(一)(キャプションは一度目を通していただきたいですすいません)
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テッドはその話をして、どうやって話を締めるのかを考えていなかった。というより、予め決めておくことができなかった。紋章の呪いのことを伝えて、「だからいつか去らねばならない」という事実を言うか、「それでも一緒にいたい」という本音を吐くか、テラの部屋を訪(おとな)うまでの間に決めきることができなかった。思い返せば、マクドール家で過ごした間ずっと、その迷いの境で動けなかったばかりに、予期せぬ長逗留になってしまったように思う。
テラ・マクドールは透き通る鉱石のような明るい黄色の目を少し絞ってテッドの話に「そうか」と返したきり、視線を下げて俯いている。胸を痛めているのかと思ったが、片手が顎をつまみに行ったので、何かを深く考え込んでいるらしいようだった。その間にテッドは選択をして、事実を告げることを選んだ。偽らざる自分の気持ちも捨てないで、テラのことも思って、「だから、ずっと一緒にはいられないけど、世界のどこにいてもおれとお前は親友だ」くらいのことを、言おうとした。テラの方をまっすぐに見た。
「――だから……!」
「その紋章の呪いを、なんとか解ければいいんだな。」
かち合う視線、テッドも相応の決意を持って言葉の先を継ごうとしたが、なぜか、テラの方に決然とした雰囲気が漲っていた。テッドは驚いて、え、と零したが、自分が言うはずだった言葉は揮発してしまった。
「方法を探そう。僕も行く。」
といって、テラは正座を崩して(テッドが尋常でない様子だったので、彼は正座で話を聞いていた)、ベッドを降りて部屋から出て行こうとする。テッドは慌てて追いかけた。彼の向かう先は、上階の父の部屋であった。扉を叩く。
「父上、夜分に失礼致します。今よろしいですか。」
部屋の中から声がする。
「テラか。入れ。」
部屋の戸をくぐると、テオ・マクドールは大きな机に着いて重なった紙束を開いていた。鼻の上には眼鏡がある。それを外して、ブリキのケースに収めた。
「テッド君も一緒か。」
と言って、笑顔を見せた。それには、テッドが慌てているのには、見慣れている、という心易さがあった。しかし、応接用の長椅子に移って、ここでもテラが沓(くつ)を脱いで正座するのを見て、父には何か感じるところがあった。果たして、テラは先程テッドから聞かされたばかりのことを、つまり、テッドは27の真の紋章の一つをその身に宿していて、不老であり、実際の年齢は三百いくつであり、紋章の呪いとともに生きていることを、すっかりテオに話してしまった。テッドは呆然として、テラがあまりにすらすら話すので、確かに「秘密だ」と最初に言ったか記憶が怪しくなってきた。言い忘れたのかもしれぬ。
「……事ここに至って、テッドは僕の親友ですから、介(たす)けたいと思います。つきまして、家族にどのような類が及ばぬとも限りませんから、この家を出たいと思います。僕のことは、死んだもの、とお考えください。」
そして、テラは深々と頭を下げた。
「あなたは僕には勿体ない父でした。これまでありがとうございました。不肖の子に終わること、無念です。」
「ちょ、ちょ、ちょっと待てー!」
テッドはようやく声を上げた。両手を大きく振り上げて立ち上がった。
「おまっ……、テラ、お前なあ! おれはそんなこと、一言も頼んでないぞ!」
テラは土下座の姿勢から直ってテッドを見上げた。
「そうだっけ?」
「そうだよ!!!」
「まあ……テッド君、座ってくれ。テラも、足を下ろして、沓を履きなさい。」
二人は、言われた通りにした。テオは、腕組みをしてテラに言い聞かすように尋ねた。
「紋章の呪いがどれほど恐ろしいか、背負っていない私たちには分かりようもない。そうだな? テラ。」
「はい。想像の埒外です。」
「ならば、これからどうするかテッド君が決めるのに異存はないな?」
「無論です。それはテッドの意思です。」
「そういうことだ。テッド君、君はどうしたいのか、よければ聞かせてほしい。」
