八雲立つ #1 炭善♀必ずキャプションからお読みください
産屋敷邸は広大な敷地を有する。
産屋敷一族の居住地のみならず、鬼殺隊の本部機能を兼ね備えており敷地の中には様々な建造物が混在していた。
その敷地内には慰霊碑が二つ存在する。
一つは鬼に殺された犠牲者を弔う為の慰霊碑。毎年盛大な鎮魂祭が催され、鬼の殲滅を果たし本部の場所が公開された今は普段からひっきりなしに遺族が参拝に訪れる。
そしてもう一つは鬼にされた者達の慰霊碑。
産屋敷邸の広い庭園の一画に木々が生い茂る林──もはや小さな森と称せるような場所がある。慰霊碑はその場所にあった。
日中でも陽の当たらない場所にひっそりと立っており、産屋敷家の者達が手ずから手入れをする以外は滅多に人目に触れる事はない。
そこは産屋敷家の居住区の一部であり、公開された今となっても許可を得た者しか入れないようになっていた。公開区域に建設した場合、今もなお鬼を憎悪する者達によって破壊される可能性があるからだった。
そうなってしまうのも無理はない事実でもあった。その慰霊碑は全ての鬼が祀られている。正確にいうと、鬼になった人間の魂が。つまりあの鬼舞辻無惨でさえ例外ではなかった。
この慰霊碑を建設するにあたり多くの遺族や元隊士達が反発した。自分達の大事な人を奪った者達に安らかな眠りなど必要ないと。
しかし現当主の輝利哉は建設を決行した。慰霊碑を建てる事は、他でもない父耀哉の遺言だったのだ。
前当主の遺言を出すと反発の声も大分収まる。また、元柱の者達が誰一人として反対しなかったのも影響が大きかった。
それでも納得できず割り切れない者は多く存在する。その者達の手から逃れる為、慰霊碑は非公開の場所に建設されたのだった。
この慰霊碑でも毎年鎮魂祭が静かに行われる。参列出来るのは産屋敷一族の者と、元柱と一部の元隊士のみである。
それ以外にこの場所は殆ど人が訪れない。元風柱の不死川実弥、弟の玄弥を除いて。二人は鬼になってしまった母を弔う為に毎月この場所を訪れていた。
そして、定期的にこの場所を訪れる者がもう一人。
「ここまででいいよ。ありがとな」
「ああ。何かあったらすぐに呼べよ」
「大袈裟だなあ……大丈夫だから。ちゃんと待ってて」
「………わかった」
林の入り口で、善逸は夫を振り返る。その手には赤子が抱えられていた。ふた月前に生まれた二人の赤ん坊だ。ちなみに七人目である。
この林の中に善逸が入っていくのは恒例行事だ。炭治郎は必ず入り口まで送っていく。しかし付き添うのは入り口に建つ鳥居の前まで。そこから先は、赤ん坊と二人だけにしてほしいという妻の要望に応えいつも二人で向かわせていた。
例え真夏の真昼でも仄暗く肌寒ささえあるその場所は、独特な空気を漂わせている。炭治郎はその場所に来るといつも不思議な匂いを感じていた。憎悪や怒りにも似ているかと思えば、悲哀や悔恨なども含んでいる。鬼として殺された者達の魂はまだ完全に鎮められていないのだろう。そうとしか思えなかった。
耳の良い善逸は音で違った感じ方をしているだろうとも思う。実のところそんな場所に赤ん坊とだけで向かわせたくはないのだが、本人は平気だといつも言う。
「あそこはいつも静かでさ。静かっていうか何の音も聞こえない。それはそれですごく怖くて、普段ならきっとどうにかなってしまうだろうけど、この子らを抱いてるから平気なんだ。音のない場所で赤ん坊の心音だけがトクトク聞こえてくる。その音が俺を正気に留めさせてくれるんだ。だから平気なんだよ」
そう笑う妻の言葉を信じるしかなかった。
炭治郎が慰霊碑に向かわせたくない理由はもう一つあった。
いつか“あの人”に連れていかれてしまうのではないかと恐れているから。
鬱蒼と木が生える暗い林の奥に向かう後ろ姿は、何度見ても不安になる。七回目である今回だって心のざわめきは抑えられなかった。
────それはまるで、黄泉の世界への道を歩んでいるようだったから。
「また来たよ」
“そこ”に辿り着いた善逸は、林の奥に立つ小さな祠に語りかけた。その場所に眠っているはずである。骨さえも残さず死んでいった哀れな者達の魂が。
そして、そこには善逸の身内も居る。
「そうだよまた産んだ。これで七人目だぜ。すげぇだろ」
善逸はまるで誰かと会話しているかのように話し、抱いている息子を見せるように少し持ち上げた。おくるみに包まれている赤ん坊はすやすやと穏やかに眠り続けている。
