【同人誌サンプル】女の子だった僕とグランテールの7日間の話 暖かな陽射しの中、アンジョルラスの金糸の巻毛が、清かな風に吹き上げられて煌めいた。ソルボンヌの石畳をアンジョルラスは颯爽と歩く。
濃い金髪に覆われた白く秀でた額、彫刻のように端整な面差しは少年のようにも見えて、淡紅色の頬はいかにも可憐だった。薔薇の唇は真っ直ぐに引き結ばれており、アイスブルーの瞳の冷ややかさが、彼にいっそう厳しい印象を与えていた。
ソルボンヌ広場からヌーヴ・ド・リシュリュー通りを抜け、足早に歩く長身の美丈夫に、道行く人は目を瞠って振り返るが、アンジョルラスは頓着しなかった。
ラ・アルプ通りを北上し、セーヌの河岸に突き当たったサン=ミシェル広場の角に、アンジョルラスの目的地はある。
カフェ・ミュザン。
ミュザンの扉を開けると、様々な香辛料の匂いと酒の匂いがアンジョルラスを覆った。アンジョルラスは微かに花のかんばせを顰めると、そのまま戸口の傍に設えられている狭い階段を下った。
階段を降りた先は小部屋になっていて、アンジョルラスの見慣れた風景が広がっている。厚い樫のテーブルの上にいくつもランタンが置かれ、照らされて浮かぶ人の顔は明るい。多くがアンジョルラスと同じパリ大学の学生だった。
「アンジョルラス」
アンジョルラスの存在に気付いた一人の学生が、階段を見上げる。コンブフェールだった。この結社の中で、アンジョルラスが最も信頼する一人だ。アンジョルラスは頷き、残りの階段を降り切った。
〈ABC友の会〉は、表向きは貧しい子供たちの初等教育について考える会だった。しかし、内実は違う。あのフランス革命、自由、平等、友愛の旗印の許に為された、歴史上で最も偉大な一歩のひとつ、人民の勝利と解放から半世紀あまりが過ぎ、民衆は再び貧窮と困苦に喘いでいる。
この秘密結社は、革命によって王という楔から再び祖国フランスを解き放ち、民衆の手に自由を返すことを目的とする。その首領が、アンジョルラスだった。
「アンジョルラス、これなんだが……」
コンブフェールが書類を手にアンジョルラスに駆け寄り、アンジョルラスはその書類を確認する。
アンジョルラスが思考しながらコンブフェールに指示をすると、コンブフェールは微笑んで頷いた。
そのとき、部屋の中央が騒がしくなった。一人の酔漢がテーブルの上に乗って、酒瓶を片手に演説を打っている。
アンジョルラスは溜息をついた。あの酔漢の演説の内容など、聞くまでもない。いつものように内容のない繰り言を喚き散らしているにすぎない。
〈ABC友の会〉は高邁な志を共有する会だが、主たる構成員は学生だ。だから酔漢の言葉に耳を貸して、囃し立てる者もいる。たとえばバオレルのように明るく豪気な質の者だとなおさらだ。
アンジョルラスはつかつかとテーブルに歩み寄って、酔漢をねめつけた。
「グランテール、いい加減にしないか」
アンジョルラスの、グランテールに対する冷ややかな物言いもいつものことだった。グランテールはへらりと笑った。
アンジョルラスは一度、グランテールに何のためにこの結社にいるのかと訊いたことがある。彼らの会合に、グランテールは毎夜のように顔を出したが、議論に加わるわけでもなく、酒ばかり飲んでいる。たまに発言したかと思えば、すべてが酔っ払いの戯言だ。
アンジョルラスは、この結社に信念を求めた。目指すべき理想の形は多少違っても、燃える信念さえあれば手を携えて共に革命を為すことができる。
テーブルの上の伏したグランテールは酔いに濁った目でアンジョルラスを見上げ、「何も」と言った。
「僕には信念なんて何もない。そうだな、それらしきものがあるとすれば、それは君だ」
グランテールはアンジョルラスを指す。アンジョルラスは眉をひそめた。
「僕?」
「そう。君を信仰しているよ」
アンジョルラスは軽蔑してグランテールを見下ろした後、「では、ここを出ていけ」と言った。
酔漢の言葉に、一片の真実もあるとはアンジョルラスには思えなかった。アンジョルラスは意志の力を信じている。そのアンジョルラスに、言うに事欠いて個人への信仰などという、自分の意志を投げ出し、思考を放棄する言い訳を吐くグランテールを、アンジョルラスは侮蔑した。
