烏の雌雄 厚めの毛布を片手に二枚携えて、大人二人が寛ぐには些かスペースの足りないベランダへと向かう。掃き出し窓を開けて部屋から出てみると、丁度良い塩梅に涼しい空気に迎えられ、夜空には例えるならば、四から六等星辺りが精々であろう、淑やかな光を放つ人工のプラネタリウムと街の明かりがビルの輪郭を微かに照らし出していた。眼下に映る景色を一瞥しながら、エキニシィはそっと後ろ手に窓を閉める。
初めて街を訪れた人間に、 "実はここは、出口のない閉ざされた環境なのだ"と伝えなければ、眼前に広がるこの星空も、頬を撫でるそよ風さえ、本物と間違えるに違いない。空に張り巡らされて輝くワイヤーフレームに目を瞑れる度量があれば、の話だが。
(何考えてるんだろう。ここが何処だろうがもう関係ないのに)
いつからだろう。一人でいると余計な事ばかり考えてしまう。結論として、ふと頭に浮かんだこの思考は全くもって何の意味も有りはしないという事に行き着いた。
忘れよう。もう忘れた。
「星が一つ、二つ、ええっと……、星座…」
持ち込んだ毛布の一枚はそのままベランダの欄干にかけて置き、柵にくくりつけられている真っ黒な紐――臍帯のキズの終端で宙を漂うクレトに声をかける。指差す先には街の夜空を彩る"星"。痩せこけた背中に向けて、思わず両肩を上げてしまった。
「クレト」
「ああ、ごきげんようエキニシィ」
エキニシィが脇に抱えた毛布を臍帯で奪い取り、子供がお化けに扮するようにしてそれを肩にかける。片足をそっと引き、反対の片膝を柔らかく曲げて、布地の端をつまみながら恭しく、空中で披露したカーテシー。
笑って欲しいのだろう、そうだろう。
侍騎士アマド
望む所であるとして、エキニシィは控えめな笑みをたたえた。それから右足を軽く引き、左手を水平に。ボウ・アンド・スクレープなど、自分の柄では無いのは百も承知している。
必要である事、必要のない事。沢山の知恵と、思い出と、永遠の傷を刻んだ男の幻視が、クレトに重なった。
それはともかくとして、この光景。もしも他の人間が見たならば、たちまちに八つ裂きにしてやる。
「お前も飛びたい?」
クレトがエキニシィの腰に回した臍帯がミミズのようにのたうったので、慌てて首を振った。退屈そうなため息がクレトから、安堵のため息がエキニシィから。
重力を無視して空を揺蕩う姿は、クレトを通して見るとまるで行き場も知らず波間に消えていくクラゲか、糸の切れた凧を連想させる。歩数にして言えば五歩もない距離を詰め、既に柵に繋がれている臍帯を掴んで強く握りしめた。一連の動作を眺めていたクレトはクスクス笑いながら、くるん、と身を翻して浮いていた痩躯を爪先からベランダへと下ろす。
「哀しいかな。翼も臍帯も持たないお前達は、この束の間の自由さえ満足に味わえないとは」
ふわり、ふわり。宇宙飛行士を真似て、大きな跳躍。そのまま夜の街に飛ばれて行かれては大変困るので、リード代わりにその細腕も握りとめた。
「俺は正直充分だよ。あっちこっちに飛ばされて吐きそうになるから」
「そんな馬鹿な。速度の調整に際して私は細心の注意を払っている。吐きそうになると言うのならそれは単に、お前が体質的に酔いやすいだけなのでは?」
あくまで非を認めないクレトに対し、エキニシィは車の運転手と同乗者による乗り心地の差異について、丁寧な解説をしてやるべきか否かに数秒の時間を費やした。とはいえ、それが好奇心旺盛な彼の何かしらの興味を駆り立てて、時として想像の及ばない規模、方法による冒険の幕開けにならないとも限らないので、表面上はごく聞き分け良く、「そうかもね」と返すのみに留めておく。その後は互いに話す事もなくなり、クレトはまた先程と同じく、街の空に浮かぶ星を指でなぞりはじめた。オリジナルの星座でも作り出そうとしているのだろうか。
彼はエキニシィの意図しなかった個性として、よくこうして年齢に不相応な、子供の遊びみたいな行為に興じる印象がある。先程の話でいえば毛布を被ってみせた仕草であったり、キズを使ったからかいであったり(こちらについてはキズを自らの汚点として忌み嫌うキズ持ちも一定数存在する為、キズを遊びの延長線上で使う価値観が子供らしいと感じる)、例を挙げればキリがない。
視線をクレトの指先から、彼の横顔へそっと移す。彫りの深い顔立ちに、群青の髪色を際立たせる白磁の肌。彫像めいた美貌は人間らしさを遠退き、いっそ異質な印象さえ与える領域にあるのかもしれないが、エキニシィにとってはクレトが、この上なく都合の良い造型で象られていると思っている。物を知らず、世間も知らず、幼稚な振る舞いに傾倒する奇妙さや不気味さ。