「今度は男の子だよ。また旦那によく似てる」
ふくふくとした頬に自分のをすり寄せ微笑んだ。鬼殺隊士として活躍し彩も華もない隊服を纏っていた頃とは違い、梔子色の留袖を纏う姿は確かに母の顔であった。十九の時に第一子を儲けて以来ほぼ毎年のように産んでいるので今更ではあるが、未だに童顔で若い娘に間違われる。それでも昔のような落ち着きのなさは大分収まっていた。
「信じられないだろうな。俺だってそうだよ。アンタにカスだカスだって言われてべそかいてばっかだった俺みたいなのが今や七人もの子供の母ちゃんだぜ。本当、世の中何があるかわかんねぇよな」
祠にかける言葉は、普段子らには話さない口調である。昔はこんな口ぶりで話していたが、子供の教育に良くないと自ら封じていた。だが、この場に来るといつも昔に戻ってしまう。
林の梢がさわ、と僅かに揺れる。葉が鳴る音を耳にし風を感じああ今日も来てくれたのかな、と善逸は思った。
それは独りよがりでしかないかもしれない。だけど、思うだけなら自由だ。
「なぁ、兄貴。俺な、今でも思うよ。何度だっていつだって思う」
子を抱く指の力が少し強くなった。
「本当はこの子達みんな、爺ちゃんと兄貴に抱いて欲しかったって───」
子のおくるみの端が少し濡れた。
風がまた吹く。赤ん坊の寝息の音と心音が、善逸をこの世に繋ぎ止めていてくれるような気がした。
「こんな風に見せに来るんじゃなくて、二人に赤ん坊抱いて、祝って欲しかった」
今でもいくらでも想像出来る。赤ん坊を抱いた時の師範はとても嬉しそうに笑って、いい子だいい子だと祝ってくれる。兄弟子ももしかしたら、笑いかけてはくれなくても抱いてくれるくらいはしてくれただろう。そんな日がいつか来る事をどれだけ望んでいたか。だけどその日はもはや絶対に訪れる事はない。
「あの頃の俺がもっと兄貴のこと気にかけてればもっと違う未来になったかもって、そんな詮無いこといくらでも考えちまうんだ。そんな事考えたって仕方ないのにな」
今の善逸は夫や義妹や子供達に囲まれ、本当に幸せだった。
だが、それでも。心のどこか一部分が、抜け落ちたかのように穴が空いている。ふとした瞬間そう感じてしまう。それはどう足掻いても塞ぎようのない穴であった。
それを少しだけでも慰められるようにと、善逸は子を産むたびに桑島の墓とこの慰霊碑に子を見せに来る。自ら鬼になった兄弟子の墓を建ててやる事は出来なかった為、この祠に縁を寄せるしかなかったからだった。
「もしも俺の声が聞こえるのならどうか見守っていて。俺の事は恨んだままでいいから。俺の事はいくらでも憎んでくれ。だけど、この子達の事はどうか見守っていて」
腕の中の小さな温もりを愛おしげに見つめる。過ぎた時間は二度と戻らない。だけど後悔だけは日が経つにつれ膨れ上がっていく。
こんな事を言われて兄弟子は自分の事をせせら笑うだろうか。それとも更に憎しみを深めるだろうか。それでもよかった。
「今も昔もずっと、あんたは俺の大事な家族だ。それはだけはずっと変わらない」
涙混じりの声だが、確かにそこには強い意志があった。
「また来るね。次は……旦那や子供達と一緒に」
「……後悔しているのか?」
「いいえ」
慰霊碑の前に立つ女の後ろに、その者は立っていた。
生前と変わらない青年の姿である男は、鬼であった頃の痕跡は残っていない。そして更にその後ろに立つ黒髪の男が一人。かつて鬼舞辻無惨に次ぐ最強の鬼と呼ばれた男にもやはり、鬼の名残は残っておらず顔には彼が一番憎んだ弟と同じ面影を宿すのみである。
二人の姿は、声は善逸には届かない。届くものではない。この地に留められた魂は鎮魂の祈りによって憎悪や怨恨は削ぎ落とされたが、その罪は消えるものではない。
過去に自分を鬼にした男の問いに、青年は瞳を伏せながら答えた。
「後悔なんてものは、やり遂げた者が使う言葉です。俺には後悔する資格すらない」
後悔はない。いや、後悔する段階にさえ自分は居ない。既に首と胴が泣き別れた肉体から離れてようやくわかった事実である。何もしないうちに自分は負けていた。この、母となった女が少女であった頃に。
「左様か。ならばあの者の言葉は果たす事はできぬな。地獄の炎は生温くないぞ」
「解っております」
子供達を見守っていて──そう願う善逸の言葉さえ叶えてやれそうにない。しかし、罪は消えない。