アンジョルラスに出ていけと言われた後も、グランテールは会合に顔を出し続けた。ある日、不意にアンジョルラスはグランテールが自分を見ていることに気付く。
アンジョルラスが振り返ると、グランテールは目を逸らすか、テーブルに顔を伏せる。アンジョルラスの視線がグランテールから離れると、再びグランテールはアンジョルラスを見つめた。
言いたいことがあるならば言えばいい、とアンジョルラスは思うが、グランテールを問い詰めてもはぐらかすだけで、まともな答えが返ってきた試しがない。アンジョルラスは腹を立てた。
グランテールが何をしたいのか、アンジョルラスには分からない。分からないそのことが、アンジョルラスにとってはとてつもなく不快だったし、自然にグランテールに向ける目は冷ややかになった。
「グランテール、酒を置け!」
アンジョルラスは大学の講義を終え、途中書店に寄って最新の政治哲学についての本を買い求め、その足で今日もミュザンに向かった。
ミュザンの地下に降りると、何やら騒がしい。アンジョルラスは顔をしかめた。またグランテールが碌でもないことを言っているのだろうか。
どうやら今回の騒ぎの中心はグランテールではないらしい。ABCの仲間たちは、アンジョルラスが階段を降りてきたことに気が付かない。
テーブルに座り込んだバオレルと、バオレルの前に立ったジョリが言い争いをしていた。
「だから、そんなものはありえない。ありえないなんて言葉は使いたくないが、人体の構造そのものが変化するなんて薬があったら、とっくに不治の病はなくなって医学は大進歩してるさ」
「分からないぜ。錬金術だってあるからな。医学じゃ見えてこないものもあるかも」
バオレルがからかうように言うと、ジョリは肩を竦める。
「お言葉だけどね、バオレル。それは君が知っている医学の範囲が、その程度だって言うだけのことさ」
「ふうん」
バオレルは面白くなさそうに呟くと、テーブルの傍らに視線をやる。
「同じく医学生の参謀も同意見のようだな」
突然水を向けられたコンブフェールは一瞬目を丸くしてから、苦笑した。
「まあね」
バオレルは、テーブルの上に載せられた、掌に収まってしまいそうなくらい小さな青紫の瓶を指で突いた。
「ま、ちょっとしたお遊びみたいなものなんだろうな。実体のないものをあれやこれやと言い合うのが楽しいのさ。とは言ってもうちの首領には通じないだろうから、そろそろ終わりに……」
「僕がどうしたって」
学生たちの背後からアンジョルラスが声を掛けると、彼らは驚愕した顔で振り返ってから、決まり悪そうにアンジョルラスから目を逸らした。
「……やあ、アンジョルラス」
バオレルは観念したかのように両手を挙げ、片頬を持ち上げた。
「僕がどうしたんだって? バオレル。その瓶はなんだ」
「いや、これは……」
気まずく笑うバオレルに、アンジョルラスは息をついた。
「一瞬、またグランテールが何かをやったのかと思ったが。ジョリ、どういうことなんだ?」
ジョリは苦笑して頭をかいた。
「いや……。バオレルが怪しげな婆さんから、性転換の薬を貰ったっていうのさ」
アンジョルラスは眉間に皺を寄せた。だから人体の構造が変わるだのという話が出ていたのか。
「それで、本物かどうかって話をみんなとしていたのさ」
バオレルが言葉を継いで笑う。
アンジョルラスは再び溜息をつく。想像以上に、くだらない。
「……貸してみろ」
アンジョルラスはバオレルに右手を差し出した。
「え?」
バオレルは困惑したようにテーブルの上の小瓶をアンジョルラスに差し出した。アンジョルラスはそれを受け取ると、小瓶の口に嵌った小さなガラスの栓を抜いた。
「僕もジョリやコンブフェールと同意見だ。そんな薬などありえない。よって、僕は自分自身でそれを証明する」
アンジョルラスは周囲の仲間たちを睥睨した後、一気に小瓶の中身を飲み干した。小瓶の薬はとんでもなく苦く、喉が焼けるように熱くなる。
「アンジョルラス!」
なかば悲鳴のような声をあげてコンブフェールがアンジョルラスに飛びついた時には、すでに小瓶の中は空だった。
アンジョルラスは、空になった小瓶とガラスの栓を、テーブルの上に置いた。
