【小説】穏やかなる幕切れ(前編)新横浜駅から歩いて七分ほどの場所の、住んでから三十年以上は経つ自宅兼事務所へタクシーを使い帰宅した。
入院している恋人を見舞った病院からの帰りなので、洗濯物などが入った鞄を片手に、そしてもう片方の腕には愛しい使い魔を抱えたまま三階まで階段で上がる。
人間には薄暗いであろう廊下を黙々と歩き、目的のドアの前で鞄を一度置いてからのろのろと鍵を取り出した。
長年掲げていた看板は既に外され、ブラインドもずっと締め切ったままの部屋は、廊下越しにも人の気配が無いことが容易に分かる。
部屋の鍵をゆっくりと開け、腕の中にいたジョンに降りてもらい、一度置いてしまったからかやけに重く感じる鞄を室内へ運び施錠する。
長いこと本来の家主が不在にしている部屋は、どこか物悲しく感じた。
定位置である事務所の入り口に佇むメビヤツの頭を、メビヤツのものとなって久しい赤い帽子越しに撫でれば、大きな目で見上げてくる。
そしてすぐに、もう一人の住人を探そうと視線を彷徨わせ、今日も帰って来ていないと分かると寂しそうに目を伏せた。
それをいじらしく思いつつ、数年前にコードレスになってすっきりした背中の辺りを軽く押して促すと、自走することを覚えたナイトは居住スペースのドアへゆっくりと向かって行く。
空気が澱んでいる事務所は、何度か入退院を繰り返していた家主が本格的に入院してからは一度も開けていない。
ここへ来るきっかけとなったホームページも、随分前にメールフォームのリンクを切って休業のお知らせを載せ、今はもう既に削除してある。
退治の依頼は既存客からの紹介のものだけを吟味して受けているから、仕事の減少と共に執筆活動も減った。
それでも以前より刊行ペースの落ちた、かの作品は未だに根強い人気がある。
出会う吸血鬼達は相変わらず個性豊かで、それをーーロナルド様の為とはいえーー上手いこと格好良く書く彼の手腕は、元凶であるはずの吸血鬼達からも畏怖欲が満たされると支持されていた。
自分が出る巻だけ買ってみたら、今度は知り合いがどう書かれているか気になって買って、面白くて気付いたら全巻揃えていたという同胞の声をよく聞いた。
それを聞いて、恋人としては気分が良かったものだ。
あの本は虚実交えているとはいえ、彼の人生の軌跡なのだから。
生涯現役だと笑っていた皺の増えた顔は眩しく、見たことのない太陽に目を眇めるのはこんな感じなのだろうと感動したことは昨日のことのように思い出せるのに。
そんな感傷に囚われる己を叱咤し、結局換気もせずにそのまま事務所を横切り、居住スペースのドアの前で待っていたメビヤツの車輪を拭く。
足が上がらなくなった家主の為に設置された玄関のスロープのお陰で、何とかメビヤツをソファの近くまで移動させられた。
一段落して視線をすぐそばの水槽へ向けると、留守番をしてくれていた金魚の大きな目と視線がぶつかる。
「帰ったか同胞…」
「うん。ただいま…」
いつの間にか念動力を手に入れていた常識魚は、水槽の近くに食糧を置いておけば勝手に自分で食べてくれるようになったので、ますます手がかからなくなった。
ここ最近は、入院した同居人にずっと付き添っていたから、料理もゲームも何もしていないことに気付く。
それでもそれなりに生きていけるのだとは、気付きたくなかった。
同年代と比べれば異常なほど元気だった青い目の退治人の病状が急に悪化してからは、いつも喪失に怯えていた。
それを振り払うように、洗濯機を回しながらジョンへ食事を作り、自分も少しだけ牛乳を飲む。
日中には干せない洗濯物を仕方なく室内に干した後、何か面白いことでもしようと薄暗い部屋を見渡す。
「…あ…そうだ…」
不意に以前、御真祖様に無理を言って譲り受けたものの存在を思い出した。
窓側へスクリーンをぶら下げ始めると、自分の出番だと思ったらしいメビヤツが意気揚々と近付いてくる。
その無機質な丸みを可愛がっていた彼がこの事務所にあまり帰れなくなってから、メビヤツは甘えん坊になった。
その頭を帽子越しに撫でてから、クローゼットの奥に仕舞い込んでいた古い映写機のようなものを出してセットし始めると、狼狽えている気配がしたので
「これはね。映画のように第三者視点で自分の過去が見えるものらしいよ」
