番外:旅の日常 りり、ころ、と澄んだ鈴の音が、上弦の月を頂く夜空を渡っていくように響き、姿を隠すように消える。夜の町には、直線的な街路を挟む酒家の明かりに群がる男たちの、だらしのない笑い声が掃き出されてきて、断続的に鈴の音を見失わせようとする。野良着の男女や子供が行き交う通りはいくらか静かで、ただし暗い。追っている一人の影が、南の鳥のように鮮やかでなかったら、追いかけるのは諦めていただろう。
大通りを折れて少し狭い小路へ入った。追いかける側の四人組の先頭は、仕掛けどきだと思っている。人気がなくなったのを見て取って、建物の裏を速々と伝って先回りをする。後ろについてきている仲間とで、挟み撃ちをする作戦だ。鈴の音の主はゆったりとした歩速を保っており、密かに追い抜くのは簡単だった。
「止まれ。」
前に回ってみれば、その装束の鮮やかで、妙趣の凝らされていることはいよいよ明らかであった。そもそも緋色の衣など、庶民には手が出たものではないし、目印に追ってきた音の鈴を下げた頭布などは、光の加減で緑と紫の間を玉虫の甲羅のように移ろい、染料をふんだんに使わなければ褪せてみすぼらしく見える橙の色を、夕焼けと見紛うばかりに染め出した裏地を合わせていて、目映いばかりだ。只人でないことは、一目で知れる。情報がもたらされた時、初めは信じなかったが、今は確信の方が強い。
「テラ・マクドールだな。帝国将軍テオ・マクドールの一人息子の。」
問われれば、少年は月とほとんど同じ色の目をすらりと眇めた。
「いかにもそうです。そういうあなたは、どこのどなたですか。」
これまでにもこうしたくせ者と相見えるのが、一度や二度ならずあって、慣れたものだといった風。
男には、名乗るつもりが元からないが、
「帝国解放の大義のため、大人しく捕まってもらおう。」
腰から剣を抜き、口笛を吹いて合図した。
「一応、お断りしておきます。」
少年は、半分背中に隠した棍を、斜に構えた。
「知らない人の後をついて行ってはならぬ、と言われておりますので。」
少年のさらに背後で、物陰から男が一人、通りに蹴り出されてくる。靴を矢が貫通していて、立つこともままならない男の背を膝で踏み、頭を掴んでその喉に短刀を当てる、フードを目深に被った人物が、聞こえるように声を張る。
「あとはあんただけだ。」
心なしか、テラはにこりとした。
護衛が身を隠していたことは、男の不覚であった。テラとは対照的に、長い套衣に全身の様相を隠すようにしているが、革帯をかけて捌きやすくした右肩越しに矢筒が見えた。男の仲間の喉元に短刀を押し当てている右の手甲も、射手のそれである。テラは上半身だけ後ろに振り向いて──男の狼狽を煽るように鈴が音を立て──フードの人物に問いかけた。
「テッド、何人いた?」
「あっコラ、おれの名前を出すなよ! ……三人。」
「すまん。」
中継するように正面に向き直り、
「勘定が合いますか。」
と、唇の端を歪めるのに、挑みかかるような気勢があって、男は、舐めてかかったことを悟る。焦りで剣把を握る手に、知らず力がこもって痺れ始めた。
実子を捕らえて、五将軍を脅す材料になれば、たしかに大手柄ではあったかもしれない。実はそれさえ不確かだったのだが。しかし、しくじったとあれば、不名誉となり、同じ解放軍の同志からも侮りを受けるのは免れない。まだ組織として縦横の定まらない集団の中にあっては、もしも頭目が許したとしても、周りの感情は必ずしもそのように沿ってゆかないのだ。
「お退きあれ。そうすれば残りの男たちも置いて行きます。」
という、テラの声は、男の頭の中で上滑りしていった。男は剣を両手で持ち直し、振りかぶって駆け出した。対し、テラは左右で棍を半回転ずつさせ、腰を落として男に眼目を据えた。
振り下ろすと見せかけて、剣の柄を引き込んで、低い位置から突きを繰り出す。しかし、目の前でぐるりと円を描く棍にあっさりと刃をさらわれて、空いた胴に逆に突きを込められる。男は反吐を吐いて剣を取り落とし、腹を押さえて膝をついた。少年は頭布の裾をつかんで、結ってある鈴を軽く振ってから男の後頭部に叩き落とした。ごシャン、とあんまりな音がし、離れたところで見ていたテッドは顔を引きつらせた。
「大丈夫かな、あのおっちゃん。」
テッドに取り押さえられている男が嗚咽に似た短い呻きを漏らす。テラがこちらに振り向いたので、テッドは男の上から膝を浮かせて剣を引いた。
「ダメだったらあんたがお仲間に伝えてくれよな。マクドール家のお坊ちゃんには手を出さない方がいいって。」
男はテラがこちらへ歩いてくると見るや、倒れた仲間とは逆方向へ、足に刺さった矢を物ともせずに走って逃げてしまう。テラのゆっくりとした歩調に合わせて、鈴はりり、ころ、と依然涼やかに鳴っていた。あのような殴打に使われたのに、歪みもしないらしい。
「まとめて縛っておこう。その辺に転がしておけば、夜回りが見つけてくれる。」
「それじゃ最悪おれらが暴漢として手配されちゃうだろ! きっちり軍政官さまのとこに届けないと。」
「さっき酒場でへべれけになっているのを見たよ。喜んで仕事をしてくれるといいが。」
「でもケガしてるんだから、あいつらもどうせ捕まるなら早く捕まりたいって。」
言い合いながら、テラは棍を肩に担ぎなおし、テッドは剣を腰の鞘に納めて、来た道を戻り、テッドに射られた残りの二人を探しにいった。
かすかな鈴の音と幼い笑声が、小路の闇に溶けていく。