庇う 雲が山に吸いこまれていく。
黄味がかったそれは連なり、ちぎれながら、手を伸ばして空を這う。山の斜面にはまだら模様の足跡がうつり、夏の緑をかげらせていた。
耳にひびく低い音は、上空を流れる風の音だろうか。走れ走れと雲を急かしているようだ。
ルヴァイドは馬の首をめぐらせ、山に背を向けた。
眼前に広がるのは、黒い鎧をまとった幾千の兵の布陣である。天に向けられた槍の穂先と人馬の兜が太陽の光をまばゆく反射するなか、赤いデグレア軍旗がはためいている。
一糸乱れぬ軍列。
彼らの目はルヴァイドひとりに向けられていた。静かで熱い視線だ。
彼らは待ち望んでいる。
(見るな)
手綱を握る手、あぶみに乗せた足から、熱がのぼってくる。
(そんな目で俺を見るなよ)
ルヴァイドは黒い兜に素顔を隠したまま、右手をあげた。
頭上では轟々と鳴りながら雲が空を渡る。
馬も人も微動だにしない。ルヴァイドが動かぬ限り、このまま彼らの時は止まりつづけるだろう。
思考が何かの形をとる前に、ルヴァイドは、手を振りおろした。けたたましい鉦の音が、戦場となる荒野の隅々まで響きわたった。
*
数百年にわたり権勢を誇っていたひとつの国が、いま、ゆるやかに崩れゆこうとしていた。
かつて絶対であった国家中枢の求心力は、見る影もなく弱まっている。
老いた国家の指の間からは、こぼれ落ちるように幾つもの都市が離反していった。今ではその手が確かにつかんでいるのは唯一デグレアだけだといってもいい。
今年も夏の訪れとともに、示し合わせたように3つの都市が中央に反旗をひるがえした。この度の出兵はそのうちのひとつに対する討伐戦であった。
「この必勝の策と皆様方の武勇をもってすれば、万が一にも敗北はありますまい」
今回の戦の策は、黒髪の召喚師がもってきたものだった。中央―――元老院からの使者だという。
軍人の舞台に政治が割り込むことにも、起きた反乱をただ叩くだけで根本の問題に向き合おうとしない元老院の有り様にも、将たちは誰も何も言わなかった。勿論、ルヴァイドも何も言わなかった。
「クク……裏切り者がどのような末路を辿るのか世に知らしめましょうぞ。ねえ、ルヴァイド殿」
召喚師が携えた策のなかで、ルヴァイドに与えられていた役目は「囮」であった。
敵を引きつけて走り、自ら足場の悪い地へと身を投じることで、彼らを罠に誘いこむ。
味方と相手の兵力差からすると、勝利を得るには単純に押し包むだけで足りたはず。効率性を考えれば愚策といえた。ルヴァイドたちの軍は、戦術的には全く意味のない犠牲を払うことになる。
犬死にである。
ルヴァイドは軍議の席上、いつものように無表情で礼をとり、諾と答えた。十数年間、ルヴァイドはそれ以外の言葉を持たない。
ルヴァイドは野営地に戻ると麾下の兵をふたつに分け、それぞれに属する隊長たちを天幕に呼び寄せ、作戦の説明をした。
そのうち一方だけに「本当の」任務を明かした。誰も一言も発しなかった。彼らは瞬きもせず、ただ真摯な視線をルヴァイドに向けていた。
(そんな目で俺を見るなよ。俺は、お前たちを殺す男だぞ)
幾つもの瞳が天幕の薄闇に浮かび、それらを橙色のあかりが舐めるように照らしている。
*
影が差した。首をめぐらせると、大きな機体が陽を遮っている。
黒馬の上で腕組みをしていたルヴァイドは、兜に声をくぐもらせた。
「……ゼルフィルドか」
「谷ノ出口ニテ、別働隊ノ配置モ完了シタトノコトデス」
「そうか」
ルヴァイドは顔をもどし、石造りの砦を見やった。ルヴァイドの陣は反乱軍のたてこもる拠点からわずかに離れた場所に敷かれている。
ふたつに分けたルヴァイド軍のもう片方は、西の山谷に伏せていた。彼らは山の斜面の緑にかくれ、谷の出口を見張っている。