死のゲームも起動しつつ、そう説明して、面白そうだからと事務所の住人を強制参加させて挑む。
「しかも過去の自分に接触できるなんていう、とんでもない代物みたいでね…」
ツクモ吸血鬼が元になっているのか、血を媒体にして過去を映す人物を特定するらしい。
よくよく説明書を読み進めると、血だけでなく髪や爪などでもいいとのことだったので、映写機の上部の受け皿のような部分にちょっとだけ髪を切って入れて蓋をした。
説明書の全体に目を通したものの、結局どんなものかはざっくりとしか分からなかった。
だが操作も簡単そうだし、なんかヤバそうだったら上映をやめればいい。
フィルムも説明書通りに設置してから、クローゼットを圧迫していた数十年前のジョンの観察日記ーーいつの間にか一人の人間のことも書き連ねていたノートだーーを引っ張り出す。
こんなに心のほとんどを占めてしまったくせに、あっさり置いて逝こうとするような無責任な男に出会った時の記録を探す。
「ああ…そうそう、この日だ。ほんと…雪が降っていなくて良かったよ…」
などとぼやきながら、映写機のような機械の側面にあるボタンを押して、彼と出会った年月日に設定しおおよその時刻に合わせる。
少し早送りをしていると、買ったゲームの到着を待ち侘びてソワソワしている自分が映ったのでそこで早送りを止めた。
かなり長いことそわそわうろうろしていた映像の中の自分は何度か窓の外を見ると、こちらへ向かって来る人間に気付いたのか珍しく駆け足で階段を駆け下りエントランスを突っ切って行く。
走るフォームは美しくないが、それなりに早いことに己のことながら感心した。
「…え!?あ!!キックボードの少年!ほんとにこの時点で居る…!!」
「ヌァー!」
映像の片隅に映る子供は、今や立派な父親となった彼で、玄関扉へまっしぐらだった過去の自分はその小さな背中を見落としたのだろう。
今思うと、こんなに堂々とゲームをしているのによく気付かなかったものだ。
「…ふむ…鍵を開けていたのがいけなかったか…」
開けっぱなしにしていた記憶はないのだが、これより以前に荷物を受け取った後に浮かれて鍵をかけ忘れたことがあったのだろう。
その時から子供の侵入を許し、鍵をかけ忘れるわけがないと思い込んでいたから戸締り確認なんかしなかった。
「あとここで扉の前にいたのもいけなかった…」
ノックも無しに扉が開くなんて思いもしなかったから、かなり無防備に扉の前に立っている自分のニヤけ面が悲しくなって目を逸らす。
「よし」
気を取り直し、既に開いている鍵を開けようと手を伸ばす過去の自分が、鍵に行き着く前に巻き戻しをして先程のソワソワしている自分の映像へ戻す。
そして、スクリーンへ指先を触れさせれば、吸い込まれるように全身がスクリーンの向こうへと入っていった。
突如現れた自分と同じ姿と気配を持つ者に驚いている過去の自分へ
「やあ、過去の私」
「おや、ということは未来の私?」
それだけの挨拶ですぐに理解するあたり、本当にこれは私自身なのだろう。
さすが私。
さっきのニヤけ面は見なかったことにしてあげる。
「未来の私はだいぶ老けたね…ずっと先の未来から来たの?」
「いや、何…ほんの三十年ほど後の未来さ」
「へぇ…!長髪の私もなかなか畏怖いではないか!」
「でしょ!これは…」
ロナルドくんにも好評なんだよ!と言いかけたが、急に声が出せなくなって、口を開閉することしか出来ない。
「あれ?」
どうやら、本当に言ってはいけないことにはプロテクターがかかっているようだ。
「これは…私の住む街の民達にも畏怖いとなかなか評判なのだよ」
似たようなことを言い直せば、それはあっさりと口から出た。
「なるほど…未来の私はそんなに人々から畏怖を集めているのか…」
夢見るような顔をする過去の自分に、嘘をついてしまったような複雑な感情を抱くがすぐに無視する。
(う〜ん…禁句は“ロナルドくん”ってとこかな…)
こういったもののセオリーとして、過去は変えてはいけないという方が重要視されるはずだが、そこに関しては緩いようだ。
(ま、この時点の私はロナルドくんを知らないから…とかそういう理由かも)
そう適当に結論を出し、まだ夢見がちな表情をしている過去の自分へ、出来るだけ深刻な表情と声で
「いいかい?未来のために、私の言うことをよく聞いてね」
