八雲立つ #2 赤城神社にて 炭善♀キャプションを必ずお読み下さい。
子供の頃、俺は丁稚奉公に出ていた。
俺には父はおらず、また母には頼れる身寄りが無かった。その頃は詳しい事は分からなかったが、母は元々それなりの家に生まれたらしいが俺を身篭った事で親に勘当されたらしい。
母子二人きりで生活は常に困窮していたが、長屋の人達が何かと助けてくれていたのもあり露頭に迷うことはなかった。
それでも貧しいのには変わらず、母が身を粉にして働き続けても暮らしぶりは上がらない。俺は物心ついた頃には母を手助けしてやりたいという思いがあったので、十を超えた頃には当たり前のように働きに出る事を意識していた。母は俺に学校に通わせたいようだったが、俺は尋常小学校を出てすぐに丁稚奉公に出た。
俺が働きに出ると言ったら母には反対されたが最後には折れ、どうしても働くのならここに行きなさい、と働く場所を指定された。
そしてそこに行くとすんなりと住み込みで働かせてもらうことになった。俺は仕事探しから始めるつもりだったのでこんなにトントン拍子に仕事が決まる事が不思議だったが、理由は後で知ることになる。
自宅近くにある商家だが、それなりに繁盛しているものの大店と呼べるほどの規模ではない。使用人も俺の他に数名居るだけであとは全て店の家族の者で切り盛りしていた。
丁稚の仲間に、一人変わった奴がいた。
俺が働き出して二年ほど経った頃に現れたそいつの名は我妻という。
真っ直ぐな黒髪に特徴的な八の字眉毛、鼻が小さく大きな目がやたらと丸くくりくりとしていて全体的に幼い印象だ。それだけならただの童顔だが、そいつは体が妙に小さく細い。歳は俺と同い年だと聞いているのに。だが貧しく栄養不足で体が十分に育たなかった奴は珍しくない。天涯孤独だったというそいつもきっとそういう事情なのだろう。
そしてそいつは仕事ぶりはあまりよくなかった。体つきが小さいせいだろうか、力仕事が上手くできず他の者の倍以上時間をかけたり、重い割れ物を落として割ってしまう事が多々あった。全体的にそそっかしいので小さな失敗が多い。しかしもう一人そいつよりそそっかしく失敗の多い下男が居て、我妻はそいつをよく庇っていた。どうやら知能に遅れがあるらしい下男は、庇ってくれる我妻によく懐いている。主人や他の丁稚仲間からは出来ない者同士の傷の舐め合いのようで白い目で見られていたが、俺には無垢な者同士のやり取りが微笑ましく見えた。
そそっかしいだけに見える我妻だが、思いもよらないところで妙な才能を発揮していた。
どうしても一晩で何百という数の荷物の仕分けをしなければならない時があったのだが、丁稚の一人がいつも皆に迷惑をかけているのだからと我妻と下男に押し付けようとしたのだった。他の丁稚もそれに乗っかり、俺は止めようとしたが言い出せず結局押し付けることになってしまった。到底二人きりで捌き切れる量ではない。完全に二人に対する嫌がらせだった。主人に咎められてもこの二人が自分からやると言い出したと嘯けば良いだけだ。二人が他の者に強く出られないのは皆よく知っている。
しかし、翌朝蔵に行くと荷物が完全に仕分けされており、床で我妻が眠りこけていた。
下男曰く、我妻は常人とは思えない集中力でほとんど一人で荷物の仕分けをしてしまったのだという。これには皆呆気にとられた。
とにかく不思議な奴だったが、ある日突然商家を出て行くことになる。ある秘密が露見した。
我妻は女だったのだ。
きっかけは、あの下男が我妻の性別に感づいた事だった。いつも庇ってくれる我妻に密かに想いを募らせていたが、蔵で一晩一緒に過ごした事で女である事を確信し夜這いしようとしたらしい。下男は十一だか十二だかの年齢で知恵の遅れのせいで大分幼く見えたが、性的機能はしっかり発達していた。