手筈としては、ルヴァイド率いる陽動部隊が谷におびき寄せた敵軍を、彼ら別働隊と、谷の入り口側にひかえるデグレア本軍が挟みうつことになっていた。
―――谷を覆うのは、馬や人の足を奪うぬかるみだ。この作戦がうまくいけば、敵軍に逃げる術はないだろう。
「……」
ルヴァイドは伏せていた目をあげる。
戦闘は既に始まっていた。
砦を囲んで弓兵を配置し、途切れることなく矢を射させている。
もちろん相手からの応戦もあり、同じだけの弓矢が地上にはなたれている。時折扉がひらいたかと思うと、一群の騎兵が雄叫びをあげながら現れ、砦のまわりを駆けまわって弓兵を蹴散らす。
伏兵の存在を疑っている様子はない。
(……愚将が)
ルヴァイド率いる陽動部隊は、本国が寄越す討伐隊としてはあまりに少なすぎる。通常の判断力のある将であれば、訝しんでもおかしくはない。
にもかかわらず、かの将は『同時に起こった他の反乱にかかりきりで、本国はこちらを本気で鎮圧するつもりはない』―――事前にながしたこんな楽観的な偽の情報を、真正直に信じたらしい。
この軍隊とこの将で、よく謀反をおこす気になったものだとルヴァイドは思う。デグレアもいよいよ舐められたものだ。
(谷道までおびきよせるには、まずは砦から全軍を吐きださせねばな。すべてはそれから―――いや、それで終わるだろう)
砦のうえから歓声をあげる敵兵を冷たい目で見やっていたルヴァイドは、背中に視線を感じ、口の片端をあげた。
「何か俺に言いたいことがあるのなら言えよ、ゼルフィルド」
珍しい逡巡の間のあとに、機械兵士は声を響かせた。
「ヨロシイノデスカ」
「何がだ」
いおす、という名前が返ってきた。
「何故いま、あれの名前が出てくるのか……」
ルヴァイドは、笑いに近いため息を吐いた。不思議なことに、この機械兵士は思いのほかあの金髪の青年を気に留めているようだった。
「良いも悪いもない。この陽動部隊には、俺の軍のなかでも選りすぐりの兵たちを連れてきている。あれは俺に選ばれなかった、それだけの話だ」
「……」
ゼルフィルドは答えない。ルヴァイドのなかに、ほんの微かな苛立ちがよぎった。
いつもこの機械兵士は、真意をこめた自分の言葉でなければ反応しない。まるで聞こえなかったかのように無視をする。傲慢なやつだと思う。
ふたたび硬い音声がひびいた。
「いおすハ、我々ノ任務ノ本当ノ内容ヲ知リマセン」
紫の瞳が脳裏に浮かんだ。荒くけずった水晶のようなそれが、じっと自分を睨みつけている。
「ヨロシイノデスカ」
自分を殺すのだといっていた。
その言葉を、自分は無視することになるかも知れない。
―――あれは、怒るだろうか。
西の山々のうえでは相変わらず雲がながれ、緑がまるで明滅するように明るみ、翳っている。空は轟々と鳴り、何かの声のようにも、息づかいのようにも聞こえた。
ルヴァイドはその光景を見つめながら、呟いた。
「……良い」
今更だった。すべてが。
自分が否と答えれば、何かが変わっただろうか。
この期に及んで、まだそんなことを考える。
自分を見つめる幾つもの瞳が、頭から離れない。それは自分が刈りとるのだろう命の熱のよりしろだ。
本国が何故この役目を自分に与えたのかを、ルヴァイドは知っていた。
『裏切り者がどのような末路を辿るのか世に知らしめましょうぞ―――』
黒髪の召喚師の言葉が耳によみがえる。
『ねえ、ルヴァイド殿』
裏切り者を誅するのに、裏切り者の子が死に兵となる。なるほど、この上ない見せしめだろう。
これは罪負う者に泥道を走らせるための戦なのだ。
兵たちは、ただの巻き添えである。
自分があの軍議の場で否と答えれば、何かが変わっただろうか?