そう前置きをして、同じように過去の自分も真剣な表情をするのを確認してから
「今日は玄関へは近付いてはいけない」
「え?でもヌヌゾンからの荷物が…」
「配達日の指定はしてなかったよね?だから今日、荷物は来ないよ」
「…じゃあ何が来るのだね?」
う〜ん…IQが高すぎるのも考えものだな。
かといって、自分がそう簡単にはぐらかされてくれる気もしなかったので、素直に告げることにした。
「退治人さ…」
「何もしていないのに!?」
「そう。何もしていないのに、だ。実は子供を誘拐したという嫌疑がかけられてね…」
「えっ!?それって…居留守使う方がまずいのでは!?」
過去の自分の尤もな意見に怯みそうになるが、何としてでも過去の自分と過去のロナルドくんが会わないようにしたい。
「大丈夫…さすがに朝になれば子供も家に帰るだろうし…罠が退治人を阻んでくれると思うし…いや、そもそも退治人が城に入ってすぐに子供を見つけるとか、子供の方から退治人に近付いたりするとか…うん。そうだ!退治人が子供を見つけてすぐに確保して連れて帰ってくれるんじゃないかな!」
「なんか急にわやわやな憶測が入ったんだけど…え?ということは、子供は実際にこの城にいるってことなのか…?」
あまり詳しいことを伝えて、知らんセーブを増やしている犯人を追い出そうと玄関へ向かわれると困る。
過去のロナルドくんが来る前に、キックボードの子供と追いかけっこをしていれば、誰から見ても普通に退治対象だ。
「いや、えと…そうだ!そのうち吸対が令状を持って正式に捜査に来てくれるんじゃないかな!うん!そうだそうだ!それが一番いい!そのシナリオでいこう!」
さすがの私も不審に思ったのか「何言ってんだこいつ」といった眼差しを向けてくるが、なんとか耐える。
お前があの若造と出会うとこんなになってしまうんだぞ。と、いっそ伝えてしまいたい。
「とにかく…いいかい?吸対が来るまで粘るんだ私!」
「いや…しかし退治人と手合わせというのも一興…」
「弱いんだから無理しない!それに退治人といっても来るのはゴリラみたいな若造だぞ!?」
「ゴリラ!?」
「りんごを握りつぶすわ、大抵の吸血鬼は殴って退治するわ、私の腰だって粉砕したことがある!」
「私の腰まで!?なんて恐ろしいゴリラなんだ…」
余計なことを言った気がするが、あまりのパワーワードに気を取られてくれたらしい。
さすドラちゃん!どっかのゴリラと違って空気を読める!
「ね?だから絶対に会わない方が…」
「え〜…でも面白そうだから一目だけでも見た…」
「だめ!」
「だって冤罪だし…話せば誤解は解けるのでは?」
「だからゴリラだって言ってるでしょ!?話し合いは無理!!」
「もしかして本物のゴリラなの!?ますます気になるんだけど…!」
逆に興味を持たせてしまったことに頭を抱える。
一目でも見てしまえば、あの美しさに囚われてしまう。
今の自分のように。
永遠に。
「…ねえ…本当に退治されちゃうよ?さすがにそれは困るでしょ…?とにかく!その退治人は本来はここら辺の人間じゃないから今回を凌げばもう来ないし…」
「え?どこの担当なの?」
「…新横浜だよ」
「なんでそんな遠いとこからわざわざ…?」
「ほんと…なんでなんだろうね…」
それについて、彼に聞いたことが無かったとふと気付く。
もし次に見舞いに行った時、会話ができそうなら聞いてみようと思いつつ
「ま、どちらにせよ会わないんだからいいでしょ!過去の私!」
「…う〜ん…うん!そうだね!未来の私!」
恋人の言うところの邪悪な笑みを向けあい、少しだけ雑談をして別れた。
帰る時は自分が出てきた辺りの、空間が撓んでいるように見える場所へ、来たとき同様に沈み込んでいく。
「ふぅ…これで一安心…!そもそも出会わなければ、別れだって訪れないんだから…」
自分が抜け出て来た時のままで時間が止まっている映像を確認して、再生を開始するとソワソワしている自分が映る。
「ふふ…さすがにこの部屋まではロナルドくんもたどり着けないだろうから安心…しかし過去の私は何故こんなにも落ち着きがないんだ?」
すると、映像の中の自分が急に玄関扉へ向かって一直線に駆けて行き、そのタイミングで退治人が勢いよく開けた扉と壁に挟まれて死ぬシーンが続いた。
「……………は?」
