白い夜旭川にもとうとう冬がやってきた。ロシアでマイナス30度を経験したことがある東海林はまたあの極寒の季節を乗り切らないといけないかと思うと少し憂鬱だった。
名古屋の子会社から、旭川の支社に移動して3ヶ月。
支社といっても駅前の古いビルの一室にぽつんとあるその建物には従業員が30人ほど、支社長の補佐として働いている。
その日は本社からの依頼で北海道産の小麦を視察するため製粉会社へ出向いた。
やはり国産は数も少なく値もはる、本社から叩きつけられた予算では到底及ばず、製粉会社と交渉するしかないと東海林は考えていた。
「支社長、やっぱり北海道産の小麦は違いますね〜」
東海林は助手席の支社長に話しかけると
「そう?違いはよくわからないけど高いね」
ボソボソと返事をされる。
この支社長は70過ぎのちょっと魔の抜けた人で東海林はなかなか掴みどころがない人だと思っていた。正直仕事を一緒にするにはやりづらい人だ。
だが上司なのでうまく付き合いつつ、ここで結果を出して本社に帰るという目標がある。
早く帰って見積もりを作ろうと東海林は支社へと車を走らせた。
数日後、今度は一人で製粉会社へ出向き交渉した。長期契約を結ぶと言う条件で、こちらの希望する金額で取引することができ東海林はご機嫌だった。
帰りにサンプルの小麦粉までもらい、東海林は会社で何か作ろうかと頭の中でレシピを考えていた。
その日は公用車が使われていたのでバスで来ていた。
ちょうど製粉会社の前にバス停があったので助かった、と思いながらベンチに腰掛ける。
まさかそれが大事件の発端になるとは思わなかった。
10分ほどでバスが来て東海林は空席を探す、一番後ろに一席開いていたのでそこに腰掛ける。
カバンとビニール袋に入った小麦粉を抱えて腕時計を見るともう12時だ。帰ったら近くの旭川ラーメンの店にでもいこう、そんなふうに思っていたら、次のバス停に着いた瞬間横に座っていた客が慌てて立ち上がり東海林にぶつかりその拍子に荷物が全部下に落ちてしまった。
「すみません」
ぶつかった相手は学生くらいの若い男性でおろおろしながら東海林の荷物を拾った。
「いいよいいよ、降りるならこっちはきにしないで」
その男性は何度も謝りながら自分の荷物を慌てて手にして乗降口へ向かっていった。
東海林はまた腰掛けて窓の景色をのんびり眺めていた。
会社に戻り、製粉会社からもらった小麦粉を取り出そうとしたときにそのことに気がついた。
もらったはずの小麦粉ではなく別の粉が入っていたのだ。
東海林はすぐバスで男性のものと入れ違ったと気がつき、急いでバス会社に問い合わせる。だが小麦粉の忘れ物などは届いていないと言う。
東海林は仕方がないとその粉を家に持ち帰り、しばらくして渡せなければ処分しようと思った。
製粉会社の小麦粉でお好み焼きやホットケーキでもみんなで作ろうと思っていたので、少し残念ではあるが仕方ない。
そうして、東海林はその入れ替わった粉が何なのか気にも止めずに家へと持ち帰った。
その翌日の晩、気温は2度まで下がり顔が痛く感じる中東海林はマンションへと帰っていた。
これからどんどんマイナスの気温になっていくようで、またカイロを買い足さないとなんて考えながら凍る足を踏みしめ人通りの少ない道を歩く。
ファミレスの前を通り過ぎて、商店街を抜けたところにマンションがあり、そこは周りも薄暗かった。
だからなのか、後ろから車のライトがずっと付いてくることにすぐに気がついた。
東海林はその異変を不気味に感じて、早足で前に進んだ。すると、後ろからタイヤがキュルキュルと高速回転するような音が聞こえる。
何か嫌な予感がすると体が察知したのかいつのまにか駆け足になっていた、だがあっけなく車は東海林の横につき、スピードを落としながらもスライドドアが開いて東海林を吸い込んでいった。
「お前か、薬を盗んだのは」
そこには強面の男が3人乗車していた、そのうちの1人に胸ぐらを掴まれで尋問されている。薬を盗んだということが何のことかわからず東海林はあたふたしていた。するともう1人が東海林の腕を掴んで後ろに回した。
「いきなり聞いても答えるわけないだろ、ちゃんと順番通り聞けよ。あんた、昨日バスでぶつかった男の荷物を持って帰らなかったか?」
東海林は動揺しつつも
「あ…あの時の粉か!?」
「それを返してほしいんだがどこにある」
「どこって…俺の家だけど」
「じゃあそこまで案内しろ」
冷静に話を進めるその男は東海林の腕を掴んだまま離さない。そもそもぶつかった若い男性は3人の中にいない、この人たちは一体何者なのかも分からず戸惑っていた。
腕を後ろで交差されたまま車から出されてマンションまで歩かされる。
怪しげな連中に絡まれて東海林の中に不安が募る。そもそもあの粉は何なのか、聞きたかったが知るのが怖くて尋ねることができずにいた。
オートロックを開けて部屋まで向かう、そしてドアを開けて中に入ろうとすると、男たちも中に入ってきた。