「僕は女になったように見えるか、バオレル」
「……いや、まったく」
アンジョルラスは笑う。
「では、結果は分かったな。みんな、仕事にかかろう」
翌日のことだった。
その日、ミュザンの地下に一番はやく来たのはコンブフェールだった。
ソルボンヌの中でも医学生であるコンブフェールとジョリは忙しい。彼らの最大の師である遺体は待ってくれないからだが、今日はコンブフェールの付いている教授の体調不良により、急遽休みになった。
地下に潜ったコンブフェールは、昨夜の仲間たちが散らかして帰った痕跡に苦笑し、片付け始める。
さすがに他人に見られると困る文書はすべて隠してあるが、テーブルの上には空のボトルやグラスが倒れているし、テーブルの傍らに順序良く並ぶはずの椅子は、ばらばらに散らばっている。コンブフェールがそれらを綺麗に集め、整列させていると、地下に降りてくる人影があった。
「はやいな。珍しい」
クールフェラックはコンブフェールを見て小さく口笛を吹いた。コンブフェールは笑う。
「たまたま休みになったんだ」
「となると、ジョリはまだか」
「ジョリは来れないかもしれない。今日、構内で会ったとき、青い顔でレポートの提出期限が明日だって言ってたから」
「そりゃ無理だな」
クールフェラックはそう言って笑った。
クールフェラックやアンジョルラスらの所属する法学部と、コンブフェールやジョリの所属する医学部とは学舎が違う。元よりパリ大学は、成り立ちからして独立した学部の大連合であって、学部同士の横の繋がりは薄いのだ。
「あれ、コンブフェールがいる。どうしたんだ?」
続いて、プールヴェールやレーグルがミュザンの階段を降りてくる。コンブフェールは苦笑し、同じ説明を繰り返した。
「マリウスは寄るところがあるって言ってたからそのうち来るだろう。バオレルは教授に呼ばれてたぜ」
クールフェラックはそう言って、片付けられたテーブルの上を見て笑う。
「まあ、アンジョルラスが来る前にこれは上に持っていってしまおうぜ」
「だね」
プールヴェールもまた、コンブフェールが片付ける前の部屋の惨状を察したらしく、苦笑した。
「任せた。レーグル、僕らは仕事の続きをしていよう」
コンブフェールが言うと、レーグルは頷いて部屋の隅に屈みこみ、床の羽目板の一部を外した。仲間以外に見られてはいけない文書はそれぞれ注意深く持ち帰るか、この床下の隠し場所に入れてある。
クールフェラックとプールヴェールとで、両手に空のボトルとグラスを持って、階段を昇り始める。
そのとき、階段を駆け下りてくる小さな影があった。
「……っと、危ない」
階段に足をかけたクールフェラックは、手にグラスを持ったまま、すんでのところで小さな影を抱き留める。影は、クールフェラックよりも背が小さく、長いケープの帽子を目深に被っていた。
クールフェラックの視界の端で、階段下のコンブフェールが隠し場所を遮るように立ったのが見えた。クールフェラックは安堵の息を吐く。
「そんなに急いでどうしたんだい、坊主。……いや、失敬。マドモアゼル」
クールフェラックは《彼女》の肩から手を離して、恭しく言う。《彼女》は一瞬沈黙したあと、
「バオレルは?」
と低く言った。
クールフェラックは苦笑する。
「まだ来ていないな。……マドモアゼル、少々ここは、愁嘆場には向かない。引き返して階段の上で待つのをお勧めする」
《彼女》はむっつりと黙り込み、分からないか、と呟いた。
「クールフェラック」
《彼女》はクールフェラックを呼び、ケープの帽子を取った。
濃い金髪の巻毛に覆われた陶器のように白い肌、頬は淡紅色、形のいい唇は薔薇のように赤かったが、アイスブルーの瞳は澄んで、どこか冷ややかだった。
クールフェラックが《彼女》の息を呑むほどの美貌に圧倒されていると、《彼女》は冷厳と言った。
「僕だ」
階下でコンブフェールが、まさか、と囁く。それを聞き留めた《彼女》は、コンブフェールを見下ろして笑った。
「やっと分かってくれたな」
《彼女》は──アンジョルラスは、そこにいる四人の仲間たちの顔を順に見る。
「それで、バオレルはどこだ? やつに聞きたいことがある」