使用人達は全員大部屋で寝ている。もちろん我妻もだった。下男は我妻の布団に侵入した。下男に襲われ大声をあげて抵抗した我妻に他の者が気づかないはずがなく、寝巻きを脱がされかけていた事により我妻の秘密が皆に知られる事になった。
結果として我妻のみが商家を出て行く事になった。主人も女と知った以上男に混じって働かせてやることは出来ない。我妻はそれでも働かせて欲しいと食い下がったそうだが、お前がここに居たいというのなら面倒を起こしそうなあの下男を追い出す事になると言われ、自分から出て行く事を告げたらしい。
俺や他の丁稚仲間達は何もしてやる事は出来なかった。
例の下男は我妻が身を引いた事によりそこで働き続けられるようになったのに、彼女が居なくなってから更に呆けてしまい使い物にならなくなる。そしてある日夜中に商家を抜け出しそれから行方知らずになった。
そして我妻のその後の事も分からない。街を出て遠くに行ったらしく、風の便りでも耳に入ってこなかった。
その後、俺の半生では色々な事があった。
後から知った事なのだが、俺の母はあの商家の娘だった。俺の事は勘当しているとはいえ肉親のよしみとして雇ってくれていたらしい。孫だとしても特別扱いはされていなかったので、後で母から聞いた時は大層驚いた。
そして、俺は跡継ぎに恵まれなかった叔父の養子になり、その商家を継ぐ事なった。
そう言うと順風満帆に聞こえるかもしれないが、小心者の俺には商家の主人なんて荷が重くまた祖父や女将は厳しい商売人だったので仕事を覚えていくのに本当に苦労した。
なので縁談を持ち込まれても仕事をこなしていくのが精一杯な俺は結婚する事など考えられず、まだ半人前なのでとのらりくらりとかわしていた。その事で祖父を更に苛立たせているのはわかっていたが。
そして、長年の苦労が祟ったのかようやく隠居生活を楽しめるはずだった母が病を患った。これは俺を絶望の底に叩き落とした。やっと親孝行できると思った矢先の事で、しかも母の病は原因が分からなかった。
難病で治療費が高くても、今の俺は自由にできる金にある程度余裕がある。しかし原因が分からず治療方法も分からず医者も匙を投げる状態となるとどうする事も出来ない。
何故俺たちばかりこんな目にあうのか。俺はただ人並みの幸せを手に入れたいだけだ。
そう考えると、俺の無意識が俺の考えを咎めるかのように店を追い出された我妻や居なくなった下男の顔が脳裏にちらつく。
あいつらだってただ安寧に日々を過ごせるように懸命に働いていた。だけど女だからとか、知恵が遅れてるからだとかそんな理由で厄介者扱いされ邪険にされ挙句に追い出された。
俺は何もしていない。そう、何もしてないんだ。助けようともせず見て見ぬ振りを続けていた。その事が今になって巡り巡って今の俺に来ているのかもしれない。
単なる思い込みでしかないが、俺はそこまで追い詰められていた。
今日は久しぶりに休みをもらえたが、仕事と母の看病で疲れ切っているにも関わらず横になっている気分になれない。気分転換に近所を散歩しに来た。地元の神社が目に入り、ふらふらと吸い込まれるように鳥居をくぐり参拝した。もちろん、母の病が回復するようにと。神頼みでもしなければどうにかなってしまいそうだった。
そんな時だった。
「あの、もし」
その声が俺を呼んでいるのだと気づいたのは、肩を軽く叩かれ呼び止められた時だった。近所なので知り合いがいる可能性は大いにあるが、知らない声だったので訝しんで振り向く。
そこには全く知らない女がいた。そして、その容姿を見て驚いた。
何と言っても目を引かれるのはその髪の色だ。外国人のような金髪だった。芸者街であるこの界隈において外国人の存在は珍しくないのだが、若い女性の外国人はあまり見かけない。それに女は着物を着ていて顔つきも外国人のような高い鼻、青い目でもない。よく見れば丸く大きな目で控えめな鼻筋の日本人顔である。そして、眉毛が特徴的でどこかで見た事がある気がする。