人への憎しみや地上への執着が消えた二つの魂──獪岳と継国巌勝の姿は焔に包まれ消えていく。
輪廻したその先で、次こそ正しい姿でそれぞれの大事な物を掴むために。
子供達の楽しげな声が聞こえる。
産屋敷邸の庭では竈門家の子供達が遊んで駆け回っていた。特に下の息子達がやんちゃで、しっかり者の長女が追いかけて諌めている。大人しい長男と次女は当主輝利哉の妹くいな・かなたに手毬唄を教わっていた。
それを輝利哉が縁側で微笑ましく見つめている。その膝には下から二番目の三女が寄りかかっている。三女はすやすやと心地好さそうに眠っていた。隣には子らの父炭治郎が申し訳なさそうに座っている。
「いつもうるさくしてすみません……善逸が居ればもう少し静かなんですが……」
「構わないよ。ここは普段静かだから、賑やかなのは楽しいよ。妹達も嬉しそうだ」
そう言いながら三女の頭を撫でる輝利哉は幼い頃より血色良い顔で笑う。以前は本当に女の子のようで色白く細かったが、今ではすっかり健康体のようである。
善逸が子を連れて慰霊碑に向かう間、炭治郎はいつも産屋敷邸の客間を借りて子供達と滞在させてもらっている。輝利哉達は何度だって歓迎してくれた。
すると、輝利哉の妻が茶を淹れて運んできた。炭治郎は慌てて立ち上がり盆を受け取ろうとする。だか奥方がどうぞおかけになってと笑うので従うしかなかった。
「これくらいなんて事はございませんわ。竈門様の奥様だっておめでた中でも家事をなさってますでしょう?」
「そ、それはそうですが……」
輝利哉の妻は快活に笑うと茶をもてなし、楚々とした立ち振る舞いで戻っていく。輝利哉の母あまねと少し似た面立ちだが、溌剌とした雰囲気の美女である。何より大きく膨らんだ腹を抱えながらも使用人をこき使わず率先して家事をする良家の奥方の姿に、炭治郎はいたく感心した。
「立派なご細君でいらっしゃる。お子様はもうすぐですか?」
「ああ、今月か来月にでもと言われてるよ」
「待ち遠しいですねぇ」
「そうだね。初めての子だし楽しみで仕方がないよ。……両親や姉達にも見せてやりたかったね」
「………」
そうぽつりと漏らした輝利哉は産屋敷家の伝統を破り、恋愛結婚で妻を娶った。“寿命を伸ばす為に神職の一族から嫁や婿を迎い入れる”というしきたりが不要になった為だ。また、父や祖父ら先祖代々年若い頃から子供を儲けていたのに対し、輝利哉は二十歳を超えてから初めての子を得た。
これらは全て父の遺言である。鬼舞辻無惨を抹殺し、産屋敷家にかけられた“呪い”が解けたのならば、子供達には一般人と同じような生涯を過ごして欲しいと。
しかし、輝利哉やくいな、かなたはそんな遺言は残して欲しくなかった。
もっと側にいて欲しかった。
もっともっと生きて欲しかった──。
「以前、話した事があるよね。父と母の遺言を」
「はい」
耀哉とあまねの遺言。それは、「産屋敷の財産を使って鬼の犠牲者となった者の慰霊碑、そして鬼になって鬼殺隊に斬られた鬼達の慰霊碑を建てる事」。前者はともかく後者は賛否両論を呼んだが、鬼達の恨みや祟りを鎮めるためにも必要だとして建設された。
更に輝利哉は続ける。
「実はね、元柱の皆にも話していないのだけど、私達兄妹個人に当てられた遺言もあるんだ」
「えっ?」
それは炭治郎は初耳の事実である。
「父は、私達に向けてこう言った。鬼を恨むな、と」
「それは──」
何とも酷な遺言だと炭治郎は思ったが言葉にはしなかった。
「父は、鬼を恨む役割は自分達がするからと。鬼に恨まれる役も自分達がする。だからお前達は鬼を恨まず、鎮める役目を果たしてくれ。必ず自分達の代で鬼を全て滅するから、と。私達に言ったんだよ」
「………」
炭治郎は何も言わない。輝利哉が続けようとする言葉も何となく察した。
「……酷いと、思わないか。僕達は鬼に──鬼舞辻に大事な肉親を奪われたのに、恨む事さえ出来ないなんて。だから、幼い頃はその遺言を守れなかった。あの戦いが終わってしばらく経った頃、妹達が夜泣きをするようになった。緊張が解けて年相応さが戻ったんだろうね。釣られて僕も涙が止まらない日が続いた。くわえて僕は憎しみや怒りが抑えきれなくなって、自傷するようになった。髪を抜いたり、手首を剃刀で切ろうとしたりね。左近次や槇寿郎達が側にいて止めてくれなければ、今頃僕はこの世にいなかったかもしれない」
