インソムニア 街の中を縦横無尽に駆ける狩人。追憶を視ないキズ持ち。
エキニシィにとって自身の片割れにも等しいクレトという青年は、毎晩就寝する時は勿論、日中の昼寝の折でさえ、一人で眠るということが出来ない。自分以外の人間の温かな体温、感触をその細腕に抱き、脚を絡めてまで触れ合っていないと安心を得られないのだとか。大袈裟な身振り、脚色がかったようにしか見えない、しかし本人にとっては至極真面目だという弁明は、かい摘まんで言うとそのような内容だった。
例えばこれが夜な夜な、あるいはクレトが眠気を催した時、誰も彼もを構わずに誘って抱き枕にしているなどという話であるならそれは大問題であるが、目下彼と共に眠る奇異な人間など自分しかいないし、そもそも自分以外の人間とそのような行為に出るなど有り得ない確信と保証がエキニシィの秘密裏には存在しているので、
「なあエキニシィ、そろそろ一緒に寝ないかい?」
「良いよ。ちょっと待ってて、これ終わったらすぐ準備する」
──クレトからの誘いに、喜んで応えるのだ。
「……このくらいの位置で大丈夫?」
右向きに身体を寝かせながら、エキニシィは胸元で未だに寝相を調整しているクレトへと声をかける。
「うぅん……」
聞こえていたのかいないのか。曖昧な返事が冷たい呼気に混じり、エキニシィの喉元にかかる。クレトの息遣いはか弱く、その声音は時に妙な艶を帯びる。庇護欲に混じって場違いな色香を感じてしまい、大きく息をついて深呼吸。高揚を身体の外に吐き出した。
なにぶん二人共全く小柄ではないのにベッドのサイズはそこまで大きくないし、抱き合って眠るともなると一番心地のいい姿勢を見つけるのに時間がかかるようだ。エキニシィはといえば、とりあえず眠れさえすればソファの上だろうがアスファルトの上だろうがどこでも構わない性分であるものの、クレトはそうもいかないらしい。
いったん眠りに就けばどこまでも深く暗い所にまで意識が落ちていくようで、そうなればエキニシィが手洗いに立とうが一服をしに行こうが、物は試しにと、頑なにして触れられるのを嫌がる首筋に手を這わせようが起きる気配はない。
常より冷たい身体が更に温度を失って、身動ぎ一つせずに眠り続ける様は、まるで。
「よし! ここだ! 長らく待たせてしまってすまなかったね」
それまでの忙しない衣擦れの音が消えたと同時に、至近距離から放たれたクレトの大声。驚く間もなく物思いに馳せていた意識が揺り起こされた。上目遣いにこちらを見つめる、くすんだ緑色の瞳と視線が重なる。その細腕が背中にするりと回されたのを合図にして、エキニシィも腕を回して痩躯をそっと抱き寄せると、不意にクレトの瞳から十字の光が零れた。何を言うよりも早く、臍部から突き出したキズが足元に畳められていた毛布を引っ張り出す。二人の首元までを覆いながら、すっぽり三枚、毛布が重ねられた。
「それにしても本当に温かいなあ、お前の身体は」
しみじみとそんな事をささやいて、クレトの指がするすると背中を這い回る。肩甲骨や背骨の凹凸した輪郭をなぞる所までは許せたが、いよいよ遠慮もなしに、臀部のくぼみにまで細指が下りてきた時は流石に抵抗の意思を示さざるを得なかった。エキニシィはいい。だがクレトはどうだろう。
二人が一つになったこと自体はこれまでに沢山ある。今日だって日中に、二人そろって実践した戦闘訓練の興奮が冷めやらず、灰色の空に飛び交うカラス達のざわめきを聴きながらクレトと繋がった。血の匂いと、いつになく獰猛な笑みを浮かべた青年の表情。しかし今は違う。
二人は心身を休めて眠ろうとしている。無垢な声音のまま際どい触れ合いをしているその時、本人にそんな不埒な意図が果たしてあるのだろうか、ないのだろうか。尋ねる気にはならなかった。
「こら、くすぐったい」
努めて優しく、ただしそれ以上は駄目だと教えるように、クレトの背中を叩く。今回は物わかりの良いふりをして、冷たい指の感触がエキニシィの背からサッと引いていった。以前として淡く光るままの、濁った翡翠色の瞳が一度瞼の裏に隠される。