いや、とルヴァイドは自答する。
変わらない。この非情な策からかばうことで、命助かる者もいるだろう。しかしそうすれば、彼らすべての将来は奪われる。ルヴァイド自身と同じ、泥にまみれた人生を辿らせることになるのだ。彼らだけではない、彼らの子々孫々までも。
自分はどこまでも無力だ。滅びゆく、老いた国のまえですら。
惨めだった。
何もできない自分が、彼らの視線から逃げるように兜で顔を覆う自分が、惨めでたまらなかった。
*
機が熟しつつあった。
最初は歩兵や弓兵を蹴散らしては快哉をあげていた敵軍だったが、いくら追いはらってもすぐにまた群がってくる相手に、だんだんと苛立ちをみせるようになった。
ただ逃げ惑っているように見えた兵たちが、一定の周期で規則ただしく、波の満ち引きのような攻撃を繰りかえしていることにも、遅まきながら気づきはじめたのかもしれない。
ルヴァイドの読みが正しければ、敵将はこの辺で決着したいと考えているはずだ。
時は、もうじき訪れる。
側にひかえていた機械兵士が、無機質な音声をはなつ。
「敵ハ全軍ヲ纏メ、出撃ノ準備ヲシテイル模様。―――ソロソロデス」
「ああ」
虫が巣から這い出、完全に姿をあらわすその時が。
決戦をまえに、両軍の空気が静電気のような緊張を帯びはじめていた。
ルヴァイドの軍が粛々と準備をすすめるなか、敵方の砦からは距離を隔てていても分かるほど慌ただしい空気が伝わり、時折気勢をあげる兵たちの声までとどろいてくる。敵将が兵をあつめ活でも入れているのだろうか。
「これからどんな目に遭うかも知らずにな」
ルヴァイドは髑髏の面を後ろに立つ機械兵士へと向けた。
「裏切り者の末路は惨めだなゼルフィルド。一時の判断を誤り、主に牙をむいたがゆえに、あの将は人生の終わりに血泥の道を走らねばならぬのだ」
ふたたび正面を見ると、ルヴァイドの兵が砦を見据えた位置に据えられるところだった。
声を押し殺し、ルヴァイドはつづける。
「……だがその道に巻き添えにされる兵たちは、いい迷惑だろうよ」
「同感デス」
忠実な返答に、笑いがこみ上げてくる。ルヴァイドは手綱を握りしめながら、奥歯をかみしめた。
髑髏の面のなかの歪んだ笑みは、しかし続く無機質な声に妨げられた。
「ダガ、我々ハ違ウ」
砦を見やるルヴァイドの背筋がこわばる。機械兵士は一歩進みでて、ルヴァイドの隣へと立った。
「我々ハ違ウ。ココニ貴方トトモニ走ルコトヲ悔イル者ハ存在シマセン。―――デスカラ、我ガ将ヨ」
さらに声を低めて、機械兵士はささやいた。
「アトモウ少シダケ、走ロウ……」
胸の中で膨張し、呼吸を妨げる感情があった。
沸きあがる熱が、意識を白く焼いていく。
視線の先で、砦の大扉が大きく波うつ。
「将ヨ」
ルヴァイドは右手をあげ、鉦を打たせた。ルヴァイドの本陣が動く。同時に砦の大扉は開け放たれ、敵兵がなだれ出てきた。
決戦である。
*
黄色い砂埃が空を覆いつくし、太陽の光を翳らせていく。
「く、来るっ……また来るぞ!」
時同じくして、地上では黒い闇が静かに躍動していた。
鳴りひびく鉦の音に絶叫があがり、直後幾つもの悲鳴がかぶさる。
黒い騎馬隊がうねるように敵陣を駆け、血道を築いていた。今まで嘲っていた相手の猛襲に驚愕し、槍を握りしめて硬直してる敵兵などは、彼らの障害物ともなり得なかった。
灰色の鎧をまとった敵兵たちは、盾を突きだして後退する。しかし黒い腕が砦の入り口と敵の本軍との間に割りこみ、鞭のようにしなって距離をひらかせる。砦に戻らせるつもりは毛頭なかった。
ルヴァイドは黒い腕の先頭にいた。
ルヴァイドの打たせる鉦で、黒い兵はいかようにも姿を変えた。時に槍、時に鎚となって戦場を駆けぬける。
敵将は、何が起こっているのかまるで理解できていないだろう。混乱と屈辱の極みのなかで、冷静な思考力を失いつつあるにちがいない。
砦からいきりたって出撃した灰色の軍隊は、いま、ひとりの指揮官の手の動きによって翻弄されていた。
(脆いな)
瞳をうごかし、右手の剣をひらめかせる。その動作だけで、ルヴァイドの行く手は次々と晴れた。馬の背が、返り血をあびてじっとりと濡れている。
(もう充分に討った。これ以上時間をかけるべきではない……頃合いか)
ルヴァイドは、血塗れの剣を高々とあげた。
