【小説】さいごはきっと太陽の下であと二時間ほどで夜明けを迎える暗い部屋で、ソファにだらしなく腰掛けた男を無視してその隣でゲームに勤しんでいると
「…俺の骨は海に撒いてくれ」
「は?骨?海?」
いつもと違うエリアへ電車に乗ってハントに出かけて、怪我もなく無事に帰ってきてから、ご飯も食べずにずっと上の空だった男がようやく喋った。
「なんかあるだろ。船に乗って…海に散骨するやつ」
「ああ…」
また何かに影響されたのかと呆れつつ、手持ち無沙汰でやっていただけだったゲーム機の電源を切ってからローテーブルに置く。
右側に座る相手の方へ体を捻りつつ
「船ねぇ…でもそういうのって昼間にやるもんでしょ?私は行けないよ」
「あ〜じゃあ…じいさんか親父さんに…お前を運んでもらって…」
「なんで私がそんな手間を…」
自分で飛んで行ければいいが、力尽きて海に落ちる可能性がかなり高い。
その辺りを考慮しての御真祖様やお父様なのだろう。
だがその口ぶりだと、あくまでも彼の骨を撒くのは私だと伺える。
普段なら「うるせえ!いいから言うこと聞け!」くらい言いそうなものなのに、しばらく黙った男は目を閉じて
「いつか…いつか、お前がさ…」
いつも有り余る力を持て余しているような硬い手が、壊れ物を扱うような丁寧さでソファに投げ出していた右手に重なる。
「生きるのに辛くなったら海に飛び込んでくれよ」
初めての優しい触れ方に驚きすぎて、言葉を理解するのに時間がかかった。
「俺は、海で待ってるから」
あまりにも真剣な顔に、何も言えなくなる。
この男の目の色は空ではなく海の色だったのだろうかと、どうでもいいことが頭をよぎった。
だが不安そうなその雰囲気をなんとかしたくて、敢えて何でもないような軽さで
「…辛くなるわけないでしょ?これまでと同じ、一人と一匹に戻るだけなんだから」
「…おう。そうなんだろうけどよ。さすがのお前も生きるのに飽きたら…そん時は来いよ」
そう言って肩に寄りかかってくる。
重みで死なない程度の触れ合うような接触は、やはりいつもならありえないことだ。
「…まぁ、頭の片隅にでも置いといてあげるよ」
どこか元気の無い落ち込んだ様子に、流石にからかうのはかわいそうだと、火傷しそうなほどの熱と重みを甘受する。
しばらくしてソファに並んで肩を寄せ合ってる状況が無性に恥ずかしくなってきたので、もうそろそろ調子を取り戻しただろうと判断して、遠慮なくからかうべく口を開いた。
「ははぁん…さては自分が寂しいんだな?この五歳児め」
「…あぁ…寂しいよ」
心細そうなその声が、あまりにも思っていた反応とは違っていて、彼を見下ろして息を呑む。
「お前たちを置いていくのは、寂しい」
斜め上から見た顔は、そっと目を伏せたせいで長い睫毛が際立っていた。
それがやけにきらきらして綺麗で
(ああ…寂しがらせたくないなぁ…)
そんなことを思いながら手を伸ばす。
目元に伸びてきた細い指に驚いたのか右肩に触れている体が強張ったが、結局は大人しくその動向を見守ることにしたようだ。
邪魔されることなく、ふさふさと豊かな睫毛を慎重に撫でると、思った以上の密度に指先が驚き、次いでその美しさに妙な感動を覚える。
「おい…ドラ公…」
不審そうに呼びかけられるも、振り払われないのをいいことに、絶対に触れることは出来無いと思っていた睫毛を指先で撫でるように触れる。
「おい、聞いてんのか?」
「…これも、無くなっちゃうの?」
「は?睫毛?そりゃ…日本は火葬がほとんどだから…骨しか残んねぇよ」
「やだなぁ…」
「惜しむのそこだけかよ」
ちょっと笑った顔は子供のように無邪気で、この笑顔も無くしたくないなと思う。
睫毛だけではなく、高い鼻梁や厚い唇、男らしい喉の出っ張りに丈夫そうな骨を感じる鎖骨、張り詰めた胸筋と凸凹とした腹筋、自分の足ほどありそうな腕に肩パッドが無くても逞しい肩、血潮の巡る首筋に意外と滑らかな頬、熱を持つ耳朶に睫毛と同じ色の凛々しい眉毛。