「まさかあの薬に、本当に効果があるなんてな……」
クールフェラックが言うと、アンジョルラスは頷き、小さく息を吐いた。
「ありえない、と思ったんだが。予断を持った僕のミスだ」
アンジョルラスが椅子に座ると、仲間たちもアンジョルラスを囲むように腰かけた。
「信じられない……。身体の構造が一晩で変わるだなんて」
コンブフェールがテーブルに肘をつき、額を押さえる。
「それで、これからどうするんだい?」
レーグルが訊くと、アンジョルラスは腕を組む。
ありあわせの服を着てきたのであろう、アンジョルラスは元の青年のシャツにトラウザーズをサスペンダーで吊っていて、いずれも今のアンジョルラスには大きいから、袖や裾を捲っている。
「まずはバオレルに薬の入手経路について詳しく聞きたい。元に戻る方法を探る手掛かりはそこにあると僕は思う」
「その通りだろうな。だが……」
バオレルは怪しげな老婆から薬を貰ったと言っていたから、手掛かりなど見つかるものだろうか。クールフェラックが思案していると、あの、とプールヴェールが遠慮がちに声をあげた。
「とりあえず、アンジョルラスは今日は帰ったほうがいいんじゃないかな……。この件はしばらく、ごく少数の間だけに留めていたほうがいいと思う」
「なぜ?」
アンジョルラスは片方の眉を上げた。プールヴェールは困ったように笑う。
「……動揺する人が、出ないとも限らないんじゃない?」
ふむ、とクールフェラックが顎を撫でた。
「それはありえるな……」
アンジョルラスは眉を顰める。
「なぜ。僕は僕だ」
「周りはそう見ちゃくれないだろう。知っての通り、パリは女に優しい街じゃない」
アンジョルラスは不機嫌そうに唇を曲げた。そうしていても美貌は一切損なわれることがない。
「とりあえず当面の方針が決まるまでは、僕かクールフェラックが会合の様子を伝える、ということでどうだい?」
コンブフェールが言うと、アンジョルラスは沈黙したあとで溜息をついた。
「……いいだろう。それぞれ自分の仕事は進めておいてくれ」
「了解」
アンジョルラスが蹴り上げるように席を立つと、クールフェラックがすかさず「送ろうか」と言った。
「いらない」
一言だけ返して階段を駆け昇るアンジョルラスを、コンブフェールが追う。アンジョルラスが勢いよく振り返ると、コンブフェールは微笑んだ。
「送ろうというんじゃない。今後の方針を、君の下宿に着くまでに相談したい」
「……なるほど」
アンジョルラスは頷き、再び階段を昇り始める。アンジョルラスとともにミュザンを出ていくコンブフェールを、残された三人は見送った。
その夜の遅く、アンジョルラスのアパルトマンをクールフェラックに伴われてバオレルとフイイが訪ねてきた。
バオレルは現在のアンジョルラスの姿を見て、あんぐりと口を開け、まさか本物だったとは、と頭を抱えた。
バオレルは路地裏で声を掛けられた老婆に押し付けられた薬だ、と言い、アンジョルラスは落胆した。この広大なパリの街で、同じ老婆を見つけ出すのは海岸で砂粒を見つける作業に等しい。
しかし、この状況を打開するには彼女を探すしかないのは事実だ。バオレルは必ず見つけ出すとアンジョルラスに約束した。フイイも職人仲間にそういう噂話がないか聞いてみると言う。
そしてアンジョルラスは、翌日、クールフェラックの恋人の一人であるミレーヌと服を買いに行くよう、約束させられたのだった。
翌朝、アンジョルラスのアパルトマンにミレーヌがやってきた。ミレーヌは、アンジョルラスを見て目を瞠る。
「本当だったのね……」
「……冗談だったらいいと僕も思う」
げんなりしたアンジョルラスの声に、ミレーヌは笑った。
「とりあえず、外套だけは持ってきたわ。私のでは少し小さいかもしれないけど」
アンジョルラスは、元の姿よりかはだいぶ背が縮んだが、それでもパリを歩く平均的な女性よりは大きい。
ミレーヌの持参したくすんだブルーの外套は、アンジョルラスの瞳によく似合った。
「すまないな」
アンジョルラスが言うと、ミレーヌは笑う。
「いいのよ。今日が休みで良かったわ。さ、ウィンドウショッピングに行きましょう」