クレトを愛でるのは、自分だけで良いのだから。
「翼といえば」
それからどれくらいの時間をぼんやり過ごしたろう。唐突にクレトが呟いたので我へとかえり、二人並んで星座になりそうな星を辿っていた指を降ろした。
「虫の翼は羽根と言うね?」
「んん? そう……かな?」
脈絡もない話題に一瞬呆気に取られはしたが、言われてみれば、とエキニシィは小首を傾げる。トンボやセミに生えているあれを翼と呼んだ事はないし、誰かがそう呼んだのを聞いた事もない気がする。話の内容を脱線し、お前だって空を飛ぶのに羽根や翼は使わないねと言いかけた時、食い気味に身を乗り出したクレトがエキニシィに飛び付いてきた。
「うわっ」
自分よりもそこそこ背の高いくせに、体重はエキニシィの半分と少し程しかない。その痩躯を抱き留める事自体は何の問題も無かったが、ひやりと冷たい身体が上肢に押し当てられ、次いで、すらりと長い手足が絡み付く感触に思わず悲鳴があがった。
高揚に動揺。クレトに悟られる事はないだろうか。エキニシィのそうした焦りを露ほども汲まないまま、クレトはくすんだ緑色の目を見開きながら唇を開く。
「なあエキニシィ、私は虫に会いたいよ」
「ん…?」
簡素な作りのベンチに腰掛けて、暇潰しにスマートフォンを弄っていると、傍らに座り込んで花を摘んでいたクレトが、頭上を見上げて小さく声をあげた。褪せた緑色の両目は彼の好奇心を勝ち取った"それ"ただ一点に釘付けとなり、それまで一心不乱になって集めていた筈の色とりどりの小さな野花は、彼からの興味を失ったのを理由にして、その両手からはらはらと零れ落ちていく。
虫を観に行く為にあちらこちらを散策する中で、クレトの興味もあちこちに飛んでいった。この休息区、自然植物園に連れ立ってきた段階で、ここで集めた花は乾燥させてからアンティークにして持ち帰るか、本に挟める栞に加工しようねと、そういう話をしていたのに。エキニシィは自身の傍らに、あらかじめ摘んでおいた幾つかの花を見下ろしながら小さくため息をついた。だが、今や慣れたものだ。
足元の草原に散る花びらには目もくれず、最早地面に再び根を下ろす事も叶わないそれらを数度踏みしめて、クレトは宙に飛び上がる。腰の辺りから幾重にも伸びる臍帯に支えられながら、目的の対象に手を伸ばし……どうやら、捕まえたらしい。
「エキニシィ!」
「何?」
エキニシィは手元のスマートフォンを一度掲げてからポケットにしまい、クレトへと視線をあげる。長く伸ばした群青色の髪をかきあげて、得意げにこちらを見下ろす姿に笑みを深める。氷の彫像のように無機質な相貌が、自分の前では屈託なく微笑んでいるのだ。
気分が良くなるのは当然だろう。
差し伸べた手を取り、ロングブーツに守られたクレトの爪先が地面に降りた。未だに浮力を保ったままの髪やコートの布地が、着地と同時にフワリと弾む。
「なあ、見てごらん」
クレトがそう言うや否や、赤い手袋が拳を握って眼前に突き付けられた。殴られればさぞや痛かろう。固く固く握られた拳骨。そしてそれは、明らかに中に握りしめたものを考慮したスペースが設けられているようには見えない。エキニシィは言葉に詰まった。何がとは言わないが、恐らく、潰れている。
「あ、ちょっと───」
制止を入れたにも関わらず、勢い良く握り拳が開かれた。弾かれた人差し指が鼻に当たり、思わず顔を仰け反らす。
「………」
「………?」
数秒を空けた後、片眼だけをクレトに戻してみる。彼は先程から微動だにしていない。手元に納めた成果を見ない事には状況は進展しないらしい。何が悲しくて潰れた虫を二人で眺めなくてはならないのか。観念して手の平に視線を向けると。
───クレトの手の中は空っぽだった。
「んっ?」
首を傾げたエキニシィを見、クレトはついに破顔する。
「アハハハハハッ! 私はまさかそこまで愚かだと思ったかい? もしそうであるならば大変心外だ。もっともこれまでの経歴からして、その認識に至るのは致し方ないかもしれないけれど」
目尻を指で拭いながら、種明かしとばかりに背後から伸びる臍帯の一本を二人の間に繰り出す。螺旋状に巻かれたそれは、クレトが見せびらかそうとしていたモノをその内で、確かに無傷で捕らえていた。時々ブブブ、と、狭い狭いキズの檻の中で鈍い羽音を立てて。檻を模しているのだろうか。エキニシィが臍帯に指を添えた。
「トンボ?」
「正解。だがこちらは何だと思う?」