そうして、水を向けられて、テッドはここでも困った。一つ目、テラと家族と一緒にいたい。それは自分に対して偽ることはできても、その人たちには偽れないことだった。しかも、叶わないことで、ゆえに、二つ目、ここを去りたい。本当は全く去りたくないのだが、去りたい。三つ目、みなに元気でいてほしい。これは、特に表明するのに困らない。実際、テッドは、これまで生きたまま別れることのできた人全てにそう思ってきた。共に生きることができなくても、元気でいてくれていると勝手に信じさせてもらい、その為に祈ることが、テッドに許された「分」というものだと思ってきた。
「お、おれは……。」
それらの全てが渋滞して言葉になれずに胸のところで詰まっている。本音を明かせと迫られることは、白刃で喉を押さえられるのに似ていて、どのようにでも動けば喉が裂けて死ぬような気持ちがする。だが、テオは、「本当のことを言え、真実の気持ちを話せ」とは言っていなかった。なのにテッドがそう言われたような気になって、恐怖と混乱の中にいるのは、抱えてきた秘密の重く長いせいで、ちょっと突かれれば倒れるところまで来ていて、それでも習い性で隠し通す強がりの用意はできていたはずなのに、ついにテラに話してしまい、しかもそのためにテラが父親に絶縁を申し出るなどという、めちゃくちゃな状況のせいだ。軽やかな嘘をつけなくなっていたのだ。余裕がなかった。
そうした考えが混沌化して収集がつかなくなっていき、呼吸が浅くなり、テッドは胸を押さえて屈み込んだ。テオとテラが気付いた時にはテッドは過呼吸の発作を起こしていて、親子は慌ててテッドを横に寝かせ、口に革袋をあてがい、グレミオを呼びに行った。
過呼吸が治まってきたとき、発作の激しさのせいで零れた涙が冷たくなっているのをまつげのあたりで感じた。目には手ぬぐいが乗せられていて、それをどけようと思って右手を動かそうとしたら、自分の胸を掴んでいた右手が、別の手に覆い被せられている。その覆いはすぐに退いた。目の上の手ぬぐいを取ると、テラの顔が上から覗き込んでいた。蜂蜜酒のような瞳の光気が、テッドの滲んだ視界には輝石を散らばしたように映る。テッドは――テラの腿に頭を乗せていた。
「気分は。」
静かに声が落とされる。なにもかもが気まずく、恥ずかしくて死にたいくらいだった。呼吸が整ったのをせめて確かめる間、テッドは顔を少しだけ逸らした。その頰に、温かい雫が落ちてきた。テッドは全身をびくりと竦ませた。視界がぼやけていたから、見えなかったつもりだったテラの涙に違いなかった。
「……わるい。」
「僕の方こそ。」
テラはテッドの頰の水滴を手巾で拭った。
「またしても、君を待たなかった。」
何かをする、と、決めるまでが異様に早いので、テッドはテラによく困惑させられる。しかし、問題はそこではなかった。
「そうじゃないだろ。」
テッドは、顔は背けたままだった。
「おれについて、家を出るなんて、正気の沙汰じゃない。」
この年頃にはよくある空想だ。世の中のことも旅の現実も知らない。なにもかも与えられて、ぬくぬくと育ってきたからこそ、テラの場合はそうした厳しさに対する憧れさえ、あるのかもしれなかった。
「この紋章を、おれが、三百年の間、なんとかしようと思わなかったわけないだろ。」
どうにもならなかった。人間じゃないものに押し付けた時でさえ、罪悪感で無気力になってしまった。結局、自分一人で耐えるのが一番気が楽だった。それなのに、なんで話してしまったのだろう、と今更ではあるが、思う。
「それは、」
というテラの声に、テッドは妙なものを覚えた。さっきまでのしゅんとした気配がどこかに……おそらく忘却の方へ引き取られていくように、
「なにを試したかぜひ聞かないとな。」
声に活力がこもっていた。そういう奴なのだ。事が難ければ難いほど、心が燃えだす。
「ムシンケーだぞ。ばかやろう。」
テッドは体ごとテラに背を向けた。依然として、彼の腿の上に頭を置いているのを、どうにかするべきだと分かっているのに、発作の疲労を言い訳にした。一人で孤独に耐えたかったが、もう十分に、テッドは疲れ果てていた。秘密を心から降ろしてしまった。その軽やかさは自分を打ちひしぐ鞭が止んだようで、涙も流したし、先々の心配は先々のこととして、一度眠りたい気分だった。
認めよう。ここは居心地がいい。テッドは無意識に右手をテラの膝の上に置いていた。テラの方では、テッドの肩の上で勝手に両手を組む。
「君が背負っている辛さや恐怖を半分背負いたいんだ。」
「おれは、お前から家族を奪いたくない。」
「こんな形式的なことで繋がりは切れない。死んだって家族は家族さ。」
「お前が死ぬところを見たくない。」