「いや、別に取ってくるだけなんで」
「いいから、早くしろ」
掴んだままの腕がギリギリと痛む。強く掴みすぎだと東海林は思いながら中に入り、台所に置いてあった袋を取る。
そして奪うように男は中を確認する。
「ありました、これです!!」
よく分からないが無事に落とし主が見つかったなら、これで解決したと思った東海林は
「じゃあこれで…ー」そう言いかけた時だった。
目の前に銃を突きつけられた。
最初はおもちゃか何かだと思った、だがよく見るとさ重みのあるビジュアルで本物だと感じた。東海林は一気に戦慄を感じ体が氷のように固まってしまう。
「何もせずに帰るわけにはいかないんだよ、コレの存在を知られたんだからな」
車に押し込まれた時点でこれはただの粉じゃ無いという予感はしていた。だが命の危険にさらされることまでは想定していなかった。
東海林は銃で脅されてまた車に戻され、車内で手足をロープで縛られてガムテープを何枚も口と目にに貼られた。
そして荷台に寝転がされると、車はまた急発進してどこかへ向かう。
どのくらい走ったのだろうか、薄暗い車内で踠き続けていた東海林は拘束されたパニックで時間軸が狂ってしまっていた。
車のエンジン音が消えて、荷台のドアが開く、東海林は担がれるようにどこかへ連れて行かれた。
走行中に聞こえた車内での会話に
「痕がつかないよう山に埋めるか」
「殺さずに海外へ売りに出すか」
という恐ろしい話を聞いて、東海林は体を震わせていた。このまま逃げなければ殺されるか売られる、どっちにしろ今までの日常には戻れない。そもそもこんなふうに縛られてどこかへ監禁されるのもドラマや小説の話だけだと思っていた。まさか自分がそんな目に遭うなんて、あの時バスに乗らなければ…今更そんな後悔の波が押し寄せてきた。
東海林は倉庫のような場所にロープで吊るされ、男たちは1度その場から離れていった。
体を支えるロープが上半身を締め付ける。どこまで吊るされているのか目隠しのせいでわからず、恐怖心は募るばかりだった。
「…んっ…んうっ」
くぐもった声をあげてうめくもののガムテープが強く貼りつき声にならない。耳にはロープが揺れて軋む音だけが聞こえてくる。
誰か、誰か助けてーそんな祈りも誰にも届けられず東海林はただ暗闇の中に浮かんでいた。
(こんな形で人生終わるなら、もう少しずる賢く生きていたらよかった…)
頭の中に走馬灯が揺らめいてきた、生まれて大人になって就職して仕事をしてー…そんな中で大きい存在は大前春子だった。
春子とは名古屋で結ばれたものの突然消えてしまった。
あれから一度もあっていない、というか消息不明だったのだ。だが、いつかまた会えると思って生きていた。東京に戻ればまた会えると。
だがそれももう叶わない、こんなことなら探偵でも雇って探し出せばよかった。
気がつくと目から涙が出ていた、わずかなガムテープの隙間からそれは頬を伝って地面に落ちる。
ロープで締め付けられた体も寒さからか痛みが麻痺してきた。もしかしたら殺される前に凍死するのではないだろうかと思えてくる。
「うっ…うぐつ」
とっくりーーと、呟き体の力を抜いて少しずつ意識を遠のけていく。
その時だった、突然体を吊っていたロープが動いたのは。
「!?」
東海林は思わずそれに反応した、誰か戻ってきたのだろうか。まさか銃で殺されてしまうのではー。
寒いのに体から嫌な汗がぶわっと放出される。
鼓動を早めながら東海林は黙っている、そして足が地面につきゆっくりと体が地上に降り立った。
その丁寧な対応でこれはさっきの男たちではなく、誰かが助けにきてくれたのではと予想した。
その後全身のロープも外されて体が自由になる。その解く手は素早く複雑な結び目をいとも簡単に解いてみせた。
東海林は手首に触れてロープの跡に触れる、深く食い込んだその跡は波打つ形まで細かく刻んでいた。
そして自力で口のガムテープを外して、誰が拘束を解いたのだろうと目隠しされたガムテープをゆっくりとはがす。
だが視界が広がった頃には、そこに誰もいなかった。
数分後、サイレンの音がして警察が入ってきた。
「大丈夫ですか!?」
「被害者、保護しました」
東海林は警官に毛布を巻かれて保護された。どうやら通報があったらしく東海林を拉致した男たちは逮捕されてこの場所を自白したそうだ。
最初に通報してくれたのはマンション近くで目撃したある女性だと聞かされた。名前は明かさなかったそうだが東海林は思い当たる人物がいるのであえて誰かは聞かずにいた。
そして自分の拘束を解いてくれた人、その人物こそきっと自分が一番会いたかった人、大前春子だろうと思った。
なぜ旭川にいて自分が拉致されたことを知ったのかはわからないが、あの時ロープを解く手はずっと忘れない温もりと同じだったから。
数日後、東海林は会社帰りにふとつぶやいた。
「ありがとう、とっくり」
きっとどこかで自分のことを見ている、そう想像しながら。
ほんとうのことは誰も知らない。