さっきの忠告はリセットされたのかと思うほど、記憶と全くーーむしろ記憶よりも勢いよくーー同じやり取りがやかましく続く。
そして極め付けは、話題のアクション映画も顔負けの爆破シーン。
わざわざ1カメから3カメ、ドローンでも使ったかのような上空からの映像まで、あらゆる角度から爆発する我が城を見せてくれた。
「っ…!こんなサービスいらないよ!!」
誰にツッコめばいいのか分からず、とりあえず己の膝を拳で殴って一度死んだ。
その間も無情に上映される己の過去を見るともなしに見てから、慌てて一時停止ボタンを押すが、もう操作ができなくなっていた。
「え…まさか…一回しか過去に行けないとか…?御真祖様の説明書にはそんな記述はなかったはず…」
青ざめて他のボタンも押していると、早送りだけが反応して慌てていると急に一時停止ボタンも反応した。
そして画面を確認すれば、時刻は真夜中と思われる頃、キックボードの子供にゴミ捨て場に捨てられたままの自分が写っている。
よく分からないがとりあえず再びスクリーンへ入って行き、過去の自分が入っているゴミ袋をなんとか破って、復活した私に詰め寄った。
「なぜ忠告を聞かなかった!」
「だって…面白そうだったし…」
「…わかる」
そりゃ気になったら会ってみようってなるよね。
会うなって言われると、会いたくなっちゃうよね。
だって、私だもの。分かる。
「未来の私…なぜ止めたりしたんだ…?あんな綺麗な人間、一目で気に入ってしまうに決まってるのに…」
「…だからだよ」
不思議そうに首を傾げる過去の自分へ、それ以上の説明をしても今はまだ理解はされないだろうと思ったので
「これから…どうするつもり?」
「う〜ん…まずはジョンを迎えに行って…無事な荷物を探そうかな…引っ越しもしなきゃいけないし…」
「そう…じゃあ…荷物を運ぶならここの運送業者じゃないと、棺桶は運んでくれないよ…」
ちょうど近くに人間社会では有名な運送業者の看板があったのでそれを指し示すと、過去の自分は少しだけ目を伏せ
「そうか…人間からしたらやはり棺桶は不気味だものね…やはり大手企業しか…」
「あ、ううん。そういうことじゃなくて…精密機械だしサイズが大きいから、そこしか運べないって言われた…」
何社も手当たり次第に電話を掛けた記憶が、少しだけぼやけていく。
完全には無くならないが、数年後に「あれ?あの時どうしたっけ?何社か問い合わせたんだっけ?看板見てすぐ電話したんだっけ?」となるレベルの記憶の曖昧さだ。
ということは、この後この私は最初からこの会社へ連絡するのだろう。
「おっと…そろそろ戻らないといけないようだ」
体全体が風で煽られたように僅かに後ろに傾ぐ。
一応、時間制限があるのだな、と思っていると
「ありがとう、未来の私」
「ん?うん…後悔しないように生きてね、過去の私」
「もちろんだとも!!」
ああ、まだこの頃は新しい出会いに心を弾ませて、こんな風に無邪気に笑えていたんだな。
それが少し、羨ましくもあった。
部屋に戻ってから気を取り直してもう一度操作を試みると、日付の設定が出来るようになっていたので安心する。
試しにロナルドくんが関係しない日に、過去の自分に会いに過去の事務所へ行ってゲーム談義に花を咲かせているうち、いくつか分かったことがあった。
まず対象者ーー今回の場合は自分だーーが一人でいる時にしか会えない。
途中で人目につきそうになると、強制的にこちらへと戻されてしまった。
また、誰も周囲にいないか、対象者が一人の空間でなければ、そもそもスクリーンに阻まれる。
それと一度日付を設定してから過去に行って戻ってくると、その日にはもう行けないようだ。
つまり一日につき一回限り。
かといって日付を跨ぐまで粘ろうともしたが、ずっと居られるわけでもなく、ある程度の時間が経てば例え塵になっていようと強制的に引き戻される。
城が爆発したあの日も、日付が変わったから操作が出来るようになったらしい。
そして、一度行った過去よりも前には日付が設定できないようになっていた。
キックボードの子供が初めて城に来る日よりも前に、城の鍵を締めてしまえば早いと思ったのだが、最後に行った過去より以前の日にちには設定できなかった。
その後に別の日を設定して過去に行ったら、今度はその日より前を設定することができなくなっていたことでも確認済みだ。