得意気な表情で、クレトの背後からもう一本、鉄格子のように絡まりあった臍帯のキズが運ばれてくる。エキニシィは顔を近付けて、クレトの問いの真意を確かめようとした。
「あぁ……」
真っ黒な螺旋の中には先程と同じように、虫が捕らえられていた。見た目はトンボによく似ている。二対の薄羽、細長い胴に尾っぽ。虫に対する知識が皆無な人間……、例えばクレトのような人ならば、もしかしたら見分けがつかないのかもしれない。けれども。
「カゲロウだな、これ」
けれどもエキニシィはやんちゃだった少年時代、それこそまだ予備軍に認定されていなかった幼少期には、仲の良い友人を伴ってよく虫捕りをして遊んだものだ。キズ持ちとなった今はそうした微笑ましい過去の思い出に何の感傷も抱かなくなったが、当時の出来事を一つの記録として振り返り、トンボとカゲロウの違いくらいは分かるのである。思いの外あっさりと正解を引き当ててみせたエキニシィにクレトは一瞬顔をしかめはしたものの、「流石は私のエキニシィだ」として、次の瞬間には誇らしげに胸を張っていた。
実に都合の良い解釈によって成立するその振る舞いは、街を訪れる前、黒髪の彼がエキニシィによく見せていたものだ。いわく、「他人のやることなすことは何もかも不快で憎たらしいが、お前のやることなすことは何もかも楽しいし誇らしい」のだと。それは何故かとなんとなく尋ねてみて、男はエキニシィの、長く伸ばした柔らかな赤髪に指を通しながら、
「お前は俺の側にいるからさ」
と笑ってみせたのだ。悪戯に耳の裏をくすぐられて声をあげる姿を、慈しむように見つめる黒い目。
キズ持ちの追憶は当時の五感と郷愁を強く呼び起こす。
あの赤髪を、どうして切ってしまったのだろう。
このモノクルは、いつから着けていたのだろう。
「エキニシィ?」
「あ、……ごめん。何?」
クレトが不安げにこちらを見ていたのに気付き、慌てて頭を振って追憶を振り払う。この頃は夢を通じて見るだけに留まらず、クレトの言葉や行動をきっかけにして、場所を問わず唐突に、白昼夢のような追憶を見る事が増えた。エキニシィにとっての追憶は、痛みの中に忘れ難い男の面影を垣間見える絶好の機会という位置付けが強く、追憶を見る頻度が増えた事に不安はない。何かがあるとするならば、クレトの事だ。
空っぽのままでいてほしいのだ。
そのがらんどうは、全て余さず自分で埋めるつもりでいるから。
「この虫の事なのだが…」
クレトは未だ弱々しく羽根を羽ばたかせる小さなカゲロウを、それこそ穴の空くように凝視していた。どうやらトンボよりも、こちらの脆弱で儚げな虫に関心があるらしい。
「姿形は非常にトンボに似通っているけれど、それにしても随分と弱そうだね?」
子供の残虐性。
クレトはカゲロウを閉じ込めた檻を、残像が残る速さでシェイクしながらエキニシィを見た。ずしりと重たくなった瞼を下ろす。
「見た目は近くてもトンボってカゲロウじゃないし、カゲロウもトンボじゃないんだ。種類によっては違うけど、このカゲロウは寿命も短くて長生き出来ない」
「長生き出来ないとどうなるの」
カシャカシャ、カシャカシャ。
縦横無尽に揺さぶられている檻を視界から外す。
「すぐにしぬってことさ」
「ふうん」
クレトはエキニシィの解説に対して何を感じたのか、常に冷め冷めとした緑色の目を一層冷たく凍てつかせていた。途端に、ピタリと動きの止まった檻を冷ややかな瞳のまま覗き見る。内部にはビラビラにちぎれた細かいカスが浮いているだけだった。
「わざわざ似せて産まれてくる事もなかろうのにね」
困ったように眉を下げ、対して口の端を吊り上げてクレトが笑む。今の問答で完全に虫に対する興味は失ったらしい。二つの臍帯の檻はゆるりとほどけ、そのほっそりとした体躯に吸い込まれていくさなか、事なきを得たトンボだけが植物園の中に解放される。もう片方の檻からは、粉々になったカゲロウだけがぱらぱらと芝生に降り注ぐだけだった。
自由を得て飛び去るトンボを、エキニシィは静かに見上げる。ほんの一瞬、赤い閃光が薄羽を撫でた。
「ありがとうエキニシィ、もういいよ」
さっさと踵を返そうとするクレトを呼び止めながら、エキニシィはベンチに残したままの花を持って、その半分をクレトに手渡す。
「栞にしてから帰ろう?」
「うん」
そうして二人は当たり前のように手を繋いで並び歩いた。名残惜し気はなく、ただなんとなく、エキニシィが後ろを振り返る。
宙をはためく薄い羽根。芝生に受け止められた細い体。
クレトの手を一層強く握りしめた。