力が残っていないせいもあるだろうけれど。
遠くでは、たん、たんと妙に覚束ない足音が階段から打ち鳴らされている。体が限界なのか、まだ迷ってでもいるのか。こちらはとうに覚悟は決めていたが、物理的に圧迫されたならこの
声帯は反動を返すかもしれない。そうなればここまでの計画は水の泡だ。喉を潰す時間は無い。口を押さえるだけでは心許無い。ならば、とスカーフを取ろうとした手は空を切った。そうだ、それはくれてやったのだ。服の切れ端くらい千切っておくべきだったかと口角を下げてから、視線だけを周囲に彷徨わせる。或いはそう行動する前から念頭にはあった。右目にちらついたのは、影になってよく見えないジャケットの端。空間の外に垂れた方は勿論動かせないので、奥に隠れた右袖の方だ。手段は選んでいられない。痺れ始めた右手をゆるゆると動かし、曖昧な視界で何度か空振りしながらも手繰り寄せる。そのまま自分の口まで持ってくると、上下の顎で生地をがちりと挟む。金属のボタンが左から差し込む光で一瞬ちかりと光り、袖の内側の模様が覗く。
傍目には不格好だけれど、誰も見ていやしないし良いか——と、不安定な状況の改善を認めた途端に、ふわりと奴の体臭が鼻腔を突いて眉を顰める。否、さっきから背中に負っているのを気付かない振りをしていたのだが。
(まったく、小まめに洗濯するか、取り替えといてほしいよね……)
監禁した本人であることを棚に上げてでも、悪態を吐きたくなる。可能ならば予め奴の部屋から持ってきておいた替えのジャケットを使いたかったが、外側に怪我の跡を見せる以上、これの替えは無い。
あれの替えも、今この状況においては存在し得なかった。その足音がようやく止まる。腹は決まったのだろうか。
——そういえば。こちらから話を持ちかけた時は、幽霊でも見たかと言わんばかりに顔を真っ青にしていた癖に、さっきここに横たわっていた時は悲鳴ひとつ挙げず目を閉じていたな、と思い出した。肝が座っているのかいないのか分からない男。一生分かる気もしないし、分かりたくも無いし、実際に分からないままオレはここで一生を終える。
顎がずれないのを確認し、奇しくも(それはオレが仕向けた事だけれど)奴と同じ体勢のまま、目を閉じる。視覚を意図的に落としたのを皮切りに、体の感覚が一つずつ、零れ落ちていく。人の感覚で一番最後に残るのは聴覚だったか。確かに今、誰か煩い男が大声を掛けてくるのがやたらと耳につく。ああもう、いいから早くやれってさっき言っただろ。確認なんか取らなくていいって。キミの匂いでオレはもう手一杯だよ、耳まで邪魔してくるな。生地を歯でギリリと、折れてもいいくらいに噛みしめる。
浮かぶ数多の罵詈雑言の中で、ぷつんと途切れたのは声自体か、オレの聴覚か。機械的な稼働音は聞こえたような気もするし、その前だったような気もする。どちらにしろ最後まで認識していたのは、忌々しくもあの男の断片だったのだ。