アンジョルラスとミレーヌは、連れ立ってカルチエ・ラタンを離れ、セーヌの右岸に移った。目的はパレ・ロワイヤルにあるパリ最新のパサージュ、ギャルリ・ドルレアンに向かうためだった。
ギャルリ・ドルレアンは天井の高い石造歩廊で、採光のためにガラスが多用され、ウィンドウショッピングが楽しめるブティックが立ち並ぶ。元々、パレ・ロワイヤルの中庭を横断する臨時建築として木造歩廊が造られた。その内部にギャルリ・ド・ボワと呼ばれる商店街ができ、木造歩廊ごと老朽化によって壊されて、現在のギャルリ・ドルレアンになっている。
アンジョルラスはミレーヌに様々なブティックに連れ回され、洋服を見立てられた。
ミレーヌはアンジョルラスに、着替えを手伝うと申し出てくれたが、ミレーヌは女性であり、友人の恋人だ。アンジョルラスひとりで女性の服を着ることが可能とも思えなかったが、ミレーヌに手伝ってもらうのは気が咎める。
アンジョルラスはミレーヌの申し出を丁重に断ったが、その結果、親切な店員によってウエストの引き紐を思い切り引っ張られて、胃が捻じれるかのような思いをした。
「ミレーヌ、今日は彼氏と一緒じゃないのかい」
「ええ、そうなの。新しいお友達よ。綺麗でしょう?」
「ミレーヌ、新しい帽子が入ったんだが見ていくかい」
「ありがとう。今日はこの子のお洋服を探しているの」
ミレーヌはブティックをのぞきながら次々に声をかけられ、鮮やかに躱していく。店主に話しかけられて困っているアンジョルラスを「ごめんなさい、この子、パリに出てきたばかりなの」と、ミレーヌは庇ってくれさえした。
「……クールフェラックとよく来るのか」
ブティックから離れ、アンジョルラスがこっそり訊くと、ミレーヌは笑う。
「ええ。できたばっかりの時から何度かね。私は前のギャルリ・ド・ボワのごみごみして活気がある感じのほうが好きだけど。……あなたはきっと、今のほうが似合うわね」
ミレーヌは面白そうに言って、アンジョルラスを見上げた。
「疲れたでしょう? お茶にしない?」
アンジョルラスは小さく安堵の息を吐く。アンジョルラスにとって着慣れない女性の服装は苦しい。石畳にかつかつと靴が躓いて、倒れないように歩くので精一杯だった。
二人はパレ・ロワイヤルを南に抜け、サン=トノレ通りに出た。古くからあるカフェやインテリアショップが並ぶ冴えない商業街だが、それがかえって今のアンジョルラスには落ち着く。
そのとき、サン=トノレ通りを北に抜ける短い小道、ランパール通りから男たちが数人、連れ立って歩いてきた。彼らはミレーヌとアンジョルラスを見て、笑いながら何事かを囁き合うと、男たちのうちの一人が、二人に向かって卑猥な言葉を叫んだ。
アンジョルラスはさっと顔色を変えて駆け出そうとするが、ミレーヌに腕を掴まれる。
「放っておくの」
アンジョルラスは目を瞠ってミレーヌを見下ろす。
「しかし!」
「駄目よ」
断固としたミレーヌにアンジョルラスが戸惑ううちに、男たちはサン=トノレ通りを東に走り去ってしまう。
ミレーヌは苦笑した。
「私たち女工がどうしていつも二人以上で行動するか分かる? 一人が暗がりに連れ込まれても、もう一人が助けを呼べるからよ」
ミレーヌにそう言われてしまっては、アンジョルラスはミレーヌを置いて男たちを追うことができなかった。
アンジョルラスとミレーヌは近くのカフェに入った。席に落ち着き、注文を終えると、アンジョルラスはミレーヌを見る。
「……ああいうことはよくあるのか」
ミレーヌは静かに微笑んだ。
「そうね。よくあるわ。女工は手軽な女だもの」
ミレーヌの言葉を聞き、アンジョルラスは唇を噛んだ。
パリの学生たちの恋人の多くは女工だ。彼女たちは若い娘だが、面倒な親兄弟の保護がなく、少ない給金で働きながらパリで暮らしている。誠実な学生と恋仲になることができればいいが、そうではないことも多い。
眉根を微かに寄せて黙ってしまったアンジョルラスに、ミレーヌは笑う。
「私たちはいつも二人以上で行動するけれど、一番安全なのは男の人と一緒に歩くことよ。クールフェラックがいてくれて、本当に助かっているの」
「……そうか」
アンジョルラスは言葉少なに答える。