とはいえ、知り合いにこんな金髪の女が思い当たらず、俺はほとほと反応に困った。
すると、女は俺の顔を見て何か確信したらしく、俺の名前と店の屋号を当ててきた。しかし何度も言うが俺には心当たりがない。困惑していると、女がそれに気づいて
「こんな頭になってるから分からないですよね。以前お世話になってた我妻です」
と述べる。
俺が仰天したのは言うまでもない。
「我妻? 我妻ってあの……」
「そう。お久しぶり。元気でいた?」
そう言って我妻は柔らかく笑った。
言われても俺は信じられなった。確かに面影はある。あの眉毛と丸い瞳、色こそ変わったが髪の真っ直ぐさと白い肌は昔と同じだ。
しかし、我妻は金髪である事を差し引いても昔とまるで雰囲気が変わっている。昔は言われるまで女だと気づかれないくらい、悪く言うと垢抜けていない野暮ったい風体だった。働きづめだったせいで髪はバサバサ、顔は煤汚れていて、栄養が足りていないせいでいつも顔色悪く青白く、発育不足で肉付きも薄くあばらが浮きカスカスの枝のような手足をしていた。
それが今はどうだ。髪は艶々と輝く生糸のように流れているのを丁寧に結い上げられ、頬にはうっすらと白粉が乗せられ、上品な色合いの紅を差した唇はふっくらとしている。そして、上等な友禅染の着物をきっちりと着込んでいるので体の線は出ていないが、体つきも女性らしく丸みを帯びていた。風体から感じられる今の暮らしぶりの良さは元より、本人のあまりの変化に十数年の間に何があったのか気になる。
それは我妻も同じらしく俺の近況を尋ねてきた。
俺は今でもこの近くに住んでいる事、実は自分が商家の跡取りで今は店の若旦那になっている事などを話した。
我妻は大層驚いていたが、そこで俺はようやく無神経な話をした事に気付いた。我妻にとっては理不尽な理由で追い出した憎き相手になるだろう。例え俺がした事でなくても、止めなかったのだから同罪だ。だけど我妻が気にしている様子は無かった。その態度に密かに安堵する。
そして我妻は俺がしきりに頭を見ているせいか、「気になる? 髪の色」と小首を傾げた。俺はその仕草にどきりと心臓が動いたが、それを誤魔化すために大げさに慌てた。
「す、すまん、そんなつもりはなかったんだが……」
「あはは、大丈夫大丈夫。見ちゃうよねえこんな色じゃ」
そう言って朗らかに笑う我妻は矢張り昔とは印象が違う。いつもあの眉の根を寄せ八の字にして怯えた目でおどおどと周囲を見ていた態度とはまるで別人だ。小柄で背が低いのは今も変わらないが、俺を遠慮なしに見上げてくる。
そして、我妻は雷に撃たれて髪の色が変わったと話した。俄かには信じられないが、染めた色ではないのは明らかだし我妻はどうも本気で言っているようなので信じる他無かった。
話してる間も快活さを見せる我妻は、はっと目を引くような美女というわけではないがころころとした声が愛らしく愛嬌のある可愛さがあった。それでいて仕草がどことなく年相応に艶っぽい。
先程から俺だけでなく通り過ぎる男の幾人かがちらちらと我妻を見ていた。この髪色だから老若男女問わず注目されるのは当然だろうが、男達は別の意図も含んだ視線を送っている。
正直に言う。俺は、自分の今置かれている状況──母が病気で寝込んでいるという事態も忘れかけ、我妻に見とれていた。浮かれだしてると言っても過言ではない。
が、我妻の一言が俺を現実に引き戻す。
「今日は一人でお詣りに来たの?」
「あ……実は」
俺は我妻に母の病気の事を話した。我妻の表情が見る見るうちに曇っていく。
「そっか……大変なんだね」
「そうだな。もう神頼みに縋るしかねぇなあ。まあ、こればっかりは仕方ねぇからさ……」
「………」
すっかり顔が暗くなり、俯いてしまった我妻に居たたまれなさを感じ話題を変えようとして声をかける。
「そういえば、我妻は今日はどうして神社に───」