あと、映写機に設置されているフィルムのようなものが、本物のフィルムのように巻き取られていて、残り時間と思しきものが分かるようになっていた。
掠れて見えにくいが目盛があって「1D」やら「12H」などの区分がある。
限りがあるのなら無駄に消費したくないので、過去の分岐点になりそうなところを思い出して書き出す。
それから忠告が効果を発揮しそうな日だけに絞り込んで日付が古いものから並べていく。
夢中になって作業していると、あっという間に時間が経っていた。
すぐそこに迫っている恐ろしい未来を考えなくてすむのはありがたい。
ある程度、日にちを抽出して時系列に並べてから
「ん〜…まずは、この辺りかなぁ…」
この事務所に転がり込んでから数年後、二人の関係が変わった日に設定をする。
何年も続けてきた同居生活で、一人きりでゲームをするなんてことはしょっちゅうだった。
この日に至っては、VRCの定期検診ということで事務所にいるメビヤツ以外は出払っていた。
この後、帰って来るロナルドくんは、キンデメとジョンと死のゲームに事務所で待機してもらうはずなので、過去の私はかなり長い時間を一人で過ごすはず。
ゲームのセーブをしたのを確認してから、驚かせないように視界に入り声をかける。
「やあ、過去の私」
「ああ、また来たのかい。未来の私」
自分の気配だからなんとなくは気付いていたようだが、それでも耳の先が少し崩れていて、己のことながらなんだか微笑ましい。
「まあ座って座って」
過去の自分に促されるままソファに腰掛けてから、手短に用件を口にする。
「よく聞いてね。今日、これから、ロナルドくんに、告白される」
「は?こくはく…えっ…それって、まさか…」
「愛の告白だよ」
「なっ…え…わ、私の気持ち、バレちゃったってこと…?」
「…いや、それが驚いたことに、両思いなんだよね…」
「そんなわけない」
ロナルドくんに告白されて、真っ先に彼に言い放った言葉が、先んじて自分へ放たれる。
「まあそう思うよね…」
いつから好いてくれていたのかは知らないけど、ここに至るまでの数年の間に、彼は特に優しくなってもいないし相変わらず暴力的だった。
普通の人間や吸血鬼には優しい男だったので、ある意味特別だったと言えるのかもしれないが。
(しかし…いつから、離れ難く思ってくれていたんだろうね…)
これも今度、聞いてみたい。
「まあそういうわけだから。ちゃんと断ってね?」
「は?」
「いいかい?過去の私…好きだのなんだのと付き合うことになったら、別れが必ず訪れるんだ」
「別れ…」
「それなりに人間社会に馴染んできた頃の私なら分かるよね?人間はあっという間に居なくなってしまうことに…もう気付いているだろう?」
ぎこちなく頷く過去の自分へ、安心させるように微笑む。
「吸血鬼の執着を侮ってはいけないよ、過去の私。あの子を喪うということは、私自身も最期へと向かうと同義だ」
驚きに目を見開く過去の自分の目を覗き込んで
「まだこの世には楽しいことも面白いことも沢山ある。たった一人の人間の為に、それらを全て失ってしまうのはあまりにも惜しい…そうでしょう?」
苦しそうな表情で頷く過去の自分の頭を、幼子を慰めるように優しく撫でながら
「弱い私には、彼を喪うことなんて耐えられないんだよ…」
そう自分に言い聞かせるように告げた。
ゲームもせずに、じっと何かを考え込んでいる過去の自分を映像越しに眺めていると、ロナルドくん達が帰ってきたようだ。
ソファに座った過去の私の隣に腰掛け、ジョン達の行方を問う声に曖昧な返事をしている。
それから、過去の私が死なない程度の速度と力で両肩を掴むと「あ〜」だの「う〜」だの唸り始める。
これからまだ十分程、若造の百面相が続くが、一応これは甘酸っぱい告白シーンである。
それを外部から見ているのは、なんだか尻の座りが悪い。
しかも、ここにいるメンバーの中で実際にこのシーンを目撃していた者はいないので、皆が初めて見るそれに興味津々でじっと見ているのが更に居た堪れない。
「〜〜っ!よし!断れ!断るんだ過去の私!どうせ断っても同居は解消されないだろうし、若造がお嫁さんをもらうこともないだろうし…」