「なんてことを言うんだ。僕が死ぬ時は是非そばにいてくれ。君も、僕の知らないところで死なないでほしい。」
「……近衛隊に入るんだろ。皇帝陛下に仕えて、テオ様の跡を継ぐんだろ。」
「何もなければそんなところだ。でも何事かあるのが人生なんだ、たぶん……。僕は君に出会った。」
発作のせいではない涙が、横を向いて寝ているせいで鼻梁を乗り越えて、下にしているこめかみの方へ一方向に流れていく。止め処がなかった。
「……ばかやろ。」
ようやくそれだけ言った。
テッドの年齢が三百だと明かした事が、かえってテオには、息子を預けるに足る、という評価をくだす根拠になり、テラの「家出」は認められた。近衛隊への士官が間近だったが、今の王宮は、人の皮を被った獣の臭いがする。そこへ、ともすると潔癖なほどに、筋の通らない事が嫌いな息子を差し出すことに、懸念がないでもなかったテオは、今少し、テラを都から遠ざけ、その間に害獣を減らす算段をつけていた。
部屋に二人でいる間、テオがグレミオに話したらしく、グレミオは夕食の席に泣き腫らした赤い目で現れた。とはいえ、父子の絶縁のことはなかった話になり、テラがテッドと同道二人で旅をするのは見聞を広めるためと武者修行という名目になり、しかも期限がついた。ひとまず五年で、家に一度戻ることになる。
出立を翌朝に控えた夜に、借りていた部屋を引き払ってマクドール邸で夜を過ごすテッドの元へ、当然のようにテラがやってきた。一人の夜は当分ないかもしれぬと追想する間もなく、そうではない時間が始まってしまっている。二人は中庭で木に登った。空に浮かぶ月の齢は太っていく途中にあった。この木は、テラが幼い頃から登ろうと挑んできたものだが、ある日突然やって来たテッドの方が遥かに容易に上まで行ってしまったので、ショックを受けて数日ものを言わなくなってしまったという思い出がある。今は、テッドと同じくらいの高さに登るまで、テッドの助けはいらない。
「気持ちと言葉だけのつもりではないんだ。」
ひと枝高いところで幹に手をついて立って、テラは言った。テッドは枝に腰掛けて、テラが、半分背負うということに、と言葉を継いで呟くのを見上げて聞いた。と、その姿が斜めに傾いで枝から落下した。テッドはあっと声をあげて咄嗟に腕を伸ばして、その手を掴んだ。もしか、手を掴んだのはテラの方だったかもしれない。
「……あっぶな……。」
テッドは自分が差し出したのが右手だったことに遅れて気づいた。その手を見上げているテラの視線、その言葉の投げかけられる先には、
「“君”は、どう思う?」
とたん、右手の紋章がかっと熱を発したように感じ、大風のようなものが木の枝を揺すった。光が迸って、テッドは足をかけた枝の感覚を見失ったが、目が利くようになると二人は木の下で尻餅をついたような格好で向かい合わせに座っていた。
テラが、自分の右手を見下ろした。引っ張られるようにテッドも、そこに宿っている「生と死を司る紋章」の形を見た。テッドは声を失い、顔色も真っ白に褪せた。
「お、お前、なっ、そん、……。」
何も、何も言葉にならなかった。挙句、テッドはテラの右手を取って、紋章に向かって「何やってんだ、戻れ!」と叱りつけた。が、紋章は、うんともすんとも言わなかった。
「意外と話がわかるやつだ。」
「何言ってんだ、馬鹿野郎! お前はこいつを知らないんだ、どんなに邪悪か、恐ろしいか!」
「だから、」
テラは語気を強めてテッドを遮った。
「半分背負うと言った。」
テッドの血の気は引いたまま戻ってこない。が、頭の中では、これで、少なくとも自分がテラを殺してしまうことはない、と思い至った。逆はあり得る。テッドが魂を喰われる番になるということだ。それがいつかは分からないが、そうなる前に、自分が辿って来たような無知ゆえの愚かな選択にテラが誘われないように、この紋章のことを全て、伝えなければならないと思った。
やはりなんとしても、テラの考えているような冒険は諦めてもらわなければ。紋章も返してもらって、テッドは去る。テラは途中まで見送りに来てくれるのだと、考え直すことにした。それが、テッドにできる精一杯の決心だった。
「さあ、もう寝よう。」
テラが、何もなかったように立ち上がって、何でもないことのように、右手をテッドに差し出した。
「寝られるかよっ。くそ、こんなのめちゃくちゃだ……。」
と言ったものの、その夜、テッドは三百年ぶりの深い眠りを得て、朝まで夢も見なかった。