俺はここまで気づかなかった。相当浮かれていたのかもしれない。綺麗な女性に成長した我妻を見て、少し、いや大分期待していたのかもしれない。このまま我妻と懇意になれるかもしれないかと。
我ながら愚の骨頂と言える。思い上がりも甚だしい。あの時彼女を庇おうともしなかったくせに、彼女が美しくなってから態度を変えるなんて。
こんなに美しい人が、俺の手に届くはずがないのに。
愚かな俺はその時まで、我妻が夫人が着るような留袖を纏っている事に気づかなかった。
「善逸?」
声の聞こえた方を辿ると我妻の背中に声をかけながら、俺と向かい合うように青年が立っている。
これまた俺は驚愕した。“男前”を絵に描いたような美丈夫だった。
墨に一滴だけ緋色を混ぜたような赤みのある黒髪と同じ色の瞳をしていて、顔つきは若々しさを通り越して幼さも少し見えるが精悍さも伺わせる威風も持ち合わせている。そして、やはり着物に覆われてはいるが、立派な首元と肩の頼もしさが隠しきれない肉体美を伺わせた。
その男は全く同じ顔つきをした一歳くらいの女の子を抱いている。晴れ着を着せられ丸い目をきょとんとさせているのがとても愛らしい。あまにも似ているので一目見て父娘である事が分かった。
視線を横に移すと、またも度肝を抜かれる。黒髪の美女が立っていた。我妻とは違う種類の美しさがあり、まさに大和撫子と呼ぶにふさわしいような端正な顔立ちをしている。そしてその女性は生まれて間もないであろう赤ん坊を抱いていた。やはりと言うかなんと言うか、赤ん坊もその女性にそっくりだ。その赤ん坊は晴れ着を抱き着として被せられているので、場所が場所だけにその子の初宮詣なのだろう。
この美男美女は夫婦だろうか。我妻とは知り合いか? そう疑問に思った直後、俺の想いは打ち砕かれる。
「ああ。炭治郎、禰豆子ちゃん。実は──」
我妻が俺を紹介しようと思ったのか、振り返りながら二人に声をかけだしたのと同時だった。青年に抱かれている女の子が我妻の方に手を伸ばしながら、むずかりだした。
そして青年が苦笑いしながら、俺にとって衝撃的な一言を我妻に言う。
「母さんの方がいいって」
俺の時間が、ピシリと凍った気がした。
「もう、仕方ないなあ」
言って我妻は手慣れた様子で男性から女児を受け取り、抱き上げてやった。女の子は母親にだっこをされて満足すると、あい!と何やら差し出す。棒付き飴のようだ。
「お父さんに買ってもらったの? 母さんはいいからお食べよ」
包みを解いてやるその顔は正に菩薩のようで、どこからどう見ても我が子を慈しむ母親でしかない。そして、その姿を見守る青年は父であり夫である穏やかな顔をして二人を見つめている。
我妻は俺の存在を思い出して慌てて謝罪しながら四人を紹介した。
「ごめん。紹介するね。旦那と、旦那の妹さん。それに長女と次女」
予想通りの言葉だった。ある程度予想していたのでそう告げられた時には衝撃も薄らいではいた。
それから我妻は、少し前に生まれた次女の初宮詣に来たのだと告げた。これも予想通りである。
家族の住まいはこの辺りではないが、せっかくなのでと物見遊山がてら我妻の育った土地にやってきたらしい。初宮詣では子供を父方の祖母が子を抱いて参拝するのを通例とする家庭が多いが、夫婦はどちらもふた親を亡くしており近しい親戚もいない為夫の妹に抱いてもらっているのだと言う。赤ん坊はやたらとその義妹に似ていて、子供がおじやおばの顔に似るというのはよくあるがそれにしても瓜二つだった。母娘と言われても全く驚かない程に。
そして、我妻は改めて俺を旦那と義妹に紹介する。
「炭治郎、禰豆子ちゃん。この旦那は俺が昔お世話になったお店のご主人なんだよ。ほら、炭治郎には前に話したろ」
「ああ! そうだったですね。挨拶が遅れましてすみません。竈門と申します。その節は家内がお世話になりまして……」