「眠気を覚ましてしまうから?」
片目を開いて悪戯っぽくおどけてみせられて、つい口角が上がってしまう。陳腐な言葉だが、今腕の中に抱いている冷たい生き物を改めて、可愛いなと思った。
「そうかもね」
「ふふ……」
犬や猫がするように、鎖骨に額をぐりぐりと押し付けられる。しきりに顎髭をくすぐる癖毛がこそばゆいなどと思いながら、柔らかい青髪を後ろに撫で付けてやった。
───それまで細足を擦り合わせていた物音だとか、ひそひそ声で特に意味のない会話をポツリポツリとやり取りしていたのがパッと止まっていたのに今更驚いて、そこでクレトがようやく寝入った事に気付いた。いつの間にか自分も、船を漕いでいたらしい。
軽く毛布を引いてそうっと胸元に目を下ろしてみると、微かな光を閉ざした瞼から溢しているまま、寝息を立てているクレトがいた。エキニシィの脚の間に自らの細脚を挟め、両の手は顔の近くに添えられている。にもかかわらず、今の今までクレトから抱擁を受けていると勘違いしていたのは、二人の身体を縛りつけるようにして絡みついた臍帯の感触が原因であった。よくよく見てみると、何本も伸びた内の一本は互いの臍に繋がっている。
クレトは完全に眠りの最中にあり、キズ持ちの力の一部でしかないキズにエキニシィが起きたのを知るよしなどないだろうに。微かに身動ぎしただけでしなやかな鋼のような臍帯が、するりとエキニシィの首に巻き付いた。呼吸に差し支えるものではないが、冷え冷えとした温度が皮膚を擦っていく感覚に何とも言えないもどかしさを覚えてしまい、逃げるようにして瞼を閉ざす。何も見えなくなった視界の中でも決して取り零すまいとして、一層強く、クレトを抱きしめながら。
そうして、いよいよ本格的に意識が朦朧とし始めた時、エキニシィはふと思い出したことがあった。今こうして、当たり前のように傍にいる青年のことだ。
確かあれは、二十を越えてちょうど真ん中辺りになった頃だろうか。好ましくない出来事が二人の間で立て続けに起こり、心の余裕をなくしていたのだと思う。突っぱねた態度で接し続けたのが原因だったのか、今までずっと一緒に同じベッドで眠ってくれた男が、
「明日からは一人で寝ろよ」と、エキニシィに言ったのだ。彼は淡々と二人分のコーヒーを手にリビングへと戻ってきて、赤いカップの方を、目も口も開いたままソファで動けないでいるエキニシィに渡しながら、
「分かったな」と再び圧をかけて。
エキニシィは熱が伝わって熱くなっている筈のカップを、取っ手も使わずに握りしめたまま頷くことしか出来なかった。
良い歳をして一人で眠れないのはやはり少しおかしかったろうし、親しき仲にもなんとやらで、何をやるにもつっけんどんな態度を返していれば、愛想を尽かされるのは当たり前だろう。ましてやあの男は、ただでさえ気まぐれなのに。
けれど────。
噛み締めていた歯と、固く閉ざしていた瞼をゆっくりと開く。背中や額を伝う汗。エキニシィはクレトを起こさないよう、努めて静かに、しかし、舌打ちをした。
(……追憶だ………)
ばくばくと脈を打つ心臓が、まるで肺を押し潰そうとしているようだ。全力疾走で駆け抜けた時にも似た息切れ、目の奥ではチカチカと、夕焼けの光が明滅している。皺の浮いたシーツを握りしめながら、ただ追憶が止んでくれるのを待つ他なかった。臍帯の冷たさが、締め付けが、今ばかりは煩わしいほどに不快に感じてしまう。
(クレト、クレト)
追憶はたくさんの記憶を引きずり出す。音、匂い、感触、トラウマ。
様々な環境音や、あの時この時聞こえた言葉を頭の中から掻き消したくて。心の中で、名前を呼ぶ。
今は瞼を閉ざしたままでいた。目の前で眠る青年を、視界に捉えないようにしていた。
夢の中、あるいは起きている時でさえ。クレトの姿は、時々あの男と重なるから。
独りでは眠れないとぼやく彼を、どうして咎められるだろう。