恥ずかしさを誤魔化すように、過去の自分を鼓舞しているうちに、声が小さくなっていく。
「…でも…もし彼が、誰かと結婚しちゃったら、私…もう二度と甦れないかもなぁ…」
「ヌー…」
気遣わしげに見上げてくる可愛いジョンを安心させるように撫で、まあその時はその時だと、気を取り直して画面を見るとようやく
「…お前が、好きだ。俺と、一生、一緒にいてくれ」
何か昔、そんな歌があったなと思うが、ロナルドくんは生まれていない時じゃなかろうか。と現実逃避のように考える。
倒れるのではないかと心配になる程、顔を真っ赤に染めた若造は、どうしたって可愛い。
それでもあの時の自分は、その言葉が信じられずに引き攣った笑顔で「そんなわけないだろう」と言って彼を泣かせてしまった。
「頼むよ…過去の私…彼をずっと愛していたいなら、断ってくれ…」
真剣な告白を疑うことも茶化すこともせず、じっとその視線を受け止めた過去の私は一度目を伏せると
「うん…私も、好きだよ」
そう、か細い声で答えて、泣きそうな顔をして笑った。
「んもう!」
自分なのにままならない。
もうこの日にはどうやっても干渉できないので、ずっと抱きしめ合っているシーンを早送りで飛ばす。
若い頃の懐かしいロナルドくんを見ていたいのか、不満そうな視線を向けてくるメビヤツには気付かないふりをした。
本当は、私だって、ずっと見ていたい。
だって、それは、もう、永遠に、うしなわれてしまうのだから。
翌日まで早送りをしてから、過去の自分が洗濯の為に一人になった頃を見計らい飛び込む。
隣の部屋にいる同胞達に聞こえないように、それでも語気を強めに問い詰めた。
「なぜ受け入れた!?」
「だって…彼のこと、どうしようもなく好きだったから…」
「…わかる」
それは仕方ない。
私だって彼のことが好きだ。
自分だったら、あんな真剣な告白をされて断れない。
というか断れなかったから、今も恋人なのだ。
一度、彼と恋人になってしまえば、別れるのは無理だ。
彼は思った以上に真摯な男で、浮気どころか浮気を疑うようなこともなかったから、今更他の誰かを宛がうなんてことは至難の業だ。
こうなったら別の手を考えるしかない。
うんうん唸って考えている姿を、事務所の皆が生温かい目で見守っていることに、この時は気付いていなかった。
書き出した日付とノートを照らし合わせていると、付き合って数年後の日付で視線が止まる。
「よし!この日だ!!」
恋人になって数年後、ようやく恋人らしい甘さにも慣れた頃だ。
一度だけ、将来のことを真剣に話し合ったことがある。
血族にならないか、と。
我が一族の新年会に毎年参加していた彼は、既に皆と顔見知りだし、人間なのに御真祖様の無茶ぶりに付き合える彼を一族はむしろ畏敬の念で見つめていた。
まあ避雷針の役割をしていたとも言えるが。
きっと皆とも仲良くやっていけるはずだ。
でもあの時は結局、彼から拒否されるのが怖くて、有耶無耶にしてしまった。
その日に戻って、どうしても彼を失いたくないこと、ずっと一緒に生きていきたいことを伝えればいい。
確かにこの日は断られるかもしれないけれど、この後もまだ彼との生活は続くし何度も何度も伝えていけば、なんだかんだと恋人に甘い男はいつか頷いてくれるかもしれない。
楽観的だとは思ったが、もうこれしか手を考えられなかった。
とはいえ結論から言うと、過去の自分はまたしても有耶無耶にして話を終えてしまった。
「だよね〜…彼の人間としての生を奪うことが出来るような私じゃないさ…」
儘ならない過去の自分と、フィルムの残りが少ないことへの焦りから、ひとり言が増えている自覚はあった。
「出来るんだったらもうやってるよ…」
そもそも最初から、自分が出来なかったことを過去の自分にやらせようだなんて虫が良すぎるのかもしれない。
「いや…それならいっそ…」
あまり考えないようにしていたが、もっと確実な方法がある。
叶わないと思っていた恋が叶ってから十数年後、誰から見ても疑いようもなく恋人で、もう夫婦と言っていいような頃だ。
(幸せだったな…間違いなく…)
確かにこうやって聞いていると、人に言われるように抑揚のあまりない鼻歌を歌いながら料理をしている自分の元へ向かう。
「…なんでまだ将来のことを話し合っていないんだ、なんて野暮なことは言わないよね?未来の私?」