(いくぞ)
喧噪のなか、黒の兵たちが顔をあげる。
長い間隔で、鉦の音がひびいている。
弔鐘をおもわせる穏やかな音色だった。澄んだ余韻が尾をひいて、空に吸いこまれていく。
音もなく、黒い軍が動きはじめた。傘をひらくように陣が薄く広がり、萎縮した敵の固まりをすっぽり包みこむ。
「浮き足立つな! 包囲は薄い、容易に突破できるぞ」
恐慌に陥る兵を叱咤する金切り声が、輪の中心からあがる。
その声ごと飲みこもうとするように、黒の兵はじりじりと輪を狭めた。あらがう灰色の兵が、包囲を何とか突き破ろうとあがく。
戦いはつばぜり合いのような膠着におちいった。柔らかい膜が暴れる虫をつつんでいる。両者は一体となり、まるでひとつの原始的な生命体のように荒野のうえで蠢いていた。
敵味方かかわらず、戦場の誰もが、ゆっくりと打たれる鉦の音を聞いていた。
時をしらせる時計台の鐘のようにおだやかなそれが、血に染まった大地に、骸に、緑の山々に、平等に降りそそぐ。
幾たび時が刻まれた頃だろうか。戦場の一角で、ひとりの男の右手がゆっくりとあがった。鉦の音が大きくなる。
ふいに、生命体が動きをとめた。
体をぶるりとふるわす。すると、灰色の内容物が、西側の一箇所から溢れでてきた。
黒い包囲に、小さな穴が穿たれたのだ。灰色の軍が全力をかたむけ、穴を必死に突いてくる。黒い膜は、その一点から解かれていった。
崩壊する黒い軍隊。
鉦は、鳴りつづけている。
「後退! あの山まで走れ」
黒の部隊を率いる隊長たちが山を指さし口々に叫ぶ。声にあおられるように、灰色の円からはがれ落ちた黒い破片が、次々と風にながれていく。
敵兵はせめぎ合いに打ち勝ったと知るや否や、それまでの恐怖を怒りと憎しみにかえ、一目散に逃げる黒の兵たちを追いかけた。
黒と灰の塊が、怒濤の勢いで走りだした。荒野を覆い尽くすほどの砂埃とともに、風に流れゆく彼らの目指す先は、戦場見おろす緑の山だ。
相手の将に伏兵の存在を疑う頭があれば、いや、むやみに追撃をせず軍を立てなおす慎重ささえあれば、この策は失敗だっただろう。
(これが俺の兵)
敵に背を向け、黒の先頭を走るルヴァイドの胸には、熱いものがこみあげてくる。
(見事だ。本当に見事に、負けてくれた)
敵兵がもう少し賢ければ、この無様な逃走者たちの目に、強い光が宿っていることに気づいただろう。
山の入り口が見えてきた。背後から追ってくる敵兵が失笑する気配を感じる。彼らはそこに何があるかを知っており、知らずに飛びこもうとしている相手を愚かと笑っている。
ルヴァイドは、
「走れ」
馬を走らせながら、兜を脱ぎ捨てた。
幾つもの視線が集まるのを感じる。
ルヴァイドはそのすべてを受け止めながら、叫んだ。
「走れ。俺についてこい!」
数え切れない咆吼がつづく。
騎馬の蹄が速度を落とすことなく、湿った谷間になだれ込む。
そこは、ひやりとした空気がたちこめていた。
ぬらぬらとした光が底一面にひろがり、それが前方に果てなくつづいている。土色の表面に黒の軍隊の姿がうつり、すぐさま泥を跳ねあげる音が雨だれのようにひびいた。
(行け)
鉦が聞こえる。
(行け、行け、行け)
みなで空を飛んでいるようだった。風は背中をおすように吹いている。酔いをともなう強い浮遊感が身体をつつみ、水面を滑るように走りつづけた。
しかし、そんな心地よい錯覚も長くはつづかず、流れていた視界も徐々に速度をおとし、沈んでいく。蹄の動きはにぶくなり、ぬかるむ足場をいやがって立ち止まる馬も多くあった。
ルヴァイドの黒馬も歩みを遅め、前足を二三度その場で抜き差ししたきり動かなくなった。
「くっ……頼む、走ってくれ」
前にかがみ、馬を叱咤するルヴァイドの眼前の泥に、空を切って何かが突き刺さった。弓矢だ。矢は泥に突き刺さり、鈍い波紋の中心で傾ぐ。
ルヴァイドは後ろを振り返った。
くぐもった声を上げながら、兵たちが馬とともに次々と倒れていくのを見た。
「馬を捨てろ! 沼地を抜けるまで走りつづけるのだ」
ルヴァイドの声は悲鳴にかき消された。矢の雨が降りそそぐ。沼地の入り口で敵兵は立ち止まり、ありったけの矢を射てくる。追い風であるのがまた災いしていた。