「ああ……」
炭治郎は嘆息する。そんな風に追い詰められる程幼い子供達に責任を負わせていたのだと、今になって実感した。
「だけど、親になろうとする今ならよく分かるんだよ。父と母がそんな言葉を残した理由が」
「それ、は……」
その理由も、炭治郎は何とはなしに分かった。しかし、じっと耳を傾ける。
「誰かを憎み続けるということは、とても疲れる。とても。憎しみを持ち続けて生きるのは精神が摩耗されるんだ。きっと、父母はあの時もう疲れ果てていたんだろう。千年続いた産屋敷家の因果に。だから、僕達には同じように疲弊して欲しくないと、そう思ったのだろうね」
「……俺も、そう思います」
すると輝利哉は炭治郎の顔を見てふ、と穏やかに微笑み、庭の方を見遣る。遠くを見つめているようで、遊びはしゃぐ子供達をじっと見据えていた。
「……鬼舞辻無惨は、一体何を憎んでいたんだろう。千年間も憎しみの炎を燃やし続け、辛くはなかったのだろうか」
輝利哉の視線に釣られ炭治郎も庭を見る。愛しい我が子達が健やかに遊びまわる光景は、この世の何物にも変えがたいものであった。
しかし、その光景が簡単に崩れてしまう事もよく知っている。そんな時は必ず血と憎悪の匂いがした。そして、“あの男”からはそれらが凝縮されたような匂いしかしなかった。他の鬼には多かれ少なかれ残っている人間だった頃の匂いも全くせず、おぞましい程の死の匂いだけを纏っている。
「人を憎む事は辛い──そう思う事さえ、あの者は忘れてしまっていたのでしょうね」
「……そうか」
輝利哉は寂しげに呟く。そこにもはや恨みや嫌悪はありはしなかった。ただ憐れみと哀しみだけが、二人の間にはある。
「……父は、鬼舞辻でさえ憎まずに弔ってやってほしいと私に遺した。人を信じることを出来ずに魍魎と化してしまった愚かな獣を憐れんでやれと。私は、我が一族は、あの者の魂が鎮まるまでこの地で弔う事にするよ。それが、あの怪物をこの世に生み出してしまった一族の贖罪だ」
「………」
炭治郎は何も言わずただ頭を下げ一礼した。
「……お館様、すみませんがそろそろ」
炭治郎は顔を上げるとさっと気持ちを切り替えて立ち上がる。そろそろ一刻程経った頃合いだった。それくらいの時間で迎えに行くといつも善逸と約束している。
「ああ、そうだったね。子供達は私達が見てるから行っておいで」
「ありがとうございます!」
縁側を降り、いつものように直角に頭を下げると輝利哉はふふ、と笑う。その笑い方が父耀哉にそっくりで炭治郎は何だか不思議な感覚を覚えた。
庭にいる子供達にお母さんを迎えに行ってくると告げると子供達は元気よく返事をした。すぐに先程の鳥居まで向かう。
いつもこの時が一番緊張する。──待っても戻ってこなかったら。そんなはずはないと分かっていてもどうしても恐怖が拭えなかった。
しかし、そんな心配はすぐさま吹き飛ぶ。
「炭治郎、ただいま」
「………おかえり」
末っ子を抱いた善逸は、行った時と全く変わらない姿で木々の影から現れた。
ほっと安堵した様子が音どころか顔に出るらしく、それを見て善逸はいつも笑う。
「ほんっと、毎回毎回心配してくれるよな。何にもあるわけねぇのにさ」
笑われる炭治郎はいつも不貞腐れた。
「何にも無いなんてどうして言える?」
「あるわけねぇだろ」
「そうか?」
「だって、俺には大事な家族が居るんだから」
「あ……」
家族、という言葉に炭治郎は暖かく穏やかな香りを感じた。心から安心し信頼しきった匂い。それが、善逸から自分に向けられている。
「お前と子供達を遺して、アイツを追いかけに行くわけないだろ」
「……ああ、そうだな!」
炭治郎は腕を伸ばし、我が子ごと愛しい妻をそっと抱きしめる。その匂いと温もりを一言で表すのなら、確かにそれは“幸福”である。
血と憎悪の匂いを乗り越えて手に入れたもの。
死の手から逃れて辿り着いた先だった。
「……さあ、うちに帰ろう」
「……うん」
そうして手を取り合い、二人が切望した“何でもない日常”に戻っていく。
この先も困難はきっとあるだろう。生きていれば試練に立ち向かわなければならない日が必ず来る。それでも家族と、仲間達と乗り越えていくと誓った。
子供達の待つ庭へ二人で戻っていく。
残された林の中でまた梢が鳴った。二人の歩みを後押しするかのような音に気付き、善逸は僅かに涙を零した。