「…もちろん」
「…こんなに幸せなのに…なんであんなこと言ったの?」
それには答えず、一歩近付き
「ねぇ、過去の私…もう噛もう?」
「は?」
「噛めば…ロナルドくんは、ずっと一緒だ…」
「…ずっと…」
「私なら分かるだろう?少しずつ少しずつ…彼の血を飲んできて…もう彼を吸血鬼にする為の準備は整ってるはずだ」
何度も体を重ねる中で、甘噛みと言うには激しすぎるほど恋人の肩や腕に噛み付くことがあった。
ロナルドくんは「やべえ噛み癖」だなんて言って笑っていたけど、絶え間なく与えられる快感で理性が吹っ飛んだ結果、本能が暴走して性欲と食欲がごっちゃになってしまうらしい。
彼の血の味は、セックスの快楽と共に覚えた。
「さすが未来の私。知ってたか…そう、だね。あとはそういう意図をもって噛めば…」
最初は無意識だったが、毒を慣らすように合意もなくちょっとずつちょっとずつ、夜の世界へ近付ける為に彼の血を変えていた。
変えてしまっていたと言うべきか。
「あ、でもその前に彼の意思を…」
「それはダメだ!絶対に断られる!下手したら嫌われちゃう!もう不意打ちでいかないと!」
「いや、それだと私が殺されちゃうよ!?」
「なんとかして頑張ってよ私!」
「なんとかって…自分が出来なかったからって!もう!!」
「ほんと頼んだよ…!」
「いやそんな頼まれても…!」
わーわー二人して騒いでいるうちにタイムリミットが来てしまい、吸い込まれるように現在へ戻って来て、よろよろとソファに腰掛ける。
祈る神などいないのに、何かに祈るように両手を組んで再生の始まった映像を見つめる。
しばらくして「ただいま」と言いながら帰ってきた恋人へ「おかえり」と応えて、近寄ってくる男の頬へ手を伸ばしごく自然にキスをする。
急にいちゃいちゃし始めた過去の自分達に照れる余裕もない。
全身でしがみつくように抱き付いた過去の自分は、逞しい首筋に鼻先で触れていく。
血液が多く流れている場所を探す行為は、間違いなく夜を生きる者の姿だった。
そして、狙いを定めて口を大きく開いたかと思うと…
「やっぱ…そうなるよね…」
画面の中の過去の自分は、ぐっと歯を噛み締めて、先ほどまで噛もうとしていた場所へ鼻や額を擦り付けている。
甘えていると思ったのか、年と共に落ち着きを身につけてますます格好良くなった恋人の、スクリーン越しの緩み切った笑みから目を逸らした。
その翌日の夕方、どこかぼうっとしながら洗濯機に洗濯物を放り込んでいる過去の自分の元へ行く。
「なぜ、噛まなかった…?」
のろのろと振り返った過去の自分は、悄然とした様子でぽつりと呟いた。
「…彼を…これ以上、縛り付けたくない…」
「…わかる」
分かるよ。
私だもの。
だから、噛まなかったんだ。
私もそうだった。
そうだったんだよ。
「ねぇ未来の私…こうやって何度も過去を変えようとしているってことは、ロナルドくんはもう…」
「…それは言えないことになっているんだ」
まだ認めたくないだけであったが、そう尤もらしいことを言う。
はなから「彼を喪いたくないから協力してほしい」と言えばよかったのだろうか。
そもそもそれは、伝えられたのだろうか。
今となってはもう分からない。
結局、過去の自分と傷を舐め合うだけで終わってしまった。
よろよろと映像の中から戻り、倒れこむようにソファへ腰掛ける。
「ヌ〜…」
心配そうに身を寄せてくれる愛しい使い魔の背中を撫でてから、行儀悪く手足を投げ出した。
「あ〜あ!結局だめかぁ!」
もう少し後の日付に行って、なんとか説得して彼を吸血鬼にしようと画策すればいい。
まだフィルムも数日分くらいは残っている。
続きから使えるのかは分からないが、実はもう一本フィルムはある。
それに御真祖様に言えば、もっとフィルムを造ってくれるかもしれない。
だが、これだけやって駄目なのだ。
自分が出来なかったことを、過去の自分が出来るとはどうしても思えなかった。
もう、諦めるしかないのだろう。
「…ずっといっしょにいたかったな…」
『そういうことは直接言えよ』
電子音に置き換えられた恋人の声が、二方向から聞こえて驚きのあまり死んだ。
「え?え?え?」
復活しながら周りを見渡すと、じっとこちらを見つめてずっと撮影モードに入っていたらしいメビヤツと、どこかに電話を繋ぎっぱなしにしていたらしいジョンがいる。