そして思ったより柔らかな髪へとゆっくりと指を滑らせていく。
信じられないことにその間、一切の抵抗をしなかった男の頭が、キスをするのにちょうどいい位置にあることに気付いたので髪に鼻を埋めるようにしてそっと口付けを落とす。
「…ん〜…全部もったいないなぁ…」
「…そうかよ」
ちょっと機嫌が良くなったので、ここで終えても良かった。
でも、このカッコつけの男が、あんなに心を開いて辿々しくも伝えてくれたのだから、きちんと考えて応えたい。
「…私…海で泳いだことないから…」
「うん」
「…いつか、泳げるのを楽しみにしておくよ」
「…うん」
死にやすい吸血鬼へ緩やかに自死を薦めた罪悪感からか、はらはらと泣き出してしまった美しい昼の子を抱き締める。
ぶつけるように擦り付けられる額が硬い胸へと痛みをもたらしたが、死んでこの時間を終わらせたくはない。
全て受け止めたい。
溺れるように掻き抱いてくる手の力で崩れかける体の輪郭を必死に維持しながら、ふわふわの銀色の髪へ口付けを何度も落とした。
リップ音でようやく口付けられていることに気付いたらしく、確認するように勢いよく上がった顔は美形が台無しになる程、涙と鼻水でベチャベチャになっていた。
それが幼子のようで可愛く見えてしまい、今度はその顔中に口付けを贈った。
動揺して涙が止まったようだが落ち着くまでずっと眦の涙を吸い、額や頬の滑らかな肌へ牙が当たらないよう軽く唇で触れていく。
真っ赤になって溺れているかのようにぱくぱくと口を開いたり閉じたりしていた男は、水面へ浮上するように自ら唇を寄せてきた。
「ん…ロナルド、くん…?」
「どらこう…ドラルク…」
敢えて避けてあげていた唇へ、躊躇いもなく口付けてきた童貞に今度はこちらが動揺する。
だが、それはとても自然なことにも思えてきた。
(ああ、そうか…)
いつの間にか恋だとか愛だとか、あたたかなものを表す関係の全てになっていた。
お互いにとってお互いが、同居人で友人で親でライバルで伴侶で子供で恋人で相棒で家族だった。
それでも一つ、このままでは得られない関係がある。
「ねえ…君の、全部、ちょうだい…」
あとは、同胞、だ。
「…いつか、な…」
思いもかけない返事に、その真意を問いただそうとすると
「…俺はまだ、人間として、退治人として生きていたい」
「うん…私も、まだ君を、昼の子として、かわいがりたい」
見たこともない太陽の匂いを纏って帰ってくるこの子を、たまらなく愛しく思っている。
「いずれ…」
もしかすると素敵な人を見つけて、人として終えたいと言い出すかもしれない。
その時は吸血鬼の執着を見せつけてやろう。
余計なことを考えていることを野生の勘で察したのか、死なない程度に鼻へ噛みついてきた。
驚きすぎて逆に死ななかったが、なんだかおかしくなってお返しとばかりにまだ涙の気配の残る目尻に口付ける。
「…もう、寂しくない?」
「……おう…ありがとな」
すっかり元気になったのか、いつも通りのぶっきらぼうな口調に戻る。
それでもいつもよりは優しい触れ方で腕を掴むと
「ん…」
そのまま寄せられる唇に、目を閉じながら自分からも近付いていった。
海で泳いだことはないけど、溺れるのはこんな感じなのではないかと、必死に酸素を取り込もうとする。
熱い粘膜が侵入してきて呼吸もままならない。
(死んでしまいそうだ…)
一瞬で迎える死は馴染みのあるものだが、死にそうで死なない状況がずっと続くと意識が朦朧とするらしい。
それなりに長く生きてきたが、彼といると知らないことばかりだと気付かされる。
(君といると楽しいな…)
そんな当たり前のことに、今更気付いた。
海で泳ぐのはもっとずっと先のことになるだろう。
その時はきっと世界一可愛いあの子も一緒だ。
まだ今はこの熱に溺れていたい。
そうやって、遠い終わりまで、二人と一匹で、泳ぐように生きていこう。