言って、我妻の旦那は深々と頭を下げる。見目が良いだけではなく、声も明朗でよく響く。男の俺でさえ聞き惚れてしまいそうな声だ。それでいて、腰が低く謙虚な姿勢が彼の誠実な人となりを表していた。
「い、いえいえ。主人ったって、まだまだ見習いですし……。むかし奥方と働いていた時も丁稚の身の上で……世話だなんてとんでもない。何も大それた事はしてないんですよ」
言いながら俺はじわりと罪悪感を覚えた。大した世話をしてやってないどころか、当時の主人──つまりは俺の祖父や他の使用人達にいびられるのを見て見ぬ振りをしていた。そんな事には全く触れず、良いようにごまかしながら謙遜している自分が情けない。
だが、我妻は首を振って微笑んだ。
「いいや。旦那は他の人達と違ってそそっかしくて愚図な俺に普通に接してくれたでしょう。それがどんなに嬉しかったか。それだけでも俺の生きていく糧になったんだ。そのお陰で今の俺があるようなものだよ」
我妻は抱いている娘の顔を愛おしげに眺め言った。我妻の夫もそれを見て微笑み、同じく笑う彼の妹だと言う女性と顔を見合わせている。
俺は、曇り空が晴れていくかのように確信を得た。
彼女が美しく立派になったのは、他人のお陰でも、ましてやどこぞの男のお陰でもない。我妻自身が自分で選んできた人生の結果なのだと。
彼女からはそういった芯の強い美しさを感じる。
それに引き換え、俺は──常に周りに流されて生きてきた。唯一決めた事といえば学校を卒業したらすぐに働く事くらいだ。それも、仕事も母に口利きしてもらって。
それでも自分に出来ることをやろうとひたすら励んできたつもりだった。なのに心のどこかに何かとっかかりのようなものが外れなかった。
彼女に再会して、その正体を掴めた気がする。
俺も、前に進まなければならない。
「我妻」
「うん?」
我ながら神妙な顔をしていたと思う。振り向いた我妻がそれまでにこにことしていたのに、俺の顔を見た途端きょとんとした表情を浮かべたのだから。
「あの時の事をずっと謝りたいと思ってたんだ」
「……あの時の事?」
俺は意を決して告げたつもりだが、我妻は全くピンと来ていないようでさらに首を傾げる。きっと我妻にとっては人生の中で取るに足らない些末なことなのだろう。もしくは、辛い過去を忘れようとしているよか。そうであるのなら俺は無闇にほじくり返す事になるが、それでも言わずにはいられなかった。
「昔、お前が大旦那に……俺の祖父に追い出された時俺は何にもしてやれなかった」
そこまで言われて我妻はようやく思い出したようで、慌てて首を振る。
「そんな、旦那のせいじゃないよ。仕方のない事だったんだし」
「……それでも、俺は俺が嫌んなっちまってさ。たしかにあん時の俺には何の権限もない丁稚だったけど、俺は孫だったんだから、勇気を出して祖父さんに何か言えば変わってたかもしれねぇんだ」
「それは考えすぎだよぉ旦那。出て行くって決めたのは、俺なんだしね」
そう言って、やはり朗らかに笑うのだ。
その笑顔にたどり着くまでどれ程の苦労や苦悩を抱えた事だろう。うら若い女が身一つで何の縁もゆかりもなく放り出されて楽に生きていけるわけがない。いつだって人の世は不公平だ。それでも、我妻はなんて事はないように笑った。
「……でも、ありがとう。そう言ってくれるだけで……いや、そう思ってくれるだけですごく報われた気持ちになれたよ」
そして、俺を慮ってそう言うのだ。ああ、やはり敵わない。
「っ………!」
俺は情けないことに言葉に詰まってしまった。声が出なくなったと言ってもいい。
目の前にいる女性──いや、目の前にいる人のあまりの度量の大きさに、俺は救われるとともに打ちひしがれた。
そして察したのだ。俺の人生がままならないのは誰のせいでもない。祖父や周りの人間のせいでも、ましてや天命のせいでもない。俺自身が何も選んで来なかった、そのツケが回ってきただけだ。
「………」