この二人の組み合わせで、テレビ電話みたいになっているのだろうと、どこか冷静に判断する。
そして、キンデメの念動力でいい角度でこちらを向いている死のゲームは、時間があるなら遊びなよ、と病室に置いてきたゲーム機と通信で繋がり意識が共有されているのだろう。
「まさか君達…」
恐らく彼らは示し合わせてやっていない。
それぞれがそれぞれの考えで、この私の茶番劇をロナルドくんへと伝えたのだ。
「なにそれ…恥ずかしい…」
もう一度塵と化して震えていると、恋人の楽しげな笑い声が部屋に響く。
少しだけ、以前の日常に戻ったみたいで内心喜んでいると、急にその声が苦しげになり
『なあドラ公…んなことよりよぉ…なんか今回はマジでやべえかもしんねぇらしくてよ…』
「…え?」
『お前が、俺ときれいさっぱり別れてえんだとしても…最期くらいは、てめえの顔、見せやがれ』
苦しい息の下からそんな懇願をされて、慌ててジョンを小脇に抱えて病院へ向かう。
戸締まりはしなかったが、メビヤツがいれば大丈夫だ。
スロープがあるとはいえ玄関が少し心配だったが、最終手段としては事務所自体がなんとかするだろう。
家主が怖がると思ってずっと黙っていたが、あの事務所には意志があるようだった。
害をなそうとする気配が無いので放置して早三十年以上。
さっきの茶番劇も見ていた気配がしたから、戸締まりはしていなくても大丈夫なはずだ。
道路に出てすぐに止まってくれたタクシーに飛び込み事情を告げると、ロナ戦の愛読者だというタクシー運転手は華麗なドライビングテクニックを見せてくれた。
そのせいで車中にいる間はパニックになったジョンに轢かれ続けて、ほとんど塵になっていたが思ったよりも早く病院に辿り着けた。
嫌でも通い慣れた病室へ駆け込むと
「ドラルクさん…」
恋人と同じく、年を重ねてなお美しい恋人の妹が、珍しく泣きそうに顔を歪めている。
その向こうにいる当の恋人は、また意識を失ったのか目を閉じていた。
「これ…」
彼女に差し出された書類を見て瞠目する。
いつの間にか用意していたらしい戸籍の変更届や人間としての保険制度を放棄する書類、退治人免許の返納手続きの書類や事務所の廃業届に各種の委任状、そして
「…同意書…」
吸血鬼になりたい人間と、その人間を血族に迎え入れる意思のある吸血鬼との、双方の合意の元に吸血鬼化させることを誓う書類。
もし上手く吸血鬼化せずグールになったり死んでしまったとしても、人間の血縁者は異議を申し立てず、吸血鬼が然るべき責任を取ると約束するものでもある。
「あと…サイン、だけ…」
吸血鬼の名前を書く欄を指し示される。
既にロナルド本人の本名と、親族代表としてヒマリの名は記入されている。
「…いいの?」
それは責任を持って夜を生きる仲間とし、己が子へするように愛情を持って夜の生き方を伝えていくと約束するものだ。
「小兄とドラルクさんがいいなら」
何故私に聞くの?といった様子で首を傾げる彼女に苦笑を向ける。
この兄妹達は愛情深いが故に、それぞれの人生に過干渉しない。
それは今は少し離れた病院で日々を過ごしている長兄に、若かりし頃「ロナルドを吸血鬼にしないんか?」と、日常会話のようにさらりと聞かれたことでも明らかだった。
すぐに震える手で書き慣れたサインを書く。
「こちらへ…」
待ち構えていた医師に促されるまま、ベッド脇へと近付く。
事前準備をきちんとしていたからって、彼を確実に吸血鬼に出来るかは分からない。
こういう場面に慣れているのか、後ろに控える医師や看護師、そしてもしも吸血鬼化に失敗してしまった際の為に備えてくれているらしい吸対の人間も固唾を飲んで見守っている。
頼もしい面々に感謝すると共に、肌を合わせている時にしか吸血してこなかったせいで、なんだか無性に恥ずかしい。
皺の刻まれた頬を撫で、今は閉じられている青を想う。
そして昔より張りが無くなった首筋を撫で、血液の流れを確認する。
そのまま少し皮膚を手で引っ張りながら、ゆっくりと丁寧に牙を突き立てた。
一回だけ枕元の機械が不快な音を立てたが、驚いて死なないように彼へ血を送ることだけに集中する。
(ロナルドくん…)
その呼び声に応えるように、彼の心臓が止まったことを示す音が鳴り響いた。