ルヴァイドは馬を降り、剣で矢をなぎ払いながら、泥のなかをすすんだ。粘着質な音をたて、言うことのきかない足を持ちあげる。振りかえると、ルヴァイドの黒馬が倒れているのが見えた。正面に向きなおり足をすすめる。頭の奥がきりきりと痛んだ。
ルヴァイドは泥を跳ねあげながら、ひたすらに走れ、走れと叫んでいた。
走りながら、色々なことを考えた。これまでのこと。掴み取るはずだったこれからのこと。両親のこと。拾った機械兵士と、捕虜にした少年のこと。
視界がまわった。転倒していた。
ルヴァイドは粘る泥に手をついて頭をもちあげ、膝に力をいれて何とか体を支えた。
その最中にも、あちこちから喉の引きつれる叫び声が聞こえる。
全身を泥にまみれさせながら、ルヴァイドは顔をあげた。視界いっぱいに、自分をとりかこむ山並みがうつる。
ルヴァイドは、感情のすべてが抜け落ちたような顔で、それを眺めた。上空からは、ごうごうと雲の流れる音が聞こえる。
―――いいざまだ。さぞかしいい見せ物だろうよ。
笑い声が聞こえた。敵だけではない。美しい鎧や衣服をまとった祖国の兵や将、老人たちが、山のうえから見おろして、ルヴァイドを指さし嘲り笑っている。四方にひびきわたる幾万の笑い声。
(そんなに俺がおかしいか。ならば、いくらでも笑うがいいさ。
だが、そういう貴様らは何なのだ。家名を顔に貼りつけた人形。血を運ぶだけの器よ。
その血がどれほど由緒正しかろうが、罪の味がしようが、器が壊れてしまえばそれまでではないか。
器が壊れてしまえば―――)
ルヴァイドは後ろを振りむいた。
一本の矢が弧を描いて飛んでくる。ルヴァイドは急速に大きくなる矢じりを瞳に映したまま、ぴくりとも動かなかった。
影が差した。
金属の弾ける音がひびく。
泥に音もなく落ちる矢のまえで、ルヴァイドは目を見ひらいていた。
視界をさえぎり埋め尽くす、その黒い巨大な壁を見つめ、ルヴァイドはつぶやく。
「ゼルフィルド」
機械兵士は無言で、ルヴァイドの腕を引き上げた。そしてよろめく体を支え、歩きだす。
「よい。独りで歩ける」
黒い機体はその言葉を無視して歩きつづけた。幾本もの矢を、背で弾きながら。
腕に抱かれながら後ろを振りかえる。ついてきている兵はわずかであった。みな、体中を泥にまみれさせていた。
「我ガ将ヨ。矢ノ射程範囲カラハ逃レマシタ」
「そうか……」
背後から歓声があがった。
待ち伏せていたデグレア本軍が、敵兵の後ろから襲いかかったのだろう。
今度は奴らが沼に押しこまれ、弓矢を射かけられる番である。
回避する手はあるまい。デグレアの勝利は決まった。
ルヴァイドは声を背に、顔を伏せて、黙々と歩いた。
そしてふと、疾走のさなかずっと聞こえていたあの鉦の音が、いつの間にか絶えていたことに気づいた。
頬に熱があたるのを感じて顔をあげた。
そそりたつ山の合間に、西日がいっぱいにさしている。
ルヴァイドは目をほそめ、赤い光のなかに立ちはだかる人影をとらえた。
金髪の青年が、怒っているような顔でこちらを見つめている。
「いおす」
機械兵士の声に、青年は歩みをすすめて近寄ってきた。自分が足をつけている場所が、すでに泥におおわれていないことを、ルヴァイドはその時はじめて知った。
「見ていました」
目の前に立った青年は、乾いた声でいいはなった。あの鉦の音のように、耳から胸にまっすぐに届く声音だった。
「……そうか」
紫の瞳が、じっとルヴァイドを見つめている。
無様だっただろう。
ルヴァイドはそんな言葉を飲みこみ、ただ無言で、泥にまみれた髪の間から相手を眺めていた。
青年はふたたび口をひらいた。
「よく生きていたものですよ。―――よく、」
あかがねの光を背負った青年は、怒ったような表情のまま口を結んでいたが、やがて、小さな声でつぶやいた。
「戦った」
青年はルヴァイドの脇を通って後ろへと駆けていった。つづいて、彼の配下が傷ついた味方をたすけに泥沼へと足を踏み入れていく。
ルヴァイドは、体から力が抜けるのを感じた。ささえる鋼の腕に力がこもる。
「ゼルフィルド。俺は……」
ゼルフィルドはルヴァイドを支えながら、1歩ずつ、歩きだした。
辺りには赤い光が満ち、戦の喧噪ももはや遠い。幾人もの兵が側に駆けより、無言で礼をとる。そそがれる幾つもの視線。熱い瞳。
うつむいた前髪から、泥水がしたたり落ちる。
「俺は……」