我妻は黙り込んでしまった俺に困っているようだ。今の俺は酷く情けない顔をしているだろう。
すると、我妻はなにかを決意したよう娘を抱き直し、夫を振り返る。
「善逸? どうした?」
「ねえ、炭治郎。俺、旦那に蝶屋敷を紹介しようと思う。いいかな?」
チョウ屋敷、と聞きなれない単語が我妻の口から出たが、夫にはすぐにピンときたらしい。合点がいったような表情を見せ、そしてにっこりと満面の笑みで笑った。
「それは俺が決める事じゃなくて、善逸が決める事だよ」
夫であるその男は、我妻を信頼しきった声音で告げる。
妻の決める事には間違いがないと確信しているからこそ、夫は決定権を委ねている。妻は三歩後ろに下がってついてくるべきだと言い張る男達とはえらい違いだ。もちろんそれは妻は守るべき存在だという信条に基づいているが、この男にとってそうではないのだ。
「そうだね」
我妻は納得したように頷く。義妹の女性もうんうんと頷いていた。そして、我妻は夫に抱いていた娘をもう一度託す。娘は棒突き飴を舐めて大層ご機嫌になっているので今度はぐずる事はなかった。
そして俺を振り返り、袂から何か取り出す。俺は何事かと驚いたが、筆記帳と万年筆を手に取った我妻は書いた紙を一枚破くとそれを俺に差し出した。何やらどこかの住所が書かれている。
「えっ……こ、これは……?」
「ここに大きなお屋敷があるんだけど、そこに住んでいる胡蝶という女性をお母様を連れて尋ねてみて。医者ではなく薬剤師の女性なんだけど、お母様の病気を診てもらえるはずだから。そこは病院でも診療所でもないけど腕利きの看護婦さん達も常駐してる。他の医者でも治せないような病気を治してもらえるはずだよ」
我妻は口早にそう説明した。要するに、医者を紹介してくれるらしい。医者ではないようだが、とにかく母の病気を治すのに協力してくれるのだと。
しかし、そんな世話になる理由がない。
「で、でも何で……俺にそんな事する義理はねぇだろうよ……」
「さっきも言ったでしょう。俺は、旦那が接してくれたのが救いになったんだよ。その恩を返すだけだ」
「そんな……」
「受け取っておくれよ。こんな事大した恩返しにゃならねぇさ。ただ紹介するだけなんだしね。今ここに俺が居られるのも旦那が居てくれたお陰だ。だからさ、これはあんたがあんた自身で繋いだ縁なんだよ」
「我妻……」
我妻の心意気に俺は目頭が熱くなり込み上げてくるものを必死に抑え込んだ。ぐっと鼻の奥が熱くなる。人前で泣くなんざみっともないが、それでも堪えきれずに漏れた。我妻はそんな俺に気を使ってかくるりと踵を返す。
「さ、そうとなりゃ善は急げだ! しのぶさんに連絡しねぇとな。えぇと、手紙を送んなきゃ」
すると、夫が手で制止する。
「ああ、だったら俺のカラスの方が早いよ」
そして、おもむろに指笛を鳴らした。それが指を鳴らしたとはとても思えないけたたましい音で俺は度肝を抜かれる。境内にいた他の者も目を白黒させていた。我妻や夫が抱いている娘、義妹は平気そうだ。赤ん坊までスヤスヤと眠っている。俺が呆気にとられているのに気づくと、我妻が怒った。
「ばか、お前自分の肺活量を考えろ!」
「す、すまん……ついクセで……ああ、天王寺!」
夫は空を見上げて誰かを呼ぶ。俺は怪訝ながらもその視線を追ったが、さらに仰天した。一羽のカラスが夫の頭上で飛んでいる。
夫はさも当たり前のようにカラスに話しかけた。
「話は聞いていたな? 蝶屋敷に伝言を頼めるか?」
「トーゼンッ!」
今日は本当にとにかく驚いてばかりの一日だ。
「か、カラスが喋ってる……!?」
「手紙も書いた方がいいか?」
「ソンナモンイラン! コレクライノオツカイスグニ済ムッ!」
「流石だな。頼んだよ」
「感謝シロ、バカ弟子ッ!」
「うんうん感謝してるよ」
やたらと饒舌に(そして生意気に)喋るカラスは喚くだけ喚いてカァカァと鳴きながらどこかへ飛び去ってしまった。