クールフェラックには、ミレーヌのほかにも恋人と言っていい女性がいる。それをアンジョルラスは知っているから何も言うことができなかったのだが、ミレーヌはアンジョルラスの心を読んだように続けた。
「恋はいつか終わるわ。クールフェラックも私も、いつか違う相手を見つけるでしょう。これまでもそうだったし、これからもそうだわ。でもね、クールフェラックは私に、文字を教えてくれるの」
ミレーヌは、アンジョルラスに顔を近付け、内緒話をするかのように声を潜めて笑う。
「今までの人は、私が文字を知りたいと言っても相手にしてくれなかったわ。笑ったり、酷い人では嘘を教えたりするのよ。でも、クールフェラックは違ったの。言葉が書けるようになりたいと私が言ったときは驚いていたけど、こども用の教本をプレゼントしてくれたわ」
ミレーヌは嬉しそうに微笑んだ。
「最近ではクールフェラックは私に会うとき、宿題を用意するのよ。おかしいでしょう?」
〈ABC友の会〉の表向きの姿は、貧しいこどもに文字を教えるための集まりだ。その表向きの姿に説得力を持たせるため、学生たちは独自の教本を作ってさえもいる。
まさかクールフェラックが、それを使って恋人に文字を教えているとはアンジョルラスは知らなかった。
「クールフェラックってそういう人だわ。だから私、クールフェラックが好きなのよ」
アンジョルラスはミレーヌを見つめて沈黙した。
「……教育は必要だ、どんな人間にも」
アンジョルラスの言葉を耳にして、ミレーヌはころころと笑った。
「ええ。そういう人だわ、あなたも」
二人がテラス席で飲み物を終えるころには、日が傾き始めていた。
二人はカフェを出て、すぐそばの停留所から乗合馬車に乗った。セーヌの左岸に戻って、コンティ通りを東に向かう。サン・ミシェル広場からほど近いカフェで、クールフェラックと待ち合わせることになっていた。
二人で日暮れのパリを歩いていると、アンジョルラスは不意に眉をひそめて振り返った。背後にいた、薄汚い軍服の男がアンジョルラスと目が合うなり顔を歪め、走り出した。
アンジョルラスは咄嗟にミレーヌの腕を掴んだが、ミレーヌの反対側の腕を男が引いた。アンジョルラスの手からミレーヌがもぎ取られてしまう。
「……っ」
今のアンジョルラスの腕力では、男に敵わない。暗い路地に連れ込まれていくミレーヌの唇が、行って、と動いた。
瞬間、アンジョルラスは迷った。これから人通りの多いところに行って助けを求めるにしても、今のアンジョルラスがどれだけの速さで走ることができるのか。その間にミレーヌが遠くに連れ去られてしまう可能性は高い。
アンジョルラスはミレーヌを追いかけ、路地に飛び込んだ。暗い路地の中で視界が効かないが、男に引きずられるミレーヌの淡い色のスカートを目印に、アンジョルラスは走る。
まっすぐに走り、曲がり、またまっすぐに走った。ミレーヌを連れているぶん、男の足は遅いはずだ。
──追いついて、体当たりする。
いちかばちかだ。しかし、これしかない。アンジョルラスは必死に走るが、少しずつ引き離されていく。これだけの距離しか走っていないのに息が上がる自分の肉体が、アンジョルラスは信じられない。歯がゆくて苦しい。
そのとき、かつんと音を立てて、アンジョルラスの踵が石畳に嵌り込む。しまったと思ったときには遅かった。アンジョルラスが石畳から踵を引き剥がして再び正面を見ると、ミレーヌがまた遠くなっている。
「ミレーヌ!」
アンジョルラスは無意識に叫び、闇に慣れてきた目でまた駆け出す。
突然、前を走っていた男が佇立するように止まった。男の上体がゆっくりと傾いで、路地の壁に凭れるように崩れ落ちていく。
ミレーヌは男の上に倒れ伏した。その彼女の前に、誰かの手が差し伸べられるのが、アンジョルラスの目にも見えた。
「まさか君とは思わなかった。無事かい」
グランテールは丸い背をいっそう丸めて、ミレーヌに屈みこむ。ミレーヌはグランテールの手を取って立ち上がった。
「……ありがとう、助かったわ……」
肩で息をしながら礼を言うミレーヌに頷き、グランテールは視線を上げる。
「あちらの勇敢なマドモワゼルは、君の知り合いかい」
グランテールは気障ったらしい言い回しをして、たしかにアンジョルラスを見ていた。