「これで先方には連絡がつきますから、後はご母堂の調子の良い時に妻の伝えた住所に連れて行ってください」
「え、今ので……!?」
何やらカラスに使いをやったようだが、どういう要領なのだろうか。伝書鳩でもあるまいし。それにそもそも手紙らしい物は持たせていなかった。
我妻もそうだが、この竈門という男も随分不思議な雰囲気の人物だ。この夫婦は(妹含め)何者なのだろう。
しかし、俺は敢えてそれを尋ねなかった。聞いてしまうのが酷く野暮に感じられたからだ。
「じゃあ、お元気で」
「ああ。我妻も末永く息災でいてくれ。娘さん達の健康を祈ってるよ」
「俺も、お母様の病気が治る事を信じてるよ」
そう言い合って俺たちはその場で別れた。
特に連絡先は交換していないので、恐らく今後会う事はほぼ無いだろう。住まいは高尾の辺りだと聞いたが、それだけだった。それ以上は聞かなかったし向こうも話そうとはしなかった。
その後俺は母が具合の良い頃を見計らって、我妻に教えられた屋敷に連れて行った。突然押しかけるのは気が引けたが先方から「いつでもいらしてください」という旨の信書を貰っていたのでその言葉に甘えた。
屋敷には舞台女優かと見紛うような美女達が看護師として働いており、胡蝶と名乗る屋敷の主人が女性が母を診療した。それでも母の病気の原因は突き止められず、すると今度は女医の卵だというその方の妹が母を診た。その女性がとうとう病気の原因を突き止め、母はその屋敷で治療を受ける事になる。
そしてその日以来、どの医者に見せても治る気配がなかった母の体調が見る見る良くなっていった。
顔色良くなった母は、入院している屋敷のベッドで毎日胡蝶様や栗花落様に手を合わせて拝む。しかし、二人はいつも口を揃えてこんな事どうということはない、感謝なら我妻に伝えてくれと言った。
我妻は今頃どうしてるだろう。この屋敷の人達と知己なのでよく会うらしいが、俺と直接会う事はなかった。
母が動き回れるほど回復してからしばらく経ち、俺は祖父の持ってきた縁談を受けた。もうすぐ嫁を貰う予定だ。近所の雑貨屋の娘で俺とも昔馴染みだった。
俺は毎朝仕事前にあの神社に通ってお参りしている。
母の病気が治ったのは蝶屋敷の方々のお陰なので、神様が治してくれたとか俺の信仰心のお陰だとかそんな浮ついた事は思っていない。しかし、ここに参拝にくればまた彼女らに逢えるのではないかとそう思っていた。
母は治ったが、生活は相変わらずだ。祖父や女将には毎日叱られてばかりだし、店の主人としてはまだまだ頼りないという評価も強い。嫁をもらって新しい生活がはじまるのだって十分不安はある。それにここ最近世の情勢も中々雲行きが怪しい。相変わらず世界中で戦争しているし、我が国も開戦するという噂もある。そうなれば俺もいつ兵に取られるかわからない。
それでも生きていくしかない。
我妻の言葉を借りるのなら生きて、縁を繋いでいく。
彼女もきっと、この世界のどこかでそうやって生きているのだろう。俺は何にも心配はしていない。彼女ならきっとこの先、どんな事があっても強く生きていける。
俺は今日も見慣れたこの神社で、彼女と彼女を取り巻く人々達が幸多からん事を祈り拍手を鳴らした。
またどうでもいい補足
・蝶屋敷は病院ではない上医師免許を持っている医者がいないので、知人や知人から紹介を受けた人だけ診療しています。カナヲは女医を目指しており医師免許を得たら蝶屋敷で開業医を始める予定。
・実はお宮参りを兼ねた旅行は伊之助も来ていたのですが、堅苦しいところを嫌がって一人で別行動取ってました。というのを本文に入れたかったのですが入りませんでした。
・タイトルの赤城神社は実際に神楽坂にある神社です。善逸の出身が牛込との事だったので大体あの辺で暮らしていたのかという憶測から出してみました。(もちろん公式情報ではないですし実在する赤城神社とこの話は一切関係ありません)